(604) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 英語にこんな言い回しがあります。「We can sacrifice without love, but we cannot love without sacrifice」 日本語に訳すと「愛がなくても犠牲を払うことはできるが、犠牲を払うことなしに愛することはできない」となるでしょうか。前回も申し上げたように『愛』は感情ではなく「意志による選択」です。そしてそれは「相手の益のために敢えて犠牲を払うこと」なのです。  確かに、誰かを真実に愛するなら、その人のために払う犠牲は、他の人たちのために払うほど重荷ではなくなります。しかしどんなに愛情深い人でも、一方的に犠牲を払い続けたら、いつかは破綻してしまいます。時には『受け取ること』が必要です。  『育児ノイローゼ』になる若いお母さんたちがいます。恐らくその1つの大きな原因は、赤ちゃんに愛を注ぎ出す(犠牲を払い続ける)ばかりで、そのことを評価してもらったり、励ましや慰めを『受け取る』機会が無いからなのかもしれません。  聖書は「私たちが愛することができるのは、まず初めに私たちを愛してくださっている『神』がいるからだ」と教えています。聖書の有名な言葉に『神は愛です』という言葉があります。これは単に「神は愛で満ちておられる」ということではなく、「神の愛はどんなに注ぎ続けても尽きることがない」という意味であり、また「この『神の愛』を日々受け取っているならば、この『愛』はその人の内側で泉のようになって、周囲の人々に溢れ流れ出るようになる」ということでもあります。  この神の愛は、私たちとご自身との架け橋としての「ひとり子イエス・キリストの身代わりの死」という形で現わされました。このキリストを通して現された『神の愛』を受け取ることで、私たちも「愛する人」へと変えられて行くのです。

(603) “あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。”

 聖書全体を通して最も強調されている価値観が『愛する』ということだということは、多くの方々がご存知ではないかと思います。しかし、こうも思われるのではないでしょうか?「そもそも『愛する』なんていうことは、誰に対してもできることではない。聖書は「敵さえも愛しなさい」というが、一体どうやって自分と考えを異にする人や、自分に対して嫌なことをする人たちを愛することができるというのか!」  こう考えるのはもっともな事ですが、実はそこには少し思い違いがあります。まず『愛する』ということは「感情」ではなく、「意志による選択だ」ということです。たとえ相手の事が気に入らなくても、そんな気持ちに左右されることなくその人にとって益になることをする。それは決して「偽善的」ではなく、「愛の行為」なのです。また、もし「愛すること」が『選択』なのだとしたら、私たちは「愛せない」のではなく、実は「愛したくない」のです。  「ナルニア国物語」などの著書で知られるクリスチャン作家『C.S.ルイス』は次のような興味深い言葉を残しています。 「私は、しばしば私には納得の行かないことをしてしまう『ある人』を愛することを止められない。私は、私にとって不快なことをついやってしまう『ある人』を受け入れないではいられない。私は、私が心から愛している人々を傷付けてしまうことがある『ある人』を赦さずにはいられない。その『ある人』とは、『自分自身』のことである。ならば何故私にとって『心からは同調できない人々』を決して愛することはできない、などと言えるだろうか?」  神は『愛』です。それ故神は、私たちが「愛せない」と感じる人々を愛することができるように助けることができるのです。

(602) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

 『救世軍』(英語で “Salvation Army”)は、世界最大規模の「キリスト教人道援助団体」として知られていますが、この創立者である『ウィリアム・ブース』に関して1つの逸話があります。  彼は13歳の時に父親を失い、極貧の生活を強いられますが、母親がとても気丈な人物で、働きながら3人の子供を養ったばかりでなく、家の前に物乞いがいるのを見つけると、決して空手で去らせることはなかったそうです。またこの母親はウィリアムが幼い頃から、「ビリー、世界はね、お前が大きくなるのを待っているのよ」と言葉をかけ続けました。この母の言葉が彼にとって何よりの励ましになっていたようです。  このような言葉を胸に、母親の日頃の振る舞いを見ながら育ったウィリアムは、思春期にキリストによる回心を経験し、たびたびロンドン東部の貧民窟で救済活動を行っていましたが、やがてその活動が多くの賛同者を得るようになり、『救世軍』へと発展することになりました。  人は誰でも「周囲からの評価」に影響を受けます。中でも『家族』特に『親』からの影響は多大なものです。私たちが「創造主なる神による評価(私たちを『高価で尊い』とご覧になる)」を知り、それをまず「自分自身のこと」として受け止め、そして自分の家族や子供たちに受け継がせて行くなら、それは私たちの想像を超えて、次の世代へと大きな影響を与えて行くことができるはずです。

(601) “すばらしいことばで、私の心は沸き立っている。”

 人は誰でも自分に語りかけられる言葉に少なからず影響を受けます。肯定的な言葉をかけられれば元気が出るし、否定的な言葉を投げかけられると気分は落ち込みます。『言葉』には想像以上の力があると思いませんか?   では、あなたは1日のうちで「誰の声」を最も頻繁に聞いていると思いますか?恐らくそれは例外なく『自分の声』でしょう。ではあなたは自分自身に日々どんな言葉を語りかけていますか?自分のことを度々ほめていますか?それともついけなしてしまうことが多いでしょうか?  『自画自賛』というと、どちらかというと「ちょっとずうずうしくて高慢な態度」という印象があるかもしれません。しかし「自分の良い所を見つけてをキチンと褒める」、また失敗してしまった時も、「大丈夫、失敗は誰にでもある。良い教訓を得たと思えばいい。次回はきっともっとうまく行く」というように自分に肯定的な言葉をかけていくことは、とても大切です。そして、自分に対してそのように肯定的な態度を表現できる人は、他の人に対しても優れた『励まし手』となって行くものです。  実際「私たちの心のささやき」というものは、その『概念だけ』が深層意識に残り、主語やその対象は残らないそうです。つまり「あんなヤツ大嫌いだ」とか「アイツのことは絶対に赦さない!」などと心でつぶやいた場合、自分の深層心理に残るのは「大嫌い」とか「赦さない」という概念だけで、結局それらは「自分自身に対する言葉」として残ってしまうのです。  「他の人からの言葉」は、私たちの力では変えることができません。でも「自分に語りかける言葉」は意識的に変えることができます。ぜひ1日を、自分の顔を鏡でじっと見つめながらこんな言葉を語りかけることで始めるようにしてみましょう。  「あなたは神様の作品。神様はあなたのことを誰よりも愛してる。そして私も自分のことを心から愛します!」

(600) “天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 私の友人が自分のエレキギターのソフトケースを注文しました。しばらくして朝にメッセージが届き、そこにはこう書いてありました。「ご注文のギターケースは、今朝7時に発送されました。」 ちょうどその日は夕方にある場所で演奏する予定があったので、「7時に発送されたんじゃ、きっと午前中のうちに届くだろうから、夕方の演奏の時には新しいケースに入れてギターを持って行けるな」と、彼はとても喜びました。  ところが、お昼になっても荷物は届きません。彼は少々ガッカリしましたが、「ここはニュージーランドだから、日本のようには行かないよな。でも出発まではまだ4時間もあるから、まあ余裕だろう」と、特に焦ることもなく、荷物の到着を待ち続けました。ところが、3時を過ぎても、3時半になっても、いまだに荷物が届きません。さすがの彼も焦り出して、神様に向かってこう祈りました。  「ねぇねぇ、神様ぁ~、何とかしてくださ~い!ボクは今日は新しいケースにギターを入れて持って行きたいんですぅ。」  全く『礼儀正しい』とは言えない祈りでしたが、彼の心からの真実な叫び(?)でした。すると、出発準備を始めた3時45分頃になって、宅配のトラックが家の前に停まりました。彼は胸を高鳴らせて、「来た~!」といさんで荷物を受け取りに行きました。  ここでストーリーは終わりません。彼が受け取った荷物は、およそ「ギターケースが入っている箱」には見えない、30センチ四方くらいの立方体だったのです。「ウソでしょ!」と彼は慌てて発送元を確認すると、それは確かに彼がケースを注文した会社。「もしかして、間違った品物を送ってきたのか?」と不安に感じつつも、恐る恐る箱を開けてみると、そこには丁寧に3つ折りにされた『ソフトギターケース』が収められていました。  神様は、ご自身の愛する子供たちの祈りに耳を傾け、それに応えてくださいます。ところが『神様からの祈りの答え』というものは、必ずしも「私たちがイメージしている形」で与えられるとは限りません。神様は私たちよりも遥かに偉大で、知恵と力とに満ちたお方です。ですから、私たちは「自分勝手なイメージ」で神様のことを定義してしまうことなく、ただその愛と誠実さに信頼して歩んで行きましょう。

(599) “わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。”

 砂漠を歩くうちに飲み水が尽き、のどの渇きにあえいでいると、そのうちに『幻覚』が見えるようになります。すなわち、本当は実在しないものを見るようになり、それに惑わされて、後でとてもガッカリさせられるのです。  同様に、私たちの心が寂しさや不安などで渇ききり、藁をもつかむ思いで生きていると、普通ならば到底頼るはずもないようなものに誤ってしがみついた末に欺かれ、どうしようもなく落胆させられてしまうことになります。  「そんなこと言ったって、どんな人にも試練はやってくるし、そんな時は何かに頼りたくなるのは当然じゃないか!」とおっしゃるでしょうか?確かにその通りです。私が言いたいのは、『試練』というものは必ずしも「悪」ではない。ただ、その辛さに怯えて「誤った解決」にすがりついてはいけない、ということなのです。  イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになる」と。神が私たちに『試練(渇き)』が起こることを許されるのは、私たちを「まことの解決」、その渇きを癒すだけではなく、やがて私たちを「他の人の渇きをも潤すことのできる存在」へと成長させる、『永遠のいのち』であるイエス・キリストに目を向けさせるためなのです。

(598) “これらのこと(言葉)に心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。”

 聖書は「1人1人の人間としての成長は、自分で実感することができるものである」と教えています。しかし「肉体的」また「知的」な成長は、様々な方法で『測る』ことはできますが、「人格的な進歩・成長」は、どのようにして測ることができるのでしょう。  子供時代は、ある意味全ての人は放っておいても『成長』します。そのため学校を卒業してからも、「まあ、食べて、活動さえしていれば、それなりに成長するさ」と思ってしまいがちです。しかし残念なことに、それは『勘違い』というものです。「家庭教育」「学校教育」が終了し、いわゆる『成人』になるということは、まさに「今後の成長は、個人個人の努力や心掛けにかかっている」ということなのです!  『聖書』は、私たちの人生にとっての「究極的なマニュアル」です。敬虔なクリスチャンとして有名なアメリカ大統領『アブラハム・リンカーン』は、こう言いました。「聖書は神から人類への最高の贈り物である。私たちの人生のために必要なことは、すべて聖書の中に書かれている」と。ぜひ聖書を読むことを日々の習慣にしてみてください。数行読んだら、その内容を静かに黙想してみてください。そしてその日その日に分かったことを、生活の中で実行してみてください。そうすれば、やがてあなたは「自分の人生が大きく進歩・成長している」ということを、必ず実感することができるでしょう!

(598) “あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。”

 「イエス・キリストに倣う者となる」ということは、どんな相手に対しても、いつでもどこでも『あわれみ深く接する』ということです。  実業家であったアンリ・デュナンは、イエス・キリストに対する信仰の故、戦地における負傷兵の叫びに応えて『赤十字社』の基礎を築きました。あの「赤い十字の印」を見るたびに、私たちは『キリストのあわれみ』を思い起こすことができます。  ドイツのルーテル教会牧師であったセオドア・フィードナーは農家の女性たちの間で看護の技術を広めました。このことがきっかけとなりヨーロッパで新しく多くの病院が設立され、やがてこれらの女性たちの中からナイチンゲールが現れたのです。  ベルギー出身のダミアン神父は19世紀にハワイに渡り、らい病人たちに寄り添うための施設を設立しました。彼は伝染性の強いこの病気に苦しむ患者たちの間を毎日巡回し、「神はらい病に冒されているあなたをも心から愛しています」と語りかけ続け、やがて彼自身もこの病に冒されたことを知って、「神は私たちらい病人を愛しておられます!」と告白しつつ息を引き取りました。  イエスは「これらの最も小さき者の1人にしたのは、わたしにしたのです」とおっしゃいました。今日あなたの周囲であわれみを必要としている方が誰かいますか?

(597) “あなたがたは、…神の家族なのです。”

 2024年も終わりに近づきました。皆さんの『今年のハイライト』は何でしたか?「特に何も無かったなぁ」という方もいれば、「今年はこんな特別な体験をした!」という方もいらっしゃるかもしれませんね。  私たち夫婦にとっての『今年のハイライト』は、何といっても「末息子の結婚」、そして「8年ぶりのファミリー全員集合」でした。クライストチャーチに住む長男夫婦、日本の長野県で暮らす娘家族、そして新婚の末息子夫婦を含めた総勢10人が、娘の自宅近くのエアB&Bに集合し、2泊3日を共に過ごしました。初日の夜はご馳走を囲んで「飲めや歌えの大騒ぎ」でしたが、2日目の夜は、渋沢ファミリー名物の『家庭礼拝』を、このメンバーで初めて行い、言いようのない『幸福感』を味わいました。  ニュージーランドと日本では文化や習慣の点でいろいろな違いがありますが、年末年始になる度にしみじみ実感させられることがあります。それは、日本ではどちらかと言えば「クリスマスは恋人と、お正月は家族と過ごす」という傾向があるのに対し、ニュージーランドでは「クリスマスは家族と、そしてお正月(大晦日)は恋人と」という傾向が強いということです。ですから日本の「年末年始の交通渋滞」に対し、ニュージーランドではクリスマス・シーズンに飛行機の値段が高騰します。何故ならニュージーランド人は家族が海外で暮らしている場合が多く、家族が集合するために国外のあちこちに出かけたり、帰国したりするからです。  クライストチャーチ在住の日本人たちも、離れて暮らす家族に会いに行くためにこのシーズンに一時帰国する人が多いですが、もちろん様々な都合でそれが叶わない人もいます。そんな人々のために、私たちは『神の家族』としてクリスマス・シーズンにホームパーティを開き、一緒にご馳走を食べます。クリスチャンたちの間では、時にはそんな『神の家族』が「血のつながった家族」よりも絆が深められることもあります。何故なら『血縁関係』はこの地上に生きている間だけですが、『神の家族の霊的関係』は、永遠に続くからです。

(596) “人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。”

 クリスマスのシーズンがやってきました。巷ではクリスマス・キャロルが流れ、お店はより良いクリスマス・プレゼントを捜す買い物客で大賑わい。ここニュージーランドでは、『クリスマス・デー(25日)』はほぼ全てのお店がお休みなので、今日(24日)が混雑のピークです。  多くの方々が「『クリスマス』は、キリストの誕生を祝う記念日だ」ということをご存知ですが、私たちクリスチャンにとっては少しニュアンスが違います。「キリストの誕生を祝う」というよりも、「神が人々を憐れんで、人間の姿をとって地上に現れたことを覚え、祝う」といった感じです。「『神が人となる』なんてあり得ない、バカバカしい」と考える方々もいると思いますが、それが聖書が伝えていることなのです。  では、何故神がわざわざ人間になって地上に現れたのでしょう?聖書は「失われた者を捜して救うため」と書いています。すなわち、私たち人間は本来「神の愛と支配の許、神との親しい関係の中で生きる存在」として創造されたのに、神の許を離れ、この世の『欲』に翻弄されてさまよっている。そんな私たちを「もう1度ご自身との関係の中で豊かに生きるように」と招くために、人の姿をしてこの世に来られたのです。  「だったら、『人間になる』なんてややこしいことをしないで、天から大きなスピーカーか何かで呼びかければいいじゃないか」と思われる方もいるでしょう。確かにそういう方法を取ることもできたかと思います。しかし神は、ご自身の『愛』や『あわれみ』を、私たちにとって1番分かりやすい形で示すためには、「人となって現れる」のが最善であると判断したのではないでしょうか?  あなたは、既に「神に見い出された者」ですか?もしそうでないなら、このクリスマス、「神様、私を見つけて、憐れんでください」とお祈りしてみてはいかがでしょうか?