(470) “「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。”

 新しい年明けが近づきましたね。何か「2022年に向けての目標」なるものは思いつきましたか?もしまだの方は、これからお話しすることを参考にしてみてください。  恐らく多くの人が「より素敵な人柄、より優れた人格」を目指しておられることと思います。でも何となく漠然としていて、どこから始めたら良いのか考えあぐねておられるのではないでしょうか?または過去に様々な『立派な決断』はしたものの、長続きしなかったというような経験もあるかもしれませんね。既にお気づきかもしれませんが、「人格的成長」とは、そんな大それたことをする必要があるわけではないのです。  私たちは皆、日々数えきれないほどの『選択』をしながら生きています。目覚まし時計を止めながら「今起きるか、もう少し寝るか」とか、「朝食を食べて行くかどうするか」「何を着て行くか」「どの道を通って行くか」などなど。そして多くの場合私たちは「それをしたいかどうか」、または「それをしてもよいかどうか」で決めているのではないでしょうか?実はここでもう1歩進んで「それが自分にとって益になるかどうか」を思い浮かべてみて欲しいのです。  幼い子供は何をするにも親のところにやって来て、「ねぇねぇXXをしてもいい?」と尋ねます。親は我が子への愛情の故にそれを許可したり禁じたりしますよね?そうやって「幼い頃にしつけられた習性」に助けられながら、私たちは大人になると『自分の意志』で物事を選択・判断するようになります。  私たちの創造主なる神も同じです。神は聖書を通して私たちに『基本的なこと』を教えてくださいます。しかし詳細に関しては私たちの『自由意志』にお任せになります。もし私たちがこの「聖書による基本的な判断基準」に助けを得ながら、日々直面する選択を「これは自分を更に建て上げることになるのか?それとも、単にその場での満足のためなのか?」と問いながら、『良い方』を選んでいくことを繰り返していくなら、2022年の終わりにはきっと「今の自分よりひと回り成長した自分」と出会えるはずです。

(469) “人を富ませるのは主の祝福。”

 もしかすると多くの方々は「キリスト教徒の人たちは『お金』には関心がない」と考えておられるかもしれません。確かにクリスチャンの方々は『無欲』である傾向があるかもしれませんが、決して「お金に関心がない」わけではありません。面白いことに聖書は『祈り』というテーマに関して述べている箇所が500か所くらいあるのに対して、『富』また『金銭』に関して述べている箇所は2000か所以上もあるのです!もちろんそれらは「どうやって儲けるか」を教えているわけではなく、「『富』というものをどのように賢くしかも公平に取り扱うべきか」について多く語っています。実際この『お金』というものを正しく扱うことができないために、多くの人間関係(夫婦関係も含めて)が壊されているのです。  神様は私たちを『精神的』な面だけでなく、『経済的』にも祝福したいと望んでおられます。しかしもちろん「気違いに刃物」を渡すようなことはしません。すなわち、私たちを経済的に祝福する前に、まず私たちが「正しく公平に『富』というものを扱える者」となれるよう、教育してくださいます。だからこそ『富』に関して聖書を通して多くを語ってくださっているのです。基本的に『富』は「楽な人生を送るため」に与えられるのではなく、「相応の労苦を積んだ報酬」として与えられるものです。それを「楽をして多くの富を得ること」を目的として詐欺や盗みを働いたり、高給を求めて地位や名誉を追い求めたりすることを、神は決して喜びはしません。  イエス・キリストを信じ従う人々は、『富』というものは「追い求めるべきもの」ではなく、「神が喜ぶことを求め、人々を愛して生きること」の結果として『神から与えられるもの』であることを知っています。だからこそ彼らの生き様は人々の目には『無欲』に映るのです。

(468) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、あなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。”

 大変残念なことですが、多くの人は『真実の愛』をもって「耳の痛い忠告をしてくれる友人」を持っていません。たぶんその大きな理由の1つは、日本のことわざに「触らぬ神に祟りなし」と言われているように、相手が喜ばないことは言わないでいる方が気楽だからでしょう。言い換えるなら、「長きにわたる真実の友情を築くよりも、目先の関係を保つことを重視」してしまうのです。  あるところに「ブレーキの利きが悪い車」があったとしたら、あなたは自分の愛する人にそんな車を運転することを勧めるでしょうか?そんなことをするわけないですよね?たとえその相手がどんなに「私は急いでるんだから、とにかくこの車を今すぐ使わせてよ!」と声を荒げてあなたに迫ったとしても、あなたは決してその車の鍵を渡さないはずです。「こんなところで言い争いをするのは嫌だから、ともかく運転させてあげよう」とは決して言わないでしょう?  もちろん、「人のあら捜しをして、その欠点を積極的に指摘した方が良い」と言っているわけではありません。思慮の無い忠告は人を深く傷つけることがあります。ここで言っているのは、『真の思いやり』というものは、たとえその場では相手に嫌われてしまうことがあったとしても、誠実さと断固たる態度を持って、相手にとっての『最善の道』を提供することなのです。本来『愛』というものの性質は「相手の最善のために、自分自身が払う犠牲を惜しまないこと」。そしてそんな『愛』の完全な模範はいつでも、「私たちと神との関係を回復させるために、十字架の上で命をささげたイエス・キリストの姿」なのです。

(467) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”

 誰もが「幸せになること」を望んでいるのにもかかわらず、真の『幸福感』を味わっている人はあまり多くはありません。(ちなみに私はその少数のうちの1人ですが…)一体何故なのでしょうか?次の3つの理由が考えられます。 ①『幸せ』を間違った場所で捜している  ・多くの人々は「もっとお金があったら…」「もっといろんなことができたら…」「あんな家庭に生まれていれば…」などと、幸せでないことの原因が自分の環境にあると勘違いしていますが、実際にそれらの環境がすべて揃ったところで幸福感が得られるわけではありません。お金も能力も兼ね備えながら不幸せであったり、何不自由なく育ちながら非行や引きこもりなどに陥ってしまっている人たちはいくらでもいます。私たちの内側には、人や物では埋めることのできない、「神との生きた関係によってしか決して満たすことのできない空間」があるのです。 ②「自分自身の幸せ」ばかりを追求している  ・どんなに「自分自身のため」に何かを求めても、その求めていたものを手に入れた途端に虚しさに陥ってしまうものです。何故なのでしょう?それは、人間は本来「他の誰かの助けになるように造られている」からです。私たちは「自分自身のため」に生きている間は真の満足感を得られない生き物なのです!私たちが「他の誰かが幸せになる」のを助けている時、自分の満足を追い求めていた時には思いつくこともできなかった『幸福感』を体験できるのです。 ③他の人と自分を比べている  ・よくあることですが、やっとの思いで手に入れた品物や技術も、それに優ったものを持っている人と比較した途端に無価値なものに思えてガッカリしたりします。何て愚かなことでしょう!神は私たち1人1人を『比較できない違った存在』としてお造りになったのです。それは互いに尊重し合い、また足りない部分を補い合うためです。 こういうわけで、人にとって「『創造主なる神』を知ること」と、「『真の幸福感』に満ちて生きること」とは決して切り離しては考えられないものなのです。

(466) “イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」”

 『何をするか』ということと、『それをいつするか』ということは同じくらい大切です。せっかくの素晴らしいアイディアや計画も、タイミングを間違えると台無しになってしまうことがありますよね?  誰でも知っている英語で『グッドタイミング(Good Timing)』というものがありますが、私たち「神を信じる者」が使う、これに似た言葉で『ゴッズタイミング(God’s Timing)』というものがあります。これは「神が用意しておられる絶妙なタイミング」のことで、しばしば私たちが望んでいるタイミングとは異なるのです。  私たちは『善は急げ』と言って、良いアイディアが浮かぶとすぐに行動を起こそうとします。確かにそれがうまく行く場合があることは認めます。しかし「慌てる乞食は貰いが少ない」ということわざもありますよね。「自分のアイディア」「自分の都合」のことばかり考えて行動しようとすると、『最善の結果』を得られないで終わってしまいます。そして多くの場合は「神の絶妙なタイミング」というものは、私たちが考えているよりもずっと後からやってくるのです。それは何故かというと、神は「与えようとしている物」のことだけではなく、「それを受け取る私たち」をも『最善の状態』に整えようとしておられるからです。  『神の約束』というものはある意味『種』のようなものです。目に見える実を結ぶ前に、深く地中に根を張らなければなりません。またそれは親が子を産み育てることとも似ています。まず胎盤に小さな小さな「受精卵」が着床し、それからゆっくりと時間をかけて子宮の中で成長して行くのです。その間親は何をしているのでしょうか。当然、やがて生まれて来る赤ん坊のことを思い描きながら、出産・子育ての準備をするのです。単に用品を買い揃えるだけでなく、出産や子育てのための情報や知識を得、そして妊婦さんの内面も『女性』から『母親』へと変えられて行くのです。  天地を造られた全能の神は、私たち1人1人に「何が必要」で、それを「いつ与えたら良いか」をよぉくご存知です。ですから慌てることなく、『ゴッズタイミング』を信じて待ち望みながら、それを受け取るまでに神が教えようとしておられるレッスンをしっかりと学び取って行きましょう!

(465) “何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

 ある人がリトルリーグの野球の試合を見に行った時のことです。ベンチで声援を送っている少年に声をかけ「今は何対何でどっちが勝ってるんだい?」と尋ねると、「うん、18対0でウチが負けてるんだ」との答え。ちょっと気の毒になって「それはガックリきてるだろうねぇ?」と問うと、少年は元気よく答えました。「まさか!どうしてガッカリする必要があるのさ?だってまだ試合は1回の表で、ボクたちは1度も攻撃してないんだよ?!」  どういうわけか、私たちは大人になるにつれ『夢』を見られなくなり、『希望』を抱きにくくなる傾向があるようです。情勢を見て嘆き、周囲の否定的な言葉に影響されて心を落ち込ませてしまいます。しかしある心理学者は言いました。「私たちの幸福感は、自分の心が何とつぶやいているかよりも、自分の心に何を語りかけるかによって保たれる」と。  「神を信じて生きること」と、「運命に従って生きること」とを混同してしまっている人がいますが、これは誤りです。神は「全てを決めてしまっている」のではなく、「全てを知っておられる」のです。しかし敢えてそれを人に知らせることはせず、かえって人に『自由意志』をお与えになりました。それは、私たちが「神が自分自身に与えてくださっている大いなる可能性」を信じて、大志を抱いて1日1日を前向きに生きて行って欲しいからです。  さあ、あなたは今日『自分の心』に、どんな希望のメッセージを語りかけながら進んで行きますか?

(464) “神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。”

 人は誰でも「誰か、もしくは何か」を拠り所にして生きています。それは『自分自身』であったり、『他の誰か』だったり、『お金や物』だったりするわけですが、そのような「気分に左右される人間」や「時の流れと共に移り変わりやすいもの」を人生の拠り所としているならば、あなたの人生はいつも「危険にさらされている」と言えるでしょう。もしあなたの「精神的な拠り所」を『天地創造の神』以外に置いているのならば、どうあがいても「人生の不安」から逃れることはできません。  聖書が教える『神』にとっての「最大の関心事」は『人』です。神は「人の内側で」、「人と共に日々の歩みの中で」、「人々を通して世界に向けて」ご自身の愛と恵みを表現したいと望んでおられるのです。そして自分自身との関わりの中で働くこの「神のみわざ」に心を向け、またそれらを体験するようになると、私たちは『自分自身』という存在を新しい目で見ることができるようになります。言うなれば、『自分』という人間がどれほどに価値ある存在なのか、ということに気づかされるのです。  「不安を抱えたまま生きること」は、私たちの『人間らしさ』を脅かします。私たちが神様から本来与えられている「自己尊厳性」や「創造性」、そして「人々を愛して生きるという喜び」が失われて行くのです。『神』以外を拠り所にして生きる人は、常に「もっと、もっと」と追求します。それは『成長への意欲』ではなく、いつも「まだ何かが足りない」と感じる『不足感』や『自己中心性』のゆえです。しかし拠り所を絶対的な信頼を置くことのできる不動の存在である『神』の内に見出すことによって、真の充足感を味わうことができ、安心して「自分の心の深みにある人生への情熱・目標」にエネルギーを使うことができるようになるのです。

(463) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 多くの日本人が知っているであろう英語表現に『ネバ―・ギブアップ』というのがありますよね?もちろん「決してあきらめない」という意味ですが、日本のことわざには『あきらめが肝心』というものもあります。一体どちらが正しい態度なのでしょうか?  私たち人間は『正義感』や「多くの人々の益」のために大志を抱いて行動する時もありますが、ひとりよがりで自己中心的な野望のために立ち上がる時もあります。一攫千金を狙って毎年ジャンボ宝くじを買い続けても当たらない時、確かに「あきらめが肝心」かもしれません。しかし困難に直面している人々の救済のため、また愛する家族の関係が危機に陥っている時などは『不屈の精神』をもって最後まで戦い続けるべきでしょう。  私が住んでいるニュージーランド・クライストチャーチは、10年前に大震災が起こり、町の中心街が壊滅しました。(その3週間後に『東北日本大震災』も起こったので、クライストチャーチ在住日本人としては精神的にダブルショックを受け、本当に辛い日々を送りました。この経験は恐らく一生忘れないと思います。) この大震災で何も無くなった町の中心地を更地にした後、気落ちしている住民を鼓舞しようと、市では「Restart Mall(再出発商店街)」と名付けた、貨物を入れるコンテナを利用した(みすぼらしい)ショッピングセンターを始めてくれました。見た目は全然カッコよくなかったのですが、これによって私たちの心は大きく励まされました。「格好悪くてもいい。私たちは震災なんかに負けてはいない。もう1度やり直せる!」 私たちの内にそのような希望が生まれたのです。  『正義』のため、『愛』のために立ち上がろうとする人々に、神は『希望』を与えてくださいます。この『希望』が大きな力になるのです。私たちが「自分勝手な目的」のためではなく、「神の目にかなった正しい心」で全力で前に進もうとする時、人生は何度でもやり直せるのです!

(462) “信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。”

 人を2種類のカテゴリーに分ける分け方はいろいろとあります。「男性と女性」「大人と子供」「イヌ派とネコ派」「楽天的な人と悲観的な人」などなど。そして今日注目したい分け方は「『人に影響を与えながら生きる人』と『人から影響を受けながら生きる人』」です。  もちろん全ての人は多かれ少なかれお互いに影響を与えながら生きているとも言えるでしょう。その中には良い影響も悪い影響もあります。「自分はあの時のあの人のあの言葉のお陰で今日まで生きて来ることができた」ということもあれば、「私はあの時のあの人のあの言葉に深く傷つけられ、未だに苦しんでいる」ということもあります。誰でもどちらかと言えば前者のように積極的・肯定的な影響を与える生き方をしたいものですよね?  実のところ、「人から影響を受けるかどうか」は『個人の選択』にかかっており、「人に影響を与えるか否か」は無意識のうちに起こる出来事です。つまり、私たちが自ら優れた良き人物を選んで、積極的にその人からの影響を取り入れて行くなら、やがては自分自身が優れた良き影響を自然と周囲に与えて行く存在へと変えられて行くのです。ですから私たちは「誰から影響を受けるか」ということを慎重に選ばなければなりません。そして私が100%の自信をもってお勧めできる人物こそ『イエス・キリスト』というお方なのです。  聖書はこの方の言葉を記録しています。聖書にはこの方がなさったことが描かれています。また聖書は、どのようにして直接的にこの方からの影響を日々受けながら生きることができるかをも教えてくれています。私たち1人1人をこよなく愛される神は、この『イエス・キリスト』からの影響によって私たちが変えられることを通して、この世界をご自身の愛で満たそうとしておられるのです。

(461) “すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

 だれでも、時計が遅れ始めたら電池を取り換えますよね?車のオイル交換サインが点滅を始めたらオイルを交換するでしょうし、コンピューターがフリーズしたら再起動させると思います。本当に便利ですね。エネルギーが切れ始めたり不具合が生じたら、それが分かるように知らせるシステムが備わっているわけです。  実は神様が私たち人間を創造された時にも、あらかじめそのような『警告システム』を搭載してくださったのです。けれども私たちはしばしばそれらの警告を無視して活動を継続し、時には取り返しのつかない状況に陥ってしまうこともあります。ぜひ次のいくつかの『警告システム』をチェックしてみてください。  ①最近理由もなくイライラすることがある。②一生懸命にやっているのに認めてもらえていない気がする。③有給休暇を取ろうとする時に負い目を感じる。④後輩を指導する時に、穏やかに話せずに、つい大声を出してしまう。⑤この前「涙が出るほど大笑いした時」がいつだったか思い出せない。⑥休日の終わりが近づくと言いようのない疲れが襲ってくる。⑦ささいな失敗をした時に、つい必死に言い訳を考える、などなど。これらのものは決して「当たり前な態度」でも「過剰な反応」でもなく、創造主なる神が生まれつき私たちに与えている「休養とリフレッシュが必要だ」と教える『警告サイレン』なのです。  いわゆる「燃え尽きてしまう」という症状は、決して一朝一夕では起こりません。そこに至るまでに必ず上記のようなサイレンが何度も鳴っていたはずなのです。神様が与えてくださった大切な『からだ』、ぜひ「聖書の注意書き」をよく読んで、いたわってあげてくださいね。