(508) “わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。”

 『学ぶ』という言葉は『真似ぶ』から来ているそうです。きっと昔(学校制度ができる以前)は、「親」や「親方」など身近にいる「その道の先輩」が『実物教師』として模範を示し、それを見て、真似をし、新しいことを学んで行ったのでしょう。  イエス・キリストは私たちに「本来人間はどれほど高貴な存在であるのか」を示すために、自らがその模範として生きられた、と聖書は教えています。彼はその教えの中でしばしば「わたしが○○したように、あなたがたもXXしなさい」とお語りになりました。その中には「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」「わたしが受け入れたように、互いに受け入れなさい」などがあります。  ところが人間は持って生まれた『弱さ(限界)』のゆえに、自分の必要が満たされていない状態でそんな風に他の人を思いやるなんてとてもじゃないですよね?ですから上記のようなイエスの教えを聞くと、多くの人は「そんなの無理!それは理想かもしれないけど、全然実際的じゃない!」と感じると思います。しかしイエスは私たちのそのような弱さをもちろん承知の上で、上記の教えをされたのです。それは私たちに『無理強い』をするためではなく、むしろ私たちがそれらを実践できるような道があることをも知らせるためです。  イエスが、聖書が述べているように情け深く、憐れみに富んだ存在として歩まれたのは、彼自身がいつも「天地の創造者であられる父なる神」との深い関係に結ばれていたからでした。父なる神はいつも深くイエスを愛し、助け、力を与え、変わらない喜びと平安と力を注いでおられたので、イエスは常にその力に満たされて人々の間であのような驚くべき力を発揮されたのでした。すなわち、「イエスの模範に従う」ためには、単なる猿真似ではなく、イエスと同様に、まず「日々神との豊かな関係の中に生かされること」が必要なのです。私たちは「枯れ井戸」のような私たちの心から無理矢理に愛情を「ほじくり出す」のではなく、むしろ『管』のように、まず「愛に満ちた創造主」としっかりつながって、その大きな愛や憐れみ、平安などを注いでいただいて、その「受け取ったもの」を、必要に応じて周囲の人々に分け与えて行けば良いのです。「イエス・キリストのように歩む」とは、「イエス・キリストが持っておられたのと同じ『神との豊かな関係』」を、まず自分自身がしっかりと築いて、そこから流れてくる「すべての良きもの」をあふれさせて行く人生なのです。

(507) “聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。”

 あるクリスチャン作家の方が「聖書とはどんな書物か」ということを分かりやすく述べておられる記事(原文は英語)を見つけたので、今日はそれをそのまま翻訳してお伝えしますね。  「聖書に書かれている内容は、言うなれば『神の思い』『人間の状態』『救いに至る道』『罪人の行く末』そして『信じる者に与えられている幸福』である。また聖書はあなたを導く光であり、あなたの心を養う食物であり、あなたを元気づける励ましである。それはまた、旅人にとっての道しるべのようなものであり、パイロットにとっての方向指示器のようであり、兵士にとっての武器のようであり、スポーツ選手にとっての戦略のようなものである。それは驚くほどの富へと至る鉱脈であり、本物の喜びがあふれる川である。その教えは神聖で、そこにある命令は厳格、そこに書かれた歴史は真実、そしてその決定は不変である。聖書はイエス・キリストを究極的な主人公として書かれており、またそれはあなたの最善のために綿密にデザインされており、その目的は神の栄光である。知恵を得るためにそれを読み、安全に生きるためにそれを信じ、たましいの健康のために書かれていることを実践せよ。またそれをゆっくり、じっくり、そしてこまめに祈り深く読むように。聖書の言葉があなたの思いを満たし、心を支配し、人生の1歩1歩を導くようにせよ。それは今のあなたの人生のために与えられており、やがて最後の審判の日にも開かれ、永遠に記憶される。この書は我々に人生最大の責任を突き付けると共に、人生の全ての労苦に対する最大の報いを約束している。この書に書かれていることを軽んじる者は神の裁きを免れない。」  聖書を『崇高な書物』と思っている人は多いでしょうが、実際に手に取って深く学ぼうとする人は少ないかもしれません。1つだけ確かなことは、「聖書の内容を知らないことは、人生にとってとてつもなく大きな損失である」ということです。

(506) “平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。”

 向上心を持つことは良いことですが、自分のありのままの姿を受け入れることなく「もっとあんなだったら良かったのに…」「あの人みたいだったらいいのに…」と、『別人』になることばかりを夢見ることは少々不健康であると言えるかもしれません。  『パーソナリティ』に良し悪しはありません。皆がそれぞれ違ったパーソナリティを持っているからこそ、世界は輝くのです。また、それぞれの人間性の違いは、創造主である神様の「豊かな創造性」を表現していると言えるでしょう。ですから「自分はこんな風じゃなかったら良かったのに…」という人は、ある意味「神様、あなたは私のことを間違って作ったでしょ?!」と文句を言っているようなものです。  ある人は「自分で何でもやりたがるタイプ(私はそうです)」かもしれないし、別の人は「できるだけ他の人にやらせようとするタイプ(私の妻がそうです)」かもしれません。またある人は「独立心が強いタイプ」で、別の人は「誰かと一緒にするのが好き」ということもあるでしょう。どちらも良い面があります。何故なら、神はご自身の願いを込めてあなたをそのように造られたからです。  「神様、私はこんな自分のことは嫌いです。もっと別の人格にしてください。できればぜひあの人のようにしてください!」そう祈りたい人は、トコトンそのように祈ってみたら良いでしょう。でも恐らく最後にはあなたの方がギブアップして「ありのままの自分を受け入れる」という道へと導かれるかもしれません。神様は「私たちを別人のように変える」というよりも、むしろ「自分にしかない魅力に気付かせ、そしてそれを更に伸ばすことができるように」と働いてくださる方なのです。

(505) “できる限り、全ての人と平和を保ちなさい。”

 『人間関係』というものは、生きている限り避けられないトピックであり、またしばしば私たちの頭を悩ませる課題でもあります。時々「人間関係をこじらせないためには、自分の信念を曲げたり、妥協したりすることは避けられない」という言葉を聞きますが、本当にそうでしょうか?  英語に「Win-winな解決」という表現があります。どちらかが妥協する代わりに、どちらにとっても益(勝利)となるような第3の案によって解決することです。何かを交渉したり、和解を試みたりする時、ついつい自己中心的になって自分が損をしないことばかり考えてしまったり、相手のあら捜しをしようとしたりしてしまいがちですが、そのような態度で交渉の場に臨むと、物事を多角的に見ることができず、せっかく神様が与えようとしている『最善の道』を見失ってしまいます。この「Win-winな解決」に至るためにはまず自らを「第3者」の立場に置いて状況を客観的に眺め、双方が抱えている課題や真の必要を見極める必要があります。  ここで難しいのが、それらを判別するには「自分自身のプライドを捨てること」や「自分の都合で決めたタイムリミットを変更すること」などがしばしば要求されることです。『予定変更』や『信念を曲げること』を好む人はあまりいません。しかしそれが「自分だけにとっての益」ではなく、「他の人と共に勝利感を共有する」という結果を生むなら、それは『価値ある犠牲』と呼ぶことができるのではないでしょうか?

(504) “それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 聖書は『愛する』ということを重んじますが、現代人にとって「愛する」という言葉を聞くと、どうしても「男女間の愛」というものを想起させてしまいますよね?聖書が語る『愛』というものは、むしろ「周囲の人々に対して深い関心を抱く」というようなものです。すなわち「自分のことばかりに終始してしまうのではなく、他の人にとっての『最善』というものにも関心を払え」といった感じでしょうか?聖書には「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉もあります。神が私たちに『共感』してくださっているように互いに『共感する』ことは、神に造られ愛されている者としてふさわしい歩みなのです。  「周囲の人々に関心を払いながら歩む」という生き方には、次のようなものがあると思います。  ①『話す』よりも『聞く』 ― 誰でも自分の話に耳を傾けてくれる人を求めています。聞いてもらえるだけで「自分は大切にされている」と感じるのです。職業柄いろいろな方をカウンセリングする機会がありますが、半数近くの方は、こちらが親身になって話を聞いてあげるだけで、スッキリした表情で帰って行きます。  ②相手の肯定できる部分を肯定し、励ます ― 日本の教育はどちらかというと「誤りを正す」ということが重んじられるようです。「甘やかすのは良くない」という考えから出ているのかもしれませんが、「ほめる・励ます」ということは「甘やかす」こととは違います。幼い子供がブランコに乗る時に、よく親が後ろから押してあげることがありますよね?ところが子供たちはいつの間にか「自分でブランコを漕ぐこと」を覚えます。人は「誰かからちょっと背中を押してもらうこと」を必要としているのです。  私は毎朝犬の散歩に出かけますが、すれ違う人と微笑みを交わす時、何とも言えないポジティブな気持ちになれます。これが日本に一時帰国した際、東京などの大都市を歩いていると「無表情で自分の前だけを見つめて歩いている群衆」とすれ違い、何とも虚ろな気持ちになります。『微笑み』1つで周囲の人の心を豊かにすることができるのです。お金も時間もかかりません。周囲に対するほんの少しの心遣いです。あなたも試してみませんか?

(503) “指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。”

 最近ご主人を亡くされたあるご婦人の手記を見つけたので、今日はそれをそのまま引用させていただきます。 「長生きしている者の1つの特権は、これまでに自分が学んだ事を他の人に分かち合うことだと思うので、今ここでそれをさせていただきます。3つのことを書きますが、これらがそれを読む方の人生を少しでもより良きものとする助けとなりますように。  1.『時』というものは大変貴重です。それを無駄にしないように気を付けましょう。夫を天国に見送ってから、私は友人家族のお宅に居候させていただいています。ある晩彼らは口論を始め、しまいにお互いに口を利かなくなってしまいました。ええ、つい口喧嘩してしまうのは分かります。主人と私にも時々ありました。でもその度に「あぁ、こうして誰かと一緒にいられるって、何てかけがえのないことなんだろう」って思わされたものです。だからぜひ、やがてこの世での別れが来る大切な相手と一緒にいられる時間を無駄に過ごさないようにしてください。何をするにも心を通わせ、互いに愛を表現し合いながら行いましょう。どんなに長く一緒に過ごしている相手でも、やがてそれが過ぎ去った時、必ず「もっと一緒にいたかった」と感じるものなのですから。  2.今が思い出作りの時なのです。『良い思い出』をたくさん作りましょう。夫との人生を振り返る時、多くの「忘れ難い思い出」に溢れていることを、神様に心から感謝せずにはいられません。夫が天に召された日、そうとは知らず私は見舞いを終えて自宅に帰る前に、(いつも別れる前にそうしていたように)私は夫にキスをしました。そしてその日の晩に彼は天国へと旅立ったのです。「あの日も忘れずキスして良かった!」と、何度も思い返します。ぜひ『今』を大切にしましょう。あとで「後悔の念」にさいなまれないために。  3.『出来事』が重要なのではなく、それらに「どう反応したか」が大切なのです。誰の人生にも多くの困難や試練が襲って来ます。そしてもしあなたが神に信頼しているなら、あなたは必ずそれらのチャレンジの中に『成長の機会』を見出すことができるでしょう。今私たち夫婦の人生の道のりを振り返ってみると、自分たちが望んでいなかった出来事にも遭遇しなければならなかったことを認めざるを得ません。きっとそれらは誰にとっても避けられないことなのです。だからこそそれらの「困難な出来事や状況」のさなかで、後々振り返った時に「神様はあんなこともこんなことも、私を成長させる機会として用いてくださっていた」と神様に感謝できるような心の態度で1つ1つに対処してみてくださいね。」

(502) “平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、ただあなただけが、安らかに私を住まわせてくださいます。”

 アナタの1日の平均睡眠時間はどれくらいですか?私たち夫婦は毎晩できるだけ8時間は寝るようにしています。これは20年前に家族で暮らしていた離島での生活でできた習慣で、何しろ電気がありませんでしたから、日が沈むと暗くて自然と眠くなってしまうのです。もっとも朝は早朝からニワトリのけたたましい鳴き声で起こされましたが、ともかく『早寝早起き』のとても健康的な日々でした。その頃にできた生活リズムが今でも保たれています。  思うに日本人は一般的に『睡眠不足気味』ではないでしょうか?「本当はもっとゆっくり寝ていたいのに、その暇がない」という方が多いのでしょうが、時には「8時間も寝ていたら、怠け者だと思われてしまう」という負い目から睡眠時間を削っている方もいらっしゃるかもしれません。  『眠る』という行為は「生産的でない」と思われがちかもしれませんが、それは大きな誤りです。体内における新陳代謝やその他の「体力や健康回復のための営み」は我々が眠っている間に行われるのであって、睡眠を十分に取らないでいると、肉体的にも精神的にも不健康な状態に陥って行くのです。  ある方々は「ゆっくり眠りたいのだけど、様々な心配事が浮かんできて、ぐっすり眠れない」とおっしゃるかもしれません。良い考えがあります。それらの心配事を『全能の神様』にお任せするのです。「どうやったら良いか分からない」という方に、良い方法をお教えします。心配事が思い浮かぶたびに、それを紙に書いてフタ付きの箱に入れるのです。入れ終わったらフタを閉じて、部屋のできるだけ高い棚の上かどこかに置いて、「神様、私の心配事はあなたにお任せしましたから、もう私は心配しません。あとのことはよろしくお願いします!」と言って床に就くのです。きっと効果ありますよ!

(501) “人がひとりでいるのは良くない。”

 ある出版社が「幸福感について」の調査をしたところ、面白い結果が得られたそうです。「安定した幸福感を得ている人」の特徴は、お金がたくさんあることでも、肉体的な健康でも、学歴や地位が高いことでもなく、「豊かで深く有意義な人間関係を持っている人」であるということでした。  アルコールや薬物依存からの回復プログラムでは、カウンセラーが指導する部分は全体の10%程度だそうです。残りの90%のプロセスは、グループの中での励まし合いや助け合いによるそうです。彼らはそのグループの中で、互いに『人生』を共有し合っているのです。  蝶は蜂よりもはるかに広い世界を飛び回って蜜を吸います。しかし蜂の方が蝶よりもはるかにたくさんの蜜を集めます。何故でしょう?それは蜂たちは1つの花に長い間とどまって、そこで一緒に「生きるために必要な栄養素」を分かち合っているからです。  私たちは決して『ひとりぼっち』で「自己最高レベル」に到達することはできません。「人は人によって形造られる」からです。私たちと親しい関係にある人たちは、私たちが自分では気付くことのできない『私』を見ることができます。そして真の友ならば私たちが「最高以下」に甘んじている時、更なる成長を目指すよう励ましてくれます。  「ひとりじゃない」というのは、「多くの人の携帯電話番号やラインアドレスを持っている」ということとは異なります。言わば「人生を共有する友を持っている」ということです。それは配偶者かもしれないし、会社の同僚かもしれないし、学校の同級生や幼馴染みかもしれません。また聖書を見ると、『教会』という場所は、まさにそのような関係を築く相手を見つける絶好の場所であるようです。そのような人が1人でもいるなら、あなたは『幸福な人』に違いありません。

(500) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”

 『弱肉強食』という言葉があります。「弱い者が強い者のえじきとなること」を意味します。元々は「自然界の動物たちの様子を描写した言葉」でしたが、それが転じて「人間世界の情け容赦ない力関係」を表現する四字熟語になったようです。  『弱さ』という言葉を聞くと、否定的なイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?誰もが「自分は強くなりたい!」と思っているのかもしれません。「強くなければ、人生の勝者にはなれないから」というような理由からでしょうか?でも本当にそうでしょうか?そもそも『人生の勝者(勝ち組?)』とは何でしょう?お金持ちになること?有名になること?長生きすること?実際はそれら全てを手に入れても『不幸せ』な人は山ほどいます。  非常に面白いことに、動物の世界は『弱肉強食』ではあるかもしれませんが、『弱い者いじめ』の世界ではありません。ライオンが群れになってたった1匹のシカに襲いかかるなどという光景はどこにもありません。しかもライオンその他の『強い動物』は、お腹が空いていないときは、たとえ目の前を美味しそうな獲物が通ったとしてもピクリとも動きません。自然界の『弱肉強食』と人間世界におけるそれとは、全然違っているのです。  多くの人は同意してくれると思いますが、「人間とはそもそも弱い存在」です。その弱さをごまかしたり隠したりするために、『強さ』を身に付けようとします。それはそれで悪いことではないかもしれませんが、「強くなろう」とすると同時に、「裸の自分は弱い存在である」と知っておくことは大切なのではないでしょうか?そういう自覚があって初めて、私たちの内側に「他の人に寄り添おう」とする優しさが生まれ、「互いの持っているものを分け合おう」という愛の行動が現れてくるのだと思います。  ある未開の地へボランティア活動のために訪れた若者たちのグループが、貧しい子供たちを励まそうとイベントを企画し、よくありがちな『運動会』を開催しました。手始めに『徒競走』をしようと7~8人の子供たちを横一線に並べて、よぉくルールを説明し、「よぉい、ドン!」とスタートさせたところ、子供たちは『競走』を始めるどころか、互いに左右を見合わせて仲良く手をつないで皆一斉に走り出し、皆で嬉しそうに一緒にゴールインしたそうです。見ていたボランティア青年たちは、呆れると同時に、感動で涙を浮かべたそうです。  私たちの心を打つのは、「強い者が天かを取る様子」ではなく、「弱い者たちが手を取り合って生きる様子」です。何故ならそこに「神が私たちを『弱く』造られた、本来の目的」があるからなのです。

(499) “どうか、私たちの父なる神が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。”

 今日は、私たちが語る『ことば』というものについて考えてみたいと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」というものがありますが、私たちの語る『ことば』はある意味「両刃の剣」であって、人を生かしも殺しもする力があります。そしてその私たちの語る『ことば』を最もたくさん聞いているのは、実のところ『私たち自身』なのは言うまでもありませんね。  私たちは時に「これは悪い言葉だから口に出さない方が良い」と考えて心の中にじっとしまっておくこともできますが、残念ながら『私たち自身』は既にその『ことば』を聞いてしまっています。そして更に悪いことにそれらの『ことば』は、「主語を省いた状態」で私たちの深層心理に積もって行くのです。すなわち、それらの「否定的なメッセージ」が誰に対して向けられていたとしても、私たちの心の奥深くには『否定的なことば』として残り、私たちの心を蝕んでいくのです。  私たちは極力自分自身に「積極的・肯定的なことば」を聞かせて行かなければなりません。そのためには『私たち自身』がそのような『ことば』を発することができる者へと変えられて行かなければならないのです。しかし非常に残念なことに、この世界にはあまりにも多くの「否定的・破壊的なことば」が横行していて、「積極的・肯定的なことば」だけを取り入れて行くことは至難の業です。では、一体どうしたら良いのでしょう?  私たちができること、それは「私たち自身の語ることば」を極力「肯定的・積極的なもの」に置き換えて行く、ということです。そのためには、「肯定的・積極的なメッセージ」に常に目を向け、それらをくり返しくり返し自分自身のうちに取り入れて行かなければなりません。そしてその「肯定的なメッセージ」というのが、聖書に書かれている「神からのメッセージ」なのです。「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 そのような「神からの愛に満ちた力強い語りかけ」を日々自分の心に取り入れ、鏡に向かって「あなたは価値がある。あなたは神に愛されている。」と語りかけて行く時、徐々に私たちが日常的に語ることばさえもが肯定的なものへと変えられていくのです。