(489) “あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに踊る。”

 ご存知でしたか?アメリカ歴代大統領の中で、任期半ばで辞任を余儀なくされたのは、たった1人だけだということ。この不名誉な歴史を刻んだ人物は『ニクソン大統領』です。優れた大統領であった彼が辞任に追い込まれた理由は、1本のテープに吹き込まれた彼の『言葉』だったそうです。「口は禍の元」と言われますが、一旦口を出て行った言葉は決して取り戻すことはできない。恐ろしいですねぇ。  聖書の中の『箴言』という書物には「口から出る言葉」に関する警告が150回も出てきます。いかに私たちが「自分の語る言葉」に注意を払わなければならないかを思い知らされます。調べによると、ごく普通の人が50年間に語る言葉を集めると、300ページの本12000冊分にも及ぶそうです。いわば私たちは1人1人、これだけの歴史、また財産をこの世に遺しているということができます。ある人は「自分の語る言葉なんて取るに足りないものだから…」と思うかもしれませんが、そのような人が語った言葉のいくつかも、実際誰かにとって「決して忘れられないひと言」になっていることがあるのです。  「語る内容」だけではありません。私たちが語る言葉が、「誰に対して」「誰について」「いつ」「どこで」「どのように」語られたかも、人々の人生に関わってきます。改めて「自分が語る言葉」をよぉく吟味していきたいですね。

(488) “信じる者は、慌てることがない。”

 人体とは非常によくできているもので、急がなければならない状況になると、体中に「緊急事態」が発令される仕組みになっており、ストレスホルモンから特別なアドレナリンが放出され、危急な状況に対応できるように準備されるそうです。但しこの体の仕組みは、その「緊急事態」が肉体に関するものなのか、心の不安や環境によるストレスのものなのかという原因を見極めることはできません。ですから、肉体的に一時的に身を守るためには大変効果的なのですが、長期に渡るストレスによってこの「緊急事態」が継続されると、むしろ様々な肉体的疾患の原因となります。  では、そうならないためにはどうすれば良いのでしょうか?それは何よりもまず、そのような「継続的なストレス」の原因を正しく見定めて、きちんと除去することです。この点においても「愛に満ちた全能者であられる神」に信頼しているということは、大きな助けになります。「自分にとってどうしても必要なものは、神様がちゃんと取っておいてくださる」と信じられるからです。  私たちは宣教師として、日本を離れることが多かったため、何度も引っ越しを余儀なくされました。帰国するたびに住むための貸家を探すのですが、不動産屋さんで良い物件を紹介されるたびに、「これは滅多に出ない良い物件なので、一刻も早く決めないと、すぐ別の人に決まってしまいますよ!」と言われ(脅され?)ました。初めのうちはとても不安になって「手付金のようなものを払っておこうか?」などと考えたのですが、やがて「いや、神様がちゃんと1番良いものを取っておいてくださる。もし別の人に決まってしまったなら、他にもっと良い物件があるということだ!」と考え直しました。そして事実、毎回神様は私たち家族のために最高の物件を用意してくださっていました。(ある時は、予算オーバーの物件の値引きさえしてくださいました!)  神に信頼して生きるとは、「急ぐ必要のない生き方」であり、ストレスや不必要な病気から守られて生きることなのです。

(487) “待ち望め、主を。”

 昭和中期(?)に生まれた私たちの世代から見て、現代人の大きな1つの特徴は、「待てない」ということです。あるクリスチャンがこんなお祈りをしたという笑い話があります。「神様、どうぞ私に『忍耐』を与えてください。今すぐに!」 きっと神様はこの祈りに「すぐには答えない」という形で答えてくださったと思います。  実際、『待つ』ということから私たちは多くを学ぶ(得る)ことができます。日本語にも「急いては事を仕損じる」ということわざがありますが、待ち切れなくて性急に行動を起こすことで望まない結果を生むことは多々あります。車のスピードを上げれば上げるほど運転手の視界が狭められてしまうのと同じように、急いで行動すればするほど、周囲が見えなくなるものです。  しばしば「待つこと」には勇気が要ります。「こんなにゆっくり行動していて、手遅れになってしまったらどうしよう…」という不安と戦わなければなりません。聖書が「主を待ち望め」と教えるとき、そこには「あなたを愛し、あなたに最善を成してくださる神(天の父)に信頼しなさい。『神のタイミング』『神の方法』が知らされるまで、落ち着いて周囲を見回しなさい。」というメッセージが込められています。『待つ』とは、成熟した人間がより良い結果を残すための「信頼の行為」なのです。

(486) “わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。”

 『喜び』というものは、私たちの人生の「燃料」のようなものです。これが失われると、私たちはただ「生物学的に生きているだけの人生」を送るようになってしまいます。車を運転する時には、時々燃料タンクのメモリをチェックしながら「ガス欠になっていないかどうか」を随時確かめておく必要がありますよね?それと同じように、私たちの心の内に『喜び』が失われていないかどうかを日々チェックする必要があるのです。  イエス・キリストが多くのことを教えられたのは、「自分が持っている喜びが私たちの内に満ちあふれるためである」とおっしゃいました。キリストの地上での人生は決して楽しいことばかりではありませんでした。定住の地はなく、ほとんどゆっくりと休む暇もなく、敵もたくさんいました。けれども彼の内にはいつも「他の人に分け与えないではいられない喜びと愛」に満ちていたのです。一体その秘訣は何だったのでしょう?それは、いつも変わらずに彼と共におられた『父なる神との愛の関係』です。そしてイエス・キリストがいつも教えておられたことは、この「『父なる神との愛の関係に生きること』からやってくる祝福について」だったのです。  この世界が私たちに提供してくれる『喜び』もありますが、それらはいつも周囲の状況に依存した「一時的なもの」です。しかしキリストが私たちに提供してくださる『喜び』は上から注がれるものであり、周囲の状況にかかわらず私たちの心のうちに泉のように満ちて行くのです。それは永遠に私たちの内にとどまり、将来の不安や死に対する恐れさえも消し去ってくれるのです。  あなたもそのような『喜び』を心に満たして生きたくはありませんか?

(485) “見よ、わたしはすべてを新しくする。”

 この前の日曜日は、クリスチャンの大きなお祭りの1つである『イースター(復活祭)』でした。イエス・キリストが十字架において死なれ、墓に葬られた後、3日目によみがえられたことを祝う「喜びの祝祭」です。今日はこの「キリストの十字架と復活」について少し考えてみたいと思います。  聖書はまず「神が天と地を造られ、人間を(神のかたちに)造られた」と述べていますが、神が人(私たち)を造られた『第1の目的』は何だと思いますか?それは、神の最大のご性質である『愛』というものを、互いの『関係』の中で表現し合うためです。「愛の表現」が単に「セックスをすること」だけだとしたら、それは他の動物たちにだってできます。人間は「相手を思いやり、相手の最善を願って、自分自身を犠牲にしてでも相手をサポートする」という形で『愛』を表現することのできる、唯一の被造物です。  ところが、『最初の人』であるアダムとイブが神に反逆して以来、神が意図しておられたこの麗しい「愛の関係」というものが、人と神の間においても、人間同士においても歪んでしまい、人は『関係』というものを「自己中心的に」用いるようになってしまいました。これが聖書の言うところの「人の罪とその結果」なわけです。  神がご自身のひとり子『イエス・キリスト』を人間の姿でこの世にお送りになられたのは、「神の力とご性質をデモンストレーションするため」であると共に、この「壊れてしまった『関係』というもの」を修復するためでもあったのです。キリストは「人の神に対する反逆の罪」と、その結果である「歪んでしまった関係」の清算をするために、私たちの身代わりに十字架にかかって、そのいのちの代価によって全ての償いを済まされたのです。そして私たちがもう1度、最初に神が計画しておられた通りの、本来の豊かさと純粋さをもった「神との関係」そして「人間同士の関係」へと再スタート(回復)することができるようにと、死を打ち破ってよみがえってくださったのです。私たちはイエス・キリストをこのような『救い主』として信じることによって、人生をもう1度新しく出発することができるのです!

(484) “心に満ちていることを、口(舌)が話すのです。”

 病院へ行って、お医者さんに「は~い、ベロを出して~」と言われたことはありませんか?私は何度かあります。どうやら東洋医学では、舌の色や形を見て体調を知る『舌診』という診断方法があるそうです。『舌』は粘膜で覆われ多くの血管が集まっているので、血液や体液の状態が反映されやすいので、体質や内臓の様子を映し出す「鏡」とも言われているそうです。  面白いことにイエス・キリストは、身体の健康のみならず「心の健康」も『舌(人が話すことば)』に反映されるとおっしゃいました。偉そうなことばかり口にする人は、実は心に不安や劣等感を抱えており、いやらしい言葉を連発する人は不純な思いに満ちており、人の批判ばかりする人は、心がプライドや怒りに冒されてしまっています。「あの人のあの時のあの言葉に深く傷付けられて以来、私の人生はメチャメチャになってしまった…」などという告白を聞いたことはありませんか?  しかし『舌(ことば)』というものはそのような「否定的な力」だけではなく、人を励まし、勇気付け、悩みや混乱から救い出す力も持っています。正しいタイミングに正しい方法で語られた正しい言葉は、何にも代えがたい力を発揮するのです。但し、そのためには、まず私たちの「心の状態」が健康に保たれていなければなりません。そのためにも、『神のいのち』に満ちた聖書のことばを豊かに心に満たしておくように心がけましょう!

(483) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。”

 『勇気』という言葉を聞くと、「敢えて危険に向かって行くヒーロー」などを思い描いてしまいそうですが、実際私たちが『勇気』を必要とするのは、そのような大それた状況ばかりなわけではありません。むしろ「正しいと分かっていることを、臆せずに成し遂げること」は『勇気』の最も日常的な形であり、誰もが必要としているものです。では何故、そのような日常的な出来事に私たちは『勇気』を必要とするのでしょうか?それは残念ながら、誰もが必ずしも「正しいことだけを行おう」としているわけではない」からです。  「人目を気にする」日本人は、更にこのような『勇気』を必要とする場面が多いのではないでしょうか?「長い物には巻かれろ」といったことわざが横行する日本では、これから自分がやろうとしていることが「最善ではない」と気付いても、大勢が同意してくれないならば方向転換するのは非常に困難です。そして真の『勇気』が必要とされるのは、まさにこういう時なのです。  イエス・キリストは、ご自身が十字架において成し遂げる「罪の贖いのみわざ」を受け入れる人々が、やがて「この世の流れ」に抵抗しながら生きるようになることをご存知でした。だからこそ予めそれらの人々に冒頭のような励ましを送られたに違いありません。イエス・キリストを通して神との関係に生きるようになると、『真に正しいもの』が見えてきて、更に「正しく歩みたい!」という強い願いが起こされるようになります。そのような生き方のために無くてはならないものが、この『勇気』なのです。そしてこのように「神に向かって正しく生きるために『勇気』を奮い起こそうとすること」を『信仰』と呼ぶのです。

(482) “主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。”

 『回復』という言葉は、正常の状態からどこか具合が悪くなってしまった後に、そこからまた元の正常な状態に戻った時に使いますよね。そして聖書は、私たちがイエス・キリストを信じることによって神から受け取る祝福を『救い』と呼ぶと同時に、『回復』とも呼んでいます。すなわち聖書は、キリストを通して神と出会うまでは、私たちは生まれつき「正常ではない状態にある」というのです。それは一体どういう意味なのでしょう?  聖書の神は『創造主なる神』です。彼が私たちの『創造主』であるならば、当然私たちの人生の「最善の使い道」はこのお方が1番よく分っています。そのことを忘れて「自分勝手に人生を浪費してしまっている状態」のことを、聖書は『罪(的外れ)』と呼んでいます。神は私たちをこのような状態から『回復』させたいと望んでおられるのです。キリスト教が教えているのは、何か私たちの人生を「様々な教えや宗教的ルールでがんじがらめにすること」ではなく、「私たち人間(聖書は「神の最高傑作品」と呼んでいる)を『宝の持ち腐れ』状態から、フル機能を発揮できるようにすること」なのです。これこそ、まさに聖書が呼ぶ『回復』なのです。  イエス・キリストがこの地上に現れたのは、「私たち人間の心を『創造主なる神』に向けさせるためである」と聖書に書かれています。この『聖書』という私たちの人生の取扱説明書を通して、『創造主なる神』という人生の「力と知恵の源」とつながることを通して、私たちは「神による回復」を体験することができるのです。

(481) “霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。”

 あなたにとって『良い人』とはどんな人ですか?欲しい物を何でもくれる人?困った時にはいつでも助けてくれる人?自分に対して嫌なことは1つもしないで、楽で楽しいことだけをさせてくれる人?  聖書は、「この天地を造られた創造主なる神は『良いお方』である」と教えています。ところがある人々はこのことにつまずきます。何故なら、それらの人々の持っている『良いお方』のイメージと、実際の聖書の神のご性質とが必ずしもマッチしないからです。彼らの『良い神』は、まさに冒頭に挙げたような「自分にとって超都合の良い存在」であるからです。  聖書の神は、『父なる神』とも呼ばれています。そして「欲しい物は何でもくれて、楽で楽しいことだけをさせてくれる父親」が『良い父親』ではないことは、ちょっと考えてみればすぐ分かります。もちろん幼児の頃から厳しくしてばかりいたら、それは『幼児虐待』ですが、青年期に達してもまだ甘やかしてばかりいるような父親は『ダメな父親』ではないでしょうか?同様に聖書の神も、私たちの信仰の成長度に応じて敢えて『試練』をお与えになります。それは神が意地悪だからではなく、むしろ『良いお方』であって、私たちの更なる成長を願っておられる方だからです。私たちにとって『良い方』とは、私たちを「自己最高の人生」へと導き、またそれにふさわしく訓練してくれる存在なのです。  私が学生の頃は、どちらかというと保守的な考え方を持っていました。つまり「冒険をしない性質(たち)」だったのです。ところが大学1年の時にキリストと出会って以来、これまでの私の人生はまさに波乱万丈です。そしてこの40年の道のりは私を大きく成長させてくれました。だからこそ私は、私が関わるすべての人がこの「キリストを通しての神との関係」に生きるようになり、『自己最高の人生』へと歩み出すようになるようにと、切に願っているのです!

(480) “隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。”

 『縁の下の力持ち』っていう言葉がありますよね?人目に立つところで働いているわけではないけど、実は「無くてはならない働きを担っている人」のことを指しているわけです。こういう働きの事を英語では「Behind the scene」と言います。「見えているところの裏側」という意味です。  例えば、コンサートや何かのイベントに参加した時に、私たちが注目するのは「華々しくステージの上で活躍している人たち」だけですよね?見えない所で多くの人たちが関わっていることに気付くのは、せいぜい何か問題が起きた時(マイクの調子が悪いとか、照明がおかしいとか…)だけでしょう。そして「全く裏方は何やってんだ!」と文句を言うわけです。問題なくプログラムが進んでいる時には、『裏方』の存在など気にも留めていないにもかかわらず。  聖書はそんな『縁の下の力持ち(裏方)たち』のために素晴らしいエールを送ってくれています。神様はまさにそんな「人目に立たない所で私たちが払った労苦」を決して見逃すことなく、正当に評価してくださるというのです。神の目には「隠れているもの」など1つもないからです。  ここで大切なことは、私たち自身も「神様は目には見えないから、信じない」などと言わず、『見えないけれども、そこにいてじっと見守ってくださっている神』にしっかりと思いを向けることです。神様は『目には見えない方』だからこそ、「人知れず行われたあなたの心を込めた行い」に目を留めてくださっているのです。ですから「どうせ誰にも気づいてもらえないから…」などと気落ちすることなく、いつでもどんな状況においても、自分ができるベストを尽くし、精一杯の心を込めて、喜んで『縁の下の力持ち』という価値ある役割を担って行きましょう!