(595) “風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。”

 物事に慎重であるのは悪いことではありません。しかし慎重でありすぎるあまり、「完璧な状況が整うまでは何もしようとしない」のは、単なる『怠け者』かもしれません。もしかすると、『夢の実現』に辿り着くための最大の障害は、「もう少し暇ができたら…」「もう少しお金が貯まったら…」「この問題が解決したら…」という言い訳がましい理由付けなのではないでしょうか?  ある意味では、「完全に準備が整った人物」など、世の中には存在しません。歴史上で偉大な功績を残した人々のほとんどは、逆境の中で一筋の可能性に全力で取り組んだ人たちです。テレビ番組で多くのヒット作を手掛けたあるプロデューサーは次のように言いました。「振り返ってみると、どんなに見通しが高い作品でも、せいぜい成功率は50%くらいだった。ただ、それっぽっちの成功率ではあっても、そこにはいつも困難に立ち向かおうとする勇敢な仲間たちがいた。」  神様は敢えて私たちを「1秒先も正確に予測できない存在」として創造されました。それは私たちが「神ご自身に信頼を置く者」となるためです。「神に信頼し、神と共に夢を追いながら生きる」、これがまさに『人間らしい生き方』と言えるのではないでしょうか?

(594) “神の御子が現れたのは、悪魔のわざを打ち破るためです。”

 神は私たち1人1人を素晴らしいご計画をもって創造されました。しかし非常に残念なことに、すべての人にそのご計画が実現しているわけではありません。一体それは何故なのでしょうか?それには2つの理由があります。 ①ある人のための神のご計画が実現するには、その人の同意が必要だから  ・神は私たちを、ロボットのように自在に操ろうとはなさいません。あくまで私たちの自由意志を尊重なさいます。ですから、私たちが自ら積極的に神を求め、神に信頼し、そのご計画のために自分自身を喜んで差し出すのでなければ、私たちの人生に対する神の最高の計画は実現には至らないのです。 ②神の計画の実現を好まない「悪魔の力」が人間の目をくらませているから  ・この世には、人が神に近づくことを邪魔しようとする「悪魔の力」が働いています。悪魔は神に打ち勝つことはできませんが、人間よりは遥かに勝っています。悪魔は人間を力づくで滅ぼそうとはしませんが、人間の欲を巧妙に刺激して、神から目をそらさせるのです。悪魔が最も成功している作戦は、人間に「悪魔なんていない」と思わせることです。ですから悪魔はまるで『透明人間』のように、まんまと人間をだまし、その思いを神様から遠く離れた方向へと、日夜追いやっているのです。  イエスが『神の子』として地上に現れたのは、私たちに神の存在を思い起こさせ、神との関係に生きるようにと私たちを招くためです。イエスが十字架で死んで、よみがえられたのは、「自分には悪魔の最大の武器である『死』というものさえも、打ち破る力がある」ということを、私たちに示すためです。このイエス・キリストが地上に来てくださったことを祝うのが、『クリスマス』の真の目的なのです!

(593) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 私がクリスチャンになったのは大学生の時ですが、それ以前から『クリスチャン』という存在に対して(実際に会ったことはありませんでしたが…)何となく好感を持っていました。まあ「『クリスチャン』って良い人な気がする」という程度ですが。どうしてそう感じていたのか思い出してみると、たぶん「きっとクリスチャンは『良いこと』をしていないと神様に叱られるのだろう」と考えていたような気がします。しかし、そうではないことが、自分がクリスチャンになってみて、よぉく分かりました。  『クリスチャン』が人々に好印象を与えるのは、「良いことをしないと救われないので、一生懸命にガンバっているから」ではなく、むしろ「自分のようにろくでもない人間が、『神からの一方的な恵み』によって救われたので、ただ嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいで、ついつい神に喜ばれることをしてしまう」ということなのです。  またある人は、「『クリスチャン』の人たちは、どうして『布教活動』をするのだろう?何か『ノルマ』のようなものがあるのだろうか?」と感じているかもしれません。これも大きな誤解です。『クリスチャン』には、『ノルマ』のようなものは全くありません。彼らが人々に「キリストによる救い」を宣べ伝えるのは、自分が受け取ったその『救い』があまりに素晴らしいからです。  私はラーメンが大好きです。日本に一時帰国するたびに「美味しいラーメン屋探し」をします。最近ではこのニュージーランドにもかなり高水準のラーメン屋が出現して来ました。こうなると私は黙っていられません。まず自分で食べて確かめてから、「これは美味しい」と感じたなら、ついつい友人たちに「美味しいラーメン屋を見つけたぞ~!」と宣伝しまくります。それが皆のためになると固く信じているからです。『クリスチャン』が他の人々にキリストを伝えようとするのも、全く同じ理由なのです。  ここまで聞くともしかすると、「『キリストの救い』がそんなに素晴らしいものならば、神様はどうしてもっとダイナミックな形で人々に『無理にでも信じるように』させないのだろうか?」と感じる人もいるでしょう。きっと神がそのようにはなさらないのは『私たちの自由意志』を尊重されるからだと思います。神が望んでおられるのは、単に私たちが「神の救いを信じること」ではなく、「私たちと『愛の関係』に結ばれること」なのです。『真実の愛』は「強制されること」によっては培われません。そのため神様は私たちに(聖書などを通して)必要な情報だけは与え、あとは私たちがご自身の愛に気付いて振り返り、歩み寄って来るのをひたすら待っておられるのです。  あなたも、この『神との愛の関係』に結ばれて、日々を歩んで行きたいとは思いませんか?

(592) “イエスは、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。”

 皆さんは『ストラディバリウス』というバイオリンの機種をご存知でしょうか?「世界最高峰の音色を生み出す名器」と呼ばれ、有名なバイオリニストや世界の資産家たちが競って手に入れようとするこのバイオリンは、最初『アントニオ・ストラディバリ』という貧しいバイオリン職人によって製作されました。アントニオはとても貧しかったので、他の人々が使うような立派な材木を手に入れることができず、近所のさびれた船着き場を巡りながら、水浸しになっている木材の中から使えそうなものを拾って、きれいに洗って乾かし、バイオリンとして仕立てていたのです。  どうしてそのような、いわば「廃材」から『名器』が生まれたのでしょうか?調べによると、海辺で水浸しになっている間に微生物が木材の中に入り込み、微生物には食べられない「固い繊維質」だけを残して木材の中身が食い尽くされていたことが、かえって「美しい反響を生み出すバイオリン」を生み出す結果となったのです!  もしかして皆さんの中にも「自分は何も取り柄がなくて、生きている価値もないつまらぬ存在である」と思っておられる方がいるかもしれません。しかし『神の御手』にかかればそんなことはありません!この天と地を創造され、あなたをこの地上に生み出された神様は、あなたをこよなく愛し、傷ついた心を癒し、辛い過去や苦々しい思い出を洗い流して、美しい音色を生み出す存在へと生まれ変わらせることがおできになる方です。  あなたも、この大いなる『神の愛の御手』に、自分の人生を委ねてみませんか?

(591) “夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 聖書を深く読んで行くうちに、『関係』というものが重視されているという事が分かってきます。それは主に「神と人との関係」、そして「人と人との関係」などです。そしてこの2つが微妙に結びついていることも見えてくるのです。  また聖書が語る『人間関係』の中で最も崇高で高い基準が要求されているものは、『夫婦関係』です。どれくらい崇高かというと、「夫婦関係が壊れることは、『自分が神に造られた存在である』という自己認識が破綻することである」というほどです。『夫婦関係』は、単なる「人間関係の1つ」ではなく、「肉体的、精神的、かつ霊的な親密さを要求するもの」であり、人生のエネルギーの全てを尽くす価値があるほどの『関係』なのです!  このような「親密で強固な関係」というものを形造る上でどうしても必要な要素は『愛と信頼』です。これらはどちらも「自然発生的に生まれるもの」ではなく、意識的な日々の努力や決断によって育まれるものです。相手の最善を願って、そのために自分ができる努力を惜しまない。また、相手の善意を信頼し、その善意に誠意をもって全力で応えようとする。夫婦が互いにこれらに怠りなく務めているなら、神は私たちの夫婦関係を祝福せずにはおられない、神とはそういうお方なのです。

(591) “あなたの愛する妻と生活を楽しみなさい。”

 3組に1組の夫婦が『離婚』という結末に至ってしまうという現代ですが、その多くの原因が「結婚生活というものに飽きてしまったから」というものだそうです。  多くの人々は「子供の教育」「自分のキャリア」また「将来のための貯蓄」というものには一生懸命『投資』しているにもかかわらず、それらの基盤となる『結婚生活』にはあまり『投資』してはいないのではないでしょうか?結婚生活が進んで日々の生活に慣れて来るにつれて、私たちには時間やエネルギーに余裕が出来てきます。そして何故かその『余裕』を「更に2人の関係を高めたり深めたりすること」には使わずに、「不倫・ポルノ・ゲーム」など、ひまつぶしのために浪費してしまうのです。  「夫婦関係をより強固なものにする」とは、それほど難しいことではありません。1つの良い例は「毎晩食事を共にして、その日にあったことを分かち合う」というようなことです。『愛する』とは、言わば「相手に興味を持つこと」であり、相手が今日1日をどのように過ごしたのかを共感しながら聞くことから始まります。また時には一緒に公園を歩いたり、映画を観に行ったり、素敵なレストランで食事をしたりするのも良いでしょう。(ちなみに私たち夫婦は毎週デートしています!)  聖書は「お互いの成長に役立つことを追い求めなさい」とあります。ちまたには様々な「OOコース」や「OO教室」のようなものがあったり、スポーツジムやスイミングプールなどもあります。それぞれが知的・肉体的に自分を磨き、その日その日の成果を分かち合い、称え合う。そのような「結婚生活への『投資』」をすることは、人生の『幸福感』を豊かにする大切な秘訣だと言えるでしょう。

(590) “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”

 キリスト教で言われる『救い』をひと言で言うなら、「罪の赦しと永遠のいのち」です。ところが残念なことに、この『罪』という概念が正しく理解されないがために、しばしばキリスト教に対する誤ったイメージを抱かれてしまうことがあります。  思うに、ほとんど全ての人は「良いことをしたい」と思っているのではないでしょうか?ところがついつい私たちは「自分中心の考え方」や「その時の都合」などを理由に、いわゆる「良くないこと」をしてしまいます。聖書はこのような私たちの傾向性を『罪』と呼んでおり、それは私たちが「神に背を向けて歩んでいるからだ」と教えているのです。  私の友人で癌を患っている方がいます。癌細胞は放っておくと次第に患者の肉体を蝕んで行き、最終的には『死』に至らしめます。ですから現代医学では「抗がん剤治療」や「放射線治療」などによって、何とかこの癌細胞を撲滅しようとするわけです。  同じように、私たちの『罪』は癌細胞のように私たちの人格を次第に蝕んで行き、最終的には「死と滅び(神との永遠の断絶)」へと追い込むのです。キリスト教が提供する『救い』(いわば『特効薬』)とは、この「罪がもたらす死と滅び」からの救いであり、それは神が私たちの罪を身代わりに負わせるために遣わされたひとり子「イエス・キリストの十字架のみわざ」を『自分の事』として個人的に信じ受け入れることから来るのです。これは「人類すべて」にとって必要な『救い』であり、また「信じる者は誰でも」受け取ることのできる『救い』なのです!

(589) “わたしは、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。”

 聖書の神は私たちを「永遠の真実の愛をもってあわれむ」と約束しておられます。『永遠』とは、単に「いつまでも」という意味ではなく「初めもなく終わりもなく、ずっと」ということ。天地創造の神は、私たちの理解を超えて偉大なお方です。  このお方は私たちが生まれる前から私たちの事をよぉく知っており、外面的なことだけでなく、内面的な葛藤や、直面している誘惑、弱さや醜さなども全てご存知の上で「永遠に真実の愛をもってあわれむ」と言われるのです。私たちはしばしばこの神を『人間的な基準』で推し測ってしまい、「自分が良い子でいる間は神はあわれんでくださるが、道を外れたり、失敗したりすると見捨てられる」と思いがちです。しかし確かなことは、私たちには決して「神を驚かせたり、ガッカリさせたりすること」はできない、ということです。何故なら神はそれら全てをあらかじめご存知だからです。  では『神のあわれみ』とはどのようなものなのでしょう?単に「可哀そうだと感じる」ということでしょうか?そんな薄っぺらいものではありません。『神のあわれみ』とは、私たちの弱さや失敗を全てご存知の上で「やがてキリストの似姿へと変えられて行く」という崇高なご計画に対する大いなる期待に基づいた『あきらめることのない』あわれみです。神は、救い主イエス・キリストを通してご自分に近づいてくる者たちを、常に全力でサポートし、何度でも立ち上がらせ、決してあきらめることなく、私たち1人1人が「神の偉大さを表現することができるような人生」を歩むことができるようにと導き続けてくださるのです。

(588) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”

 『信頼』というものは、人間関係を構築する上で最も重要な要素の1つではないでしょうか?ところで皆さんは「どのような人」を『信頼』することができますか?「良い人」?「正直な人」?  「良い人」にはつい信頼したくなります。事実多くの人は信頼を勝ち取るために、人々に対してできるだけ良い態度で接しようとするでしょう。ただ、そこには1つのワナがあります。というのは、「良い人」は、全ての人に良い態度で接しようとするがあまり、「あっちを立てればこっちが立たず」という状況にはまり込んでしまうことが多いのです。そのために結果として「多くの人の信頼を裏切ってしまう」という結末を迎えてしまうことがあります。誰にでも良い態度で接する人には気を付けなければなりません。  では「正直な人」はどうでしょう?「正直な人」になら信頼できそうな気がします。しかし『正直であること』は反面「融通が利かない」という面があります。いわゆる、その場を和ませるような「噓も方便」が通用しないのです。つまり、こちらに全く噓偽りがない限りは強い味方なのですが、場合によっては『最強の敵』にもなりかねない、ということです。  真に「信頼に足る人」は『誠実(英語でFaithful)な人』です。この『誠実さ』とは、言い換えるなら「決して約束を破らない」という『決死の覚悟』であり、いわば教会で結婚式を挙げる時に新郎と新婦が誓う「健やかな時も病む時も…」に値する、互いの間の『献身(コミットメント)』です。周囲の状況に左右されない、そしてたとえ他の誰かに迷惑をかけたとしても、「この人のことだけは裏切らない」という態度、これこそ「夫婦関係」「大切な友人関係」「職場での仲間」などの間に必要とされている『信頼』を生み出すのです。  聖書は「神は誠実であり、真実なお方である」と教えています。これは「私たちが神に対して正しい態度を取っている限り…」などという条件付きではなく、「たとえ私たちが神に対して不真実であっても」という、『無条件の誠実さ』なのです。この誠実なお方が、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束してくださっているのです。

(587) “イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。”

 イエスと12弟子たちの地元は『ガリラヤ湖』という湖の周辺であり、弟子たちの何人かは漁師でした。なので彼らは移動手段(特に湖の対岸へ行く場合)として「釣り舟」を使うことがよくありました。  ある日イエスは弟子たちに「舟で向こう岸へ行こう」とおっしゃり、皆で舟に乗り込み、対岸へと向かいました。ガリラヤ湖は直径20キロメートルほどの湖でしたが、地形上の理由で時々嵐に襲われることがありました。この時も同様の事が起こりましたが、イエスは疲れていたのか、船尾でぐっすり眠っていたようです。弟子たちはイエスの手を煩わすことなく何とか手を尽くして向こう岸まで辿り着こうとしましたが、万策尽きてイエスを起こし、「私たちを助けてください!」と懇願しました。するとイエスは起き上がり、風と波を叱りつけると、湖はそれまでの嵐がウソのように静まり返ったのです。弟子たちが改めてイエスの権威と力に圧倒されている時、イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたの信仰はどこへ行ってしまっていたのですか?」  この出来事は私たちに1つの事を教えてくれます。私たちの人生にも『嵐』と思えるような困難がたびたび襲って来ますし、私たちはその度に『苦しい時の神頼み』として神に助けを求めようとします。クリスチャンとて同様です。ただ、クリスチャンである人たちには、そうでない人たちと少しだけ異なった点があります。それは「キリストが今日も自分と共にいてくださっている」ということを知っているということです。特に上記のストーリーにおいては「向こう岸に行こう」とおっしゃったのは他ならぬイエスご自身だったのです。イエスはご自身がおっしゃったことは必ず成し遂げるお方です。この時イエスは弟子たちに「わたしとわたしの言葉がいつもあなたたちと共にあるということを、決して見失うな」とおっしゃりたかったに違いありません。  「神が共におられる」ということ、そして「神は必ず言われたことを成し遂げる」ということをいつも心に握りしめている、これが私たちの人生に『揺るがない希望』を与えるのです。