(460) “むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、…キリストに向かって成長するのです。”

 あなたにとって『親友(ベストフレンド)』とはどんな存在ですか?少なくとも「自分が言って欲しいことだけを言ってくれる人」また「頼んだことは何でもしてくれる人」などではないと思います。  うわべだけの付き合い、相手に気に入ってもらえることだけを言ったり行ったりすることは、ある意味簡単です。けれども私たちが相手のことを真の意味で愛し、相手にとっての最善のために貢献しようとする時、時には厳しいことを言ったりつらく当たったりしなければならないことがあるのも事実です。  『真の友人関係』に欠かせないものは「大いなる喜びと責任」です。どちらか片方だけを選択することはできません。そしてこのような関係は、時には「いら立ち」「落胆」「多大な忍耐」などを余儀なくさせられることもあります。言うなれば、そのような犠牲を払う覚悟の無い人は、神様が私たちに与えてくださっている「かけがえのない友人関係」という祝福を体験する機会を逃してしまうのです。  『親友』とは、「自分をも相手をも成長させてくれる存在」です。またイエス・キリストは「わたしはあなたがたを友と呼びます」とおっしゃいました。このお方を人生の友として迎えた者同士が「真の友情」を育もうと願うなら、イエスは喜んで助けを与えてくださるのです。

(459) “あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。”

 「驚くべき惑星 地球」という科学映画があります。この映画に描かれていることは2つあり、1つ目は「地球がいかに特別な環境に造られていて、ほんの少しでも環境が違っていたら決して生物は存在できなかった」ということ。そしてもう1つは「地球が全宇宙の中でいかに特別な位置に置かれていて、ほんの少しでもズレていたら決して他の天体を観測することはできなかった」ということです。すなわちこの映画が私たちに伝えようとしているのは、「人知を遥かに超えた何者かが、この全宇宙の壮大さを、別の知的存在に伝えようとして、地球を『特別な環境・位置』に形造った」ということなのです。  聖書の冒頭にある『創世記』の第1章を読むと、そこには6日間で地球を含む全宇宙を創造し、6日目の終わりに私たち人類をお造りになられた神の創造のみわざが描かれています。それはあたかも、私たち人間を最終目的として、私たちが「与えられた知性・能力を最大限発揮できるように」と、そのための最善の環境を神があらかじめ整えてくださったかのようです。  私たちは、壮大な天を見上げ、永遠に変わらず輝き続けているかのような太陽・月・星々を見ると、まず自分の存在のはかなさを思わされますよね?しかしそんなちっぽけな自分を目に留め、『かけがえのない存在』として顧みてくださる偉大な創造主である神を思い、神が自分に対して抱いておられる、人間の思いを超えた驚くべき夢やご計画に気付かされた時、私たちは畏敬の念を抱かずにはいられません。  確かに私たちは「自分たちにはどんなことも許されている」かのように思い上がって、思い気ままに自然環境を破壊し、自分たちの欲求を満たそうと地下資源を浪費すべきではありません。しかしその反面「自分には何の取り柄もない。誰の役にも立っていない。こんな自分は生きていても仕方がない。」というように、自分の存在に価値を見出せないでいる人々に対して、聖書は『真の希望のメッセージ』を送っています。それは、この全宇宙を形造られた唯一偉大な神がおられて、その方が私たち1人1人に目を留めておられ、特別な計画を持っておられ、そしてそのプロジェクトを一緒に担って欲しいと今日も切に願っておられる、ということなのです!

(458) “地のすべての部族は、あなたによって祝福される。”

 私たち夫婦の長男の名前は『基(もとい)』と言います。「多くの人々の祝福の基になって欲しい」という願いから名付けたのです。  神は私たち1人1人を単に「自己実現」のためにお造りになったのではありません。もちろん「与えられたポテンシャルを十分に活かして生きるように」と望んでおられますが、それは単に「自分自身の益のため」だけではなく、「神の祝福を他の人々に分け与えるため」でもあります。では私たちは一体どんなものを他の人々に『分け与える』ことができるのでしょう?  ①時間 ― 財産や能力は人によって違いがありますが、『時間』だけは全員に等しく与えられています。そしてまた『時間』というものは1度過ぎてしまうと決して取り戻すことができません。だからこそ、この『時間』というものを他の誰かの必要のために使う時、私たちはその相手に、「あなたは価値がある存在なのだ」というメッセージを送っているのです。  ②持ち味 ― 「人がそれぞれ違う」ということは、それぞれが担うべき特別な役割があるということです。「私はあの人のようなことはしてあげられない」と感じることがあるかもしれませんが、神様はあなたが『他の誰か』のようになって欲しいなどとは期待していません。ただ、「あなたならではの持ち味」を生かした援助を差し出す者となって欲しいと願っておられるのです。  ③持ち物 ― 「私はそれほど裕福じゃないし…」と思われるかもしれませんが、不思議なことに『貧しい人々』ほど持ち物を共有して助け合い、『裕福な人』ほど出し惜しみするものです。神の祝福は「豊かに分け与える人」の上にこそ、更に増し加えられるのです。  ④心遣い ― 『愛』の反対語は『憎しみ』ではなく、『無関心』です。皮肉なことに、文明が発達して行くにつれて人類は周囲に対して「無関心」になってしまいました。都心を歩いていると、人々はただ正面だけを見て早足で歩いています。それらの中には「すれ違う人にほんの少し微笑みかけられる」だけで元気を回復することができる人がいるかもしれません。  『神の祝福』が、今日もあなたを通して、他の誰かに流れて行きますように。

(457) “愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。”

 時々「聖書は非科学的な書物」というような偏見を持っておられる方と出会いますが、そういう方々にはぜひ、科学の発展とともに「科学的な新発見が聖書の記述を裏付ける方向へと進んでいる」ということを知っていただきたいと思います。  例えば、上記の聖書のことばは『恐れ』と『愛』というものが互いに相容れないことを述べていますが、これは「子供の成長」ということを考える時によく分かります。子供が健康に成長・発展するためには次の2つの要素が必要です。①新しいことにチャレンジすること。②「失敗しても大丈夫だ」と安心していること。まあこの2つは、子供の成長だけに限らないわけですが…  専門家の調査によると、大抵の家族においては、その両親の片方はどちらかというと子供に冒険させることを好み、他方はむしろ子供を危険から保護しようとする傾向があるそうです。そしてそのような環境で子供が育つ時に、子供たちは前述の①②両方の要素に支えられて成長できるわけです。とはいえ、実際は1人の親の中に多かれ少なかれ両方の資質が備わっているということも言えると思いますが…  人間は不安な状況に陥ると、体が自然に反応し、心臓の鼓動が早まり、呼吸が頻繁で浅くなり、筋肉が緊張してきます。するとそれらを回復するために、安心できる場所、自分を守ってくれる存在のところへと走って行くのです。そしてそのような場所や人に辿り着くと、心拍数や呼吸は正常値へと回復し、次のような思いが浮かんできます。「よし、もう1回挑戦してみよう!」  創造主なる神は、私たちをご自身の『子供』として、その健康な成長へと励まし、導いてくださいます。それ故神は私たちの人生にチャレンジを与えると同時に、私たちが助けを求めて叫ぶ時、愛をもってその求めに応じてくださるのです。

(456) “その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。”

 子ども向けの人気番組に『おかあさんといっしょ』という番組がありますよね?恐らく私が生まれる前から放送されていて、未だに多くの親子に親しまれている番組だと思います。この「おかあさんといっしょ」というタイトルそのものに、まず惹かれますよね?幼い子供にとって、どんなおもちゃやぬいぐるみよりも、「お父さんやお母さんが一緒にいてくれること」に優るものはないはずです。  聖書の神も、どんなに「力強く」「愛に満ち」「願いを叶えてくれる」存在だったとしても、「肝心な時に一緒にいてくれない神」なのだとしたら、きっと今のように多くの人々から信頼され慕われてはいないでしょう。しかし、この神は「いつも、いつまでも共にいる」と約束してくださっています。イエス・キリストの別名に『インマヌエル』というものがありました。その意味は「神が私たちとともにおられる」です。では何故そのような名がイエス・キリストに付けられたのでしょう?  神は本来私たちを「神と共に生きる存在」としてお造りになりました。ところが初めの人『アダム』は、そんな神から自立して自分の思い通りに生きたいと願い、敢えて神との約束を破ったのです。この出来事以来、人間の『罪』が、私たちと神との仕切りとなり、「聖さに満ちた神」は私たちと共に過ごすことができなくなったのです。しかし神はこの『全人類の罪を贖う代価』として、ご自身のひとり子イエス・キリストを「人として」地上に遣わし、私たちの身代わりに十字架にかけたのです。  今や私たちは、この「人と神との懸け橋となってくださった」イエス・キリストを信じる信仰によって、文字通り「神と共に生きる」ことができるようにされたのです。この驚くべき神のわざを現している名前が『インマヌエル』なのです。

(455) “愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。”

 『愛』とは、何かロマンティックな感覚ではありません。『真の愛』とは、『行動』です。  「愛の宣教団」の創設者として知られる『マザー・テレサ』は、太平洋戦争直後の1948年にカルカッタを訪れ、まず最初に5人の孤児を集めて「青空教室」を始めました。不潔な生活をして病気がちだった彼らに「衛生管理」を教えるためです。やがてこの生徒数は40人以上に膨れ上がりました。そしてその後これらで訓練された若者たちを中心に、有名な「死を待つ人の家」の働きが始められたのです。ごみ溜めの中で、飢えと病のために死にかけている人々を拾って来ては、その最後のひと息まで全力を傾けて世話をする彼らに、死に行く人々は口々に「どうして私たちのような者にこうまでしてくださるのですか?」と尋ねました。返って来る答えはいつも同じでした。「愛のゆえです。」  忙しく働くことで自分自身の存在価値を見出そうとするような時代になっています。しかし「忙しく走り回ること」はしばしば「助けを必要としている人に気付いてあげられない」、もしくは「たとえ気付いたとしても、助けようとしない(または『邪魔者』と感じる)」ような人々を育てて行きます。まさに『忙』とは、「『心』が『亡びる』」ことなのです。  ロシアの文豪『トルストイ』の著作に「愛のある所に神あり」という短編があります。神はいつでも「私たちと一緒にいたい」、「私たちと共に働きたい」と願っておられます。そしてそのような機会を捜しておられるのです。私たちがふと足を止めて周囲を見渡し、助けを必要としている人に手を差し伸べるなら、あなたはその時「神は確かにおられる」という深い確信を体験できるに違いありません。

(454) “死と生は舌に支配される。”

 日本のことわざにも「口はわざわいの元」と言われますが、私たちが肯定的な言葉を日々口にするか、または否定的なことばかり言っているかは、私たちの人生を大きく左右します。「どうせ私なんか…」とか、「そんなの無理~!」という言葉を連発しているなら、できるはずのこともできなくなっていき、将来の可能性をドンドン狭めていくことになるのです。  日頃どんな言葉を口にしているかは、もはや私たちが無意識に行う『癖』のようになっており、否定的・消極的な態度を改善していくには、外側からの助けが必要です。そして私たちにとっての「最強・最善の助け」とは、全能の創造主なる神であり、また彼の口から出た『聖書のことば』です。キリストの使徒パウロは、「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです!」と宣言しました。彼の人生は試練の連続でしたが、むしろ彼はそれらの試練を体験することによって「自分の思いではなく『神のことば』に信頼する」という基本姿勢を確立して行ったのです。  私たちの人生を決定する要因は、「私たちの人生に起こる出来事」が20%、そして「それらの出来事にどう対処するか」が80%だそうです。そしてこの『どう対処するか』は、「私たちの心の態度」に起因しています。そして私たちの心の態度を形作るのが、「日々どのような言葉を発しているか」なのです。そのような意味でも「日々聖書の言葉に触れること」は、私たちの人生をより積極的・肯定的に引き上げて行く大きな力となるのです。

(453) “すべてのことにおいて感謝しなさい。”

 次の文章の空欄に、あてはまることばを入れてみましょう。 「私の人生は絶対にもっとマシになるはず!もし私の体型が    だったら…、顔が    だったら…、親が    だったら…、配偶者が    だったら…、友人関係が    だったら…、収入が    だったら…」  考え出すとキリがありません。でもついつい考えてしまいますよね?そんなアナタに1つの提案です。  この「もし    だったら、ずっとマシなはずなのに…」という思考パターンを、「私の人生を少しはマシにするには、どうすれば?」という思考へとシフトしてみるのはどうでしょう?そうすると、少なくとも次の3つの変化が起こり始めるはずです。   ①それまで「後ろ向き」だった自分の人生に関する視点が『前向き』になる。   ②現時点で自分に与えられている物・資質・人間関係などに対する関心が高まる。   ③「感謝の心」が湧いてくる。  誰であっても「自分が持っていないもの」に気を取られている間は、感謝の気持ちはほとんど湧いてきません。ところが一旦「今の自分に何が与えられているか」を意識し始めると、驚くほど多くのものを見つけることができ、自然に『感謝の心』が湧いてくるのです。「飲み水があること」「太陽が昇ること」「雨風をしのげる場所があること」「思い浮かべることのできる知り合いがいること」などなど、普段は『当たり前』と思ってほとんど忘れてしまっているようなことがたくさんありますよね?  聖書が教えてくれている『神様』という存在も、それと似ています。いつも私たちの近くにおられるのに、私たちが他のことにばかり気を取られているので、ピンチになったり痛い目にあった時だけ「文句を言う相手」にされたり、「お願い事の対象」にされたりしているのです。何だかちょっと可哀そうな気がしませんか?  神様はあなたを愛しておられ、いつもご自身の祝福であなたの人生満たしたいと願っておられます。ただあなたの心が「後ろ向き」だったり「うつむいて」いたりしている間は、その祝福を見つけたり受け取ったりすることができません。上記のように、ちょっと『思考パターン』を変えてみる、これが「神と共に歩む人生」をスタートするきっかけとなるのです。

(452) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 前回『成長』について述べましたが、「成長を目指すこと」と「人からの評価を期待すること」は全然別なことです。『成長』とは、いわば「より上を目指して全力を尽くす」ということです。そしてそれは「肉体や能力における成長」などの『外面的成長』と、「品性や人格的成熟度」に現れる『内面的成長』の両方を含みます。  「神が私たちの創造主であると信じる」ということは、単に「困った時に神頼みする」ということではありません。「最高・最善であるお方に造られた存在」として自分を見つめ、また取り扱うということです。ですから「成長を目指す」とはすなわち、「この偉大な造り主に恥じない生き方をしようとすること」と言えるでしょう。たとえ誰も見ていないところでも、たとえそれが1円の得にもならなくても、「すべてをご存じで、すべてをご覧になっておられるお方を笑顔にさせる」、ただそのことを目指して、持てる力・知識・善意をフル活用して1つ1つのことに対処する。これが「成長を目指す」ということです。その結果として人々の評価を受けるとしたら、それはオマケのようなものです。  大変残念なことに、最近は「そこそこの仕事をしておけばオッケー!」というような風潮が増えているように思います。もちろん「上司の命令は絶対。残業手当が出なくても、残業は当然!」などという、人格を無視したような雇用態度はもってのほかですが、私たちを造り、私たちを愛し、常に私たちの『最高・最善』を期待して日々励ましてくださるお方を喜ばせるために、今日も「成長を目指して」進んで行きましょう!

(451) “叱責を大事にする者は賢くなる。”

 賛否両論あるかとは思いますが、東京オリンピックでの日本選手たちの活躍ぶりは素晴らしかったですね!メダルを取った人も、残念ながら取れなかった人も、私たちの代表として競ってくださり、本当にありがとうございました。  さて、どの種目においても『金メダル』を取れるのはたった1人ですが、私たちの人生の目標は必ずしも1等賞になることではありませんよね?私たちの子供たちがまだ幼かった頃、よく彼らに言い聞かせたことは、「『昨日の自分』よりも『今日の自分』、そして『今日の自分』よりも『明日の自分』が、何らかの形で1歩優れた者となれるように努力しようね」ということでした。「成長できない人」は、『死人』だけです。生きている限り私たちは『成長』することができます。  ところで、私たちが『成長』しようとする時に経験する共通の『障害物』があります。それは、私たちの中にある「楽しくないことには敢えて挑戦しようとしない」という性質です。新しいことに挑戦したり、周囲が理解してくれないことをしようとする時、私たちはどうしてもためらってしまいます。ですからどうしても「今までやってきた慣れていることを、今までやっていた方法で、今までやっていた場所で、今までやっていた人たちと一緒に、今までやっていた通りに行うこと」に甘んじてしまうのです。しかしそれでは『成長』は望めません。  最近、素敵な友情を描いたドラマをいくつか観ました。それらの友人関係に共通していたのは、お互いに「耳の痛い助言」を言い合いつつも、相手が悲痛な思いでいる時に、そっと傍で一緒に泣いてくれることでした。それはまさに『私たちの友』となってくださるイエス・キリストの姿です。彼は私たち1人1人が、与えられている潜在能力をフルに発揮できるようにと、時には厳しく、そして辛い時にはそっと傍らにいて支え励ましてくださるのです。この方と共に日々『成長』して行きましょう!