2011年7月3日 霊とまことによる礼拝

説教あらすじ 「霊とまことによる礼拝」 (03/07/2011)   ◎[ヨハネ4:16-26] *「その生ける水を私にください」と言った女に対しての、イエスの意外な返答から始まる。   ◆[16-18節] ・女にとっては思いがけない返答(触れられたくない部分)。幸福(真の関係)を求め、得られなかった人生。   ◆[19-22節] ・「見知らぬユダヤ人」だったイエスに対する見方が変えられていく。(私たち1人1人にも起こること) ここから女は、今まで誰からもちゃんとした答えをもらえなかった、深い関心について尋ね始める。 ・イエスは、話題の中心がご自身の本質に及んだことを、どれほど喜ばれたことだろう。 ➝ 私たちが神と語る(祈る)時、その話題の中心をどこ(誰)に当てているだろうか?   ◆[23-24節] ・福音書の中でも大変レベルの高い話がなされる。このような話を、弟子たちや律法の専門家たちとではなく、 このサマリヤの不道徳な女になさったことは、大変注目に値する。 ➝ イエスの関心は、私たちの外面や立場にあるのではなく、内面(神を求める心)にある。   ◎『霊』とは? ・光は目で、音は耳で感知するもの。そして『霊』は『霊』で感知する。(人間は霊的存在) ・キリストと出会うまでは、この霊の部分は死んで(盲目になって)おり、悪魔に好き放題されている。[エペソ2:1-2] ・私たちが、物をたくさん集め、友人をたくさん作っても、なお満たされないのは、この『霊』の部分が満足しない ため。私たちが必要としているのは、ここを満たすことのできる「私たちの造り主とのいのちの関わり」。 「未信者に対する悪魔の主な策略」は、このことに気付かせないために、数々の方法でその人の 関心を別の方向へ向けること。ニセモノの満足にだまされるな! ◎『まこと』とは? ・二心(魂胆)がない。「OOのため」ではなく、純粋に「神ご自身との出会い」を求める心。 *何がそうさせるのか?➝ ①コミットメント ②更に知ること[ヨハネ17:3](究極のものを知れば、他は要らない) 「信者に対する悪魔の主な策略」は『ほどほど』で終わらせようとすること。わずかな満足で終わらせるな! ◎『礼拝』とは? ・イベントやアクティビティではなく『ライフスタイル』。 Worship = worth + ship (価値あるものに対する、ふさわしい対応。) ・いのちの源である『造り主』から「いのちの祝福」を受けながら「彼との深い交わり」を求めながら生きること。   ◆[25-26節] ・「キリスト(ギリシャ語)」「メシヤ(ヘブル語)」はどちらも『油注がれた者』の意。このイエスこそ『聖霊』を注がれる方。 彼に求めるなら、あなたは受ける! [マルコ1:7-8]   考えてみましょう ・悪魔の主な策略は、どのようなものですか?  ・「霊とまことによる礼拝」とは、どのようなものですか?

2011年6月26日 「生ける水」 

説教あらすじ 「生ける水」 (26/06/2011)   ◎[ヨハネ4:1-15] ◆「サマリヤを通って行かなければならなかった」[3-4節] ・ここで「サマリヤを通って行かなければならない」理由はない。イエスは特別な目的を持ってそこへ向かった。 ・1日を「いつものくり返し」として何となく生きることもできる。しかし実際は、神が与えた『1生に1度きりの機 会』。そこに「神の計画」「今日でなければできないこと」を見出す者は幸いである。   ◆「サマリヤの女」について [6-9節] ・通常『第6時(正午頃)』には水を汲みに行かない。後の記述から、この女はいわゆる「不道徳な女」だったこ とがわかる。そのような女に『ラビ』が声を掛けることは、極めて異例。しかし、イエスに「分け隔て」はない。 ・あなたは人に『レッテル』を貼っていないか?➝ 神の私たちに対するレッテルは「愛する我が子」。   ◆「生ける水」 [10-14節] ・「もし知っていたなら…求めたことでしょう。」 今日人々がイエスを求めないのは「価値がない」からではなく「知らない」から。人々は「その場しのぎ」の ものに注目し、また、それらの創始者やシステムを崇める。(今に始まったことではない [12節]) ・確かに『水』は重要。しかし、すぐまた渇く。(売り手はそこが狙いで、更に儲けようとする。) ・しかし、イエスが与える『生ける水』[13-14節]を受けた人は、他の人々に更に与えるほどに豊かにされる。   ◆ 私たちが求めているものは何か? ・人は「自分の全人生を賭けても惜しくない『本物』」を捜している。そしてまた「自分は、そんな価値ある人生を 送るにふさわしい存在だろうか?」と疑っている。 ➝ その質問に対する答えは… YES! ・神はあなたを値積もりし「最愛のひとり子イエス」をその代価として支払った。そして今日も、その『生ける水』 を受け取り、また「分け与えていく人々」を捜しておられる。 ・私は今から約20年前にその『本物』を見出した。そして神もまた私を見出してくださった。[ヨハネ6:27]   ★ 私は『永遠のいのちの泉』とされた。 あなたはどうですか?   考えてみましょう ・「1日1日を完全燃焼する」ために、あなたにできることは何ですか? ・あなたの『いのちの泉』は湧き出ていますか?そしてそれは周囲の人々を潤していますか? もしそうでないなら、何が原因なのでしょう?

2011年6月19日 『イエスのあかし』を受け入れた者

◎[ヨハネ3:31-36] *「私は神の存在は信じるが、イエスによる救いは信じない」という人々がいる。 そもそも彼らの言うところの『神のイメージ』はどこから来るのだろうか?   ◆ [31-33節] ・もし神が、聖書のいうように「万物の創造主」なら、当然私たちの知識や想像を超えた存在。そのような神を 認識するためには、神の側からご自身を知らせてくださらなければならない。(それが聖書) ・更に、もし神が聖書のいうように「人格のある方」であるなら、言葉や現象だけでは測り知ることができない。 「人格的な現れ」が必要である。それ故、「神と共におられた方が、神から見聞きしたことを証言するために、 天から下って来られた」。[ヨハネ1:18]   ◆ 私たちの選択 ・『自分のイメージ』を正しいとするか、『イエスの証言』を正しいとするか。 ・『イエス』という人物に関する3つの可能性 (①ウソつき ②気違い ③神のもとから来られた方) あなたは、自分の主張を押し通すために、神を『偽り者』としますか?[Ⅰヨハネ5:9-10]   ◆ 神は『最愛の御子』を遣わされた [34-36節] ・神が他の天使などではなく『御子(イエス)』を遣わされたのは、イエスが無価値だからではなく、「最も愛する 存在」だから。それ故神は「このイエスを受け入れた人々」を無視することはできない。神が私たちをご覧にな るとき、私たちの内に御子イエスをお捜しになる。 ・神は私たちがこの地上で「どれだけ財産を築いたか」「どんな名声を博したか」「どれほどの成果を上げたか」 などには興味はない。ただ、私たちがこの「神からの最良の贈り物であるイエス」をどれほど喜び、どれだけ の時間や労力をイエスと共に費やし、どのようにイエスの『あかしのことば』に耳を傾け、それに聞き従ってい るか、に興味がある。 ・神はこの御子イエスと共に『他のすべてのもの』を私たちに与える用意がある。[ローマ8:32] ただ、それらを与 えることが、私たちのイエスに対する思いを少しでも薄れさせてしまうようなら、与えたくない。 ・私たちの思いがいつもイエスのもとにあるようにと、神は「イエスの名によって」聖霊を送られた。[ヨハネ14:26] 聖霊が私たちと共におられるのは、「わざを行わせるため」以上に、私たちが『キリストの花嫁』として日々イ エスを深く愛し、彼と共に「最高の喜びに満たされた人生」を歩ませるため。   ◆ [コロサイ3:17] ・「何かを受けるため」ではなく、「(イエスの内に)すでに与えられているモノを見つけて用いるため」に、感謝を もって神に祈ろう。そして、イエスがあなたの周りに招き寄せてくださる人々の間でそれらを用いることによっ て、イエスが体験しておられる喜びを共有しよう!     考えてみましょう ・神は何故「最愛の御子」を私たちにお与えになったのでしょう? ・「すべてを主イエスの名によってする」とは、どういうことですか?

2011年6月12日 「主役はイエス・キリスト」

説教あらすじ「主役はイエス・キリスト」(12/06/2011) ◎[ヨハネ3:22-30]   ◆ ヨハネもイエス(の弟子たち)もそれぞれが人々にバプテスマを授けていた。[22-23節] このことに関して、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間で、論争が起こった。[25節] ・ヨハネを通してバプテスマを受けた人々が、いとも簡単にイエスのもとへと移っていくことは、彼らには理解 しがたいことに思えた(26節)が、ヨハネ自身はむしろ「これこそが起こるべくして起こっていることである」と自分が神のご計画の一部を担えたことを喜んだ。[27-28節]   ・神が私たちの内になさる『きよめ』の働きは、使徒ペテロの次のことばによく現れている。[使徒2:37-38] ①悔い改め  ②イエスの名によるバプテスマ  ③聖霊   ◆ 続いてヨハネは、自分とイエスの関係について、面白いたとえを用いている。[29節] ・花婿(イエス)  ・花嫁(教会・私たち)  ・花婿の友人(ヨハネ) ・花嫁が美しく整えられていく(きよめられていく)のは、花婿のため。そしてその友人は、花嫁を迎えようとして いる花婿の喜びをただ共有するだけの存在。ヨハネはこの喜びに満たされていた。   ◆ 「私たちの喜び」とは? ・私たちは「自分とイエスの関係」においては『花嫁』。日々聖霊によって、花婿イエスのために整えられ、愛を 増していく喜び。 ・しかし、人々にこのイエスを紹介していく時には、私たちはヨハネ同様『花婿の友人』。主役は花婿であるイエ ス。私たちは彼の素晴らしさを証しする喜びを味わうのであって、自分が注目される喜びではない。私たちの 使命は、ヨハネがしたように「イエスに関する真実」を大胆に知らせること。[ヨハネ10:41]   ★ 人々にイエスのことを知らせるために必要なのは、「伝道のスキル」ではなく、 「どれだけイエスのことを知っているか」 ということ。 更に深くイエスを知り、その素晴らしさを知らせていこう!   考えてみましょう ・バプテスマのヨハネは、どのような喜びに満たされていたのでしょう? ・私たちの「キリストの花嫁」また「花婿の友人」としての喜びは、どのようなものですか?

2011年6月5日 『さばき』と『永遠のいのち』

(最初の45秒間沈黙がありますので予めご了承ください。) 説教あらすじ「『さばき』と『永遠のいのち』」(05/06/2011) ◎[ヨハネ3:16-21]   *「クレジットカード」と「私たちの人生」の共通点。➝ [ヘブル9:27] このさばきをどうやって免れるか?   ◆ [16節] 神の「ひとり子(イエス)」という言葉は何を示すか? ①確かに神のもとから来られた方 ②神のご性質(愛・力・聖さ)そのままを表現する方 ③他に代わりはない ・神はその『愛』のゆえに、イエスを「与えられた」。「レンタル」ではない。 ・それは私たちに「さばき」から「いのち」へ移る道を備えるため。     ◆ [17-18節] 「さばき」というと『裁判』を思い浮かべるが、ここでいう「さばき」は、次の点で違う。   いわゆる「さばき」 聖書がいう「さばき」 さばくのは? 裁判官 自分自身 さばかれるのは? 罪(行為そのもの、またその背後にある動機) 心の態度(神への扉を開くか否か) *ヘビースモーカーの「焼け石に水」の話 ➝ 「今、神のもとへ立ち返るかどうか」の選択にかかっている。     ◆ [19-20節] 「光」=神との交わりの中  「やみ」=悪魔の支配下   ※私たちはこのどちらかにいる。 ・悪魔は無理矢理力ずくで私たちを地獄へ引きずり込むわけではない。ただ私たちの心に「悪の種」を蒔くだけ。 この種を育てるのは他ならぬ私たち。そして「やみ」はそのための栄養分となる。     ◆ もう1度 [16節] 「永遠のいのち」とは、何か形あるもの(心臓とか…)ではなく、人生そのもののこと。 ・それは「イエスを信じて生きることを選び取った瞬間」から与えられており、「死ぬときにバトンタッチされるもの」 ではない。 ・それは「死」や「さばき」を越える、「私たちが日々神と共に歩む人生そのもの」。[ヨハネ5:24] ・「永遠のいのち」には、「完全な罪の赦し」と「日々の歩みを助け導く聖霊の力」が含まれており、「永遠のいのち」を持つ者のすべての罪は神の前に忘れ去られ、また神にあって成された良きわざは、すべて神の前に覚えられている。これが「光の中に生きる者」の祝福。[21節]   Read more…

2011年5月22日 イエスを見上げなさい!

説教あらすじ「イエスを見上げなさい!」(22/05/2011)   ◎[ヨハネ3:9-15]   *イエスが話した「地上(見える世界)のこと」と「霊的な(見えない世界の)こと」との関連性を、ニコデモ は理解しなかった。[9-10節] 彼も他のユダヤ人と同様「見れば信じる」という姿勢を持っていた。   ◆「見えない世界で起こる出来事」が「見える世界」に影響を与えるのであって、その逆ではない。それ故 私たちは、「見える世界で起こること」から、その背後にある「見えない世界」を推察することができる。     ◆ イエスも同様にして、目に見えない「天の御国」について証しされようとした。[11-12節] ・イエスは「天の御国」を人々に理解させるため、様々なたとえを用いられた。 ・また、イエスご自身こそ「見えない世界」に先に存在し「見える世界」に現された大いなる実例であ り、「天の御国」を表現するために御父が地上に送られた『天の御国の究極のたとえ』。 ・神は地上の歴史の中で、私たちが悟るべき『救いの概念』の原型を、様々な形で表現して来られた。 (例)①ノアの箱舟  ②ソドムとゴモラの滅亡  ③アブラハムとイサクの物語     ◆ そしてここ[14節]では、もう1つの例として「荒野で上げられた蛇の話」[民数記21:4-9] をあげている。 ・この出来事に含まれているいくつかの重要な真理 ①「かみつく蛇」:この世の災いは、私たちと神との関係が壊れた結果としてやってくる。 ②「かまれた人々」:神との関係が壊れた結果、私たちは、罪・死・さばきに定められた。 ③「青銅の蛇」:神は、私たちを罪と死から救うために、イエス・キリストを贈られた。 ④「青銅の蛇を見上げる者は生きる」:イエスを「神からの救いの道」として受け入れる者は 『永遠のいのち』を得る。[15節]   ・ここで「青銅の蛇を見上げるかどうか」は『信仰』の問題。(『知的納得』ではない。) 「回復の兆し」は、信じて見上げるまでは現れなかった。納得できるのを待っていた者たちは死んだ。 ・人々が「信じて蛇を見上げる」のを助けたのは、「先に見上げていのちを得た者たち」。すなわち 「先にいのちを得た私たちの使命」は、このいのちをまだ得ていない人たちに証しすること。   *神の関心は「逆らった人々を滅ぼすこと」ではなく「誰が青銅の蛇(イエス)を見上げるか」ということ。 ★ 世の終わりの「さばきの日」に神が私たち1人1人に問うたった1つの質問は… 「わたしがあなたの救いのために十字架につけたイエスを、あなたはどうしましたか?」     考えてみましょう ・私たちは「目に見える出来事」から、どのようにして「見えない世界」を類推することができますか? ・今あなたに与えられている使命は何ですか? また、そのためにあなたはどんなことができますか?

2011年5月15日 新しいいのちに生きる

説教あらすじ「新しいいのちに生きる」(15/05/2011)   ◎[ヨハネ3:1-8] ◆『ニコデモ』という人物について [1-2節前半] ・パリサイ人:聖書(律法)の専門家。律法に従うことによって神の祝福が得られると信じていた。 ・ユダヤ人の指導者:ユダヤ議会『サンヘドリン』のメンバー(いわば国会議員)。 [2節]・彼も「しるし」に魅かれていた1人。ただ、彼は「しるしそのもの」以上に「この方こそ、 神が共におられる方に違いない!」という点に魅力を感じていた。   ◆ イエスは、ニコデモが求めているものをいち早く察知して言われた。[3節] ・「もし生まれ変わることができたら…」と思う人は多い。しかし、生物学的には不可能。[4節] しかし、イエスが意味したのは「肉体的」なことではなく「霊的世界」のこと。[5-7節] すなわち「私たちの地上のからだ」のことではなく、神から見た「神の国(天)における立場」のこと。   ◆ 私たちは皆「新しく生まれる」までは、神の前に「失われている」➝ [ルカ19:10,15:4-7] ・それは、私たちの罪(神の権威と無関係に生きようとする心の態度)の故に「神との断絶」の状態にある から。しかし、私たちがそのような態度を捨て(悔い改め)、キリストによる和解を受け入れるなら 「神と共に生きる関係」へと回復される。これが「新しく(神の国において)生まれる」ということ。   ◆「新しく生まれた者」は『2重国籍(天と地)』を持つようになる。ただ、天においては生まれたばかりで あり、目に見える肉体が地上にあるので、初めのうちは天におけるいのちの実感があまり湧かない。 ・何故神は、この肉体をもさっさと天に引き上げないのか? ➝ 神の願いは、この地上で、私たちを通して「天のいのちの豊かさ」を証しすること。   ◆ では、どのようにして「天のいのちの豊かさ」の中に生きるのか? ① 祈り:「みこころが天において成るように、地においても、この身を通して行われるように。」 ② みことば:『霊的食物』。朝ごとに。暗唱するのは、なお良い。 ③ 与える生活:「地上のいのち」は受けるほど豊かになるが、「天のいのち」は与える(天に蓄える) ほど豊かになる。 ★ イエスを通して与えられた「神のいのち」が、あなたを通して人々の間で明らかにされますように!   考えてみましょう ・「新しく生まれる」とは、どういうことですか? ・「天のいのちの豊かさ」の中に生きるための秘訣は何でしょう?

2011年5月8日 無条件の信仰

説教あらすじ「無条件の信仰」(08/05/2011) ◎[ヨハネ2:23-25] *〈『木』が変わって、プロポーズを承諾した話〉➝ 何が人と人との関係を「不動のもの」とするのか?   ◆[23-24節] ・イエスは何故ご自身を彼らにお任せにならなかったのか? 彼らの信仰は『しるし』によって生まれた「条件付き信仰」だったから。 このような信仰は、何がきっかけで失われてしまうか分からない。   ・「もっと神様のことが分かったら、信じる」という人がいるが、どのくらい分かったら信じるのか? 「極めたら?」:人が極めることができるような神に、人を救えるだろうか?   ・私たちが結婚を決めるのは、相手のことがどれだけ分かったら? ➝ ほんの少し。(すべてが分かったら、結婚しないかも…)   「どれだけ分かったら」が重要なのではなく、 「たとえ何が分かっても、決してあきらめない」という決断が重要。   ・私たちの『信仰』もこれに似ている。➝〈自分が信じたときの証し〉「イエスがいのちをかけてくださった 『真実の愛』に応えるための唯一の道は、同じく『真実の愛』による応答」と確信した。   ◆イエスは言われた。[ヨハネ14:21] ・「わたしの戒め」とは、「互いに愛し合え」を含めた、聖書のみことばのこと。私たちが神のことばに 対して、愛と真実をもって応えて行くなら、神と私たちとの『愛の関係』は日々成長し、不動のもの とされていく。そしてイエスは更に新しくご自身を私たちに現される。(親しさの証しとして)   ・イエスは万民を愛しておられるが、それとは次元の違った愛で、ご自分に近づいてくる者を愛し、 その心を許される。   ★ 『信じ、愛するために知ろうとする』のではなく、 「信じ、愛することによって、更に深く知る者」となろう!   考えてみましょう ・「信じる」ために大切なことは何ですか? ・万民に対するイエスの態度と、「彼に近づこうとする者たち」に対するそれとは、どう違うのでしょう?

2011年4月24日 イエスこそが神殿

(今回は試験的にディーンさんがノートパソコンでメッセージを録音してくれました。どうぞお聞きください。) 説教あらすじ「イエスこそが神殿」(24/04/2011) ◎[ヨハネ2:18-22] *相変わらず「見えるもの」に執着するユダヤ人 [18節, Ⅰコリント1:22-23] ◆「しるし」を見ても、信じない人と信じる人とがいる。 ・民衆やリーダーたち [マタイ27:39-42, 28:11-13] ・使徒トマス [ヨハネ20:24-29] *それでも信じないのは何故?➝ ①初めから「信じない」と決めている。 ②御利益を求めているのであって、「真理」を求めていない。 それでも、私たちは「信じる」ことを期待されている。[ヨハネ20:30-31] ◆[19-21節] イエスご自身が神殿(父の家) ・私たちはこのイエスを通して、父なる神と出会う。 ・私たち自身が「キリストのからだ」[Ⅰコリント12:27] どういう意味?➝ [Ⅰヨハネ4:12] 私たちがキリストの愛を知り、互いにできることを出し合って 仕え合うとき、そこに神との出会いがある。 ◆イエスの「よみがえり」は、何を示すのか? ①「イエスこそ正真正銘の『神のもとから来られたひとり子』だ」ということ。 ② 私たちの代価は、完済された。(聖書の時代の大工さんの習慣) ③ キリストが語られたことは、すべて本当だった。(『ベン・ハー』の著者の証し) ・私たちは『迷信』ではなく、確かな『事実』を信じている。 ★ 今日もキリストは生きておられ、私たちを招いている。 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい!」 考えてみましょう ・何故「信じる人」と「信じない人」がいるのですか? ・「イエスのよみがえり」は私たちに何を意味するのでしょう?