(479) “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”

 聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。  同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?  『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。  ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。  『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

(478) “律法学者の1人が来て、イエスに尋ねた。「どれが第1の戒めですか?」”

 前回は「聖書をひと言でいうと…」というお話をしましたが、今回はイエス・キリストがおっしゃった「聖書で最も大切な戒め」について書きますね。  この聖書の箇所が言う『律法学者』とは、イエス・キリストの時代のいわば「聖書の専門家・教師」のような存在です。ですからこの質問は「イエスに教えを乞うた」というよりも、「イエスを試そうとした」という方が妥当でしょう。しかしこの後イエスの答えを聞いた彼は、その明瞭・適切な答えに感動して沈黙した、と書かれています。では、イエスは一体どのように答えたのでしょうか?  イエスはこう答えました。「まず第1に『心から神を愛すること』だ。唯一の創造主なる神をおのれの神と認め、このお方だけを礼拝し、そのみこころを求めて従うこと。これが何よりも大切だ。そしてそれと同じくらい大切なのが『自分を愛するがごとくに周囲の人々を愛すること』だ」と。  ここに『3つの愛』が述べられています。「神への愛」「自分に対する愛」「隣人愛」です。この3つに優劣があるわけではなく、『序列』があるんです。すなわち、「まことの『創造主なる神』を知り、この方との愛の関係の中に生きることなくして、『自分自身の真の存在価値』を知ることはなく、真の意味で自分を大切にして生きることもできない。また、自分が神との関係の中で、『神からの深い愛』を体験するまでは、自分自身を注ぎ出して他の人々のことを親身に顧みることができない」ということなのです。  「キリスト教の精神は『愛』である」と言われるゆえんは、ここにあります。それは決して「自分の身を削って、無理して他の誰かのために何かをしてあげる」ということではなく、「神との愛の関係から生まれて来る、心から泉のように湧き上がってくる『神の愛』を、人々の間で注ぎ出しながら生きる」ということなのです。神が私たちを通して他の誰かにご自身の愛を表現されるのを体験する時、私たちは初めて「自分が生まれて来た本当の意味」を発見することができるのです。

(477) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。”

 『聖書』は何千ページもある分厚い本ですが、ひと言でいうと一体どんなことが書いてあるのでしょう?今日はこの難題に限られた紙面で答えてみたいと思います。大体次の3つの内容が書かれていると言えると思います。  ①「神とはどんな方か」ということが書かれている。   ・聖書を読むことを通して、私たちはこの全宇宙を創造された『神』という方が「どのような性質で、どんな願いを持ち、どのようなことを大切にしておられるか」を知ることができます。私たちの地上の親や家族は、時には私たちに対して誤った期待を持ったり、不適切な取り扱いをしたりしますが、この『天の父である神』は「愛と知恵と力」に満ち、私たちの周囲の人々とは全く異なったレベルで私たちをご覧になり、私たちの思いを超えた喜びと満足で私たちの人生を満たすことのできる方です。  ②「私たちとはどのような存在か」が書かれている。   ・聖書を読むことによって、私たちは自分がこの『創造主なる神』にとってどれほどにかけがえのない存在なのか、を知ることができます。確かに聖書には人間というものの「弱さや抱えている問題」も書かれていますが、それ以上に「本来『人』とはどれほど尊厳に満ちた存在で、どのような可能性を秘めているのか」が描かれており、そのポテンシャルを花開かせるための秘訣もそこには述べられているのです。  ③「人と人との関わり」に関して書かれている。   ・聖書を読むうちに分かってくることは、神が私たちを「関係の中で生きる存在」と定めておられることです。あなたは多くの人々にとって「素晴らしい助けや慰め」を与える存在であり、また周囲の人々はあなたに「良き励まし、知恵、そして成長」を与えてくれます。神はある人を通して他の人を祝福しようと、日々機会を狙っておられるのです。  『聖書』は、神が人類にお与えになった、比類のない「悔いのない人生を送るためのインストラクション・ブック」です。やがて全ての人がこの『唯一まことの神』の前に立つ日がやってきます。その時に神に「あなたはわたしがあなたのために著した書物を読んだことがあるか?」と問われたら、胸を張って「はい、あります!」と答えられる者でいたいと思いませんか?

(476) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 私がまだ『クリスチャン』になる前、「クリスチャンって、どんな人?」と訊かれたら、きっと「良いことをする人たち」と答えたと思います。そんなイメージがあったんですよね。それとともに「きっと『良いこと』をしないと『救い』を受けられないのだろう」とも思っていました。それが誤りであることは、自分がクリスチャンになってからはっきりと分かったのですが…  クリスチャン(イエス・キリストを『救い主』と信じることによって、神からの「永遠のいのち」を受け取った人々)が『良い人たち』だと感じられるのは、彼らが「『救われるため』に一生懸命に善行を積んでいるから」ではなくて、「『救われるため』に何の貢献もしていないにも関わらず、ただイエス・キリストを通して現された一方的な神のあわれみを信じ受け取ることによって『救われた』ことへの喜びと感謝」が彼らの人生から溢れ出ているからなのです。  『プライスレス(Priceless)』という言葉があります。直訳すると「値段がない」ですが、実際の意味は「高価過ぎて値段が付けられない」という意味です。聖書が教える『救い』も同じです。神が人に与える『救い』は、あまりにも高すぎて、人間の努力で徳を積むことによっては到底届かないのです。それ故神は、ご自身のひとり子である『イエス・キリスト』の「いのちの代価」を支払うことによって、このイエス・キリストを通してご自身に近づく者が誰でもその『救い』を手に入れられるようにされたのです。

(476) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい。”

 何週間か前に『柔和さ』の話をしましたが、今日はこの『柔和さ』について、ちょっと違った面から考えてみたいと思います。  正義感の強い人は、「自分にも人にも厳しくする」傾向があるように思いますが、これには「良い面と悪い面」があります。『良い面』とはもちろん、自分を律し、周囲の人々に対して良き模範を示すことができる点です。ところが人にはそれぞれ違った『弱さ』があります。「分かってはいるけど、どうしてもできない人」にとって、「私もできたんだから、キミにもできないはずがない!」と強要してしまうことは、時には相手を深く傷付けることになりかねません。  上記に示した聖書の言葉の中の「自分自身も誘惑に陥らないように」というのは、何も自分が、正してあげようとしているその相手と「同じ過ち」に陥ってしまわないように、という意味ではなく、「知らず知らずのうちに、相手を蔑んだり、さばいたりしてしまわないように」という意味です。「相手を正す」とは、「相手をその過ちから立ち直らせる」ということであって、相手を糾弾することが目的ではないからです。  私たちは、何度も警告を与えたにも関わらずそれに従わなかった人が失敗を犯すのを見た時、「だから言ったじゃないか!」とか、「そうなることは目に見えてたよ~」などと突き放してしまいがちです。しかし聖書の神は、私たちをそのようには取り扱いませんでした。彼は、神を認めず敬いもしないで自分勝手な道を進んで過ちを犯した私たちのことをあわれみ、ご自身のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちの『過ち(罪)』の代価を十字架によって支払い、私たちが正しい道へ進むようにと、共に歩んでくださる方なのです。  『柔和な心』とは、相手の弱さを理解しつつ、それでも決してあきらめることをしないで、相手の可能性が最大限に発揮されることを求めて、相手に寄り添い続ける姿勢なのです。

(475) “わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。”

 全ての人類が共通して求めているものの1つに『心の平安』があると思います。お金や娯楽も役に立ちますが、それらは「心の最も深い部分」を満たしてはくれません。言い方を換えるなら、この「心の最も深い部分」が満たされていないために、人はお金や娯楽その他を使って、何とか一時的にでも「心を満たそう」と喘ぐのでしょう。  イエスはこの地上を去る前に「わたしの平安を残す」とおっしゃいました。しかも「わたしが与える『平安』は、世が与えるものとは違う」と。「世が与える平安」とは、基本的に「周囲の状況に依存した平安」です。「物が十分にある」「人間関係が円滑に進んでいる」「身体が健康である」など、日々の生活にこれといった問題がないから『平安』でいられる、というものです。では「世が与えるのとは違う平安」とは、何でしょう?それは「とても平安ではいられないような状況の中でも失われることのない『平安』」という意味です。  ある方は、「そんなことが可能なわけはない。単なる欺瞞だ。」とおっしゃるかもしれません。そんなことはありません。世の中のほとんどの『不安』は、「この先どうなるか分からない」というのが理由です。病気であろうが、自然災害であろうが、経済恐慌であろうが、「すぐに解決する。自分の生活には影響がない。」ということが確実に保証されていれば、人は落ち着いていられるはずです。しかし人間には一瞬先のことも分かりませんし、自分ではコントロールできない状況に陥った時には、いつも『死』という最大の恐怖がちらつきます。それが私たちから『平安』を奪うのです。  「イエス・キリストが与える平安」は、これらの『不安』を一掃する力があるのです。私たちクリスチャンがよく口にする表現に「God is in control」という言葉がありますが、これは日本語に訳するなら「今のこの状況も神の知らない所ではない」というような意味になりますが、もっと詳しく言うなら、「『全能の愛なる神』が、この出来事が起こることを許されたのなら、そこには必ず背後に『良い計画』があるはずだ」という信仰に裏打ちされた言葉なのです。イエス・キリストは『死』さえも打ち破られてよみがえられました。この方に信頼して生きるならば、たとえこの『コロナ禍』の中にあっても失われることの無い『平安』を保って日々を生きることができるのです。

(474) “人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。”

 英語のことわざに、「Flying off the handle」というものがあります。これはハンマーなどのつなぎ目が緩んでいたために、釘を打ち付けようと振りかざした時に、ハンマーの先っぽが柄から抜けて吹っ飛んでしまうさまを表しており、「簡単に癇癪を起こす人への警告」のために用いられます。なかなか面白い表現ですよね?あなたの『ハンマー』は大丈夫ですか?  ハンマーの先っぽが吹っ飛んでしまうと、続いて起こりうるいくつかの災難が思い浮かびます。  ①そのハンマーそのものが使い物にならなくなる。すなわち、癇癪を起こした人の言葉や態度は、それ自体がいくら説得力があり、理にかなっていたとしても、もはや誰も聞く耳を持ってくれず、効果がなくなるということです。本当に相手に分かって欲しいなら、落ち着いた態度や口調で話しましょう。  ②飛んで行った「ハンマーの先っぽ」は、ダメージを与える。怒りに任せて発した言葉や態度は、相手の心を傷付け、時にはその傷が一生残ってしまう場合もあります。あなたは一生誰かからの恨みを背負って生きたいですか?  ③「先っぽをなくしたハンマー」と「与えたダメージ」のどちらも、元に戻すのは大変な作業である。実際、多くの場合は「取り返しのつかないこと」になる場合が多いでしょう。「あの時の『カッとなる気持ち』を、そのまま相手にぶつけたりしなければ…」という後悔を背負って生きている人は、少なくないのかもしれません。  「そんなこと言ったって、人生にはむしゃくしゃすることが多すぎる!」 そうおっしゃるかもしれません。面白いことに聖書には次のようにも書いてあります。「復讐は神に任せなさい」と。聖書の神は『公平』なお方であり、カッとなることもありません。しかも私たちの心を読み取られる方でもあります。本当に不条理なことには、神があなたに代わって公平にさばいてくださいます。このお方にお委ねして、私たちは大きな心で人と接するように心がけましょう。

(473) “柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”

 「柔和な性格」と聞くと、どちらかというと弱々しいイメージがありますが、聖書に出て来る『柔和』という語を原文のギリシャ語で見てみると「制御された力強さ」という意味だと分かります。この『柔和』という描写は、聖書の登場人物の中では「イエス・キリスト」や「モーセ」などに用いられています。両者とも様々な困難に直面する中で、決して心折れることなく、多くの民を神への信仰と従順へと導き励ましました。  「すべての人を喜ばせること」は、誰にもできません。真剣に人生を歩めば歩むほど、必ずいちゃもんを付ける人や妨害しようとする人が現れます。ある意味、私たちの人格的な成熟度は、このような人たちにどのように対処するかに現わされると言っても良いでしょう。このような場面で、次の3つくらいの態度が考えられます。  ①おじけづく: 真の『柔和さ』を十分に身に着けていないと、このワナに陥る傾向があります。相手に気に入ってもらおうとするがあまり、不必要な代価を払ってしまうのです。そのため「本当に大切な人間関係」を傷付けてしまう可能性があります。  ②反抗する: このような態度は「自信の現れ」ではなく、むしろ「自信の無さの現れ」です。つまり『心の不安』の故にむきになって自己主張しようとするわけです。このような態度はかえって敵を増やし、自分自身を窮地に陥れます。  ③柔和な態度で冷静に対応する: これができるのは、自分自身の言動に強い確信を持ちつつも、相手の言動を正しく尊重することができるからです。「真に柔和な人」は、落ち着いて相手の話を聞き、正しく「良いものと悪いもの」を見分けることができるのです。  『柔和さ』とは、次のように自問自答できることだと言えるでしょう。「ここで自分自身を押し通すことと、この人との関係を保つこととは、どちらがより価値あることだろうか?」

(472) “神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる。”

 神の存在を信じようとしない人たちを『無神論者』と言います。彼らは「神の存在を信じるなんて、実に『非科学的』である」と主張しますが、これは大きな誤りです。何故なら、何かに関して「それは決して存在しない」と断言することこそ『非科学的』だからです。無神論者は、神の存在を「信じようとしないこと」はできますが、「神の存在自体を否定すること」は科学的に不可能です。そしてもちろん、「神の存在を信じようとしない人がいるから」といって、神が存在しなくなるわけではありません。  『神』すなわち『創造主』を信じないということは、よくよく考えるなら実に無謀なことです。『創造主』の存在を否定してしまうなら、一体どのようにして様々な『被造物』の存在理由を説明できるのでしょう?日々私たちの目を楽しませてくれる美しい花々は一体どこから出てきたのでしょう?これらの花々からミツバチたちが蜜を集め、私たちに美味しい蜂蜜を提供してくれるなんて、誰が考えたのでしょう?私たちが毎日必要な酸素を、緑の木々が提供してくれるように、一体誰がアレンジしてくれたのでしょう?『無神論者』とはすなわち、これら全ての出来事は「偶然の産物」ということで片づけてしまう人たちなのです。  あなたももしかしたら今までは「神を信じるなんて愚か者のすること」と思いかけていたかもしれませんね。でも実際のところ「神の存在を信じないことほど無知で愚かなことはない」というのが、はるかに妥当な考え方なのです。

(471) “神は我らの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

 2022年、明けましておめでとうございます。今年こそ『コロナ禍』が過ぎ去って、もう少し自由に行き来し、友人たちと対面でじっくりと語り合えるようになると良いですよね。  さて、「ピンチの時こそ、その人の真価が現れる」と言われますが、その『真価』というのは、しばしばその人が「何に根差して生きているか」によって大きく左右されます。もし私たちが単に「自分の知識や経験」にのみ頼っているのなら、不測の事態に直面した時には容易に浮き足立ってしまうことになります。しかしそんな時、この天地を創造し支配なさっておられる全能なる神に頼ることを知っているなら、揺るがされることはありません。それはあたかも地中深く根を張っている樫の木の大木のようなものです。これらの大木は何百キロもの範囲に渡って根を張っており、山火事やどんな干ばつに遭っても枯れることはありません。  人生には、山火事のような「周囲からの脅しやプレッシャー」、また干ばつのような「思いもよらぬ不幸や危機」に直面することがあります。そのような時に、単に『自分の力や能力』ではなく、あなたを愛し守り支えてくださる『全能の神』に信頼を置いていることは、まさにこの樫の大木のような根をもっていることに他なりません。 この新しい年、一体どんなことが起こるのか想像もつきませんが、日々この創造主なる神に信頼を置き、たとえどんなに思いがけない局面に立たされることになっても「揺るがされることのない」歩みをしたいものですね。