『聖書』ってどんな書物なの?

聖書

聖書は世界のベストセラー

・キリスト教の聖典である『聖書』は、年間6億冊以上印刷されており、印刷の技術が発明されて以来の圧倒的な『世界のベストセラー』です。

・中身は一見1冊の本ですが、実際は「旧約聖書39巻」「新約聖書27巻」という66巻の書物から構成されており、1600年かけて40人もの人々によって書かれました。「天地創造」から始まる神と人との歴史的物語、詩歌、預言、イエス・キリストの生涯とその教え、そしてイエスの弟子たちが教会へ宛てた手紙など、その内容は様々で、読み返すたびに人の心を打つ、いわば『神から人に宛てた人生マニュアル』なのです。

・聖書を初めて手にする方は、「どこから読み始めたら良いか分からない」とか「手引き書がないと分かりにくい」と感じるかもしれません。何も「初めから通して読まなければ…」などと堅く考えずに、目次を見ながら、興味をそそる書物から読み始めるのが良いと思います。初心者の方には、旧約聖書巻頭の『創世記』、または新約聖書3巻目の『ルカの福音書』などから読み始めると良いかもしれません。

聖書にちなんだ、ちょっといい話

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(595) “風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。”

 物事に慎重であるのは悪いことではありません。しかし慎重でありすぎるあまり、「完璧な状況が整うまでは何もしようとしない」のは、単なる『怠け者』かもしれません。もしかすると、『夢の実現』に辿り着くための最大の障害は、「もう少し暇ができたら…」「もう少しお金が貯まったら…」「この問題が解決したら…」という言い訳がましい理由付けなのではないでしょうか?  ある意味では、「完全に準備が整った人物」など、世の中には存在しません。歴史上で偉大な功績を残した人々のほとんどは、逆境の中で一筋の可能性に全力で取り組んだ人たちです。テレビ番組で多くのヒット作を手掛けたあるプロデューサーは次のように言いました。「振り返ってみると、どんなに見通しが高い作品でも、せいぜい成功率は50%くらいだった。ただ、それっぽっちの成功率ではあっても、そこにはいつも困難に立ち向かおうとする勇敢な仲間たちがいた。」  神様は敢えて私たちを「1秒先も正確に予測できない存在」として創造されました。それは私たちが「神ご自身に信頼を置く者」となるためです。「神に信頼し、神と共に夢を追いながら生きる」、これがまさに『人間らしい生き方』と言えるのではないでしょうか?

(594) “神の御子が現れたのは、悪魔のわざを打ち破るためです。”

 神は私たち1人1人を素晴らしいご計画をもって創造されました。しかし非常に残念なことに、すべての人にそのご計画が実現しているわけではありません。一体それは何故なのでしょうか?それには2つの理由があります。 ①ある人のための神のご計画が実現するには、その人の同意が必要だから  ・神は私たちを、ロボットのように自在に操ろうとはなさいません。あくまで私たちの自由意志を尊重なさいます。ですから、私たちが自ら積極的に神を求め、神に信頼し、そのご計画のために自分自身を喜んで差し出すのでなければ、私たちの人生に対する神の最高の計画は実現には至らないのです。 ②神の計画の実現を好まない「悪魔の力」が人間の目をくらませているから  ・この世には、人が神に近づくことを邪魔しようとする「悪魔の力」が働いています。悪魔は神に打ち勝つことはできませんが、人間よりは遥かに勝っています。悪魔は人間を力づくで滅ぼそうとはしませんが、人間の欲を巧妙に刺激して、神から目をそらさせるのです。悪魔が最も成功している作戦は、人間に「悪魔なんていない」と思わせることです。ですから悪魔はまるで『透明人間』のように、まんまと人間をだまし、その思いを神様から遠く離れた方向へと、日夜追いやっているのです。  イエスが『神の子』として地上に現れたのは、私たちに神の存在を思い起こさせ、神との関係に生きるようにと私たちを招くためです。イエスが十字架で死んで、よみがえられたのは、「自分には悪魔の最大の武器である『死』というものさえも、打ち破る力がある」ということを、私たちに示すためです。このイエス・キリストが地上に来てくださったことを祝うのが、『クリスマス』の真の目的なのです!

(593) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 私がクリスチャンになったのは大学生の時ですが、それ以前から『クリスチャン』という存在に対して(実際に会ったことはありませんでしたが…)何となく好感を持っていました。まあ「『クリスチャン』って良い人な気がする」という程度ですが。どうしてそう感じていたのか思い出してみると、たぶん「きっとクリスチャンは『良いこと』をしていないと神様に叱られるのだろう」と考えていたような気がします。しかし、そうではないことが、自分がクリスチャンになってみて、よぉく分かりました。  『クリスチャン』が人々に好印象を与えるのは、「良いことをしないと救われないので、一生懸命にガンバっているから」ではなく、むしろ「自分のようにろくでもない人間が、『神からの一方的な恵み』によって救われたので、ただ嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいで、ついつい神に喜ばれることをしてしまう」ということなのです。  またある人は、「『クリスチャン』の人たちは、どうして『布教活動』をするのだろう?何か『ノルマ』のようなものがあるのだろうか?」と感じているかもしれません。これも大きな誤解です。『クリスチャン』には、『ノルマ』のようなものは全くありません。彼らが人々に「キリストによる救い」を宣べ伝えるのは、自分が受け取ったその『救い』があまりに素晴らしいからです。  私はラーメンが大好きです。日本に一時帰国するたびに「美味しいラーメン屋探し」をします。最近ではこのニュージーランドにもかなり高水準のラーメン屋が出現して来ました。こうなると私は黙っていられません。まず自分で食べて確かめてから、「これは美味しい」と感じたなら、ついつい友人たちに「美味しいラーメン屋を見つけたぞ~!」と宣伝しまくります。それが皆のためになると固く信じているからです。『クリスチャン』が他の人々にキリストを伝えようとするのも、全く同じ理由なのです。  ここまで聞くともしかすると、「『キリストの救い』がそんなに素晴らしいものならば、神様はどうしてもっとダイナミックな形で人々に『無理にでも信じるように』させないのだろうか?」と感じる人もいるでしょう。きっと神がそのようにはなさらないのは『私たちの自由意志』を尊重されるからだと思います。神が望んでおられるのは、単に私たちが「神の救いを信じること」ではなく、「私たちと『愛の関係』に結ばれること」なのです。『真実の愛』は「強制されること」によっては培われません。そのため神様は私たちに(聖書などを通して)必要な情報だけは与え、あとは私たちがご自身の愛に気付いて振り返り、歩み寄って来るのをひたすら待っておられるのです。  あなたも、この『神との愛の関係』に結ばれて、日々を歩んで行きたいとは思いませんか?

(592) “イエスは、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。”

 皆さんは『ストラディバリウス』というバイオリンの機種をご存知でしょうか?「世界最高峰の音色を生み出す名器」と呼ばれ、有名なバイオリニストや世界の資産家たちが競って手に入れようとするこのバイオリンは、最初『アントニオ・ストラディバリ』という貧しいバイオリン職人によって製作されました。アントニオはとても貧しかったので、他の人々が使うような立派な材木を手に入れることができず、近所のさびれた船着き場を巡りながら、水浸しになっている木材の中から使えそうなものを拾って、きれいに洗って乾かし、バイオリンとして仕立てていたのです。  どうしてそのような、いわば「廃材」から『名器』が生まれたのでしょうか?調べによると、海辺で水浸しになっている間に微生物が木材の中に入り込み、微生物には食べられない「固い繊維質」だけを残して木材の中身が食い尽くされていたことが、かえって「美しい反響を生み出すバイオリン」を生み出す結果となったのです!  もしかして皆さんの中にも「自分は何も取り柄がなくて、生きている価値もないつまらぬ存在である」と思っておられる方がいるかもしれません。しかし『神の御手』にかかればそんなことはありません!この天と地を創造され、あなたをこの地上に生み出された神様は、あなたをこよなく愛し、傷ついた心を癒し、辛い過去や苦々しい思い出を洗い流して、美しい音色を生み出す存在へと生まれ変わらせることがおできになる方です。  あなたも、この大いなる『神の愛の御手』に、自分の人生を委ねてみませんか?

(591) “夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 聖書を深く読んで行くうちに、『関係』というものが重視されているという事が分かってきます。それは主に「神と人との関係」、そして「人と人との関係」などです。そしてこの2つが微妙に結びついていることも見えてくるのです。  また聖書が語る『人間関係』の中で最も崇高で高い基準が要求されているものは、『夫婦関係』です。どれくらい崇高かというと、「夫婦関係が壊れることは、『自分が神に造られた存在である』という自己認識が破綻することである」というほどです。『夫婦関係』は、単なる「人間関係の1つ」ではなく、「肉体的、精神的、かつ霊的な親密さを要求するもの」であり、人生のエネルギーの全てを尽くす価値があるほどの『関係』なのです!  このような「親密で強固な関係」というものを形造る上でどうしても必要な要素は『愛と信頼』です。これらはどちらも「自然発生的に生まれるもの」ではなく、意識的な日々の努力や決断によって育まれるものです。相手の最善を願って、そのために自分ができる努力を惜しまない。また、相手の善意を信頼し、その善意に誠意をもって全力で応えようとする。夫婦が互いにこれらに怠りなく務めているなら、神は私たちの夫婦関係を祝福せずにはおられない、神とはそういうお方なのです。

(591) “あなたの愛する妻と生活を楽しみなさい。”

 3組に1組の夫婦が『離婚』という結末に至ってしまうという現代ですが、その多くの原因が「結婚生活というものに飽きてしまったから」というものだそうです。  多くの人々は「子供の教育」「自分のキャリア」また「将来のための貯蓄」というものには一生懸命『投資』しているにもかかわらず、それらの基盤となる『結婚生活』にはあまり『投資』してはいないのではないでしょうか?結婚生活が進んで日々の生活に慣れて来るにつれて、私たちには時間やエネルギーに余裕が出来てきます。そして何故かその『余裕』を「更に2人の関係を高めたり深めたりすること」には使わずに、「不倫・ポルノ・ゲーム」など、ひまつぶしのために浪費してしまうのです。  「夫婦関係をより強固なものにする」とは、それほど難しいことではありません。1つの良い例は「毎晩食事を共にして、その日にあったことを分かち合う」というようなことです。『愛する』とは、言わば「相手に興味を持つこと」であり、相手が今日1日をどのように過ごしたのかを共感しながら聞くことから始まります。また時には一緒に公園を歩いたり、映画を観に行ったり、素敵なレストランで食事をしたりするのも良いでしょう。(ちなみに私たち夫婦は毎週デートしています!)  聖書は「お互いの成長に役立つことを追い求めなさい」とあります。ちまたには様々な「OOコース」や「OO教室」のようなものがあったり、スポーツジムやスイミングプールなどもあります。それぞれが知的・肉体的に自分を磨き、その日その日の成果を分かち合い、称え合う。そのような「結婚生活への『投資』」をすることは、人生の『幸福感』を豊かにする大切な秘訣だと言えるでしょう。

(590) “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”

 キリスト教で言われる『救い』をひと言で言うなら、「罪の赦しと永遠のいのち」です。ところが残念なことに、この『罪』という概念が正しく理解されないがために、しばしばキリスト教に対する誤ったイメージを抱かれてしまうことがあります。  思うに、ほとんど全ての人は「良いことをしたい」と思っているのではないでしょうか?ところがついつい私たちは「自分中心の考え方」や「その時の都合」などを理由に、いわゆる「良くないこと」をしてしまいます。聖書はこのような私たちの傾向性を『罪』と呼んでおり、それは私たちが「神に背を向けて歩んでいるからだ」と教えているのです。  私の友人で癌を患っている方がいます。癌細胞は放っておくと次第に患者の肉体を蝕んで行き、最終的には『死』に至らしめます。ですから現代医学では「抗がん剤治療」や「放射線治療」などによって、何とかこの癌細胞を撲滅しようとするわけです。  同じように、私たちの『罪』は癌細胞のように私たちの人格を次第に蝕んで行き、最終的には「死と滅び(神との永遠の断絶)」へと追い込むのです。キリスト教が提供する『救い』(いわば『特効薬』)とは、この「罪がもたらす死と滅び」からの救いであり、それは神が私たちの罪を身代わりに負わせるために遣わされたひとり子「イエス・キリストの十字架のみわざ」を『自分の事』として個人的に信じ受け入れることから来るのです。これは「人類すべて」にとって必要な『救い』であり、また「信じる者は誰でも」受け取ることのできる『救い』なのです!

(589) “わたしは、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。”

 聖書の神は私たちを「永遠の真実の愛をもってあわれむ」と約束しておられます。『永遠』とは、単に「いつまでも」という意味ではなく「初めもなく終わりもなく、ずっと」ということ。天地創造の神は、私たちの理解を超えて偉大なお方です。  このお方は私たちが生まれる前から私たちの事をよぉく知っており、外面的なことだけでなく、内面的な葛藤や、直面している誘惑、弱さや醜さなども全てご存知の上で「永遠に真実の愛をもってあわれむ」と言われるのです。私たちはしばしばこの神を『人間的な基準』で推し測ってしまい、「自分が良い子でいる間は神はあわれんでくださるが、道を外れたり、失敗したりすると見捨てられる」と思いがちです。しかし確かなことは、私たちには決して「神を驚かせたり、ガッカリさせたりすること」はできない、ということです。何故なら神はそれら全てをあらかじめご存知だからです。  では『神のあわれみ』とはどのようなものなのでしょう?単に「可哀そうだと感じる」ということでしょうか?そんな薄っぺらいものではありません。『神のあわれみ』とは、私たちの弱さや失敗を全てご存知の上で「やがてキリストの似姿へと変えられて行く」という崇高なご計画に対する大いなる期待に基づいた『あきらめることのない』あわれみです。神は、救い主イエス・キリストを通してご自分に近づいてくる者たちを、常に全力でサポートし、何度でも立ち上がらせ、決してあきらめることなく、私たち1人1人が「神の偉大さを表現することができるような人生」を歩むことができるようにと導き続けてくださるのです。

(588) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”

 『信頼』というものは、人間関係を構築する上で最も重要な要素の1つではないでしょうか?ところで皆さんは「どのような人」を『信頼』することができますか?「良い人」?「正直な人」?  「良い人」にはつい信頼したくなります。事実多くの人は信頼を勝ち取るために、人々に対してできるだけ良い態度で接しようとするでしょう。ただ、そこには1つのワナがあります。というのは、「良い人」は、全ての人に良い態度で接しようとするがあまり、「あっちを立てればこっちが立たず」という状況にはまり込んでしまうことが多いのです。そのために結果として「多くの人の信頼を裏切ってしまう」という結末を迎えてしまうことがあります。誰にでも良い態度で接する人には気を付けなければなりません。  では「正直な人」はどうでしょう?「正直な人」になら信頼できそうな気がします。しかし『正直であること』は反面「融通が利かない」という面があります。いわゆる、その場を和ませるような「噓も方便」が通用しないのです。つまり、こちらに全く噓偽りがない限りは強い味方なのですが、場合によっては『最強の敵』にもなりかねない、ということです。  真に「信頼に足る人」は『誠実(英語でFaithful)な人』です。この『誠実さ』とは、言い換えるなら「決して約束を破らない」という『決死の覚悟』であり、いわば教会で結婚式を挙げる時に新郎と新婦が誓う「健やかな時も病む時も…」に値する、互いの間の『献身(コミットメント)』です。周囲の状況に左右されない、そしてたとえ他の誰かに迷惑をかけたとしても、「この人のことだけは裏切らない」という態度、これこそ「夫婦関係」「大切な友人関係」「職場での仲間」などの間に必要とされている『信頼』を生み出すのです。  聖書は「神は誠実であり、真実なお方である」と教えています。これは「私たちが神に対して正しい態度を取っている限り…」などという条件付きではなく、「たとえ私たちが神に対して不真実であっても」という、『無条件の誠実さ』なのです。この誠実なお方が、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束してくださっているのです。

(587) “イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。”

 イエスと12弟子たちの地元は『ガリラヤ湖』という湖の周辺であり、弟子たちの何人かは漁師でした。なので彼らは移動手段(特に湖の対岸へ行く場合)として「釣り舟」を使うことがよくありました。  ある日イエスは弟子たちに「舟で向こう岸へ行こう」とおっしゃり、皆で舟に乗り込み、対岸へと向かいました。ガリラヤ湖は直径20キロメートルほどの湖でしたが、地形上の理由で時々嵐に襲われることがありました。この時も同様の事が起こりましたが、イエスは疲れていたのか、船尾でぐっすり眠っていたようです。弟子たちはイエスの手を煩わすことなく何とか手を尽くして向こう岸まで辿り着こうとしましたが、万策尽きてイエスを起こし、「私たちを助けてください!」と懇願しました。するとイエスは起き上がり、風と波を叱りつけると、湖はそれまでの嵐がウソのように静まり返ったのです。弟子たちが改めてイエスの権威と力に圧倒されている時、イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたの信仰はどこへ行ってしまっていたのですか?」  この出来事は私たちに1つの事を教えてくれます。私たちの人生にも『嵐』と思えるような困難がたびたび襲って来ますし、私たちはその度に『苦しい時の神頼み』として神に助けを求めようとします。クリスチャンとて同様です。ただ、クリスチャンである人たちには、そうでない人たちと少しだけ異なった点があります。それは「キリストが今日も自分と共にいてくださっている」ということを知っているということです。特に上記のストーリーにおいては「向こう岸に行こう」とおっしゃったのは他ならぬイエスご自身だったのです。イエスはご自身がおっしゃったことは必ず成し遂げるお方です。この時イエスは弟子たちに「わたしとわたしの言葉がいつもあなたたちと共にあるということを、決して見失うな」とおっしゃりたかったに違いありません。  「神が共におられる」ということ、そして「神は必ず言われたことを成し遂げる」ということをいつも心に握りしめている、これが私たちの人生に『揺るがない希望』を与えるのです。

(586) “この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”

 『希望』という言葉から思い浮かぶイメージは、「欲しいもの・やりたいこと」という人が多いのではないでしょうか?「第1希望」「第2希望」などのように『願い』の強い順に並べ立てることが多い時代です。「あなたの希望は?」と訊かれて、「別に今は欲しいものがないんだよね~」などと答えることもあるかもしれません。  しかし実際には、『希望』というものはもっとずっと大きなものであり、私たちが生きる上での強力な支えとなるものです。もし『希望』がなければ、私たちの人生は味気ないものとなり、喜びや興奮は消え、優しさも失われて行きます。  聖書は「真の希望」は私たちの創造主である『神』から来る、と言っています。神は私たち1人1人を目的を持ってお造りになり、本来「永遠に生きる存在」として生み出されました。私たちはこの神に出会うことによって「真の生きる目的」を見出し、「神を求めて生きる者を、神はどんな時にも守られる」ということを知るのです。  「文明の発達」や「便利機器の開発」は確かに世の中を便利にし、生産性を向上させましたが、同時に人間から『創造性』や「より良い未来を夢見て、今の困難を乗り切ろうとする忍耐や努力」というものを奪ってしまっているような気がします。「神は目に見えないし、非現実的」と考えるかもしれませんが、いつだって人間に『希望』を与えて来たものは「目に見えないもの」だったのではないでしょうか?そして「愛と憐れみに満ちた聖書の神」は、その誠実さと人に対する情熱の故に、彼に信頼する者に「困難の中でも前に進もう」とさせる『希望』を与えてくださる方なのです。

(585) “わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。”

 皆さんは「真の暗闇」を体験したことがありますか?私の生まれ故郷に「子供冒険の森」という児童施設があって、フィールドアスレチックなどの様々な設備があるのですが、その中に『勇気の洞窟』というものがあります。そこは長さたった30~40メートルの洞窟なのですが、入口と出口のドアを閉めてしまうと、わずかな光の差し込む隙間さえない『真っ暗闇』なのです。私は大人になってから子供たちと一緒に行ったのですが、正に「息をのむ体験」でした。1歩前に進むのさえおっかなびっくりで、出口に至った時に「『光』というものの有難さ」が身に沁みたのを覚えています。  人生には「視覚的な暗闇」だけでなく、「精神的な暗闇」もあります。実際、こちらの方が更に扱いにくいものです。何か大切なものを失ってしまった時、困難な状況が続いて疲れ果ててしまった時など、肉体的な目は見えてはいても、生きて行くための希望は見えない、そのような『人生の暗闇』の中で、私たちは何を頼りに生きて行けば良いのでしょう?  イエス・キリストは「わたしは『世の光』だ」とおっしゃいました。夜に帰宅して暗い部屋の照明のスイッチを入れれば暗闇が逃げ去って行くように、私たちの人生にイエス・キリストを迎えるならば、暗かった私たちの心に『光』が灯って、潮が引いて行くように「心の中の暗闇」が拭い去られて行くのです。  『勇気の洞窟』の中を進んで行った時、普段は気付かなかった『光』というもののかけがえのなさを痛感させられたと共に、「誰かが一緒にいてくれる」という心強さも経験することができました。暗くて何も見えない中で「お父さん、何も見えないよ~!」と不安そうに声を上げる子供たちに、「大丈夫。お父さんがここにいるよ!」と声を掛け合いながら、互いに励まし合って出口に辿り着くことができました。同じように、あなたがイエス・キリストに人生を委ねて生きるなら、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束されたキリストが『光』となってあなたの人生を照らし、共に進んで行ってくださるのです。

(584) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”

 まず質問です。もしあなたがある企業の人事課で働いており、新規に採用する社員を1人だけ選ぶための面接をしているとします。最終面接に残ったのはとても対照的な2人の人物でした。1人は能力的には「即戦力」として働ける技術を持っている若者ですが、経歴を見ると、これまでいくつもの会社を数カ月で解雇になっており、見るからに態度も悪そうです。もう1人は最近まで銀行員として20年以上働いてきた中年の男性で、ずっと介護してきた母親を最近看取り、長年の夢であった希望の職種である当企業に思い切って応募してきたという、技術的には1から指導しなければならないど素人。さあ、あなただったらどちらの人材を採用しますか?  もちろん、その時の会社のニーズにも大きく左右されることでしょう。「即戦力」を必要としているのか、はたまた「育てるのに多少の時間はかかっても、忠実に働いてくれる人材」が欲しいのか?もし経済的に余裕があるならば、両者とも仮採用して、しばらく様子を見るということもできるかもしれません。しかし状況が許さないとすれば、一体どちらの人材を採用することが適当なのでしょうか?  1つ言えることは、「技術ならばある程度『教育』によって養うことができるけれど、性格は簡単には変えられない」ということです。『責任感』『時間厳守』『礼儀作法』『仕事への情熱』『愛社精神や同僚との関係』などなど、単なる『能力』以外にも、共に働く人材に求められる要素は数多くあります。私なら「後者の人材」を選ぶような気がします。  私たちをこの世に送られた神様は、この地上において私たちと共に成し遂げたい多くの「みわざ」をお持ちです。ではそのために私たちが「1日も早く技術を磨くこと」をお望みでしょうか?いいえ、むしろ神様は私たちの内側に「ご自身のわざを担うべき品性」を培うことに熱心なお方です。聖書はその「第1の資質」として『神を恐れること』を挙げています。この『恐れる』とは「怖がる」ということではなく、「畏れ敬う」という意味です。神の「神たるご性質」を正しく理解し、心からの尊敬と信頼を置くこと、神は私たちの内にそのような態度が培われることをまず第1に願い、日々関わってくださるのです。

(583) “この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。”

 皆さんは、どんな人になら「心から信頼する」ことができますか?正直な人?愛情深い人?力の強い人?経済力のある人?恐らく多くの人は、相手を信頼する上で、その人の『能力』以上に『誠実さ』を重視するのではないでしょうか?ただ、1つの難しさは、いわゆる『善意の人』ほど「八方美人的」になってしまう傾向があり、そういう人は複雑な人間関係の中で「板挟み」になりやすく、結局約束を守れなくて相手をガッカリさせてしまうことが起こったりするのが世の常です。  それでは、一体どんな人が「信頼に値する」のでしょうか?もしかしたらそれは「自分に対して特別な思い入れを持ってくれている人」なのかもしれません。たとえその人が「皆に信頼されるタイプの人」でないとしても、自分の事だけは『特別扱い』してくれる。たとえ他の人をガッカリさせることはあったとしても、お互いの間だけは信頼を保ち続けることができる。そんな人を1人でも持っているなら、その人はきっと安定した心で日々を暮らせるに違いありません。  私たちを造られた「天の父なる神」は、私たち人類を『十把一絡げ』で愛しておられるわけではありません。1人1人に心をかけ、『特別に愛して』くださっているのです。そしてこのお方は「愛と善意」に満ちておられ、全知全能であられ、しかも決してあきらめることもないお方なのです。彼は「必ず約束を守ることのできるお方」であり、「自分自身を偽ることのできないお方」です。それ故このお方は「私たちからの『信頼』」を常に求めておられます。  身近に「心から信頼できる存在」がいる人(私と妻の関係のように…)はとても幸いです。しかしたとえそのような存在が1人もいなかったとしても、天地万物の創造主である『神』は、あなたにとって「信頼に足るお方」なのだということを、ぜひ覚えていてください。

(582) “感謝の心を持つ人になりなさい。”

 ベトナム戦争の時代に、アメリカ空軍にチャールズ・プラムというパイロットがいました。彼はとても優秀な戦闘機パイロットでしたが、その76回目の出動の時にとうとう敵地でミサイルに撃ち落され、命からがらパラシュートで脱出して、その後の6年間を敵の捕虜として過ごしました。彼は戦後釈放され、帰国後アメリカ空軍にて若いパイロットたちに講義するようになりました。  ある日チャールズが妻と2人でレストランで食事をしていると、近くのテーブルで食事をしていた男性が彼を見かけて声をかけてきました。「もしやあなたは、ベトナムで戦闘機パイロットをなさっていたプラムさんではありませんか?」 チャールズは「はい、そうですが」と答えました。男性は感動した面持ちで続けました。「やっぱり!あなたはいつも『キティ・ホーク』という空母から出動されて、多くの功績をあげた後、とうとう撃ち落されましたよね?」 チャールズは驚いて尋ねました。「一体どういうわけで、あなたはそんなに詳しく私のことをご存知なんですか?」 その男性は答えました。「実は当時私は『キティ・ホーク』で戦闘機のパラシュートを設置する仕事をしていて、あの日もプラムさんのパラシュートを整備したんです。今ここでこうしてお会いできたということは、あのパラシュートはちゃんと役割を果たしたんですね!」  チャールズは帰宅した後、その晩は興奮して眠れませんでした。その男性のことが頭から離れなかったのです。「私は彼が『キティ・ホーク』で働いていた様子を全く知らない。きっと船上で何度もすれ違っていたはずなのに、挨拶すらした覚えがない…」 チャールズは、船内の奥の方で黙々とパラシュートを整備し、ちゃんと機能を果たすかどうかを何度もテストし、祈りを込めて機体に装着している名もない多くの「パラシュート整備士たち」のことに思いを馳せるようになりました。そして若いパイロットたちに講義する時、毎回「キミたちは、自分のパラシュートを整備してくれている人の名前を知っているか?」と尋ねることにしたのです。  私たちの日々の生活も、多くの人々の助けと協力で成り立っています。その中には名前も知らない、挨拶をしたこともない人がいるかもしれません。「しなければならない事」に追われてばかりいないで、1日に何度かは立ち止まって周囲を見回し、今日生かされていること、今の役割に全力を注げることを感謝してみませんか?

(581) “全き愛は恐れを締め出します。”

 精神科医たちの調べによると、世の中には約2000種の『恐れの感覚』というものが存在するそうです。ところが大変興味深いことに、彼らの調査によると、私たちが生まれる時から備わっている『恐れ』というものは、「落下に対する恐怖」と「騒音に対する恐れ」の2つだけなのだそうです。すなわち、その他のすべての『恐れの感覚』というものは、私たちが人生の中で学んで行くわけです。ということは逆に言うなら、私たちは多くの恐れを「学ばないでも済む方法」もあるはずなのです。  私たちの人格は日々の経験や習慣などによって形成されますが、その『決定的な特徴』というものは(良いものであれ悪いものであれ)多くの場合ほんの数えられるほどの体験によって決定づけられるのです。そしてそれらの『特別な体験』は私たちの心に「自信や不安」「希望や臆病さ」「信頼感や恐れ」などの種を心の深い部分に植えつけるのです。  聖書は「恐れを締め出すのは『全き愛(私たちに対する創造主なる神の愛)』である」と教えています。『神の愛』は「無条件」であり「変わることのない」無限の愛です。そしてこの『愛の神』との関係が生み出すものこそ、「『恐れ』からの解放」なのです。この神への信仰を育むことが、「不要な恐れを捨てて行くプロセス」となるのです。言葉を換えるなら、「『神を正しく恐れること』さえ学べば、他のものを恐れる必要は無くなる」わけです。  聖書にある『神の約束』の中でも最も偉大なものの1つに次のようなものがあります。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。残念なことに「人の約束」は場合によっては破られてしまうことがあります。しかし『神の約束』は決して破られることはありません。神とはそういう方なのです。

(580) “私たちの資格は神から与えられるものです。”

 「自分はそれにふさわしくない存在である」という感覚は多くの人が抱くものではないかと思います。一見『謙遜』にも聞こえるこの感覚は、言い換えるなら「自分はどんなに頑張っても、一定の基準に達することはできない!」という不健康な劣等感に根ざしています。多くの場合このような感覚は幼い頃に親や先生などの影響力を持つ立場の人々が、他の人たちとの比較によって誤った評価を下したことが尾を引いています。  私たちはどのようにしてこのような「誤った評価による不健康な自意識」から抜け出すことができるでしょう?次の2つのことを知ることが助けになると思います。  ①『創造主なる神』と出会うことなしに、自身の真価を見出すことはできない  ・この世における評価のほとんどは『相対的評価』であって、他の何かと比べることによって計られています。私たち自身も「他の誰か」と比べることによって一喜一憂するわけですが、それらは本当の自分の価値ではありません。本来私たちは神によって1人1人ユニークに造られているので、『相対的評価』ではなく、「神による『絶対的評価』」によって自分の価値を見出すことのできる存在なのです。  ②自身の真価を発揮するために、神から注がれる力によって、神のご計画と向き合う  ・神から離れた状態のままだと、私たちはいつも「自分が何か立派なことを成し遂げることによって自分の価値を見出そう」としてしまいます。それ故に失敗を重ねることが多く、劣等感にさいなまれることになるのです。神が私たち1人1人をユニークな存在として造られたのは、それぞれに「特別な何か」をさせるためにデザインされたのです。その『神のご計画』を探り、見出し、その計画を成し遂げるための「知恵や力」を神に求めつつ歩んで行くなら、誰とも比べる必要のない『自分の真価』を発揮しながら、大いなる興奮と喜びを持って生きることができるのです!

(579) “子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。”

 「麻薬中毒」「アルコール依存症」など、人の肉体を害する習慣はいくつもありますが、人の「心の思い」を破壊する習慣もたくさんあります。『憎しみ』『ねたみ』『許せない心』、そして『罪責感』などです。これらのものは目に見えず、しかも少しずつ私たちの心を蝕んで行くので、なかなか気付かなかったり、軽視してしまいがちで、かえって危険だとも言えます。  聖書はこれらの『心の病』に対する解決を数多く与えています。特に『罪責感』に関して、人のすべての『罪』は根本的に『神』に対するもので、神との個人的な出会いを体験することで解放されることができる、と教えています。では、何故「神との個人的な出会い」が『罪』の解決をもたらすのでしょうか?  1人の青年が「強盗と傷害の罪」で逮捕され、裁判によって懲役判決が下されました。判決を受けガックリ肩を落として退場して行く通路の傍らで、彼の母親が涙を流し肩を震わせながら彼を見つめています。その母親の姿を見て、彼は思わず「お母さん、ごめんなさい」とつぶやきます。きっと皆さんは、こんな光景を容易に目に浮かべることができると思います。  しかし、冷静に考えてみると、おかしなものです。この青年の「強盗と傷害」による被害を受けたのはこの母親ではなく、別の第3者です。その被害者に対して「ごめんなさい」と謝るならともかく、なぜ彼は自分の母親に誤ったのでしょう?その理由はたった1つ。「自分を深く愛してくれている人に対して、その期待を大きく裏切ることをしてしまった」という思いからです。  私たちを形造り、この世界に送り出してくださった『神』は、私たち1人1人を深く愛してくださっています。そして私たちにこの世界で「互いに愛し合う者」として生きて欲しいと強く願っておられます。そんな私たちが誰かを傷付けたり、裏切ったりして『罪責感』を抱く時、それは単に直接的な被害者に対する申し訳ない思いだけでなく、心の奥底で「創造主なる神の期待を裏切ってしまった」という悲しみに深くさいなまれているのです。そしてイエス・キリストは、そんな私たちを「罪と罪責感」から解放するために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。

(578) “人はうわべを見るが、主は心を見る。”

 現代ほど「目から入って来る情報」が多い時代はかつてなかったでしょう。今から100年ほど前にテレビが発明されるまでは、ニュースやコマーシャルはすべてラジオから放送され(『活動写真』なるものはありましたが…)、電話がある家庭でさえ少なかった時代でした。それが現代ではインターネットの発達により「ラジオを聴く」という習慣はめっきり減り、携帯電話でさえ、実際に音声として会話するよりも『ライン』などで文字を見ながら会話することが多いように思います。「人のことばに耳を傾ける」ということも減ってきてしまっているのではないでしょうか?  このように「目に見えるもの」によって私たちの生活が支配されてしまうと、私たちにとってとても重要な「人の心を察する」とか、「心を込めて物事を行う」などの、目には見えない『私たちの心』というものを見失ってしまう傾向へと陥ってしまう恐れがあるように思います。加えて現代の『スピード社会』は、私たちが「ゆっくり座って落ち着いて考えを思い巡らす」ということを奪い、「浅はかな考えに基づいて表面だけを取り繕う生き方」へと人間をおとしめて行っているのではないでしょうか?  神は私たちの『肉体』だけではなく、『心』をも造ってくださいました。そして神は私たちの「外側の行為」以上に「内面的な心の動き」に関心を持っておられます。マザー・テレサは、「大きなことを成し遂げるのはそれほど重要ではありません。小さなことを大きな心をもって行う方が重要なのです」とおっしゃいました。『うわべ』ではなく、もっともっと「内側の見えない世界」に注意を払いながら生きるようにしたいものですね。

(577) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 以前、「子供たちは親の言う事は行わないが、やる事は真似をする」という話をしました。ここで気を付けなければならないのは、「子供が見ているのだから、失敗してはいけない!」と肩に力を入れ過ぎないことです。失敗しない人間などはいません。むしろ「失敗しても大丈夫」という寛容な心を育てることの方が大切かもしれません。  子供たちに見倣って欲しいのは「私たちの行いそのもの」というよりも、むしろ「生きる姿勢(態度)」です。すなわち、「失敗しない事」ではなく、「失敗してもくじけない態度」こそ、私たちが示すべき模範なのです。  日本語にも「七転び八起き」ということわざがありますが、大切なのは「倒れない事」ではなく、「何度倒れても起き上がる事」です。倒れる回数よりも起き上がる回数が1度だけ多ければ、その人は『人生の勝利者』と呼べるでしょう。実際「転ぶ経験」は私たちをより強く、賢くするのです。  同時にぜひ心掛けたいことは「失敗をくよくよしない、むしろ笑い飛ばすくらいの余裕」です。子供というのは元来陽気で楽観的です。それが徐々に引っ込み思案になったり臆病になってしまうのは、もしかすると何かを失敗してしまった時に周囲の大人からひどく叱られてしまった経験を重ねたからではないでしょうか?よくよく考えてみるなら、ほとんどの『失敗』は、いのちの危険でも冒さない限り、あまり大した問題ではないものです。  家の中をキチンとしておきたい、子供たちの身なりを整えておきたい、というのが母親たちの共通の願いだとは思います。けれども、それよりももっと偉大なことは「失敗を恐れず大胆に新たな事に挑戦し、自身のフルサイズの人生を歩もうとする勇敢な人間」を育てることではないでしょうか?

(576) “私たちは…、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”

 パレスチナ地方のあいさつの言葉に『シャローム』というものがあります。朝でも昼でも夜でも使えて、出会った時でも分かれる時にも交わすことのできる便利なあいさつで、直訳の意味は『平和・平安』、そして「あなたに神の平安がありますように」という祝福の意味が込められています。  実はこの『シャローム』には、もう1つの意味があります。それは「人と人との関係に関すること」で、互いにこの『シャローム』を交わすことで、「あなたと私との間に『平和』がありますか?」と問いかけているのです。すなわち、互いの間で「わだかまり」はないか、「負い目があったり、恨みを抱いたりはしていないか」と、自分自身の心を探る意味合いもあるのです。そして万が一何らかのわだかまりや、神の前に公明正大でない思いを見出したなら、すぐにその場で和解をすることが期待されているのです。  この「関係における『平和』」の概念は、『神』と「私たち人間」の関係における平和を象徴しています。私たちは始祖アダム以来、己の『罪』のゆえに神との関係が壊れていましたが、神がその壊れた関係を修復するために『自らのひとり子イエス・キリスト』を「身代わりのいけにえ」としてささげてくださったために、今や私たちは何の「わだかまり」もなく、大胆に神の許に進み出ることができるのです。万が一我々の側で「自分は神にふさわしくない生き方をしている」と思い当たることがあるなら、この『豊かに赦してくださる神』に信頼し、その自分の負い目を告白して悔い改め、再度神の前に出て行くことができます。  神がイエス・キリストによって成し遂げてくださった、この『大いなる和解のみわざ』を覚えつつ、日々『シャローム』を交わしながら、人々との『平和』を保って生きて行きましょう。

(575) “天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 神を信じている者であろうとなかろうと、自分に都合が悪いことが起こったり、理性や知性では理解できないような不条理に出くわしたりすると、私たちはつい、「神様、どうして?!」と叫んでしまうことがあります。あたかも「今自分がこんな目に合っているのは、神様のせいだ!」とでも言いたいかのように。  では、実際はどうなのでしょう?神様はそんな意地悪な方なのでしょうか?または、私たち自身が、そんな災難を身に招くような悪行をした報いなのでしょうか?そんなことは決してありません!私たちがそんな風に考えてしまうのは、『神』という方を全然理解していないからです。  神は、私たちに対するご自身の深い愛を、『ひとり子イエス・キリストの十字架における身代わりの死』という形で、誰にでも分かるようにはっきりと表現してくださいました。もはや神が私たちに「バチを当てる」とか、「意地悪をする」などと考える余地はないのです。神は私たちへの深い愛のゆえに、私たちに対して「最善以下のことはおできにならない方」なのです。  では、「思いもよらない災いやアクシデント」に見舞われた時、私たちはどう考えれば良いのでしょう?少なくとも、そのような出来事が私たちの人生に起こることを「神が許された」ということは事実です。だとすれば、私たちは神に次のように問うことができます。「神様、あなたはこのことを通して何をなさろうとしておられるのですか?」 または、「神様、この出来事によって、あなたは私に何を教えようとしておられるのですか?」と。人生に起こる『困難』は、私たちを神から引き離す要素なのではなく、かえって神に引き寄せられる機会として用いられるべきなのです。

(574) “この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた。”

 皆さんは「キリスト教とは、どのようなものだと思いますか?」とか、「イエス・キリストとは、どんな人物だと思いますか?」と尋ねられたら、どのようにお答えになりますか?恐らく多種多様な回答が返って来ると思います。まあ大抵はポジティブな回答なのではないかと期待するのですが、以前私が大学構内で上記のようなアンケート調査をしていた時、1人の学生は「イエス・キリストをどんな人物だと思うか」という問いに対して、「大ぼら吹き」と答えていました。なかなか興味深い答えだと思います。  聖書は、「イエス・キリストは『恵みとまこと』に満ちていた」と描写しています。『恵みとまこと』をもっと身近な言葉で言い換えるなら、『愛と正義』みたいな感じでしょうか?ある意味、日本ドラマの主人公のような存在かもしれません。最近は医療系ドラマ、刑事ドラマ、弁護士ドラマなどが流行っていますが、大抵の主人公は、正義感に燃え、愛情深く、加えてイケメンと3拍子揃っています。しかし実際の世の中では「公平を期すために冷徹」だったり、「愛情深すぎて、チョッピリ優柔不断」だったりする人が多いのではないでしょうか?  しかしイエス・キリストは、正にその両方を、私たちが考える基準よりずっと高いレベルで兼ね備えていました。彼の『愛』は相手を甘やかし堕落させてしまうような愛ではなく、相手のポテンシャルを鋭く見抜いて、それを最大限に生かせるようにと、時には厳しく時には柔和に指導し、そのポテンシャルが花開くことをじっと待っていてくださる『愛』です。また彼の『正義』は、相手をいたずらに断罪しグゥの根も言わせないような「冷酷無比」なものでも、逆に相手に隙を見せてみすみす取り逃がしてしまうようなものでもありません。相手が自分の過ちに気が付くまで徹底的にその非を指摘し、それに気づいて悔い改め再出発しようとすることを期待しつつトコトンさとしてくださる『正義』なのです。  神の願いは、私たち1人1人がイエス・キリストを通してこの『愛と正義』(恵みとまこと)を体験し、神の助けをいただきながら、私たちも同様の『愛と正義』をこの世界で表現して行けるようになることなのです。

(573) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

 親ならば誰しも「自分の子供に最善の道を歩んで欲しい」と願うでしょう。そしてそう願うあまり、多くの習い事をさせたり、より良い学校に進ませようと猛勉強を強要したり、相手が望む前に何でも買い与えたりしたりすることがあるかもしれません。しかし、気を付けなければならないのは、それらの行為が『自己投影』、すなわち「自分が子供の頃には何らかの理由で叶えられなかった事を、自分の子供には(相手が望んでいるかどうかにかかわらず)何とかして与えようとすること」になってはいないか、ということです。  例えば、「自分は子供の頃ピアノを習いたかったのに、親の経済的理由で習わせてもらえなかった。だから自分の子供にはそんなことは起こって欲しくない!」と思うがあまり、子供が望んでいないにもかかわらず『ピアノ教室』に通うことを強要したり、「自分は頭が悪かったので、望んでいた学校へ進学できなかった」との理由で、常に「もっと勉強しなさい!」と怒鳴る親になってしまう。これらの行為は、自分では「子供の最善のためにやっている」と思っているかもしれませんが、実際は『自己満足』にしかなっていないのです。  では、真の『子供のための最善』のために親ができる事とは何でしょうか?2つの事が考えられます。1つ目は「子供のことを日々よぉく観察し、「どんなことに関心があり、どんな点でひと際輝くものを持っているか」を見極め、それを伸ばす努力をしてあげることです。神様は私たち人間を1人1人ユニークにお造りになりました。ですから当然、同じ親から生まれた子供(兄弟)たちも1人1人違います。彼らをじっくり観察し、それぞれにふさわしい援助を与える必要があります。  もう1つは、「親自身が輝いている」ということです。「自分の身を削りながら子供のために尽くす」のは立派に聞こえるかもしれませんが、実は少しも子供のためになっていません。むしろ「自分自身のための時間をしっかりと確保し、自分の趣味や特技を活用して自分を磨き、輝かせている姿」を子供たちに見せつけるのです。よく聞く言葉ですが、「子供たちは親の言うことは聞かないが、やることは真似する」のです。自分の最も身近にいる親が輝いている姿を見たら、彼らも「自分もあんな風になりたい!」と、放っておいても自分を磨こうとするのです。

(572) “子供たちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。”

 聖書は実に多くの「子供を育てる上での知恵」を提供してくれています。ただ、聖書が優れているのは、そのような『良いアイディア』を提供してくれるという点だけではありません。「子育ての知恵」のようなことについて書かれている書物なら世にあり余るほど出版されています。では、聖書の更に優れている点とは、一体どのようなものなのでしょう?  子供がその成長段階で混乱させられるのは、日々の生活の中に『一貫性』や『絶対的な拠り所』を見出せない事です。その原因は私たち「親自身」にあります。私たちが日々忙しく多くのストレスを抱えて生きていると、どうしても「いつも精神的にベストコンディションで子供に接する」ということができなくなります。ある時は寛大に接することができても翌日にはちょっとしたことで叱ってしまったり、自分の都合や気分で『家庭のルール』を破ってしまったり。「子供に最高の教育を受けさせたい」というい理由でせっせと働いて稼いでいるわけですが、その忙しさやストレスが結局、『子供との信頼関係』を壊し、子供たちに「どうせ努力しても無駄だ」と意欲を失わせてしまっているのです。  聖書はそんな私たち(親たち)に、『真に大切なもの』を教え、また与えてくださいます。それは「神との正しい関係から来る『内面的な平和』」です。私たちを大きな愛で愛し、私たちの弱さを知って受け入れた上で知恵と力を与えて導いてくださる『創造主なる神』と共に歩み始める時、私たちは深い心の平安を得、周囲の人々、特に最も大切な隣人である自分の子供たちに対して、穏やかな心で適切に接することができるようになって行くのです。

(571) “あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。”

 北アメリカ大陸を流れる『ミシシッピ川』は世界で最も大きな川の1つであり、その河口の川幅は4キロメートルほどもあります。ところが、その支流の初めの部分は私たちがジャンプして渡れるほどの幅しかありません。同様に、どんなに大きな業績やプロジェクトも、始まりはほんの小さな1歩、また1つの決断から生まれるものです。  世界中の教会で唱えられている『主の祈り』という祈りがあります。これは新約聖書の『福音書』の中でイエス・キリストが弟子たちに教えられた、いわば「模範的な祈り」のようなもので、今日多くのクリスチャンたちが暗唱し、祈っています。まあイエス・キリストが「このように祈りなさい」とお勧めになったのですから、当然と言えば当然ですが、実はこの『主の祈り』の次に有名で、多くのクリスチャンたちに愛され、祈られているもう1つの祈りがあります。それは『Serenity Prayer(平静の祈り)』と呼ばれるもので、このような内容です。「どうか神様私に、変えることのできない事象を受け入れる穏やかな心と、変えることのできる事柄を変えようとする勇気と、それら2つを見分けるための知恵とをお与えください。」  この祈りは、ある日曜日に、とある小さな教会で、1人の名もない牧師が礼拝中に祈った祈りでした。この祈りに感動した1人の信徒が牧師のところに来て「今日礼拝中に祈られた祈りを私にも教えてください」と頼んだので、牧師は紙の切れ端にメモして渡したそうです。その祈りが、今や世界中で「真摯に神を求める多くの人々」によって祈られているのです。  「私には大したことはできない」、誰もがそう思います。しかし「だから何もしない」という選択をしないようにしましょう。あなたの小さな行為や決断が、いつ・どのようにして大きく拡がっていくかは、その時には誰にも分からないのですから。

(570) “神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それらは非常に良かった。”

 聖書は、全宇宙を造られた「創造主なる全能の神」を紹介しています。そしてこの『全能の神』は、全宇宙の創造を終えた後で「それらは非常に良かった」と言われました。私たちに人間を含め、この世界にある全てのものは、この神によって素晴らしく造られたのです。  日本人は古来から様々なものを拝んできました。樹齢何百年とも言われる「大きな木」、太古の昔から存在するような「大きな岩」、「美しい山(富士山など)」、そして太陽や星々。これらは神によって「造られたもの」に過ぎませんが、あまりにも美しくて神々しいので、つい「拝みたくなる」のも理解できるような気がします。  ニュージーランドを訪れる日本人の方々が、多くの美しい「大自然の被造物」を目の当たりにし、またあちこちにある『教会』に足を踏み入れることによって『創造主なる神』の存在を意識するようになるようです。「万有引力の法則」を発見した物理学者ニュートンは、「宇宙は大きな聖書である」と言いました。私たちが『聖書』を読むことを通して神と出会うように、『大宇宙の美しさと神秘』に触れることによっても神を見出せると言いたかったのでしょう。  「神は目に見えないから信じない!」とおっしゃる方もいますが、その「目に見えない神」は、私たちの周囲にある「目に見える様々な美しいもの」を通してご自身を証ししているとは言えないでしょうか?

(569) “主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。”

 現代ほど様々な情報が溢れている時代はかつて無かったことでしょう。インターネットの発達により、文字通り私たちは『情報の洪水』の中に生きています。目から入って来る様々な魅力的な画像は、私たちに「不必要な」刺激を与え、「もっと欲しい!もっとこうでなければ!」といった『欲望』や『焦り』を駆り立てます。  私は「情報そのもの」を否定しているわけではありません。ただ、「多くの人々はそれらの情報を正しく取捨選択するためのものさしを持っていない」という危険性を強く指摘したいのです。恐らく大半の情報は「自分に注目を集めたがっている人」、もしくは「何らかの利益をあげたい人や団体」によって発信されています。そしてそれらの情報に刺激されて一喜一憂している私たちはいわば「踊らされている」のです。『いいねボタン』を押してもらえるかどうかを気にしている人たちも同様です。  私たちは一体どこで「正しいものさし」を手に入れることができるのでしょう?聖書は、それは「神を恐れることにある」と教えています。この全宇宙を創造された『唯一の絶対者である神』を知り、自分自身が「その偉大な神のご計画によって生み出された存在」であると自覚する時、私たちの心は平安のうちに定まり、もはや「自分が何を持っているかいないか」「他の人が自分のことをどう思っているか」などということは、大した問題ではなくなってくるのです。  神を『恐れる』とは、「神という存在を怖がること」ではなく、『神』というお方を、聖書が言っている通りの「愛と力に満ち、聖さと慈しみとをもって、私たち1人1人に関わろうとしておられる方」として信じ、人生のあらゆる局面においてこの方を見上げ、この方に頼り、日々心を込めてこの方を見上げながら生きることです。そうすることで私たちは、『情報の洪水』に踊らされることなく平安のうちに生きることができるのです。

(568) “あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。”

 「子供は親の言うことはやらないけど、やることはマネする」とよく言われますよね?親たちにとっては、ある意味「恐ろしい」事実です。では、どのようにして子供たちを『正しい生き方』に導いてあげることができるのでしょうか?  日本人にとって「英語を学ぶこと」は大きな難関の1つです。英語が好きだったり得意だったりする人々でも、1つの大きなハードルは『正しい発音』です。この点で我が家の子供たちはいつも「日本からの他の留学生たち」から羨ましがられていました。ウチの子たちは幼い時から国外で暮らしていたので、何の苦労もなく「ナチュラルな英語の発音」が身に付いていたのです。一方我々親たちは30歳を過ぎてから日本を出発したので、海外生活が20年以上になった今でも「日本語的な英語の発音」から脱することができません(涙)。  『正しい生き方』にも、同じことが言えます。この『発音』に匹敵するのは「家庭の中に満ちている『雰囲気』」です。子供たちは胎児の時から外界の音(声)を聞いており、母親の心の動きをも無意識のうちに察しています。生まれてからベビーベッドに寝かされている時も、ハイハイしている時も、まだひと言もことばを発しないうちから『周囲の雰囲気』を敏感に感じ取っています。「自分は愛されているか」「両親は愛し合い、いたわり合っているか」「家族の間には喜びや優しさが溢れているか」などなど、これらの『雰囲気』は、子供がやがて自分自身で物事を考え決断していく時のための大きな栄養となって行くのです。  結論を言ってしまえば、子供たちを『正しい生き方』に導いてあげるための最善策は、私たち自身が「正しい道」を喜びをもって生き生きと生きることです。そしてそれは私たちが「個人的に『創造主なる神』との生き生きとした関係を保って生きているかどうか」にかかっているのです。

(567) “これらの人たちはみな、…地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。”

 神様を信じて生きるようになると、様々な点でものの見方が変わります。その1つの例が「大胆になる」というものです。私たちはイエス・キリストに対する信仰の故に救われて、この地上での生涯の後に『天の御国』にて永遠を過ごすようになると聖書は教えています。ということは、言わば地上では『旅人』なわけです。日本語に「旅先の恥はかき捨て」という言葉がありますが、たとえこの地上でちょっとした失敗をして恥をかいても、『永遠の生涯』という視点で見るなら、それは大したことではありません。なので、大胆に思い切ったチャレンジをすることができるわけです。  ただ、その一方で「地上の人生だって百年近くあるのだから、そんな挑戦ばかりしてはいられない」という気持ちもあるかもしれません。その通りだと思います。だからこそ、「普段の心掛け(体質づくり)」が重要です。  私がずっと若い頃(20代?)好んでいろいろな人に尋ねていた質問がありました。それは次のようなものでした。「もしあなたの人生があと1年で終わってしまうとしたら、あなたはどうしますか?」 ほぼ全員が何らかの違った生き方をすると答えてくれました。「世界旅行をする」「家族ともっと時間を過ごす」「バンジージャンプに挑戦する」などなど。そんな中、ある方の回答が私の心に強い印象を与えました。それは、「私は常日頃『後悔しない生き方』を心掛けているので、特に変化はありません」というものでした。  私たちは地上では旅人であり、地上での時間は限られています。だからこそ、常日頃から「たとえ明日いのちが尽きたとしても後悔しない、日々完全燃焼する人生」、そんな生き方を1日1日重ねて行けたら、どんなに幸いでしょうか?

(566) “神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。”

 『ソロモン王の秘宝』なるものを取り扱った映画は聞いたことがありますが、『ソロモン王の知恵』を題材にした映画などはあまり聞いたことがありません。実際のところ聖書を見る限りでは、確かにソロモンは多くの財産を所有していたようですが、何よりも彼について話題にされているのは、その「驚くべき知恵と知識」です。彼は実に宇宙の天体から地上の動植物に関する知識だけでなく、詩歌などの芸術センス、そして日々の生活の知恵や国を治める政治的手腕などにおいても長けていました。聖書の『箴言』という「知恵の書」のほとんども、ソロモン王によって書き残されたものです。  神はどうしてこれほどに豊かな知恵と知識をソロモンに与えたのでしょうか?もちろん、ご自身の民である『イスラエル』を正しく治めて欲しかったためでもあるでしょうが、何よりもこれらの知恵を「ご自身を更に深く知るため」に使って欲しかったに違いありません。私たちは「この世でうまく立ち回るための知恵」は求めますが、「神を愛し、神の栄光をこの世で表現するため」に、どれほど『知恵』を求めているでしょうか?天地万物を造られた『創造主なる神』は、すべてに優って偉大です。このお方を知ることを求めること、それ以上に価値あることはありません。ソロモン王自身も次のように述べています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と。

(565) “キリストも1度、罪のために苦しみを受けられました。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。”

 ニュージーランドでは今週末は『イースター(復活祭)・ウィークエンド』なので、イースターのお話をしますね。  日本ではあまり耳慣れないと思いますが、イースター直前の金曜日は『グッド・フライデー』と呼ばれます。この日はイエス・キリストが十字架刑に処せられた事を記念する日です。それなのに、何故『Good Friday』と呼ばれるのか、それを説明するには、イエス・キリストの生涯に関して少し説明しなければなりません。  イエス・キリストは地上での人生において主に3つのことをなさいました。1番目は「神とはどういう方なのか」を示された、ということです。ご存知の通り、「天地創造の神」は私たちの肉眼で見ることはできません。人類はこの超越的な存在(それをどう呼ぶかはさておき)を様々な形に表現しようと試みますが、この『神』は「人格(神格?)」を持っておられるので、単に『像』を造ることによってはその性質を表現することはできません。イエス・キリストはそれを「ご自身の人格」を通して人々に分かり易く表現してくださったのです。  2番目にイエスがなさったことは、「人は本来どのように崇高な存在か」を示された、ということです。神から離れてしまった人間は、本来の『神の作品』としての特徴が損なわれ、互いに憎み合ったり殺し合ったりしてしまっています。しかしイエスは「人は本来、互いに愛し合い、神の力と聖さと愛を表現すべき存在なのだ」ということを、ご自分の生き様を通して私たちに見せてくださったのです。  そして最後に、イエス・キリストは「私たちと神との『架け橋』となる」ために、十字架の上にその身を捧げてくださいました。このイエス・キリストの十字架での死を「自分と神との関係を回復するための代償」として受け入れる者に、神は新しいいのち(聖書では『永遠のいのち』と呼んでいる)を与えてくださるのです。このいのちに生かされることによって、今度は私たちを通して「キリストのような人生」が再現されて行くのです。  このような驚くべきみわざをなされた「イエス・キリストの生涯の偉大さ」を讃える意味を込めて、私たちは『グッド・フライデー』を祝うのです。

(565) “思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。”

 ある日の午後、あるお宅の前に1匹の疲れ切った犬がフラリとやってきました。それを見つけたその家の主婦が扉を開いてやると、庭にノソっと入ってきました。こぎれいな犬だったので、玄関の扉も開けてあげると、家の中にも入って来て、居間の居心地良さそうなスペースを見つけて、ほどなく眠りにつきました。2時間ほど経つとムックリ起き上がり、玄関のところに立ったので、ドアを開けてやると、スタスタとやって来た方向へ帰って行きました。  次の日も同じような時間に、再びこの犬がやってきたので、同じようにしてあげると、同じ場所でやはり2時間ほど昼寝をした後に帰って行きました。そして同様なことが1週間続いたので「ひょっとして飼い主が心配しているのでは?」と思ったこの主婦は、その犬が帰る時に首輪に次のようなメモを付けて送り返しました。「この1週間、午後になるとお宅の犬が我が家にやってきては、2時間ほどお昼寝をしてから帰って行きます」と。  翌日、同様に例の犬がやってくると、その首輪に次のようなメモが付いていました。「実はこの犬は10人の子供がいる家で暮らしています。きっと2時間だけその喧騒から避難するためにお宅に通っていたのだと思います。ところで、明日は私もこの犬と一緒にお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」  この話を聞いて、単に微笑むだけでなく、「私もそんなくつろぎの場所が欲しい!」と思わず心で叫んでしまう方はいないでしょうか?心のどこかで「自分は頑張って耐え忍んで『スーパー母ちゃん』を演じなければならない!」と気負ってはいませんか?私たちはそのように突っ張って生きていたら、いつか『ポキ』っと折れてしまうかもしれません。  人間はそれほど『強く』はできていません。「くつろぎ」や「ホッとひと息」が必要です。「『だらしない主婦だ』と言われたくない!」という力みを肩から降ろして、時には家事をほっぽり投げたり、子供の世話を親や友人に任せたりして、『だらしない主婦』になってみても良いのでは?

(564) “キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、…愛のうちに建てられることになります。”

 日本独特の慣用句で『内助の功』という言葉があります。「家庭において、夫の外部での働きを支える妻の功績」を指して使う言葉ですが、これは『家庭での妻』だけでなく、「華々しい功績の背景にある、目立たない陰の功労」にもあてはまるのではないでしょうか?  私は学生時代『演劇』をやっていました。また今も妻と2人でよくテレビドラマ(特に韓流?)を観るのですが、華々しい有名な主演俳優たちを上手に支えている『名脇役』がしばしば目に留まります。どんなドラマも、この『名脇役』なしには、薄っぺらなつまらないものになってしまいます。  私たちの人生も同じではないでしょうか?「誰もが『自分自身の人生』というドラマの主役である」という考え方もあるかもしれませんが、人生において「華々しい功績」を遺す人はわずかです。けれども全ての人は『名脇役』となる資質を備えているのだと思います。  神様は私たちを、決して「不要な存在、無価値な存在」としてはお造りになりませんでした。それぞれに「その人にしか担えない役割」を与えておられるのです。そしてその多くは「他の人を支え、引き立たせる役割」なのだと思います。私たち1人1人が「何とかして主役になって表舞台に立とう」とばかりしないで、その『価値ある特別な役割』を捜し、見出し、そのわざに磨きをかけて生きて行くなら、この世界は今よりもう少し温かくて潤いのあるものになるような気がするのは、私だけでしょうか?

(563) “上からの知恵は、…平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。”

 柔軟性に富み、臨機応変に人々や状況に対応できる人は幸いです。このような人々は、「物事はこうでなければならない」というような融通の利かない人に比べてずっとストレスが少なくて済みます。何故なら、世界はその人を中心に回っているわけではないので、その人の計画が遂行されるためには、他の人々の協力や助けを必要としているわけですから。そして周囲の人々は皆それぞれ違った性格や価値観を持っているので、結果として「融通の利かない人」は、自分の思い通りに事が運ばないことでいちいちイライラしたり、不満を抱えたりすることになるわけですから。  これは主に家庭生活や職場などでの毎日の生活の中でよく起こります。あなたの食べ物の好き嫌いのために、食卓に上るメニューが偏ってしまったり、不規則な帰宅時間のせいで家族の予定が立たなかったり。または不機嫌な上司のご機嫌を取ることにエネルギーを使い果たしてしまったり、疲れ果てている部下に注意を払わないせいで、要らぬミスをさせてしまったり…。これが「ほんの少し融通を利かせるだけ」で、食卓に笑いが満ち、家族関係が豊かにされ、部下からの信頼を勝ち取り、職場において大いなる成果を上げられる場合があるのです。  誤った「臨機応変な態度」はかえって混乱をきたしますが、適切な『臨機応変さ』は仕事や人間関係において優れた結果を生み出します。神は私たち1人1人に『五感』を与え、察知した状況に臨機応変に対応する能力を与えてくださっています。それらを「宝の持ち腐れ」させることなく、「良いチームワークによって良い実を結ぶため」に上手に用いて行きましょう!

(562) “あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは1つだけです。”

 90歳以上の方々に行った調査で、「もう1度人生をやり直せるとしたら、自分の人生のどんなことを変えたいですか?」という質問に対し、ほとんどの方々の回答が次の3つのことにまとめられたそうです。  1.家族や友人たちともっとたくさん時間を一緒に過ごす。  2.たとえリスクを冒してでももっとたくさんの事にチャレンジする。  3.自分の死後、後世の人たちの益となるようなもののために時間と労力を使う。  私たちは「目先のこと」、また「その時その時の自分の利益になること」にあまりにも多くの時間を使い過ぎているのかもしれません。言い換えるなら「誤った優先順位」に従って生きている、と言えるのではないでしょうか。天地創造の神は、私たち1人1人を『特別な使命』とともにこの地上に送り出してくださいました。それを捜し、見出し、その一事に全力を尽くすことこそ『生きがい』に通じる道なはずです。  これを読んでくださっている方々のほとんどは、未だ90歳には至っていらっしゃらないと思います。まだまだ遅くはありません。たった1度きりの人生です。上記の3つのことを念頭に置き、「神が自分に与えておられる使命」を模索しながら、ぜひ残りの人生を悔いのないように過ごしていただきたいと思います。

(561) “イエスは言われた。「あなたがたの信仰の通りになれ!」”

 「幸福な人」と「そうでない人」とは、どう違うのでしょう?「お金や財産をたくさん所有しているかどうか?」「たくさんのことを知っているかどうか?」「多くの友人や家族に恵まれているかどうか?」もしそうだとしても、『多い』と『少ない』との線引きはどうやってするのでしょうか?『幸福な人』とみなされている人々でも、すべての点で成功し、あらゆる物を豊かに持っており、何でも知っているわけではありませんよね?  『幸福感』というものは、実はその人が「物質的・環境的に恵まれているか否か」とはあまり関係がありません。むしろその人の「人生に対する態度」に大きく関係があるのです。聖書は、「人とは、その人が『自分のことをどういう人間と考えているか』によって形造られるものだ」と教えています。  もちろん「人生に対する正しい態度」を持っていたからといって、全ての事がうまく運ぶわけではありませんが、「悲観的な態度」で取り組んだ場合よりも、間違いなく良い結果を生むでしょう。「幸福感に満ちた人」は、必ずしも『全ての良いもの』を持っているわけではありませんが、少なくとも「全てのものの良い点」を見出すのに秀でているのではないでしょうか?すなわち、他の人には喜べないことを喜ぶことができる術をわきまえているのです。  医者たちに「病気に対する『態度』は、あなたの患者の回復に影響がありますか」と尋ねたら、どんな答えが返って来るでしょう?また教師たちに「勉強に臨む『態度』は、あなたの生徒の成績に影響があるでしょうか?」と尋ねたら、どのような答えが返って来るでしょうか?間違いなく、「とても大きな影響があるに決まってますよ!」と答えるでしょう?  私たちは『神の作品』です。神は私たちを「豊かな人生を生きるように」とお造りになったのです。私たちが「正しい、積極的な態度」で人生に臨むなら、私たちは神の助けを体験できるでしょう。さあ、今日も張り切って前を向いて進みましょう!

(560) “選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。”

 人生に対する態度の中でも最も重要なものの1つは、「常に学ぼうとする姿勢」ではないでしょうか?「自分はもう十分知り尽くした。もはや新しく学ぶべきことは1つもない」と言うなら、その人はそれ以上成長する機会を逸しているのです。  ローマ時代の学者であった『マルクス・ポルキウス・カトー』は、80歳になってからギリシャ語を学び始めました。周囲の人々から「何故その年になってギリシャ語を?」と尋ねられると、彼はこう答えたそうです。「だって『今』が残された生涯で1番若い時じゃないか!」  多くの人は『学ぶ』ということを「人生のある期間に限られた1つの行為」と考えているようですが、実は『学ぶこと』というのは「生涯にわたる営み」なのです。ある調査によると、学校を卒業した『大人』のたった3分の1だけが、卒業後に最低1冊の本を読み通すそうです。何故なのでしょう?それは、多くの人が『学習』というのは「学生のためだけの営み」であって、「より良く生きるための道」とは思っていないからです。  「肉体はある年齢を過ぎると徐々に衰えて行くけれど、精神は『生きる態度』に比例して成長し続ける」ということが科学的に証明されているそうです。つまり「精神的に成長し続けるかどうか」は、「私たちが『学ぼう』としているかどうか」にかかっているというわけです。『精神的成長』は、私たち自身の『選択』によるわけです。  私は60歳を過ぎましたが、毎朝毎晩『聖書』をじっくりと読み、黙想します。そして私は自分の『思い』が日々強められていることを実感しています。「神は私を喜んでいらっしゃる。神はこの世界のために、まだ私を必要としていらっしゃる。」 そんな思いが私の心に湧いてきます。私たちはこのように、生きている限り『成長すること』を選び続けることができるのです。

(559) “あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。”

 『信仰』と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか?「強い信念のようなもの」とか「人生に対する偏った考え方」、あるいは「本当は無いものを、あるものかのように信じ込むこと」などのように考える方もおられるかもしれませんね。  私なりの理解に基づいて言わせてもらうなら、『信仰』というのは言わば「神の様々な恵みや祝福に対する、私たちの応答のかたち」です。ある人たちは、それらの祝福を「神から与えられているもの」として、神に感謝をささげ、受け取ったそれらの祝福を人々の益のために用いようとします。一方、ある人々は神の存在を認めようとせず、それらの祝福を「当たり前のもの」とみなし、誰に感謝することもなく、単に自分のために独り占めしようとします。これらはそれぞれその人の『信仰』を表現しているのだと思います。  ある意味、『信仰』は私たちの日々の『選択』に現れます。ご存知のように、人生は『選択』の連続です。「何時に起きるか」「起きて初めに何をするか」「朝食を食べてから出かけるか、朝食抜きにするか」…などなど。あるものは無意識に、あるものは意識的に『選択』しています。そしてこれらの選択のうちの多くを、私たちは独自の「価値観」に基づいて行っています。『信仰』というものは、単に「お祈りする」「敬虔な生き方をする」「何らかの宗教的行事に参加する」ということに限定されるのではなく、「何を食べるか」「誰に話しかけるか」「どんなサイトや番組を観るか」など、生活のひとコマひとコマに関わってきます。  「信仰による選択」の故に得をすることもあれば、損をすることもあります。私の知っているある人は、務めている会社からあるちょっとした「不誠実な行為」を命じられ、辞職しました。これは彼の『信仰』の1つの現れでもあります。ある人は「そんな生き方は不自由だ」と思うかもしれませんが、自分の感情に振り回されたり、常に変化する周囲の状況に左右されるような生き方の方が「不安定で不自由」なのではないでしょうか?  誰でもなんらかの独自の『信仰』によって生きています。どうせ生きるなら、「全知全能の創造主なる神」に信頼する『信仰』によって生きる人生を送ってみませんか?

(558) “彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。”

 皆さんは「数え年」というものを聞いたことがあるでしょうか?これは年齢の数え方の1つの方法ですが、生まれた時点で『1歳』とし、その後は元旦を迎えるたびに1歳ずつ年を取ると数えるのです。日本でも100年くらい前まではこの数え方が一般的で、私の父は12月末に生まれたので、生まれて1週間後には既に2歳になっていたわけです。  2024年を迎えて2週間が過ぎました。「数え年」で計算すると私たちは皆また1歳年を取ったわけですが、『誕生日』を迎えて喜ぶのは若いうちだけのような気がしていませんか?「また1つ大人になった」とお祝いしていたのが、「また1つ老いてしまった」とうつむいて行く。それってちょっと悲しいですよね?  聖書を読むと、「年を取って行くこと」をポジティブに描いている箇所が多いことに目が留まります。「白髪は冠である」とか、「年老いても実を結ぶ」「年寄りは夢を見る」などなど。つまり、神と共に生き年を取って行くことは、更に深く神を知り、また神への信頼を深めて行くプロセスなのです。  この世界は「何かが出来ること」や「生産性・能率性」を追求させようとします。確かにそういった目で人生を見るならば、「年を取って動きが鈍くなっていくこと」はマイナスにしか思えないかもしれません。しかし『人生の価値』はそのようなことで測られるものではなく、「1日1日をどれだけ完全燃焼し、充実感を持って生きられているか」なのです。そして「地上での残り時間」が少なくなって行けば行くほど、私たちはそのような生き方に目が開かれて行くものなのです。

(557) “あなたは…知性を尽くして…あなたの神、主を愛しなさい。”

 神は私たちを「日々新しい知識を得るように」とデザインし、創造されました。それは何も「学生時代だけ」とか「定年まで」とかではなく、「死ぬまで」です。このことを軽んじることは実に愚かなことです。人間の脳の平均重量はたったの1.4キロしかありませんが、神経科医たちの研究によると、私たちは皆毎秒新しいことを学ぶことを3億年間続けられるほどの「学ぶ力」が備わっているそうです。物凄いと思いませんか?もし『学ぶこと』をやめてしまったら、それはあなたの人生における損失なだけでなく、この世界にとっても大きな損失なのです。  よく「私たちは日常、自分の脳のわずかなパーセンテージしか活用していない」と言われますが、確かなことは、私たち1人1人は私たちが想像している『最高の自分自身』よりもはるかに優れた可能性を秘めているということです。それなのに何故それを生かせないのか?それはほとんどの人間が、それらの「未知の可能性」に注目しないで、「記憶(既に学んだ事)」に頼って生きているからです。「新たな事を学ぶ意欲」を失った瞬間、私たちはある意味「死に向かい始めて」いるのです。  聖書は「神を知ることが『知識』の初めである」と述べています。私はクリスチャンとしての歩みを始めて40年以上経ちますが、神のことを知れば知るほど「自分は神のことが全然分かっていない」と痛感させられます。そして「もっともっと神のことを知りたい」と思わされるのです。ある意味「自分が無知であることを思い知らされる」というのは『痛い経験』ですが、考えようによっては、「どれだけのことを知っているか」よりも「まだどれだけ知らないことがあるのか」ということを知る方が価値があるのかもしれません。  この新しい年の初めに当たって、「まだ知らないこと(特に『神』という存在について)をもっと知って行こう」という意欲をもって更に高嶺を目指して行きましょう!

(556) “どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。”

 貧富の差や能力の違いはあるにしても、すべての人間に等しく与えられているものがあります。それは『時間』です。私たちには皆、1日24時間(1440分,86400秒)が与えられています。これらの時間をどう使うかが、積もり積もって私たちが「どう人生を生きたか」ということにつながって行くわけです。  与えられている「限られた時間」というものを賢く使うための1つのヒントは、朝ごとに次のように自問自答することです。「もし明日私が人生の終わりを迎え、神の御前に立つとしたら、今からの24時間をどう過ごすべきだろうか?」 この質問に対する答えは、自分の『人生の優先順位』というものを反映しているのです。  ちょっと立ち止まって考えてみてください。もし今日あなたの車が盗まれてしまったとしても、また新しい車を手に入れることはできます。仮に財布を失くしてしまったとしても、銀行やカード会社などに電話をして問題を解決することは可能です。ところが、無駄に使ってしまった『時間』は、誰に頼んでも取り戻すことはできません。まさに「時間をどう使うか」は、「人生をどう生きるか」に直結しているのです!  この新しい年、次の2つのことを心掛けてみてはいかがでしょう?  ①すべての人に『Yes』と言うことをやめる   ・誰でも他の人に嫌な思いをさせることを好みません。しかしあなたの本心が『No』と叫んでいるのに、その人を喜ばせるために『Yes』と言うべきではありません。イエス・キリストの地上での歩みはまさにそのようでした。だからこそキリストは地上での生涯の終わりに、「父よ、わたしは地上であなたのみこころをすべて成し遂げました」と言うことができたのです。  ②『優先すべきこと』をはっきりさせ、それをキチンと優先させる   ・人間の「成熟度」というのは、『真に成すべきこと』を、たとえ気が進まない時でも全力で行えるかどうか、で測ることができます。今年の終わりにできるだけ「後悔すること」を減らすために、今こそ心を定めて1日1日を全力で生きて行きましょう!

(555) “「その名は『インマヌエル』と呼ばれる。それは訳すと、『神が私たちとともにおられる』という意味である。」”

 皆さんはこのクリスマス・シーズンをどのように過ごされていますか?  ニュージーランドで暮らすようになって気が付いた日本との1つの違いは、若い人たちにとって日本では「クリスマスは恋人と一緒に過ごす」というのが定番になっているのに対し、ニュージーランドでは多くの場合「実家に帰って家族と過ごす」というのが常識になっているということです。ちょっと日本のお正月やお盆と似てますよね?  では「我が家はどう過ごしたか」と言いますと、クライストチャーチには日本から短期でやってきている留学生やワーキングホリデーの若者たちがたくさんいるので、それらの知り合いの中で「クリスマスに一緒に過ごす相手がいない」という人たちを招いて『クリスマスBBQ』をしました。幸い晴天に恵まれたので、大変有意義で賑やかな楽しいひと時を過ごしました。  そもそも『クリスマス』は「イエス・キリストの誕生日」、もっと正確に言うならば「神がそのひとり子イエス・キリストを人として地上に遣わされたことを記念する日」です。この出来事は何百年も前から預言されていて、その預言の中でイエス・キリストは『インマヌエル』と呼ばれると書かれています。そしてその名前は、「神が私たちとともにおられる」という意味なのです。  「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、確かに私たちは順境では『神様』のことなどスッカリ忘れて日々を過ごします。しかし苦しみに直面した時、思わず「神様、助けて!」と叫ぶ人が多いのではないでしょうか?もしかすると、この「クリスマス・シーズンのお祭り騒ぎ」のただ中で、孤独感にさいなまれ、また悲惨なクリスマスの思い出に頭を悩ませている方もおられるかもしれません。そんな時、ぜひ思いを馳せていただきたいのです。『真のクリスマス』は、そのような「お祭り騒ぎの中」にあるのではなく、「神様、こんな私と共にいてください。私を支えてください」というような、差し迫った思い出神を求める心とともにあるのだ、ということを。  「クリスマス・スピリット」、それは、「神は私とともにおられることを私たちに知らせるために、ひとり子イエス・キリストを送られた」ということに思いを馳せることなのです。

(554) “人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。”

 聖書は『怒り』というものをコントロールするための3つのカギとなる要素を教えているので、ちょっと詳しく見てみましょう。 ①「聞くのに早くする」  ・相手の話の途中でさえぎったり、慌ててリアクションしたり、自分の思いで決めつけてしまわないように気を付けましょう。心を落ち着けて「相手が伝えようとしている『真意』」をしっかりと汲み取ることを心掛けましょう。そして祈り心をもって「神様が自分を通して相手に伝えようとしていることは何か」ということを思い巡らしましょう。 ②「語るのに遅くする」  ・自分の考えに確信が無かったり、相手にどう答えたら良いか分からない時は、素直に相手にそのままを伝えましょう。古い中国のことわざで、「何も言わないで周りから愚かだと思われる方が、間違ったことを言って自分が愚かだということを証明してしまうよりもマシである」というものがあります。その場しのぎのために「私は何でも知ってるよ」という顔をすることは、後に大きな代償を支払わされる結果を生みかねません。 ③「怒るのに遅くする」  ・聖書は「決して怒るな」などとは教えていません。ただ『怒り』というものを「真に怒るべきことのため」に、「ふさわしい方法」で、「正しいタイミング」に表現するように勧めているのです。  自分の『怒り』というものをしっかりとコントロールするためには、自分の心の中にある「傷やわだかまり」というものにしっかりと対処しておかなければなりません。これらのものはしばしば『怒り』をふさわしくない方法で表現させる引き金となります。またある人々は、「『怒り』を表現する」ということそのものを「悪いこと」と決めつけ、「表現できなかった『怒り』」を心の中に溜め込んでしまうことによって、かえって「自分自身」や「人々との豊かな人間関係」を台無しにしてしまうことがあります。  私たちをお造りになり、この地上に生み出してくださった『創造主なる神』は、私たちをこよなく愛し、私たちの『体』だけでなく、私たちの『心』のことを深く気にかけておられます。そして「あなたの『喜怒哀楽』の全てをわたしにぶつけていいんだよ」とおっしゃいます。このお方に全てをぶちまけることによって「スッキリした心」を保ち、平安な心をもって周囲の人々との豊かな関係を築いて行きましょう。

(553) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。”

 世の中には「素晴らしいもの」はいくつもありますが、その中でも最たるものがこの『人体の神秘』ではないでしょうか?  スマホに内蔵されたカメラは日々精度を上げていますが、未だに「私たちの肉眼」で捉える映像の比ではありません。それは私たちの網膜が毎秒100億もの識別活動を行っているからです。また私たちの『鼻』は、空気中を漂っている「1ミリグラムの百万分の1」のニンニクの匂いの成分を「1万種の異なった香り成分」の中から嗅ぎ分けることができます。  私たちの体を覆っている『体毛』は「髪の毛1本の1000分の1」の重みさえも感じ取ることができます。そしてまた私たちを形作っている1つ1つの細胞では「毎秒1兆もの化学反応」が起こっているのです!数えきれないほどの数量や確率を描写する時に『天文学的数字』という言葉を用いますが、正にそのような『天文学的な営み』が、毎瞬間私たちのこの肉体において現実的に起こっているのです。一体『人体』とはどれほどに驚異的な存在なのでしょう!  聖書は、この人体は「神の傑作品である」と述べています。私たちは日々「神の驚くほど偉大なみわざ」を身をもって体験しているのです。この『創造主なる神』をほめたたえずにはいられないと思いませんか?

(552) “キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、…人間と同じようになられました。”

 12月になりました。巷では『クリスマス・セール』のシーズンとなり、クリスマスツリー、その他のデコレーションで湧きたっています。そのこと自体はワクワクして良いと思うのですが、いつもこの季節に感じることは、単に「はしゃぐための口実」としてだけでなく、「そもそもクリスマスとは何なのか?」ということにも思いを馳せて欲しいなぁ、ということなのです。  クリスマスを「イエス・キリストの誕生記念日」として知っている人は少なくないと思いますが、これをもっと正確に表現するなら「神のひとり子が、人の姿をして地上に現れた記念日」と言えます。本来「物理的にも時間にも縛られていなかった方」が、我々と同じような『1人の弱い人間(赤ん坊)』となって私たちの間に住まわれた。これはある意味「人類の月面着陸」よりも遥かに偉大で驚くべき出来事です!  キリストは何故このようなことをされたのでしょう?それは「私たち人間の弱さや限界、痛みや苦悩を理解するため」、もっと言うなら、「神は私たちの弱さや苦悩を見て見ぬふりをする方ではない。共にそれらを味わってくださり、またそこから救い出してくださる方である」ということを私たちが信じることができるようになるためではないでしょうか?  私たちは、順境の時には神のことを忘れ、逆境の時には「神は私のことを見捨てた」と文句を言う、そんな自分勝手な存在です。しかしこのクリスマス・シーズン、私たちの心に近づくために「神としてのあり方を捨てて人となられたイエス・キリスト」のことを思い起こして欲しいのです。

(551) “あなたがたは神に愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。”

 あなたには「苦手なタイプの人」「いつも自分に意地悪をしてくる人」「『あの人さえいなければ私の人生ハッピーなのに…』と思えるような人」など、いわゆる『敵』とも呼べる存在の人がいるでしょうか?きっと誰にでも1人や2人はいるのではないかと思います。そういう人をこの世から抹殺するわけにはいきませんが、解決の方法はあります。それは「その人のことをよぉく知ること」です。  ちょっと想像してみてください。仮に私たちが、自分の『敵』の「これまでの隠された人生の足跡」を観ることができたら、その相手に対する印象がずい分変わると思いませんか?自分で好んで意地悪になったり、わざわざ人に嫌われるような生き方をする人はいません。それらの背後には必ず「人には言えない(または自分でも忘れてしまっている)幼児体験や心の傷」があるはずです。その人の意地悪は、その「心のうめき」が形になって外に現れてしまっているのです。もしそのような『心の痛み』の原因を探り当てることができ、その痛みに優しく寄り添ってあげられたとしたら、私たちの周囲から『敵』は徐々に減っていくのではないでしょうか。  「神様は、どうして善人も悪人も同じように愛せるのか?」と思っている方もいるかもしれません。恐らくその理由は、神様はすべての人の1日1日を見守っておられ、その生い立ちをも知っておられるからに違いありません。神様こそ、私たち1人1人を『良い作品』として形造り、この地上に送り出してくださった方なのです。その『神の作品』を歪めてしまうのはいつでも「この世の人間」、つまり私たちなのです。神様は私たちが、ご自身の作品を「損なう存在」ではなく「修復する存在」となることを望んでおられます。そのために神様は私たちの心の痛みをも汲み取ってくださり、時にあなたが他の人に「心無い言葉」を吐いてしまう時も、あなたの心に寄り添ってくださるのです。

(550) “わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”

 「聖書の中で最も大切な教えは何ですか?」と訊かれたら、恐らく多くの方々(私自身も含めて)は上記の1節を挙げるでしょう。イエス・キリストは地上での歩みの中で『神の愛』を具体的に表現され、そして私たちに「自分が愛されたように、人々に『愛』というものを表現するように」とおっしゃったのです。  私たちは「緊張感やプレッシャー」の中では、なかなか本来の実力を発揮できないものです。今までに一体何人のオリンピック選手が「国民の代表」というプレッシャーに押しつぶされて、本番の大舞台で本来の力を発揮できずに涙をのんだことでしょう。そして同様のことは、そのような大舞台だけではなく、日常生活の中、しかも私たちの身近で起こっているのです。  ほとんどの親たちは、自分の子供たちに成功を収めて欲しいと思っていることでしょう。ですから悪気はないのですが、知らず知らずのうちに「もっと頑張りなさい」とか「あの子に負けちゃダメよ」とか「どうしてこの前教えた通りにできないの!」などの声をかけ、子供たちに「負い切れないプレッシャー」を負わせてしまっています。しかし子供たちの力を伸ばし、「ここぞ!」という時に本来の実力を発揮させるには、そのようにプレッシャーを与えるのではなく、むしろ「失敗しても大丈夫。何かが出来ても出来なくても、あなたのことを大好きよ。」と安心させ、リラックスさせることが大切です。  子供についついそのようなプレッシャーを与えてしまうのは、恐らくその親自身がそのようなプレッシャーの中で育って来たからなのかもしれません。誰でも「自分が受けたもの」しか、他の人に与えることができません。「ありのままを受け入れてもらう経験」がなければ、自分の子供でさえも「ありのまま受け入れること」は出来ないのです。では、どうすれば良いのでしょう?私たちは誰のところに行けば、このようなプレッシャーから解放されることができるのでしょうか?  イエス・キリストはおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。イエス・キリストは今日もあなたを招いておられます。彼はあなたがこの地で「本来の実力を存分に発揮して生きるため」に、不必要なプレッシャーを取り除いてくださいます。そしてまた、これが「誰かを愛する」ということの1つの具体的な表し方なのです。

(549) “わたしたちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 英語で『Pay back』と言えば「仕返しをする」という意味ですが、では『Pay forward』という物語をご存知でしょうか?これは実話に基づく物語で、言葉の意味合いとすれば「誰かから親切にされたことを、その相手ではなく、他の誰かにしてあげる」といったところでしょうか?  実はこのアイディアは、アメリカのある小学校の社会の授業で先生が「世界中の人たちが幸せになれるようにするために、あなたに何ができると思いますか?」という質問をしたことから始まったのです。1人の男子生徒がこの質問を宿題として家に持ち帰り、真剣に考え抜いた末に、翌日の授業でこの『Pay forward』のアイディアを発表したのです。そしてこの『Pay forward』は、後にアメリカで一大ブームを巻き起こします。(残念ながらしばらくした後に下火になってしまったようですが…)  この『Pay forward』は非常に素晴らしいアイディアなのですが、1つの難点があります。それは、人間は基本的に『自己中心的』なので、なかなか「自分から始めよう!」という力が湧いてこない、ということです。「他の誰かのために何かしてあげたい」という力は、まず「自分がそのようにされた」という経験から発生してくるものなのです。  実は、クリスチャンたちの日々の歩みはここから出ています。私たちをこよなく愛してくださっている『唯一真の神』が、その深い愛の故に、私たちとご自身の和解の使者としての御子イエス・キリストを『人』としてこの世に遣わされ、私たちの罪の身代わりに十字架の上で死なれたことによって、その愛を明らかにされた。クリスチャンたちは皆、この「現された神の愛」を受け取って、それを『Pay forward』しようとしているのです。  誰でも、「愛するために、まず愛されること」が必要です。そして聖書は私たちに「神がまず私たちを愛してくださっている」ということを知らせてくれているのです。

(548) “神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

 「誰かを赦さないでいること」というのは、自分では「赦さないことによって相手を縛っている」つもりかもしれませんが、実際は、「赦さないことによって縛られている」のは『自分』です。どんなものでも栄養を与えればスクスクと成長します。かわいい赤ちゃんにキチンとミルクを与えていればちゃんと成長するように、「赦したくない相手」を日々思い出しては、「絶対に赦さない!」と繰り返し心の中で宣言することは、「相手に対する苦々しい思い」に毎日栄養を与えているようなもので、その『苦々しさ』はどんどん成長して行き、やがては自分自身を滅ぼすことになります。  「そんなこと言ったって、もし赦してしまったら、その相手は図に乗って、益々自分に対してひどいことをするかもしれないじゃないですか!」とおっしゃるかもしれません。初めに言っておきますが、『赦す』ということは「相手の行為を大目に見ること」とは違います。『赦す』という行為は、相手を縛っていた縄をほどいてあげることではなく、「自分を縛っている縄から逃れること」なのです。また、相手が自分にした意地悪を「忘れてあげなければならない」わけではなく、むしろ「相手がした意地悪を思い出しても、もはやイヤな気持が湧いてこない」という解放なのです。  『赦す』という能力は、他の様々な能力と同様、練習によって伸ばすことができます。この『赦す』というスキルを繰り返し用いることで、自分に悪意を持つ相手を減らすことも、また意地悪をかわしつつその相手を思いやることもできるようになります。キリストによって私たちを「赦して」くださった神は、私たちをも喜んで『赦す者』へと成長させてくださるのです。

(547) “あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道を真っ直ぐにされる。”

 皆さんは「全く見知らぬ土地」を、何の手がかりもなしに歩いたことはあるでしょうか?結構簡単に道に迷いますよね?(まあ今の時代『グーグルマップ』があるのでとても便利ですが、Wi-Fiもないと仮定してください) ところがその土地にずっと住んでいる人が道案内として付いてくれたら、話は別です。迷うことなど全然心配せずにリラックスして気軽に散歩することができますよね?  私たちの人生も、よく『旅』に例えられます。1秒先も分からない私たち人間にとっては、ちょうど「見知らぬ土地を歩く」ようなものではないでしょうか?いつ何が起こるかも分からないし、しょっちゅう分かれ道に出くわして、迷いながら選択し、後悔することも度々あります。だから「占い」などに頼る人も出て来るのでしょうね。  聖書はちょうど「人生のためのロードマップ」のようなものです。目的地を示し、そこに到達するための最良の道筋を示してくれますが、どの道を通るかの選択は私たちに任されています。ただ私たちは「地図を読み間違えること」もありますよね?右に曲がるはずのところを左に曲がってしまったり、または気付かずに通り過ぎてしまったり… しかも「地図を使った旅」は私たちに緊張感を与え、『旅そのもの』を楽しめなくなってしまうことがあります。主イエスの時代のユダヤ人リーダーたちは正にそのような状態でした。  イエス・キリストと共に歩む人生はまさに、信頼できる『道案内人』と一緒にリラックスして歩く旅のようなものです。何しろ彼は「地図の作者そのもの」なのですから、道を間違うことは決してありません。時に私たちが気まぐれに正しくない道を進もうとしても、それを止めてくれたり、時にはそのまま進ませて、後でちゃんと正しい道に戻れるように導いてもくれます。また、残念ながら私たちの人生を破壊しようとする『敵』も存在します。しかしイエス・キリストはその敵をも打ち破り、私たちを守ってくださる方です。  このような『人生のパートナー』を伴わずに生きるなんて、実にもったいないと思いませんか?!

(546) “神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

 この聖書の言葉は、クリスチャンたちの間で最も好まれている箇所の1つです。この世にあってキリストを信じ、聖書の教えに従って生きる時、単にこの世に順応して生きていれば味わうことのない試練や困難にしばしば直面します。そんな時にこの聖句は信仰者たちの間で大きな励ましとなっているようです。  ところで「すべてのことがともに働いて益となる」とは、どのようなことでしょうか?  「重曹」や「小麦粉」をそのまま食べて美味しく感じる人はあまりいないでしょう?しかしそれらに他のいくつかの材料を加えて混ぜ合わせ、オーブンで焼くなら、私たちの体に「益となる」美味しい食べ物が出来上がります。同じように、この箇所にある「すべてのことが」の『すべて』には、必ずしも「楽しいことや望ましいこと」だけでなく、「困難・不公平な扱い・痛い経験」など『すべて』が含まれています。それらの「一見好ましくない事」も含めた『すべて』が神の御手の働きによって絶妙に織りなされて『益』とされるのだ、というわけです。  旧約聖書に出てくる『ヨセフ』という人物は、親から特別な寵愛を受けていたことから兄弟たちに疎まれ、外国に奴隷として売り飛ばされてしまいます。その後かれは数々の苦難に直面しますが、最終的には大国の権威者に任命され、母国で苦しみにあえいでいた家族を救うことになります。何十年振りかに兄弟たちと対面したヨセフは彼らにこう言います。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良きことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」  念を押しておきますが、これは「神を愛する人々、神のご計画にしたがって召された人々」、すなわち『神を信じ従う人々』に対して語られている言葉です。あなたもこのような『逆転』を与えてくださる神に信頼する歩みを始めてみませんか?

(546) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。”

 かつて『男性は火星から、女性は金星から』(原題『Men Are from Mars, Women Are from Venus』)という本がベストセラーになりましたが、この本の著者であるジョン・グレイの意図したところは、「他の人を本当の意味で理解するには、単に表面に現れている所ではなく、その人の視点で人生というものを見直す必要がある」ということです。そして当然のことながら、これは至難の業です。というわけで、どんな人間関係の中でも「誤解」や「意見の食い違い」というものが起こります。これは避けられないことです。大切なことは、そのような「意見の食い違い」が起こった時にどのように対処するか、という知恵です。  日本人としてありがちなことは、「相手に受け入れられたいあまり、自分の本心を隠して、いかにも相手の考え方に同意しているかのように振舞おうとすること」です。これは『その場しのぎ』としては使えますが、長期に続く関係(結婚関係など)のためには、後に大きな悲劇を生む原因になりがちです。そもそも創造主なる神は私たち1人1人をユニークに造られたのですから、「全てにおいて一致できる相手」などはおよそ存在しないのです。そういう意味では『性格の不一致』というものは「離婚の理由」になるべきではないのです。  私たちは互いに「同意できないことがある」ということを理解しつつ、それを恐れずに相手に伝えられる関係を築いて行く必要があります。たとえ多少の口論は生じても、最終的には「自分はこう思ってはいるけど、あなたがそう思うことも理解しようと努力します」と言えるのが、精神的な『大人』と呼べるのではないでしょうか?  真に麗しい人間関係とは、お互いがお互いの『ありのまま』を表現できて、たとえそれが自分とは違っていたとしても、それを責めたり無理に変えようとしたりせず、その『違い』を尊重しつつ、むしろその『違い』を楽しみ、また互いに生かし合うことのできる関係です。このような関係を築ける人は、自分自身も周りの人々をも成長させることのできる人なのです。

(545) “これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。”

 上記の聖書の言葉によると、『悪い者(悪魔)』は私たちに「火矢を放つ」と書いてあります。一体どんな「火矢」を放ってくるのでしょうか?それは必ずしも「病気・災難・呪い」といった類というわけではなく、恐らくもっと日常的に私たちを悩ませる「心配事・落胆・家族や友人とのいさかい」などかもしれません。  聖書は私たちに、そんな時には『信仰の盾』を取れ、と教えています。『盾』とは本来兵士たちが戦場で敵の攻撃を防ぐために使う道具ですが、それらはただ「持っているだけ」では役に立ちません。敵の攻撃から身を守るために「構えて」いなければならないのです。敵である悪魔が私たちの人生・生活を脅かそうと様々な「火矢」を放ってくる時、私たちはこの『信仰の盾』を構えている必要があるのです。  では「信仰」とは、どんな(何に対する)信仰なのでしょう?「自分自身の経験や能力」に頼ることでしょうか?決してそうではありません。残念ながら、私たちの敵である悪魔は私たちのこと弱点を熟知しているので、私たちが『自分自身』に頼っている間は隙だらけなのです。そうではなく、この『信仰』は、私たちをこの上なく愛してくださっている『全能の神』に対する信頼です。このお方はご自身に信頼して助けを求めてくる者を決して拒むことのできないお方なのです。ですから私たちは「主よ。このような恐れや不安の中で、私はあなたを見上げ、あなたに信頼します!」と告白し、『信仰の盾』を掲げるのです。  イエス・キリストは悪魔の攻撃を受けた時、「聖書のことば(神の約束)」を引用することによって対抗し勝利しました。私たちもキリストの模範に倣って、『聖書のことば』を引用することによって「神に対する信頼」をアピールできるなら、それ以上のことはありません。悪魔の攻撃は、「神に全き信頼を置く者たち」に対しては無力なものとなるのです。

(544) “正しい人は7度倒れてもまた起き上がる。”

 「決して失敗しない人」など、この世には1人もいません。人生で成功を収めた人たちは皆、「失敗から学んだ人たち」です。残念ながら実に多くの人々は『自分の失敗』を素直に認めようとせず、他の人にその責任やしりぬぐいをなすりつけようとします。しかし、このような態度でいると「失敗から学ぶこと」ができません。  統計によると、『自分の失敗』を素直に認めるのが早ければ早いほど、その失敗から大切なレッスンを学べる確率が高いそうです。ですから『自分の失敗』に気付いた時に自問すべき質問は、「ここから何が学べるだろう?」「同じ失敗を繰り返さないためにどうしたら良いだろう?」「この失敗とは別に、何かうまく運んでいる点はないだろうか?」などです。  神は私たちを「他の人と比べて優れた人物となるため」に造られたわけではありません。神は私たち1人1人を「自己最高の人生を歩むため」に造られたのです。そしてその目標に至るために大切なことは、「日々成長すること」です。自分の失敗の責任を他の人に押し付けている間は、決して成長することはできません。  有名な自動車会社『フォード・モーター』の創設者でありクリスチャンでもある『ヘンリー・フォード』は、失敗から学び続けて成功を収めた教訓から次のような言葉を遺しています。「『失敗』とは、単に『もう1度挑戦する』ための機会にすぎない。但し『前回より少しだけ賢く挑戦する』ための。」 『失敗』を恥とすることなく、「成長の機会」として積極的に学んで行きましょう!

(543) “妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 意外に感じられるかもしれませんが、聖書には「夫婦に関する教え」がかなり多くあります。その中でも有名なものの1つが上記の「夫は妻を愛せ。妻は夫に従え。」というものです。しかもその「愛し、従う」という夫婦の関係が「キリストと教会(人々)の関係」にたとえられているのです。面白いですよね?  聖書で教えられている『愛』というものは、いわゆる男女関係における『恋愛』とは異なり、無条件で一方的に注がれるものです。地上でこの『愛』に近いものは「親が子供のために注ぐ愛」ではないでしょうか?この『愛』は相手が自分に対して期待通りに応えてくれるかどうかに関わらず注がれるもの、まさに「キリストの愛」とはそういった性質のものです。  ところが『従う』ということに関してはどうでしょう?誰かに従うためには、相手に対する『信頼』が必要です。相手を心から信頼していなければ、本当の意味で「従う」ことはできません。それでは私たちはどのようにして「キリストを信頼する」ことができるのでしょう?  『信頼』というものは自然発生的に生まれるものではなく、しばしば相手から「勝ち取る」ものです。そしてキリストは「十字架上における身代わりの死」というものによって私たちにご自身の「命がけの愛」を明らかに示すことによって、私たちからの『信頼』を勝ち取ろうとされました。それでも「信頼し従うか否か」は私たちの選択です。私たちがこの「キリストの命がけの愛」に応えて「キリストに信頼し従うか否か」は、私たちの今日の選択によるのです。

(542) “明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。”

 便利な世界になりましたよね。私が生まれた昭和中期に比べると、もうほとんど「ドラえもんの時代」に生きているような感じです。ただ皮肉なことは、便利になればなるほど、本来は「時間に余裕ができる」はずなのに、逆に「ドンドン忙しくなっている」ということです。  面白いことに、どんなに文明が発達しても、相変わらず人間には『1秒先の未来』さえ分かりません。私たちは「明日に備えること」はできても、「明日を生きること」はできないのです。これはあたかも神様からの「『今』を一生懸命に生きなさい」というメッセージであるかのようです。夢のようなことばかりを考えて生きることも、過去の失敗をいつまでもくよくよ思い悩むことも正しいことではありません。神様が私たちに与えておられる『今』を全力で生き、精一杯楽しむべきです。  これは、「面倒くさいことは全て横に置いて、楽しいことだけやりましょう!」ということではありません。「今目の前に与えられていることに全力で取り組みなさい」という意味です。「このテスト期間が終われば楽しい夏休み!」とか、「あと1時間で就業時間が終わるから、友人と楽しく過ごそう!」などなど、「これさえ終われば…」という態度で日々を過ごすのは、ある意味『時間の浪費』です。テストや仕事そのものにさえも全力を尽くす方が、人生はもっと有意義で楽しいものになるはずです。  子供の頃体調を壊して「1日入院」したことがありました。その病室に『本気』というタイトルの標語のようなものが貼ってあり、そこにはこう書かれていました。   「本気でやれば、大抵のことはできる。本気でやれば、何でも面白い。本気でやれば、誰かが助けてくれる。」  何かに熱中して汗をかいている人を見ると、何だか羨ましい気持ちになりませんか?いくら考えてもはっきりとは分からない「先のこと」にばかり頭を悩ませないで、『今』を精一杯生きて行きましょう!

(541) “あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。”

 『不測の事態』を楽しみにしている人などいないと思います。人は誰でも「安全が保障されている状況」で暮らすことを望んでいることでしょう。  英語の表現で「Under control」という言葉があります。「Everything is under control」というと、「全てのことは自分の管理下に置かれていて安全である」というような意味になります。恐らく誰もが自分の人生を「Under control」の状況に置いておきたいと思っているのではないでしょうか?  実はここに、私たちの人生が『ストレス』に支配されるワナが隠されているのです。というのは、「全てを自分の管理下に置く」ということは、言い換えれば『不測の事態』が起こらないように、いつも「自分が神経を研ぎ澄ませていなければならない」ということになるからです。世の中が便利になるとストレスが減るはずなのに、実は「自分で管理する分野」というものが増えて、かえって神経過敏になってしまうのです。私たち家族が過去で最もストレスを感じずに生活していたのは、バヌアツ共和国の「電気も水道もない離れ小島」で暮らしていた時です。その頃毎日の生活で考えていたのは「今日は何を食べようか」ということだけでした。「それは不便だ!」と感じるかもしれませんが、実際人間が暮らすうえで「どうしても必要なもの」なんて本当にわずかなのです。  聖書は「God is in control」、すなわち「全知全能の神が全てを支配しておられる」と教えています。しかもこの方は「そのひとり子をお与えになるほどに私たちを愛してくださっているお方」なのです。このようなお方に「自分の人生の管理」を委ねて日々を生きることの方が、自分自身で全てを管理しようとするよりもずっと平安な生き方なのではないでしょうか?

(540) “妻に対し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。”

 夫婦そろって本当に久々に思い切り体調を壊してしまいました。2人とも1週間以上寝込んでしまい、未だに本調子に回復するには至っていません。特に妻は今までは多少体調が悪くてもそれなりに家事をこなせていたのが、全く『機能停止』になってしまって、我が家の生活は本当に惨めな状況でした。そんな中で気付かされたことが2つほどあるので、分かち合わせていただきたいと思います。  まず1つは、「神様は私たちに『強く(自信満々で)あって欲しい』とは決して思っていない」ということです。このことは「神に頼る者」として、分かっているようで、実はよく分っていない気がします。どこか「自分は大人なんだから、自分のことはちゃんと自分でできるようにしていないといけない」という自覚が先立って、神様や周囲に頼ることを避けようとしてしまいがちです。神様は私たちがそのように「強がって生きる」ようには造られなかったのではないでしょうか?  もう1つは、そのような弱い私たちですが「誰かに頼られた時に底力を発揮できるように」も造られている、ということです。自分の体調の悪さがピークに近い状態であった時、妻に「どうしても病院に連れて行って欲しい」と言われました。「何故いま!?」との思いがよぎりましたが、自分の中で選択の余地はありませんでした。「何が何でもこの求めに応えなくては!」との一念で奮い立ち、運転して妻を救急病棟へと連れて行き、自分はそこから100メートルほど離れた駐車場に車を置いて戻って来て、妻の介護を続けました。  今では妻と顔を見合わせながら、「本当に大変だったねぇ」と苦笑いする余裕が出てきました。このような人生のパートナーがいつも側にいてくれることは、本当にありがたいことだと、神に心から感謝しています。

(539) “盗人(悪魔を指す)が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたし(キリスト)が来たのは、羊たち(私たちを指す)がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。”

 人間には生来の『基本的な欲求』があります。①睡眠欲②食欲③性欲です。これらは私たちが健康な人生を送るために神様があらかじめ備えてくださった欲求であり、これらの1つでも正しく機能しなくなると人生に支障をきたします。  ところが残念なことに、悪魔はたびたびこれらの私たちの『欲』を刺激し「必要以上に」もしくは「不健康な形で」これらの『欲』を用いさせようとします。いわゆる『貪欲』というものです。私たちに「惰眠」を貪らせたり、「暴飲暴食」をさせたり、「結婚関係以外のセックス」によって肉体的にも精神的にも私たちの人生を破壊しようとするのです。  何故私たちはしばしばこのような『悪魔の誘惑』に屈してしまうのでしょう?それは、私たちの心の奥深くにある『霊的欲求』が満たされていないからです。腹ペコの時にレストランのメニューを見るとどれもが魅力的に見えてしまうように、私たちの『心』が「真に満たされるべきもの」によって満たされていないと、不必要なものを求めるようになってしまうのです。  それでは「私たちの心を真に満たしてくれるもの」とは何なのでしょう?それは、私たちの創造主である『神との関係』です。私たちの心の奥深くには、「神によってしか決して埋めることのできない空洞」があって、この『神との関係』に結ばれるまでは、それを別のものによって埋めようとどうしてももがいてしまうのです。それは『お金』であったり、『名誉』であったり、『異性』であったりします。これらのものを「一時的」には私たちの心を満足させてはくれますが、真の解決にはなりません。  私たちは皆、天地万物を造られた『創造主なる神』によって綿密にデザインされており、「この方との関係に結ばれることなしには決して満足することができない存在」として造られているのです。

(538) “なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが1つになって、ともに生きることは。”

 人生で味わえる最高の喜び(醍醐味)は、何と言っても「深い信頼と親密さによって結ばれた人間関係」だと思います。ところがこれは「誰もが願っているもの」でありながら、「ほんのわずかな人たちしか経験していないもの」であるとも言えるのではないでしょうか?一体どうしてそうなってしまうのでしょう?きっとその大きな原因の1つは「相手に信頼を置き過ぎてしまったなら、万が一裏切られてしまった時に受ける傷が大きすぎる」という『恐れ』があるからではないでしょうか?  天地万物の創造主である神様は、私たち人間をお造りになる時に「自分に似るように造った」と聖書に書かれています。もちろんそれは『姿かたち』のことではありません。私たちと神様との大きな共通点の1つは、「関係性を求める」という点です。神は何よりも「私たち1人1人との個人的な関係」を求めておられます。それは何も「ご自分の満足のため」ではなく、その関係が「私たち人間同士の関係をより豊かで堅固なもの」にするということを知っておられるからです。  私たちが『神様との個人的な関係』に結ばれる時、私たちの心の深い部分に、言葉では言い表すことのできない深い『平安』が生まれます。それによって、他の人々を信頼しやすくなります。言わば「恐れから解放される」のです。そして皆さんも経験があるように、人は誰でも他の誰かから信頼されると「この人の信頼に何としても応えたい!」という気持ちが芽生えます。神様はこのようにして、この地を『人と人との信頼』でより美しいものにしたいと望んでおられるのです。

(537) “苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。”

 「苦しい時の神頼み」という言葉があります。この言葉は何となく「神様は苦しい時にだけ必要な存在」というイメージを与えますよね?実際、物事が順調に進んでいる時は人間は『神』という存在をあまり意識しないものなのかもしれません。しかし私たちがどんな状況にいる時でも、神は変わらず『神』として存在し、私たちがご自身と関わろうとすることを待っておられます。  このことは「親子関係」と似ている部分があるかもしれません。親はいつでも「子供のためによかれ」と思っていろいろと手をかけるのですが、子供はそれらの良いことをついつい『当たり前』と思ってしまい、たまに自分には手に負えない局面(お金が足りなくなったり…)などに出会うと、急に猫撫で声になって親におねだりするわけです。  聖書は私たちに「苦しい時に神に祈る」だけではなく、「良いことがあった時には、神に賛美や感謝をすること」を勧めています。「神のしてくださったことを、何1つ忘れるな!」と教えている箇所もあります。辛い時や悲しい時に、つい「神様の存在を疑ってしまうこと」があるかもしれません。そんな時、「神様が今までにしてくださったたくさんの良いこと」を思い起こすことは、私たちの心をもう1度奮起させる起爆剤になるに違いありません。

(536) “わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。”

 あなたには『親友』と呼べるような親しい友がいますか?もしいるなら、それは素晴らしいことですね。ぜひその友情を大切にし、今後その関係が更に豊かにされますように。そして「そんな友はいない」という方、決して落ち込む必要はありません。何故なら「1人でいる時こそ、私たちは神との真に親しい関係を築くことができる」のですから。  イエス・キリストの公生涯の期間にはいつでも12弟子たちや群衆が周囲を取り巻いていましたが、聖書は「イエスは決してご自分を人々にお任せにはならなかった」と語っています。彼が本当に自分の心を許したのは『天の父なる神』おひとりでした。「じゃあ、イエス・キリストの人生はさぞかし孤独だったことだろう」と思われるかもしれません。確かにそういった面もあったでしょう。しかし逆に「この人がいてくれないと私は生きて行けない」というような対象を持ってしまうことも危険だと言えます。何故なら所詮「人は人」でしかなく、あなたが寄りかかるべき存在ではないからです。  人との豊かな関係は、私たちの人生に潤いを与え、喜びをもたらし、支えになります。そして「神との豊かな関係」は私たちの内面を豊かにし、人生の様々な局面に対処する知恵を与え、困難に立ち向かい、また人々を支え励ます力を与えます。そんな『神との関係』は、1人でいる時にこそ養われるものです。そしてそのような『神との豊かな関係』に生かされ、1人でいても輝いている人に、人々は引き寄せられて行くものなのです。

(535) “あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。”

 現代ほど『行動』へと追い立てられている時代はいまだかつてなかったのではないでしょうか?「今すぐ行動を起こさなければ間に合わない」「今行動しなかったら、きっと一生後悔する」などなど、大変もっともらしく聞こえますよね?『石の上にも三年』などということばはもう流行らないのでしょうか…  聖書は「行動的であること」を勧めてはいますが、それ以上に「行動の的を絞ること」を奨励しています。現代のようにSNSが普及した時代は、私たちは容易に「不必要なほどのあふれるような情報」に翻弄されてしまいます。この事実は私たちが「本当に大切なこと」に十分な時間を費やすことなく、ただただ「量をこなすこと」に引っ張らてしまうことを意味しています。  1つお尋ねします。あなたの行動パターンは『正しい優先順位』に基づいていますか?「簡単なことから片づける」「緊急なことから対処する」という人が多いかもしれません。しかし『正しい優先順位』とは、「あなたにしかできない、本当に大切なこと」をいつも第1優先にするということなのです。神は私たちをそれぞれユニークにお造りになりました。神は私たち1人1人に「ぜひとも成し遂げて欲しい」と思っておられることをお持ちなのです。それを後回しにして、他の「第2優先以下のこと」にどれだけの時間を使ってベストを尽くしたとしても、あなたは『自己最高の人生』を生きているとは言えません。  私たちの模範である『イエス・キリスト』は、「人々の必要を知るために、人々と共に時間を過ごし」ましたが、「人々の必要を満たすために、神と共に時間を過ごし」ました。周囲の雑音に惑わされることなく、まず祈りによって神と十分な時を過ごし、『最も大切なこと』に十分に力を注いで、神と人とを喜ばせる歩みをして行きましょう!

(534) “主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。”

 「人との信頼関係」とは、実に美しいものです。私は私の妻に心から信頼していますし、またそのような妻を与えてくださった神に心から感謝しています。  しかし、本当に残念なことに、この世界には「信頼を裏切られて深く傷付く経験をした人々」が多く存在していることも事実です。私たちの心の奥に「誰かを信頼したい!」という渇きがあるがゆえに、つい身近な人に対して必要以上に信頼や期待をしてしまう。しかし今日、それぞれの弱さや忙しさなどの様々な事情、そして『自己中心性』のゆえに、比較的簡単に他の人の信頼をないがしろにしてしまう人が増えているような気がします。そのような経験を通して『人間不信』に陥ってしまう人もきっと少なくはないでしょう。  面白いことに、聖書は「人々を愛しなさい」とは教えていますが、「人々を信頼しなさい」とは教えていません。むしろ「人ではなく、神に信頼しなさい」と教えているのです。『人』は「信頼すべき対象」ではなく、「愛すべき(弱く、助けを必要とした)存在」なのです。そして『神』こそが、「力と愛に満ちた『真に信頼すべき対象』」なのです。  「人に信頼を裏切られ、深く傷付いた経験」はおありでしょうか?もしかすると、神があなたにそのような辛い経験を味わうことを許されたのは、あなたが『真に信頼すべき存在』に気付き、その方の愛によって癒されて、「愛するために」もう1度立ち上がるためだったのかもしれません。

(533) “その中で1番すぐれているのは愛です。”

 私たちを行動へと動機付ける主なものに次の3つがあります。①義務感(~しなければならない) ②使命感(~すべきである) ③欲求(~したい!) ではこれらの中で、私たちを「自己最高に生かす」ための動機づけとなるものはどれだと思いますか?  ある人は「そりゃあやっぱり『やりたいことをやる』のが1番だろう!」というかもしれません。また別の方は「やはり意義深いことをするのが1番だから『使命感だ』」とおっしゃるでしょうか?では答えを言いますね。それは、「①②③すべてが揃ったことをするのが『自己最高の人生を生きる秘訣』なのだ」ということです。  「そんなぁ、『しなければならないこと』と『やりたいこと』が一緒になるわけない!」と思う人もいるでしょう。確かに「さて、そろそろ勉強でもしようかなぁ」と思っていた矢先に、親から「ぐずぐずしてないで、さっさと勉強しなさい!」と言われた途端にやる気をなくす、というようなことがあると思います。それは何故か?それは、私たちの行動がしばしば『その時の気分』に左右されてしまっているからです。  実は、これら「3つの動機付け」を見事に1つにまとめて、私たちの人生を最高に輝かせる要素があるのです。それは『愛』です。『真実の愛』とは、世の中でもてはやされているような、単に「相手を好き!」という『感情』ではありません。神が御子イエス・キリストを通して現されたような「相手をこよなく慈しみ、自分の持てるものすべてを捧げて、何が何でも相手を励まし輝かせようとする、内側から込み上げてくる『優しく、かつ力強い』衝動」です。私たちが日々、この神と心のベルトを掛け合って人々と接する時、その場その場で「どうしても成されるべきこと」が、「自分がしないではいられないこと」となって行くのです。私たちをデザインされ、この世界にあって最高に輝かせようとしておられる神は、私たちがこの事に気付き、「真実の愛によって生かされる者」となることを願っておられるのです。

(532) “怒りを遅くする者には豊かな英知がある。”

 「ならぬ堪忍するが堪忍」と言いますが、単に「我慢する」というのはストレスに感じられるものです。しかし実際に『忍耐』というものはそこまで踏ん張らなければならないものではなく、むしろ「物の見方を変える」ことによって育むことができ、しかもその代償によって得られるものは、想像以上に豊かなものです。  私たちが「我慢を強いられている」と感じる時は、私たちの視野がとても狭く(自己中心的に)なってしまっていることがほとんどです。すなわち「自分の必要」「自分の目標」「自分の予定」「自分の願い」などなど、これらのものが脅かされる時、私たちは「どうして自分ばっかりこんなに我慢しなきゃならないんだ!」と、ある意味『錯覚』してしまうのです。  試しに「他の人の立場に立って物事を見直して」みたらどうでしょう?例えば「豊かな結婚生活」を望んでいるなら、配偶者の目線で物事を見てみるのです。また「良い親になりたい」と思うなら子供たちの立場に立って、ビジネスで成功したいなら顧客の立場で、良い上司になりたいなら部下の立場に自分自身を置いて考えてみるのです。きっと多くの新たな発見があるはずです。  現代のように『インスタント時代』に生きている私たちは、少しでも待たされるとすぐにイライラし始めます。このような状況では、私たちの人生を真に豊かにする『忍耐』は自然発生的には養われません。しかし私たちの神様は「忍耐の神」です。このお方に「忍耐を与えてください!」と祈りつつ、新しい物の見方にチャレンジしてみましょう。きっと新たな人生の醍醐味を体験し始めることができるに違いありません!

(531) “私が弱い時にこそ、私は強いからです。”

 「キリスト教は『弱者の宗教』」などとよく言われます。(『宗教』と呼ばれることには多少の抵抗がありますが…) ある面この言葉は的を得ているとも言えます。ただそれは「クリスチャンたちは皆何となくメソメソしていて、お互いの傷をなめ合っているようだ」ということではなく、クリスチャンたちは「神は弱い者を顧みられる」ということを信じており、また「己れの弱さを知っているからこそ、神とともに『雄々しく』生きることができる」ということを表しています。  この世界は『弱肉強食』だと言われ、何となく「強くなければ生きて行けない」というような空気があります。しかしよく考えてみれば、人間には多くの『限界』があり、世の中には私たちの知識や能力ではどうしようもないことが山ほどあります。一方聖書の神は『全宇宙の創造者』であり、被造物すべてを治めておられる方なのですから、当然私たちが頼るべきお方です。この神に頼ろうとしないということは、よっぽど物分かりが悪いか、または無鉄砲であるかのどちらかではないでしょうか?  私たちがこの世界で生きるために持つべき態度は、次のようなものであるべきです。「私は弱い者である。だからといって物事を簡単にあきらめたりはしない。どんなことに対しても誠意をもって全力で取り組む。しかし、私の成功を誰よりも願っておられるのは『創造主なる神』である。私の知恵や力の及ばない試練にぶちあたった時、私は喜んでこの神の前にへりくだる。そしてこの方の知恵と力に頼りつつ、困難を克服して、このお方の栄光を讃えて生きよう!」

(530) “主を恐れることは知識の初めである。”

 私はドラマをよく観ます。主に日本のドラマと韓流ドラマですが、大抵主役を脅かす『悪役』が登場します。そして、これもよくあることですが、この『悪役』のボス的存在(ほとんどの場合が「お金や地位目当て」なのですが…)が実に優れた人物で、彼の巧妙な手口や人の操り方などを見ていると、つくづく「あぁ~、これだけの技術や能力を『善』のために用いていたら…」と思わされるのです。  現代は「学歴社会」と呼ばれます。私が学生の頃は高校へ進む割合がようやく90%に達した時代でしたが、今やほとんどの人が大学へまで進学するようになっています。小学校入学から数えて15~16年もの年月を『勉学』に励んでいるわけですが、果たしてそれらの学んだ知識を実生活にどれだけ活かせているのでしょうか?実際、中学校の時に「方程式」なるものを学びますが、日常生活でそれらの知識が必要とされる場面はほとんどありません。  聖書は、「まずこの天と地の創造者である神を知れ!」と私たちに呼びかけます。そしてこのことを知らなければ、他のすべての『知識』は虚しい、というのです。創造者である神を知ってこそ、自分自身がどれほど価値ある存在として生まれて来て、他者から搾取したり、お互いを痛め付けたりするためではなく、愛し合い建て上げ合うために生きていることを知ることができるのです。その上で「他者のために自分ができること」を豊かにし、磨き上げるために「知恵や技術」を身に付けて行こうとするならば、この世界はどんなに美しいものになって行くことでしょうか?

(529) “全き愛は恐れを締め出します。”

 カウンセラーでもあり、著名なコラムニストでもあるアン・ランダーさんは、月に1万通もの「人生相談」的な手紙を受け取りますが、その中のほとんどが『恐れ』に関わる内容だそうです。健康上の恐れ、経済的な恐れ、「親しい人を失うのではないか」という恐れ、そして自分自身の『死』に関する恐れ… 『恐れ』というものに人生の支配権を譲渡してしまうと、その人の人生は完全に『恐れ』にコントロールされるようになってしまいます。では、この『恐れ』というものに一体どう対処したらよいのでしょう?  ある調べによると、聖書には「恐れるな!」という表現が365回出て来るそうです。あたかも神様が私たちに毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。それもそのはず、神様はあらゆる災いに打ち勝つ力を持っておられる方であり、しかも私たちを『無条件の大きな愛』で完全に愛してくださっている方なのですから。なので、私たちが『恐れ』に打ち勝って生きられるかどうかは、神様の側にかかっているのではなく、それに信頼するかどうかの「私たちの側」にかかっているのです。  私たちは生きている限り『成長』し続けます。そして成長の過程には必ず「新たなチャレンジ」があり、新しいことにチャレンジしようとする時にはどんな人でも何らかの『恐れや不安』を経験することでしょう。そういう意味で「人生に恐れはつきもの」と言えます。そして『信仰』とは、「関係を選択すること」です。『恐れ』が私たちの心をノックして来た時に、それを迎え入れて住みつかせるのではなく、「私は全能の神との関係の中で生きることに決めた。だからお前は私の人生とは無関係だ。とっとと出て行け!」と言って門前払いを食わせるのです。そのようにして、今日も「神様、あなたの愛の中で歩みます」と宣言しましょう!

(528) “良い人は、その心の良い倉から良い物を出します。”

 人間の『善良さ』というものは一体どこから生まれてくるのでしょうか?またどのように育むことができるのでしょうか?  ある人々は「多くのことを学べば良いのだ」と言います。「正しく学べば正しく生きられる」と。今日、多くの社会では『教育』こそが世の中を改善するための万能薬のように叫ばれますが、「高い水準の教育」は、同じように高い『道徳的基準』と共に養われるのでないなら、単に「頭でっかちな人々」を生み出すことしかできません。もし本当に『教育』こそが社会を良くするツールであるなら、もはや『知能犯』などは存在しないはずです。  別の人々は「良い行いをするようにしつければ良いのだ」と言います。しかし『良い行い』は決して人を『良い人』へと育てることはできません。むしろ「良い行いの勧め」は私たちを「人前では偽善をふるまうが、隠れたところで憂さを晴らす人間」へといざないます。『真の善良さ』とは、『正しい教育』や『正しい行い』によって育まれるのではなく、『正しい心』によって育まれるのです。  『善良な人』とは、その人が「何を知っているのか」とか、「どんなことをしているのか」ということにあるのではなく、「何者であるのか」という「その人の『存在』自体」が問われているのです。イエス・キリストは「天の父以外には『良い方』はいません」と断言しました。この「全宇宙を私たちの益のために最高に創造された神」との関係の中に日々生きて行こうとする時、私たちは『真の善良さ』へと近づいて行くことができるのです。

(527) “横たわる時、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは心地よい。”

 社会人になってから、病気の時以外で『昼寝』をしたことはありますか?  『昼寝』と聞くと、何となく「やるべきことをせずに怠けている」というイメージがあるかもしれません。私の生まれて初めての「異国体験」はインドネシアでした。赤道直下の暑い国だということもあり、勤め人たちは午前の仕事を終えると一旦帰宅し、昼食を食べたあと小一時間「お昼寝」をしてから再び会社に戻る、という生活をしていました。その時はとても違和感を感じたことを覚えています。  その後結婚して3人の子供たちが生まれた後、私たち家族は「バヌアツ共和国・ウリピブ島」という離れ小島で『宣教師』として4年間働きましたが、実を言うと、そこではほぼ毎日昼食の後『お昼寝』をしていました。暑かったり、文化の違いでとても疲れていたことも大きな理由でしたが、もう1つの理由は「島の他の人たちも皆寝てしまっているから」でした。  恐らく皆さんも、昼食の後に「眠い」と感じることがあると思います。学生の頃、お弁当の時間の直後の授業はいつも目を開けているのが大変でした。思うにこの生理現象は「怠慢の現れ」ではなく、「神が人間をそのように造った」のではないでしょうか?  ある調査結果によると、1日に少なくとも30分、週に少なくとも3回『お昼寝』をする人は、そういう習慣がない人と比べて「心臓麻痺で死ぬ確率」が3分の1に減るそうです。また『お昼寝』の習慣を持つ人は、他の人たちに比べて「創造性や記憶力」に優れているそうです。ある著名な神経科医は「人が眠っている時にも脳は働いており、しばしば問題解決の糸口や奇抜で新しいアイディアを想起させる」と言っています。「『昼寝』は体重のコントロールにも有効である」という研究結果も出ています。私たちの小腸内で分泌されるホルモンに『グレリン』というものがあって、私たちに空腹感を覚えさせ、特に「甘いもの・しょっぱいもの・でんぷん質のもの」など(要するに『ジャンクフード?』)に対する欲求を起こさせるのですが、私たちが「ちょっと余分な睡眠」を取ることによって、私たちの腸内にある『グレリン』は減退するのだそうです。  聞くところによると、多くの歴史的偉人(アインシュタイン,エジソン,チャーチルなどなど)は、よく『お昼寝』をしていたそうです。『昼寝』の効果を軽視してはいけません。ぜひ今日から「敢えて昼寝をする習慣」というものを試してみてはいかがでしょうか?

(526) “最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。”

 もし仮にあなたが会社の人事部長で、新しい社員を採用することに責任ある立場だったとしたら、入社希望者たちのどのような資質を評価対象にするでしょうか?能力?性格?経歴?もちろん働いてもらう部署や役割の性質にもよるでしょうが、1つの欠かすことのできない資質は、『忠実さ』ではないでしょうか。  考えてみると、人生にはいくつかの『ビッグイベント』も起こりますが、ほとんどは「ささいな出来事」に満ちています。ですからこれらの「ささいな出来事」にどう対処するかが、私たちの人生に対する態度を構成していると言うことができます。もしこれらの「ささいな出来事」に対して不忠実な生き方をしていたら、それはそのまま「人生をいい加減に生きている」という評価につながってしまいます。  現代はSNSの時代です。私も個人的に「Eメール」「携帯メール」「ライン」「Facebook」「What’s up」などの通信システムを使っていますが、正直言ってジャンクメールや様々なコマーシャル・勧誘などが送られてきてイヤになる時もあります。しかし、それらの中には「親身になって聞いて欲しい」「どうしても期限までに返事が欲しい」という願いが込められたメッセージも含まれているはずです。それらのものを「たくさんの中の1つにしか過ぎないのだから…」と言っておろそかにしてしまうなら、私たちは大切なものを見失ってしまうことになります。そのような軽率な態度は、人生の中で本当に大きな事を任された時にも、私たちが「まあ、これくらいやっておけばいいか」という安逸な気持ちで対処してしまう者へと陥れる危険性があるのです。  私たちに命を与え、この地上に送り出してくださったのは、私たちの天の父である神です。いわば私たちの『大ボス』はこの「全宇宙の創造主である方」なのです。私たちは、この方に見込まれて、この方の大きな期待の許で日々を「生かされて」います。そのような栄誉を与えられている者として、今日も1つ1つのことに心を込めて忠実に歩んで行きましょう。

(525) “御手のわざは真実と公正。そのすべての戒めは確かである。”

 世の中において(特に日本人)は「断言すること」を避ける傾向がありますよね。私たちの会話の中に頻繁に登場する言葉に「たぶん」「恐らく」「まあ、きっと」「もしかしたら」「望むらくは…」「だといいけどねぇ」などなど、あやふやに言葉を濁すことがよくあります。  聖書のことば、またイエス・キリストのことばは、そうではありません。イエスが好んで用いた表現で「まことにあなたがたに告げます」で始まるフレーズがありますが、これは「これから言うことはとても大切な『不動の真理』だから、耳の穴をかっぽじいてよぉく聞けよ」というような意味です。そしてそのフレーズに続けて「わたしの言葉を聞いて信じる者は永遠のいのちを持ちます」「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」というように言われたのです。そしてそれらの言葉通り、イエスの生涯は確信と力に満ちていました。そして彼の確かな言葉に信頼して生きるなら、私たちも同様な「あやふやではない生き方」ができるようになるのです。  よく知られている『詩篇23篇』という箇所で、作者であるダビデ王は「まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来る」と書きました。ダビデは確かに立派な王ではありましたが、その生涯は決して完ぺきではなく、言ってみれば現代の週刊誌のゴシップ記事のトップを飾るようなヘマをいくつもやらかしたのです。しかしそんなダビデを神は決して見捨てるようなことをなさいませんでした。同じように、現代でも神に信頼する者には、その人が立派であるか否かに関わらず『神のいつくしみと恵み』がいつも付いてくる、と聖書は約束しているのです。

(524) “主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われます。”

 人間生きていれば、「やるべきことをちゃんとやっているのに、どうしてこんな虚しさに襲われるのだろう?」というような日々を味わうことがあります。そんな時ついつい自分自身を責めたり、周りの誰かのせいにしたりしたくなりますが、そんなことをしても何の解決にもなりません。そのようなやるせなさに襲われることがあるのは、単に「この世界が完ぺきではない」からです。善意の人もいれば、そうでない人たちもいます。もっと言うなら、人は基本的に『自己中心的』であり、「自分よりも他の人の幸福のために一生懸命になれる人」は、ほとんどいないからです。  しかし、希望があります。それは「全地・全宇宙の創造者である神」が、今日も私たちに対して心を配ってくださるからです。聖書の中で最も有名なくだりの1つに『詩篇23篇』というダビデ王によって詠まれた詩がありますが、そこでこの『創造主なる神』について2つのことが書いてあります。  ①「主は私を緑の牧場に伏させる」   ・『緑色』は「新鮮さ・フレッシュさ」を象徴しています。私たちは朝ごと・日ごとに神の前に出て、祈りや聖書のことばを通して、自分の心を「リフレッシュ」していただく必要があるのです。私たちの造り主である方は、私たち自身も気付いていない私たちの内面的な必要を満たすことのできる方です。  ②「主は私を憩いの水際に伴われる」   ・『憩いの水際』は私たちの心を「静けさと深い思慮」へと導きます。この世の生活(特に日本において)はとかく忙しすぎます。スピードと生産性が重視され、私たちの心はしばしばそれらに追い付いて行けません。そしてそれらに振り回されている間は、私たちの心は神様から遠く離れてしまっているのです。私たちは『静まった心』でいる時にこそ神と出会い、また真の自分自身を取り戻すことができるです。

(523) “短気な者は愚かなことをする。”

 ちょっとこんな朝を想像してみてください。どういうわけか目覚ましに気が付かず朝寝坊をして会社に遅れそうです。こういう時に限って車のエンジンがかかりません。やっと仕事場に到着して席に着くと、今度はパソコンが起動しません。イライラしながらコーヒーを淹れに行くと、何と午前中いっぱい断水とのこと。ついにあなたは我慢しきれなくなって叫びます。「一体アタシが何をしたって言うの!?」  このような出来事や状況は確かに起こり得るし、また私たちをイラつかせます。しかしご存知でしょうか?これらにイラつくかどうかは、私たちの『選択』によって決めることができるのです。私たちは必ずしも「状況や出来事」に支配される必要はありません。もちろん中には事前に防ぐことができるものもあるでしょうが、多くの場合私たちはその日その日の出来事を選ぶことはできません。しかし「起こったことに対する態度」は選ぶことができるのです。そのためには、日々朝ごとに「新しい1日を神様の全能の御手の中にお任せする」ということがとても役に立ちます。  ある牧師がこんな手記を残しています。「地上での人生は実に短い。その短い生涯を『過去に起こった出来事(それが20年前であろうが、20分前であろうが…)』によって台無しにされてしまうのは、何ともったいないことだろう。だから私は1つ1つの出来事を『楽しむ』ことにした。何か失敗を犯すこともあるだろうし、思い通りに事が進まないこともあるだろう。がっかりさせられることもあるだろうが、それによって『私の喜び』を盗まれたりはしない。私は朝ごとに宣言する。『父なる神よ、今日もあなたが造られた素晴らしい日です。あなたが私の心を守ってくださって、私が1つ1つの事に良い決断を下すことができるようにしてくださることを感謝します。昨日は成すべきことで成し遂げられなかったことがあったかもしれませんが、その「昨日」はもう過ぎ去りました。今日も新たな気持ちであなたと共に歩みます!』」  車のバックミラーは普通フロントガラスよりもずっと小さいですよね?これは「後ろを見ることは、前を見ることほどは重要ではないこと」を象徴していないでしょうか?だからたとえ「望んでいないこと」が起こっても、それであなたの大切な『喜び』を失われることなく、前へと進んで行きましょう!

(522) “主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。”

 聖書には、神がいかに『誠実な』存在であるかを多く語っています。そして私たちが神様のその『誠実さ』に倣うことが期待されていることも。では、『誠実さ』とは一体どんなものなのでしょう?  『誠実さ』とは、言ってみれば「どんな時でも100%の最善を尽くす態度」です。カナダのあるコミュニケーションに関する統計によると、仮に「99.9%の誠実さ」で物事が勧められた場合、年末の「所得税の戻り金」の計算は10万人分以上が誤って計算され、1時間の間に2万件以上の小切手が誤った口座から引き落とされ、毎日12人の新生児が誤った親に引き渡され、5機以上の飛行機が毎日着陸に失敗し、1時間のうちに2万通の手紙が誤った宛て先に送られ、100万件のクレジットカードの支払いが誤った所有者に請求され、年に2万件以上の誤った薬品が処方されるそうです。  これらは数年前の統計なので、恐らく今日ではこれ以上の頻度になることでしょう。つまりこれらから分かることは、100%の誠実さだけが「真の誠実さ」だということです。そして神はこの100%の誠実さをもって日々私たちに関わってくださっているのです。このお方の『誠実さ』に倣って、今日1日も心を尽くして神と人とに仕えましょう!

(521) “神の恵みによって、私は今の私になりました。”

 「自分のことをどう思っているか」(一般に『セルフイメージ』と呼ばれますが…)は、私たちの人生に大きな影響を与えます。イエス・キリストを通して「神との関係に生きる人生」へと招き入れられるまでは、私たちのセルフイメージはそれまでに私たちの周囲を取り巻いていた『権威ある存在』、例えば「両親」「先生」「職場の上司」「信頼している先輩や友だち」から聞かされた意見や評価に大きな影響を受けています。それらの中には「正しいもの」や「私たちを支えてくれる言葉」もありますが、残念ながら「私たちの心に痛みや深い爪痕を残しているもの」も多く含まれています。そしてそれらはしばしば『イエス・キリストにある救い』を受け取った後でさえ、私たちの足を引っ張ることがあります。  では、どうすれば良いのでしょう?私たちは『自分に対する神の評価』を日々心に受け取ることによって、それらから解放されることができます。具体的には「祈りと聖書のことば」を通して心を神へと向けるのです。まず次のように祈りましょう。  「神様、私は『この世のもの』ではなく、あなたによって造られ、愛されている『神のもの(神の子供)』であることを、今日も宣言します。私は『この世の声』ではなく、『あなたからの声』にこそ耳を傾けます!」  そのように祈った後で、日々聖書の言葉を通して、①神があなたの存在を喜んでおられること ②神があなたの人生に素晴らしい計画を持っておられること を確認しましょう。  イエス・キリストがこの世に来られた後、世界に最大のインパクトを与えた人物の1人に『使徒パウロ』がいます。彼は初めは「キリスト教徒を迫害し、敵対する者」であり、信者を殺すことさえしていました。ところがイエス・キリストを通して神との関係に歩むようになって以来、彼は全く別人のように変えられ、神と人とを愛し、神の救いを世界中に宣べ伝える者とされたのです。冒頭に挙げた聖書のことばは、晩年に彼が告白したことばです。神はあなたの人生をも同じように180度造り変えることができるのです。

(520) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたし(キリスト)はすでに世に勝ちました。”

 私たちは、自分に都合が悪いことが起こったり、負いきれない重荷を負わされそうになった時、つい「誰かのせい」にしたくなるものです。親のせい、子供のせい、先生のせい、友だちのせい、社会のせい、などなど。けれどもそんなことをしても問題が解決しないのは明らかですよね。  第2次大戦のさなか、ビクター・フランクルはナチスの強制収容所に入れられました。収容所の職員たちは彼から文字通り『すべて』を取り上げました。妻や子供たち、衣服を含むすべての所有物、そして結婚指輪さえも取り上げられたうえで、すべての自由を奪われて拘束されました。しかし「たった1つだけ」決して取り上げられずに済んだものがあったのです。彼は手記の中で「それらすべての悲惨な状況の中にあっても『自分の態度』を自分で選ぶことのできる自由だけは決して奪われることがなかった」と書いています。  私たちには「明日何が起こるか」さえも分かりません。というか「今日これからどんなことが起こるか」も分かりませんよね?私たちは自分を取り巻く環境をコントロールすることはできませんが、それらの環境に対して「どんな態度で」対応するかは選ぶことができます。その環境に打ちのめされるか、それとも成長の糧とするか。恐れに押しつぶされるか、それとも更に深く神に頼ろうとするか。『創造主である神』という方を個人的に知るようになると、自分の身の上に起こる出来事すべてが「このことが起こるのを神は許されたのだから、必ず背後に良いご計画があるはず」ということが信じられるのです。

(519) “こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、…神の家族なのです。”

 1月20~22日の週末に「ニュージーランド在住日本人クリスチャンの集い」が行われました。ニュージーランド全国各地から100名弱の日本人クリスチャンたちが集い、実に圧巻でした。中には「自分が住む都市や町でたった1人の日本人クリスチャン」という方々もおられ、一緒に『日本語で』聖書を読んだり、『日本語で』神様を賛美したり、『日本語で』聖書のメッセージを聴いたり、『日本語で』一緒にお祈りしたりするだけで、胸がいっぱいになって涙にむせぶ場面が多々ありました。初めて会った同士がたくさんいたにも関わらず、あたかも「旧知の友」であるかのように深い心の思いを分かち合う姿は、見ていてとても心を打つものでした。  日本語には「遠くの親戚よりも近くの他人」という言い回しがあります。確かにイザという時、「血はつながっていても、普段全く付き合いのない親戚」よりも、「たとえ血のつながりはなくても、普段から付き合いのある他人」の方が頼りになることが多いでしょう。しかし聖書には『神の家族』という表現が何度か出てきます。これは「血のつながり」こそありませんが、「創造主である神」を共通の『父』とする「霊のつながりを持った家族」という意味合いがあり、たとえ初めてあったばかり同士(時には「会ったこともない同士」)であっても、お互いにことばには表せない『親しさ』を感じることができるのです。  今回の集いでは「同じ日本人同士」ということもあり、そこには特別な『仲間意識』があったと思いますが、私たち家族は今までに様々な国々で「他国人同士であっても家族のような親しさ」というものを体験したことがあります。肌の色も、話す言葉も文化も違う者同士なのに、「同じ『父なる神』に愛されている存在」というつながりが、私たちを引き寄せてくれたのです。  「唯一の創造主である神を信じて生きる」って、本当に素晴らしいことなんです!

(518) “すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いを守ってくれます。”

 年を重ね、様々な責任を負うようになるにつれて、『大きな決断』を迫られる機会が増えてきます。しかもそれらの決断を「できるだけ早く」しなければならないようなプレッシャーを感じることが多いのではないでしょうか。そのような時にぜひとも気を付けなければならないのが、「疲れていたり、体調が悪い時には、重大な決断は下さない」ということです。  「そんなことを言っても、タイムリミットが迫っているんだから…」とおっしゃるかもしれませんが、冷静に考えてみてください。急いで誤った決断をし、その後始末に追われるのと、多少決断が遅れて責められたとしても正しい決断をするのとでは、どちらが優っているでしょう?当然後者ですよね?そのためには自分が今どのような体調や精神状態でいるかをしっかりと見極め、休息の時間を取り、神の前に静まる時を持つべきです。  現代の『疲れ』というのは、単に休息を取れば癒される「肉体的な疲れ」よりも、「考えなければならないことに追い立てられる『精神的な疲れ』」の方が多いと思います。『神への信頼』とは、「神は良い方で、私のために良い計画を持っておられ、私が自分自身よりもむしろ彼に頼るなら、最も良い道へと導いてくださる」と信じて、自分自身を委ねることです。「自分で何とかしなければ」という風に固く握ってしまっている手を放して、全能の神の御手に自分自身を委ねるならば、深い安息を体験できるだけでなく、正しい決断へも導かれることをきっと経験できるはずです。

(517) “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”

 私たちの日々の生活の局面には『変化』が付きものです。職場や学校、家庭やその他の人間関係において「変わらないもの」は何1つありません。人によって多少の差はあるにしても、私たちには「様々な環境に『慣れる』」という能力が備わっています。と同時に、「せっかく慣れ親しんだ物や環境が失われることを嫌う」という傾向性も持っています。「不安定さ、不確実さ、予期せぬ出来事」というものに対する心備えが出来ていないのです。しかし実際には「不変な世の中」などは存在しません。生きていれば『変化』は避けられないのです。  ある意味『変化』は「突然」しかも「思わぬ時に」やってきます。仕事場での異動、肉親の死、自然災害など。そしてこれらの『変化』は私たちの人生をぺしゃんこにしてしまうこともできますし、また私たちを大きく成長させるきっかけになることもあります。そしてそのどちらになるかは「変化の種類」によるのではなく、「私たちの側の選択」にかかっているのです。  この世界で唯一『不変』なもの、そして私たちが真に「人生の不動の礎」として頼ることができるのは、天地創造の神だけです。そして、この世に変化が付きものなのは、この『不変の神』が、私たちを「誤ったものに頼ること」から守ろうとしておられるからに違いありません。神は、私たちが日頃頼ってしまっている様々なこの世のものが「実は全く頼りにならない」ということをよぉくご存じなのです。  「この世のものは全てはかないのだから、『世捨て人』のように生きなさい」と言っているわけではありません。ぜひ1日1日を大切に、目の前にある責任や人々を精一杯大切にして、全力を傾けて生きてください。ただ、1つのことだけ忘れずに。創造主なるまことの神だけが、あなたが『人生の拠り所』とすることができる唯一のお方なのだということを!

(516) “私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。”

 イエス・キリストは、その『教え』や『みわざ』の卓越性のゆえに「近寄りがたい存在」というような印象を与えますが、決してそんな存在ではありません。彼は『神の子』として地上に来られましたが、あくまで『人』として生きられたのです。勝手なイメージで美化しすぎることなく聖書が描く「イエス・キリスト」を観察するならば、彼がいかに「人間臭い」かが見えてきます。イエスは私たちと同じように1人の女性から生まれました。私たちと同じように疲れを感じ、のどが渇き、お腹をすかせました。腹を抱えて笑い、怒り、涙を流しました。そして時には仲間たちと酒を飲みながらどんちゃん騒ぎもしました。  そんな中で聖書が伝えるイエス・キリストの素晴らしさは、ご自身の体験を通して「私たちの痛みを分かってくださる」ということです。私たちは深い悩みや心の痛みの中にいる時、あまりの辛さのゆえに、周囲の慰めに対して、「あなたたちになんか、この私の痛みが分かるわけない!」と毒づきます。しかし実際は、「誰かにこの辛さを分かって欲しい」と心底思っているのです。ただ、うわべや口先だけの慰めに嫌気がさしてしまうだけなのです。しかし、聖書をじっくり読めば分かることですが、イエス・キリストは実に「筆舌尽くしがたい悩み・苦しみ」を経験された方でした。自分に与えられた使命を家族にさえ理解されず、人々は「イエスご自身」ではなく、「イエスから受ける利益」だけを目当てに近づいてきました。親友は無残に殺され、信頼していた弟子には裏切られ、社会的リーダーたちからは敵視され、ついには『十字架刑』という極刑に処せられて殺されたのです。あなたの知り合いに、これほど惨めで悲惨な人生を歩んだ人はいるでしょうか?  このイエスが、十字架刑から3日目によみがえられ、今日も生きて私たちとともに歩んでくださるのです。私たちの悩みや痛みを完全に理解してくださるのです。何故ならご自分が「同じように試みにあわれた」からです。このイエスこそまさに、あなたが必要としている『救い主』なのです!

(515) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

 ある子供が近所の森に『キノコ狩り』に行ったそうです。よくありがちなことですが、彼はキノコ探しに夢中になって、どんどん森の奥の方に入って行き、ふと気が付くと全く見覚えのない場所に迷い込んでいて、自分の家の方向がまるっきり分からなくなってしまったそうです。少年は物凄く不安になりました。幸いその森はそれほど広くはなかったので、何とかかんとかやっとのことで家に辿り着けたそうですが…  それから何日か経って、その子供はもう1度『キノコ狩り』に行ったそうです。懲りない性格ですね。そしてまた前回と同じようにキノコ探しに夢中になってどんどん森の奥に入って行きました。しかし今回は迷うこともなかったし、不安になることもなかったそうです。何故でしょう?実は、今回は少年のお父さんも一緒に来ていたのです。少年はキノコ探しに夢中になりつつも、常にお父さんが見えるところにいることをちゃんと確認していたのです。  聖書の中には多くの「神の約束」がありますが、恐らくそれらの中で最もすばらしくて力強い約束は、「共にいてくださる」ということだと思います。私たちはできることなら「何の問題もない人生」を過ごしたいと願いますが、残念ながら神を信じていても信じていなくても問題は起こります。「神様が私を愛してくれているなら、どうして問題なんて起こるの!」と文句を言いたくなるかもしれませんが、ある面『問題のない人生』は、『成長のない人生』です。神は私たちの人生に『困難』が起こることを容認することを通して、私たちを「成長させる」とともに、『私たちと神との関係』というものを、より深く豊かなものとしようとされているのです。

(514) “これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。”

 1日1日は神からの贈り物です。1日でも浪費してしまうことは、実にもったいないことです。皆さんは誰かから『贈り物』をもらった時どうしますか?まず贈ってくれた人に感謝し、ワクワクしながらその贈り物の包みを開けて、その中身を楽しみますよね?私たちは1日1日をそんな風に楽しむことができるのです。  忙しい日々を送っていると、つい「時間を無駄にしないように」と考えて『計画的』に時間を過ごそうとします。そのこと自体は悪いことではないのですが、それが高じると常に「先のことばかり」を考えてしまって、『今目の前にあること』を存分に楽しむ余裕を失ってしまうことが多くあります。常に「より生産的であろう」とするがあまり、自分の心の中はドンドン余裕がなくなって、その日のノルマをこなすことで精いっぱいで、次の日が来るのが恐ろしくなってくることさえあるのではないでしょうか?  この新しい年、そのような悪循環から脱出してみませんか?朝目覚めたらまずゆっくりくつろげる場所に行き、新しい1日が与えられその日を生きるためのいのちも与えられていることを神に感謝する時間を取りましょう。そして今日という1日が神からの贈り物であり、神が用意してくださっている感動や驚きがあちこちに散りばめられていることを期待しつつ、ゆっくりと心の余裕をもって『宝探し』のような気持ちで過ごしてみましょう。1年を通してそのような態度で過ごすことができたなら、年の終わりには昨年の終わりとは全く違った気持ちに変えられているに違いありません。

(513) “からだの明かりは目です。ですから、もしあなたの目が健やかなら全身が明るくなります。”

 『ビジョン』とは、神から与えられる「まだ見ていないものを見る」能力です。「単なる希望や夢」は誰でも持つことができ、ただ漠然と思いの中に抱いているだけですが、『ビジョン』はより具体的であり、いつも「心の目で見ている」必要があります。  旧約聖書の時代に神がアブラハムに「あなたは大いなる国民の父(始祖)となる」とおっしゃられた時、彼は既に75歳であり、しかもまだ子供は1人もいませんでした。普通に考えるなら「不可能」ですよね?きっとアブラハムも初めはそう考えたことでしょう。しかし神はアブラハムを宿営の外へ連れ出して星空を眺めさせ、「あなたの子孫は、今あなたが観ている空の星のように地に増え広がるであろう」とおっしゃいました。アブラハムは、ただ『聞く』だけでなく、『見る』必要があったのです。実際彼が1人目の子供を授かるまでにまだ20年以上もかかったのですが、アブラハムはきっと夜空の星を見上げるたびに、神の約束を思い起こしていたに違いありません。  いのちあるものを生み出すためには、何よりもまず、内に「身ごもらなければ」なりません。そしてそれはあたかも「心のキャンバスに描く」ようなものなのです。それを日々じっと見つめながら、今できることに全力を尽くすのです。  偉大な彫刻家ミケランジェロは、他の人には単なる石の塊にしか見えないものの中に『ビジョン』を見、「私はこの中に閉じ込められているものを解放してやらねばならないのだ」と言って次々と作品を作り出していったそうです。神様は私たちの人生の中にも『傑作』を閉じ込めています。来たる2023年、私たちは神様が見せてくださる『ビジョン』を共に見つめながら、この「自分の内に秘められた神の傑作」を解放するべく、ひたすら励んで行きましょう!

(512) “ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”

 これは実際にあった物語です。  ある日の午後、1人の少女が骨董品屋の前に立ってウインドウから覗き込んでいました。そして意を決したようにドアを開けて中へ入って行くと、きれいな青いビーズを結んだネックレスをつかんで、カウンターにいる店主のところへ持って行って言いました。「これなら絶対に気に入ってもらえること間違いなし!おじさん、これをきれいに包んでね。お姉ちゃんへのクリスマスプレゼントなの。お姉ちゃんは去年ママが死んじゃってからずぅっとアタシの面倒を看てくれていて、とっても感謝しているの。だから今年のクリスマスには絶対にステキなプレゼントをするって決めていて、ずっと探してたの。でもこれに決めた!」  「お嬢ちゃんはいくら持ってるのかな?」店主は女の子に尋ねました。彼女はポケットから何枚かのコインを取り出してカウンターに置くと言いました。「アタシが持ってるお金、ぜぇんぶ持って来ちゃった。」 店主は女の子には見えないようにネックレスの値段を確かめると、女の子を見つめて「お嬢ちゃん、お名前は?」と尋ねながら、奥の部屋へと向かいました。女の子は大きな声で、「ジーン・グレイスよ!」と答えました。店主はきれいな包装紙に包まれたネックレスを女の子に手渡しました。女の子は礼儀正しくお礼を言うと、とても嬉しそうに帰って行きました。  クリスマス・イブの晩、最後の客を見送った店主が店じまいの支度をしていると、1人の若い女性が息を切らしながらやって来て、見覚えのある包装紙に包まれた品物を彼に手渡して言いました。「この品物を売った相手を覚えていらっしゃるでしょうか?」 「ええ、覚えてますとも。ジーン・グレイスという可愛い女の子でしたよ。なんでも大切なお姉さんへのプレゼントだとか…」女性は恐る恐る「これって、本当はおいくらする品なのですか?」 店主は「いやぁ、こういった品物の値段は、売り手と買い手との間の秘密なんですよ。」と答えました。女性はもう1度尋ねました。「でも、私の幼い妹が一体どうやってこんな高価な品を購入できたと言うんです?」 店主は開きかけた包装紙をもう1度丁寧に包み直してその女性に手渡しながらこう言いました。「あなたの妹さんは、他の誰も支払えないほどのとても高価な代金を払って買ってくださったんですよ。彼女の持っていたすべてを支払ってくださったんですから。」  神は最高の代価である「ひとり子のいのち」を支払って、私たちを買い取ってくださいました。それがクリスマスの物語なのです。言葉に表せないほどのこの高価な贈り物のゆえに、神に心からの感謝をささげましょう。

(511) “あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。”

 皆さんは朝目覚めた時、きっと「今日はどんな服やアクセサリーを身に付けようかなぁ」と思うことでしょう。ぜひその時に「外面的に身に付けるもの」だけでなく、『内面的な身支度』にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?「今日は人々に対してどのような態度を示そうか?」「ポジティブな態度でいようか、それともネガティブな姿勢で?」「協調性を心掛けようか、それとも批判的に?」「自己中心的に行こうか、それとも他の人のために役に立つ者でいようか…」などなど、いろいろ考えられますよね。  「でも、人に親切にしてばかりでは、いいように利用されてしまうのでは?」と思うかもしれません。実際そういうこともあります。しかしたとえ多少損をすることがあったとしても、他の人に親切な態度で接することは優れたことです。それには次の2つの理由があります。  ①神が私たちに対して恵み深く親切に接してくださっているから   ・ある有名な詩人は「人が親切な心で生きている時、最も『神の素晴らしさ』を反映している」と言いました。言い換えるなら「互いに親切な態度で生きるために」神は私たちをお造りになられたのです。  ②自分の心の奥底で「他の人から親切にされたい」という願いがあるから   ・イエスの最も優れた教えの1つは「他の人にしてもらいたいと思うことを、あなたもしてあげなさい」です。『黄金律』とも呼ばれています。私たちが他の人を冷たくあしらう時、その人もあなたに対して冷たい態度を取るでしょう。しかし逆に親切な態度で接するなら、親切な反応が返ってきます。日本のことわざに「情けは人の為ならず」と言われている通りです。  実際私たちが他の人に親切な態度で接することを習慣にするならば、それは単に人間関係を円滑にするだけでなく、私たち自身の心をも豊かなものへと成長させていくのです。「人をも富ませ、自分をも豊かにさせる」、これが神様が私たち1人1人に望んでおられることなのです。

(510) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。”

 どんな人でも『傾向性』というものを持っています。「物事を良い方向に取るか、悪い方向に取るか」「冒険を好むか、現状維持を好むか」「高いセルフイメージを持っているか、自分を低く見積もることが多いか」などなど。どちらが優れているかということに関係なく、これらの『傾向性』というものは長い年月をかけて培われたものなので、変えたいと思っても簡単に変えられるものではありません。しかし同時に「これは自分の性格なのだから、変えようがない!」とあきらめてしまう必要もありません。神はイエス・キリストを通してご自分に近づく者を、『新しく造られた者』としてご自分にふさわしい姿へと造り変えてくださるのです。  聖書は私たちが神を信じて生きて行く様子を「信仰による『歩み』」と表現しています。言うまでもなく『歩み』というのは、移動手段の中でも最も「ゆっくりな」方法ですよね。神様は私たちを飛行機に載せて運ぶようなことをしないで、「一緒に歩もう!」と言ってくださるのです。では、神と共に歩む「新しく造られた者としての歩み」とは、どのようなものなのでしょう?  私たちの『性格・傾向性』というものは、「自分に対して強い影響力を持っていた人々」、また「いつも触れていた情報」によって育まれてきました。それらの多くはきっと「自分で選択する余地がなかったもの」だったのではないでしょうか?ですからこれからは自分の『思い』を切り替えることによって、「神からの語りかけである『聖書の言葉』」、そして「同じ神を信じて『歩んでいる』人々」と触れる時間を多く持つようにするのです。衣服の頑固な汚れを落とす時に「漂白剤に浸して」おくように、私たちの『思い』を「神のことばである『聖書』に浸しておくと、おのずと神が私たちに望んでいることが身に付いて行き、肩の力を抜いて『新しい目標』を目指して歩んで行けるようになるのです。

(509) “わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。”

 『作品』と呼ばれる様々な創造物がありますよね。美術品、建造物、音楽、料理、そしてお父さんが日曜大工で作ったもの、お母さんが編んでくれたマフラー、子供たちの工作などなど。一級品もあれば、ほどほどのものもありますが、それら全ての『作品』のゆえに讃えられるべきは、それを造った「美術家」であり「作曲家」すなわち、『造り主』です。  私たち人間にも『造り主』がいます。それは、天地万物を造られた「創造主なる神」です。ですから、私たちに何か「讃えられるべきこと」があるとしたら、それらの栄光は「創造者なる神」へと帰せられるべきです。そして実際私たち人間には「讃えられるべきこと」が数多くあります。  まず体の構造。脳のしくみや、目や鼻や口の機能、頭と手足の絶妙なバランス。その複雑さや神秘を知れば知るほど、私たちはその『造り主』である神を讃えずにはいられません。またその豊かな感受性や精神構造。他のどんな動物とも比較になりません。そして先に述べた様々な芸術や科学その他を生み出す能力や才能もすべて、この「創造主なる神」が潜在的に与えたものです。神はまさにその栄光を大いに讃えられるべきお方です。  しかし聖書には更に驚くべき記述があります。それは、「神の優れた御力は、私たち人間の『弱さ』にこそ完全に現される」というものです。神の栄光は、私たちが豊かな才能を発揮することを通して以上に、私たちが自分の『弱さ』を自覚し、へりくだって神の前に進み出て憐れみを乞い、神が私たちへの深い愛の故にご自身の大いなる御手をもって私たちを危機から救い出してくださったり、一見もう無理と思えるような試練をも乗り越えさせてくださる時に「完全に現されるのだ」と言うのです。「父親の日曜大工の作品」や「母親による手編みのマフラー」は、それほど讃えられるような見栄えはないかもしれませんが、そこに込められた熱意や愛情は認められるに値します。同じように、『神の栄光』とは、何も「神がご自分を誇示するため」に現わされるのではなく、「私たちの人生を通して現される神ご自身のご性質」のうちにこそ見出せるものなのです。

(508) “わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。”

 『学ぶ』という言葉は『真似ぶ』から来ているそうです。きっと昔(学校制度ができる以前)は、「親」や「親方」など身近にいる「その道の先輩」が『実物教師』として模範を示し、それを見て、真似をし、新しいことを学んで行ったのでしょう。  イエス・キリストは私たちに「本来人間はどれほど高貴な存在であるのか」を示すために、自らがその模範として生きられた、と聖書は教えています。彼はその教えの中でしばしば「わたしが○○したように、あなたがたもXXしなさい」とお語りになりました。その中には「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」「わたしが受け入れたように、互いに受け入れなさい」などがあります。  ところが人間は持って生まれた『弱さ(限界)』のゆえに、自分の必要が満たされていない状態でそんな風に他の人を思いやるなんてとてもじゃないですよね?ですから上記のようなイエスの教えを聞くと、多くの人は「そんなの無理!それは理想かもしれないけど、全然実際的じゃない!」と感じると思います。しかしイエスは私たちのそのような弱さをもちろん承知の上で、上記の教えをされたのです。それは私たちに『無理強い』をするためではなく、むしろ私たちがそれらを実践できるような道があることをも知らせるためです。  イエスが、聖書が述べているように情け深く、憐れみに富んだ存在として歩まれたのは、彼自身がいつも「天地の創造者であられる父なる神」との深い関係に結ばれていたからでした。父なる神はいつも深くイエスを愛し、助け、力を与え、変わらない喜びと平安と力を注いでおられたので、イエスは常にその力に満たされて人々の間であのような驚くべき力を発揮されたのでした。すなわち、「イエスの模範に従う」ためには、単なる猿真似ではなく、イエスと同様に、まず「日々神との豊かな関係の中に生かされること」が必要なのです。私たちは「枯れ井戸」のような私たちの心から無理矢理に愛情を「ほじくり出す」のではなく、むしろ『管』のように、まず「愛に満ちた創造主」としっかりつながって、その大きな愛や憐れみ、平安などを注いでいただいて、その「受け取ったもの」を、必要に応じて周囲の人々に分け与えて行けば良いのです。「イエス・キリストのように歩む」とは、「イエス・キリストが持っておられたのと同じ『神との豊かな関係』」を、まず自分自身がしっかりと築いて、そこから流れてくる「すべての良きもの」をあふれさせて行く人生なのです。

(507) “聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。”

 あるクリスチャン作家の方が「聖書とはどんな書物か」ということを分かりやすく述べておられる記事(原文は英語)を見つけたので、今日はそれをそのまま翻訳してお伝えしますね。  「聖書に書かれている内容は、言うなれば『神の思い』『人間の状態』『救いに至る道』『罪人の行く末』そして『信じる者に与えられている幸福』である。また聖書はあなたを導く光であり、あなたの心を養う食物であり、あなたを元気づける励ましである。それはまた、旅人にとっての道しるべのようなものであり、パイロットにとっての方向指示器のようであり、兵士にとっての武器のようであり、スポーツ選手にとっての戦略のようなものである。それは驚くほどの富へと至る鉱脈であり、本物の喜びがあふれる川である。その教えは神聖で、そこにある命令は厳格、そこに書かれた歴史は真実、そしてその決定は不変である。聖書はイエス・キリストを究極的な主人公として書かれており、またそれはあなたの最善のために綿密にデザインされており、その目的は神の栄光である。知恵を得るためにそれを読み、安全に生きるためにそれを信じ、たましいの健康のために書かれていることを実践せよ。またそれをゆっくり、じっくり、そしてこまめに祈り深く読むように。聖書の言葉があなたの思いを満たし、心を支配し、人生の1歩1歩を導くようにせよ。それは今のあなたの人生のために与えられており、やがて最後の審判の日にも開かれ、永遠に記憶される。この書は我々に人生最大の責任を突き付けると共に、人生の全ての労苦に対する最大の報いを約束している。この書に書かれていることを軽んじる者は神の裁きを免れない。」  聖書を『崇高な書物』と思っている人は多いでしょうが、実際に手に取って深く学ぼうとする人は少ないかもしれません。1つだけ確かなことは、「聖書の内容を知らないことは、人生にとってとてつもなく大きな損失である」ということです。

(506) “平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。”

 向上心を持つことは良いことですが、自分のありのままの姿を受け入れることなく「もっとあんなだったら良かったのに…」「あの人みたいだったらいいのに…」と、『別人』になることばかりを夢見ることは少々不健康であると言えるかもしれません。  『パーソナリティ』に良し悪しはありません。皆がそれぞれ違ったパーソナリティを持っているからこそ、世界は輝くのです。また、それぞれの人間性の違いは、創造主である神様の「豊かな創造性」を表現していると言えるでしょう。ですから「自分はこんな風じゃなかったら良かったのに…」という人は、ある意味「神様、あなたは私のことを間違って作ったでしょ?!」と文句を言っているようなものです。  ある人は「自分で何でもやりたがるタイプ(私はそうです)」かもしれないし、別の人は「できるだけ他の人にやらせようとするタイプ(私の妻がそうです)」かもしれません。またある人は「独立心が強いタイプ」で、別の人は「誰かと一緒にするのが好き」ということもあるでしょう。どちらも良い面があります。何故なら、神はご自身の願いを込めてあなたをそのように造られたからです。  「神様、私はこんな自分のことは嫌いです。もっと別の人格にしてください。できればぜひあの人のようにしてください!」そう祈りたい人は、トコトンそのように祈ってみたら良いでしょう。でも恐らく最後にはあなたの方がギブアップして「ありのままの自分を受け入れる」という道へと導かれるかもしれません。神様は「私たちを別人のように変える」というよりも、むしろ「自分にしかない魅力に気付かせ、そしてそれを更に伸ばすことができるように」と働いてくださる方なのです。

(505) “できる限り、全ての人と平和を保ちなさい。”

 『人間関係』というものは、生きている限り避けられないトピックであり、またしばしば私たちの頭を悩ませる課題でもあります。時々「人間関係をこじらせないためには、自分の信念を曲げたり、妥協したりすることは避けられない」という言葉を聞きますが、本当にそうでしょうか?  英語に「Win-winな解決」という表現があります。どちらかが妥協する代わりに、どちらにとっても益(勝利)となるような第3の案によって解決することです。何かを交渉したり、和解を試みたりする時、ついつい自己中心的になって自分が損をしないことばかり考えてしまったり、相手のあら捜しをしようとしたりしてしまいがちですが、そのような態度で交渉の場に臨むと、物事を多角的に見ることができず、せっかく神様が与えようとしている『最善の道』を見失ってしまいます。この「Win-winな解決」に至るためにはまず自らを「第3者」の立場に置いて状況を客観的に眺め、双方が抱えている課題や真の必要を見極める必要があります。  ここで難しいのが、それらを判別するには「自分自身のプライドを捨てること」や「自分の都合で決めたタイムリミットを変更すること」などがしばしば要求されることです。『予定変更』や『信念を曲げること』を好む人はあまりいません。しかしそれが「自分だけにとっての益」ではなく、「他の人と共に勝利感を共有する」という結果を生むなら、それは『価値ある犠牲』と呼ぶことができるのではないでしょうか?

(504) “それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 聖書は『愛する』ということを重んじますが、現代人にとって「愛する」という言葉を聞くと、どうしても「男女間の愛」というものを想起させてしまいますよね?聖書が語る『愛』というものは、むしろ「周囲の人々に対して深い関心を抱く」というようなものです。すなわち「自分のことばかりに終始してしまうのではなく、他の人にとっての『最善』というものにも関心を払え」といった感じでしょうか?聖書には「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉もあります。神が私たちに『共感』してくださっているように互いに『共感する』ことは、神に造られ愛されている者としてふさわしい歩みなのです。  「周囲の人々に関心を払いながら歩む」という生き方には、次のようなものがあると思います。  ①『話す』よりも『聞く』 ― 誰でも自分の話に耳を傾けてくれる人を求めています。聞いてもらえるだけで「自分は大切にされている」と感じるのです。職業柄いろいろな方をカウンセリングする機会がありますが、半数近くの方は、こちらが親身になって話を聞いてあげるだけで、スッキリした表情で帰って行きます。  ②相手の肯定できる部分を肯定し、励ます ― 日本の教育はどちらかというと「誤りを正す」ということが重んじられるようです。「甘やかすのは良くない」という考えから出ているのかもしれませんが、「ほめる・励ます」ということは「甘やかす」こととは違います。幼い子供がブランコに乗る時に、よく親が後ろから押してあげることがありますよね?ところが子供たちはいつの間にか「自分でブランコを漕ぐこと」を覚えます。人は「誰かからちょっと背中を押してもらうこと」を必要としているのです。  私は毎朝犬の散歩に出かけますが、すれ違う人と微笑みを交わす時、何とも言えないポジティブな気持ちになれます。これが日本に一時帰国した際、東京などの大都市を歩いていると「無表情で自分の前だけを見つめて歩いている群衆」とすれ違い、何とも虚ろな気持ちになります。『微笑み』1つで周囲の人の心を豊かにすることができるのです。お金も時間もかかりません。周囲に対するほんの少しの心遣いです。あなたも試してみませんか?

(503) “指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。”

 最近ご主人を亡くされたあるご婦人の手記を見つけたので、今日はそれをそのまま引用させていただきます。 「長生きしている者の1つの特権は、これまでに自分が学んだ事を他の人に分かち合うことだと思うので、今ここでそれをさせていただきます。3つのことを書きますが、これらがそれを読む方の人生を少しでもより良きものとする助けとなりますように。  1.『時』というものは大変貴重です。それを無駄にしないように気を付けましょう。夫を天国に見送ってから、私は友人家族のお宅に居候させていただいています。ある晩彼らは口論を始め、しまいにお互いに口を利かなくなってしまいました。ええ、つい口喧嘩してしまうのは分かります。主人と私にも時々ありました。でもその度に「あぁ、こうして誰かと一緒にいられるって、何てかけがえのないことなんだろう」って思わされたものです。だからぜひ、やがてこの世での別れが来る大切な相手と一緒にいられる時間を無駄に過ごさないようにしてください。何をするにも心を通わせ、互いに愛を表現し合いながら行いましょう。どんなに長く一緒に過ごしている相手でも、やがてそれが過ぎ去った時、必ず「もっと一緒にいたかった」と感じるものなのですから。  2.今が思い出作りの時なのです。『良い思い出』をたくさん作りましょう。夫との人生を振り返る時、多くの「忘れ難い思い出」に溢れていることを、神様に心から感謝せずにはいられません。夫が天に召された日、そうとは知らず私は見舞いを終えて自宅に帰る前に、(いつも別れる前にそうしていたように)私は夫にキスをしました。そしてその日の晩に彼は天国へと旅立ったのです。「あの日も忘れずキスして良かった!」と、何度も思い返します。ぜひ『今』を大切にしましょう。あとで「後悔の念」にさいなまれないために。  3.『出来事』が重要なのではなく、それらに「どう反応したか」が大切なのです。誰の人生にも多くの困難や試練が襲って来ます。そしてもしあなたが神に信頼しているなら、あなたは必ずそれらのチャレンジの中に『成長の機会』を見出すことができるでしょう。今私たち夫婦の人生の道のりを振り返ってみると、自分たちが望んでいなかった出来事にも遭遇しなければならなかったことを認めざるを得ません。きっとそれらは誰にとっても避けられないことなのです。だからこそそれらの「困難な出来事や状況」のさなかで、後々振り返った時に「神様はあんなこともこんなことも、私を成長させる機会として用いてくださっていた」と神様に感謝できるような心の態度で1つ1つに対処してみてくださいね。」

(502) “平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、ただあなただけが、安らかに私を住まわせてくださいます。”

 アナタの1日の平均睡眠時間はどれくらいですか?私たち夫婦は毎晩できるだけ8時間は寝るようにしています。これは20年前に家族で暮らしていた離島での生活でできた習慣で、何しろ電気がありませんでしたから、日が沈むと暗くて自然と眠くなってしまうのです。もっとも朝は早朝からニワトリのけたたましい鳴き声で起こされましたが、ともかく『早寝早起き』のとても健康的な日々でした。その頃にできた生活リズムが今でも保たれています。  思うに日本人は一般的に『睡眠不足気味』ではないでしょうか?「本当はもっとゆっくり寝ていたいのに、その暇がない」という方が多いのでしょうが、時には「8時間も寝ていたら、怠け者だと思われてしまう」という負い目から睡眠時間を削っている方もいらっしゃるかもしれません。  『眠る』という行為は「生産的でない」と思われがちかもしれませんが、それは大きな誤りです。体内における新陳代謝やその他の「体力や健康回復のための営み」は我々が眠っている間に行われるのであって、睡眠を十分に取らないでいると、肉体的にも精神的にも不健康な状態に陥って行くのです。  ある方々は「ゆっくり眠りたいのだけど、様々な心配事が浮かんできて、ぐっすり眠れない」とおっしゃるかもしれません。良い考えがあります。それらの心配事を『全能の神様』にお任せするのです。「どうやったら良いか分からない」という方に、良い方法をお教えします。心配事が思い浮かぶたびに、それを紙に書いてフタ付きの箱に入れるのです。入れ終わったらフタを閉じて、部屋のできるだけ高い棚の上かどこかに置いて、「神様、私の心配事はあなたにお任せしましたから、もう私は心配しません。あとのことはよろしくお願いします!」と言って床に就くのです。きっと効果ありますよ!

(501) “人がひとりでいるのは良くない。”

 ある出版社が「幸福感について」の調査をしたところ、面白い結果が得られたそうです。「安定した幸福感を得ている人」の特徴は、お金がたくさんあることでも、肉体的な健康でも、学歴や地位が高いことでもなく、「豊かで深く有意義な人間関係を持っている人」であるということでした。  アルコールや薬物依存からの回復プログラムでは、カウンセラーが指導する部分は全体の10%程度だそうです。残りの90%のプロセスは、グループの中での励まし合いや助け合いによるそうです。彼らはそのグループの中で、互いに『人生』を共有し合っているのです。  蝶は蜂よりもはるかに広い世界を飛び回って蜜を吸います。しかし蜂の方が蝶よりもはるかにたくさんの蜜を集めます。何故でしょう?それは蜂たちは1つの花に長い間とどまって、そこで一緒に「生きるために必要な栄養素」を分かち合っているからです。  私たちは決して『ひとりぼっち』で「自己最高レベル」に到達することはできません。「人は人によって形造られる」からです。私たちと親しい関係にある人たちは、私たちが自分では気付くことのできない『私』を見ることができます。そして真の友ならば私たちが「最高以下」に甘んじている時、更なる成長を目指すよう励ましてくれます。  「ひとりじゃない」というのは、「多くの人の携帯電話番号やラインアドレスを持っている」ということとは異なります。言わば「人生を共有する友を持っている」ということです。それは配偶者かもしれないし、会社の同僚かもしれないし、学校の同級生や幼馴染みかもしれません。また聖書を見ると、『教会』という場所は、まさにそのような関係を築く相手を見つける絶好の場所であるようです。そのような人が1人でもいるなら、あなたは『幸福な人』に違いありません。

(500) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”

 『弱肉強食』という言葉があります。「弱い者が強い者のえじきとなること」を意味します。元々は「自然界の動物たちの様子を描写した言葉」でしたが、それが転じて「人間世界の情け容赦ない力関係」を表現する四字熟語になったようです。  『弱さ』という言葉を聞くと、否定的なイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?誰もが「自分は強くなりたい!」と思っているのかもしれません。「強くなければ、人生の勝者にはなれないから」というような理由からでしょうか?でも本当にそうでしょうか?そもそも『人生の勝者(勝ち組?)』とは何でしょう?お金持ちになること?有名になること?長生きすること?実際はそれら全てを手に入れても『不幸せ』な人は山ほどいます。  非常に面白いことに、動物の世界は『弱肉強食』ではあるかもしれませんが、『弱い者いじめ』の世界ではありません。ライオンが群れになってたった1匹のシカに襲いかかるなどという光景はどこにもありません。しかもライオンその他の『強い動物』は、お腹が空いていないときは、たとえ目の前を美味しそうな獲物が通ったとしてもピクリとも動きません。自然界の『弱肉強食』と人間世界におけるそれとは、全然違っているのです。  多くの人は同意してくれると思いますが、「人間とはそもそも弱い存在」です。その弱さをごまかしたり隠したりするために、『強さ』を身に付けようとします。それはそれで悪いことではないかもしれませんが、「強くなろう」とすると同時に、「裸の自分は弱い存在である」と知っておくことは大切なのではないでしょうか?そういう自覚があって初めて、私たちの内側に「他の人に寄り添おう」とする優しさが生まれ、「互いの持っているものを分け合おう」という愛の行動が現れてくるのだと思います。  ある未開の地へボランティア活動のために訪れた若者たちのグループが、貧しい子供たちを励まそうとイベントを企画し、よくありがちな『運動会』を開催しました。手始めに『徒競走』をしようと7~8人の子供たちを横一線に並べて、よぉくルールを説明し、「よぉい、ドン!」とスタートさせたところ、子供たちは『競走』を始めるどころか、互いに左右を見合わせて仲良く手をつないで皆一斉に走り出し、皆で嬉しそうに一緒にゴールインしたそうです。見ていたボランティア青年たちは、呆れると同時に、感動で涙を浮かべたそうです。  私たちの心を打つのは、「強い者が天かを取る様子」ではなく、「弱い者たちが手を取り合って生きる様子」です。何故ならそこに「神が私たちを『弱く』造られた、本来の目的」があるからなのです。

(499) “どうか、私たちの父なる神が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。”

 今日は、私たちが語る『ことば』というものについて考えてみたいと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」というものがありますが、私たちの語る『ことば』はある意味「両刃の剣」であって、人を生かしも殺しもする力があります。そしてその私たちの語る『ことば』を最もたくさん聞いているのは、実のところ『私たち自身』なのは言うまでもありませんね。  私たちは時に「これは悪い言葉だから口に出さない方が良い」と考えて心の中にじっとしまっておくこともできますが、残念ながら『私たち自身』は既にその『ことば』を聞いてしまっています。そして更に悪いことにそれらの『ことば』は、「主語を省いた状態」で私たちの深層心理に積もって行くのです。すなわち、それらの「否定的なメッセージ」が誰に対して向けられていたとしても、私たちの心の奥深くには『否定的なことば』として残り、私たちの心を蝕んでいくのです。  私たちは極力自分自身に「積極的・肯定的なことば」を聞かせて行かなければなりません。そのためには『私たち自身』がそのような『ことば』を発することができる者へと変えられて行かなければならないのです。しかし非常に残念なことに、この世界にはあまりにも多くの「否定的・破壊的なことば」が横行していて、「積極的・肯定的なことば」だけを取り入れて行くことは至難の業です。では、一体どうしたら良いのでしょう?  私たちができること、それは「私たち自身の語ることば」を極力「肯定的・積極的なもの」に置き換えて行く、ということです。そのためには、「肯定的・積極的なメッセージ」に常に目を向け、それらをくり返しくり返し自分自身のうちに取り入れて行かなければなりません。そしてその「肯定的なメッセージ」というのが、聖書に書かれている「神からのメッセージ」なのです。「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 そのような「神からの愛に満ちた力強い語りかけ」を日々自分の心に取り入れ、鏡に向かって「あなたは価値がある。あなたは神に愛されている。」と語りかけて行く時、徐々に私たちが日常的に語ることばさえもが肯定的なものへと変えられていくのです。

(498) “志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

 「全ての人は『心の平安』を求めている」と言ってもよいでしょう。特に2年以上も続いているこの『コロナ禍』の中で疲れ果てている方々は「一体いつになったらこのコロナは終息してホッと安心できるのか?」と考えておられることと思います。  多くの人々は「平和な状況」の中に『心の平安』を見出そうとします。しかし実を言うと『心の平安』は「状況」の中ではなく、「確かなものに対する信頼」を通して得られるものです。逆の言い方をすれば、「不確かなものに信頼している限り、『心の平安』を得ることはできない」ということです。  私たちは「自分たちの生活をより豊かにしよう」として熱心に働き、様々な発明をし、その結果私たちの生活は驚くほど便利になり、物質的には「豊かに」なりました。ほとんどの人が『パソコン』『スマホ』を所有しており、ほんの30年前には考えられないような時代です。しかしその結果何が起こっているのでしょう?確かにこれらのものは私たちの生活のある面を豊かにしたかもしれません。しかし「知る必要もない情報の洪水」の中で、私たちは不確かな情報によって『不安』をあおられ、最も大切にするべき『心の平安』を奪われています。  小学生の頃、国語の授業で『杞憂』という故事成語を学びました。杞の国に住む男が「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と心配したことから生まれた言葉だと学んだ時、子どもながらに一笑に付したものです。しかし現代はこの『杞憂』が世界各地で起こっていると言えるのではないでしょうか?  「周囲の状況」や「物質的豊かさ」は時と共に変化します。しかしこの世界にたった1つだけ「変化しないもの」があります。それはこの全宇宙を生み出された『創造主なる神』です。そしてこの『神』を求め、深く知って行けば行くほど、この方の憐れみと愛の大きさに魅了され、深い信頼が生まれてきます。この「創造主なる神への深い信頼」の中で生きる時、私たちは『揺り動かされることのない平安』をもって日々を歩むことができるようになるのです。

(497) “私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。”

 『意思疎通』というものは、簡単なようで難しいものです。「全然そんなつもりはなかったのに…」というような誤解を経験したことはありませんか?日本人同士でも起こり得るのですから、外国に住んでいる私たちは尚更です。また通常は身振り手振りや相手の表情などが正確な理解の助けになりますが、最近ではSNSが頻繁に用いられるため、『ことば』だけが独り走りして要らぬ誤解が生まれることも度々です。  『ことば』というものには、「ことばそのもの」以外に「語り手の意図」が含まれており、その『意図』を正しく解釈する(汲み取る)ことなしに「ことばそのもの」だけを理解するだけでは、正確な『意思疎通』ができません。『ことば』はあくまで媒体であり、大切なのはそれを発信する側と受信する側の『相互理解』です。どんなに親しい間柄でも「正しい意思疎通」がなければ、つまらない誤解が生じる危険性があります。  それではどのようにして、そのような「不必要な誤解」を防ぐことができるでしょう?  第1に、「自分の解釈と『受信したことばそのもの』とをはっきりと分けて考えること」です。どこまでが「相手が実際に言った(書いた)こと、または自分が聞いた(読んだ)こと」だったのかを正確に確かめ、その内容を客観的に理解し直すのです。可能であれば誰か別の人に読んでもらい、意見を聞いてみるのも良いかもしれません。  もう1つは、「直接相手に『その言葉の意図』を尋ねてみること」です。すると思った以上に「自分が考えてもみなかった意図」に出くわすことがあります。『先入観』というものは怖いもので、相手がことばを発する前に、私たちの内側に「受信を歪めるフィルター」を付けてしまうのです。受信は極力「ニュートラルな心」で行うことが重要です。  『ことば』というものは、コミュニケーションのためにとても大切なツールですが、それによって人間関係を豊かにすることも破壊することもできる、いわば「両刃の剣」です。不用意にではなく、注意深く心を込めて、正しいルールで使うようにしましょう。

(496) “わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。”

 「喜怒哀楽」というものは『感情』なので、自分ではコントロールできないと思われがちです。もちろんそういった類のものもありますが、大抵の場合は「私たちの意志」によってコントロールできます。例えば『喜び』はある意味「筋肉」のようなもので、上手に鍛えれば徐々に強められ、どんな状況の中でも内側に「静かな喜び」を保つことができるようになります。  今日は「喜びの鍛え方」を2つお教えしますね。  ①小さなことに『感謝』をする   ・「現代のストレス研究の父」と呼ばれている『ハンス・セイル』という方は次のように言っています。「『感謝を表現すること』は他のどんな営みよりも、心にポジティブな力を与える」。ですから、日常生活の中で意識して「感謝できる要素」を探すことを心掛け、口に出したりSNSなどを用いたりして、その『感謝』を相手に伝えましょう。伝える相手が特定できないことに関しては、神様に感謝しましょう。これをクセにすることで、あなたは「自然と笑みを浮かべる人」へと変えられて行きます。  ②『与える』ことを心掛ける   ・興味深いことに、聖書には「神は分け与える人を祝福する」という約束が多く書かれています。恐らくそれは神ご自身が『与える』という性質を持っておられるので、同じように『与える』人々を見て祝福せずにはいられないのではないでしょうか?ですから私たちは「分け与えてしまったら、自分の分が足りなくなってしまうかも…」などと心配しなくて良いのです。ある人はこんなことを言いました。「私の手が誰かに分け与えると、神の手が私に報いてくださる。そしていつでも『神の手』は『私の手』よりも大きい」。  『感謝』と『与えること』を習慣にすることによって、「喜びの筋肉」を鍛えて行きましょう!

(495) “それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

 聖書は、神が私たち人間をそれぞれ『神の作品』としてお造りになった、と記しています。『作品』は「製品」と違って1つ1つがユニークに造られています。それは目的や役割が違うからです。つまり神様は私たち人間を1人1人「違った目的や役割を持つ存在」としてお造りになっている、ということです。ですから、私たちが他の人を羨んで「どうして私はあの人のようにできないのだろう?」とか、親が自分の子に向かって「どうしてあなたはお兄ちゃんやお姉ちゃんのようにできないの!」などと言ったり考えたりするのは、根本的に間違っているのです。  神は無駄なことをなさる方ではありません。全ての人は、神ご自身の「ユニークな目的・使命」を帯びて造られました。ですから世界には誰1人「要らない存在」などありません。では、一体どのようにして「神が自分に与えておられる使命」なるものを見出すことができるのでしょう?  私たちがこの世の価値観に立って「自分の才能・賜物」といったものを考えるとき、大抵頭の中にあるのは『自己実現のためのツール』としてです。しかし神が私たちをお造りになられたとき、敢えて「1人では生きられないように」お造りになりました。それは私たちが互いに助け合い、支え合いながら生きるようになるためです。すなわち「神の目的に従って生きる」とは、「自分はどのように他の人の役に立てるのか?」ということを考えながら生きるということなのです。他の人が自分とは違った意見を持っていて「意見の衝突」が起こる時、それは「お互いを離れ離れにさせるため」ではなく、かえって「互いの足りない所を補い合うため」なのです。自分の不得意分野を他の人が上手にできるのを見る時、それは「妬みの種を生むため」ではなく、「相手に援助を願い出るため」なのです。  ぜひ『人真似』をしようとするのではなく、『自分らしさ』を追求してみましょう。そして「自分の得意なことや、喜んでできること」が何なのかを突き止め、それらの助けを必要としている人々に手を差し伸べましょう。その時あなたは「神に造られた喜び」を体験するようになるのです。

(494) “貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”

 「信仰と日常生活は相容れない」と考える人がいますが、聖書は日々の生活のための具体的な知恵を多く教えてくれています。今日はその中で「聖書がお金に関して語っている2つのこと」を述べたいと思います。  ①施す 聖書は基本的に「気前の良い態度」を勧めています。興味深いのは、聖書の中に『お金に対する態度』と『農夫が種を蒔く様子』を対比させていることが多々あることです。翌年の収穫のための『種』を残しておくことを惜しんで、全ての収穫物を売ったり食べたりして費やしてしまうなら、翌年の豊かな収穫は期待できません。収穫の1部を取っておくことは、翌年のための『投資』なのです。同じように「他の人に施すこと」は、あたかも種を蒔いたかのように、やがて有形無形の『神の祝福』を呼び込むことになるのです。  ②蓄える 「クレジット購入」が常識になってしまっている現代、『衝動買い』をしてしまうことが増えてしまっているのではないでしょうか?テレビのコマーシャルを観ると、どれもこれも「念のため」買っておかなければ後で困るかもしれないというような不安に襲われるかもしれません。でも実際はそれらのほとんどの物はそのまま物置に放置され、1度も使われることなく古びてしまうことが多いものです。不必要なものを買わずにいれば、おのずと少しずつ蓄えができるはずです。  神様はご自身が愛しておられる人々が乏しい思いをしていることを放ってはおかれません。でも「私腹を肥やしている人」には感心されないのではないでしょうか?親が自分の子供たちが分け合っているのを見て微笑むように、私たちが互いの不足を補い合いながら支え合うようになることを、神は望んでおられるはずです。そのためにも、「気前の良い態度」と「適度な節約」を心掛けたいものですね。

(493) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。”

 私は昭和中期生まれですが、私が生まれてから半世紀余りのうちに世界は大きく様変わりしました。自動販売機、コンビニ、パソコン、百円ショップ、そして携帯電話にスマートフォン!50年前には思いつきもしなかった『便利品』が次々と生まれ、あっという間に普及し、以前は「不可能」と思えていたのに、今は「実現可能」になったということがたくさんあります。  多くのことを思いのままに操作できるようになったため、つい「自分の人生をも自分の好きなように操れる」という錯覚に陥りがちですが、実際はこれほどまでに文明が発達し科学が進歩しても、未だに人は1分先のことも見通すことができません。相変わらず多くの人々は日々不安を抱え、カウンセリングに通ったり、占いに頼ったりします。しかしそれらの中には「人生の不安を根本的に解決する術」を見出すことはできません。何故なら、それは人間の手中にあるのではなく、「全能の神の大きな御手の中」にあるからです。  聖書は、「現されていることは人間のものだが、隠されていることは神のものである」と教えています。人が追求しても見出せないのは、神が「それはわたしに属しているのだから、わたしに信頼しなさい」と招いておられるのです。いつ?なぜ?どのようにして?などの疑問について内側で悶々と思い巡らすのではなく、「いくら考えても分からないことは、神に委ねるべき領域なのだ!」と心得て、神に信頼して委ね、私たちは自分の手の届く範囲の事に全力を尽くすようにすれば良いのです。

(492) “わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。”

 聖書を少し知っている方は、「『愛する』ということは、命令なんてされるべきではない」と感じたことがあるかもしれません。恐らくその大きな原因は『愛する』という言葉に対する理解の違いによるものと思われます。  元々『愛する』は、英語の『Love』の訳語として日本に入って来たと思われますが、英語を話す人々は実際「I love my wife」「I love chocolate」などのように、現代日本語の「とても大切に思っている」と「メッチャ好き!」の両方の意味に『Love』という語を用います。ですから『愛する』という語を「その対象に対する感情的な盛り上がりを表現する言葉」として用いる、もっと分かりやすく言うなら「『好き』よりももっと強い感情」のように理解していることが一般的になっているのだと思います。もしそうであるなら、確かに『愛しなさい』などと命じるなんて、何だか人間の情緒を否定しているように感じられますよね。  『愛する』という言葉が聖書に登場する時、それは「内面的な感情」ではなく、むしろ「相手の最善のために自分にできることをする」というような、とても具体的で実践的な『行為・ふるまい』を表しています。極端なことを言うならば、嫌いな相手をも『愛する』ことはできるのです。そして、この『愛すること』の素晴らしい点は、キリストの戒めに従って誰かを「愛そう」としていると、いつの間にか自分の内側に相手に対する好意も湧いて来るのを感じることができ、更に素晴らしいことは「神が自分と共に相手に働きかけようとしている」というような不思議な感覚を経験できることです。  『愛すること』、それは確かに「神が人間だけに与えた、『人として生きる上での大きな特権』」ということができるのではないでしょうか?

(491) “正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。”

 聖書は『祈る』ということを勧めています。けれど恐らく、『祈り』とは単に「宗教的な営み」であり、「気休め」であり、「非科学的だ」と言う人もいらっしゃると思います。今日はそんな方々のためにも「祈りの効能」について少し解説したいと思います。  2014年にアメリカのフロリダ州で行われた「心の健康に関する調査」では、『祈り』を中心とした教会におけるいくつかの営みは、人の健康や長寿に貢献しているという調査結果を発表しました。また「他の人のために祈っている人々」は、自分に対して嫌なことをした人を快く赦すことができ、結果として心の健康を保つ傾向があるそうです。  マイアミ大学の調査班によると、『祈り』その他の宗教的な営みを習慣的に行っている人は、他の人に比べ長期的な目標を達成する確率が高く、また強い自制心を育んでいるということが判明しました。またウィスコンシン大学の研究班は、幼い頃に何らかの虐待やトラウマを経験している人たちが、『祈り』という行為によってそれらの心の傷を数多く克服していることを発見しました。そしてコロンビア大学の調べでは、『祈り』を習慣としている人々は、そうでない人々に比べて、うつ病に悩む確率が90%も少ないことが分かりました。  これらの他にも、『祈り』が「心臓手術後の回復に貢献する」とか、「様々な中毒症状からの回復に効果がある」などの、専門家たちによる様々な研究結果が発表されています。神様は確かに『祈り』という営みを、ご自身が愛しておられる「私たち人間」が、この世がもたらす様々な『負の力』に対抗する手段として与えてくださっているのです!

(490) “人がひとりでいるのは良くない。”

 聖書は様々な角度から「共に生きる」ことの大切さを説いています。イエス・キリストも何度も弟子たちに「互いに○○し合いなさい」と命ぜられました。よく言われることですが、『人』という漢字は「互いに支え合っている様子」を表しています。  神が私たち1人1人を創造された時、それぞれに「優れたポテンシャル」を授けられました。そしてそれらのポテンシャルは、私たちが独りよがりで生きるならば、決して発揮されないものです。人間の『真価』は本来人との関係の中で発揮されるものだからです。  文明が発達し、様々な面で生活が便利になったことは喜ばしいことではありますが、それによって徐々に「他人の助けが要らない」「自分独りで生きて行ける」と錯覚しそうになることは悲しいことです。「人付き合いは面倒くさいから、できるだけ避けたい」と思われがちですが、その「面倒くさい人付き合い」を通してこそ、私たちは『忍耐』や『親切心』、そして『愛』や『憐れみ』といった、まさに神が私たちの人間性の内に育てたい要素を学んで行けるのです。そしてまた、私たちが日々の生活の中で体験できる「本当の喜び」といったものも、人と人との関係の中でこそ体験できる、神様からの素晴らしいプレゼントなのです。

(489) “あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに踊る。”

 ご存知でしたか?アメリカ歴代大統領の中で、任期半ばで辞任を余儀なくされたのは、たった1人だけだということ。この不名誉な歴史を刻んだ人物は『ニクソン大統領』です。優れた大統領であった彼が辞任に追い込まれた理由は、1本のテープに吹き込まれた彼の『言葉』だったそうです。「口は禍の元」と言われますが、一旦口を出て行った言葉は決して取り戻すことはできない。恐ろしいですねぇ。  聖書の中の『箴言』という書物には「口から出る言葉」に関する警告が150回も出てきます。いかに私たちが「自分の語る言葉」に注意を払わなければならないかを思い知らされます。調べによると、ごく普通の人が50年間に語る言葉を集めると、300ページの本12000冊分にも及ぶそうです。いわば私たちは1人1人、これだけの歴史、また財産をこの世に遺しているということができます。ある人は「自分の語る言葉なんて取るに足りないものだから…」と思うかもしれませんが、そのような人が語った言葉のいくつかも、実際誰かにとって「決して忘れられないひと言」になっていることがあるのです。  「語る内容」だけではありません。私たちが語る言葉が、「誰に対して」「誰について」「いつ」「どこで」「どのように」語られたかも、人々の人生に関わってきます。改めて「自分が語る言葉」をよぉく吟味していきたいですね。

(488) “信じる者は、慌てることがない。”

 人体とは非常によくできているもので、急がなければならない状況になると、体中に「緊急事態」が発令される仕組みになっており、ストレスホルモンから特別なアドレナリンが放出され、危急な状況に対応できるように準備されるそうです。但しこの体の仕組みは、その「緊急事態」が肉体に関するものなのか、心の不安や環境によるストレスのものなのかという原因を見極めることはできません。ですから、肉体的に一時的に身を守るためには大変効果的なのですが、長期に渡るストレスによってこの「緊急事態」が継続されると、むしろ様々な肉体的疾患の原因となります。  では、そうならないためにはどうすれば良いのでしょうか?それは何よりもまず、そのような「継続的なストレス」の原因を正しく見定めて、きちんと除去することです。この点においても「愛に満ちた全能者であられる神」に信頼しているということは、大きな助けになります。「自分にとってどうしても必要なものは、神様がちゃんと取っておいてくださる」と信じられるからです。  私たちは宣教師として、日本を離れることが多かったため、何度も引っ越しを余儀なくされました。帰国するたびに住むための貸家を探すのですが、不動産屋さんで良い物件を紹介されるたびに、「これは滅多に出ない良い物件なので、一刻も早く決めないと、すぐ別の人に決まってしまいますよ!」と言われ(脅され?)ました。初めのうちはとても不安になって「手付金のようなものを払っておこうか?」などと考えたのですが、やがて「いや、神様がちゃんと1番良いものを取っておいてくださる。もし別の人に決まってしまったなら、他にもっと良い物件があるということだ!」と考え直しました。そして事実、毎回神様は私たち家族のために最高の物件を用意してくださっていました。(ある時は、予算オーバーの物件の値引きさえしてくださいました!)  神に信頼して生きるとは、「急ぐ必要のない生き方」であり、ストレスや不必要な病気から守られて生きることなのです。

(487) “待ち望め、主を。”

 昭和中期(?)に生まれた私たちの世代から見て、現代人の大きな1つの特徴は、「待てない」ということです。あるクリスチャンがこんなお祈りをしたという笑い話があります。「神様、どうぞ私に『忍耐』を与えてください。今すぐに!」 きっと神様はこの祈りに「すぐには答えない」という形で答えてくださったと思います。  実際、『待つ』ということから私たちは多くを学ぶ(得る)ことができます。日本語にも「急いては事を仕損じる」ということわざがありますが、待ち切れなくて性急に行動を起こすことで望まない結果を生むことは多々あります。車のスピードを上げれば上げるほど運転手の視界が狭められてしまうのと同じように、急いで行動すればするほど、周囲が見えなくなるものです。  しばしば「待つこと」には勇気が要ります。「こんなにゆっくり行動していて、手遅れになってしまったらどうしよう…」という不安と戦わなければなりません。聖書が「主を待ち望め」と教えるとき、そこには「あなたを愛し、あなたに最善を成してくださる神(天の父)に信頼しなさい。『神のタイミング』『神の方法』が知らされるまで、落ち着いて周囲を見回しなさい。」というメッセージが込められています。『待つ』とは、成熟した人間がより良い結果を残すための「信頼の行為」なのです。

(486) “わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。”

 『喜び』というものは、私たちの人生の「燃料」のようなものです。これが失われると、私たちはただ「生物学的に生きているだけの人生」を送るようになってしまいます。車を運転する時には、時々燃料タンクのメモリをチェックしながら「ガス欠になっていないかどうか」を随時確かめておく必要がありますよね?それと同じように、私たちの心の内に『喜び』が失われていないかどうかを日々チェックする必要があるのです。  イエス・キリストが多くのことを教えられたのは、「自分が持っている喜びが私たちの内に満ちあふれるためである」とおっしゃいました。キリストの地上での人生は決して楽しいことばかりではありませんでした。定住の地はなく、ほとんどゆっくりと休む暇もなく、敵もたくさんいました。けれども彼の内にはいつも「他の人に分け与えないではいられない喜びと愛」に満ちていたのです。一体その秘訣は何だったのでしょう?それは、いつも変わらずに彼と共におられた『父なる神との愛の関係』です。そしてイエス・キリストがいつも教えておられたことは、この「『父なる神との愛の関係に生きること』からやってくる祝福について」だったのです。  この世界が私たちに提供してくれる『喜び』もありますが、それらはいつも周囲の状況に依存した「一時的なもの」です。しかしキリストが私たちに提供してくださる『喜び』は上から注がれるものであり、周囲の状況にかかわらず私たちの心のうちに泉のように満ちて行くのです。それは永遠に私たちの内にとどまり、将来の不安や死に対する恐れさえも消し去ってくれるのです。  あなたもそのような『喜び』を心に満たして生きたくはありませんか?

(485) “見よ、わたしはすべてを新しくする。”

 この前の日曜日は、クリスチャンの大きなお祭りの1つである『イースター(復活祭)』でした。イエス・キリストが十字架において死なれ、墓に葬られた後、3日目によみがえられたことを祝う「喜びの祝祭」です。今日はこの「キリストの十字架と復活」について少し考えてみたいと思います。  聖書はまず「神が天と地を造られ、人間を(神のかたちに)造られた」と述べていますが、神が人(私たち)を造られた『第1の目的』は何だと思いますか?それは、神の最大のご性質である『愛』というものを、互いの『関係』の中で表現し合うためです。「愛の表現」が単に「セックスをすること」だけだとしたら、それは他の動物たちにだってできます。人間は「相手を思いやり、相手の最善を願って、自分自身を犠牲にしてでも相手をサポートする」という形で『愛』を表現することのできる、唯一の被造物です。  ところが、『最初の人』であるアダムとイブが神に反逆して以来、神が意図しておられたこの麗しい「愛の関係」というものが、人と神の間においても、人間同士においても歪んでしまい、人は『関係』というものを「自己中心的に」用いるようになってしまいました。これが聖書の言うところの「人の罪とその結果」なわけです。  神がご自身のひとり子『イエス・キリスト』を人間の姿でこの世にお送りになられたのは、「神の力とご性質をデモンストレーションするため」であると共に、この「壊れてしまった『関係』というもの」を修復するためでもあったのです。キリストは「人の神に対する反逆の罪」と、その結果である「歪んでしまった関係」の清算をするために、私たちの身代わりに十字架にかかって、そのいのちの代価によって全ての償いを済まされたのです。そして私たちがもう1度、最初に神が計画しておられた通りの、本来の豊かさと純粋さをもった「神との関係」そして「人間同士の関係」へと再スタート(回復)することができるようにと、死を打ち破ってよみがえってくださったのです。私たちはイエス・キリストをこのような『救い主』として信じることによって、人生をもう1度新しく出発することができるのです!

(484) “心に満ちていることを、口(舌)が話すのです。”

 病院へ行って、お医者さんに「は~い、ベロを出して~」と言われたことはありませんか?私は何度かあります。どうやら東洋医学では、舌の色や形を見て体調を知る『舌診』という診断方法があるそうです。『舌』は粘膜で覆われ多くの血管が集まっているので、血液や体液の状態が反映されやすいので、体質や内臓の様子を映し出す「鏡」とも言われているそうです。  面白いことにイエス・キリストは、身体の健康のみならず「心の健康」も『舌(人が話すことば)』に反映されるとおっしゃいました。偉そうなことばかり口にする人は、実は心に不安や劣等感を抱えており、いやらしい言葉を連発する人は不純な思いに満ちており、人の批判ばかりする人は、心がプライドや怒りに冒されてしまっています。「あの人のあの時のあの言葉に深く傷付けられて以来、私の人生はメチャメチャになってしまった…」などという告白を聞いたことはありませんか?  しかし『舌(ことば)』というものはそのような「否定的な力」だけではなく、人を励まし、勇気付け、悩みや混乱から救い出す力も持っています。正しいタイミングに正しい方法で語られた正しい言葉は、何にも代えがたい力を発揮するのです。但し、そのためには、まず私たちの「心の状態」が健康に保たれていなければなりません。そのためにも、『神のいのち』に満ちた聖書のことばを豊かに心に満たしておくように心がけましょう!

(483) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。”

 『勇気』という言葉を聞くと、「敢えて危険に向かって行くヒーロー」などを思い描いてしまいそうですが、実際私たちが『勇気』を必要とするのは、そのような大それた状況ばかりなわけではありません。むしろ「正しいと分かっていることを、臆せずに成し遂げること」は『勇気』の最も日常的な形であり、誰もが必要としているものです。では何故、そのような日常的な出来事に私たちは『勇気』を必要とするのでしょうか?それは残念ながら、誰もが必ずしも「正しいことだけを行おう」としているわけではない」からです。  「人目を気にする」日本人は、更にこのような『勇気』を必要とする場面が多いのではないでしょうか?「長い物には巻かれろ」といったことわざが横行する日本では、これから自分がやろうとしていることが「最善ではない」と気付いても、大勢が同意してくれないならば方向転換するのは非常に困難です。そして真の『勇気』が必要とされるのは、まさにこういう時なのです。  イエス・キリストは、ご自身が十字架において成し遂げる「罪の贖いのみわざ」を受け入れる人々が、やがて「この世の流れ」に抵抗しながら生きるようになることをご存知でした。だからこそ予めそれらの人々に冒頭のような励ましを送られたに違いありません。イエス・キリストを通して神との関係に生きるようになると、『真に正しいもの』が見えてきて、更に「正しく歩みたい!」という強い願いが起こされるようになります。そのような生き方のために無くてはならないものが、この『勇気』なのです。そしてこのように「神に向かって正しく生きるために『勇気』を奮い起こそうとすること」を『信仰』と呼ぶのです。

(482) “主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。”

 『回復』という言葉は、正常の状態からどこか具合が悪くなってしまった後に、そこからまた元の正常な状態に戻った時に使いますよね。そして聖書は、私たちがイエス・キリストを信じることによって神から受け取る祝福を『救い』と呼ぶと同時に、『回復』とも呼んでいます。すなわち聖書は、キリストを通して神と出会うまでは、私たちは生まれつき「正常ではない状態にある」というのです。それは一体どういう意味なのでしょう?  聖書の神は『創造主なる神』です。彼が私たちの『創造主』であるならば、当然私たちの人生の「最善の使い道」はこのお方が1番よく分っています。そのことを忘れて「自分勝手に人生を浪費してしまっている状態」のことを、聖書は『罪(的外れ)』と呼んでいます。神は私たちをこのような状態から『回復』させたいと望んでおられるのです。キリスト教が教えているのは、何か私たちの人生を「様々な教えや宗教的ルールでがんじがらめにすること」ではなく、「私たち人間(聖書は「神の最高傑作品」と呼んでいる)を『宝の持ち腐れ』状態から、フル機能を発揮できるようにすること」なのです。これこそ、まさに聖書が呼ぶ『回復』なのです。  イエス・キリストがこの地上に現れたのは、「私たち人間の心を『創造主なる神』に向けさせるためである」と聖書に書かれています。この『聖書』という私たちの人生の取扱説明書を通して、『創造主なる神』という人生の「力と知恵の源」とつながることを通して、私たちは「神による回復」を体験することができるのです。

(481) “霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。”

 あなたにとって『良い人』とはどんな人ですか?欲しい物を何でもくれる人?困った時にはいつでも助けてくれる人?自分に対して嫌なことは1つもしないで、楽で楽しいことだけをさせてくれる人?  聖書は、「この天地を造られた創造主なる神は『良いお方』である」と教えています。ところがある人々はこのことにつまずきます。何故なら、それらの人々の持っている『良いお方』のイメージと、実際の聖書の神のご性質とが必ずしもマッチしないからです。彼らの『良い神』は、まさに冒頭に挙げたような「自分にとって超都合の良い存在」であるからです。  聖書の神は、『父なる神』とも呼ばれています。そして「欲しい物は何でもくれて、楽で楽しいことだけをさせてくれる父親」が『良い父親』ではないことは、ちょっと考えてみればすぐ分かります。もちろん幼児の頃から厳しくしてばかりいたら、それは『幼児虐待』ですが、青年期に達してもまだ甘やかしてばかりいるような父親は『ダメな父親』ではないでしょうか?同様に聖書の神も、私たちの信仰の成長度に応じて敢えて『試練』をお与えになります。それは神が意地悪だからではなく、むしろ『良いお方』であって、私たちの更なる成長を願っておられる方だからです。私たちにとって『良い方』とは、私たちを「自己最高の人生」へと導き、またそれにふさわしく訓練してくれる存在なのです。  私が学生の頃は、どちらかというと保守的な考え方を持っていました。つまり「冒険をしない性質(たち)」だったのです。ところが大学1年の時にキリストと出会って以来、これまでの私の人生はまさに波乱万丈です。そしてこの40年の道のりは私を大きく成長させてくれました。だからこそ私は、私が関わるすべての人がこの「キリストを通しての神との関係」に生きるようになり、『自己最高の人生』へと歩み出すようになるようにと、切に願っているのです!

(480) “隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。”

 『縁の下の力持ち』っていう言葉がありますよね?人目に立つところで働いているわけではないけど、実は「無くてはならない働きを担っている人」のことを指しているわけです。こういう働きの事を英語では「Behind the scene」と言います。「見えているところの裏側」という意味です。  例えば、コンサートや何かのイベントに参加した時に、私たちが注目するのは「華々しくステージの上で活躍している人たち」だけですよね?見えない所で多くの人たちが関わっていることに気付くのは、せいぜい何か問題が起きた時(マイクの調子が悪いとか、照明がおかしいとか…)だけでしょう。そして「全く裏方は何やってんだ!」と文句を言うわけです。問題なくプログラムが進んでいる時には、『裏方』の存在など気にも留めていないにもかかわらず。  聖書はそんな『縁の下の力持ち(裏方)たち』のために素晴らしいエールを送ってくれています。神様はまさにそんな「人目に立たない所で私たちが払った労苦」を決して見逃すことなく、正当に評価してくださるというのです。神の目には「隠れているもの」など1つもないからです。  ここで大切なことは、私たち自身も「神様は目には見えないから、信じない」などと言わず、『見えないけれども、そこにいてじっと見守ってくださっている神』にしっかりと思いを向けることです。神様は『目には見えない方』だからこそ、「人知れず行われたあなたの心を込めた行い」に目を留めてくださっているのです。ですから「どうせ誰にも気づいてもらえないから…」などと気落ちすることなく、いつでもどんな状況においても、自分ができるベストを尽くし、精一杯の心を込めて、喜んで『縁の下の力持ち』という価値ある役割を担って行きましょう!

(479) “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”

 聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。  同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?  『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。  ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。  『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

(478) “律法学者の1人が来て、イエスに尋ねた。「どれが第1の戒めですか?」”

 前回は「聖書をひと言でいうと…」というお話をしましたが、今回はイエス・キリストがおっしゃった「聖書で最も大切な戒め」について書きますね。  この聖書の箇所が言う『律法学者』とは、イエス・キリストの時代のいわば「聖書の専門家・教師」のような存在です。ですからこの質問は「イエスに教えを乞うた」というよりも、「イエスを試そうとした」という方が妥当でしょう。しかしこの後イエスの答えを聞いた彼は、その明瞭・適切な答えに感動して沈黙した、と書かれています。では、イエスは一体どのように答えたのでしょうか?  イエスはこう答えました。「まず第1に『心から神を愛すること』だ。唯一の創造主なる神をおのれの神と認め、このお方だけを礼拝し、そのみこころを求めて従うこと。これが何よりも大切だ。そしてそれと同じくらい大切なのが『自分を愛するがごとくに周囲の人々を愛すること』だ」と。  ここに『3つの愛』が述べられています。「神への愛」「自分に対する愛」「隣人愛」です。この3つに優劣があるわけではなく、『序列』があるんです。すなわち、「まことの『創造主なる神』を知り、この方との愛の関係の中に生きることなくして、『自分自身の真の存在価値』を知ることはなく、真の意味で自分を大切にして生きることもできない。また、自分が神との関係の中で、『神からの深い愛』を体験するまでは、自分自身を注ぎ出して他の人々のことを親身に顧みることができない」ということなのです。  「キリスト教の精神は『愛』である」と言われるゆえんは、ここにあります。それは決して「自分の身を削って、無理して他の誰かのために何かをしてあげる」ということではなく、「神との愛の関係から生まれて来る、心から泉のように湧き上がってくる『神の愛』を、人々の間で注ぎ出しながら生きる」ということなのです。神が私たちを通して他の誰かにご自身の愛を表現されるのを体験する時、私たちは初めて「自分が生まれて来た本当の意味」を発見することができるのです。

(477) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。”

 『聖書』は何千ページもある分厚い本ですが、ひと言でいうと一体どんなことが書いてあるのでしょう?今日はこの難題に限られた紙面で答えてみたいと思います。大体次の3つの内容が書かれていると言えると思います。  ①「神とはどんな方か」ということが書かれている。   ・聖書を読むことを通して、私たちはこの全宇宙を創造された『神』という方が「どのような性質で、どんな願いを持ち、どのようなことを大切にしておられるか」を知ることができます。私たちの地上の親や家族は、時には私たちに対して誤った期待を持ったり、不適切な取り扱いをしたりしますが、この『天の父である神』は「愛と知恵と力」に満ち、私たちの周囲の人々とは全く異なったレベルで私たちをご覧になり、私たちの思いを超えた喜びと満足で私たちの人生を満たすことのできる方です。  ②「私たちとはどのような存在か」が書かれている。   ・聖書を読むことによって、私たちは自分がこの『創造主なる神』にとってどれほどにかけがえのない存在なのか、を知ることができます。確かに聖書には人間というものの「弱さや抱えている問題」も書かれていますが、それ以上に「本来『人』とはどれほど尊厳に満ちた存在で、どのような可能性を秘めているのか」が描かれており、そのポテンシャルを花開かせるための秘訣もそこには述べられているのです。  ③「人と人との関わり」に関して書かれている。   ・聖書を読むうちに分かってくることは、神が私たちを「関係の中で生きる存在」と定めておられることです。あなたは多くの人々にとって「素晴らしい助けや慰め」を与える存在であり、また周囲の人々はあなたに「良き励まし、知恵、そして成長」を与えてくれます。神はある人を通して他の人を祝福しようと、日々機会を狙っておられるのです。  『聖書』は、神が人類にお与えになった、比類のない「悔いのない人生を送るためのインストラクション・ブック」です。やがて全ての人がこの『唯一まことの神』の前に立つ日がやってきます。その時に神に「あなたはわたしがあなたのために著した書物を読んだことがあるか?」と問われたら、胸を張って「はい、あります!」と答えられる者でいたいと思いませんか?

(476) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 私がまだ『クリスチャン』になる前、「クリスチャンって、どんな人?」と訊かれたら、きっと「良いことをする人たち」と答えたと思います。そんなイメージがあったんですよね。それとともに「きっと『良いこと』をしないと『救い』を受けられないのだろう」とも思っていました。それが誤りであることは、自分がクリスチャンになってからはっきりと分かったのですが…  クリスチャン(イエス・キリストを『救い主』と信じることによって、神からの「永遠のいのち」を受け取った人々)が『良い人たち』だと感じられるのは、彼らが「『救われるため』に一生懸命に善行を積んでいるから」ではなくて、「『救われるため』に何の貢献もしていないにも関わらず、ただイエス・キリストを通して現された一方的な神のあわれみを信じ受け取ることによって『救われた』ことへの喜びと感謝」が彼らの人生から溢れ出ているからなのです。  『プライスレス(Priceless)』という言葉があります。直訳すると「値段がない」ですが、実際の意味は「高価過ぎて値段が付けられない」という意味です。聖書が教える『救い』も同じです。神が人に与える『救い』は、あまりにも高すぎて、人間の努力で徳を積むことによっては到底届かないのです。それ故神は、ご自身のひとり子である『イエス・キリスト』の「いのちの代価」を支払うことによって、このイエス・キリストを通してご自身に近づく者が誰でもその『救い』を手に入れられるようにされたのです。

(476) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい。”

 何週間か前に『柔和さ』の話をしましたが、今日はこの『柔和さ』について、ちょっと違った面から考えてみたいと思います。  正義感の強い人は、「自分にも人にも厳しくする」傾向があるように思いますが、これには「良い面と悪い面」があります。『良い面』とはもちろん、自分を律し、周囲の人々に対して良き模範を示すことができる点です。ところが人にはそれぞれ違った『弱さ』があります。「分かってはいるけど、どうしてもできない人」にとって、「私もできたんだから、キミにもできないはずがない!」と強要してしまうことは、時には相手を深く傷付けることになりかねません。  上記に示した聖書の言葉の中の「自分自身も誘惑に陥らないように」というのは、何も自分が、正してあげようとしているその相手と「同じ過ち」に陥ってしまわないように、という意味ではなく、「知らず知らずのうちに、相手を蔑んだり、さばいたりしてしまわないように」という意味です。「相手を正す」とは、「相手をその過ちから立ち直らせる」ということであって、相手を糾弾することが目的ではないからです。  私たちは、何度も警告を与えたにも関わらずそれに従わなかった人が失敗を犯すのを見た時、「だから言ったじゃないか!」とか、「そうなることは目に見えてたよ~」などと突き放してしまいがちです。しかし聖書の神は、私たちをそのようには取り扱いませんでした。彼は、神を認めず敬いもしないで自分勝手な道を進んで過ちを犯した私たちのことをあわれみ、ご自身のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちの『過ち(罪)』の代価を十字架によって支払い、私たちが正しい道へ進むようにと、共に歩んでくださる方なのです。  『柔和な心』とは、相手の弱さを理解しつつ、それでも決してあきらめることをしないで、相手の可能性が最大限に発揮されることを求めて、相手に寄り添い続ける姿勢なのです。

(475) “わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。”

 全ての人類が共通して求めているものの1つに『心の平安』があると思います。お金や娯楽も役に立ちますが、それらは「心の最も深い部分」を満たしてはくれません。言い方を換えるなら、この「心の最も深い部分」が満たされていないために、人はお金や娯楽その他を使って、何とか一時的にでも「心を満たそう」と喘ぐのでしょう。  イエスはこの地上を去る前に「わたしの平安を残す」とおっしゃいました。しかも「わたしが与える『平安』は、世が与えるものとは違う」と。「世が与える平安」とは、基本的に「周囲の状況に依存した平安」です。「物が十分にある」「人間関係が円滑に進んでいる」「身体が健康である」など、日々の生活にこれといった問題がないから『平安』でいられる、というものです。では「世が与えるのとは違う平安」とは、何でしょう?それは「とても平安ではいられないような状況の中でも失われることのない『平安』」という意味です。  ある方は、「そんなことが可能なわけはない。単なる欺瞞だ。」とおっしゃるかもしれません。そんなことはありません。世の中のほとんどの『不安』は、「この先どうなるか分からない」というのが理由です。病気であろうが、自然災害であろうが、経済恐慌であろうが、「すぐに解決する。自分の生活には影響がない。」ということが確実に保証されていれば、人は落ち着いていられるはずです。しかし人間には一瞬先のことも分かりませんし、自分ではコントロールできない状況に陥った時には、いつも『死』という最大の恐怖がちらつきます。それが私たちから『平安』を奪うのです。  「イエス・キリストが与える平安」は、これらの『不安』を一掃する力があるのです。私たちクリスチャンがよく口にする表現に「God is in control」という言葉がありますが、これは日本語に訳するなら「今のこの状況も神の知らない所ではない」というような意味になりますが、もっと詳しく言うなら、「『全能の愛なる神』が、この出来事が起こることを許されたのなら、そこには必ず背後に『良い計画』があるはずだ」という信仰に裏打ちされた言葉なのです。イエス・キリストは『死』さえも打ち破られてよみがえられました。この方に信頼して生きるならば、たとえこの『コロナ禍』の中にあっても失われることの無い『平安』を保って日々を生きることができるのです。

(474) “人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。”

 英語のことわざに、「Flying off the handle」というものがあります。これはハンマーなどのつなぎ目が緩んでいたために、釘を打ち付けようと振りかざした時に、ハンマーの先っぽが柄から抜けて吹っ飛んでしまうさまを表しており、「簡単に癇癪を起こす人への警告」のために用いられます。なかなか面白い表現ですよね?あなたの『ハンマー』は大丈夫ですか?  ハンマーの先っぽが吹っ飛んでしまうと、続いて起こりうるいくつかの災難が思い浮かびます。  ①そのハンマーそのものが使い物にならなくなる。すなわち、癇癪を起こした人の言葉や態度は、それ自体がいくら説得力があり、理にかなっていたとしても、もはや誰も聞く耳を持ってくれず、効果がなくなるということです。本当に相手に分かって欲しいなら、落ち着いた態度や口調で話しましょう。  ②飛んで行った「ハンマーの先っぽ」は、ダメージを与える。怒りに任せて発した言葉や態度は、相手の心を傷付け、時にはその傷が一生残ってしまう場合もあります。あなたは一生誰かからの恨みを背負って生きたいですか?  ③「先っぽをなくしたハンマー」と「与えたダメージ」のどちらも、元に戻すのは大変な作業である。実際、多くの場合は「取り返しのつかないこと」になる場合が多いでしょう。「あの時の『カッとなる気持ち』を、そのまま相手にぶつけたりしなければ…」という後悔を背負って生きている人は、少なくないのかもしれません。  「そんなこと言ったって、人生にはむしゃくしゃすることが多すぎる!」 そうおっしゃるかもしれません。面白いことに聖書には次のようにも書いてあります。「復讐は神に任せなさい」と。聖書の神は『公平』なお方であり、カッとなることもありません。しかも私たちの心を読み取られる方でもあります。本当に不条理なことには、神があなたに代わって公平にさばいてくださいます。このお方にお委ねして、私たちは大きな心で人と接するように心がけましょう。

(473) “柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”

 「柔和な性格」と聞くと、どちらかというと弱々しいイメージがありますが、聖書に出て来る『柔和』という語を原文のギリシャ語で見てみると「制御された力強さ」という意味だと分かります。この『柔和』という描写は、聖書の登場人物の中では「イエス・キリスト」や「モーセ」などに用いられています。両者とも様々な困難に直面する中で、決して心折れることなく、多くの民を神への信仰と従順へと導き励ましました。  「すべての人を喜ばせること」は、誰にもできません。真剣に人生を歩めば歩むほど、必ずいちゃもんを付ける人や妨害しようとする人が現れます。ある意味、私たちの人格的な成熟度は、このような人たちにどのように対処するかに現わされると言っても良いでしょう。このような場面で、次の3つくらいの態度が考えられます。  ①おじけづく: 真の『柔和さ』を十分に身に着けていないと、このワナに陥る傾向があります。相手に気に入ってもらおうとするがあまり、不必要な代価を払ってしまうのです。そのため「本当に大切な人間関係」を傷付けてしまう可能性があります。  ②反抗する: このような態度は「自信の現れ」ではなく、むしろ「自信の無さの現れ」です。つまり『心の不安』の故にむきになって自己主張しようとするわけです。このような態度はかえって敵を増やし、自分自身を窮地に陥れます。  ③柔和な態度で冷静に対応する: これができるのは、自分自身の言動に強い確信を持ちつつも、相手の言動を正しく尊重することができるからです。「真に柔和な人」は、落ち着いて相手の話を聞き、正しく「良いものと悪いもの」を見分けることができるのです。  『柔和さ』とは、次のように自問自答できることだと言えるでしょう。「ここで自分自身を押し通すことと、この人との関係を保つこととは、どちらがより価値あることだろうか?」

(472) “神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる。”

 神の存在を信じようとしない人たちを『無神論者』と言います。彼らは「神の存在を信じるなんて、実に『非科学的』である」と主張しますが、これは大きな誤りです。何故なら、何かに関して「それは決して存在しない」と断言することこそ『非科学的』だからです。無神論者は、神の存在を「信じようとしないこと」はできますが、「神の存在自体を否定すること」は科学的に不可能です。そしてもちろん、「神の存在を信じようとしない人がいるから」といって、神が存在しなくなるわけではありません。  『神』すなわち『創造主』を信じないということは、よくよく考えるなら実に無謀なことです。『創造主』の存在を否定してしまうなら、一体どのようにして様々な『被造物』の存在理由を説明できるのでしょう?日々私たちの目を楽しませてくれる美しい花々は一体どこから出てきたのでしょう?これらの花々からミツバチたちが蜜を集め、私たちに美味しい蜂蜜を提供してくれるなんて、誰が考えたのでしょう?私たちが毎日必要な酸素を、緑の木々が提供してくれるように、一体誰がアレンジしてくれたのでしょう?『無神論者』とはすなわち、これら全ての出来事は「偶然の産物」ということで片づけてしまう人たちなのです。  あなたももしかしたら今までは「神を信じるなんて愚か者のすること」と思いかけていたかもしれませんね。でも実際のところ「神の存在を信じないことほど無知で愚かなことはない」というのが、はるかに妥当な考え方なのです。

(471) “神は我らの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

 2022年、明けましておめでとうございます。今年こそ『コロナ禍』が過ぎ去って、もう少し自由に行き来し、友人たちと対面でじっくりと語り合えるようになると良いですよね。  さて、「ピンチの時こそ、その人の真価が現れる」と言われますが、その『真価』というのは、しばしばその人が「何に根差して生きているか」によって大きく左右されます。もし私たちが単に「自分の知識や経験」にのみ頼っているのなら、不測の事態に直面した時には容易に浮き足立ってしまうことになります。しかしそんな時、この天地を創造し支配なさっておられる全能なる神に頼ることを知っているなら、揺るがされることはありません。それはあたかも地中深く根を張っている樫の木の大木のようなものです。これらの大木は何百キロもの範囲に渡って根を張っており、山火事やどんな干ばつに遭っても枯れることはありません。  人生には、山火事のような「周囲からの脅しやプレッシャー」、また干ばつのような「思いもよらぬ不幸や危機」に直面することがあります。そのような時に、単に『自分の力や能力』ではなく、あなたを愛し守り支えてくださる『全能の神』に信頼を置いていることは、まさにこの樫の大木のような根をもっていることに他なりません。 この新しい年、一体どんなことが起こるのか想像もつきませんが、日々この創造主なる神に信頼を置き、たとえどんなに思いがけない局面に立たされることになっても「揺るがされることのない」歩みをしたいものですね。

(470) “「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。”

 新しい年明けが近づきましたね。何か「2022年に向けての目標」なるものは思いつきましたか?もしまだの方は、これからお話しすることを参考にしてみてください。  恐らく多くの人が「より素敵な人柄、より優れた人格」を目指しておられることと思います。でも何となく漠然としていて、どこから始めたら良いのか考えあぐねておられるのではないでしょうか?または過去に様々な『立派な決断』はしたものの、長続きしなかったというような経験もあるかもしれませんね。既にお気づきかもしれませんが、「人格的成長」とは、そんな大それたことをする必要があるわけではないのです。  私たちは皆、日々数えきれないほどの『選択』をしながら生きています。目覚まし時計を止めながら「今起きるか、もう少し寝るか」とか、「朝食を食べて行くかどうするか」「何を着て行くか」「どの道を通って行くか」などなど。そして多くの場合私たちは「それをしたいかどうか」、または「それをしてもよいかどうか」で決めているのではないでしょうか?実はここでもう1歩進んで「それが自分にとって益になるかどうか」を思い浮かべてみて欲しいのです。  幼い子供は何をするにも親のところにやって来て、「ねぇねぇXXをしてもいい?」と尋ねます。親は我が子への愛情の故にそれを許可したり禁じたりしますよね?そうやって「幼い頃にしつけられた習性」に助けられながら、私たちは大人になると『自分の意志』で物事を選択・判断するようになります。  私たちの創造主なる神も同じです。神は聖書を通して私たちに『基本的なこと』を教えてくださいます。しかし詳細に関しては私たちの『自由意志』にお任せになります。もし私たちがこの「聖書による基本的な判断基準」に助けを得ながら、日々直面する選択を「これは自分を更に建て上げることになるのか?それとも、単にその場での満足のためなのか?」と問いながら、『良い方』を選んでいくことを繰り返していくなら、2022年の終わりにはきっと「今の自分よりひと回り成長した自分」と出会えるはずです。

(469) “人を富ませるのは主の祝福。”

 もしかすると多くの方々は「キリスト教徒の人たちは『お金』には関心がない」と考えておられるかもしれません。確かにクリスチャンの方々は『無欲』である傾向があるかもしれませんが、決して「お金に関心がない」わけではありません。面白いことに聖書は『祈り』というテーマに関して述べている箇所が500か所くらいあるのに対して、『富』また『金銭』に関して述べている箇所は2000か所以上もあるのです!もちろんそれらは「どうやって儲けるか」を教えているわけではなく、「『富』というものをどのように賢くしかも公平に取り扱うべきか」について多く語っています。実際この『お金』というものを正しく扱うことができないために、多くの人間関係(夫婦関係も含めて)が壊されているのです。  神様は私たちを『精神的』な面だけでなく、『経済的』にも祝福したいと望んでおられます。しかしもちろん「気違いに刃物」を渡すようなことはしません。すなわち、私たちを経済的に祝福する前に、まず私たちが「正しく公平に『富』というものを扱える者」となれるよう、教育してくださいます。だからこそ『富』に関して聖書を通して多くを語ってくださっているのです。基本的に『富』は「楽な人生を送るため」に与えられるのではなく、「相応の労苦を積んだ報酬」として与えられるものです。それを「楽をして多くの富を得ること」を目的として詐欺や盗みを働いたり、高給を求めて地位や名誉を追い求めたりすることを、神は決して喜びはしません。  イエス・キリストを信じ従う人々は、『富』というものは「追い求めるべきもの」ではなく、「神が喜ぶことを求め、人々を愛して生きること」の結果として『神から与えられるもの』であることを知っています。だからこそ彼らの生き様は人々の目には『無欲』に映るのです。

(468) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、あなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。”

 大変残念なことですが、多くの人は『真実の愛』をもって「耳の痛い忠告をしてくれる友人」を持っていません。たぶんその大きな理由の1つは、日本のことわざに「触らぬ神に祟りなし」と言われているように、相手が喜ばないことは言わないでいる方が気楽だからでしょう。言い換えるなら、「長きにわたる真実の友情を築くよりも、目先の関係を保つことを重視」してしまうのです。  あるところに「ブレーキの利きが悪い車」があったとしたら、あなたは自分の愛する人にそんな車を運転することを勧めるでしょうか?そんなことをするわけないですよね?たとえその相手がどんなに「私は急いでるんだから、とにかくこの車を今すぐ使わせてよ!」と声を荒げてあなたに迫ったとしても、あなたは決してその車の鍵を渡さないはずです。「こんなところで言い争いをするのは嫌だから、ともかく運転させてあげよう」とは決して言わないでしょう?  もちろん、「人のあら捜しをして、その欠点を積極的に指摘した方が良い」と言っているわけではありません。思慮の無い忠告は人を深く傷つけることがあります。ここで言っているのは、『真の思いやり』というものは、たとえその場では相手に嫌われてしまうことがあったとしても、誠実さと断固たる態度を持って、相手にとっての『最善の道』を提供することなのです。本来『愛』というものの性質は「相手の最善のために、自分自身が払う犠牲を惜しまないこと」。そしてそんな『愛』の完全な模範はいつでも、「私たちと神との関係を回復させるために、十字架の上で命をささげたイエス・キリストの姿」なのです。

(467) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”

 誰もが「幸せになること」を望んでいるのにもかかわらず、真の『幸福感』を味わっている人はあまり多くはありません。(ちなみに私はその少数のうちの1人ですが…)一体何故なのでしょうか?次の3つの理由が考えられます。 ①『幸せ』を間違った場所で捜している  ・多くの人々は「もっとお金があったら…」「もっといろんなことができたら…」「あんな家庭に生まれていれば…」などと、幸せでないことの原因が自分の環境にあると勘違いしていますが、実際にそれらの環境がすべて揃ったところで幸福感が得られるわけではありません。お金も能力も兼ね備えながら不幸せであったり、何不自由なく育ちながら非行や引きこもりなどに陥ってしまっている人たちはいくらでもいます。私たちの内側には、人や物では埋めることのできない、「神との生きた関係によってしか決して満たすことのできない空間」があるのです。 ②「自分自身の幸せ」ばかりを追求している  ・どんなに「自分自身のため」に何かを求めても、その求めていたものを手に入れた途端に虚しさに陥ってしまうものです。何故なのでしょう?それは、人間は本来「他の誰かの助けになるように造られている」からです。私たちは「自分自身のため」に生きている間は真の満足感を得られない生き物なのです!私たちが「他の誰かが幸せになる」のを助けている時、自分の満足を追い求めていた時には思いつくこともできなかった『幸福感』を体験できるのです。 ③他の人と自分を比べている  ・よくあることですが、やっとの思いで手に入れた品物や技術も、それに優ったものを持っている人と比較した途端に無価値なものに思えてガッカリしたりします。何て愚かなことでしょう!神は私たち1人1人を『比較できない違った存在』としてお造りになったのです。それは互いに尊重し合い、また足りない部分を補い合うためです。 こういうわけで、人にとって「『創造主なる神』を知ること」と、「『真の幸福感』に満ちて生きること」とは決して切り離しては考えられないものなのです。

(466) “イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」”

 『何をするか』ということと、『それをいつするか』ということは同じくらい大切です。せっかくの素晴らしいアイディアや計画も、タイミングを間違えると台無しになってしまうことがありますよね?  誰でも知っている英語で『グッドタイミング(Good Timing)』というものがありますが、私たち「神を信じる者」が使う、これに似た言葉で『ゴッズタイミング(God’s Timing)』というものがあります。これは「神が用意しておられる絶妙なタイミング」のことで、しばしば私たちが望んでいるタイミングとは異なるのです。  私たちは『善は急げ』と言って、良いアイディアが浮かぶとすぐに行動を起こそうとします。確かにそれがうまく行く場合があることは認めます。しかし「慌てる乞食は貰いが少ない」ということわざもありますよね。「自分のアイディア」「自分の都合」のことばかり考えて行動しようとすると、『最善の結果』を得られないで終わってしまいます。そして多くの場合は「神の絶妙なタイミング」というものは、私たちが考えているよりもずっと後からやってくるのです。それは何故かというと、神は「与えようとしている物」のことだけではなく、「それを受け取る私たち」をも『最善の状態』に整えようとしておられるからです。  『神の約束』というものはある意味『種』のようなものです。目に見える実を結ぶ前に、深く地中に根を張らなければなりません。またそれは親が子を産み育てることとも似ています。まず胎盤に小さな小さな「受精卵」が着床し、それからゆっくりと時間をかけて子宮の中で成長して行くのです。その間親は何をしているのでしょうか。当然、やがて生まれて来る赤ん坊のことを思い描きながら、出産・子育ての準備をするのです。単に用品を買い揃えるだけでなく、出産や子育てのための情報や知識を得、そして妊婦さんの内面も『女性』から『母親』へと変えられて行くのです。  天地を造られた全能の神は、私たち1人1人に「何が必要」で、それを「いつ与えたら良いか」をよぉくご存知です。ですから慌てることなく、『ゴッズタイミング』を信じて待ち望みながら、それを受け取るまでに神が教えようとしておられるレッスンをしっかりと学び取って行きましょう!

(465) “何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

 ある人がリトルリーグの野球の試合を見に行った時のことです。ベンチで声援を送っている少年に声をかけ「今は何対何でどっちが勝ってるんだい?」と尋ねると、「うん、18対0でウチが負けてるんだ」との答え。ちょっと気の毒になって「それはガックリきてるだろうねぇ?」と問うと、少年は元気よく答えました。「まさか!どうしてガッカリする必要があるのさ?だってまだ試合は1回の表で、ボクたちは1度も攻撃してないんだよ?!」  どういうわけか、私たちは大人になるにつれ『夢』を見られなくなり、『希望』を抱きにくくなる傾向があるようです。情勢を見て嘆き、周囲の否定的な言葉に影響されて心を落ち込ませてしまいます。しかしある心理学者は言いました。「私たちの幸福感は、自分の心が何とつぶやいているかよりも、自分の心に何を語りかけるかによって保たれる」と。  「神を信じて生きること」と、「運命に従って生きること」とを混同してしまっている人がいますが、これは誤りです。神は「全てを決めてしまっている」のではなく、「全てを知っておられる」のです。しかし敢えてそれを人に知らせることはせず、かえって人に『自由意志』をお与えになりました。それは、私たちが「神が自分自身に与えてくださっている大いなる可能性」を信じて、大志を抱いて1日1日を前向きに生きて行って欲しいからです。  さあ、あなたは今日『自分の心』に、どんな希望のメッセージを語りかけながら進んで行きますか?

(464) “神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。”

 人は誰でも「誰か、もしくは何か」を拠り所にして生きています。それは『自分自身』であったり、『他の誰か』だったり、『お金や物』だったりするわけですが、そのような「気分に左右される人間」や「時の流れと共に移り変わりやすいもの」を人生の拠り所としているならば、あなたの人生はいつも「危険にさらされている」と言えるでしょう。もしあなたの「精神的な拠り所」を『天地創造の神』以外に置いているのならば、どうあがいても「人生の不安」から逃れることはできません。  聖書が教える『神』にとっての「最大の関心事」は『人』です。神は「人の内側で」、「人と共に日々の歩みの中で」、「人々を通して世界に向けて」ご自身の愛と恵みを表現したいと望んでおられるのです。そして自分自身との関わりの中で働くこの「神のみわざ」に心を向け、またそれらを体験するようになると、私たちは『自分自身』という存在を新しい目で見ることができるようになります。言うなれば、『自分』という人間がどれほどに価値ある存在なのか、ということに気づかされるのです。  「不安を抱えたまま生きること」は、私たちの『人間らしさ』を脅かします。私たちが神様から本来与えられている「自己尊厳性」や「創造性」、そして「人々を愛して生きるという喜び」が失われて行くのです。『神』以外を拠り所にして生きる人は、常に「もっと、もっと」と追求します。それは『成長への意欲』ではなく、いつも「まだ何かが足りない」と感じる『不足感』や『自己中心性』のゆえです。しかし拠り所を絶対的な信頼を置くことのできる不動の存在である『神』の内に見出すことによって、真の充足感を味わうことができ、安心して「自分の心の深みにある人生への情熱・目標」にエネルギーを使うことができるようになるのです。

(463) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 多くの日本人が知っているであろう英語表現に『ネバ―・ギブアップ』というのがありますよね?もちろん「決してあきらめない」という意味ですが、日本のことわざには『あきらめが肝心』というものもあります。一体どちらが正しい態度なのでしょうか?  私たち人間は『正義感』や「多くの人々の益」のために大志を抱いて行動する時もありますが、ひとりよがりで自己中心的な野望のために立ち上がる時もあります。一攫千金を狙って毎年ジャンボ宝くじを買い続けても当たらない時、確かに「あきらめが肝心」かもしれません。しかし困難に直面している人々の救済のため、また愛する家族の関係が危機に陥っている時などは『不屈の精神』をもって最後まで戦い続けるべきでしょう。  私が住んでいるニュージーランド・クライストチャーチは、10年前に大震災が起こり、町の中心街が壊滅しました。(その3週間後に『東北日本大震災』も起こったので、クライストチャーチ在住日本人としては精神的にダブルショックを受け、本当に辛い日々を送りました。この経験は恐らく一生忘れないと思います。) この大震災で何も無くなった町の中心地を更地にした後、気落ちしている住民を鼓舞しようと、市では「Restart Mall(再出発商店街)」と名付けた、貨物を入れるコンテナを利用した(みすぼらしい)ショッピングセンターを始めてくれました。見た目は全然カッコよくなかったのですが、これによって私たちの心は大きく励まされました。「格好悪くてもいい。私たちは震災なんかに負けてはいない。もう1度やり直せる!」 私たちの内にそのような希望が生まれたのです。  『正義』のため、『愛』のために立ち上がろうとする人々に、神は『希望』を与えてくださいます。この『希望』が大きな力になるのです。私たちが「自分勝手な目的」のためではなく、「神の目にかなった正しい心」で全力で前に進もうとする時、人生は何度でもやり直せるのです!

(462) “信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。”

 人を2種類のカテゴリーに分ける分け方はいろいろとあります。「男性と女性」「大人と子供」「イヌ派とネコ派」「楽天的な人と悲観的な人」などなど。そして今日注目したい分け方は「『人に影響を与えながら生きる人』と『人から影響を受けながら生きる人』」です。  もちろん全ての人は多かれ少なかれお互いに影響を与えながら生きているとも言えるでしょう。その中には良い影響も悪い影響もあります。「自分はあの時のあの人のあの言葉のお陰で今日まで生きて来ることができた」ということもあれば、「私はあの時のあの人のあの言葉に深く傷つけられ、未だに苦しんでいる」ということもあります。誰でもどちらかと言えば前者のように積極的・肯定的な影響を与える生き方をしたいものですよね?  実のところ、「人から影響を受けるかどうか」は『個人の選択』にかかっており、「人に影響を与えるか否か」は無意識のうちに起こる出来事です。つまり、私たちが自ら優れた良き人物を選んで、積極的にその人からの影響を取り入れて行くなら、やがては自分自身が優れた良き影響を自然と周囲に与えて行く存在へと変えられて行くのです。ですから私たちは「誰から影響を受けるか」ということを慎重に選ばなければなりません。そして私が100%の自信をもってお勧めできる人物こそ『イエス・キリスト』というお方なのです。  聖書はこの方の言葉を記録しています。聖書にはこの方がなさったことが描かれています。また聖書は、どのようにして直接的にこの方からの影響を日々受けながら生きることができるかをも教えてくれています。私たち1人1人をこよなく愛される神は、この『イエス・キリスト』からの影響によって私たちが変えられることを通して、この世界をご自身の愛で満たそうとしておられるのです。

(461) “すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

 だれでも、時計が遅れ始めたら電池を取り換えますよね?車のオイル交換サインが点滅を始めたらオイルを交換するでしょうし、コンピューターがフリーズしたら再起動させると思います。本当に便利ですね。エネルギーが切れ始めたり不具合が生じたら、それが分かるように知らせるシステムが備わっているわけです。  実は神様が私たち人間を創造された時にも、あらかじめそのような『警告システム』を搭載してくださったのです。けれども私たちはしばしばそれらの警告を無視して活動を継続し、時には取り返しのつかない状況に陥ってしまうこともあります。ぜひ次のいくつかの『警告システム』をチェックしてみてください。  ①最近理由もなくイライラすることがある。②一生懸命にやっているのに認めてもらえていない気がする。③有給休暇を取ろうとする時に負い目を感じる。④後輩を指導する時に、穏やかに話せずに、つい大声を出してしまう。⑤この前「涙が出るほど大笑いした時」がいつだったか思い出せない。⑥休日の終わりが近づくと言いようのない疲れが襲ってくる。⑦ささいな失敗をした時に、つい必死に言い訳を考える、などなど。これらのものは決して「当たり前な態度」でも「過剰な反応」でもなく、創造主なる神が生まれつき私たちに与えている「休養とリフレッシュが必要だ」と教える『警告サイレン』なのです。  いわゆる「燃え尽きてしまう」という症状は、決して一朝一夕では起こりません。そこに至るまでに必ず上記のようなサイレンが何度も鳴っていたはずなのです。神様が与えてくださった大切な『からだ』、ぜひ「聖書の注意書き」をよく読んで、いたわってあげてくださいね。

(460) “むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、…キリストに向かって成長するのです。”

 あなたにとって『親友(ベストフレンド)』とはどんな存在ですか?少なくとも「自分が言って欲しいことだけを言ってくれる人」また「頼んだことは何でもしてくれる人」などではないと思います。  うわべだけの付き合い、相手に気に入ってもらえることだけを言ったり行ったりすることは、ある意味簡単です。けれども私たちが相手のことを真の意味で愛し、相手にとっての最善のために貢献しようとする時、時には厳しいことを言ったりつらく当たったりしなければならないことがあるのも事実です。  『真の友人関係』に欠かせないものは「大いなる喜びと責任」です。どちらか片方だけを選択することはできません。そしてこのような関係は、時には「いら立ち」「落胆」「多大な忍耐」などを余儀なくさせられることもあります。言うなれば、そのような犠牲を払う覚悟の無い人は、神様が私たちに与えてくださっている「かけがえのない友人関係」という祝福を体験する機会を逃してしまうのです。  『親友』とは、「自分をも相手をも成長させてくれる存在」です。またイエス・キリストは「わたしはあなたがたを友と呼びます」とおっしゃいました。このお方を人生の友として迎えた者同士が「真の友情」を育もうと願うなら、イエスは喜んで助けを与えてくださるのです。

(459) “あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。”

 「驚くべき惑星 地球」という科学映画があります。この映画に描かれていることは2つあり、1つ目は「地球がいかに特別な環境に造られていて、ほんの少しでも環境が違っていたら決して生物は存在できなかった」ということ。そしてもう1つは「地球が全宇宙の中でいかに特別な位置に置かれていて、ほんの少しでもズレていたら決して他の天体を観測することはできなかった」ということです。すなわちこの映画が私たちに伝えようとしているのは、「人知を遥かに超えた何者かが、この全宇宙の壮大さを、別の知的存在に伝えようとして、地球を『特別な環境・位置』に形造った」ということなのです。  聖書の冒頭にある『創世記』の第1章を読むと、そこには6日間で地球を含む全宇宙を創造し、6日目の終わりに私たち人類をお造りになられた神の創造のみわざが描かれています。それはあたかも、私たち人間を最終目的として、私たちが「与えられた知性・能力を最大限発揮できるように」と、そのための最善の環境を神があらかじめ整えてくださったかのようです。  私たちは、壮大な天を見上げ、永遠に変わらず輝き続けているかのような太陽・月・星々を見ると、まず自分の存在のはかなさを思わされますよね?しかしそんなちっぽけな自分を目に留め、『かけがえのない存在』として顧みてくださる偉大な創造主である神を思い、神が自分に対して抱いておられる、人間の思いを超えた驚くべき夢やご計画に気付かされた時、私たちは畏敬の念を抱かずにはいられません。  確かに私たちは「自分たちにはどんなことも許されている」かのように思い上がって、思い気ままに自然環境を破壊し、自分たちの欲求を満たそうと地下資源を浪費すべきではありません。しかしその反面「自分には何の取り柄もない。誰の役にも立っていない。こんな自分は生きていても仕方がない。」というように、自分の存在に価値を見出せないでいる人々に対して、聖書は『真の希望のメッセージ』を送っています。それは、この全宇宙を形造られた唯一偉大な神がおられて、その方が私たち1人1人に目を留めておられ、特別な計画を持っておられ、そしてそのプロジェクトを一緒に担って欲しいと今日も切に願っておられる、ということなのです!

(458) “地のすべての部族は、あなたによって祝福される。”

 私たち夫婦の長男の名前は『基(もとい)』と言います。「多くの人々の祝福の基になって欲しい」という願いから名付けたのです。  神は私たち1人1人を単に「自己実現」のためにお造りになったのではありません。もちろん「与えられたポテンシャルを十分に活かして生きるように」と望んでおられますが、それは単に「自分自身の益のため」だけではなく、「神の祝福を他の人々に分け与えるため」でもあります。では私たちは一体どんなものを他の人々に『分け与える』ことができるのでしょう?  ①時間 ― 財産や能力は人によって違いがありますが、『時間』だけは全員に等しく与えられています。そしてまた『時間』というものは1度過ぎてしまうと決して取り戻すことができません。だからこそ、この『時間』というものを他の誰かの必要のために使う時、私たちはその相手に、「あなたは価値がある存在なのだ」というメッセージを送っているのです。  ②持ち味 ― 「人がそれぞれ違う」ということは、それぞれが担うべき特別な役割があるということです。「私はあの人のようなことはしてあげられない」と感じることがあるかもしれませんが、神様はあなたが『他の誰か』のようになって欲しいなどとは期待していません。ただ、「あなたならではの持ち味」を生かした援助を差し出す者となって欲しいと願っておられるのです。  ③持ち物 ― 「私はそれほど裕福じゃないし…」と思われるかもしれませんが、不思議なことに『貧しい人々』ほど持ち物を共有して助け合い、『裕福な人』ほど出し惜しみするものです。神の祝福は「豊かに分け与える人」の上にこそ、更に増し加えられるのです。  ④心遣い ― 『愛』の反対語は『憎しみ』ではなく、『無関心』です。皮肉なことに、文明が発達して行くにつれて人類は周囲に対して「無関心」になってしまいました。都心を歩いていると、人々はただ正面だけを見て早足で歩いています。それらの中には「すれ違う人にほんの少し微笑みかけられる」だけで元気を回復することができる人がいるかもしれません。  『神の祝福』が、今日もあなたを通して、他の誰かに流れて行きますように。

(457) “愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。”

 時々「聖書は非科学的な書物」というような偏見を持っておられる方と出会いますが、そういう方々にはぜひ、科学の発展とともに「科学的な新発見が聖書の記述を裏付ける方向へと進んでいる」ということを知っていただきたいと思います。  例えば、上記の聖書のことばは『恐れ』と『愛』というものが互いに相容れないことを述べていますが、これは「子供の成長」ということを考える時によく分かります。子供が健康に成長・発展するためには次の2つの要素が必要です。①新しいことにチャレンジすること。②「失敗しても大丈夫だ」と安心していること。まあこの2つは、子供の成長だけに限らないわけですが…  専門家の調査によると、大抵の家族においては、その両親の片方はどちらかというと子供に冒険させることを好み、他方はむしろ子供を危険から保護しようとする傾向があるそうです。そしてそのような環境で子供が育つ時に、子供たちは前述の①②両方の要素に支えられて成長できるわけです。とはいえ、実際は1人の親の中に多かれ少なかれ両方の資質が備わっているということも言えると思いますが…  人間は不安な状況に陥ると、体が自然に反応し、心臓の鼓動が早まり、呼吸が頻繁で浅くなり、筋肉が緊張してきます。するとそれらを回復するために、安心できる場所、自分を守ってくれる存在のところへと走って行くのです。そしてそのような場所や人に辿り着くと、心拍数や呼吸は正常値へと回復し、次のような思いが浮かんできます。「よし、もう1回挑戦してみよう!」  創造主なる神は、私たちをご自身の『子供』として、その健康な成長へと励まし、導いてくださいます。それ故神は私たちの人生にチャレンジを与えると同時に、私たちが助けを求めて叫ぶ時、愛をもってその求めに応じてくださるのです。

(456) “その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。”

 子ども向けの人気番組に『おかあさんといっしょ』という番組がありますよね?恐らく私が生まれる前から放送されていて、未だに多くの親子に親しまれている番組だと思います。この「おかあさんといっしょ」というタイトルそのものに、まず惹かれますよね?幼い子供にとって、どんなおもちゃやぬいぐるみよりも、「お父さんやお母さんが一緒にいてくれること」に優るものはないはずです。  聖書の神も、どんなに「力強く」「愛に満ち」「願いを叶えてくれる」存在だったとしても、「肝心な時に一緒にいてくれない神」なのだとしたら、きっと今のように多くの人々から信頼され慕われてはいないでしょう。しかし、この神は「いつも、いつまでも共にいる」と約束してくださっています。イエス・キリストの別名に『インマヌエル』というものがありました。その意味は「神が私たちとともにおられる」です。では何故そのような名がイエス・キリストに付けられたのでしょう?  神は本来私たちを「神と共に生きる存在」としてお造りになりました。ところが初めの人『アダム』は、そんな神から自立して自分の思い通りに生きたいと願い、敢えて神との約束を破ったのです。この出来事以来、人間の『罪』が、私たちと神との仕切りとなり、「聖さに満ちた神」は私たちと共に過ごすことができなくなったのです。しかし神はこの『全人類の罪を贖う代価』として、ご自身のひとり子イエス・キリストを「人として」地上に遣わし、私たちの身代わりに十字架にかけたのです。  今や私たちは、この「人と神との懸け橋となってくださった」イエス・キリストを信じる信仰によって、文字通り「神と共に生きる」ことができるようにされたのです。この驚くべき神のわざを現している名前が『インマヌエル』なのです。

(455) “愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。”

 『愛』とは、何かロマンティックな感覚ではありません。『真の愛』とは、『行動』です。  「愛の宣教団」の創設者として知られる『マザー・テレサ』は、太平洋戦争直後の1948年にカルカッタを訪れ、まず最初に5人の孤児を集めて「青空教室」を始めました。不潔な生活をして病気がちだった彼らに「衛生管理」を教えるためです。やがてこの生徒数は40人以上に膨れ上がりました。そしてその後これらで訓練された若者たちを中心に、有名な「死を待つ人の家」の働きが始められたのです。ごみ溜めの中で、飢えと病のために死にかけている人々を拾って来ては、その最後のひと息まで全力を傾けて世話をする彼らに、死に行く人々は口々に「どうして私たちのような者にこうまでしてくださるのですか?」と尋ねました。返って来る答えはいつも同じでした。「愛のゆえです。」  忙しく働くことで自分自身の存在価値を見出そうとするような時代になっています。しかし「忙しく走り回ること」はしばしば「助けを必要としている人に気付いてあげられない」、もしくは「たとえ気付いたとしても、助けようとしない(または『邪魔者』と感じる)」ような人々を育てて行きます。まさに『忙』とは、「『心』が『亡びる』」ことなのです。  ロシアの文豪『トルストイ』の著作に「愛のある所に神あり」という短編があります。神はいつでも「私たちと一緒にいたい」、「私たちと共に働きたい」と願っておられます。そしてそのような機会を捜しておられるのです。私たちがふと足を止めて周囲を見渡し、助けを必要としている人に手を差し伸べるなら、あなたはその時「神は確かにおられる」という深い確信を体験できるに違いありません。

(454) “死と生は舌に支配される。”

 日本のことわざにも「口はわざわいの元」と言われますが、私たちが肯定的な言葉を日々口にするか、または否定的なことばかり言っているかは、私たちの人生を大きく左右します。「どうせ私なんか…」とか、「そんなの無理~!」という言葉を連発しているなら、できるはずのこともできなくなっていき、将来の可能性をドンドン狭めていくことになるのです。  日頃どんな言葉を口にしているかは、もはや私たちが無意識に行う『癖』のようになっており、否定的・消極的な態度を改善していくには、外側からの助けが必要です。そして私たちにとっての「最強・最善の助け」とは、全能の創造主なる神であり、また彼の口から出た『聖書のことば』です。キリストの使徒パウロは、「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです!」と宣言しました。彼の人生は試練の連続でしたが、むしろ彼はそれらの試練を体験することによって「自分の思いではなく『神のことば』に信頼する」という基本姿勢を確立して行ったのです。  私たちの人生を決定する要因は、「私たちの人生に起こる出来事」が20%、そして「それらの出来事にどう対処するか」が80%だそうです。そしてこの『どう対処するか』は、「私たちの心の態度」に起因しています。そして私たちの心の態度を形作るのが、「日々どのような言葉を発しているか」なのです。そのような意味でも「日々聖書の言葉に触れること」は、私たちの人生をより積極的・肯定的に引き上げて行く大きな力となるのです。

(453) “すべてのことにおいて感謝しなさい。”

 次の文章の空欄に、あてはまることばを入れてみましょう。 「私の人生は絶対にもっとマシになるはず!もし私の体型が    だったら…、顔が    だったら…、親が    だったら…、配偶者が    だったら…、友人関係が    だったら…、収入が    だったら…」  考え出すとキリがありません。でもついつい考えてしまいますよね?そんなアナタに1つの提案です。  この「もし    だったら、ずっとマシなはずなのに…」という思考パターンを、「私の人生を少しはマシにするには、どうすれば?」という思考へとシフトしてみるのはどうでしょう?そうすると、少なくとも次の3つの変化が起こり始めるはずです。   ①それまで「後ろ向き」だった自分の人生に関する視点が『前向き』になる。   ②現時点で自分に与えられている物・資質・人間関係などに対する関心が高まる。   ③「感謝の心」が湧いてくる。  誰であっても「自分が持っていないもの」に気を取られている間は、感謝の気持ちはほとんど湧いてきません。ところが一旦「今の自分に何が与えられているか」を意識し始めると、驚くほど多くのものを見つけることができ、自然に『感謝の心』が湧いてくるのです。「飲み水があること」「太陽が昇ること」「雨風をしのげる場所があること」「思い浮かべることのできる知り合いがいること」などなど、普段は『当たり前』と思ってほとんど忘れてしまっているようなことがたくさんありますよね?  聖書が教えてくれている『神様』という存在も、それと似ています。いつも私たちの近くにおられるのに、私たちが他のことにばかり気を取られているので、ピンチになったり痛い目にあった時だけ「文句を言う相手」にされたり、「お願い事の対象」にされたりしているのです。何だかちょっと可哀そうな気がしませんか?  神様はあなたを愛しておられ、いつもご自身の祝福であなたの人生満たしたいと願っておられます。ただあなたの心が「後ろ向き」だったり「うつむいて」いたりしている間は、その祝福を見つけたり受け取ったりすることができません。上記のように、ちょっと『思考パターン』を変えてみる、これが「神と共に歩む人生」をスタートするきっかけとなるのです。

(452) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 前回『成長』について述べましたが、「成長を目指すこと」と「人からの評価を期待すること」は全然別なことです。『成長』とは、いわば「より上を目指して全力を尽くす」ということです。そしてそれは「肉体や能力における成長」などの『外面的成長』と、「品性や人格的成熟度」に現れる『内面的成長』の両方を含みます。  「神が私たちの創造主であると信じる」ということは、単に「困った時に神頼みする」ということではありません。「最高・最善であるお方に造られた存在」として自分を見つめ、また取り扱うということです。ですから「成長を目指す」とはすなわち、「この偉大な造り主に恥じない生き方をしようとすること」と言えるでしょう。たとえ誰も見ていないところでも、たとえそれが1円の得にもならなくても、「すべてをご存じで、すべてをご覧になっておられるお方を笑顔にさせる」、ただそのことを目指して、持てる力・知識・善意をフル活用して1つ1つのことに対処する。これが「成長を目指す」ということです。その結果として人々の評価を受けるとしたら、それはオマケのようなものです。  大変残念なことに、最近は「そこそこの仕事をしておけばオッケー!」というような風潮が増えているように思います。もちろん「上司の命令は絶対。残業手当が出なくても、残業は当然!」などという、人格を無視したような雇用態度はもってのほかですが、私たちを造り、私たちを愛し、常に私たちの『最高・最善』を期待して日々励ましてくださるお方を喜ばせるために、今日も「成長を目指して」進んで行きましょう!

(451) “叱責を大事にする者は賢くなる。”

 賛否両論あるかとは思いますが、東京オリンピックでの日本選手たちの活躍ぶりは素晴らしかったですね!メダルを取った人も、残念ながら取れなかった人も、私たちの代表として競ってくださり、本当にありがとうございました。  さて、どの種目においても『金メダル』を取れるのはたった1人ですが、私たちの人生の目標は必ずしも1等賞になることではありませんよね?私たちの子供たちがまだ幼かった頃、よく彼らに言い聞かせたことは、「『昨日の自分』よりも『今日の自分』、そして『今日の自分』よりも『明日の自分』が、何らかの形で1歩優れた者となれるように努力しようね」ということでした。「成長できない人」は、『死人』だけです。生きている限り私たちは『成長』することができます。  ところで、私たちが『成長』しようとする時に経験する共通の『障害物』があります。それは、私たちの中にある「楽しくないことには敢えて挑戦しようとしない」という性質です。新しいことに挑戦したり、周囲が理解してくれないことをしようとする時、私たちはどうしてもためらってしまいます。ですからどうしても「今までやってきた慣れていることを、今までやっていた方法で、今までやっていた場所で、今までやっていた人たちと一緒に、今までやっていた通りに行うこと」に甘んじてしまうのです。しかしそれでは『成長』は望めません。  最近、素敵な友情を描いたドラマをいくつか観ました。それらの友人関係に共通していたのは、お互いに「耳の痛い助言」を言い合いつつも、相手が悲痛な思いでいる時に、そっと傍で一緒に泣いてくれることでした。それはまさに『私たちの友』となってくださるイエス・キリストの姿です。彼は私たち1人1人が、与えられている潜在能力をフルに発揮できるようにと、時には厳しく、そして辛い時にはそっと傍らにいて支え励ましてくださるのです。この方と共に日々『成長』して行きましょう!

(450) “必要な時に、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。”

あなたはどんなタイプの人と一緒に時間を過ごしたいですか?不機嫌な人?冷たい人?それとも何事にも否定的な人ですか?もちろん違いますよね?やはり一緒にいるなら、明るくて、元気で、肯定的な人だと思います。そういう人と時間を過ごすなら、それまで落ち込んでいた気持ちさえもどこかへ吹き飛んで、再び前向きに歩き出せるようになるはずです。 ところで、あなた自身も、誰かと会う時には必ず相手に何らかの「あと味」を残していることを知っていましたか?それらは、①元気を与えている ②ガッカリさせている ③変わり映えしない のうちのどれかです。どうせなら「良いあと味」を残す者になりたいですよね?ではそのような人となるにはどんなことを心がければ良いのでしょう? この世に『完成されている人』は1人もいません。全ての人は相変わらず「成長の余地」を残しています。ですから、「相手がより成長するために何ができるか」をいつも考えながら接するのです。これを聞くと「そうしたら他の人ばかり助けていて、自分は少しも成長できない」と思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。実は、「たった1代で大きな業績を築いた人100人」の統計を調べたところ、1つの大きな共通点が見つかりました。それは、彼らはいつも「他の人のポテンシャルを最大限引き出そうとしていた」ということです。 この世の雑誌や新聞には『否定的なことば』があふれていますが、聖書は『肯定的・積極的なことば』が満ちています。この「聖書の言葉(神のことば)」を日々自分の内側に取り入れて行くことは、自分自身を前向きにし、また人々に対する態度をも前向きにします。そのような心持ちで人々と接する時、あなたは相手に「良いあと味」を残す『人格成長マスター』としての人生を歩むことができるのです。

(449) “すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。”

さて、正直に答えてみてください。最も最近『不平』を口にした(または感じた)のはいつでしたか?「あまりに昔で思い出せない」という方はまずいないと思います。大抵の人は「ついさっき」と答えるのではないでしょうか?私たちは何て「不平不満の種」を見つけるのが上手なのでしょう!まあ考えてみれば、それは人類創生から始まっていました。アダムとエバは理想的な環境に置かれながらも、たった1つだけ禁止されていた『禁断の木の実』に興味を持ち、「どうして神様はこんなにケチなんだろう!」(と聖書には書いてはありませんが…)と不平を持つことでそれを食べてしまって、自分自身に災いを招いてしまったわけです。 ベトナム戦争時代に空軍の指揮官として戦った『ロビンソン・リスナー』は、捕虜として8年間北ベトナムにある独房に収容されていました。彼がこの厳しい環境の中で生き延びることができたのは、独房の床下から生え出ていた1本の草のお陰でした。すべてが希望を失わせるような状況の中で、時折差してくる陽の光によって青々と伸びて行くたった1本の草を日々じっと見つめることで、リスナー将軍は「忍耐して待っていれば、必ず神様が道を開いてくださる」と希望を持ち続けることができたのです。 物事が思うように進まない時、私たちは「何を見つめて生きるか」を選ぶことができます。「絶望か、希望か」「問題か、解決か」「己の力の限界か、限界の無い神の力か」。そしてこの「状況を超えて働かれる神の力」に信頼を置いて生きる時、私たちは問題のド真ん中にあって平安を持ち続けることができるのです。

(448) “私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされた。”

 「自分の勘違いで誰かに疑いを持ち、後になって相手の無実を知り後悔する」、そんな経験をしたことはありませんか?私はあります。ある意味「正義感の強さの現れ」ということもできるかもしれませんが、確かな情報を得る前に早まった判断をすることは、後悔の元ですよね? 聖書に登場する『サタン(悪魔)』の語源は「訴える者」です。サタンは私たちを「罪あり!」と神の前に訴え、私たちの内に不健康な『罪責感』を植え付けて、私たちと神との関係を壊そうとするのです。ということは、もし私たちがよく調べることをせずに誰かを「罪あり!」とみなすなら、自分をサタンと同じ位置に置いていることになるので気を付けましょう。 人の成熟度を測る1つの目安は、「早まって判断を下さない性質」です。誰かを疑わしいと感じても、客観的な目で正確な情報を集め、且つ本人の言い分にしっかり耳を傾けるまでは、決して早急な判断を下すべきではありません。1つの興味深い『模範』は、聖書の最初の部分に出てくる「エデンの園におけるアダム&エバの犯した罪に対する神の対応」です。全てをご存知であるはずの神ですから、初めから「お前たちは一体何という事をしでかしたのか!」と彼らの過ちを責め立てることもできたわけですが、神はそうなさいませんでした。神がまずなさったことは、次のような質問でした。「お前たちはどこにいるんだい?」 そしてアダムが「私たちは裸であることに気付いたので、隠れています」と答えたのに対し、神は更に「誰が、お前たちが裸であることを知らせたいんだい?」「もしかしてお前たちは、わたしが『決して食べてはならない』と教えた木の実を食べたのかい?」と尋ねます。当然神はこれらすべての質問の答えを既にご存知でした。しかし神は敢えて「彼ら自身の口から事の真相を聞こうとされた」のです。 あなたは今までに「ちゃんと事情を聴いてもらうことなく勝手に決めつけられてしまったこと」がありますか?もしあるなら、それがどれほどの痛みを伴うかをご存じのはずですね?ならば同じような痛みを決して他の人に与えることの無いように気を付けましょうね。

(447) “失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。”

聖書の中でとても頻繁に語られている概念の1つに『忍耐強く継続する』というものがあります。まあ日本語でも「継続は力なり」とか「石の上にも3年」などということわざがありますよね。 「我慢強さ」というのは、単に「じっとしながら災難が通り過ぎるのを待つ」というようなものではなく、もっと能動的・積極的な姿勢です。かと言って、近年起こりがちな『燃え尽き』に至るようなオーバーワークとも違います。具体的に言うならば、次の3つの要素が含まれています。 ①「自分の持てる力全てを出し切る」しかし「持っている力以上のものを出そうと無理をすることは控える」 ・神は私たち1人1人に「使うための力や財産、知恵」などを与えてくださっています。いわゆる「宝の持ち腐れ」をして欲しくないのです。と同時に「共に力を出し合うこと」を望んでおられます。神は私たちが「1人ぼっちで戦う」ようには造られなかったのです。 ②『結果』ではなく、『プロセス』によって評価する ・この世は「結果がすべて」と言います。どれだけ頑張っても立派な結果が出せなければ評価してもらえません。しかしこの世の基準でいわゆる『成功』を収めるのはほんのひと握りの人たちだけです。神が私たちを造られたのは、私たちが「結果を残すため」ではなく、「神が与えたものを惜しまず使うため」です。また神は私たちが高慢になることを喜びません。むしろ神を求め、神が私たちを通してご自身の力や愛を表現するために神に頼ることを願っておられるのです。 ③あきらめずに最後までやり遂げる ・誰もが経験していることですが、「『人生』とは思った通りに行かないことが多い」と言うことができます。「こんなはずではなかった…」と思ったことが今までに何回あったことでしょう?けれどもそのような局面で「や~めた」とあきらめてしまう人は、単に「求めていたものを得られない」だけではなく、せっかく神が私たちにほどこしてくれている『成長への訓練』をも受け損なってしまうのです。結果がどうあれ、「最後までやり遂げる」という経験を多く重ねれば重ねるほど、私たちは人生においてより多くの実を結ぶことができるようになるのです。

(446) “柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”

2つの質問をします。①あなたは「傷付きやすいタイプの人」ですか? ②あなたは「他の人を傷付けやすいタイプの人」ですか? 恐らく多くの方々は、①②の質問に対する答えが『両方とも』、「イエス」または「ノー」だと思います。というのは、自分自身の中に「癒されていない痛み」を持っている人は、どうしても自分の態度や言動にその『痛み』の影響が出てしまって、知らず知らずのうちに人を傷付けてしまうからです。ドイツの有名な詩人「ヘルマン・ヘッセ」は次のように言っています。「もしあなたが誰かを憎まずにいられないなら、それはその人の中に『自分と共通の嫌な部分』を感じ取っているからである。もしあなた自身の内にそのような『嫌な部分』がないなら、あなたはその人に煩わされるはずはないのである。」 例えばあなたの足の指先に傷があって、その傷が膿んでいるのにも関わらず、あなたが放っておいているとしましょう。ある時他の人がほんのはずみであなたのつま先を踏んでしまったら、あなたは悲鳴を上げながら飛び上がって、「痛いじゃないか!何でそんなに強く人の足を踏むんだ!」と怒りまくるでしょう。しかしその痛みの本当の原因は、膿んでいる傷を放っておいたあなた自身にあるのです。このように「心に痛みを持っている人」は、しばしば他の人のちょっとした態度や言動に大袈裟な反応を示すのです。 ではそのような人たちとどのように関われば良いのでしょうか?『内面の傷』というものは、大抵癒されるのに時間がかかります。なので優しくじっくりと時間をかけて忍耐強く関わってあげる必要があります。時には罵声を浴びせられるようなこともあるかもしれません。ですから「関わろうとする人自身」がまず精神的に健康である必要があります。それでも大変骨の折れるプロセスです。 1つのお話があります。『清掃業』という仕事はあまり人気はありませんよね。ゴミ集めをしたり、下水管の中で汚水まみれになりながら作業をすることもあります。でも時折作業の最中に「ダイアモンドの指輪」や「高価な骨董品」などを見つけることがあるそうです。そしてそれらは特に届け出をしないで自分のものにしても良いそうです。このように「人に好まれない骨の折れる作業」を継続することは大変なことですが、そのプロセスで思いもよらない『宝物』を発見させてくださる、これが「人々を愛し、いたわろうとする人々」に神様が用意してくださっている祝福なのです。

(445) “主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ。”

私が受験生だった頃(40年前?)、『シケ単』という本が流行りました。ある方は「どうして、そんな『シケたもの』が流行ったんだ?」と思うかもしれませんが、これは『シケた本』ではなく、『試験によく出る英単語』という「英単語暗記用の参考書」の通称です。まあ『暗記』というものが苦手だった当時の私には、あまり役には立ちませんでしたが… ところで、聖書は「神のことばを暗唱すること」を勧めています。私も大人になってから知りましたが、実はこの「暗記する能力」というのは『筋肉』のようなもので、使えば使うほど高められるものなのです。学生時代苦手だった「英単語暗記」でしたが、私がクリスチャンになってから覚えた『聖書のことば』は既に何百もあります。そしてこの「暗記された聖書のことば」というものは、英単語よりもはるかに人生の役に立つのです! 考えてみると、暗記が苦手な人でも、実際には多くのものを「暗記して」いるんですよね。大抵の人は家族や親しい友人の誕生日や結婚記念日、もしかしたら住所や電話番号(まあ今は携帯に記録してあるので、覚えるまでもありませんが…)、そして料理のレシピや道路標識の意味、電車の駅名や順序、もっと言うなら、驚くほど多くの人々の顔と名前が一致するほどに記憶力を使っています。どうしてそれほどに覚えられるのかと言えば、主に2つの要素があげられます。それは、①頻繁に使っている、もしくは②定期的に必要となる、ということです。 実は私が「聖書のことば」をこれほどに覚えられたのも、同じ理由です。「聖書のことば」は私たちに『悟り』を与え、恐れや不安から救い出し、落ち込んだ時の励ましとなり、正しい判断を必要とする時に助け導いてくれます。現代のような「複雑でプレッシャーに満ちた日常」、また「自己の尊厳を見い出しにくい社会」の中で、「神のことば」を心に貯えることは、「生きるために必要な筋力」を強めてくれるのです。あなたも試してみませんか?

(444) “私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”

どんな品物でも、それにふさわしくない使い方をしていたら、故障したり不具合が起こったりしますよね?(まあ、逆に別の使い方がかえって功を奏することもありますが…) 同様に、聖書には「神が人間を創造した」とありますから、私たち人間も「神が私たちを造られた目的」にふさわしくない生き方をしていたら、当然支障をきたすわけです。分かり易い例を挙げれば、不必要に食べ過ぎたらお腹を壊しますし、睡眠不足を続けていたら病気になりますよね? ところで、そもそも「神に造られた者としてのふさわしい生き方」とは何でしょう?その根本的な要素は「神との関係の中に生きる」ということです。神は聖書を通して、私たちに対する「ご自身の願い」を伝えてくださっています。これらは何か『神の命令』というように受け取られる傾向がありますが、実はむしろ、私たちが健康で平和に生きるための『人生の取扱説明書』のようなものだと言えます。 そしてまた神は、ご自身に信頼し従おうとする者たちに『神の霊(聖霊)』を与えて、日々の具体的な歩みを導いてくださるとも約束してくれています。実は私たち人間の『霊』の部分は、私たちの生まれつきの自分勝手な傾向性のゆえに損なわれていて、正しく神の思いを受信できません。目や耳が悪いと外界の情報を正確にキャッチできないように、この『霊』の部分が正常に機能していないと、「神からの語りかけ」を誤って理解し、『神との関係』も歪んでしまうのです。 イエス・キリストは、この損なわれてしまっている『神と人との関係』を修復するために人となってこの世に来られ、私たちの「自分勝手な傾向性(罪)」を私たちの代わりにその身に負って、十字架で帳消しにしてくださったのです。

(443) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

最近『断捨離』が流行ってきているように思います。個人的には良い傾向だと感じています。世の中少々「余計な物」が多すぎるのではないでしょうか?聖書には『目の欲』ということばが出てきますが、確かにちょっと気の利いた品物が視界に入ると、初めは「別に要らない」と思っていても、何度も見ているうちに(あるいは「見せられているうちに」?)なんだか欲しくなってきて、つい買ってしまう、なぁんてことを経験したことがある方も多いのではないでしょうか? 私たち家族が『キリスト教宣教師』として1996年に日本を出発することになったとき、結婚してから8年間のうちに溜まってしまっていた品々を徹底的に処分して、スーツケース数個分にまで減らしました。これを聞くと多くの方々は「うわぁ、もったいない!何もそこまでしなくても…。さぞかし大変だったでしょう?」などのような反応をしてくださるかもしれませんが、実際その当時のことを思い出してみると、本当に「清々した」気持ちでした。物が減って行くたびに気持ちが軽くなって行ったのをよく覚えています。日本のような『物質社会』で暮らしていると、「多く持っているほど安心できる」と錯覚してしまいがちですが、実際「持ち物は少なければ少ないほど気楽」なのです。 この後私たち家族が暮らした「南太平洋の小さな島」には、電気も水道もなく、人々の暮らしは実に質素なものでした。でもそこには『真の豊かさ』がありました。島で暮らしていた300人余りの人々は、互いの不足分を補い合い、皆家族のように当たり前に助け合い支え合って暮らしていました。その時つくづく感じたものです。「物質的な豊かさと心の豊かさは反比例するものなのだなぁ」と。そしてその島で神様に祈った時、本当に神様をとても近く感じたものです。文明社会の中で『神のリアリティ』をなかなか実感できないのは、「物の豊富さ」が邪魔をしているのかもしれません。

(442) “だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。”

日本の古いことわざに『負けるが勝ち』というものがありますが、実際様々な勝負に打ち勝って「1番」になれても、心の中には全く喜びや満足感が持てないことがあります。一体なぜなのでしょう?それは、私たちがぜひとも打ち勝つべき『敵』とは、周囲の誰かではなく『自分自身』だからです。 歴史上の「連戦連勝のヒーロー」の1人として挙げられる人物に『アレキサンダー大王』がいます。彼は血筋も知識も戦士としての能力にも大変秀でていた人物であったと言われ、本当に短期間に広大な地域を征服しましたが、どうやら大酒飲みだったらしく、若くして健康を害し、32歳の若さで死に、その死後大帝国は分割されてしまいました。彼は多くの戦いに勝利し、何人もの強敵を打ち破りましたが、『酒好き』という自分自身に屈したのでした。 「いかに他の人よりも優れているか」が大切なのではありません。優越感はしばしば『傲慢』や『自己中心性』への引き金となります。神が私たちの内に育もうとしておられるのは、キリストが持っておられたような「真の愛に基づく品性」です。そしてそれらのものは「他人に勝利することによって」よりも、むしろ「様々な困難による挫折や敗北を経験すること」を通してもたらされることが多いのです。

(441) “真理はあなたがたを自由にします。”

「無責任な時代」と言われて久しいですが、そもそも『無責任』とはどういう態度を言うのでしょう?それはひと言で言うなら、「自分にとって都合が悪いことに、しっかりと向き合おうとしない姿勢」ということなのだと思います。しかし実のところ、このような心の態度こそ、私たちの人生において『神の祝福』を受け取ることの大きな妨げとなるのです。 ある意味「どれだけ自分自身の言動や行動にキチンと責任を持てるか」というのは、『人間の成熟度』を測るバロメーターです。本来自分の責任であるにもかかわらず、他の誰かに責任転嫁したり、必死に責任逃れの言い訳を考えたりしている間は、正しい「人格的成長」は望めません。言ってみれば「責任転嫁をすること」は、時間の無駄なのです。ある人たちは「間違いを見つける事」にだけ一生懸命で、その後はできるだけそれが「自分の責任にはならないように」自分以外の人に注意を向けさせようとします。最終的に「他の誰かのせい」にできるかもしれませんが、結局自分の心の中には何かスッキリしない気持ちが残ってしまいます。何故なのでしょう?それは神が私たち人間を「真理を喜ぶ存在」としてお造りになったからです。そして『責任転嫁』は結果的に私たちを「真理から逸脱させて」しまうのです。 イエス・キリストは、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。「自分の心の真実を見つめる」という行為は、もしかしたら初めのうちはあなたを「居心地の悪い気分」にさせるかもしれませんが、最終的にはあなたを解放し「晴れ晴れとした気分」にさせてくれるものです。一方、「責任逃れをすること」は一時的な解放を生むかもしれませんが、実際はその後ずっと心に重荷を負ったまま歩み続けることになるのです。あなたはどちらの人生を望みますか?

(440) “愛をもって互いに仕え合いなさい。”

古くから親しまれている詩で、「み~んな違って、みんないい!」というものがありますよね?全くその通りだと思います。いつの間にか日本人の間で(恐らく『協調性』を求めるがあまり?)「できるだけ出しゃばらないようにしよう。周囲の人たちと同じようにしていよう。」というような空気が漂うようになってしまっています。とても残念なことです。 本来私たち1人1人は、天地創造の神様によってユニークに造られた存在です。「1人1人がユニークである」ということには次の2つの意味があります。 ①1人1人に特別な使命がある  ・私たち人間でも、何かを作る時には、必ず『目的』があります。なおさら神様が私たち1人1人をユニークに造られたのは、1人1人に別々の目的を持っておられるからです。私たちの人生は、この「神様が自分にさせたいこと」(別の言い方をすれば「自分と一緒になさりたいこと」)を捜し、見つけ、喜びと興奮をもってそれを成し遂げるためにあるのです。家庭において下の子たちに向かって「どうしてお兄ちゃんやお姉ちゃんと同じようにできないの!」とつい叱ってしまう親がいますが、これは無茶な要求です。何しろ神様が「違った存在」としてお造りになったのですから「同じようにすること」自体が無理なのです。むしろ私たちは親として「神様はこの子と一緒に、この地上で一体どんなことを成し遂げたいのだろう?」と問いながら、注意深く我が子1人1人を観察しつつ育てて行くべきなのです。 ②互いに補い合える  ・『人』という漢字は「それぞれが支え合っていることを表している」と言われますが、全くその通りで、私たち1人1人が違っているのも「それぞれが足りないところを補い合うためだ」ということが言えると思います。私たち夫婦は性格も得意分野も見事に異なっているので、結婚した当初はよく衝突しました(歯磨き粉の出し方とか…)。ところが、『牧師』という仕事柄よくいろいろな人たちにアドバイスをしたりカウンセリングをしたりするのですが、私たちが夫婦一緒にこれらの働きをする時、素晴らしい効果をもたらすのです。まず必ずといっていいほど私たちのどちらかはとても深く相手に共感することができ、またどちらかは相手の気付かなかったアイディアや示唆を与えることができるのです。これらのことが分かってから、私たちは夫婦はお互いの違いを心から神様に感謝できるようになりました。「自分と違ったタイプの人を受け入れる事」に困難を感じることもあるでしょう。でもそのような人と共に時間を過ごし続ける中で、きっと新しい発見や自分の成長に気付かされる日が来るに違いありません。

(439) “全き愛は恐れを締め出します。”

人はしばしば「原因不明の『恐れ』」にさいなまれます。意外なことに、人はその成功のど真ん中で『言いようのない恐れ』を抱くことがあります。もしかしたらアナタもそんな経験があるかもしれませんね。 聖書は「神を恐れることは知識の初めである」と教えています。別の言い方をすれば、「神に対する『正しい恐れ』を抱いて生きるなら、要らぬ恐れを抱かずに済む」ということが言えます。ではこの『正しい恐れ』以外の恐れは、一体どこからやってくるのでしょうか? ある『恐れ』は、あなたの生い立ちの中で形成されたものかもしれません。恐ろしい経験から来るトラウマであるとか、ことさら厳しい親に育てられたとか、ホラー映画やホラー小説の観過ぎであるとか… また別の原因として、日々報道される情報の影響かもしれません。日常のテレビのニュースや新聞に報道される記事の99%は私たちの心を暗くさせるようなものばかりです。そのような情報の中に取り巻かれていると、「明日自分の身に何が起こるか分からない」と考えるようになってしまいます。 そして最後は「悪魔から来る惑わし」です。悪魔は常に私たちが『神に造られた作品』として生きることを邪魔しようとします。私たちが平安をもって伸び伸びと生きることを妨げ、恐れや不安の中に閉じ込めようとするのです。 ところが冒頭に掲げた『全き愛』は、これらの『恐れ』を追い払ってくれます。ある方は「自分はとても『完全な愛』なんて抱くことはできないから、一生恐れにさいなまれながら生きなければならない…」などと勘違いされるかもしれませんが、この『全き愛』とはもちろん私たち自身から生まれるものではなく、神様が私たちに注いでくださっている愛のことです。神の愛は「無条件」の愛です。私たちから何の見返りも要求しません。その代価はすべて十字架においてイエス・キリストが支払ってくださったのです。この「私たちが差し出すことのできるどんなものによっても決して勝ち取ることのできない『愛』」、ただ「ありがとうございます」といって受け取るしかない『愛』、人間の思いを超えた測り知れない『神の全き愛』を受け取り、日々この神との関係の中に生きて行く時、私たちはこの世が私たちに投げかけてくる『無用の恐れ』から全く自由にされて生きることができるのです。

(438) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。”

小学生のころ、私は図画工作というものが苦手でした。特に嫌いだったわけではないのですが、まあいわゆる『下手くそ』だったんですよね。いろいろとアイディアを考えて、自分なりに一生懸命に制作するのですが、出来上がった作品は、他の生徒たちのものと比べて何となく「見劣り」してしまって、よくガッカリしたことを覚えています。 ところが面白いことに、(当時は作品の出来不出来に関わらず、完成した後全ての作品はしばらくの間教室の後ろに並べてあったのですが…)なんて言うか自分の作品が愛おしく感じて、しょっちゅう観に行っていました。「こうして観るとまんざら悪くないじゃないか」なぁんて思ってみたりもして、ともかく作品そのものの見た目とは関係なく、『自分の作品』というだけで愛着が湧き、何となく誇らしく感じたのでした。 聖書は「あなたがたは神の作品である」と教えています。そして全知全能である神様は、いわゆる「いい加減な作品」はお造りになりません。全てが『傑作品』なのです。それはアナタも私も例外ではありません。ところがそんな『傑作品』である自分自身をそんな風に思えないことは多々ありますよね。「自分はあの人のように格好良くないし、いろんなことができるわけじゃないし、持っている物もわずかしかないし…」と、そんな風に思ってしまうのが普通だと思います。 でも、ぜひ次のことだけは決して忘れないでください。アナタをお造りになった神様は、心を込めて、ご自身の全精力を傾けて造ってくださったのだということ。だからこそ、他の誰が(自分の心も含めて)何と言おうと、アナタは神にとって「この上なく愛おしくて価値ある存在」なのです。この神との個人的な出会いを通して、私たちは自分自身の『真価』を知り、希望と誇りを持って、明日に向かって生きて行くことができるのです。

(437) “人を恐れると罠にかかる。”

相手に嫌われたり呆れられたりするのが怖くて、相手の申し出を断ることができなかったことはありませんか?きっと誰でも1度や2度はそんな経験があるのではないかと思います。 どんな人にも「周囲の人々に好かれたい」という願いはあるはずです。ですからできる限り人々のニーズに応えたいと思うし、頼み事は引き受けたいと思うわけですが、これらの思いが高じると、自分を見失ったり偽ったりしてしまうことがあるのではないでしょうか? 『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』ということわざをご存知だと思います。自分の無知を知られるのが恥ずかしいからと、誰かにものを尋ねるのを躊躇するならば、結局ずっと無知のままで終わってしまいます。これと同様に「自分を守ろう」という意図で無理な要求を引き受けたり、本心を偽って相手に同意しているフリをし続けていたら、いつか『自分自身の尊厳性』を見失い、最終的に誰にも見向きもされない人間に成り下がってしまうでしょう。 神は私たちのそのような態度を決してお喜びにはなりません。ある方は、「自分は神を信じているから、できる限り人々に喜ばれることをしたい」と言って、上記のようなワナにはまってしまいました。実際は「人を愛すること」と「人を喜ばせること」は全くの別物です。「他人に嫌われたくないから、相手の喜ぶことをする」という態度は、結局「自分が可愛いから傷付きたくない」という本音の表れなのです。私たちが真に取るべき態度は、「自分を偽って相手に同意すること」でも、「自分を守るつもりで相手に気に入られることをすること」でもなく、「心の真実をご覧になる神を見上げ、自分自身に対して正直になって、喜んでできる事には『YES』、そうでないことには勇気をもって『NO』と言うこと」なのです。

(436) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみ教えのすべてのことばを行うためである。”

「一体自分の身に今何が起こっているんだ?!」 そんな風に感じる経験をしたことはありませんか?「まだそんな経験はない」という方は、おめでとうございます。しかしそういう方もぜひ今後のために次のことを知っておいてください。 上記のようなショック状態に陥った時、まず最初に行うべき賢明なことは、「取り敢えず、分かっていることから手を付ける」ということです。この全世界・全宇宙を支配しておられる『全能の神』は、良いお方です。彼はあなたを愛し、常にあなたの最善を願っておられます。まずこのことを確認しましょう。このお方は、どこにでもいるような「気まぐれな存在」ではありません。「昨日は祝福し、今日は呪いをかける」というようなことはありません。彼は一貫して誠実な方です。ただ、1つ念頭に置いておくべきなのは、神は「私たちが知っておくべきこと」は知らせてくださいますが、「私たちが知る必要のないこと」は、敢えて隠しておかれる、ということです。それは神が私たちを愛しておられ、常に私たちの最善を願っておられるからです。例えば、神は『占い師』のように、むやみに私たちに将来の運勢を知らせたりはしません。むしろ、先のことは神様ご自身に委ね、信頼し、今自分にできる最善を尽くすように望んでおられるのです。 私たちが『隠されていること』を知ろうとするのは、大抵単なる好奇心からか、もしくはそれを事前に知って自分なりの対処をするためでしょう。しかし多くの場合私たちは、その占いの内容に思いを支配されて、かえって不安にさいなまれてしまうものです。神は私たちに、「将来のことはわたしに委ねて、もっと伸び伸びと思い切って前進しなさい!」と勧めておられるのです。むしろ『現されていること』(聖書にある神の約束や命令)に思いを向け、その勧めに従って歩み、この地上において神が私たち1人1人のために用意しておられるご自身の祝福を味わって生きて行く姿を、神は見たいと願っておられるのです。

(435) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

聖書の学び会で「心配事は祈りの中で神様にゆだねれば良い」と学んだ女性が、牧師にこう尋ねました。「つまらない些細なことで神様を煩わせるのは申し訳ないので、神様に打ち明けるのは『大きな問題』だけにした方が良いと思うのですが…」 すると牧師はこう答えたそうです。「ご心配には及びません。私たちが持って行くどんな大きな問題も、神様にとっては『ちっぽけなこと』ですから。」 どうやら神様は、私たち人間を「悩み事を自分で負うように」とは造られなかったようです。かえって私たちを『弱い者』としてお造りになり、ご自身に頼るように招いておられるのです。それ故聖書の様々な箇所で「重荷は神の許に降ろしなさい」と勧められています。一見些細な問題に見えたことでも、いつの間にか私たちの思いの中で増幅し『思い煩い』に発展してしまうことはよくあることです。そんな風にならないうちに、さっさと祈りの中で神様の前に持って行くのです。 上記の聖書のことばの「神にゆだねる」という語の直訳は『放り出す』という意味です。通常『思い煩い』は、お行儀よく私たちの思いの中の片隅でじっとしてはいません。なんとか私たちの日常生活を破壊しようと「絡みついて」くるのです。「思い煩いを祈りの中で神の許に持って行く」とは、そのようにしつこく絡みついてくる悩み事を、「お任せします!」と言って神様に向かって「かなぐり捨てる」ことです。神は「そうしてもよい」、いや「そうしなさい!」とおっしゃっているのです。それなのに、「いや、これは私個人の問題だから、神様に押し付ける事なんてできない」などと良い子ぶるのは、かえって「神に対する不従順」でしかありません。 神様は弱々しい存在だと思いますか?神様は遠くにおられて、忙しくてアナタのことなど相手にして下さらないとお思いですか?もしアナタが「思い煩いを神の前にかなぐり捨てる」ことができたなら、その時アナタは「神が近くにおられ、アナタを心にかけてくださっていること」を体験するのです。

(434) “それぞれが賜物を受けているのですから、…その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

私たち日本人は『和』というものを重要視します。新しい年号も『令和』ですし、私が生まれたのも『昭和』です。また「和を以て貴しとなす」ということわざ(元々は聖徳太子の定めた『十七条憲法』の1つ)もよく使われますよね。確かに「協調性」や「平和を保つこと」はとても大切です。ただその反面、一般に日本人には「できるだけ事を穏便に済ませよう」とか、「出る杭は打たれる」などと、できるだけ出しゃばらないように気を付ける傾向があるようです。 日本国外で生活するようになって1つ気が付くことは、「今までの自分の考え方は狭かったなぁ」ということです。日本にずっと住んでいると何となく「できるだけ目立たないように、無難な道を進もう」という空気に流されてしまいがちです。そして知らず知らずのうちに『冒険』をしなくなり、自分の中に眠っている「未知の可能性」を見過ごしにして生きて行ってしまうのです。時折「ちょっと人と違った考え方」を持っていたり、「一風変わった生き方」をしている人を見かけると、『変な人』というレッテルを貼って、できるだけ関わらないようにしてしまうものです。 私は今まで、日本国外で「日本では会ったこともないような日本人」に何人も出会ってきました。どの人も大変魅力的で生き生きとしています。(まあ、きっと自分もその中の1人に違いないのですが…) 彼らを見ていて感じるのは、「他人と自分を比べようとしていない」ということです。言葉を換えるなら「ひたすら自分自身を生きている」とでも言いましょうか。日本に住んでいた頃に自分を覆っていた「殻を破った」ような感じを受けます。 確か日本の小学校の教科書に「みぃんな違って、みんないい!」というフレーズが出てくる詩が載っていたように記憶しています。まさにそれが聖書の言っていることなのです。それぞれが『違った存在』として自分らしく生き生きと生きている中で、互いに『協調性』をもって事に当たって行くことこそ、神様が私たちに求めていることではないでしょうか。

(433) “墓の中には亜麻布が置いてあるのが見えた。”

この前の日曜日は、『イースター(復活祭)』というキリスト教のお祭りでしたので、今回は「キリストの復活」にちなんだ話をしましょうね。 イエス・キリストが元々は「大工の家庭」で育てられたことは、ご存知の方もいることと思います。そして今から2000年前の聖書の時代に、イスラエルの優れた大工たちの間では1つの習慣がありました。当時大工たちは作業中には必ず前掛けを付けて働いたのですが、大工たちは頼まれた仕事を満足いく出来でやり遂げた時、その完成品の上に自分が使っていた前掛けをたたんで置いておくのだそうです。これが「この仕事は私が手掛けた仕事であり、立派な出来栄えで確かに完成している。もはや付け加えるべきものは何もない」という証しなのです。 さて、イエス・キリストが金曜日に十字架に架けられて私たちの罪の代価をご自身のいのちをもって支払ってくださり、予告通りに3日目の日曜日によみがえられた時、弟子のペテロとヨハネは復活のうわさを聞いてイエスが葬られた墓に真相を確かめにやってきました。するとそこにはイエスの遺骸はなく、あったのはイエスの遺体に蒔かれていた『亜麻布』だけでした。もしかするとペテロとヨハネは「空っぽの墓」にびっくり仰天していてその時には気付かなかったかもしれませんが、この「空っぽの墓」にただ1つ置いてあった、イエスが身に着けていた『亜麻布』がそこに置き去りにされていたことには意味があったのです。すなわち、これはイエス・キリストが私たちに送った、ご自身の『仕事の完成』を告げるメッセージだったのです!「私は全人類が救いに至るための道を完成させた。もはや人間の側で付け加えるべきもの(「良い行い」とか「寄付金」など)は何1つ無い。ただ私が確かに救いのわざを完成したということを信じるだけで『救い』を得る。」 『イエス・キリストの復活』、これは紛れもない「歴史上の事実」であり、神が私たちを「イエス・キリストが成し遂げられたみわざの故に救ってくださる」という、疑いようのないメッセージなのです!

(432) “みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。”

この聖書の言葉は、「聖書のみことばは、ただ聞くだけで実行しないなら、少しも価値がない。しっかりと聞いてその真意を悟り、それを実行して神の祝福を得なさい」という勧めのすぐ後に書かれています。では「顔を鏡で眺める人」とはどういう意味でしょうか? この「顔を鏡で眺める人」という表現で『人』に使われている語は、原文のギリシャ語では『男性』を指すことばです。これって面白いと思いませんか?一般的に「男性の鏡の見方」と『女性』のそれとは、大きく違います。男性は大抵鏡をチラッと見ただけで大方OKであればそのまま出かけますが、女性はそうではありません。毎朝鏡の前で十分に時間を取り、入念に自分の姿をチェックし、必要ならば手直しをします。ハンドバッグには必ず手鏡が入っており、折に触れて髪形や化粧が崩れていないかチェックします。また家には大抵全身が映る『姿見』があり、服装全体のコーディネートもひと目でチェックできるようになっています。私は車で通勤していますが、バックミラーで後方にいる車を確認すると、時折女性ドライバーが、信号待ちの時などに運転席の『日よけ』の裏に付いている鏡で化粧を直している様子を目にします。 すなわちこの聖書のことばは、聖書を読む時には、男性が鏡を見るように「チラッと」読んで分かったつもりになって慌てて1日を始めるのではなく、女性が朝ごとに念入りに鏡の中の自分を覗き込むように「じっくりと読み、その内容を深く理解し、今の自分が『神の求めている姿』とズレていないかをよくチェックして、ちゃんと必要な修正を加えてから1日をスタートするように」と、聖書を読む時に持つべき正しい姿勢を分かりやすく教えてくれているのです。

(431) “わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。”

キリスト教で最も大切な教えは、「愛すること」であると言われます。『愛』という言葉は現代であればどこでも用いられていますが、ほとんどの場合それは「男女の恋愛感情」を表現するものではないでしょうか。もし『愛』という言葉の真意がそのような「感傷的」なものであれば、キリストは『戒め』として「愛すること」を人々に命じたりはしないはずです。「愛すること」が命じられなければならないのは、それが「自然な感情として内側に湧き起ってくるもの」ではなく、「敢えて自らの意志で選び取って行かなければならないもの」だからに違いありません。 イエスは次のようにも人々に勧めました。「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者たちに善を行いなさい」と。ここで気を付けなければならないのは、神は私たちに「無理な要求をしている」のではなく、「日々神の助けを受け取りながら生きること」を求めておられるのです。「敵を愛すること」も、「他の誰かを真実な愛(キリストが私たちを愛されたような愛)で愛すること」も、私たちが自然にできることではないのです。 多くの国々や文化(日本も含む)において「親同士が決めた結婚」というものがあります。時には「結婚式当日まで、新郎と新婦が1度も会ったことがない」というケースもあるわけです。一体そんな風に結婚して、夫婦として長続きするのでしょうか?ところが統計によると、このような形態の結婚の方が、いわゆる『恋愛結婚』で結ばれるよりも何倍も「破局に陥る可能性が低い」のです。それは何故でしょう? インドのある部族の若い女性が、全く会ったことのない男性と結婚することになったそうです。ある日結婚相手の男性から「結婚式の前にぜひ1度お会いしませんか?」という手紙が届きました。しかし彼女はその申し出を断って、次のような返事を書きました。「私は、『真の愛』というものは、結婚前に形作られるものではなく、結婚した後に育てて行くものだと信じています。私たち人間が生まれる時、私たちは父や母、そして兄弟たちを前もって選ぶことはありません。でも生まれた後で、共に暮らしていく中で『家族愛』を育んで行くではないですか。私は『夫婦愛』もそういうものだと思います。」 前にも書いたように、神は私たちに無理強いをなさっておられるわけではありません。人間は本来「愛し合う存在」として造られたのです。それなのに、私たちが神を離れ、神を忘れ、自分の心の赴くままに自分勝手に生きるようになってしまったがために、『愛すること』さえも「自分の欲求を満足させるための口実」へとおとしめてしまったのです。キリストはこの『愛する』ということを、本来の高潔さへと引き上げるために、世に来てくださったのです。

(430) “神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。”

クリスチャンたちはよく、「キリスト教は『宗教』ではありません」という言い方をします。では一体『キリスト教』と「一般の宗教」とは、どこがどう違うのでしょうか? 1つの分かり易い説明は、一般の宗教では「善い行いが『救いの条件』である」のに対し、キリスト教では「善い行いが『救いの結果』である」ということです。キリスト教が教える『救い』は神の愛の故に全く無条件に与えられるのです。何故なら「救いの条件」は神の許から遣わされた御子イエス・キリストが私たちの代わりに全て成就してくださったからです。ですから、ただ「イエス・キリストが私の代わりに救いの条件を満たしてくださった」ということを受け入れるだけで、私たちは救われるのです。 ここで1つの疑問が生まれます。「もし『救いのための条件』を、キリストが既に身代わりに全て満たしてくださったのであれば、もはや私たちはどんないい加減な生き方をしても良いではないか!」ということにならないのだろうか?ということです。理屈としては確かにそうなのですが、結論から言えば、答えは『ノー』なのです。それは何故でしょうか? これはキリストを信じてクリスチャンとなった方々であれば誰しもが経験していることなのですが、「イエス・キリストによる救い」を受け取ると、私たちの内側に変化が起こり始めるのです。言ってみれば「神様が私たちの心にアクセスできるようになる」とでも言いましょうか。これは決して「神様がクリスチャンたちの心を意のままに操れるようになる」ということではありません。キリストを受け入れた後でも相変わらず私たちは自分たちの自由意思によって物事を決断し、行動を起こすわけですが、その心の内側に「神様に喜ばれる者でありたい」という願いが起こされるようになり、またそれが次第に強くなっていくのです。 キリスト教は、『宗教』ではなく、『関係』です。私たちを形造り、私たちをこよなく愛し、常に私たちの最善を望んでくださっている「唯一まことの神」との関係に生きる事なのです。

(429) “神は人に仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」”

神は全宇宙をお造りになり、また私たち人間を「ご自身のかたちとして」お造りになりました。ということはつまり、私たちには生まれつき『創造的思考』が備えられているわけです。神はご自身の「天地創造のみわざ」を6日間で完成され、あとのことは私たち人間にお任せになられました。いわば神はこう言っておられるのです。「子よ。私はあなたがこの地上で豊かな人生を送り、またこの世をすべての良きもので満たすために必要なものすべてを、あなたのために備えておいた。私が完成したすべてのものを正しく有効に用いて、あなたに与えた『わたしの似姿(創造性)』を大いに発揮するがよい!」 神は羊や綿花をお造りになりました。人はそれらを用いて羊毛や木綿を作り出し、素敵なファッションを創造しました。神は牛やヤギをお造りになりました。人はそれらの乳を用いてチーズや石鹸などを作り出しました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」とは、単に「たくさん子供を産んで増え広がりなさい」という意味だけではなく、「神が備えてくださっているものをフル活用して、初めからあった状態よりも拡大・向上させなさい」という指示が含まれているのです。そして、それを実践するためにはどうしても、神から与えられている『創造性』を発揮させなければならないです。 アインシュタインは「創作力は知識に優る」と言いました。人間は「知識を溜め込む」以上の存在です。獲得した知識を使って周囲の世界を、自分が生まれた時以上に『より良いもの』とすることができる存在として、私たちは生まれてきたのです。あなたが何者であろうと、どこに住んでいようと、何をしていようと、神はあなたが与えられている『創造性』を駆使して神の栄光を現し、また人々を祝福する者であって欲しいと願っておられるのです。

(428) “それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

『不動の信念』を持つことは多くの場合困難を乗り越える力となりますが、ある程度どちらでも良いことに関して融通を利かせられない『頑固さ』はしばしば人間関係を壊す原因となります。 どんな人でも、物事をつい「主観的に」見てしまうものです。ですから誰かから「キミ、それはちょっとおかしいんじゃない?」と指摘されると、「そんなことはない!そんな風に考えるそっちこそおかしい!」とガードを固くしてしまう傾向があります。でも、何も「いつも自分が正しくなければならない」わけではありません。大切なことは「自分がいつも正しいこと」ではなく、「自分が間違っていた時にそれを素直に認める謙遜な態度と、相手が間違っていた時にそれを責めることなく受け入れ、一緒に正しい道へ進んで行こうとする寛大な心」を身に着けて行くことです。 私たちは皆いくつになっても『発展途上』です。ならばいつでも「変化と向上」に対してオープンでいなければなりません。人は1人で生きて行くことはできません。より多くの人たちと「共に」生きて行くためには、より大きな「考え方の違い」を受け入れ合っていく必要があります。人の成長とは、「自分ひとりで何でもできるようになって行くこと」ではなく、「より多くの『タイプの違った人々』と一緒に歩んで行くことができるようになること」なのです。

(427) “夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。”

誰でも痛いのは嫌いですよね?どこかをぶつけて泣いている子供に母親が「痛いの、痛いの、飛んでけ~!」とやっている光景を、誰でも見たことがあるのではないでしょうか? ところが実際には、人生において『痛み』というものは、私たちの回復や成長のために不可欠なものなのです。考えてみてください。もし体のどこかが怪我や病気で蝕まれていたとしても、『痛み』を感じることがなければ体の異常に気付くことはありません。またその『痛み』を無視して無理を続けたとしたら、命を縮める結果にもなり得るのです。『痛み』は私たちに問題を自覚させ、適切な対処へと導いてくれます。神はその『痛み』が私たちの人生に訪れることを許されたのですから、そこには必ず「特別な目的」があるはずなのです。 興味深いことに、『痛み』というものは「抵抗しようとすればするほど激しくなる」という特徴があります。妊婦さんのお産の時に助産婦さんがよくするアドバイスは、「もっと力を抜いて」「リラックスして」です。陣痛を意識しすぎて恐れたり抵抗したりすると、かえって実際よりも痛みを強く感じて逃げ腰になり、結局お産も長引いてしまうのです。 では、どうしたら良いのでしょう?人生に『痛み(困難)』が生じた時は、無理にそれに抵抗しようとするのではなく、「神はこの『痛み』を通して、きっと私の人生において良いものを生み出そうとしておられる」と信じて、心配することなく落ち着いて対処するのです。神様は必ずその『痛み』の向こう側に、私たちがそれまで体験したことのない喜びや満足感を用意してくださっていますから。

(426) “神は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。”

『養子縁組』というものがありますよね。今はどうなのか定かではありませんが、ひと昔前までは『養子』というものは「もらわれっ子」と呼ばれて、よくいじめの対象になったものです。でもよく考えてみると、『養子』というものは、子供を持つことを望んでいた夫婦が子供に恵まれず、自らが探して、いくつかの選択肢の中から選んで自分の子供とするわけですから、選ばれた側の子供からすれば、「もらわれっ子」というレッテルどころか、『愛され、選ばれた者』という素晴らしい尊厳を持つべき存在ではないでしょうか? イエス・キリストを自分の救い主と信じた瞬間から、私たちは『神の子ども』とされる、と聖書は約束しています。更に聖書は「神は私たち1人1人を愛をもって選んでくださった」とも言っているのです。これは『養子縁組』と少し似ていますが、むしろそれ以上のことです。神は人間の親とは違って、私たちの隠れた欠点や弱さも全てご存知の上で、それでも私たちを愛し受け入れ、しかもご自身のひとり子イエス・キリストのいのちの代価によって私たちを罪と滅びの淵から救い出してくださったのです。ですから仮に私たちがどんなに「思惑と違った、期待外れで出来が悪い子」であったとしても、神は決して私たちにあきれ果てたり見捨てたりすることはありません。神があなたに期待することは、品行方正になることでも、「自分はそんな立派な者ではないのに…」などと卑屈になることでもなく、ただ『神に選ばれた子供』としての自覚と尊厳とをもって、平安と喜びに満ちて生きることなのです。

(425) “しかし、成長させたのは神です。”

私たちは当たり前のように、種を蒔くと芽が出て成長して行くことを期待しますが、これって結構スゴイことですよね?あんなに小さな粒がやがて美味しい実を実らせる木に成長することもあるなんて、つくづく神様のみわざって素晴らしいなぁと感動させられます。 さて、私たち人間も、誕生してからは常に『成長』をし続けているわけですが、単なる「肉体的成長」だけでなく、「精神的・霊的(神との関係における)成長」も人生には欠かせない要素です。そして神様は私たちが「精神的・霊的」に健康に成長するために、いくつかのヒントを与えてくれています。 まずは『正しい環境』です。聞いたところによると、ある種の魚は入れられている水槽の大きさに応じて成長するそうです。小さな水槽に入れたままだと小さなままで、大洋に放してやると本来成長すべき大きさにまで成長するそうです。私たち人間も「正しい友人」と共に「正しい職場」で「正しい役割」を担っていくならば、本来神様が私たちを形造ってくださったフルサイズの人生を送ることができます。 次に『正しいフォーカス』です。現代は「競争社会」と言われますが、本来人間は「他と比べる事」によって成長するのではなく、「与えられた役割に没頭すること」によって、神が本来与えてくださっている才能を開花させることができるのです。 そして『変化への準備』。私たちは「成長」は求めますが「変化」を恐れます。必要な成長のために神様から送られる『変化』を避けることなく、神様は良いお方だと信じて敢えて適応して行く姿勢が求められます。 最後に『正しい期待感』。聖書は「人の内面的成長」のことを『実を結ぶ』と表現しています。そしてご存知のように、美味しい木の実がなるのには時間がかかります。「桃栗三年柿八年」。長い時間をじっくり待ち続けるためには「ワクワクしながら楽しみにしていること」が欠かせません。 まだ2021年は始まったばかり。これらのことを心に留めながら、神様が私たち1人1人のために抱いてくださっている『フルサイズへの自分』へと成長し続けて行きましょう!

(424) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。”

あるファイターがインタビューで「チャンピオンになるために最も重要な事は何ですか?」と尋ねられた時、こう答えたそうです。「それは、もう1ラウンド戦おうとすることだ。」 様々な分野で成功を収めている人々は、当然それぞれの分野で別々の秀でた素質や能力を持っていたと思われますが、恐らく全ての『成功者』たちが共通して持っていたと思われる資質があります。それは「途中であきらめない『粘り強さ』」です。イギリスの有名な詩人『トマス・グレイ』がその傑作『田舎の墓地で詠んだ挽歌』を発表するまでには、何と75回もの原稿を積み重ねたそうです。またアメリカの劇作家『S.N.バーマン』は、最初の作品が売れるまでに11年かかったそうです。あのイギリスの有名な作家である『サマセット・モーム』は、その初期10年間の執筆活動で得た売り上げは、たった500ドルでした。またイタリアの有名なオペラ歌手『エンリコ・カルーソー』はデビューのために12年間の訓練を要しました。そして「アメリカ音楽を作り上げた作曲家」として知られている『ジョージ・ガーシュウィン』は、その作品が初めて(たった5ドルで)売り物になるまでに、100もの作品を作曲していました。 これらのエピソードから学べることは、たった1つ。仮にあなたの夢がすぐに実現しなくても、簡単にガッカリしたり落ち込んだりする必要はない、ということです。それを執拗に続け、その中で更に熟達して行けば良いのです。毎日が学習です。私たちは失敗や試練を通して学ぶのです。冒頭で述べたファイターがインタビューに答えたように、「もう1ラウンド戦い続けること」ができる人こそ、勝利を手にすることができるのです。 もしあなたがあきらめてしまうなら、神様はもはやあなたを通して何もすることができません。しかしあなたが「粘り強く」前に進み続けるならば、神様はあなたを助けることがおできになるのです。

(423) “自分の走るべき道のりを走りつくし…任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。”

生物学的に「生きている」ことと、真の意味で「生きていること」との間には大きな違いがあります。そして「真の意味で生きる(自己最高の人生を送る)」ために不可欠なものと言えば、それは『自分の人生の目的を知ること』と、『それを成し遂げようとする断固たる決意と継続力』ではないでしょうか? 実を言うと、私は30代になるまで、これが分かりませんでした。私は19歳の時にクリスチャンになり、「神と共に歩む人生」を満喫しているつもりだったのですが、真の意味で「自分はこのことのために生まれて来た!」というものを見つけてはいなかったのです。もちろんクリスチャンとして「イエス・キリストにある永遠のいのちについて人々に伝える」という強い使命感は持っていたのですが、恐らく自分の考えや能力に頼りすぎて肩に力が入り空回りしていたのでしょう。 「かぎりなくやさしい花々」などの詩画集で有名な、首から上しか動かせないクリスチャンの詩画作家『星野富弘さん』は、こんなことを言っています。「いのちが1番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」 今私は人生を最高にエンジョイしています。自分の『ライフワーク』を見つけたからです。それは「他の人を生かすこと」、すなわち「他の人が『自己最高の人生』を送るための助けをすること」です。私は『人』が大好きです。そして『人』がその持ち味を生かして輝いている様子を見ると、何よりの幸福感を感じます。もし自分が関わる人々の間で少しでもそのためのサポートができたら… そんなことをいつも考えながら日々を生きています。朝ごとに「神様、今日私が出会う人々に、その人が輝くための手助けができますように。」と祈りながら1日を始めるようにしています。そしてまた、人が『自己最高の人生』を送るためには、「主イエス・キリストとの出会い」が、何が何でも必要であると固く信じてもいるのです。

(422) “ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。”

2021年、明けましておめでとうございます。昨年は皆さんにとってどのような1年でしたでしょうか?多くの方々にとっては「コロナに翻弄された1年」といった感が強いのではないかと思います。今年中にはぜひワクチンが開発され、もう少し自由の利く暮らしができるようになると良いですね。 さて、「1年の計は元旦にあり」と言われます。確かに年の初めに何らかの計画を立てるのは良いことであると思いますが、その『計画』も、立て方によっては「希望を与えるもの」というよりは、「束縛感を与えるもの」ともなりかねません。何故なら、それらの目標が明確であればあるほど、『達成感』を与えてくれる可能性とともに、『挫折感』または『劣等感』にさいなまれる原因となることもあるからです。『元旦』と言えども、所詮は単に「12月31日の翌日」であるわけで、むしろ「1日1日を精一杯生きること」を重ねて行くうちに、結果として365日後に何かが達成できているものではないでしょうか? 先日『多発性硬化症』を患っている知り合いにお会いした時、「昨年はあなたにとってどのような年でしたか?」とお尋ねしたところ、「いやぁ、しんどい1年でしたね」との返事。そこで「その『しんどい1年』を、一体どうやって乗り越えてきたのですか?」と重ねてお訊きしたところ、次のように答えておられました。「ともかく、1日1日を神様に頼りながら、『どうか神様、今日1日を精一杯生き切ることができるだけの力をお与えください』と祈りつつ、何とか乗り越えることができました。」 私たちは誰も「明日の事さえも分からない、弱くて限りある者」です。1年後のことを考えながら生きているなんて、もしかしたら傲慢な生き方なのかもしれません。また、自分の年間目標に固執するがあまり、今目の前にいる「助けを必要としている人」を見逃してしまうかもしれません。ならばむしろ、「『今日1日を精一杯生きる』ということを積み重ねていく」というような目標をもって2021年を歩き始めてみてはいかがでしょうか?

(421) “東方の博士たちは、その星を見て家に入り、母マリアとともにいる幼子を見つけ、ひれ伏して礼拝した。”

先週は『クリスマス』でしたので、今回はクリスマスについて書きますね。 その夜、その幼子は最もみすぼらしい環境の中で生まれました。しかし天においては天使たちの間で歌声が響き渡りました。幼子が生まれたのは家畜小屋でしたが、ひと際明るく輝く星が、遠い国から賢者たちを導き、礼拝がささげられました。この幼子の出生は『普通』とはかけ離れており(処女降誕)、また彼の『死』も大変特殊でした(十字架での磔)。彼の『死』は当時の罪人の扱いとしては最悪のものでしたが、神の目から見るならそれは「全人類の罪のための贖いを達成するため」の『この上ない代価』でした。彼を十字架にかけた人々は、その恐ろしさに震えることもありませんでしたが、大地は彼らの足元で震えわななきました。 イエス・キリストは、その生涯のたった3年半の間人々を教え歩いただけで、1冊の本も書き著さず、何の組織も本部も形成することはありませんでした。しかしその生涯から2千年経った今、人類の歴史の中で「最も影響を与えた存在」として認められ、「人生教訓の尽きることのない源」とみなされ、「人々の救いのかなめ」として敬われています。 『クリスマス』と「プレゼント」とが切り離せないものと思われている現代、ぜひ覚えてください。『クリスマス』とは、神が人類に「唯一無二のプレゼント」であるひとり子イエス・キリストを『救い主』として与えてくださったことを記念する日であるということを!

(420) “あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。”

単に「心配すること」は全く状況を好転させません。『心配』したからといって、借金は返済できないし、問題は解決しないし、よく眠れるようになるわけでもありません。当然のことながら、上記の聖書のことばのように、「心配すること」は私たちの寿命を延ばしてくれるわけではなく、かえって寿命を縮めることになりかねません。 聖書には次のようなことばもあります。「主に信頼する人々は、揺るぐことなく、とこしえにながらえる。」 「神はご自身に信頼する者を全き平安のうちに守られます。」 これら2つのことばの両方に共通していることばは『神への信頼』です。『心配』とは、単に「神への信頼不足」の表れなのです。では「心配する人々」は一体誰に信頼しているのでしょう?それは『自分自身』です! 神の目から見るならば、「心配している私たち」はあたかも「親の存在をすっかり忘れて迷子になっている幼子」のようです。私たちは青年期の頃から徐々に「自分は大人だ。自分は1人でも生きて行ける!」と思い込み始め(ある意味では正しいのですが…)、すべてのことを『自分の力』で解決しようとやっきになります。しかし実際は「本当の大人」は、必要な助けを適切な時に適切な人から適切な方法で受け取ることのできる人です。 神は初めに人類を創造された時から、私たちが1人で生きるようには(特に「神なし」に生きるようには)お造りになりませんでした。人は神を見失ったとたんに「心配や不安」に襲われるのです。人生の拠り所を『自分自身』から『創造主であり、全人類の父である神』へと移す時、変わることのない「神の平安」が私たちの心を満たすようになるのです。

(419) “わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。”

聖書は、「神はご自分のかたちに人をお造りになった」と教えています。「神のかたちに」とはもちろん、神は私たちのように目や鼻や口があるという意味ではなく、「創造主なる神に似て、『創造的な思考を持つ存在』として造られた」ということを表しています。本来私たち人間は「ただ与えられたものを消費して生きるだけ」のような『受身的な存在』なのではなく、1人1人がそれぞれの創造性を用いて「自分だけのオリジナル」を生み出すことのできる『他者への影響力を持った存在』なのです。そのことをすっかり忘れて、ただ「流されるだけ」の生き方をしているなら、その人は生物学的には生きていても、その実死んでしまっているのです。 イエス・キリストは、ご自分と私たち1人1人の関係を「ぶどうの木とその枝」にたとえて、「枝が幹から離れては実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしを離れては何も生み出すことができない」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストを通して『創造主なる神』からのいのちの栄養をいただいてこそ、真の意味で『生きる』ことができ、また「実を結ぶ」ことができるのです。ご存知のように、どんな木の実も『幹』からなるのではなく、1つ1つの『枝』に実るのです。もし私たちがこの『創造主なる神』にしっかりとつながって生きるなら、神は私たち1人1人を通して「自分だけのオリジナル」を生み出させ、周囲に良い影響を与え合いながら互いに向上していくことができるのです。

(418) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。”

 私たちには「過去を変えること」はできません。神はもちろんそのことをよぉく知っています。ですから神は決して私たちが既に犯してしまった過ちを責め立てることはしません。「お前が今人生に苦労しているのは、お前の先祖の罪の呪いだ」とか、「神は以前のお前のだらしない生き方を覚えているから、もはやお前の未来を祝福することはできない」などという言葉や考えは、『決して』神から出ているのではなく、むしろ私たちと神との関係を壊そうとする悪魔からやって来るのです。  聖書は「イエス・キリストは悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来た」と教えています。悪魔が私たちを責め立てる、いくら後悔しても決して取り戻すことのできない過去の失敗から私たちを切り離し、「神によって新しく生まれた者」として、ただ前だけを向いて生きるように思いを新しくしてくださるのです。ですから、私たちが「希望を抱いて」日々を生きることができるかどうかは、私たちの才能や成績によるのではなく、「誰のことばに(心の)耳を傾けて生きるか」によっているのです。あなたは『悪魔のささやき』に耳を傾けますか?それとも聖書が証しする『神のことば』に耳を傾け、そのことばを頼りに人生を建て上げていきますか?

(417) “必要なことはわずかです。あるいは1つだけです。”

 『マルチタスク』って分かりますよね?外国に住んでいると、どの英語表現が日本人にも普通に通じるのかがだんだん分からなくなってくるんです… 要するに「いっぺんに多くの事をこなすこと」を指しますが、現代はまさに『マルチタスク』の時代と言えると思います。  いくつかの作業を1度にこなすことは、もしかしたら時には必要なことなのかもしれません。ただ言えることは、2つ目の作業に関わろうとするとき、私たちは1つ目の作業に対する集中力の30%を失うということです。別の言葉で言えば「より多くの『量』をこなすために、それぞれの仕事の『質』を落としている」わけです。ということは当然失敗も増えるわけで、結果的に「より多くのタスクをこなす」ことはできたかもしれませんが、1つ1つの出来は不十分で、しかも疲労感と不満足感が残ることになります。実は誰でもそんなことは分かっているはずなのですが、このようなマイナス面は見て見ぬふりをして「より多く、より早く」ということばかりを追求してしまっているのです。  この『マルチタスク』から来る最大の弊害は「大切な人間関係」の中で起こります。『夫婦関係』『親子関係』は「相手だけを見る」ことが要求されます。「~ながら」は通用しません。このことをおろそかにすることから起こる亀裂は大きな犠牲を産むことになります。ある人は「家族のための時間を作るためには『マルチタスク』をしなければならないんです!」とおっしゃるかもしれませんが、必要以上のタスクをこなし心身ともに疲れた状態で一体どのように「質の高い関心」を家族に払うことができるのでしょうか?  神様は私たち人間を、このような形の『マルチタスク』をこなすためにはお造りになりませんでした。むしろ「目の前のこと」に集中するように造られたのです。しかし同時に神様は「多くの中から最も良いものを選ぶ能力」も与えてくださいました。この『正しい選択能力』をフルに用いて、質の高い成果を上げる歩みをしましょう。

(416) “味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。”

 あなたが「神をどういう方だと思っているか」が、あなたの生き方を形作ります。あなたが「神は意地悪で、私の失敗を見つけて罰しようとしている」と思っているなら、あなたはできるだけ失敗しないように気を付けるでしょうが、それでも失敗してしまった時、きっと絶望感に陥ることでしょう。しかしもしあなたが「神は慈しみ深い方で、私が最善の道を歩むことができるようにと導いてくださる」と思っているなら、あなたは多少の失敗にめげることなく、希望を抱いて前へ前へと進んで行くに違いありません。  ここで言う『最善の道』とは、「あなたをこの上ない状態にまで成長させ、潜在能力を完全に発揮させる道」という意味です。神は全知全能な方ですから、あなたにとって何が最善であるのかを、あなた自身以上によくご存じなのです。人生が自分の思い通りに運んでいない時にこのような「善である神」を思い浮かべることは難しいでしょうが、そんな時こそ私たちは「ご自身のひとり子をさえ、私たちの罪のために十字架にかけられた神」を思い起こし、『信仰』を働かせるのです。「今自分に見えているところは少しも『最善』には見えないけれども、神はこのような状況からも美しい花を咲かせることができる」と信じること、これが「聖書が教えている神」であり、『信仰』なのです!  「神が善であるなら、何故世界は現在このように破滅的な状態なのか?」 そのように感じている人たちが多いのではないでしょうか?確かにそうですよね。私自身も皆さんと同様に日々痛みを感じています。しかしそれと同時にもう1つのことも言えます。それは「この世においては『痛みや裂け目』なしに、本当に価値あるものは生まれない」ということです。種が蒔かれたら、その種は張り裂けなければ新しい命は生まれません。そして『産みの苦しみ』がなければ、新しいいのちの誕生もないのです。神がこの世においてご自身の『最善』を生み出すために、私たちは今「通らなければならない痛み」を経験しているのだと、私は信じて止みません。

(415) “すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

 白人たちがアメリカ大陸に乗り込んでくるまでは、アメリカインディアンたちにはまだ『書き言葉』がありませんでした。しかし彼らの言語にはその他の広く行き渡っている言語と同様に多くの語彙があり、しかもそのいくつかはとても豊かな意味を持っています。例えば『友人』を意味する言葉を直訳すると、「心の痛みを代わりに負ってくれる人」となるそうです。何てステキな定義なのでしょう!  誰かがあなたのところに「慰め」や「アドバイス」を求めに来たとしましょう。実はその人が最も必要としているものは、あなたの気の利いたことばなどよりも、ただあなたが隣りにいてくれること、打ち明け話にじっと耳を傾けてくれること、そして「不安や悲しみを共有してくれること」などであることがほとんどです。たとえどんなに立派なアドバイスを与えてあげられたとしても、あなたが急ぎ足でその場を去って行くならば、きっとその人には「この人は私のために十分に割けるだけの時間がないんだな」という印象だけが残ることでしょう。  イエス・キリストについて書かれている記述の中でも最も素晴らしいものの1つは、「私たちの弱さに同情してくださる方」だということです。彼は人々に接する時、決して急いではいませんでした。人々の必要のために、いつもそこにいてくださる助けでした。悲しむ者と共に涙する方でした。そして何よりも素晴らしいことに、彼は今でもそうなのです!もしあなたがその心の重荷から救われようと本気で彼に助けを求めるならば、イエス・キリストはあなたの所に来て、その重荷を負ってくださるのです。

(414) “喜んでいる心は健康を良くする。”

 ある有名なコメディアンがサイン会を開いていた時のことです。1人の若者の番になったとき、その若者はサインを求めながら彼に話しかけました。「あなたはボクの命の恩人です!」 コメディアンは反射的に「いやぁ、どうってことないよ」と答えましたが、若者は続けました。「いや、本当なんです!」 コメディアンはサインする手を止めて、この若者を見上げました。若者は彼を見つめて言いました。「実は最近父が亡くなったんです。彼はボクの最高の友であり理解者でした。あまりの喪失感にボクはしばらくの間泣き暮らし、とうとう自殺を考え始めていました。そんなある晩、ボクはあなたの出演する番組を観たんです。しばらくして、ボクは自分が大笑いしていることに気付きました。そして思ったんです。『ボクにはまだ笑う力が残っている。もしかしたら、もう少し生きてみる力も残っているのでは?』と。だからボクはあなたがボクにとって『命の恩人』だと言ったんです。本当にありがとうございます!」 コメディアンは右手を差し出して彼に握手を求めながら言いました。「いや、オレの方こそ、本当にありがとう。」  専門家の調べによると、『笑い』は人間の免疫力を高め、記憶力や学習能力を向上させ、緊張感をほぐし、脈拍や血圧を正常値に戻し、エンドルフィンを放出させて痛みを和らげ、心配やストレスを緩和し、人間関係を円滑にし協調性を生み出す効果があります。そして1回の大笑いはこれらの効果を8時間から12時間持続させるそうです。神様はどんな科学的治療よりも効果的で安価な『笑い』という処方薬を私たちに与えてくださっているのです!

(413) “ことばを控える人は知識を持つ者。”

 ある賢者のことばに「真に賢い人物は、ことばを発する前に2度吟味し、その結果何も言わない」というものがあります。実際、話し合いの場で本当に助けになる人というのは、「言葉数が少ないにもかかわらず、しっかりと話し合いに正しい方向付けをしてくれる人」ではないでしょうか。  ニュージーランドでは、警察が容疑者を逮捕した際に、その容疑者に事情聴取する前に必ず伝えなければならない注意事項があるそうです。それは「あなたには『黙秘権』がある。言いたくないことは言わなくて良い。何故なら、たとえあなたが不用意に言ってしまったことであっても、それは重要証拠として扱われることがあるのだから。」というものです。  私たちの日常会話にも同じことが言えます。もしあなたが言おうとしている言葉が相手を建て上げる言葉でなく、むしろこき下ろすものであるなら、あなたはそれを「黙っている」権利があるのです。聖書には「愚か者でも黙っていれば、知恵のある者と思われる」とも書いてあります。つまり「何も意見を言わないために人々から愚か者と『思われて』いる方が、実際につまらないことを口にしてあなたが愚か者であることを『暴露して』しまうよりもマシだ」ということです。

(412) “あなたがたは、自分が量るその秤で量り与えられるのです。”

 『正直さ』というものを重視して生きる人々がいます。もちろん『正直さ』は大切です。但しその『正直さ』という看板をかざして他の人の弱点や落ち度を不必要に指摘するのはいかがなものでしょうか?「私はただ感じたままを言ってるだけです。だって事実でしょう?本当のことを言って何が悪いんですか?聖書にだって『偽りを言ってはならない』って書いてありますよね?」 確かにその通りかもしれません。しかし聖書は次のようにも言っています。「人はうわべを見るが、神は心を見る。」「憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。」  アナタが言う『正直さ』は、『愛の心』に基づいたものでしょうか?相手のその欠点を指摘するのは、純粋にその人の成長を願ってのことでしょうか?真の『愛』は神から流れてきます。神は私たちを建て上げるために、時には厳しく、そして時には優しく私たちに自分の非を認めさせ、更なるステップアップのための『悔い改め』へと導きます。神が私たちの落ち度を指摘するとしたら、それはいつでも「私たちの罪を赦し、つまずきから回復させ、新しい1歩を踏み出させるため」なのです。  神は「私たちが他の人に対して下す評価が、必ず自分の身に帰ってくること」を知っておられます。そして神は私たちが『神に愛されている者』として、「互いにさばき合う者」ではなく「互いに建て上げ合う者」であって欲しいのです。ぜひ神が私たちの弱さを憐れんでご自身のひとり子の十字架によって私たちを赦してくださったように、「真の愛に裏打ちされた『正直さ』」をもって、共に更なる向上を目指して進みましょう。

(411) “この方に信頼する者は慌てふためくことがない。”

 ある女性がリビングルームのソファに座ってくつろいでいました。するとどこから入ってきたのか1匹の小さなヘビが迷い込んできてリビングを横切り、彼女の座っていたソファの下に潜り込みました。恐れのあまり叫び声を上げながら彼女は入浴中の夫を呼びに行き、夫はバスタオルを腰に巻いた姿で箒の柄の先でソファの下を突っつき始めました。この騒ぎに気付いた彼らの飼い犬は、何事が起ったのか確かめようとリビングルームに入ってきて、恐る恐る夫の背後から近寄ると、たまたまその冷たい鼻先が、夢中でソファの下を突いている夫の足の裏に触れ、夫は「自分はヘビに咬まれた!」と勘違いして失神してしまいました。それを見た妻は、夫が心臓麻痺に襲われたと錯覚し、急いで救急車を呼びました。駆け付けた救命士たちが、その夫をストレッチャーに乗せようとしたその時、例のヘビがスッとソファの下から現れました。驚いた救命士の1人が思わず手を滑らせて夫は落下し、片足の骨が折れました。ねじれて折れ曲がっている夫の足を見た妻は、その場に卒倒してしまいました。そんなドタバタ劇をよそに、ヘビは何事も無かったのように再びリビングルームを横切り、外へ出て行ったそうです。  日本語にも「慌てる乞食は貰いが少ない」とか、「急いては事を仕損じる」などと言われていますが、慌てて事を行ってうまくいくことはとても稀です。むしろ状況はもっと悪くなるのが普通です。「私たちを愛し、全てを働かせて良き方向へと導いてくださる『全能の神』」に信頼し、何が起こっても慌てることなく、平常心で冷静な判断を下していきましょう。

(410) “あなたのうちにある神からの賜物を軽んじてはいけません。”

 19世紀の初めに『ルイジ・タリシオ』という人がいました。彼は楽器の販売人であり、また収集家でもありました。彼はしばしば人々に、自分がどれほどの素晴らしい楽器を所有しているかを自慢することはありましたが、決してそれらを人々の目に触れさせることはありませんでした。そしてとうとう彼が亡くなった後に、彼の財産を鑑定しなければならなくなった時、綿密な調査によって彼の自宅の屋根裏部屋に隠してあった246台もの高価なバイオリンが発見されたのです。その中には「世界的な名器」と評判の『ストラディバリウス』もありました。この名高い名器は何と、屋根裏部屋にあったタンスの引き出しの中にしまわれていたのでした。  このルイジ・タリシオの物語にも驚かされますが、実はこの時発見された『ストラディバリウス』、その後も収集家たちの手を転々とし、ようやく天才バイオリニストの手によって演奏に使われたのは、それから更に147年後だったということです。何ともったいないことでしょう!  神は私たち1人1人を、ご自身の『傑作品』としてお造りになり、それぞれに「特別な才能(賜物)」を与えてくださっています。私たちの使命は、神を知り、神の助けをいただきながらこの『賜物』が何であるかを見出し、それをフルに用いて人々に仕えることです。「人様の前に出せるくらい立派になってから…」などと言っていたら、その日その時はいつまで経ってもやって来ないかもしれません。あなたが持っている「人と違った興味や才能」は何ですか?それを『自分のためだけのもの』などと言って隠し持ち続けることをしないで、さあ、思い切って人々のために使い始めてみませんか?

(409) “神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。”

 人が「天国と地獄」というものを意識し始めるのは、一体いつ頃からでしょうか?私自身「いつ誰から教わった」という記憶はありません(一応仏教系の幼稚園に行っていたので、そこで何かしら教えられたかもしれません)が、ずいぶん幼い頃から『天国』や『地獄』ということについて考えていたような気がします。そして普通に「自分は絶対地獄には行きたくない。自分はまあまあ良い子だから、きっと天国に行けるに違いない」と思っていました。もっとも「天国とはこういう所」といったはっきりとしたイメージを持ってはいませんでしたが…  聖書は私たちにかなりクリアな「天国のイメージ」を与えてくれています。そして聖書が教える「天国と地獄の違い」というものは実に単純で、それは「神がいつも共にいてくれる場所」と「神が全く不在の場所」といった違いです。現在私たちが暮らしているこの地上は、言わばその中間的状態で、「神はそこにおられ、神の恵みや祝福は誰もがある程度は経験できるけれど、あふれるばかりの神の愛やその限りない慈しみをフルに体験することはできず、痛みや苦しみも混在する場所」と言えるでしょう。そしてこの地上にいる間に私たちが下す『ある決断』が、「肉体の死の向こう側にある永遠の住まい」を決定するのです。では、その『ある決断』とは、一体どんな決断なのでしょう?  イエス・キリストは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃいました。私たちを『死』へと導く「いのちの源である神を認めようとしない心」(聖書はこれを『罪』と呼んでいる)を悔い改めて、この私たちの『罪』のすべてを十字架の上に神の前に清算してくださった『イエス・キリスト』を自分の救い主と信じる者は、だれでも無条件で神に受け入れられ、「肉体の死の向こう側にあるいのち」へと迎え入れられるのです。これが私たちがこの地上で下す数多くの『決断』の中で最も重要で究極的な『決断』なのです。  『肉体の死』は、決して「すべての終わり」ではありません。むしろ「私たちの人生の本編の始まり」と呼ぶことができます。この『人生の本編』を味わうことなしに、永遠に神から引き離されてしまうのは、あまりにも悲惨であるというよりほかはありませんよね?

(408) “富を得ようとして苦労してはならない。”

 現在の日常生活において周りを見回してみると、50年前には想像もできなかった品々が出回っていることに本当に驚かされます。パソコン、携帯電話、無料ビデオ通話、電子レンジ、デジカメ、カップヌードル、ペットボトル、挙げていたらキリがありません。そしてこれらのものは決して「珍しいもの」ではなく、もはや『生活必需品』になってしまっているわけですから、この半世紀ほど社会生活が変わった時代は無かったかもしれません。  家を1歩出るならば、そこは「お金を使う機会」に満ちています。昔は「買い物に行く」時以外は財布を持ち歩かなくて済んだのですが、今では「財布を家に置いてきた」となったら一大事、いやもしかしたら財布がなくてもスマホを使っていくらでも買い物が済んでしまう時代になっています。もはや私たちの人生は「お金を稼いで、それを使うこと」に費やされていると言っても過言ではないかもしれません。『ショッピング』は、様々な生活の営みのうちの1つでしか過ぎなかったのが、今や「生活そのもの化」してきてしまっているのではないでしょうか?そしてそのために「どれくらいお金を稼いでいるか」が自分自身の価値を測るバロメーターにさえなってしまっているかもしれません。  人間は本来、「物を売り買いする」ために生まれてきたのではなく、むしろ「互いに受けたり与えたりする」ために生まれました。よくよく考えてみると、売り買いできるもののうちで「どうしても必要なもの」はそれほど多くはありません。ある意味「あると便利だけど、無くても暮らせるもの」を私たちは欲しがるようになってきています。しかし私たちが生きるために本当に必要なものは、『思いやり』『優しさ』『平安』『誠実さ』『希望』『忍耐』『責任感』『信頼』『健康』『人生の目標』といったような、お金では買えない(「似て非なるもの」は買えるかもしれませんが…)ものであり、これらはすべて「人と人との関係」において育まれ、互いに提供し合うものです。ところがこれらのものを犠牲にしてまで「お金を稼ぐ」ことに時間と力を費やして身も心もボロボロにしてしまうとしたら、それは正しい生き方とは言えませんよね?  聖書が私たちに教える人生は、ずっとシンプルです。それは「神を愛し、人々を愛すること」というひと言にまとめられます。今あなたが時間と労力の大半を費やしているのはこのことに即しているでしょうか?ぜひ1度立ち止まってじっくり考え直してみることを心からお勧めします。

(407) “― 主のことば ―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”

 聖書を学ぶうちに分かってくることは、「人生における『幸福』や『成功』といったことがらは、創造主である神のみこころを知り、それに従って生きるかどうかにかかっている」ということです。聖書の神は、私たち1人1人を造られたお方であり、私たちの長所・短所や適性などをすべてご存じで、また私たちの人生にチャンスを与え、貴重な出会いを与え、ピンチの時に助けを与えてくださる方ですから、このお方を無視して生きるということは、ある意味「幸福な人生を自ら放棄しているようなもの」だと言えるのではないでしょうか?  「人生の成功」には次の3つのことが必要です。 1.神があらかじめ計画していた通りの『アナタ』になること。 2.神があらかじめアナタのために用意しておられた道を歩むこと。 3.神が日々アナタのために備えておられるものを受け取ること。  これら3つ全てのために、聖書のみことばの原則に従うことが必要です。聖書は「神は本来人間をどのような存在としてお造りになったか」、そして「人間はどこからどうやってその道を踏み外してしまったのか」、また「どうすれば、もう1度元通りの道へ戻ることができるのか」を教えており、またその『元通りの道(神と共に歩む道)』を歩み始める時に、「神がどのようにアナタの人生に関わってくださるのか」をも示してくれているのです。そして『真の幸福』とは、「何か良いものを得ること」ではなく(実際、1度得てしまったら、すぐに別のものを欲しくなるものでしょ?)、神が用意してくださっている素晴らしい将来に向かって進んで行く「日々のプロセス」なのです。

(407) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

何年か前に社会学者たちがある実験によって大変興味深い発見をしました。当時の常識では、児童公園などの周囲をフェンスで囲ってしまうと子供たちが委縮してしまって伸び伸びと遊べないのではないかと思われていました。そこで思い切って公園を取り囲むフェンスをすべて取り払って、子供たちがどのような反応をするか観察したのです。すると驚いたことに、子供たちは伸び伸びと遊ぶどころかかえって委縮してしまい、公園の中央付近に集まって不安そうな顔で周囲を見回しながら遊び始めたのです。そこで再びフェンスを張り巡らしたところ、子供たちは以前のように公園の端の方にまで走って行って、生き生きとはしゃぎ回り始めたそうです。 私たちは皆、適切な『境界線(ルール)』を必要としています。「これ以上向こう側へ行ってはいけない。このラインを越えてしまったら痛い目を見るよ。」と。 ある教育家たちは「そんなことをしたら、子供たちの創造性を摘み取ってしまう」と言うかもしれません。しかし実際は、明確な境界線が引かれていた方が子供たちの内にある『創意工夫』といった才能が正しく花開くのです。ですから、子育て奮闘中の親御さんたち、子育てのための適切な『ガイドライン』を作り、それをしっかりと子供たちに伝えてください。そして「このガイドラインに従わなかった時にはどんな悲しい結果を生むか」も、ちゃんと警告しておきましょう。このような一貫した教育は、あなたのお子さんたちを「正しい自制心と責任感」を持った優れた大人へと成長させてくれるのです。 こんなユーモラスな話があります。免許取りたての息子に自家用車をプレゼントする時に、父親がカギを渡しながら愛息にこう言ったそうです。「息子よ。実はね、この車には不思議な仕掛けがしてあるんだよ。」 「えっ?一体どんな仕掛けがあるの?」 息子は興味津々といった表情で尋ねました。父親は答えました。「うん、例えば、キミがたった1回でもスピード違反をしてしまったとするだろう?そうするとね、この車はキミの前から消えてしまうんだよ。」 私たちの『天の父なる神様』も同じです。彼は私たちを愛しておられるが故に、私たちに「聖書の教え」というしっかりとしたガイドラインを与えてくださり、私たちがそれに従って歩み、不必要なアクシデントや人間関係のもつれなどに巻き込まれないように守ろうとしてくださっているのです。

(406) “たとえ死の陰の谷を歩むとしても…”

 神を信じて生きようとするか否か迷う1つの要因に、「もし神が本当にいるのだとしたら、何故……のようなことが起こるのか?」という問いがあると思います。『God is not dead』という映画でクリスチャンの青年に対し挑戦的な態度で応じる「無神論者」の哲学の教授は、敬虔なクリスチャンの母親に育てられながら、その母親が晩年に病で苦しみながら死んで行った様子を目の当たりにして、「神なんかいるものか!」と結論づけていました。私はキリスト教の牧師ですが、「神が本当に恵み深いお方であるなら、どうしてこのようなことが起こるのか?」と問わずにはいられない時が確かにあります。ある意味現在起こっている、この「コロナウイルスによるパンデミック」もその1つだと言えるでしょう。  ただここで忘れてはならないのは、聖書が私たちに教える『人生観』は、「…だから」の人生観ではなく、「…にもかかわらず」の人生観であるということです。神が私たちを愛されるのは、「私たちが愛らしいから」ではなく、むしろ「私たちには愛しにくい点が数多くあるにもかかわらず」愛されるのです。それは神ご自身のご性質が『愛』だからです。神は私たちが「良い人間」であろうが「悪い人間」であろうが、ひたすら私たちを愛さずにはいられないお方なのです。  聖書は「神は私たち人間を『神のかたち』に造られた」と述べています。私たちは本来、神と思いを共有させながら、神と「心を1つとされて」生きるべき存在なのです。ですから、もし神が「…だから」の神ではなく、「…にもかかわらず」の神であるなら、私たちも「こういうことが起こったから神を信じる」のではなく、「こんな状況であるにも関わらず神を信じる」という姿勢が期待されているはずです。  以前「神様、あなたはご自分のなさっていることが分かっておられるのですか?」というタイトルの本を読んだことがあります。その本の内容は、著者が直面した数々の困難や試練の経験が綴られていましたが、そこからは著者の神に対するあふれんばかりの純粋な信仰が感じ取れました。すなわち「神を信じるか否か」は、人生に起こる様々な出来事によって左右されるのではなく、「自分の心を神に向けようとするか否か」にかかっているのです。

(405) “イエスは立ち止まって…”

 イエス・キリストとその一行がある町に向かっている途中、町外れで物乞いをしている盲人がいました。この盲人はイエス・キリストが近くを通って行くのを知ると、人々が止めるのも聞かずに声の限りにイエスを呼び求めました。イエスはこの声に気付いて立ち止まり、「自分の目を見えるようにして欲しい」という彼の訴えを聞き入れ、彼の視力を奇跡的に回復させてくださいました。  私たちには、このキリストのように『奇跡を起こす』ことはできないかもしれませんが、自分を必要としている人のために『立ち止まる』ことはできるのではないでしょうか?  現代は『スピード社会』と言われます。3分でできるカップヌードルや、1分で温められる電子レンジ、物事が分刻みで進んで行く世の中です。そのような社会で暮らしている私たちは、知らず知らずのうちに『待つこと』が苦手になり、いつの間にか歩くのも早足になり、他人に呼び止められても「自分のこと」で頭がいっぱいになっていて「立ち止まる」ことができなくなってしまっています。  ぜひもう1度、日々の自分の活動を振り返ってみましょう。「本当にどうしても今日中にこなさなければならなかったこと」が一体どれほどあったでしょうか?「できるだけたくさんの量をこなすこと」を目標にする代わりに、「できるだけ無駄なことを省いて『時間と心の余裕』を持つこと」を心がけてみてはどうでしょうか?そうすると、イエス・キリストが彼を求めている人々の必要に答えられたように、あなたを求めている人々(家族・友人とか?)の必要に答えることができ、もしかしたら『小さな奇跡』も体験できるかもしれませんよ。

(404) “主が良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

 「私たち人間に対する『神のみこころ』って何だろう?」と考えたことはあるでしょうか?私はクリスチャンになりたての20代の頃、よくこのことを考えていました。そして『神のみこころ』とは、「どんな職業に就くべきか?誰と結婚するべきか?」などの『特別な決断』に関わることだと思っていました。しかし聖書を読んでいくうちに分かってきたことは、はっきりとした『神のみこころ』のうちの1つは「神に感謝すること」だということです。  子供が誰かからプレゼントをもらった時などに、そこに居合わせた親がその子に「ホラ、こういう時は何て言うんだっけ?」などと『お礼』を言うことを強制する場面を見たことはないでしょうか?どこの親も自分の子供に『感謝の心』を忘れない人間に育ってもらいたいと思っているようです。私たちの『天の父』も同様に、私たちが「感謝する人」になることを望んでいます。神様は決して私たちから遠く離れたところにおられる方ではありません。神はいつも私たちのすぐ側におられて、私たちの人生をご自身の良きもので満たしてくださっています。毎日太陽を昇らせ、酸素を与え、美しい自然で取り囲み、食物を与え、新しい出会いやきっかけを与え、1日の終わりに眠りを備えてくださいます。1人1人の日常に起こる細かいことを描写していたら、とてもこの紙面では書き切れません。  聖書は「すべてのことに感謝しなさい。それが神があなたに望んでおられることです。」と勧めています。私たちが『当たり前のこと』と言って見過ごしてしまっている物事の中に、実は「神のみわざ」が満ちているのです。「神様なんて存在しない!」と思っているアナタ、ぜひ今日1日よぉく目を開いて「感謝できること」を探してみてください。もしかしたら、いないと思っていた神様を見出すきっかけに遭遇するかもしれませんよ?

(403) “自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 20世紀初頭に大変活躍した「マリアン・アンダーソン」というアメリカ人女性歌手がいました。彼女は世界中を股にかけて活躍し、ルーズヴェルト大統領の時代にホワイトハウスに招かれて歌ったり、イギリスのエリザベス女王の前で歌ったりもしました。そんな彼女が、ある時の記者会見で「あなたの歌手人生の中で、もっとも光栄に感じた瞬間をお聞かせください」と問われ、記者たちが固唾をのんでコメントを待っていると、彼女は顔を輝かせながらこう答えたそうです。「歌手として最も光栄に感じた瞬間、ええ、それは今でもはっきりと覚えています。それは私がオーディションに合格して、歌手としてスタートできると分かった時に、自宅まで走って行って、『お母さん、もう明日から他の人たちの洗濯物をしなくてもいいのよ!』と伝えた時です。」  私たち人間は皆、基本的に『自己中心的』です。まず自分自身の状況が整ってから、ようやく他の人の事を考え始めるものです。しかし実際は「他の人のために役立っている」と感じられる時の方が、自分の事ばかり考えている時よりもずっと喜びと充実感を得られるのです。そして「生まれながらの性質」を改めるためには、それなりの『訓練』が必要です。元来の臆病な性質を変えたければ、訓練によって勇敢さを身に付けなければなりません。生まれつき否定的に物を考えてしまう人は、肯定的な考え方ができるよう意識の変革が必要です。同様に「自己中心」な私たちは、他の人の事を思いやることを意識的に学ばなければ、いつまでたっても自己中心なままになってしまいます。  キリストは「神のご性質」を持った存在であったにもかかわらず、人の姿になって現れ、それだけではなく、私たちの間で『仕える者』のように振舞われました。それは本来私たちも「他の人の最善のために仕えること」を喜びとするように造られていることを思い起こさせるためだったのです。神が私たちに『自己最高の人生』を送ることができるように助けることを喜びとされているように、私たちも「他の人が必要としている助けを与えること」を通して、より大きな喜びや満足を経験することができるのです。  ぜひ今日から「自己中心な自分」を「他の人の必要に仕える存在」へと変える訓練を、イエス・キリストと共に始めてみませんか?

(402) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 あなたは自分のことが好きですか?私は十代の頃、自分のことがあまり好きではありませんでした。特にこれといった確固たる理由があったわけではないのですが、割と周囲に流されるタイプだったし、周りの意に添うように自分自身の本音を隠してしまう傾向があったからかもしれません。本当はもっと「自分の気持ちに正直に」生きたいと思っていたのだけれど、それで他の人に受け入れてもらえなかったらどうしよう…、という不安があったのだと思います。  20歳の時に、クリスチャンの友人を通して「イエス・キリスト」という方を自分自身の救い主として受け入れ、私もクリスチャンとして歩み始めました。そうしたら、いつの間にか自分の事を大好きになっていました。もちろんこれを『神様のみわざ』というひと言で片づけてしまうこともできるのですが、当時の自分を振り返って思い出してみると、その具体的な要因としていくつかの「内面的な変化」に思い当たります。 ①自分自身を『神の作品としての存在』と自覚するようになった。このことは私に「自分は自分らしく生きることに価値がある」ということを確信させました。そして本当に方の力が抜けました。無理に「誰かと同じように」ふるまう必要がないということは(特に日本人にとって?)大きな解放を与えてくれます。 ②絶対者による無条件の愛を受け取った。これは「もはや誰のご機嫌を取る必要もない」ということを意味していました。たとえ世界中の人々が自分のことを嫌いになったとしても(まあ、そうならないことを願いますが…)、最も偉大な方は私を決して嫌いにならないし、見捨てたりもしない。この安心感(心の平安)は何にも代えることができません。まあその数年後に素晴らしい妻と結婚し、目に見える形で『自分だけを専門に愛してくれる存在』が与えられたことも大きな助けになっていると思いますが。 そして③内なる聖霊の働きによる変化。イエス・キリストを救い主として受け入れた瞬間から、『聖霊なる神』が私の心の中に宿ってくださっています。彼は私も気付かないような形で日々私を造り変えてくださっています。そのために上記のような変化は、イエス・キリストを信じてから30年以上経った今振り返って、ようやく自覚されるようになりました。  神様は私たち1人1人が『ご自分の作品』として喜んで生き生きと日々を生きて欲しいと願っておられます。そのために私たちが「自分を大好き!」と言えるように造り変えようとしておられるのです。

(401) “知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。”

 『神』と呼ばれる存在は、大きく分けて2種類あります。①「人間[が]造った神」。②「人間[を]造った神」。この2つです。ちょっと想像してみてください。ある優れた彫刻家がその卓越した腕前で立派な姿をした偶像を彫り上げ、その前にひれ伏して、「私の神よ、どうぞ私をお助け下さい」と祈る姿を。どう考えても、この『造られた存在』が、『造ってくれた方』を救うことができるとは思えませんよね?しかし実際ある人々はこれと同様なことを行っています。聖書はこれらの行為を『偶像崇拝』と呼んで堅く禁じています。それは、「この天地を創造し、私たち人間[をも]創造された、唯一まことの神」を冒涜する行為だからです。『私たち[を]造られたお方』、この方こそ『まことの神』として敬われるべき唯一の存在です。  スヌーピーの漫画のストーリーで、こんなのがあります。ある日チャーリーブラウン少年が弓矢の練習をしていました。彼は弓と矢の他に『マジックペン』を持ち歩き、弓を射るたびにその落ちたところへ駆けて行って、落ちた矢を中心にしてマジックで的を書くのです。そして胸を張って言います。「どんなもんだい!ボクはいつだって的の真ん中に当てられるんだぜ。」  ある人の人生はまさにこのようです。自分の人生の成り行きに合わせて都合の良い『神』を造り出し、「私の神様、どうぞ私が決めた決断を祝福してください。そうすれば、私はあなたが真の神であると認めます!」と言うのです。そして自分の思い通りに事が進まなくなると、「神なんていない」と結論付けるのです。神が定めた真理の道を追求する代わりに、自分勝手に向かって行く方向を「神が定めた道」とみなす、まさに「神をも恐れぬ」態度とでも呼びましょうか。  真の神はただ1人。それはこの全宇宙を創造し、私たち1人1人をお造りになり、今日も私たちを正しい道へと導くことのおできになる権威あるお方です。そしてこの『唯一まことの神』を正しく知り、正しい応答をすることが、私たちの人生にとって「何よりも初めに覚えるべきこと」なのです。

(400) “誠実な人は自分のたましいに報いを得る。”

 私たちの人生の方向性を定めるのに大きな影響を与えるものに『価値観』があります。「正しい価値観」を持たないために、せっかく与えられている優れた才能や機会を「社会の向上」のためではなく、むしろ『破壊』のために用いてしまう事さえあります。『ナルニア国物語』の作者として知られるC・S・ルイスは次のように言いました。「正しい価値観なしの教育は、確かに人の成長を助けはするが、むしろ『賢いアクマ』を育てるのに役立っているのかもしれない。」  正しい『価値観』は、ある意味「ガードレールのようなもの」だと言えるかもしれません。人生の曲がり角に差し掛かった時も、その人が道を踏み外すことのないようにしっかりと支えてくれます。正しい『価値観』は、人生の道に迷った時に「どこまでが安全でどこからが危険なのか」を見分けさせてくれます。「何が本当に大切で、どんなことに自分の時間と労力を費やすべきなのか」を知っていることは、私たちが意義のある人生を送ることを大いに助けてくれます。  ただ、「正しい価値観を知っていること」と、「それを実践すること」とは全く別の事です。恐らくほとんどの人は『正直さ』『誠実さ』『寛容さ』などに価値を置いていますが、それらを実践することが自分の身に不利益をもたらすような状況に陥った場合に、それでもその『価値観』を貫くことができるかどうかが問われるのです。  正しい『価値観』を実践することは多くの場合リスクが伴います。しかしそれらのリスクを乗り越えて正しい生き方を貫くことができた時、私たちは昼間は胸を張って生き、夜にはぐっすりと眠ることができます。そして何よりも素晴らしいことは、私たちは自信をもって『自分らしく生きること』ができるようになります。何故なら、私たちは他の誰をだませても、決して自分自身だけはごまかすことができないからです。

(399) “試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。”

 試合の勝敗は「終了の合図」と共に決まるのでしょうが、人生の勝ち負けは恐らく「あきらめた時」に決まってしまうのかもしれません。あなたは今何かをあきらめかけているのでしょうか?だとしたら、ぜひ思いとどまってください。  私たちは人生がうまく行かない時に、いろいろな理由を付けたがります。「生まれが悪い」「育ちが悪い」「親が悪い」「先生が悪い」「環境が悪い」「社会が悪い」「自分は運が悪い」などなど。あなたもどれかのせいにしたことがあると思います。でもどんなに自分の境遇を周囲のせいにしたところで、事が解決するわけではありません。どんな理由にしろ、自分の志をあきらめてしまったら、あとに残るのは『後悔』だけです。  ある人々は、事がうまく運ばない時に「神を呪う」かもしれません。でもご存知でしたか?人は大抵八方ふさがりになるまでは、『本気で』神を求めないものです。そして神が求めておられるタイプの人間とは、この「本気で神を求める人々」なのです。ある意味、神はこの理由で敢えて私たちが困難や試練に遭遇するのを許される、と言えるかもしれません。  また神は、人々がご自身を求めて生きるようになることと共に、私たち1人1人に与えておられる『潜在能力』を引き出したいとも思っておられます。そしてこの『潜在能力』の扉も、私たちに訪れる「人生のチャレンジ」を通して少しずつ開かれて行くのです。せっかく神様があなたを更に成長させようと「人生の試練」を送ってくださっているのに、それを避けて通ろうとしたり、後ろ向きに歩こうとするなら、あなたは決して成長することができません。  あなたをこの世に生み出してくださった神は『良いお方』です。彼はそのとてつもなく「大きく、広く、高く、深い愛」をもって私たち1人1人に『自己最高の人生』を歩ませようと今日も働きかけてくださっています。そのことを信じて生きるのと、そうでないのとでは、天と地ほどの差があるのです。

(398) “思いを新たにすることで、自分を変えていただきなさい。”

 コロナやら、洪水やらで、気がふさぐ日々ですよねぇ。これでまた『猛暑』がやってくるのかと思うと、益々気が滅入ってくるのではないでしょうか?一体どうやったら『気持ち』だけでも毎日生き生きと生活できるのでしょうか?  私たちは「出来事や環境・状況」が『気分』を左右していると思いがちです。しかし実際は違います。私たちの『気分(感情)』は、私たちの『思い』からやってくるのです。ですから「事実はそうではないのに、思い違いをしていたために、イヤな気分を味わっていた」というようなことが起こるのです。例えば、考えてみてください。「怒りの感情」や「悲しみの感情」を自分の心に造り出すには、自分の『思い』の中に「頭に来ること」や「悲しかった経験」などを思い起こさせる必要がありますよね?このように、私たちの『気分』は、私たちの『思い』から生まれてくることが分かります。ということは、つまり、私たちは「自分の周囲の出来事や状況」をポジティブに解釈できるようになれば、気持ちも上向きになれる、ということになります。  私は毎週日曜日に行われている教会の聖日礼拝で聖書のお話をするのですが、冒頭に必ず「私たちの『天の父なる神様』は『良いお父さん』なので、そのご性質上、ご自身の愛する子どもたちである私たち1人1人に対して『最善』以外をすることはできない」と話しています。私たちの身の上に起こることは、その時には到底『最善』とは思えないようなことがたくさんあります。しかし「永遠」の視点から私たちを見ておられる全知全能の神がなさる『最善』は、私たちの思いを超えて私たちの人生を根底から支え励ます愛のみわざなのです。この「愛と慈愛に満ちた神の御手の内にある」ということを心から信じることができるなら、たとえ目の前の好ましくない状況の中でも、「神は最善しかなさらないのだから、このことにも今の私には分からない『神の愛の計画』が隠されている」と解釈して、希望にあふれて前進することができるようになります。そして更に神は、彼に信頼して私たちが『思い』を新たにしているのをご覧になり、私たちの心に働きかけて、1日1日を生き生きと歩むことができるように助けてくださるのです。

(397) “あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。”

 ラグビーやサッカー、アメフトなどのスポーツを観戦したことのある方はご存知と思いますが、前半戦と後半戦との間に結構な長さの『ハーフタイム』というのがあります。この時間に、観衆のためには退屈にならないように様々なアトラクション(チアリーダーたちのパフォーマンスとか)がありますが、選手たちはこの時間に、十分な休養を取りつつ、コーチを中心として「前半戦を通して学んだことを後半戦に生かすためのミーティング」をするのが通常です。このミーティングをしっかりと行うことで、前半戦は劣勢に回っていた試合が、後半戦でひっくり返ったりすることがあるのです。そんな時、観戦している側はとても興奮させられます。  これは私たちの人生にも当てはまります。もしあなたがまだ息をしているのなら、あなたの『試合』はまだ終わっていません。万が一あなたが現時点で「自分は人生の敗者だ」と思っていたとしても、まだ『逆転』の余地があるのです。そのためには「質の良いハーフタイム」を持つことが必要です。もしかすると今までの人生においていくつかの「大きな失敗」や「思ってもいなかった不運」に遭遇して落胆しきっているかもしれません。だからこそこの『人生のハーフタイム』に効果があるのです。あなたを愛し、あなたの人生を『自己最高』へと導きたいと願っておられる全能なる神と、その言葉である『聖書』を「人生のコーチ」として迎え、彼のアドバイスに良く耳を傾け、何が間違っていたのか、どこがどう悪かったのかを確認することは大切です。  多くの場合、試合がうまく行かないのは「状況やアクシデントに翻弄されて基本がおろそかになり、『自分たちらしい戦い方』ができなくなっていること」から起こります。それは人生に関しても同じことが言えます。創造主なる神の許へと立ち返り、「自分は本来『神の栄光』を現すために造られた尊い存在である」という基本に戻って、全能の神のアドバイスに従って生き始めるなら、それまで自分で思い込んでいた生き方とは全く違った興奮に満ちた人生へと突入できるのです。  悪魔やこの世の価値観は私たちに『過去の現実』を突き付け、「お前には無理なんだよ。お前が1番知ってるだろ?今までのお前の失敗ぶりを見てみろよ。こんなお前に一体何ができるっていうんだ。」とささやくかもしれません。しかし神はあなたの目を前に向けさせて言います。「大丈夫。今までキミは自分を見失っていただけだ。キミはわたしの最高傑作なのだから、わたしのアドバイスに従えば必ずうまく行く。過去の失敗は『次の成功のための大切なレッスン』としてだけ覚えておいて、わたしと一緒に新しい道へと進んで行こう。」  さあ、『ハーフタイム』で十分に英気を養ったら、興奮に満ちた『後半戦』へと進んで行きましょう!

(396) “わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。”

 人生において1度でも大きな挫折を経験すると、新しいことに挑戦することにひどく臆病になってしまうものです。「自分の人生の前進はあそこで終わってしまった…」かのように感じてしまうのでしょう。しかし、聖書の神、この天地を造られた唯一まことの神にとっては、むしろこの「終わってしまった」と感じられる時こそが『新しいスタート』の時なのです。本物の神は、まさに『逆転の神』なのです。  私たち人間は、本来「神と共に生きる」ために「神の御手によって」造られました。それが「自分勝手な悟り」に頼って独り歩きを始め、神が望んでおられたものとは全く違った方向へと進んでしまったのです。神は私たちがその過ちに早く気付いて『方向転換』することを願っているのですが、私たちは自分の『思い込み』にすっかり囚われてしまっていて、もがけばもがくほどがんじがらめになって行くことに気付かないのです。  「挫折を味わうこと」は、ある意味「間違った方向へ進んでいたことに気付くきっかけ」となります。そこで『創造主なる真の神』と出会い、人生の方向を軌道修正し、人生最高のパートナーであるイエス・キリストとの二人三脚で再出発するならば、この挫折はかえって『真の解放』を経験するためのスタートとなるのです。  もしかすると、ある方は「自分は人生を再出発するには年を取りすぎてしまった」と感じておられるかもしれません。でもご安心ください。聖書に登場する英雄たちの中でも最も輝かしい活躍をした『モーセ』という人物は、人生における大きな失敗を犯し、国を追われて、80歳になるまで後ろ向きに生きていました。しかし彼の「輝かしい活躍」はそこから始まったのです!  聖書の神は『逆転の神』です。彼にとっては「遅すぎること」も「大きすぎること」もありません。神が助けることができないのは、「いくら神様でも、こんな私のことを何とかできるはずがない」とあきらめてしまって、神の方を振り返ろうとしない人だけなのです。

(395) “右にも左にもそれてはならない。”

 トランプの遊びの中でも最もよく知られているゲームの1つに『神経衰弱』っていうのがありますよね。幼い子供でもできるので、我が家でも子供たちがまだ幼い頃によくやりました。このゲームは、日本語の名前もずい分面白いですが、英語名もなかなかで「Concentration」といいます。日本語に訳せば『集中(力)』です。ちゃんと集中して、自分が以前選んだカードや、他の人がめくったカードをよぉく観察していなければ負けてしまいますから、この英語名の方がゲームの本質をよく表していると思います。  さて、私たちの人生にもこの『集中力』はとても大切です。しばしば私たちが失敗を犯したり、計画したことをちゃんと成し遂げられなかったりするのは、この『集中すること』をおろそかにしていることが原因だからです。「親切心」や「優しさ」が高じて、「本来第1優先すべきこと」から目をそらしてしまったために、後で後悔することが多いのではないでしょうか?  そもそも多くの現代人は「自分はこれを成し遂げるために生きている」と言えるような『人生の大目標』や『夢』と呼べるものをつかむことなしに日々を過ごしているような気がします。もちろん毎日行き当たりばったりに生きていてもそれなりに楽しく過ごせるかもしれませんが、神様は私たち人間をそのように「無駄に時間を過ごす」ためにはお造りにならなかったと思います。神様は私たち1人1人に特別な計画を持っておられ、そのために日々私たちを整え、来るべき日のために備えておられるはずです。そしてそれが何であるかを私たちが知るために、ご自身を求めて生きる者となって欲しいと願っておられます。そして人は、その神様の計画を見出し、そのことを第1優先にして、それに集中することを妨げるその他の「まあまあ大切なこと」に敢えて『No!』と言いながら、集中すべきことに全力を注いで行く時に、『自己最高の人生』を歩むことができるのではないでしょうか?

(394) “鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。”

 現代は「同年代の者同士」が集まることはあっても、「世代の違う者同士」が親しく付き合うことは、家族でもない限りほとんど無くなってしまっているのではないでしょうか?これは大変もったいないことだと思います。世代を超えた人間関係は、これからの日本、また世界の将来に大きな益をもたらすために必要とされている大切な要素であると思います。  聖書の中にも様々な人間関係(友人関係)が登場します。イエス・キリストでさえ、「わたしはあなたがたを『しもべ』ではなく『友』と呼びます」とおっしゃいました。『親しい友』は、どんな財産や人生経験にも優る人生の『宝』と呼べるでしょう。  そこで皆さんにぜひ、次の3種類の『友人』を作るようお勧めします。 ①年上の友人(少なくともひと回り(12歳)以上年長)  ・「年長の人」は例外なく私たちよりも多くの『人生経験』を持っています。「成功の経験」もあるでしょうし、「失敗の経験」もあるでしょう。きっと親しくなればなるほど心を開いて、『失敗談』さえも笑いながら分かち合ってくれるはずです。そして私たちは実はこの『失敗談』からこそ、より多くの事を学ぶものです。同年代の友人関係はある面ライバル的な部分がありますから、なかなかこのような分かち合いをすることができません。ところが年を取って行くと通常は徐々に謙遜になって行き、『失敗談』を話すことがさほど恥ずかしくなくなります。そのような友人を持っていることは大変益になります。 ②同年代の友人  ・同年代の友人に必要な要素は、あなたに対して「おべっか」を使ったり、妬んだりせず、いつでも正直でいてくれる『ソウルメイト』と呼べる人です。弱っている時にはかばってくれ、図に乗っている時には諫めてくれる、そんな友人を1人でも持っている人は幸いですね。(ちなみに、私にとって妻は正にそんな存在です) ③年下の友人  ・これは、あなたがその人にとって①(年長の友人)になれる人です。ですから、特に「良い模範にならなくちゃ」などと力む必要はなく、ただ心を開いて、相手の悩みや夢に耳を傾け、また自分の成功や失敗、誇りに思っていることやだらしない部分などを、リラックスした雰囲気の中でユーモアを交えながら語り合えるのが良いでしょう。 忘れないでください。これら『3種類の友人』を持つことは、あなたの人生に益をもたらすだけではなく、「世界的に益をもたらすきっかけとなる」ということを。

(393) “キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。”

 聖書はイエス・キリストのことを「神が人となられた存在である」と主張します。これは多くの人にとって受け入れにくい概念かもしれませんが、他方仏教では「人間が修行を積み悟りを開くと仏になれる」と言います。ちょっと考えてみると、我々のような不完全な存在が「仏になること」と、全知全能なる神が「人間になること」とでは、後者の方が可能でありそうなことくらいは直ぐに分かりますよね?もちろん「神がそう望めば」の話ですが…  イエス・キリストは、「神とはどのようなお方なのか?」を私たちに分かりやすく示すために来られた、ということもできますが、同時に「人は本来どのように崇高な生き方ができるのか?」ということを、実際のご自分の生き様を通して教えてくださった、ということもできます。そしてそれはキリストが「神としてのあり方を捨てられないとは考えなかった」ことから始まった、と書いてあります。  私たち人間は皆、それぞれ何かしらの「これだけは譲れない!」という信念のようなものを持っています。「私はずっとこのやり方でやってきたのだから、今更他のやり方に変えることはできない!」とか、「朝食はご飯とみそ汁と決まっている。パンやコーンフレークなんか食べられるか!」などなど、まあ立派と言えば立派かもしれませんが、もしかしたらそのような『固定観念』が、自分自身の更なる飛躍のチャンスをみすみす失わせていることもあるかもしれません。でももし「神の姿である方が、そのあり方を捨てられた」のだとしたら、私たちのちっぽけな信念をちょっとだけ修正することなど、大したことではないと言えるのではないでしょうか?  だれでも「誰かに無理矢理変化を要求されること」には抵抗します。新たなチャレンジをするためには、まず『安心感』が必要です。「自分は今のままでも十分に愛され受け入れられている」という安定した心境からこそ、未知の領域へと冒険する力が湧いてくるのです。そして聖書の神はまさに私たちを「ありのまま受け入れ、愛してくださっている」のです。この方の大きな愛を体験する時、そして私たちに示してくださった大きな犠牲を心から理解する時、私たちは「神が望んでおられる『更に人生の高嶺を目指す自分自身』」へと羽ばたく勇気と力が与えられるのです。

(392) “あなたが祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。”

 きっと誰でも1度くらいは祈ったことがあると思います。そして「お祈りが聞かれた」と感じた人もいると思うし、「祈りなんてするだけ無駄」という印象を持ってた方々もいることでしょう。  私がクリスチャンになる前もそうでしたが、『祈り』というとそれはほとんどの人にとって『お願い事』と同じような意味なのではないでしょうか?日本の寺社仏閣にはそれぞれ「安産に効く」とか「交通安全に効く」とか、「お金が儲かる」などなど、それぞれの専門分野があるようですね。そして多くの方々が『お願い事』のために足を運び、また相応の値段の『お守り』を買って帰ってたりしているのだと思います。  聖書の中に登場する『祈り』の中にも、もちろん『お願い事』も出てきます。しかしそれは『祈り』の中のほんの1部でしかありません。『祈り』というものは「神との対話」であって、それは「お願い事」でなくても、「喜びや悲しみの分かち合い」だったり、「心の秘密の打ち明け話」だったり、「たわいもない日常会話」だったりするのです。そして私たちが周囲の人たちとじっくり時間を取ってコミュニケーションすることによって、より親しさを増していくのと同様に、『祈り』を通して私たちは「神との親しさ」を増していくのです。  新型コロナウイルスの影響によって、外出を制限されたり、友人たちと思うように会えなくなったりして、とっても寂しい思いを余儀なくされていますが、ある意味それは「神様との親しさ」を増すための好機なのかもしれません。私のある知り合いは「コロナの影響で仕事が休みになり、毎日十分に祈りの時間を持つことができている。正直なところ、前の忙しい日々には戻りたくない」と言っていました。  ぜひこの、ある意味『不自由』に感じられる時間を『好機』と捉え、更に幅広い『祈り』というものを体験してみてはいかがでしょうか?

(391) “泣いている者たちとともに泣きなさい。”

 日本語の古くからの言い回しに『同類相憐れむ』というものがあります。「同じような苦しい境遇にある者同士は、互いに親近感を覚えるものだ」のような意味ですが、何故か最近では「あの人たちって『同類相憐れんでる』って感じで、何だか情けないね」というように、相手を見下した言い方として使われることが多いようです。もしかすると、戦後の高度経済成長を通して発展した日本の『おごり』のようなものが、『社会的弱者』を蔑視する傾向を育んでしまっているのかもしれません。とても残念なことです。  よくキリスト教は『弱者の宗教』と言われますが、それは何も「弱い人たちはキリスト教を信じる傾向がある」という意味ではなく、「キリストと心を通わせて生きる者の心は、不思議と『社会的弱者』に対する憐みに傾く傾向がある」ということなのだと思います。ある時イエス・キリストは次のようにおっしゃいました。「あなたがたの父(神のこと)があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」。そうです。私たちの創造主なる神は『憐れみ深いお方』なのです。  あるジャングルの奥地に住む部族は、『あわれみ』を表現するのにピッタリな単語がありませんでした。その部族に「神の憐れみ」に関して説明すると、彼らはそれを「神が私たちと共に泣いてくださっている」と解釈したのです。これぞ『あわれみ』の真骨頂ではないでしょうか?  神様は私たちに「あわれみ深い人になって欲しい」と望んでおられます。「人の痛みを自分の痛みとして感じ取り、共にその苦しみを乗り越えて行って欲しい」と願っておられるのです。そしてそのような態度で私たちが「共に生きること」ができる者となるために、今日も私たちを憐れんでくださっているお方なのです。

(390) “求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。”

 クリスチャンたちは、天地創造の神のことを『我らの父』と呼びます。ちょっと馴れ馴れしいと思われるかもしれませんが、確かに「すべての物の根源であるお方」としても、またイエス・キリストが神を『アバ、父』と親しく呼んだことに倣う上でも、「父なる神」と呼ぶのは妥当かもしれません。  そんなイエス・キリストが弟子たちに『祈り』というものを教えた時、やはり「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように教えられました。そして「あなたがたはわたしの名によってどんなことを父に求めても良い」ともおっしゃったのです。ですからクリスチャンたちは、遠慮することなく、文字通りどんなことでも祈ります。  さて、ここで1つ気を付けなければならないのは、「どんなことでも求めても良い」ということと、「どんな願いも叶えられる」ということは、全く別のことだということです。『天の父なる神』は「良いお方」なので、私たちにとって最善でないものは通常与えようとはなさいません。これもまた「父なる神」として当然のことではないでしょうか?  私自身にも3人の子どもがいます。そして3人とも心から愛しています。ですから、できる限りの良いものをいつも提供してあげられるように努力してきました。(もちろん諸々の理由で、提供してあげられなかったことも多々ありましたが…) そしてまた3人の子どもたちは皆それぞれ個性がありましたので、必ずしも『同じもの』を『同じ時』に提供する必要はありませんでした。それぞれの個性や成長度合いに応じて「ちょうど良いもの」を「ちょうど良い時」に提供できるよう心掛けたのです。それが『良い父親』としての特権であり、責任でした。  私たちの『天の父なる神』は、私などよりも「遥かに優れて愛に満ちたお方」ですので、私たち1人1人に「最高のもの」を「最高の時」に与えることがおできになります。ですから当然、わきまえのない私たちが「求めるもの」を、いつも「求めた時」に与えるとは限りません。私たちが求めても与えられない時には、「神様はケチで意地悪だ!」と結論付ける前に、まず「自分自身の内側を吟味すること」が大切なのではないでしょうか?

(389) “自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。”

 恐らく多くの方々は『キリスト教』というと「愛の宗教」という印象を持っていることでしょう。有名なクリスチャンとして挙げられる「マザーテレサ」「アッシジのフランシス」「ナイチンゲール」「キング牧師」などなど、そして極めつけはその創始者でもある『イエス・キリスト』、その誰もが「人々への愛に生きるためにその生涯をささげた存在」として知られています。  全ての人は『愛』を求めています。誰もが『愛』を必要としています。ある人は「人は愛することによって安息し、愛されることによって満足する」と言いました。『愛』というものは、ある意味私たちが生きる上で「食べ物」以上に必要とされる、とても基本的な要素です。「私は『愛』なんて無くても生きていける」という人は、単に強がっているか、ものすごく無知なのか、もしくは既に人生を投げてしまっているに違いありません。では、一体どこでどうやって、この『愛』というものを見出せるのでしょうか?  何年か前に「僕らは奇跡でできている」というドラマがありました。主人公は『動物オタク』の青年で、彼を取り巻く人々は初めは彼のあまりの「変人ぶり」に手を焼くのですが、徐々に彼が物事を純粋でありのままに見つめている様子にグイグイ魅き寄せられて行き、逆に自分自身の心が素直でないことに気付かされて行くのです。この主人公がある時こんなことを言います。「ボクは以前『大好きになりたいのに1番嫌いな人』がいた。それがずっと苦しかった。でもある時からその人のことを本当に好きになれて、それから人生がスゴく楽しくなった。その人とは『ボク自身』。」 そしてこの「ありのままの自分のことを大好きになれた主人公」の純粋で自然なふるまいに触れる中で、周囲の人間も少しずつ「ありのままの自分を受け入れること」ができるようになり、生き生きとしてきます。  「人を愛する秘訣」は、努力によって得られるものではありません。実はそれはまず「ありのままの自分を心から受け入れ喜べるようになること」から始まるのです。そしてこのように「自分をありのままに受け入れる」ためには、私たちをこよなく愛し、私たち1人1人をご自身の最高傑作品として形造ってくださった『創造主なる神』との出会いが必要不可欠なのです。キリスト教が『愛の宗教』として知られるゆえんは、まさにここにあるのです。

(388) “神は人をご自身のかたちとして創造された。”

日本の学校では「人類の起源を説明するセオリー」として『進化論』しか教えられていませんよね?下等なものから高等なものへと、何億年もかけてゆっくりと進化して行った。最終的には『サル(類人猿)』から『人』へと進化した、と。もし本当にそれが事実であれば、現代に生きる『人類』は、相当「高等な生き物」ということになりますが、本当にそうでしょうか? 確かに現代の科学や産業の発展だけを見るならば、そのように感じられる部分もあります。しかしそれらの発展の背景にある思想は必ずしも「高等なもの」とも言えません。「より便利に」「より早く」「より利益を生むために」というのがほとんどの動機であって、本来人間が求めるべき「より崇高な存在として」といった『進化』はあまり見られません。『便利』ということばそのものの名前が付いた『コンビニ』では、毎日何十個もの「手付かずのお弁当」が捨てられています。お金欲しさに『援助交際』という名の下で不道徳な行為が行われています。いわゆる「下等動物」と呼ばれる獣たちは、どんなに獰猛な性質でも、お腹いっぱいになれば、不必要な殺傷はしませんが、「人間世界」では、欲得の理由で殺傷事件が後を絶ちません。これが本当に『進化』でしょうか? 聖書は「神が人をご自身のかたちに創造された」と教えています。そして神は『人』を通してご自身の崇高さを表現しようとされたのです。ところが『人』は神の指導の許に生きることを好まず「自分勝手な道に進んで行った」と聖書は記しています。現代の人類の『堕落』は、その成れの果てなのです。 しかし神はそのように世界がただ堕落して行ってしまうのを黙って観ていることを好まず、もう1度『人』を「ご自身のかたち」に回復しようと、「本来の人間のモデル」である、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、彼を通して私たちのために「本来生きるべき人生へと立ち返る道」を備えてくださったのです。このイエス・キリストを通して『神との関係』の中で生き始めることを通して、私たちは本物の『進化(回復)』へと進む人生を開始することができるのです。

(387) “だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。”

 だれかからひどい仕打ちを受けた時、私たちのごく自然な反応は恐らく次の2つでしょう。①仕返しをする。②相手が自分の行った悪に対する報いを受けることを期待する。しかし残念なことに、この2つのどちらも私たちにとっての根本的な癒しにはなりません。『相手を赦すこと』だけが、私たちを相手に対する苦々しい思いから完全に解放することができます。ある人はこんな風に言いました。「『赦し』とは、『囚人を解放する』という決断である。その決断を下した途端、『実はその囚人は自分自身であった』ということに気付くのである。」  人を赦した経験のある方なら誰でも知っていることでしょうが、『赦し』というものは決してたやすくできることではありません。ある意味「常識外れの力」が必要です。一体そんな力をどこから得ることができるでしょうか?それはもちろん「常識外れの赦しを与えてくださった神」からです。この方は『赦しの神』ですから、私たちが「赦すための力」を求める時に、喜んで与えてくださるのです。  実を言うと、この「人を赦す」という作業の半分は既に完了しているのです。何故なら、神は既に「神に対するあなたの全ての不信仰や不従順」を、イエス・キリストの十字架において赦してくださっているからです。私たちに残された作業は、心を開いてその「神からの赦し」を受け取り、その中にある『赦しの心』を素直に赦すべき相手に対して開放すればよいのです。神から離れ「罪の奴隷」となっていた自分が『奴隷解放』された喜びに満たされたなら、その解放感はごく自然に「他の人を束縛から解放する力」としてあなたを通して働くようになるのです。

(386) “あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。”

 快晴の夜空を見上げると、美しい月や星が満天に見えますよね?(お住いの地域にもよるかもしませんが…) でも考えてみてください。あなたが目にしている数えきれないほどの星々も、限りない全宇宙から見れば「大海のひとしずく」にしかすぎません。あの太陽でさえ、銀河系にある何百億もの星のうちの1つにしかすぎず、その銀河系もまた、宇宙には同様の星の集合体がやはり何百億もあるのです。最新式の「宇宙望遠鏡」の観測によると、この大宇宙は少なくとも130億光年以上あるそうで、これをキロメートルに換算すると「130億の10兆倍」キロメートル…、まさに『天文学的数字』ですよね!  聖書は、これらすべてを「光よ、あれ」というたったひと言で創造された、私たちの想像を遥かに超えた、驚くほど偉大な神について書いてある書物です。そして更に驚くべきことは、その「人知をはるかに超越しておられる創造主なる神」が、私たち1人1人を目に留めて、愛しておられる、ということなのです。  上記の聖書のことばを記した、イスラエルの王ダビデはもちろん、現代の天文学の知識など全く知らずにこのことばを記したわけですが、それでも心からあふれ出てくる感動を抑えられなかったのだとすれば、この驚くべき事実をもっとリアルに理解できる時代に生きている我々は、この時のダビデ王以上の感動をもって神を讃え、またそのような神に目を留めていただいている自分自身の驚くべき尊さを心に刻んで生きるべきではないでしょうか!

(385) “神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることはありません。”

 ある方がこんなことを言っているのを聞いたことがあります。「私は自分が知的に納得できること以外は認めたくありません。ですから『神の存在』なんて決して信じることはできません。」 ちょっと聞くと、なるほどもっともだ、と感じられるかもしれませんが、私は全く逆のことを考えます。すなわち「もし神が私の知性で納得できてしまうようなちっぽけな存在であったら、そんな神なんて私は要らない」ということです。私のこの限られた頭で知ることができてしまうような神は、もはや神でも何でもありません。単なる『想像の産物』です。そんな神は当然頼るに値しないし、そのような神がこの全宇宙を支配していると考えるなんて、あまりにも浅はかに思えませんか?  英語には『大文字』と『小文字』があって、普通名詞には『小文字』が用いられ、固有名詞には『大文字』が用いられます。そして聖書の神は『God』と表記され、その他の神々は『god(s)』と表記されます。その2つには決定的な違いがあります。すなわち前者は「人間[を]造った唯一の存在」であり、後者は「人間[が]造ったどこにでもある存在」なのです。この全宇宙と私たち人類をお造りになった『創造主なる神』は、当然私たちの人間的な知恵によって極め尽くすことはできません。しかし私たち人類が造り出した(考え出した)神は、私たちの『想像の産物』ですから、私たちのイマジネーションによってどんなイメージにもなり得る「都合の良い」神なのです。そういう神を求めている人もいるのかもしれませんが、私は遠慮させていただきます。私が求めているのは「正真正銘の『真の神』」だけなのですから。  では、一体どうやって人間は『真の神』を知り得るのでしょうか?その可能性はたった1つ、神ご自身の側で私たちに知らせようとする場合のみです。もし神ご自身がそう望んで行動を起こされるなら、私たちが『真の神』を心から求めようとする時に、彼を見出すチャンスがあるに違いありません。そして神はそれをなさったのです。それが、何千年も前から人類に与えられている『聖書』であり、また「人となられた神、『イエス・キリスト』」なのです。この「神が自己紹介なさっておられる実体」を無視して、自分の小さな頭で一生懸命に知的努力を重ねて考え出した『神概念』、それはその人を満足させることはできても、『本物の神』とは遠く離れた存在でしかないのではないでしょうか?

(384) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたし(イエス)はすでに世に勝ちました。”

 巷では『新型コロナウイルス』の話題で持ち切りですね。このような状況下において私たちは一体どこに希望をおいて進んで行けば良いのでしょうか?今日はそんな私たちの心にとって大きな励ましとなるお話をしましょう。  1962年(少々古いお話ですが…)2人の人物が「何が人を偉大な人生へと導くのか」を探る調査をしました。この調査の呼称は「Cradles of Eminence」と言います。日本語に直訳すれば「卓越さを支えるもの」とでもなるでしょうか?彼らは400人以上の『人生において偉業を成し遂げた人々』に関して、それらの人々がどのような家庭環境の中で育てられたのかを綿密に調査しました。「人生において大きな成功を収めるためには、その幼年時代に何らかの基礎が築かれていたに違いない」と考えたからです。この400人の中には、アインシュタインなどの、現代にも名を馳せており称賛されている人々が含まれています。  この調査の結果、彼らは大変興味深い事実を発見しました。というのは、これらの400人のうちの「4分の3」の人々は、問題を抱えた幼年期を過ごし、貧しい家庭環境の中、両親が揃っていなかったり、親からの虐待を経験していたことが分かったのです。また「4分の1」の人々は、肉体的なハンディキャップを負っていました。またこれらの中の特に、後に有名な作家や劇作家になった人たちは、彼らの両親が幾つもの人生の危機と格闘しているのを日々目の当たりにしながら育っていたことも分かりました。  この調査に当たっていた2人は最終的に次のように結論付けました。「これらの『偉業を成し遂げた人々』の人生は、彼らが幼年期に経験した数々の不利な立場を何とか埋め合わせようと、人並み以上に前に進もうとファイトを燃やした足跡に他ならない」と。  この400人の人々に共通していたもの、それは「苦難の中にあってあきらめることなく、それを乗り越えようとする態度」です。キリストの弟子ヨハネは、迫害下にあった教会に宛てて次のように書き送りました。「私たちの持っている『神に対する確固たる信仰』、これこそこの世の困難に対する勝利の秘訣です」と。この世に起こっていることの中で「神にとって思いもよらないこと」など有りはしません。この『天地創造の神』に信頼して人生を生きて行く時、一見私たちを圧倒してしまいそうな困難にぶち当たったとしても、そのただ中にあって必ず『未来を切り拓く活路』を見出すことができるのです。何故なら神は今日も生きて働いており、ご自身に信頼し従う者たちに『勝利』を体験させようとしておられるからです。

(383) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。”

 「自分で自分のことをどう思っているか」を英語では『セルフイメージ』と呼びます。ある方は「自分で自分のことをどう思おうと、私の勝手でしょ?」とおっしゃるかもしれませんが、実はこの『セルフイメージ』は私たちの生き方に想像以上に大きな影響をもたらすのです。  ある心理学者は次のように言っています。「あなたの人生に起こる出来事は、あなたが自分に関して信じていることの結果として起こるのです。人間は『自分にはそれを受ける価値がある』と信じていること以上のものを自分の人生に招き寄せることができないものなのです。」 この心理学者が言っていることを言い換えるならば、私たちが人々とどのような関係を築いていくかは、「自分のことをどう思っているか」に大きく関係している、というわけです。自分のことを低く見積もっている人たち(多くの人々にはこの傾向があるようです)は、自分よりも他の人々の方が立派であると考えるため、自分のために時間を使うことをためらいます。これが高じると、自分自身というものを見出すために、いつでも「他の人が自分のことをどう思っているか」に頼るようになってしまい『真の自分』を見失うことになってしまうのです。  天地創造の神は、あなたを「神の栄光あるご性質の1面を反映するための特別な存在」として創造なさいました。そんなあなたが「あ~ぁ、自分はあの人のようであったら良かったのに…」などと言う時、それは神の心をひどく痛めることになるのです。私たち1人1人は「他の誰かの真似をするため」に生まれてきたのではなく、むしろ「他の誰と同じでもない『神による傑作品』」として、神の豊かなご性質を地上で表現するために生まれてきたのです。この神のご計画のゆえに、私たちは決して『自分らしく生きること』を恐れたり、恥ずかしく思ったりする必要はありません。何故なら神はあなたを、実に精密で複雑な、驚くほどユニークな特徴をもった存在としてこの世に送り出したのですから。  「神の綿密な計画によって生み出された、ユニークで特別な存在」、この『セルフイメージ』をしっかりと胸に抱いて日々を生きて行きましょう!

(382) “私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

 初めて大西洋横断に成功した『熱気球』、「ダブル・イーグル2号」に関して次のような逸話が残っています。  この大飛行に挑戦したパイロットたちは、初めは順調に航空軌道に乗ったのですが、アイルランド沖で深い雲の中に突っ込んでしまい、気球の周辺が徐々に凍り付き始めてしまったそうです。不必要な重荷を抱えてしまった熱気球はドンドン高度を下げ、当初の2万フィート(約6千メートル)から、みるみるうちに1万フィート(約3千メートル)に落ちました。  飛行士たちはできる限りの努力をして高度を保とうとしました。歴史に残る画像を撮影するためのビデオカメラを捨て、食料も捨て、ついにはヨーロッパに到着した時に着陸のために使うはずであったグラーダーも手放しました。そして高度が4千フィート(約1200メートル)まで落ち込んだ時、彼らは自分たちの「最後の位置確認」の通信をした後、とうとう『命綱』の通信機材まで投げ捨てました。それでも少しずつ高度を失っていく熱気球は、3千フィート(約900メートル)に達した時、ついに深い雲から抜け出すことができ、久しぶりの太陽光線を浴びて、気球周辺の氷が溶け始め、無事フランスに到着することができたそうです。  冒頭の聖書の言葉が語るように、私たちは皆『人生のレース』を走っています。そしてそのレースを最後まで走り切るには、私たちを途中棄権に陥れようとする「不必要な重荷や罪」を捨てる必要があるのです。ある意味『罪』は、捨てるのに多少苦労はするにしても、見分けることはそれほど難しくはありません。しかし『重荷』の方は「いかにも保持しておくのがもっとものような様々な形態」をもっているので、知らず知らずのうちに私たちの進み具合を鈍くしていくのです。それらは例えば『多くの責任』だったり、『周囲からの圧力』、また『義務感』、当たり前になってしまっている『日常の細々したこと』や『人間関係のしがらみ』だったりします。  いかがでしょう、ぜひ1度ゆっくりと立ち止まって、自分が日々抱えながら生きているものを再検討してみては?それら1つ1つを正直な心でじっと見つめ、「神が自分の人生に与えてくださっているもの」「誰かが自分に負わせたもの」、そして「自分勝手な意地や欲のために拾い上げたもの」に振り分けてみませんか?そして自分のレースを正しく走り切るために『本当に必要なもの』以外の『重荷』を払い落として、一緒に完走を目指しましょう!

(381) “真理を買え。それを売ってはならない。”

 これは1970年代に実際にあった話です。  イラクに留学していた数名のアメリカ人留学生があらぬ『スパイ容疑』で捕らえられました。彼らを捕らえた者たちは言いました。「素直に罪を認めるなら、無事本国へ戻らせてやる。しかし認めないなら、痛い目に合わせるしかないな。」 すなわち学生たちは、妥協することによって『嘘と真実の交換』を要求されたのです。もちろん学生たちは皆、初めはこの要求を拒みました。しかし拷問の激しさが増すにつれ、ついに1人また1人と『全く身に覚えのない容疑』を認め始めました。ただ1人の学生を除いて。  この学生は「嘘をつくことの見返りは必ず高くつく。他人をだますことはできても、自分をだますことはできない。」そう心で言い聞かせ続けました。しかし拷問は激しさを増すばかりで、しかも今や肉体的な苦痛だけでなく、共に耐えていた仲間さえも失った寂しさや孤独感はこらえ切れなくなりそうでした。しかし彼は踏みとどまり続けました。業を煮やした拷問者たちは、ついに最後の手段に出ました。「もうお遊びは終わりだ。そんなに死にたいのなら、望み通りにしてやる。」 そう言うと、彼の頭にピストルを突きつけました。「素直に罪を認めるならば赦してやる。さもなければ1分後にお前はあの世行きだ!」  秒読みが始まりました。学生は以前一緒に監房に収容されていた囚人たちが同じように処刑されて行く様子を見たことがありました。目の前に「私はスパイ行為をしたことを認めます」と書いた告白書が突きつけられ、「さあ、たった今サインしろ。そうすれば助けてやる!」という声が聞こえます。しかし彼は拒み続けました。そしてとうとう引き金が引かれ、彼は顔をゆがめました。  次の瞬間、一体何が起こったのでしょう?ピストルの中に銃弾は込められていませんでした。そしてこの学生は釈放されました。後で聞いた話によると、他の「嘘のために真実を売り渡した学生たち」は皆殺しにされ、街の真ん中でさらし者にされたそうです。彼だけが救われたのです。この恐るべき経験を通して彼は、人生におけるとても重要な法則を学んだのでした。それらは…  「正しいことを行うことは、いつでも正しい」 「誤っていると分かっていることを行うことが正しいことは、決してない」

(380) “あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。”

 今や世界は『新型コロナウイルス』の話題で持ち切りです。相手が「目に見えない敵」であり、「最悪の場合は『死』をももたらす」ということが1つの大きな要因ではないでしょうか?確かにこのような現象を『恐れる』ことは理解できます。しかし『恐れ』は何の解決にもなりません。「注意深く予防すること」は助けになるでしょうが、それで『恐れ』を自分の心から完全に締め出すことはできませんよね?ではどうすればこの『恐れ』から逃れることができるのでしょう?  聖書は「この全世界・全宇宙をお造りになった『創造主である神』が、今日もこの世界すべてを支配なさっている」と教えています。そしてもし私たちが心からこの神に信頼して歩むなら、私たちは決して「この世のあらゆる恐れや思い煩い」に打ちのめされることはない、と約束しています。  これは「クリスチャンは決してコロナウイルスに感染しない」という意味ではないかもしれません。しかし少なくとも「いらぬ恐れに煩わされることはない」という意味です。何故なら神は私たちを「コロナウイルスから守ること」もおできになるし、「コロナウイルス感染症状を癒すこと」もおできになり、仮に癒されずに死に至ったとしても「死後のよみがえりのいのち」をも約束しておられるからです。  実は最近中国に住むあるクリスチャンによる驚くべきネット上の投稿を見ました。投稿者は、コロナウイルス発症源である武漢州の近くに住むキリスト教の宣教師で、コロナウイルスの騒ぎが起こった当初から、自分が働いている地域の人々がウイルスから守られるように、教会の仲間たちと共に熱心に祈っていました。ところがまもなくその教会のメンバーが1人また1人とウイルスに感染し始めたそうなのです。彼は「神様何故ですか?何故私たちをウイルスから守ってくださらないのですか?」と神に叫びましたが、神は沈黙されていたそうです。ところが最近、仲間たちが治療を受けていた病院から、「これらの感染者たちが回復しつつあり、その体から『ウイルスに打ち勝つためのワクチン』を採取できる可能性がある」との連絡が入ったというのです。何ということでしょう!神は単に「人々を感染から守る」だけでなく、「敢えて感染させることを通して、解決の道さえも与えること」がおできになるのです!  この世界で「真に恐れるべきお方」は、たった1人だけです。それは全知全能の創造主なる神です。もしこの方を心から恐れ敬って生きるなら、他の何者をも恐れることはないのです。

(379) “主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。”

 我が家では、犬を1匹・猫を1匹飼っています。犬はメスで名前は『マロン』、猫はオスで名前は『ミクタム』。  ミクタムは、朝私が2階から降りてくると、私が歩くのに不自由するくらいに私の足にまとわりついてきます。これは私が好きだからではなく、エサが欲しい(私が家族の中で1番早起きです)からです。エサをあげてしまうと、もう私には見向きもせず、一心不乱にエサを食べ始めます。  一方マロンの方は、私が『朝の散歩』の準備を始めると、私の前に「お座り」し、じっと私の顔を見上げながら、準備が終わるのを待ちます。これはもちろん「お散歩に連れて行ってもらえる」という期待感もあるでしょうが、と同時に「またお父さんと一緒にお散歩に行ける!」と言っている様にも感じ取れます。何故なら散歩中にも時々彼女は嬉しそうに私の顔を見上げるからです。というわけで、私はどちらかというと(というよりも、かなり)ミクタムよりもマロンの方が気に入っています。  聖書の神は、私たち人間に「わたしの顔を慕い求めなさい」と語りかけています。飼い犬が飼い主の顔を見上げているのを眺めるだけでも嬉しいのですから、なおのこと「心を込めて形造った私たち1人1人」が、神ご自身の御顔を慕わしく見上げるとき、神は殊の外喜ばれるのではないでしょうか?  神は私たちの態度いかんに拘らず私たちを愛しておられますが、私たちがそんな心に愛情をもって答えることほど、神を喜ばせることは他にないのかもしれません。『苦しいときの神頼み』的に、「何かをしてもらうこと」のためだけに神を求めるのではなく、『共にいること』を喜ぶために神を求める者になりたいですね。

(378) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。”

 あなたが持っている物のうち、もっとも尊いものは何ですか?宝石?親の形見?家族?もしかしたら「スマホ」?  神が私たち1人1人に与えて(委ねて)くださっているもののうち、最も貴重なものは恐らく『時間』ではないでしょうか?「お金や物」は人によって委ねられている量が違いますし、失っても大抵取り返しがつきます。しかし『時間』だけは、すべての人に平等に1日24時間ずつ与えられており、また失ってしまった時間は取り戻すことができません。「過去をやり直すこと」はできないし、「将来を完全に予測すること」もできません。『今』を精一杯生きることしかできないのです。  私たちは現代、大変便利な時代に生きていますが、同時に「とんでもなく複雑な時代に生きている」ということもできます。そのためいつもいろいろな事に気を回していなければならないし、様々な人々に気を遣いながら生きています。しかしこれが本当に「神が人間に望んでいる生き方」なのでしょうか?果たして人間というものはそれほどに器用にできているのでしょうか?  私の妻は時々私に「アナタ、思い出して。アナタは私の事だけを最高に幸せにできれば、それで良いのよ。」と言ってくれます。このことは私に『プレッシャー』ではなく、大きな『安心』を与えます。何故なら、「自分は『あの人』も『この人』も幸せにする必要はないのだ」ということを思い起こさせてくれるからです。本当に私たち『夫』にとって、持つべきものは『賢い妻』ですね~。  前述のように、私たちは『過去』にも『未来』にも生きることはできません。ただ『現在』に生きるように造られています。そして「あの人」にも「この人」にも気を配るようにはできていません。ただ1人のお方、『神』を見つめて生きるように造られているのです。その神が今日も私たち1人1人に「恐れるな」と語りかけてくださるのです。  ある聖書の専門家の調べによると、この『恐れるな』という言葉は聖書の中で最も多く出てくる言葉で、365箇所に出てくるそうです。あたかも神が毎日私たちに「恐れるな」と語りかけてくださっているようです。と同時に、恐らく神は私たち人間が「恐れやすい存在」であることもご存知なのでしょう。だからこそ、単に「恐れるな」とおっしゃるだけでなく、「わたしがあなたとともにいる」と約束してくださっているのです。この方を求め、この方に信頼しながら、『今』を精一杯生きること、それが私たちに課せられた唯一の務めであることを発見できた時、私たちの人生はそれまでよりもずっと豊かで平安に満ち、そして多くの実を結ぶものにされていくような気がしませんか?

(377) “神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。”

 多くの日本人は「神という存在を信じていない」もしくは「自分勝手なイメージに基づいた神を信じている」ようです。そしてこの『自分勝手な神のイメージ』というものは大抵、「どんな失敗や悪い行いも赦し受け入れてくれる優しいおじいちゃんのイメージ」か、または「いつも怒っていて、ちょっとした過ちにもバチを当てる閻魔大王のようなイメージ」のどちらかなのではないでしょうか?そしてまた多くの場合、これらの『自分勝手なイメージ』は、自分が何か失敗してしまった時は「優しいおじいちゃんであって欲しい」と願うし、誰かが自分に都合の悪いことをしてきた時は、その相手に対し「閻魔大王のようであって欲しい」と思おうとする傾向があるのでしょう。  聖書は私たちにこのような「あやふやな神のイメージ」を教えてはいません。むしろ「非常に具体的で絶対的な神」を提示しています。そしてその『聖書の神』が嫌うのは、私たちの「失敗や弱さ」ではなく「高ぶる心(高慢)」だと語っています。では何故神は『高慢』を嫌うのでしょう?  神が望んでおられることは、私たちが「神の偉大さを知り、神を敬い、神が与えようとしておられる恵みを信仰によって受け取り、実り多き人生を送ること」です。ところが私たちの内にある『高慢な心』はこれらのものをはねつけ、神の「大いなる愛」や「偉大な力」が私たちの人生を通してこの世に現されることを妨げるのです。私たちの『高慢』は心の中で次のように言います。「私には神なんて要らない。私は自分の人生を『自分の力』で切り拓いて行ける。『神の存在』なんてかえって迷惑でしかない!」  聖書において『神』は「我らの父」とも描写されています。仮に誰かがその親に向かって「アンタなんか要らないよ。今の自分があるのはアンタなんかのお陰でも何でもなく、すべて自分の力だ。アンタの存在なんてウザったくて、いい迷惑だよ!」と言ったらどうでしょう?その親は怒るというより、深く悲しむに違いありません。神も同じです。聖書の神(実際には『唯一の神』)」はあなたにご自分の恵みと祝福を注ぎたくて仕方ないのに、「高ぶる者」は自分でそれを受け取るチャンスを失ってしまっているのです。  あなたの「神のイメージ」は、勝手に造り上げられたものではありませんか?あなたの心は『天地の創造主である神』に対して高ぶってはいませんか?あなたをこよなく愛し、あなたの人生を祝福で満たそうとしておられる方の前に、心を低くして近づいてみませんか?

(376) “これらすべての上に、愛を着けなさい。”

 時々車の後方に「赤ちゃんが乗っています」というステッカーが貼ってあるのを見かけますよね?聞いたところによるとアメリカでは「ウチの子は成績優秀な学生なのよ」という意味のステッカーを貼っている車もあるそうです。そしてそれよりもスゴイのは、ある車には「ウチの子はあんたの子なんかよりよっぽど出来が良いのよ!」というステッカーが貼ってあったそうです!  このような「子供の出来の良さ自慢」の風潮がエスカレートすると、2通りの問題が起こる可能性があります。1つ目は「何らかのハンデキャップを持って生まれた子を必死で育てている親の悲しみ・妬みを増長させる」ということ。もう1つは「そもそも子供たちはそのような親の過剰な期待やプレッシャーを背負えるほど大人ではない」ということです。子供たちが健康な大人に成長するためには「自分は『出来の良し悪し』に関わらず、無条件で親から愛され受け入れられている」と、ハッキリ確信している必要があるのです。  南カリフォルニアにあるラグビー有名校で長年コーチを務めた『ジョン・マッケイ』は、その息子をも優れた「ラガーマン」として育て、チームの1員として活躍させました。あるシーズンの終わりに、そのシーズン特に大活躍した息子についてコメントを尋ねられたジョンは、次のように答えたそうです。「ええ、確かにわが息子は今シーズン期待以上の活躍をしてくれました。そのことを本当に誇りに思います。ただ皆さんに知っていていただきたいのは、仮に息子が今シーズン不調で全然活躍できなかったとしても、私は同様に私の息子を心から誇りに思っている、ということです。」  アナタのお子さんは「自分の能力や学校の成績」に関係なく愛されているということを理解しているでしょうか?もし自信をもって「はい」と答えられないなら、まずアナタご自身が「全く無条件で『父なる神』から愛されている」ということをぜひ知っていただきたいと思います。

(375) “それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 1週間のお休みをいただいて、妻と2人で北島(ニュージーランドは、私たちの住んでいるクライストチャーチがある『南島』と、首都ウェリントンやニュージーランド最大の都市オークランドなどがある『北島』に分かれています。)を旅行してきました。「休暇の旅行」と言っても、「以前クライストチャーチに住んでいた日本人の友人たちを訪問して励ます」という目的を兼ね備えていたので、出発前は「一体どこまで『休暇』として楽しめるだろう…」と思いつつ出発しました。  旅行初日のハミルトンでは、ニュージーランド生活20年以上のキャリアのある、私たちと同年代の日本人のご夫妻のお宅に泊めていただき、お互い今年は孫が生まれる年ということで話も弾んで、たった1泊ではありましたが、大変楽しいひと時を過ごしました。  翌日タウランガへ移動し、こちらは「自身が初めての出産を控えている」という若い日本人カップルのお宅に2泊させていただきました。ご主人は地元の日本の企業に勤務しているため「のんびりペースのニュージーランド」の中にあって、朝6時半に家を出発し、午後9時過ぎに帰宅するという忙しい日々を送っており、奥様がチョッピリかわいそうに感じました。それでもご夫婦揃ってテニス好きで、ちょうど『全豪オープンテニス』が開催されていたので、最近復活してきたフェデラーの活躍ぶりなどの話に花が咲き、また中日には身重の奥様と共に『マンガヌイ山(丘?)』を汗を流しながら登ったりして、とても充実した2日間を過ごさせていただきました。  翌朝タウランガを出発して、途中ロトルアの温泉を見学したり、秘境(?)の温水が流れる川に浸かったりしながら、3番目の目的地である小さな町ファカタネに向かいました。この日からの2日間は「NZ人に嫁いだ日本人女性」のお宅(幼い息子さんが2人)に泊めていただいたのですが、家に辿り着いてみてビックリ!お家は素敵なログハウスなのですが、何しろ郵便受けから車で5分以上離れた「隠れ里」に建っているのです。かろうじて電気は通っていますが、携帯電話は通じないし、煮炊きも薪でするのです!まさに「こんな所に日本人妻が!」みたいな日本のテレビ番組に取り沙汰されそうな環境に、私たちは嬉しいやらあきれるやらで、本当に驚かされました。当然のごとく子供たちは非常にワイルドに成長しており、当の『日本人妻』ご自身も大変ノビノビと明るく暮らしておられるのを見て、大変感銘を受けました。お食事も「自給自足の食材」をふんだんに使用したメニューでおもてなしを受け、私たち夫婦の感想は「ぜひまたここに来たい!」というものでした。  そして最後にそこから車で2時間半離れたギズボーンという町で行われた「日本人女性とNZ人男性の結婚式」に出席(素敵なガーデンで行われた、とてもNZ的な式とパーティでした)し、翌日は大好きな『釣り』をして夕食には釣り上げた獲物を調理して食べ、私たちの1週間の『ホリデー』は幕を閉じました。  この1週間を終えた今、私たち夫婦の心にひしひしと迫ってくるのは「人々の温かさに触れた、とても良い休暇だった」という思いです。出発前は「誰かを訪問することなんかより、誰も知らない土地へ行って2人きりでノンビリ過ごしたい」などとも思ったのですが、結果としてホストしてくださったお1人お1人がそれぞれの場所でそれぞれの生きがいを見つけて生き生きと生活しておられるのを共有することができ、「普通に観光地へ行ってお金をかけてその場所のアトラクションを楽しむ」というようなホリデーよりも数倍有意義な日々を過ごすことができました。神様は人を「1人で生きるように」造られたのではなく、1人1人をユニークに形造られ、そんな私たちが「共に生きるように」そして「互いの益となるように」望んでおられることを身をもって体験できた1週間でした。素晴らしいことに、私たちをもてなしてくださった方々も、口々に「わざわざこんな遠くまで私たちに会いに来てくれて本当に有り難い」と言ってくださいました。私たちが「自分のことばかりでなく、他の人のことを顧み」ながら歩む時、1人では決して味わうことのできない満足を神様は与えてくれるということを改めて学ばされました。

(374) “自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 もしあなたが他の誰かに何かを与えようとする時の動機がいつも「いつか自分にも同様にしてもらうため」だとしたら、きっとガッカリさせられることでしょう。しかしあなたが純粋に相手の成長や向上を願って、そのために『自分自身』を与えるなら、それこそ真に「与えること」であり、神はあなたの態度を喜び、祝福せずにはいられないことでしょう。  すでに結婚をされている方や子育ての経験のある方はよく分かっていることでしょうが、あなたのご主人や奥様が結婚生活において最も価値を置いているものは「貯金の総額」でしょうか?それとも「夫や妻のために割いてくれる時間」でしょうか?またあなたの子供たちが真に望んでいるものは「おもちゃやお菓子」でしょうか?それとも「親から自分に向けられる関心や興味」でしょうか?もちろんどちらも後者のはずです。あなたが愛している人々があなたに望んでいるものは、「あなたからもらう何か」ではなく『あなた自身』なのです。もちろん自分自身の向上のために時間やお金を費やすことは必要ですが、そのために「自分にとって大切な存在(家族など)」を犠牲にしてしまうことは誤りです。そのような犠牲は、いつか必ずあなたの人生に大きな後悔を生むことになります。  聖書の中に出てくるソロモン王は、恐らく歴史上最も経済的に富んでいた人物の1人でしょうが、彼はその著書(旧約聖書中の『伝道者の書』)の中で次のように述べています。「私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」 彼は当時の王としての風習に従って多くの妻や側女を持ち、多くの子がいましたが、彼の子の代から王国は衰退の一途を辿ったのです。  ですからぜひ、『物や出来事』に時間や労をつぎ込むのでなく、『人々との関係』に費やすように心がけましょう。それらの労苦はすぐには目に見えて結果を出さないかもしれませんが、やがてあなたの人生に大きな満足感をもたらす結果になるに違いありません。

(373) “人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。”

 私たちは『奴隷』という言葉を聞くと、何か中世のいわゆる『奴隷制度』のような光景を思い浮かべますが、実は今の私たちの日常生活の中でも「何かの『奴隷』とされてしまうこと」があり得るのです。例えばあなたの上司、同級生、近所の人などに「良い人だと思われたい・嫌われたくない」などの理由で、ご機嫌を取ろうとしたり、自分の信念を曲げてまで相手の言うことを肯定しようとするなら、それは「自分を相手の『奴隷』の立場に置こうとする行為」です。  冒頭に挙げた聖書のことばは、何も「戦争で負けたために、相手の国の『奴隷』として服従させられてしまったこと」を描写しているわけではなく、誤った思想や人々からのプレッシャーに振り回されて「本来の自分を見失ってしまっている状態」を表現している箇所です。私たちは本来「天地万物の創造主である神によって『傑作品』として造られた尊い、愛されている存在」であって、この『神』以外の何者をも恐れるべきではない者なのに、その事をすっかり忘れてしまって「何とか自分の知恵と力でうまく世渡りしよう」とするがあまり、ついつい『その場しのぎ』のつもりで口からでまかせを言ったり、『変な奴』と思われるのが嫌で心にもない態度を取って他人と調子を合わせようとしてしまうのです。このような態度は、自分では上手に立ち回っている気持ちになれるかもしれませんが、実のところ「周囲の奴隷となっている」だけで、自分自身の心の深みに『自己矛盾』のジレンマが溜まって行くだけでなく、いつか必ず「抜け道のない行き止まり」に行き着く結果となるのです。  ある人々は「神を信じて生きるなんて、窮屈で、かえって『奴隷』みたいだ」と言うかもしれません。その人は恐らく「創造主なる神を信じて生きる」ということと、いわゆる「『宗教』を信じて生きる」こととを混同させているのではないでしょうか?聖書の神、すなわち『唯一まことの絶対者』であるお方は、私たちを「コントロールしようとする存在」ではなく、かえって人間に『自由意志』を与え、「自分の意志で神を恐れ信頼して、生き生きと生きる」ために、私たちを『奴隷』の状態から解放してくださる方なのです。

(372) “主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。”

 2020年明けましておめでとうございます!この新しい1年が皆さんお1人お1人にとって大きな成長を遂げる年となりますように。  上記の聖書のことばは、クリスチャンであるなしにかかわらず多くの方々に親しまれているものですが、ところで何故聖書の中で私たち人間のことを『羊』にたとえることが多いのでしょう?単に聖書の背景となっている古代イスラエルの時代に羊が多く飼われていたからでしょうか?いいえ、決してそれだけではありません。  実は『羊』は獣の中でも最も「周囲の助けを必要とする生き物」の1つなのです。鋭い牙もありませんし、堅い甲羅で覆われているわけでもありません。速くも走れませんし、視力も悪いのです。ですからいつでも「羊飼いの声」を頼りに、導かれるままに移動するのです。羊の長所と言えるものがあるとすれば、唯一「羊飼いの声を聞き分けて、それに従順に従う能力」くらいです。そしてこれこそが、聖書が「神に対する姿勢」として私たちに求めているものなのです。  私たちはよく先のことを心配します。2020年はまだ始まったばかりですが、もしかすると「希望を持って意気揚々としている人」よりも、「先行きに不安を感じている人」の方が多いかもしれません。それもそのはず、私たちは『羊』のように弱い存在で、「しっかり支えて導いてくれる存在」を必要としているのです。そしてそれが私たちの救い主であるイエス・キリストなのです。  毎年新年になると何百万人という人々が『初詣』に出かけますよね。人々が嘆願する内容は『無病息災』『家内安全』など様々でしょうが、見方を変えればそれらは「人生の不安の裏返し」ということができるのではないでしょうか?「病気になったらどうしよう。仕事を失ったらどうしよう。家族が死んでしまったらどうしよう。いや、自分自身が死んでしまったら…」と心配事は尽きません。しかし実際に私たちが必要としているのは「願い事が叶うこと」ではなく、「私たちを愛の御手によって守り導いてくださる『羊飼い』」なのです。  この新年の初めに、この「人生の羊飼いであるイエス・キリスト」に心を向けて、1年をスタートしてみてはいかがでしょうか?

(371) “苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。”

 最近あるクリスチャン評論家の方が書いた本を読んでいたら、こんなことが書いてありました。「豊かな国に住むクリスチャンたちは、苦難に直面すると『神様、この苦難を私から取り除けてください』と祈るが、貧しい国や迫害の中にあるクリスチャンたちは、苦難に直面したとき『神様、この苦難を乗り越える力をお与えください』と祈る傾向があるようだ」と。   私たちは人生で辛い目に遭うと、「聖書には『神は愛である』と書いてあるのに、どうして神は私がこんなに辛い目に遭うことを許されるのだろう?」と、神の愛を疑ったり、神を信じない理由にしたりします。しかし考えてみると、多くの試練を乗り越えてきた家族やグループが更に強く深い絆で結ばれて行くように、数々の苦難を(神に拠り頼みつつ)乗り越えて行けば行くほど、『神との絆』も強く太くなっていくのではないでしょうか?   私は現在56歳です。クリスチャンになったのは20歳の時ですから、36年経ちました。そして振り返ってみると、若い頃に比べて今はずい分「忍耐深くなったなぁ」と感じます。面白いと思いませんか?年を取ってくるということは「老い先短くなる」ということで、事を急ぎたくなってもおかしくないはずなのに、通常はだんだんと忍耐強く(気が長く?)なっていくようです。その理由は恐らく、不測の事態に出会った時に「ああ、こういう出来事は以前にもあった。神様は必ず何とかしてくださる。心配しなくても大丈夫だ」と思えるようになってきているということなのでしょう。実際、慌ててジタバタしたところで事態が好転するわけではありません。むしろそういう時はノンビリ構えて力を蓄え、本当に何とかしなければならない時のために備えておけば良いのです。   2019年も終わりに近づきました。振り返ると、きっと「あの時は大変だった」と思い返すことがいくつかあることでしょう。その時の経験を糧とし、来たる2020年は、不測の事態に直面した時に慌てることなく、「大丈夫。あの危機を乗り越えさせてくださった神様は、きっとこのピンチも乗り越えさせてくださる」と信じて、『忍耐』を働かせていきましょう。   それでは、良いお年をお迎えください。 

(370) “どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”

 せっかくのクリスマスシーズンですから、今日はクリスマスにちなんだ話をしましょう。  お正月に日本の多くの家庭で『門松』が飾られるように、世界中の多くの国々ではクリスマスシーズンには『クリスマスリース』が飾られます。ではこの「クリスマスリース」には、一体どんな意味があるのでしょう?  クリスマスリースは通常「常緑植物の葉」で形作られた円形の飾りです。『常緑植物』や『円形』は「永遠、終わりがない」などの意味合いがあり、しばしばすぐれた人物の栄光をたたえるために用いられました。古代ギリシャにおける勇者たちは「栄冠」としてよくオリーブの葉で作られた冠を与えられていたようです。オリンピックの聖火ランナーなどがかぶっているのは、この名残りであると思われます。  これが後にローマ帝国時代になってからは、『冬至』(北半球において昼の時間が最も短くなるこの日は「太陽が生まれ変わる日」とされていた)の祭りで、人々が『長寿祈願』のために同様の冠を作ってかぶっていたようです。そしてこの習慣を当時の迫害下のクリスチャンたちが取り入れて「唯一永遠に存在しておられる、すべての創造者である神の御子が地上にお生まれになったこと」を記念することにしたのです。彼らは冬至の日が来るたびに、常緑植物の葉を円形に編んでよく見えるところに飾り、その青々とした円が象徴する『永遠性』を「キリストを通して私たちに与えられた『終わりの無い神との永遠のつながり』のシンボル」として受け止め、このリースを見るたびに「唯一まことの神が自分を、永遠に変わらない愛をもって愛してくださっていること」を思い起こしつつ、迫害を耐え忍んだのす。  神はこの同じ愛で、今日もあなたを愛しておられます。このクリスマスシーズン、単に「プレゼントとケーキ」で終わらせないで、冬の寒さの中でも青々と茂っている木々を見ながら「永遠に変わることのない神の愛」に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

(369) “神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。”

 書店に行って、最近流行りの『自己啓発に関する本』の書棚へ行くと、「あなたは『なりたいアナタ』になれる!」といったタイトルの本を良く見かけます。確かに「なりたい自分になれる」という言葉には真実も含まれてはいますが、「全てが真実」というわけでもありません。例えば1匹の犬が「飛べるようになりたい」と願ったところで飛べるわけではないし、魚が「1度でいいから吠えてみたい」と頑張ったからといって吠えるようになるわけでもありません。つまり肝心なのは「神がどのように造ってくださったのか」ということです。神はすべての被造物にそれぞれの特徴を添えてお造りになり、その持ち味を存分に発揮して活動するように導かれます。同様に神は私たち人間1人1人にユニークな才能や感受性をお与えになり、それらを最高に活かして生きるように導かれるのです。  上記の聖書のことばの中の「良い行い」という語の意味は、単に『善行』ということではなく、周囲の人々や社会のために役に立つ、「神がその人を地上で最も活躍させたい分野で実を結んで生きる人生」のことです。ワシが風に乗って大空を悠々と飛び回り、チーターが風を切りながら颯爽と走り回るように、神は「あなただからこそ活躍できる分野」を思い描きながら、その役割に最適な存在としてあなたをこの世に生み出されました。だからこそ、全ての人間は「神と出会い、その愛と知恵とを伝授されながら」生きるようになることが重要なのです。  自己啓発本で学ぶことも悪いことではありませんが、それ以上に『聖書』を通してあなたの創造者である神と出会い、この方から、人生で最高・最善のコーチングを受けながら「自己最高の人生」へと向かって行きませんか?

(368) “あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。”

 人生には「やることはこんなにあるのに、十分な時間が無い!」と感じさせられることが、確かにありますよね?でももしあなたが絶えずそのようなプレッシャーの中に生きているとしたら、それはやがてあなたの「仕事」や「人間関係(家族関係)」、更には『日々の生活』や『人格』にまで深刻なダメージを与えるようになります。気を付けてください!  もし皆さんの中で、「それはまさに自分のことだ!」と思い当たる方がいるなら、ぜひ下記の2つのことを心掛けましょう。 1.祈りの中で、神に「自分が負うべきではないのに負ってしまっている重荷が何なのか」を尋ね、示していただく。  ・神は私たち人間を「活動し続けるように」は、お造りになりませんでした。かえって「週6日だけは働き、1日は十分に休息し、また神を礼拝するために集まるように」とお命じになりました。もしそれ以上の時間を費やしてもやり切れないほどのタスクがあるとしたら、それはアナタが負うべきではない余計なことまで抱えてしまっているのです。「本当に自分が請け負うべきものはどれなのか?」を見分ける知恵を、神に求めましょう。 2.他の人に任せる。  ・聖書に登場する中でも最も偉大なリーダーの1人であった『モーセ』という人物でさえ、忙しさの故にバーンアウトしそうになったことがありました。しかしその時彼は神から知恵を与えられ、側近の者たちの何人かに自分の仕事を分配したのです。すると自分の負担が軽くなったばかりか、今まで自分が気が付かなかった「他の人たちの中にあるポテンシャル」を見い出すことができたのです。自分で全てを請け負ってしまうことは、自分を潰してしまうばかりでなく、他の人々の成長の芽を摘み取ってしまうことにもなるのです。

(367) “私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。”

 ある人がとても広い農場を持っていました。彼の家族はそれを先祖代々受け継いできたのですが、彼の死後とうとうその農場は他の人に買い取られました。ある日その農場の新しい持ち主が、新しく手に入れた自分の農場をのんびりと散策していると、1本の細長い石の塊が地面から突き出ているのを見つけました。興味深く思った彼は、それを引き抜いて家に持ち帰り、良く洗ってから試しに宝石店に持って行って調べてもらいました。すると何とその石の塊は何億円もの価値を持つ『エメラルドの原石』であることが分かったのです!この原石は恐らく何百年、いや何千年も前からその場所にあり、何百人もの人々が何百回もその側を通ったはずですが、誰もそんなに価値があるものがそこに眠っているとは気付かずに「ただのありふれた石」と思って見過ごしていたのでした。  私たちが何かを『発見』する時、実はその「何か」はずっと以前からそこにあったものなのです。私たちは「自分の人生にもっとエキサイティングなことはないのか?」「自分は何のために生まれて来たのか?」「もっと自分の個性を活かした生き方はないのだろうか?」と、いろいろな本を読んだり、セミナーに参加してみたりしますが、実はそれらの『宝』を見い出すカギは、初めから「自分自身の中」にあるのです。  私たちがこの『自分の内にある宝物』を見つける1つのヒントとなるのは「その特徴を知っておく」ということです。この農場の新しい持ち主がこのエメラルドの原石の側を単に歩き去らなかったのは、この原石を見かけた時に「これは普通の石と違うんじゃないかな?」と感じたからです。同様に私たちが「人生の教本」である『聖書』に日々親しみ、私たちの「人生の完全な模範」であるイエス・キリストとの関係の中に生きる時、神があなたを母親の胎内で形造った時からあなたの中に組み込んでおられた『人生の宝』を見つける感覚を磨くことができるのです。

(366) “主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことはわずかです。あるいは1つだけです。」”

 皆さんが日常的に使っている『便利品』は何ですか?と尋ねられたら、きっと多くの方々は「スマホ!」と答えるのではないでしょうか?『スマホ』って便利ですよね~。電話はかけられる。ラインなどでビデオ通話もできる。Eメールやフェイスブックもチェックできる。カーナビ機能もある。他にもカレンダー、ビジネスダイアリー、懐中電灯、紛失したときの探索機能・・・数え上げたらキリがありません。  実は最近知り合いがこのスマホを外国滞在中に失くしてしまって、探索のための設定をしていなかったために見つけることができず、ものすごく困ってしまったことがありました。あまりにもスマホが便利だったために、それを失くしてしまった時の影響も膨大なものになってしまったわけです。皆さん、スマホに頼りすぎるのは危険ですよ~。  そもそも人はどうして「便利さ」を求めるのでしょうか?初めは恐らく「便利になることによって物事が能率よく進み、時間に余裕ができて、よりゆったりとした生活をするため」だったのだと思うのですが、実際は「便利になることによって物事が能率よく進み、よりたくさんのことをしたくなって、自分の許容量以上の物事をこなそうとして、かえって忙しくなりすぎて自分自身を見失う」ようになってきてしまっているのではないでしょうか?よく言われることですが「忙しい」の『忙』の漢字は「心を亡ぼす」を意味しています。私たち人間は、忙しくなると「心が滅びて」いくのです。  私たち家族は、1999年から2003年まで「バヌアツ共和国・ウリピブ島」という、電気もガスも水道もない未開の孤島で暮らしていました。生活に慣れるまでは本当に苦労しましたが、この『シンプル・ライフ』に慣れると、毎日の暮らしが本当に生き生きと楽しくなったことを覚えています。何よりも素晴らしかったことは、「不便な分、他の人たちと協力して暮らさなければならず、島の人々とドンドン親しくなって行って、1年経った頃からは『本当の家族』のようになっていった」ということです。『不便さ』は、「人と人とを近付けてくれる」ようです。ということは、『便利さ』は「人と人とを疎遠にする」のかもしれません。  主イエスは「必要なことは、ほんのわずか」とおっしゃいました。そしてそのほんのわずかな『本当に必要なこと』を見つけるためには、まずペースダウンして「周りの人との関係」というものを重視した生活を始めるべきなのかもしれませんね。

(365) “あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、・・・保たれていますように。”

 もうずい分昔のCMですが、『シャット』というトイレの消臭剤のコマーシャルのキャッチフレーズで「クサイにおいは、元から断たなきゃダメ!」というものがありました。そりゃあそうですよね。いくら表面だけを取り繕っても、原因そのものが解決されなければ、いずれまた同じ問題が浮上してくるのは目に見えています。  世の中には『宗教』と呼ばれるものが数多くありますが、それらのほとんどは「修業や教育」によって人間の悪習慣や精神的弱さを『矯正』させようとするものです。まあ多少の効果は期待できますが、前述のCMのように、いくら外側に現れている症状だけを緩和しても「元を断たなければ」本当の解決とはなりません。  聖書は、人間の存在は「3つの部分」すなわち『体』『たましい(心)』そして『霊』によって構成されている、と教えています。そして1番内側にあるこの『霊』の部分(ココが私たちの創造者である『神』を認識する部分なのですが…)が、私たちの『罪』の故に生まれつき死んでしまっていて、私たちは神を認知することができないのです。その『霊』を再び生かすために地上に来られたのが『イエス・キリスト』です。私たちがこの方を個人的な「救い主」として信じるなら、私たちの『霊』は息を吹き返し、「創造主である神との豊かな関係」の中で生きる者とされるのです。  ところで、『信じる』とは一体どういった感覚なのでしょうか?一生懸命に「信じるぞ~、よぉしオレは信じる!信じま~す!!」と自分自身に言い聞かせることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。聖書は「幼子のようにならなければ神を信じることはできない」と書いてあります。つまり、幼子が全く疑うことなく自分の親の言うことを真に受けて喜んで従うように、素直な心で単純に「神様は良い方で、私を心から愛し慈しみ、私を救い、最善の道へと導いてくださる」と信じて、心を開き、神からの働きかけを受け取ることです。そうすると神はあなたの心の内にある『霊』の部分に触れて生き返らせ、あなたが自分の力ではどうしようもできなかった怒り・寂しさ・心の痛みなどを優しく癒し、内側から造り変えてくださるのです。「イエス・キリストを信じて生きること」は『宗教』ではなく、このような『神との関係』に生きることなのです。

(364) “怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。”

 2017年に行われたある調査によると、殺人の動機の半数以上が『怒り』によるものだそうです。まあ確かにそうかもしれませんが、もっと危険なのは『怒り』は他の人を殺す原因になるだけでなく、怒っている人自身の命をも蝕んでいるということです。統計によると「敵意や怒り」というものは、心臓疾患の原因の中では最たるもので、継続的に怒りを抱き続けている人は通常の人の5倍の確率で心臓の動脈に支障をきたし、怒りによる心臓発作で死ぬ可能性が非常に高くなるそうです。  では、単に「怒らなければ良い」ということなのでしょうか?決してそういうわけではありません。『怒り』というものは、神から与えられた感情であり、実際に神様ご自身もお怒りになることがあります。(この世に蔓延する『悪』に対してとか…)問題は、その『怒り』を適切に制御できないことにあります。『怒り』はある意味「川の流れ」のようなものです。正しく操作されれば、町中に必要な「電力」を供給することができます。しかし、制御されていない『怒り』は「川の氾濫」のように町を破壊してしまいます。  「でも『怒り』というものはそんなに簡単に制御できるものではないのでは?」と思いますか?ならばちょっと想像してみてください。あなたが「夫婦喧嘩」または「親子喧嘩」真っ最中だとします。そんな時突然電話がなりました。あなたは『一時休戦』して受話器を取り、いかにも何事も無かったかのように平静を装って、「はいは~い、何かご用ですかぁ?」と応対することでしょう。そうです。『怒り』というものは、本人さえその気があるならば制御可能なのです。  「自分の置かれている状況」というものを落ち着いて観察することを心がけるなら、不必要な『怒り』に振り回されずに事を解決することができます。もし「自分は短気で、すぐ怒る傾向がある」と思う人には、良いアドバイスがあります。今度「ムカっ」とした時は、言葉を発する前に10秒数えてみてください。そしてもし「メチャクチャ頭に来た時」には、まず100を数えて、そのままその場を立ち去りましょう!

(363) “人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。”

 他の人のためになることをすることは、多くの場合「後味の良いもの」です。ただそれが「相手から賛辞や見返りを受けるためにする」ようになると、喜びが半減したり、かえって「嫌な後味」を残すものになったりすることがあります。もちろん何か他の人のためにしたならば、相手から感謝されることを期待してしかるべきですが、必ずしも私たちの期待通りの反応が返ってくるとは限りませんよね?そんな時私たちはつい『自己憐憫』に陥ったり、周囲の人を責めてしまったりします。せっかく『喜び』を得られるはずだった「良いもの」が、『悲しみ・後悔』を生み出す「無価値なもの」に思えて、「もう誰かのために何かをするなんて意味が無いからや~めた!」というような結果になってしまったら、あまりにも悲しすぎます。  そこで朗報があります!何と、私たちが心を込めて行った『良いわざ』を「もれなく正当に評価してくださる方」がおられるのです!それは、私たちを創造し、この世に送り出し、そしてこよなく愛してくださっている『天の父なる神』です。彼は私たちの髪の毛1本1本をも知っておられる方で(あなたは昨日あなたの髪の毛が何本抜けたか知ってましたか?)、当然のことながら、私たちが他の人のために良かれと思って行ったことを1つ残らず記録してくださっているのです。そしてそんな私たちの「小さな犠牲」を、『尊い』と評価し、私たちの心の深い部分で『喜び』を共有してくださるのです。  ただ、この『喜びの共有』のためには、1つのコツが有ります。それは、それらの『愛の行い』を、相手に気付かれないように「そっと行う」ことです。上記の聖書のことばの続きには「あなたの隠れた行いを、隠れた所で神が見ておられる」と書いてあるのです。神様は「この世であなたの善行が認められたなら、それはそれで良かったね。でももし誰にも気付いて(評価して)もらえなかったとしても、落ち込む必要はないよ。わたしはちゃぁんと知ってるからね。」と語りかけてくださっているのです。  さあ、もう「誰かに認めてもらえるかどうか」などということは心配せずに、ドンドン周囲の人に愛と親切を振りまいて行きましょう!

(362) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

 私の住んでいるニュージーランドは日本とは季節が逆なので、今は初夏を迎えています。そしてここクライストチャーチは南島にあるため年間平均気温がかなり低く(日本の札幌くらい?)、ようやく日中の最高気温が15度を超えるくらいになってきました。私はこの季節が好きです。何故なら、ほんのちょっぴりですが我が家には裏庭があり、ささやかな『家庭菜園』を営んでいて、いよいよこの夏・秋に向かっての種や苗を植えることができるからです。  さて、大抵の野菜は種を蒔いてから発芽するまでに10日くらいかかります。この10日間はとても長く感じられます。毎日水をやりながら「早く芽が出てこないかなぁ」とワクワクしながら待っているわけですが、実際私の目には見えなくても、地面の下では種子の中の『いのちの息吹』が活発に活動しているはずです。そしてやがて根が出てきて地中にしっかりと根を張り、その後に芽が出てきて徐々に上に向かって伸びて行き、地面を突き破って私たちの目にも見えるようになるわけです。  さてこれがもし、根が張る前に発芽してしまったらどういうことになるでしょう?きっと種子は地上の部分の重さに耐え切れず、倒れて枯れてしまうことでしょう。大きく立派に成長し美味しい実を実らせるためには、まず『見えない部分』の根がしっかりと地中に深く広く張り伸ばされなければならないのです。  私たち人間の成長もこれと同じではないでしょうか?私たちはついつい「目に見えるところ」ばかりに気を取られて、多くの物を買い集めたり、より責任ある高い地位を求めたりしがちです。しかし肝心の私たちの『内面』が十分に成熟していなかったら、せっかく「目に見える多くの価値あるもの」を手に入れたとしても、それらを尊く効果的に活かして用いることができず、結局「宝の持ち腐れ」になってしまうのではないでしょうか?  「神なんて目に見えないから信じない!」とおっしゃる方々がいますが、その「目には見えないけれども実在し、目に見えない私たちの内面を養い育ててくださる神様」を求めて生きることこそ、私たちが「目に見える世界」において価値ある人生を生きる土台となっていることを、ぜひ知っていただきたいと思います。

(361) “怠け者の心は欲を起こしても何も得ない。勤勉な者の心は豊かに満たされる。”

 働くことに疲れたある人が、心の中でつぶやきました。「もし宝くじが当たって1億円もらえたら、もうこんな風に毎日苦労して仕事をしなくても済むのになぁ…」  その夜彼は面白い夢を見ました。何とそれは宝くじで1億円を当てた夢だったのです。その夢の中で彼は翌朝ベッドから跳ね起きると、興奮冷めやらぬ気持ちのまま、いつものようにシャワーに向かいました。ところが何とシャワーのお湯が出てこないのです。仕方なくシャワーせずに朝食を食べようとキッチンに向かい、コーヒーを沸かそうとすると、何とコーヒーメーカーが作動しません。一体どうしたことなんだ?と思いつつトーストを焼こうとすると、何とトースターも動きません。少々イラつきながら郵便受けに新聞を取りに行ってみると、新聞も来ていないのです。何が何だか分からない気持ちで、ともかく職場に向かおうといつものバス停に行ってバスを待っていると、待てど暮らせどバスが来ないのです!すっかり途方に暮れてしまった彼は、通りがかりの人に尋ねました。「すみません、1つお尋ねしますが、朝からどうも生活がうまく行かないのですが、何かあったのでしょうか?」 するとその人は答えました。「あぁ、ご存知なかったのですか?昨日、国民全部が1億円を当てたので、今日から誰も働いていないんですよ。」  その瞬間、彼は目を覚ましました。何とそれらはすべて『夢』だったのです。それに気付いた彼は思わず大声で叫びました。「神様、1億円当たったことが夢であったことを感謝します!」 そして彼はベッドから跳ね起きると、今までで1番幸せなシャワーを浴び、今までで最高に美味しいコーヒーを入れ、かつて食べたこともないほど上手に焼けたトーストと一緒に、驚くほど素晴らしい新聞を読みながらいただき、最高のドライバーが運転する最高のバスに乗って、踊るような気持ちで人生最高の仕事をするために職場へと向かいました。  誰にでも「いつもの仕事をいつものようにこなすこと」に疲れてしまうことがあると思います。でもそんな時にはぜひ思い描いてみてください。そんなアナタの『何気ない営み』によって保たれている「何気ない日常の祝福」を味わっている人たちがきっといるのだ、ということを。神様は何も『特別なこと』のためだけにおられるのではないのです。

(360) “人がひとりでいるのは良くない。”

私たち人間は皆、1人で生きていくことはできません。それは「1人ではすべてのことはできないから(「電気屋さん」や「水道屋さん」や「農家の人々」や「スーパーマーケット」も必要だから)」という意味ではなく、神が初めに人を造られたとき「1人で生きるようには造らなかった」からです。よく言われることですが、『人』という漢字は「人と人とが寄り掛かり合っている姿」を文字にしたものです。『人』はそのように「寄り添いながら生きるように」できているのです。だからこそ1人でいると私たちは『寂しい』と感じ、「寄り添ってくれそうな人」を捜すのではないでしょうか? ところが、近年の文明発達や『個人主義』の風潮も手伝って、「勤め先や学校に話し相手がいない」「家に帰っても1人でテレビを観てるだけ」「休日を一緒に過ごす友達もいない」などという人が増え、やがてそんな風に1人で過ごすことに慣れてしまって、『寂しい』と感じる心さえ麻痺し始めているようです。でもふとしたはずみで、それまで押さえていた『寂しさ』や『心の痛み』がドッとあふれてきて、思わず叫んでしまう。「あぁ、どうしてこんなに寂しいの!どうしてこんな人生を生きなきゃならないの!一体私はどうしたらいいの!?」 神は「アナタが1人でいること」を望んでおられないだけではなく、「アナタが1人でいる寂しさに押し潰されてしまうこと」も望まれません。そのために『ひとり子イエス・キリスト』を地上に遣わされました。イエスは、アナタの『究極の友』です。アナタの心の痛みや寂しさを理解し、アナタの傍らに寄り添い、優しくアナタの心に触れ、そのうずきを癒してくださる方です。実は彼自身も同じような『拒絶』や『裏切り』を経験されたのです。彼は自分の家族にさえも理解されませんでした。当時の社会的リーダーたちには敵対視され、3年半共に歩み「生涯あなたについていきます!」と豪語していた弟子たちも、イエスが十字架刑に定められたとたん、逃げ出して行きました。(そのうちの1人は、イエスが十字架にかかることになるきっかけを作った張本人でした) 『人生の友』を必要としていますか?ならば神に求めてください。きっと与えられます。そしてその出会いを待ち望んでいる間、この『アナタの寂しさを完全に理解してくださる方』とのリアルな出会いを、ぜひ体験してみてください!

(359) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

1914年12月9日の晩、トーマス・エジソンの研究所は火事のために一夜にして灰になりました。数々の研究の成果や研究途中の資料はすべて燃えてしまい、損失額は当時の金額でも2百万ドル以上。しかし建物が鉄筋コンクリートだったために油断していたせいもあり、ちゃんとした火災保険には入っておらず、降りた保険金はたったの238ドルでした。 67歳にして、少なくとも過去7年間の研究成果を、偉大な発明王エジソンはすべて失ってしまったわけですが、翌日になり、ようやく沈下した黒焦げの火災現場を眺めながら、彼はこう言ったそうです。「いやぁ、今までにいろいろと研究に失敗したけど、その失敗の証拠も全部始末してもらえたわけだ。神様ありがとう!これですっきり新しい気持ちで新しい研究を始められます!」 あなたもきっと何か大切なもの(人?キャリア?)を失って落ち込んだ経験がおありだと思います。でも大丈夫。どんな失敗や損失も、たとえその時は「もう取り返しようがない」と感じたとしても、必ず巻き返すことができます。私の妻も大学生の時に自宅を全焼で失ったことがありますが、その経験を通してかえって「目に見えるもの全てを失っても、相変わらず失われることのない『神』の存在」をしみじみと体験できたと言っていました。 神と共に生きる人生は「何度でもやり直せる人生」なのです!

(358) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

  日本の古くからの言い回しに、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。本当に心を深く探られる言葉だと思います。私たち人間は本当に弱いワガママな存在で、「自分に都合が悪い存在」や「どうしても好きになれない相手」を排除しようとする傾向がありますが、神は本来私たち人間を『互いに受け入れ合い愛し合う存在』としてお造りになりました。そして「神のひとり子」として来られたイエス・キリストは、まさに地上での生涯において私たちにその模範を示してくださったのです。 キリストはご自身が「罪のない、きよい存在」であったにもかかわらず、当時社会からつまはじきにされていた病人や貧しい人々、そして『罪人』というレッテルを貼られた人たちと多くの時を過ごされました。そのような生き方を、ユダヤ教の宗教指導者たちから問題視された時、彼は言いました。「医者を必要としているのは丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 私たちは「自分はまともだ。人の助けなんか受けなくたって生きていける。」と思いたい存在です。でも実際心の中では「自分は弱く醜い存在で、そんな自分の姿を知られたら、人は皆自分から離れて行く」と恐れているのです。でも安心してください。キリストはまさにそんなアナタが正直に自分の醜さ・弱さを認めたとき、「私の友よ」とありのままのアナタを受け入れてくださるのです。そして私たちは「『ありのままの自分』を受け入れてもらう」という経験を通して、少しずつ「罪を憎んで人を憎まず」に、互いを受け入れ合って生きる者へと変えられて行くことができるのです。

(357) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

もしかしたら、ある方は「神様を信じたら、もはや人生に問題は無くなる」と思っておられるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。では『神を信じて生きる人生』の良い点とは、一体何なのでしょう?それは「どんな問題の中にあっても、神が共に歩んでいてくださる」ということです。では、神が共に人生を歩んでくださっているのに、なぜ神は私たちが問題に直面することを許されるのでしょうか?それは、神が私たちに「ご自身に信頼して生きる者のために、神がどのようなことをしてくださるのか」を示そうとしておられるからです。 私たちが恐れるとき、神は平安を与えることができます。私たちが失望・落胆しているとき、神は希望を与えてくださいます。私たちが心を痛めているとき、神は慰めと癒しを与えることができます。私たちが乏しいとき、神は必要を満たしてくださいます。そして私たちが目標を見失って迷っているときに、神は真理によって私たちを『いのちの道』へと導くことができるのです。 ナチス・ドイツの強制収容所において家族全てを失った『コリー・テン・ブーム』という女性は、神と共に生きる人生について次のように述べています。「もし憂鬱な気持ちになりたいのなら、自分の内側を見つめてればいい。もし打ちのめされた気持ちになりたいのなら、自分の過去を見つめてればいい。もしどうして良いか分からない気持ちになりたいのなら、自分の周囲を見つめてればいい。でももしそれら全てから解放された人生を歩みたいのなら、自分の上を見上げたらいい。そこにはあなたを見つめておられる神がおられる。」 神はあなたの問題の真ん中で、あなたと共にいてくださるのです。

(356) “静まって、わたしこそ神であることを知れ。”

こんなことがあったそうです。あるジェット機のパイロットが太平洋上空を飛んでいるとき、基地の管制塔から「現在地を知らせるように」との要請を受けました。彼はこう答えました。「え~と、どこを飛んでいるのか分かりませんが、ともかくたった今このジェット機の最高速度を更新しました!」 1人の心理学者は次のようなコメントを残しています。「人間の習性というものは皮肉なもので、自分が道に迷っていると気付いたとたんに、行動のスピードを上げようとする。」 本来なら「立ち止まって、落ち着いてよく考えるべき状況」の中で、私たちは早く解決策を得ようと焦ってしまうようです。 私たちの人生を豊かで正しい道へと導こうとしておられる神様は、「そんな時こそ、ペースダウンして、まずわたしのことを見上げてごらん」と語りかけてくださっています。確かに私たち人間が神様を見い出すことができないのは「自分のことに忙しくしすぎて、じっくりと『真理』を見い出そうとしないこと」に原因があるように思えます。「神様なんて、どこにもいやしない!」という表現を英語に訳すと「God is nowhere」となりますが、この最後の『nowhere』という単語にブレイク(ひと休み)を入れると、「God is now here」(「神が今ここにおられる」の意味)になります。つまり「ちょっとひと休みして、神様があなたと一緒にいてくれていることに気付こうよ」というわけです。面白いでしょ? 日々の忙しさの合間に『ブレイク(ひと休み)』を入れて、あなたを愛し、あなたに真の人生の目標を与えてくださる『神』に心を向ける時間を持ってみましょう。きっとあなたの人生に何か新しい変化が起こるに違いありません。

(355) “先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。”

社会学者たちの調査によると、人間の行動パターンは2つの要因から大きく影響を受けているそうです。1つは『両親』、まあ「育った環境」とも言えるでしょう。そしてもう1つは「その後今に至るまでに経験した(または現在している)出来事や状況など」です。まあ当然と言えば当然ですかね。 旧約聖書に『エフタ』という人物が出てきます。彼は「妾の子」として生まれ、家族や親類たちからも正当な扱いを受けられず、ほとんど「村八分のような存在」として育ちました。上記の調査結果に照らし合わせれば「人生の脱落者」として生きるための条件は揃っていたわけです。ところが彼は「彼が所属していた『イスラエル民族』を敵の支配から救う」という目覚ましい活躍をし、言わば『民族的ヒーロー』としてその名を残したのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?それは、エフタが「自分の生い立ちや不遇な過去を呪って生きる」という後ろ向きな歩み方を止め、「自分を造り、この世に生まれ出させてくださった大いなる神に頼って生きる」という新しい歩み方へと乗り換えたからです。 あなたがもし「自分の生い立ちや環境」にこだわって生きることをやめ、あなたをお造りになり、今の世に送ってくださった『創造主なる神』を心から求めて生きる人生を始めるならば、この神はあなたのすべての「不利な要素」を「神ご自身の偉大なご計画を実現するネタ」へと逆転してくださいます。『この世』は己に益をもたらすための「人間的に優れた人材」を求めますが、『神』はご自身の偉大な『愛と力』を人々に知らせるために、敢えて「この世ではむしろ見放されたような足りない者」を通して働くことを好まれるのです。(だからと言って、わざわざ弱々しく生きようとする必要はありません。私たちは元々「弱く足りない存在」なのですから…) ですから、気を落とすことなく、この神に向かって目を上げ、祈りや聖書のことばによってこの方と多く時間を過ごすことを通して、彼があなたのために立てているご計画に従って進む人生へと歩み始めましょう!

(354) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

現代は非常に「子供を正しく育てにくい時代」だと思います。価値観があまりにも多様化し、溢れるほどの情報が氾濫し、しかもそれらが「ワン・クリック」で一気に目や思考の中に押し寄せてくる。そして親はそれを制御しつくすことができません。私は邦画が好きなので、一時帰国の折などはよくレンタル・ビデオ屋さんへDVDを借りに行くのですが、そこで目にする「ホラー映画」や「オカルト漫画」、そして子供用のコミックブックと一緒に並べて置いてある数々の「不倫や暴行を題材にしたエロ・コミック」にはあきれてしまいます。借りたり読んだりする方にももちろん問題がありますが、いくら利益追求のためとはいえ、何故このようなものを平然と生産・販売する世の中になってしまったのでしょう? このような時代に子供たちを「真に行くべき道」へと導くためには、もはや学校や社会に頼っていることはできません。大人(親)たちが『生きた模範』を示さなければなりません。「子供は親の言うことには従わないが、やることは真似をする」とは良く言ったもので、自身の経験からも確かにその通りです。時々自分の子供たち(今は全員成人していますが…)が人前で言ったりやったりしている様子を見かけると「自分のコピーではないか?」と感じてしまうことがあります。 煙草を吸う人の周囲にいると、自分も煙草を吸っているのと同じ害を受けてしまうと言われていますが、これは私たちの日常の行い・態度に関しても同じことが言えます。『不機嫌』『恐れ』『罪責感』『怒り』『暴力』その他の態度は周囲(特に家族や子供たち)に伝染し、「相続」されていきます。しかし同様に、私たちの『愛』『喜び』『希望』『安心感』『積極的・肯定的態度』も、特に言い聞かせなくてもちゃんと伝わるものです。すなわち「私たち自身が日々どのような態度で生きているかが、世の中の将来を方向付ける」と言っても過言ではないのです。 では、「私たちのための生きた模範」は何処にあるのでしょう?それは聖書の中、殊に「イエス・キリストの生き様」の中にあります。イエスはおっしゃいました。「わたしがしたようにあなたがたもするようにと、わたしはあなたがたに模範を示したのです」と。また彼は、信じる者と「いつも共にいる」とも約束してくださいました。彼に信頼し、彼と共に歩み、世に『正しい模範』を示す旅を今日からあなたも始めてみませんか?

(353) “それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。”

ある人が亡くなったお祖父さんから古い柱時計を相続しました。毎日その柱時計を眺めているうちに、左右に振れる重たそうな振り子に目が留まりました。「こんな重そうな振り子は外してあげた方が良いのではないだろうか?」そう思ってその振り子を外してやると、何とその時計は数日後に止まってしまったのです。慌てて振り子を元通りにしたとたん、時計は再び元気に時を刻み始めました。『重荷』に見えたその振り子は、実はこの時計に無くてはならない『原動力』だったのです。 私たちは「人生には楽しいことだけが起こって、苦しいこと(重荷)なんか無ければ良いのに」と思いがちです。しかし実際は、苦難を多く乗り越えた人ほど「人生の深みや生きがい」というものを味わっているものです。子供を真に愛している親が、自分の子を単に甘やかせることなく、しばしば我慢を強いるように、私たちの『父なる神』は、時に私たちが苦難に直面することを許し、私たちを内面的に成長させようとなさるのです。 そして素晴らしいことに、この神は単に「苦しんでいる私たちのことを、ただ指をくわえて眺めている」のではなく、私たちと共にその苦難のただ中にいてくださり、私たちの涙や叫びの意味を理解し、そして最終的には必ずその苦難を乗り越えさせてくださるのです。

(352) “神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。”

『世界恐慌』が起こった1929年に、あるジャーナリストがアパラチア山麓で生活する極貧の老女を訪問しました。彼女は地面丸出しの上に建っている小さな小屋で、水道も暖房もなく暮らしていました。彼が彼女に「もし誰かがあなたに少しばかりの経済的援助をくれたとしたら、まず何のために使いますか?」と尋ねると、彼女はしばらく思案したあげくに、こう答えました。「きっと、誰か貧しい人に寄付すると思います。」 自分が抱えている問題にばかり注目していると、私たちはしばしばその問題が必要以上に大きく思えて押し潰されそうになります。しかし少しだけ目を外側に向けて、もっと広い世界を見渡してみると、その問題が思ったよりもちっぽけであることに気づくのではないでしょうか?ある人はこんな言葉を残しました。「『オレはまともな靴を1足も持っていない』と愚痴をこぼしていたら、ある日『足が無い人』と出会った」。 多くの場合、『試練』というものは「物事の見方を変える」ことによってくぐり抜けることができます。アメリカの有名な漫画『スヌーピー』の1つの物語で次のようなものがあります。ある日のスヌーピーの夕食はいつものように『ドッグフード』でした。ふと家の中を覗いてみると、家族は感謝祭のお祝いの『七面鳥』を美味しそうに食べています。スヌーピーは思いました。「ボクはどうして『犬』になんか生まれたんだろう。おかげで感謝祭だっていうのに、ボクは七面鳥の代わりに、相変わらずドッグフードしか食べさせてもらえない・・・」 ところが少し経ってから思い直して、こう言いました。「でもやっぱり『七面鳥』に生まれていたよりもよっぽどマシだな!」 あなたが今直面している『試練』はどれくらい耐えがたいものでしょうか?もしかしたらそれはあなたにゾウのように重くのしかかっているかもしれません。しかしゾウもスカイツリーのてっぺんから見れば『ゴマ粒』のようにちっぽけです。ぜひ神様から「新しい視点」をいただくことによって、今抱えている試練の「本当のサイズ」を見極め、神様と人々との助けをいただきながら乗り越えて行ってください。

(351) “さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。”

『責任感』と『罪責感』。文字は少々似ていますが、意味合いには大きな隔たりがあります。『責任感』というものは、自分の「使命・責任」に対して忠実であろうとする、生きる上で大変重要な正しい態度です。一方『罪責感』は、何かの出来事や誰かの存在に対する恐れに根差した「負い目」のようなもので、これが高じると私たちの人生を破壊しかねない危険な心情です。 『スピード社会』と呼ばれる現代。私たちは「能率性」や「効率性」そして時に「不眠不休」を要求されます。私たちが幼い頃は『過労死』などという単語はありませんでしたが、今や誰もが知っています。一体何故そこまでして、ノンストップで活動し続けようとするのでしょうか?それはもはや『責任感』によるものではなく、かえって『罪責感』(自分が休んでしまったら、同僚や会社に迷惑がかかる)という感情が働くからではないでしょうか? 神は私たち人間を「活動し続けるように」ではなく、「7日に1日は休むように」造られました。電化製品を「取り扱い説明書」にしたがって使わないと、やがて故障してしまうように、私たちも休みなく活動し続けたら故障してしまうのです。ですからイエス・キリストは、休みなく人々の世話をしていた弟子たちに「休みなさい!」と命じられました。また『罪責感』から私たちを解放するために、私たちの罪を身代わりに負って十字架で死なれたのです。 仕事への「やりがいや喜び」の故ではなく、会社や団体、また他の人からの「批判に対する恐れ」の故に無理に休みなく働き続けることは、もはや『責任感』ではなく、『罪責感』です。そのような『恐れ』に動機付けられて「質の良い仕事」をすることができるはずがありません。それは自分自身にとっても、社会にとっても益をもたらしません。 この前あなたが丸1日休んだのは一体何日前ですか?もしそれが1週間以上前であるならば、さあ、今から静かなところへ行って、ゆっくり休みましょう。

(350) “あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。”

ある女性が花屋に2種類の花束を注文しました。1つは最近新しい場所に新店舗を開いた友人のため、もう1つは別の友人のお葬式に贈る花束でした。ところがあろうことか、花屋さんの手違いでこれらの花束がそれぞれ逆の送り先へと送り届けられてしまったのです!葬儀の場所で受付をしていた人が、届いた花束に添えられていたメッセージを読むと、こう書いてありました。「以前よりステキな新しい場所への移転、おめでとうございます!」 私たち日本人は『死』という話題を極端に避けたがります。数字の『4』は「し」と発音されるため『死』を想起させるので、病院やホテルに4号室が無かったりするほどです。しかし、イエス・キリストを救い主と受け入れた人々にとって『死』はもはや「恐怖」ではなく、むしろ「希望」とも呼べるべきものです。何故なら聖書は彼らに『天国行き』を約束しており、そこには「もはや悲しみも叫びも苦しみもない」と書いてあるからです。まさに「もっと良い新しい場所への引越し」なのです。 もちろん、イエス・キリストを信じて生きる者にとって「天国へ行けること」は全てではありませんが、この地上において神との関係の中に生き、後の世では「神が私たちのために特別に備えてくださっている、今よりもずっと素晴らしい場所へ行ける」、こんなステキな希望を抱いてこの世での終わりを迎えられるなんて、素晴らしいと思いませんか?

(349) “イエスは彼に言われた。「良くなりたいか?」”

ある日イエス・キリストが神殿の中を散歩していると、38年もの間寝たきりで、人々の助け無しには生活できないでいる男に出会いました。表題の言葉は、その時にイエスがその男にかけた言葉です。あなたがその男だったら、どんな反応をするでしょうか? 答えは明らかなように思えますが、実際この男は体以上に心が病んでしまっていました。この病があまりにも長い期間続いたので「オレがこんなになってしまったのは、環境のせい、周囲の人のせい、世間の冷たい扱いのせい」のように感じてしまっていたのです。 私たちは皆人生において、少なくとも2つの責任を負っています。1つは「自分の態度に対する責任」、そしてもう1つは「自分の選択に対する責任」です。どんな人にも少なからず「嬉しくない出来事」が起こります。そんな時私たちは当然ガッカリしたり落ち込んだりしますが、もしその出来事から20年経った後も「あの時にあんな出来事が起こったばっかりに、私の人生はこんなになってしまった…」とクヨクヨしているとしたら、それはもはや『出来事そのもの』のせいではなく、『自分の選択』の結果なのです。何故こんなことが起こるのでしょう?それは『自分の態度』が「前向き」ではなく「後ろ向き」だから、すなわち「そのような出来事が自分の人生に起こった事を赦せないでいる」のが原因です。 私たちはしばしば『誰か』を赦せなかったり『起こった出来事』を赦せなかったりします。そして「赦さないでいること」によって自分を相手より優位においている気がしていますが、実際は『赦さないでいる相手の奴隷』になってしまっているのです。もしあなたが「赦せないでいる相手」が謝罪しに来てくれるのを待ち続けているとしたら、それは時間の無駄です! イエスはこの『38年寝たきりの男』に「起きて床を取り上げて、歩きなさい!」と命じられました。すると何と彼はすぐに治って歩き始めたのです。イエスは私たちの肉体的な病を癒すだけでなく、私たちの『誤った人生の方向性』をも矯正してくださる方なのです!

(348) “あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前を真っ直ぐに見よ。”

「照準を合わせる」というと、何か拳銃で狙い撃ちでもしようとしているかに聞こえますが、これは豊かな人生を生きる上でも大変重要なことです。どんなに美しい被写体を捉えていてもフォーカスがブレていてはステキな写真を撮ることはできませんよね? 私たちの『フォーカス』を狂わせるのは、必ずしもテクニックではなく、むしろ私たちの内面的な問題です。心の平安を失っていたり、何らかの思い煩いに捕らわれていたりすると、本来集中するべき目標に集中できなくなるのです。特に現代のようなスピード社会では「緊急を要する(と思い込んでいること)」を優先させるがあまり「本当に大切なもの」が軽んじられがちです。大抵の『緊急事項』は「本当に大切な事項」をちゃんと押さえておくなら、必ず後で取り戻せるものなのですが、逆に『緊急事項』に振り回されて「本当に大切な事項」を後回しにしてしまうと、取り返しのつかない失敗を犯してしまう危険性があるのです。 『天地創造の神様』を知るようになると、心の深い部分に静かな「平安の川」が流れるようになります。私もイエス・キリストを信じて生きるようになってからは、以前よりもかなり『楽観的』になりました。(まあ、妻の影響も多大にあると思いますが…)そうすると周囲で多少のことが起こっても「人生のフォーカス」がブレなくなってきたのです。そして1つ1つのことをじっくり丁寧に成し遂げることができるようになり、人生のクウォリティも上がってきました。私は皆さんにもぜひそのような「ブレのない人生」を送っていただきたいと心から願っています。

(347) “だれでもこの子供のように自分を低くする人が、天の御国で1番偉いのです。”

今週も「子供らしさから学ぶ内容」です。 ある時弟子たちがイエスに尋ねました。「先生、天の御国では一体だれが1番偉いのですか?」彼らの関心は、自分たち弟子たちの間で誰が最もイエスの評価を受けているかを知ることでした。これに対してイエスは、側にいた幼子を1人呼び寄せて上記のことばを言われたわけです。 一体イエス・キリストの目には『子供らしさ』がどのように映っていたのでしょう?それは恐らく次のような点であったと思われます。  ①『今』に夢中になれる ・子供たちの『創造性』には本当に驚かされます。私たち大人はつい「流行のおもちゃ」を買い与えようとしますが、彼らはその辺に転がっているガラクタでも様々な遊び方を『発明(?)』します。そして彼らの辞書には「ほどほど」という文字はありません。彼らは「トコトン・思い切り」遊ぶのです。たとえ周囲の大人が「あんなくだらないことをやっている」と蔑んだとしても、彼らは少しも気に留めたりしないのです。  ②すぐに仲直りできる ・幼い子供でも喧嘩や仲違いをしますが、同時に直ぐに仲直りもします。「ついさっき喧嘩していたと思ったら、もう一緒に仲良く遊んでいる!」とこちらが驚かされます。彼らはいつまでも相手を恨み続けたり、相手に迷惑をかけてしまったことをいじいじと悩み続けたりはしないのです。  ③親に対する無条件の信頼 ・幼子の親に対する信頼は絶対的です。「お父さんの言うことはいつでも正しい。お母さんはいつでも1番良い物をくれる」彼らはそう信じきって疑いません。そして私たちの天の父なる神は、私たちのそのような信仰を喜んでくださるのです。 最近はそのような信頼を裏切るような親が増えてきているようで、本当に心が痛みます。幼子の心が壊されかけていることを、神様は何よりも悲しんでおられるのではないでしょうか?

(346) “主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”

私たちがまだ無邪気な子供の頃、児童公園に行くとまずブランコへ行ってひとしきり楽しんだ後、次はジャングルジムへ行って上り下りし、そしてまた滑り台へ向かって懲りずに何度も滑ってはまた登るを繰り返したものです。一方、同行した大人の方は「もうその滑り台をもう1回滑ったら終わりだぞ」とか「あと5分したら帰るからね」などと何とか制限を加えようとし、それに対して子供の方は「あと1回だけ、あと1回だけ」を繰り返しながら飽くなき抵抗をするわけです。 これらの「疲れを知らずに次の目標を追い続ける子供たち」は、一体いつの間に「(歪んだ)現実を突き付けて夢をあきらめさせる大人」へと『成長(堕落?)』してしまうのでしょうか?彼らは一体「何を得、何を失って」しまったのでしょう? 「攻撃は最大の防御である」と言われます。サッカーの試合などで終盤を迎えると、1点リードしているチームはしばしば同点に追いつかれることを恐れて『守りの体制』に入ってしまいます。すると負けている方のチームは「何としても得点しなければ!」と一斉攻撃をかけ、その防御の壁を見事に破ってしまうことがあるものです。すなわち『失うことを恐れない積極性』は『失敗を恐れる消極性』に優っているのです。 私たちの人生にも同じことが言えるのではないでしょうか?失敗や失うことを恐れるがあまり、新たな挑戦や積極的姿勢をあきらめて、早々と『守りの体制』に入ってしまう人は、神がその人に与えておられる「豊かな可能性」を花開かせることなく、悪くすれば「後悔に満ちた終局」を迎えることになるかもしれません。 神と共に歩む人生は、「失敗のない人生」ではありません。それは「失敗を恐れない人生」です。神があなたの『とりで』となって、決してあなたが致命傷を受けることがないように守っていてくださるからです。『真の成功・勝利』とは「何かを成し遂げること」ではなく、「いつも次の挑戦を目指して前進し続ける積極的姿勢」なのです。

(345) “友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。”

現在ここクライストチャーチでは、悪い『流感』が流行っています。大抵の場合まず子供が学校でウイルスをもらってきて、それが家族中にうつって行くというよくあるパターンです。 流感と同じように、私たちの「日頃の習慣」というものも周りにうつって行きます。専門用語では『精神的感染』というようですが、それは「腐ったリンゴを他のリンゴと一緒に置いておくと、他のリンゴも段々腐って行く」のと同様な現象です。 例えば、ある営業所に1人のとてもネガティブ思考の人がいて「こんな品物をどんなに宣伝したところで決して売れやしないよ」というような否定的な言動を毎日繰り返していたとしたら、その営業所全体の営業成績はドンドン落ち込んで行きます。またあるお店で販売員がいつも愚痴ばかりこぼしながら商品を販売していたら、お客の足はそのお店からだんだん遠のいて行くことでしょう。 私たち人間は『創造主なる神』のかたちに似せて造られました。ですから私たち自身の中には周囲に影響を与える力を持った『創造性』が内蔵されているのです。それは用い方によって良い影響も悪い影響も及ぼすことのできる力です。周囲を腐らせるバイ菌のような働きをすることもあるし、よどんでいる空気を一掃するビタミン剤のような力を発揮することもあるのです。 ではどのようにして『周囲を生かすビタミン剤』のような生き方ができるでしょう?2つの方法があります。まず1つ目は「友人を選んで付き合う」ということです。あなたの思いを『下向き』ではなく『上向き』にしてくれるような、互いに励まし合える人と多くの時間を過ごすことは大きな助けになります。そしてもう1つは「創造主である神と日々向き合いながら生きる」ということです。朝ごとに神様から「永遠に変わらない平安・希望・愛」を浴びせられながら1日をスタートすることは「創造主に似せられて造られた者」として欠かせない日課なのです。

(344) “神はあなたがたに、試練と共に脱出の道も備えていてくださいます。”

問題点を指摘し、文句を言うことは誰にでもできます。しかし問題点を見つけ、その解決法を探り、実際的な解決に至る人は、残念ながらあまり多くはありません。 20世紀初頭、オハイオ州の学校で用務員をしていた「ジェーム・マーレー・スパングラー」は1つの悩みを抱えていました。彼の主な役割の1つに「学校の廊下の掃除」があったのですが、実は彼は「埃アレルギー」だったのです。その当時『掃除』といえば「掃き掃除」しかなく、彼は毎日廊下を掃きながら「何とか埃を舞い上がらせずにキレイに掃除する方法はないものか?」と考えあぐねていました。するとある日彼が神に祈っている時に1つのアイディアがひらめいたのです。「埃を掃く代わりに、吸い込んでしまったらどうだろう?」彼は扇風機や枕カバーなどを使って「埃を吸い込んでキレイにするシステム」を開発しました。これが現在の『電気掃除機』の原型です。 私たちは人生の中で様々な問題や困難に直面します。そんな時私たちはつい「神様、どうしてですか?」と文句を言いがちですが、神は実はそれらの試練の中に「私たちを向上させるチャンス」を隠しておられるのです。そしてそれを見つけることができるのは、物事の否定的な面ばかりでなく、「神は良い方であり、私のために最善の道を用意してくださっている」と信じて生きる人たちなのです。

(343) “人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。”

基本的に私たち人間は『わがまま』な生き物です。ですから知らず知らずのうちに「世の中が自分の思い通りに動いてくれないこと」に腹を立てている自分を発見したりします。そんな時に私たちは大抵周囲のせいにしたり、世間をうらんだり、自分の生い立ちを呪ったり、果てには信じてもいない『神』を罵ったりします。 キリストの使徒パウロは、ローマにある教会宛に書き送った手紙の中で「近い将来スペインに行く予定があるので、その途中で必ずあなた方の教会に立ち寄りますね」と約束しましたが、それは決して実現しませんでした。何故なら彼はその手紙を書いた後、捕らえられて投獄されてしまったからです。しかしその投獄中に彼は現在聖書の中に遺されている多くの優れた書簡を書き綴ったのです。必ずしも「私たちの計画がくずれること」が「私たちの人生を不幸に陥れる結果」になるとは限らないのです。もしアナタが「人生が思い通りにならないことに対する不平不満」ばかりを思い巡らし、それらの『計画倒れ』から驚くべき祝福を生み出すことのできる神のわざを見つけることができないでいるのなら、それこそ「人生の大きな損失」です。 皆さんはあの美しい『真珠』がどのようにして作られるかご存知の事と思います。小さな砂粒などの「異物」が真珠貝の中に入り込んでしまった時、貝はその『痛み』の故にカルシウム分や有機質を分泌し、それらが何重もの層になって、やがてそれが美しい『真珠』となるわけです。言うなれば「想定外」のことが起こらなければ、あの美しい宝石は生まれないのです。 「苦しいときの神頼み」と言われますが、私たちは物事が自分の思い通りに進んでいる時には『神』の存在など忘れてしまうものです。しかし『神』はもしかしたら、そんな私たちにご自身を思い出して欲しくて、また私たちの人生を通して「私たちの思いを超えた豊かで美しいもの」を生み出したいがために、敢えて私たちの人生が「自分の思い通りに進まないこと」を許されるのではないでしょうか?

(342) “私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。”

皆さんは「こんな人になりたい」と思うようなモデルを持っていますか?または「自分が子供の頃はあの人のようになりたいと思っていた」というような歴史上の人物とか…。私は子供の頃『野口英世』に憧れて「大きくなったらお医者さんになって、奥地の人々を助けたい」と思っていました。幼い頃にいろりで手を大やけどするというハンディがありながら、その生涯を奥地医療にささげた彼に、心から尊敬の念を抱いていたのです。 現代の若者の多くが憧れるのは、どちらかというとそのような『歴史上の偉人』ではなく、「テレビや映画のスター」や「ユーチューバー」などになっているようです。ちょっと残念な気がします。でももしかすると若者たちがそのような存在に惹かれて行ってしまうのは、身近に「あんな人になりたい!」と思わせる存在がいないからなのかもしれません。 キリストの使徒パウロは「私のようになってください!」と言いました。それは何もエラぶった態度なわけではなく、彼自身が目標としていた存在(イエス・キリスト)に絶対の自信と信頼を置いていたからです。そして恐らく彼自身も、その目標としていたキリストに近づくごとに「大きな喜びと興奮」を味わっていたからに違いありません。実はその『喜びと興奮』は私自身も日々味わっているものなのです。 私たちの周囲の若者たちが「正しい目標に向かって進んで行くため」に、まず私たち自身が『優れたモデル』に倣いながら日々を歩み、次世代を担う人々が憧れるような存在へと成長して行こうではありませんか。

(341) “しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出てくる。”

もしあなたが自分の人生を評価するときに、「他人の人生と比べて一喜一憂している」とすれば、何かが間違っています。何故なら神様はあなたをユニークな存在としてお造りになり、あなたのために「他の人とは違うユニークな人生の計画」を持っておられるのですから。 神様は私たちの思いを超えて働かれる方ですから、神に従って生きる人生は時々私たちの考えとは違っていて戸惑うことがあるかもしれません。でも神様は良いお方ですから、あなたの人生をもてあそんだり台無しにしたりは決してなさいません。ただ彼は私たちに「信頼して従うこと」のみを要求しておられるのです。 上記のことばは、聖書に登場する信仰深い人物の1人『ヨブ』という人が遺した言葉ですが、ここから3つのことを学ぶことができます。 ①「神様は、あなたが今置かれている状況をよくご存知である」ということ。あなたが今体験していることは神様の深いご計画の1部です。神様がうっかり目を離している隙に起こってしまったアクシデントなどではありません。たとえ今起こっていることをあなたが理解できなかったとしても、神様にはちゃんと分かっているので、ただ信頼して従えば良いのです。 ②「神様は私たちを試す方である」ということ。私たちの人生には『予期せぬ試練』が起こることがあります。そしてそんな状況に直面すると私たちは「何か悪いことをしただろうか?」「神様がバチを当ててるのだろうか?」などと分析するのですが、そうではありません。この世の価値観に凝り固まっているアナタを「神のご計画を担う存在」へと練り直すために、しばしば神様は『試練』を用いられます。でも心配することはありません。神様はいつでもちょうど良いタイミングでそれを私たちの人生に送られ、またちょうど良いタイミングに終わらせてくださるからです。 ③「神は私たちを成長させる」ということ。美しい金銀や宝石が、初めはどれほどたわいもない原石だったか想像がつくでしょうか?同じように、神様は『試練』を通して「たわいもない私たち」を『輝く神の作品』へと造り変えることができるのです。神への信頼と愛情が増し加えられ、状況に左右されることのない平安と内側からあふれ出てくる喜びとに満たされて『豊かないのち』に満たされるのです。 あなたの人生を正しく評価し、また矯正することのできるお方は神様だけです。他の人々の評価を気にする必要はありません。かえって人々は、神様に磨かれたアナタを見て「まるで別人みたい!一体何が起こったの?」と尋ねるでしょう。その時あなたは言うのです。「あなたも人生を神様に委ねてみたら?」と。

(340) “イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」”

日本では未だあまり馴染みがありませんが、今週末は「イースター・ウィークエンド」と呼ばれるキリスト教のお祭りです。クリスチャンの間ではある意味『クリスマス』以上の記念日ですが、私もクリスチャンになる前は『クリスマス』しか知りませんでした。 今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことを記念する『グッド・フライデー』(何故か巷では「13日の金曜日はキリストが死んだ日だから縁起が悪い」などと言われていますが…)そして日曜日が、キリストが死からよみがえられたことを記念する『イースター・サンデー』と呼ばれます。イエス・キリストは十字架につけられるずっと以前から、「自分はやがて十字架にかけられて殺されるが、その後3日目に死者の中からよみがえる」と予告していました。12弟子たちでさえそれを信じられないでいましたが、事実それが実現したために、弟子たちはいのちをかけて「キリストの十字架と復活のメッセージ」を携えて世界中に出て行ったのです。それは2千年経った今でも引き継がれており、私自身もその『メッセンジャー』の1人です。 何故キリストが十字架にかけられたのが『グッド・フライデー』なのかというと、それは『キリストの十字架上の死』が単に「偉人の死」なのではなく、私たち人間の罪の代価を支払うための「身代わりの死」だからです。そして『キリストの復活』が私たちとどんな関係があるかというと、「キリストの『身代わりの死』を自分自身のこととして信じた者が、彼と共に『永遠のいのち』に生かされるようになるための『よみがえり』」だからです。 イエス・キリストの『復活のいのち』に生かされる者は、この地上において「神から与えられる『喜び』と『平安』」に満たされて生き、また後の世において「永遠に生きる」者とされているのです。

(339) “私たちは、成熟を目指して進もうではありませんか。”

私たちは肉体的に『大人』になって行ったとしても、必ずしも「精神的な大人(成熟)」になっているとは限りません。では『成熟』とは一体どういうことなのでしょう? ある著名な心理学者は次のように言っています。 「『成熟』とは、怒りをコントロールできる能力であり、他人との違いを争いや苛立ちなしに解決できることである。『成熟』とは、待てることであり、本物の満足を得るために一時的な快楽を我慢することである。『成熟』とは、強い反対や大きな失敗を乗り越えることであり、全く喜びを見い出せない状況の中にあっても愚痴をこぼすことなく持ちこたえることのできる強さである。『成熟』とは、自分の誤りを素直に認めることができ、かつ相手の過ちを責めることなく正すことのできる度量の大きさである。『成熟』とは、良い決断をし、しかもそれを最後まで行動に移し続けることのできる粘り強さである。『成熟』とは、頼りがいがあり、信頼できる正直さであり、危機的な局面をも切り抜けさせる知恵でもある。一方『未熟さ』とは、言い訳の王様であり、混乱と無秩序であり、約束破りの迷路のようなもので、動機だけは良かったがやり遂げられなかった仕事の山である。『成熟した人』は、変えることのできないことを受け入れる度量と、変えることのできることに立ち向かう勇気と、その2つを見分ける知恵とを持っている。」 アナタの『成熟度』はどれくらいでしょうか?

(338) “わが神、主よ。私が叫び求めると、あなたは私を癒してくださいました。”

今日ほど『うつ病』にさいなまれている人が多い時代は無かったと思います。恐らくほとんどの方々が「知り合いに『うつ病』の人がいる」もしくは「自分自身が『うつ状態』を経験したことがある」のではないでしょうか? 『うつ病』のはっきりした原因はまだ解明されていないようですが、間違いなく1つ言えることは「人間には『感情』がある」ということが元になっているということです。『感情』があるがゆえに、私たちは「近親者の死」や「過度のストレス」などに直面すると、それが追いきれない状態になった時『うつ』になるのでしょう。といっても『感情』そのものが悪いわけではもちろんありません。むしろ「心の苦しみ」を独りで抱え込みすぎてしまうことに問題があるのです。 では、それがどうして最近になってこんなにも増えてきたのでしょう?もちろん「働き過ぎ」や「人間関係の複雑化」も大きな理由でしょうが、何よりの原因は「心の内にある不安や恐れを表現するための機会や相手がいなくなってきている」ということではないでしょうか?人口の増加やスピード社会に伴って人間関係がドンドン希薄になり、「ゆっくり時間を取って、じっくりと会話する」とか、「互いの気持ちを思いやり、深い友情を築く」ということが稀になって来ている気がします。 20年以上外国暮らしをして感じることは「日本人は自分自身を表現(主張)することがあまりうまくない」ということです。そのため、比較的親しい関係においても、なかなか自分の内面に関わることを分かち合おうとはしません。それを「奥ゆかしさの美徳」として崇拝する傾向さえあります。しかしその「奥ゆかしさ」が『うつ病』を引き起こす原因になっているとすれば、それは美徳でも何でもありません。 聖書は私たちに「じっと耳を傾けてくださる神」「私たちの外面ではなく、心を求めておられる神」を紹介しています。旧約聖書の大きな部分を占めている『詩篇』という書物の中で、イスラエルのダビデ王は、自分の心の深い叫びやうめきを、実にあからさまな言葉で神に対してぶつけています。そのいくつかは「本当にそんなことまで言っちゃっていいの?」と思えるほどの辛辣な言葉で(聖書は決して「美しく立派な言葉の結晶」などではありません)、読みながら目を覆いたくなるほどなのですが、そのように自分の心を神にぶちまけることでダビデは『神からの癒し』を受け取っているのです。 2つのことをお勧めします。①心の深みまでも分かち合える『友』を作る(または自分がそのような『友』になる)。②あなたのすべてを受け止めてくださる『神』に思い切って打ち明ける(叫ぶ)。このようにして少しでもこの地上から『うつ病』を減らして行きましょう!

(337) “神よ、あなたは私を、恐ろしいほどに素晴らしくお造りになりました。”

私たちは皆、たった1つの細胞から始まりました。そしてその「たった1つの細胞」の中には、数え切れないほどの情報を擁したDNAが含まれていたのです。そこにはあなたの髪の毛や眼の色、鼻の形、指のサイズも入っています。そうそう、あなたの指紋は他の誰とも違うということを考えてみてください!あなたの瞳の輝きも、あなたの笑い声も、あなたが持つユニークな視点も、皆あなた独自のものです。そしてそれは偶然起こったのではなく、創造主なる神があなたをそのようにデザインされたのです。神はあなたにその声を、その微笑みを、その髪質も、しみやそばかすも、あなたをあなたとしているものすべてをお与えになりました。そして神があなたをそのように造られたからこそ、あなたは世界でたった1人の存在であり、また世界はあなた無しには完成しないとも言えるのです! 最近アメリカで「妊娠後期でも中絶可能とすべき」というような法案に関する討議が行われているようですが、それはひとえに「人間が人のいのちをも左右することができる」という私たちの傲慢さから生まれる考えであり、『神の領域』を侵害する恐るべきアイディアだということができるのではないでしょうか?母親の胎内に形造られつつある胎児の中に既に与えられている驚くべき「いのちの息吹」を思う時、私たちはまず『自分自身』の取り扱いに更に注意を払うべきであり、また『人工中絶』という問題に関しても正しい態度を持つべきであると信じます。

(336) “神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。”

私が高校生だった頃、クラスに陰湿な『いじめ』がありました。当時はまだ現代のような「邪悪な暴力」はまだありませんでした。ですから通常のいじめというのは、「いつも鼻をたらしている子をちょっとからかう」とか、「ウンチをもらしたことのある子に『やーいやーい、ウンコもらし~!』と囃し立てる」など、大抵はっきりした原因があり、いじめ方もあからさまで分かりやすいものでした。ところが、私のクラスで行われた『いじめ』はそれとは少し違って、数人のグループで突然理由もなくクラスの1人をターゲットにして「無視する」というものでした。無視され始まった本人は、一体何が起こっているのかまるで分からず、初めの内は冗談だと思ってしきりに話しかけようとするのですが、それが無駄だと分かると「何か自分に原因があるのかな?」と思い始め、一生懸命に謝ったり理由を尋ねたりし、それも通用しないことが分かると段々ふさぎ込んで、しまいには不登校になる、というパターンでした。「いじめっ子グループ」はそのプロセスを楽しんで、次々とターゲットを変えていったのです。私は自分を「真面目な良い人間」だと自負していましたので、そんなグループには決して加わりませんでしたし、心の中でそのような輩をさげすんでいました。しかしある時自分の友人がそのターゲットになってしまい、私は次に自分がターゲットにされることを恐れて、友人を救うことができなかったのです。 聖書は「すべての人は神の前に罪人である」と言います。私たちは「自分はそれなりに良い人間だ。『罪人』などと呼ばれる筋合いはない!」と主張しますが、同時に「自分の心には一点の曇りもない」と主張できる人間は1人もいません。私たちはつい自分を他の人と比べながら「自分はマザーテレサほどは立派ではないかもしれないけれど、ヒットラーよりはマシなはずだ」と言い聞かせますが、神の望んでおられる『潔白(義)』のレベルにたとえ1センチ足りなかろうが、100メートル足りなかろうが、私たちは皆同じ『罪人』なのです。 しかし聖書は同時に驚くべきことを語ります。「イエス・キリストは罪人を救うために来た」というメッセージです。キリストは私たちに「正しいこと(義)を教えに来た」のではなく、私たちの代わりに正しく潔白な人生を送り、そのご自身の『義』を私たちに与える代わりに、私たちの『罪』をすべて請け負って、その身を神へのいけにえとして捧げたのです。 これが聖書が私たちに伝えようとしている最大のメッセージです。そして『クリスチャン』とは「良いことをしようとしている人たち」ではなく、このメッセージを自分のこととして受け止め、このキリストの愛に心を動かされて1日1日を精一杯生きている人々のことなのです。

(335) “あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。”

私たちは皆、自分に都合が悪い状況に陥った時に、そこから逃れるための常套手段を知らず知らずのうちに学んでいます。『言い訳』です。「だってみんなやってるんだもん」「だってこんな結果になるなんて知らなかったんだもん」「そうする以外方法が無かったんです」などなど、誰に教わったわけでもないのに、これらの『言い訳』を私たちは駆使して苦境から脱出しようとします。 もしあなたが「本当の意味での幸福」を手に入れたいなら、自分を苦境から逃れさせてくれるのに非常に便利なツールであるこれらの『言い訳』を用いる前によぉく吟味する必要があります。例えば「みんなやってることだから…」と言いますが、何故それがあなたの行動を決定する要因になったのですか?彼らはあなたが窮地に立たされた時に、あなたを助けてくれるのでしょうか?あるいは、人生の終わりの時に神の前に立たされた時「どうしてあなたはあの時あのような行動を取ったのか」と神に尋ねられたら「だって他の人たちもしていましたよ!」と答えるのでしょうか?あなたは神を誤魔化すことができるほど賢いのでしょうか? ほとんどの『言い訳』は、神から与えられている私たちの『良心』を麻痺させる力を持っています。「正しい良心を保って生きる道」を捨てさせ「悪魔の策略に順応して世渡りする術」を磨かせるのです。私たちは『言い訳』を使って危機を脱出したつもりでいますが、実は悪魔のワナにまんまとはまってしまっているのです。 『神の真理』である聖書の教えは私たちを真の意味でこれらの「目に見えない縄目」から解放してくれます。「人目を恐れる生き方」から「誰の目をも恐れずに生きられる人生」へと脱出させてくれるのです。あなたは「ほんの一瞬だけの自由」と「永遠の解放」のどちらを手に入れたいですか?

(334) “わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。”

ある人が夜道を歩いていたら、明かりがついている電柱の下で、誰かが探し物をしていたので、「どうしたんですか?」と声をかけました。するとその人が「いやぁ、酔っ払って、財布を落としてしまったようなんです」と言ったので、「それはお困りですね。では私も一緒に探しましょう」と言って一緒に探し始まりました。ところが、それほど見つけにくい場所でもないのに、探しても探しても財布は見つかりません。それで「本当にここで落としたんですか?」と尋ねると、その酔っ払った人は「いや、落としたのはもうちょっと向こうなんだけど、あっちは暗くて見えないから、ここで探してるんだよ」と答えたのです。 ちょっと笑い話みたいですが、ある意味私たちの人生の一面を表しているのではないでしょうか?私たちは人生において様々な問題にぶつかります。何とかその問題を解決したいのですが、その解決のある場所ではなく、違うところで一生懸命に解決方法を探していることがあるかもしれません。そしてその理由は主に「自分の思い込み」や「自分勝手な都合」だったりすることが多いのです。 イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も神の許に来ることはできない」とおっしゃいました。 『キリスト教』とか『教会』と聞いただけで、ほぼ反射的に「自分は宗教とは関わりたくないから、遠ざかっていよう」と思う人もいるようですが、それではまさに「落とした場所と違うところで探し物をしている」ようなものです。「人間の悟り」は暗やみの中の手探りのようなもので、見つかるはずのものも見つかりません。 あなたは『生きがい』を探していますか?「確かな人生の目的」を持っていますか?もし「揺るがされることのない人生の基盤」を探しているのなら、『キリストの光』の許に来てみませんか?

(333) “何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

「雪だるま式」ということばを使ったことがありますか?もしかしたら、もう『雪だるま』というものを作ったことのある人自体が減ってきているかもしれませんね。『雪だるま』というのは、初め小さな雪玉だったものを雪の上をただ転がしているうちにドンドン大きく成長して、大きな雪だるまの胴体になるわけですが、「雪だるま式」というのは、それと同じように、初めは割りと小さなものだったのが、みるみるうちにいろいろなものが周りにくっついてきて、思いがけず大きな物に成長してしまう様子を表現した言葉です。今日ではよく「初めはちょっとだけ借りるつもり…」だった借金が、いつの間にか返すことができないほどに大きな負債になってしまった時などに使われますね。 実はこの現象は、私たちの『悪習慣』にもあてはまります。以前もこのコラムに書いたことがありますが、悪魔という存在は、私たちを無理矢理力ずくで不幸に陥れるようなことはしません。ただ「私たちの思いの中」にほんのちいさな種を蒔くだけです。「あんな洋服が欲しいなぁ」「あの娘のおっぱい大きいな」「どうしてあの人ばっかりチヤホヤされるの!」そんなちょっとした私たちの日常に起こり得る『思い』を、私たちが毎日繰り返し思い巡らしたりしていると、それがだんだん「私たちの思いの中」で増幅されて、やがては「あのお店の店員さんは席を外していることが多いから、盗んでもバレないんじゃ?」「あの娘は塾の帰り、よく暗い道を1人で歩いているな」「あの人さえいなくなれば、皆の注目は私に集まるに違いない!」などという危険なアイディアへ「雪だるま式」に成長し、最終的に『盗み・強姦・殺人』などの結果へと至らせてしまうのです。 では一体、私たちはどのようにしてこの『悪魔の策略』に対抗すれば良いのでしょう。それはまず「頭の中で考えるだけなら罪ではない」という考えを改めることです。イエス・キリストは「情欲をもって異性を見たならば、その人は既に姦淫を犯した」とおっしゃいました。「そんな無茶な!」といいたくなりますが、確かに『悪魔の策略』は既にそこから始まっているのです。 イエス・キリストにある『救い』を受け入れると、神様から「新しい心」が与えられます。それは『悪魔の策略』に対してとても敏感な心です。いってみれば「若い女性がゴキブリに対して示すような拒否反応」とでも言いましょうか。このような『悪に対する敏感な心』をもって私たちの思いを見張りながら、悪魔の蒔いてくる「悪い思いの種」を振り払って行くこと、これが私たちを『いのちあふれる人生』へと至らせるのです。

(332) “御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。”

聖書の中には『天使』というものが登場しますが、『天使』とは一体何者なのでしょう?私たちは『天使(英語では[エンジェル])』というと、何か「美しくて優しい存在」をイメージしますよね?以前はよく看護婦さんたちを「白衣の天使」などと呼んだりしました。(ちなみに、私の姉と義理の妹、そして娘は『看護師』ですが、確かに皆「美しくて憐れみに満ちた」人たちです!) これはアメリカのネバダ州で起こった実話ですが、デビーさんという若い女性がとても見晴らしの良い町外れの国道を車で走っていたところ、何とガス欠になってしまったそうです。どうして良いか分からず、神様に助けを求めて祈っていたところ、大きなトラクターが通りかかり、運転席からいかにも力の強そうな大男が出てきました。彼は困った顔をしている彼女を見て「お嬢さん、何かお困りですか?」と尋ねました。恐る恐る事情を話すと、彼は「なるほど。それじゃあオレのトラクターに乗せて近くの給油所まで連れてってやるよ」と親切に申し出てくれました。でも考えてみてください。人里離れた場所で「若い女性と大男2人きり」。あなたならどうします?彼女は戸惑いつつ心の中で神様に「この人について行って大丈夫でしょうか?」と祈ったそうです。するとかすかな声で「わたしが彼を遣わしたのだ。恐れないで彼について行きなさい」と言われた感じがしました。他になす術もなかったので、彼女は彼のトラクターに乗り込みました。道すがら彼は彼女に身の上話をしました。「オレはついこの間まで刑務所にいたんだ。でもそこで牧師さんからイエス・キリストの話を聞かされて、それまでの悪事を悔い改めてキリストに従う決心をしたら、人生が180度変わったんだよ!」 給油所でガソリンを買って彼女の車まで戻り、ガソリンを入れると、彼は別れを告げてトラクターに乗り込みました。ホッとして自分の車に乗り込んだ彼女は、もはや彼のトラクターがどこにも見当たらないのに気付いたそうです。スピードの出ない大型トラクターが、この見晴らしの良い国道のどこにも見当たらないなんて・・・ どうやら『天使』は「美しくて優しそうな外見」だけでなく、もっといろいろなバージョンで私たちの人生に関わってくれるようですね。

(331) “思いを新たにすることで、自分を変えていただきなさい。”

ある詩人が書きました。「2人の男が拘置所の中から鉄格子を通して外を眺めていた。1人は地面を眺めて絶望の溜め息を吐き、もう1人は星空を眺めてうっとりと溜め息をついた。」2人は全く同じ状況の中で、全く違った気持で過ごしていたのです。 私たちはしばしば自分の人生が思うように運ばないのを、自分が置かれた状況や生い立ちのせいにします。しかし実際に私たちの人生を大きく左右するのは、環境や持っている物ではなく、『心の態度』です。日々の生活の中で私たちが出会う出来事を私たちは選ぶことができません。しかし「その出来事をどう捉えるか」を選ぶことはできます。よく言われることですが、コップに半分くらい水が入っているのを見て、ある人は「もう半分しか残っていない…」と捉え、別の人は「まだ半分も残っている!」と捉えます。これが大きな分かれ目なのです。 では、一体どのようにしてこの『心の態度』を変えることができるのでしょう?それは、世界一ポジティブな方であり、私たちの心も体も造り出された方である『神』との交流を通してです。日本の古いことわざにも「朱に交われば赤くなる」という言葉があります。人はいつも見ているもの・触れているものに似てくるのです。神はあなたが「人生の敗者のように生きること」を望んではおられません。彼は今日も私たちに「強く雄々しくあれ」と励ましてくださるのです。ぜひ朝ごとに次のように神に祈ってみてください。 「神様、どうか私が出来事のポジティブな面にいつも目を向けることができるように、私を変えてください。」

(330) “わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。”

「天国は、ほんとうにある」(原題:Heaven is for Real.)という映画をご覧になったことがおありでしょうか?実話に基づいた映画で、たった4歳のコルトン・バーポという少年が急性虫垂炎のために生死の境をさまよった経験を通して、天国の光景を垣間見たことを証言した話が元になっています。 彼は彼自身が意識不明に陥っている間に彼の両親がどんな様子でいたのかを覚えていて、後にそれを両親に話してビックリさせました。また彼は「自分が『天国』に行っている間に出会った人々」のことをも両親に話し、更に両親を驚かせました。何故ならそれらの人々(彼の祖父母たち)はコルトン少年が生まれる前に既に亡くなっていたからです。 またある日彼はお母さんに言いました。「ママのお腹の中で死んじゃった赤ちゃんがいたでしょ?その人はボクに『私はあなたのお姉ちゃんよ』って言ってたけど、とっても優しい人だったよ。」これを聞いて母親は驚きのあまり言葉もありませんでした。彼がまだ幼かったので、上の子を流産したことなど話したことは無かったのです。母親は尋ねました。「一体誰があなたに、ママの流産のことを話したの?」コルトンは答えます。「お姉ちゃん自身だよ。お姉ちゃんが『私は地上では生まれることができなかったけど、今は天国で元気にしてるから心配しないでって、ママに伝えてね』って言ってたよ。」母親は目を輝かせながら尋ねました。「そのお姉ちゃんは名前を何て言ってた?」「名前は無いって言ってたよ。ママたちはお姉ちゃんに名前を付けなかったんだね。」その通りでした。彼らは娘を亡くした辛さのあまり、名前を付けることができなかったのです。そしてコルトン少年は最後にこう付け加えると、庭へ遊びに行ってしまいました。「そうそう、お姉ちゃんが、パパとママに会える日が待ちきれないって言ってたよ!」 これは私たちにとっても同じです。先に天国へと旅立って行った家族や友人たちは、皆揃ってあなたに再会できる日を心待ちにしているのです。昨年11月に天へと召されて行った私の母も同様です。そして誰よりも天国でのあなたとの出会いを待っておられるのは、他ならぬ私たちの主イエス・キリストなのです。

(329) “聞く耳のある者は聞きなさい。”

「神は人間に口を1つ耳を2つお与えになった。それは語るより2倍聞くためだ」などと言う人がいますが、その通りかもしれません。しかし実際は『聞き上手』な人はあまり多くありません。 「良い聞き手」は「良い習い手」でもあります。私たちはしばしば、今の状況を打開する良いアイディアや、人生に祝福をもたらす秘訣を探し回りますが、「しっかりと聞くため」に時間を割こうとはしません。これは大変もったいないことです。 では「良い聞き手となるコツ」にはどんなものがあるのでしょう?下記の3つのことが言えると思います。 ①邪魔物を取り除く ・よくスマホを見たり、他のことに気を取られながら人の話を聞く人がいます。これは最も初歩的なミスです。「話を聞く」というのは「話し手に全神経を集中する」ということです。 ②話をさえぎらない ・相手の話の途中で、たとえどんなに助言をしたくなったり、言葉を付け加えたくなったりしても、相手が話し終わるまでしっかり聞き続けましょう。多くの場合「話している内容そのもの」よりも、相手が「自分は聞いてもらえている」と感じることの方が重要なのです。 ③結論を急がない  ・相手の話に対する『自分の考え』を告げるのは、相手がすべてを伝え終わるまで待ちましょう。日本人は特に『本音』をなかなか話そうとはしません。早急にこちらの考えを発言してしまうと、相手が「本当に伝えたかったこと」を聞かせてもらえずに終わってしまうかもしれません。  「あの時もっとちゃんと聞いてあげれば良かった…」という思いがよぎったアナタ!生きている限り『遅すぎる』ということはありません。今日から『聞き上手』を目指しましょう!

(328) “主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。”

私たち家族は、これまでにかわるがわる延べ25人くらいの他人と暮らした経験があります。そんな中で共に暮らした人たちからよく言われたのは「ここにいると『素のまま』でいられる」という言葉でした。私たちにとっては大変嬉しい「ほめことば」だと私たちは解釈しています。そしてその『素のまま』で共に過ごした人々は総じて、信仰においても人格においても大きく成長してこの家から巣立って行ったのです。 『住まい』とは「ありのままを受け入れてもらえる、心からリラックスできる場所」であるべきです。そういう意味では「家ではあまりくつろげない」という人はかわいそうだと思います。『ネグレクト』や『幼児虐待』などによって子供の頃から「『我が家』においてありのままを受け入れられる経験」を持てなかった人々が人格的に障害を負ってしまうのは当然です。 イエス・キリストを通しての『救い』を体験し、聖書の約束にあるように『神の子供』とされた人々は皆、その体験を通して「帰るべき場所に戻ってきた、と感じた」といいます。たとえこの世的にどんな『成功』を味わっていたとしても、神の許に戻ってくるまでは、誰もが『迷える子羊』なのです。 イエスは「わたしは『失われた人』を捜して、救うために来た」とおっしゃいました。今日あなたが「自分は神の前に失われている」と認めキリストの許に来るならば、真に帰るべき場所『神の住まい』に憩う者となるのです。

(327) “人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。”

牧師という仕事柄、いろいろな方々とお話をする機会があります。そしてたまにこんな質問をされます。「シブケン(日本人の方々の間ではこう呼ばれています)の趣味は何ですか?」こう訊かれると少々返事に困ってしまいます。家族でボードゲームをしたり、友人たちとスポーツをしたりするのは好きですが『趣味』と呼べるほどのものでもありません。「何かをすること」よりも「誰かと一緒にいること」が好きなのです。いわば私の『趣味』は「人と一緒に時間を過ごすこと」なんです。 今までいろいろな国に住み、様々な種類・国籍の方々と知り合ってきました。その結果言えることは「人間とは実に面白くて美しい」ということです。聖書のある箇所では「人間は神の創造物の中の最高級品である」というような表現もありますが、まさにその通りであると思います。きっと神様も「人間のことが1番好き」なのだと思います。もしかすると、私が人を好きでたまらないのは、神様が私を通して人を愛したいと思っておられることの現れなのかもしれません。だとしたら、たまらなく光栄なことです。 もちろん世の中には「悪人」と呼ばれる人や「意地悪な人」もいます。私にとっても『苦手なタイプ』がないとは言えません。でも相変わらず『人』というものに魅力を感ぜずにはいられません。「この人はちょっと…」と感じていた人も、じっくり話してみると実はなかなかの好人物だった、ということもよくありました。 世間は『プログラム』『イベント』『業績』などに注目するかもしれませんが、2019年は『人』に注目しながら生きてみてはいかがでしょうか?

(326) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。”

物に溢れている時代です。多くの情報に翻弄されやすい時代です。価値観が多様化している時代です。私たちは今や「1つのことに集中する」ということがとてもしにくい時代に住んでいるということができるのではないでしょうか? 聖書には「心を尽くして」という表現がよく見られます。「心を尽くして神を愛する」「心を尽くして主に信頼する」「心を尽くして神を捜し求める」などなど、どうやら神というお方は、私たち人間が「いろいろなことに関わりながらその片手間に求める」ことによっては見い出すことのできない存在であるかのようです。 本来人間は「真に価値ある物と向き合う時」には、脇目をふらず一心不乱に集中するようにできていると思います。妊婦が出産する時のことを思い描いてみてください(出産経験がある方には、その必要は無いでしょうが…)。出産のためにいきんでいる最中に、「そう言えば昨日の夕食に何を食べたっけ?」などと考える余裕があるでしょうか? 神はアナタの人生のために崇高なご計画をお持ちです。しかしそれを見い出すためには「心を尽くして求める」ことが必須です。ひたすら神に祈り求め、ひたむきに神のことばである『聖書』と向き合い、自分を周囲と比べたりすることなく、真っ直ぐ前を向いて、この新しい年を進んで行きましょう!

(325) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

前回に続いて「実際にあった話」です。 何年も前の話ですが、ペンシルバニア州にある1つのダムに関しての調査がなされ「数年の間に決壊する恐れがある」との結果が出されました。このダムの下流には数千人の集落があったので、直ちに調査結果が町の役所に報告されましたが、役人たちは「そんなことは大昔から言われているが、実際に起こったためしがないから信じませんよ。」と聴く耳を持ちませんでした。その1年後、再度調査が行われ、やはり極度の危険が確認されたため技術者たちが、今後は役人たちだけではなく住人たちにも「あなたがたはいつ大洪水に見舞われるか分からない。直ちにこの場所を立ち退くべきである。」と警告しましたが、それを聞いた人々はあざ笑いながら「そんな風に脅かしたって、誰もこの場所から出て行きはしませんよ。」と取り合いませんでした。その数ヵ月後、技術者たちは懲りることなく警告を発し続けましたが、やはり退けられました。その2週間後に、住人の1人である少年がダムに亀裂が入っているのを発見し、馬に乗って急いで町の中を駆け回りながら「大変だよ!ダムが壊れかけてるよ!急いで避難したほうがいいよ!」と叫んで回りましたが、住人たちは「そんな嘘をついて脅かそうったって、そうは行かないぞ」と笑い飛ばしていました。するとまもなく大洪水が集落に押し寄せ、たった30分もしないうちに3700人もの住民たちが流されて亡くなってしまったそうです。 新しい年がやってきました。この年を過去最高の1年とするために、ぜひ「人々からの忠告」また「聖書のアドバイス」に耳を傾けましょう。

(324) “わたしの恵みは、あなたに十分である。”

これは本当にあった話です。 アメリカの西海岸で『ゴールドラッシュ』が騒がれていた頃、1組の若いカップルもこの勢いに遅れを取るまいと、親から受け継いだ農地を含めた全財産を売り払って西へと向かいました。ところが、掘れども掘れども金には巡り会えず、とうとうすべてを失ってしまい、やむなくヨーロッパへと渡って再び初めから人生をやり直しました。何年も経ってから、彼らが再び新天地を求めてアメリカへと戻った時、以前自分たちが住んでいた古い農地はどうなっているだろうかと訪れてみたところ、何とその一帯は鉄条網に囲まれて堅くガードされていました。一体どういうことかと尋ねてみて分かったことは、実は彼らがその地を離れた後、彼らの農地の地下に「全米2番目の規模の金鉱」が発見されたということでした。そしてその地域一帯は現在政府の管理下となっていたのです。 「自分にもっと才能があったなら…」「もっとお金があったら…」「もう少し状況が整ったなら…」多くの場合私たちはそのように思います。しかし実際には神様は既にあなたに十分なリソースを与えてくださっているのです。ところが私たちはしばしばそれらを探ろうともせず『無い物ねだり』ばかりしているので、せっかく与えられているものを見つけることも、育てることも、活用することも忘れてしまうのです。多くの場合「神様から与えられている才能や可能性」というものは『種』のような存在です。その価値を見出し、注意深く育む必要があります。ところが私たちは初めから『完全形』のものを捜してしまっているので、せっかくの神様からの「素晴らしい贈り物」に気が付かないでいるのです。 この年末年始のお休みに、来年からの新たなスタートのための備えとして、もう1度じっくりと「自分に既に与えられているもの」を探ってみてはいかがでしょうか?

(323) “だれでも、手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません。”

「時は金なり」という言葉がありますよね。「時間はお金のように大切だ」という意味に用いられると思いますが、実際は『時間』の方がお金よりよほど大切です。何故ならお金なら失ってもまた何らかの方法で手に入れることもできるでしょうが『失われた時間』は2度と戻っては来ないからです。『偉大な決断』は立派ですが、それに『行動力』が伴わなければ何の価値もありません。 以前アメリカの名門エール大学において1つの実験が行われました。大学の講義で『破傷風』の予防接種の重要性が説かれ、学生たちに「校内のヘルスセンターで無料で受けられるから、自主的に受けに行くように」とアナウンスされたのです。何パーセントの学生が実際に受けに行ったと思いますか?何とたった3%だったそうです。学生たちは「確かに自分は予防接種を受けに行くべきだ」と自覚したにも関わらず、その決心を行動に移さなかったのです。ところが別の講義グループでは、予防接種の重要性を伝えると共に、キャンパスの地図が配布され、地図上のヘルスセンターの位置が赤丸で示されました。すると30%近くの学生が予防接種を受けに行ったそうです。 『後回しにする』というのは、想像以上の「悪癖」です。「完璧にこなせる保証がない限り挑戦しない」というような姿勢で人生を送るなら、もしかしたら何も成し遂げることはできないかもしれません。人生とは『失敗』から学ぶものです。『偉人』と呼ばれる人々は皆、数え切れないほどの失敗を重ねた後に、本に載るような偉業を成し遂げたのです。さあ、何もモタモタしているんですか!志が与えられたなら(それが邪悪なものでない限り)迷わずに行動を起こしてみましょう。もし初めからうまくいかなかったとしても、それは『失敗』ではなく『学習』です!

(322) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

美しい星空や夕焼け雲を見て感動を覚える方々は多いと思います。そして聖書は、これらの美しさはその背後に『偉大な創造者(デザイナー)』がいることを想起させるためだ、と述べます。かの有名な物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。宇宙(大空)は聖書同様に創造者である神を分かりやすく証ししている、というわけです。 改めて考えてみると、全宇宙はこの「偉大なデザイナー」としての神を想起させるものに満ちています。例えば、私たちが生きているこの地球は太陽から約1億5千万キロメートル離れていますが、これが少しでも太陽に近ければ私たちは焼け死んでしまうし、遠ければ凍え死んでしまうのです。また誰もが知っているように地球は驚くべきスピードで自転していますが(何と時速およそ1700キロ!)、もしこれが半分のスピードだったりしたら、太陽に向いている側は焼け焦げてしまい、陰になっている側は凍ってしまうのです。 神を信じない人々は、これらすべてを「偶然」とか「進化」などと呼ぶようですが、「背後に偉大なデザイナー(神)がいる」と考えた方がはるかに妥当であると言えるのではないでしょうか?

(321) “神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。”

先日母が他界しました。『他界』ということは「別の世界へ行った」ということですよね。実際、母は「死んでしまって『無』に帰してしまった」わけではなく、私たちが生活している『この世』よりもずっと素晴らしい「悩みも苦しみもない『天国』」へ移されたわけです。実に羨ましい限りです。 神は私たち人間を「滅ぶべき者」としてではなく「永遠に存在する者」としてお造りになりました。本来私たち人間は「永遠に神との親しい交わりの中に生かされ、愛と喜びと平和に満たされて生きるべき存在」でしたが、私たちが『神』よりも『自分自身』を人生の王として生きることを選んだため、神と隔絶されて「この世の与える『一時的な満足』に慰めを見い出す存在」へと成り下がったのです。 ところが神は私たちへの深い愛の故に、私たちをもう1度本来の「永遠に神との交わりの中で生きる存在」へと回復されるために、救い主キリストをお遣わしになられたのです。従って、このキリストを自分自身の救い主として受け入れる者は『永遠のいのちの祝福』にあずかり、彼を拒む者は「永久に神から隔絶され、『永遠の死』の苦しみにあえぐ」ことになるのです。 先日あるクリスチャンの女性がこんなことを言っていました。「以前私はよく周囲の様々なできごとに煩わされていました。都合が悪いことが起こると、『このまま物事がドンドン悪い方向へ行ってしまうのではないか』と恐ろしくなって、眠れなくなってしまうこともありました。でもある時ふと『神様は永遠に私から離れることがないのだから、何も心配する必要はない』ということが示され、『あぁ、この世でどんなことが起ころうとも、所詮永遠に続くわけではないのだから、問題ではない。本当に大切なものは、神様から与えられる永遠のものだけなのだ』と、深い平安が心にやってきたのです。」 あなたはこの『永遠の神との関係』の中に、もう生かされていますか?

(320) “明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”

多くの人が「自分の将来」を知りたがります。そして様々な占いなどに頼って一喜一憂するわけですが、実際は占いの結果が良ければ良かったで「本当にそうなるのだろうか?」と心配したり、結果が悪ければ「そんなはずはない!」と言いながら、どうしても不安がぬぐい去れなかったりしてしまいます。結局不安な気持に陥るのであれば、占ったりしない方が良かったのではないでしょうか? 神様はどうして私たちに「将来を知る力」を与えなかったのでしょう?恐らくその理由は、私たちに『今』を精一杯生きて欲しかったからではないでしょうか。「将来を知りたがる人」というのは大抵「現状に満足していない人」です。きっと『今』を喜べないから『将来』に希望を見い出そうとするのでしょう。でも前述のように、確証のない未来を思い浮かべてみても、結局は「今を喜ぶ」という人生に至ることはできません。 私は「人の将来というものは、『今』の積み重ねによって造られる」と信じています。神様は私たち1人1人の人生を既に決めてしまっているのではありません。もちろん私たち1人1人のために『最高の計画』を立ててくださっていますが、それは「私たちがどんなに適当に暮らしていても成就する」という類のものではなくて、「私たちが神のみこころを捜し求めながら、日々自分が生み出し得るベストをささげて生きて行く」中で開かれて行くものに違いありません。そういう意味では、もしあなたが試練の中にあるならば、それはまさに「神から与えられたテスト」であって、神はきっとあなたがその試練の中で『逃げ腰』に生きるのか、それとも「神に助けを求めつつ『前向き』に進んで行こうとするのか」をご覧になっているのです。そしてそれら1つ1つの試練は、私たちが『更に優れた将来の自分』となれるようにと備えられた、神の愛の証なのです。

(319) “わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

英語で『ライフ(Life)』というと、日本語で言う『いのち』と『人生』という全く別の2つのものの両方を表す意味があります。私たちは『いのち』と聞くと「生物学的・医学的ないのち(生命)」を思い浮かべ、『人生』と言われたら「人間1人1人に与えられた生き様」を想起します。 聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる者には『永遠のいのち』が与えられると教えています。これを前者の「生物学的ないのち」として理解する人の中には「この世で80年生きるのだって退屈なのに、『永遠のいのち』なんてもらっちゃったら、退屈で仕方がない!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、この『永遠のいのち』という言葉で表現されているものは「神と共に生きる人生」のことであり、それはイエス・キリストを信じた瞬間から与えられ、この世においても日々成長して行く「生き生きとしたいのち」であり、永続的にもたらされる『喜び』『平安』そして「天地創造の神に100パーセント受け入れられている」という充足感に満ちた日々を生きることなのです。 多くの人々は「お金」「家庭」「生きがい」などといったものが人生を豊かにすると思っているようですが、実際に私たちが心の奥底で激しく欲しているものは「尽きることのない喜び」「状況に左右されない心の平安」「自分は確かに必要とされている、という確信」そして「何かを失ったり、失敗したりしても、相変わらずありのままを受け入れられている、という確固たる安心感」ではないでしょうか?神がイエス・キリストを通して私たちに与えようとしておられる『永遠のいのち』には、まさにそういったものがすべて含まれているのです。

(318) “小羊(イエス・キリスト)のいのちの書に名が書いてある者だけが、そこ(天国)に入ることができる。”

1912年のある夜、至上最大の豪華蒸気客船『タイタニック号』が北極海に沈み、多くの犠牲者を出しました。「沈没することはあり得ない」とまで言われていたタイタニック号であっただけに、その反響は当時ものすごく大きなものでした。 この大惨事の後、リバプールにあった「ホワイトスター観光事務所」の入り口には、この豪華客船に乗船していた方々の家族や友人たちが殺到しました。何故ならその入り口の両脇に、片方には「死亡者リスト」、もう一方には「生存者リスト」が貼り出されたからです。そして更なる死亡者・生存者が確認されるたびに、事務所の係員が出てきては、その名前を書き足すのでした。『生存者リスト』に自分の知り合いの名前が書かれるのを見た人々は歓喜し、『死亡者リスト』に書かれるのを見た人々の顔には絶望の涙が流れたのです。 実はこの話は何も『他人事』ではありません。聖書ははっきりと「やがて来る世の終わりには、『小羊のいのちの書』にその名が書いてあるか否かで『天国行き』もしくは『地獄行き』が決まる」と書いてあります。そしてこの『小羊のいのちの書』に名前が書かれるかどうかは、私たちの学歴や業績とは全く関係がなく、ただ「あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死なれた『イエス・キリスト』を、自分の救い主として信じているかどうか」にかかっているのです。 タイタニック号の大惨事で生き残ったかどうかは、それぞれの学歴や業績とは全く関係ありませんでした。(もっとも、そうとうのお金と暇が無ければこの船には乗れなかったでしょうが…)しかし乗船していた全員に共通していたことがあります。それは、自分たちがそんな大惨事に直面しているなどとは夢にも思っていなかったことです。あなたも「『世の終わり』なんて来る訳がない。どうせ死んでしまえば何もかも同じ。今さえ楽しければ、それで十分!」と思っているでしょうか?『その日』は思いがけない時に訪れてくるものなのです。もし今日その準備をすることができるのだとしたら、それを怠ることは賢いことと言えるでしょうか?

(317) “父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。”

イエス・キリストが人々に『祈り』を教えられた時、まず「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように言われました。実はこのように神を親しく「我らの父」と呼ぶ習慣は当時のユダヤ人たちの間ではあまり一般的ではありませんでした。彼らにとって『神』という存在はむしろ「厳格で近寄りがたく、超越した存在」という意識があったようです。ところがイエスはそんな『神のイメージ』を一新させたのです。 もしかすると現代の多くの人々にとって『父親のイメージ』というものも、あまり慕わしいものではないのかもしれません。特に「放任主義の家庭」また「虐待の経験がある子供時代」に育った人たちにとっては『父親のような神』などは全く欲しくないものに感じられることでしょう。でも、この『天の父』は私たちのそんな歪んだイメージを一新させる「愛とあわれみと力に満ちたお方」なのです。 「父なる神がどれほどに良いお方か」をいつもイエスから聞かされていた弟子のうちの1人が、ある時我慢できなくなって「イエス様、ぜひ私にも『父』を見せてください!」と懇願すると、イエスはこうお答えになりました。「こんなに近くにいたのに、あなたはわたしを知らなかったのかい?わたしを見た者は『父』を見たのだよ。」 そう、父なる神は「ご自身を人々に正しく理解して欲しいがため」に、ご自分のありのままを人のかたちにして地上に来られた、それがイエス・キリストなのです。私たちが『父なる神の正しいイメージ』をもって生きるためには「聖書を通してより深く『イエス・キリスト』と出会うこと」が最善の道なのです。

(316) “私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。”

先日、教会のメンバーの方のお葬式を行いました。クライストチャーチに来てから最初の、自分が担当したお葬式でした。7年半前の『カンタベリー大震災』の時には多くの日本人の犠牲者が出て、その時はいわゆる「見ず知らずの方々」のために葬儀を担当させていただきましたが、長年こちらで一緒に信仰生活を歩み、親しい付き合いのあった方々の葬儀に携わったのは今回が初めてでした。何人かの(NZ人の)先輩の牧師たちには「10年間牧師として働いてきて、今回が初めてのお葬式とは、ずい分ラッキーだったね」などと言われてしまいました。 彼女(亡くなられた女性)はNZ人のご主人に嫁ぎ、私たち家族がクライストチャーチに来るより前からこちらに住んでおられました。ご主人もクリスチャンだったので、午前中の英語の礼拝と午後の日本語の礼拝のどちらでも顔を合わせ、時には一緒に食事をすることもありました(年齢も私たち夫婦とさほど変わりません)。実は私たちがクライストチャーチに来る少し前(2007年くらい)にガンを発病され、放射線治療などを経てそれを克服した経験があったので、私たちが来た当初は、毛が抜け落ちた頭を覆うように、いつも素敵な帽子をかぶっておられました。そのガンが2年前に再発し、教会の皆で祈り続けてきましたが、とうとう天国へと凱旋して行かれたのです。 告別式の時に、彼女の残した日記の一部が公開され、そこには下記のような文章が遺されていました。 「2018年7月27日(金)(ホスピス病棟にて)。私はクリスチャンになってからも自分の中にあるプライドや人々に対する批判的な態度から完全に自由になることができませんでした。それは自分がどこかでそれらをしっかりと握り締めていて、神様に明け渡すことができなかったからに違いありません。ところが、自分の弱さや死を目前にした絶望感にさいなまれている中、ついさっき(夜中の2時頃)イエス・キリストがすぐ近くにおられる、という感覚に覆われたのです。すると不思議なことに、すべての不安や恐れ・悲しみが一瞬のうちに消え去り、なんとも言えない安らぎに満たされました。それは『このお方と一緒にいられるなら、他には何もいらない』というほどの感覚でした。そして気が付くと、それまでいつも私の心の中に巣食っていた苦々しい思いから完全に自由にされていることが分かったのです。」 告別式には、クリスチャンではない方々も多く集われましたが、式の後に何名かの方々は「このような葬儀は見たことはない。死を目前にしながら、どうして皆あのように希望と明るさに輝いていられるのか?」と感想を述べておられました。 誰も『死』から逃れることはできません。『死』というものはすべての人間に平等にやってきます。しかし唯一この『死』を打ち破りよみがえられたイエス・キリストに希望を置いて生きる時、私たちは『天国』という永遠の国籍を抱いて生きることができるのです。

(315) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

私たちは人生の過程で様々な『変化』を経験します。その中には「自ら買って出る変化」もあれば、「自分では願っていなかったのに、避けることのできなかった変化」もあるでしょう。ところがこの「願ってもいなかった思いがけない変化」が思いもよらない良い結果を生むことがしばしばあるのも事実です。では何故私たちはそのような『変化』を歓迎したがらないのでしょうか?それは元来人間が「習慣的に生きる」ことを楽に感じるからです。 私たちは実に多くのことを『習慣的に』行っています。朝起きて顔を洗う。食事の時にまずお味噌汁を飲む。靴は右足から履く。ランチは近くのコンビニでサンドイッチを買う。お風呂で体を洗う時は首から洗う。などなど。これらをいちいち「えーと、今日はどちらの足から靴を履こうかな?」「体をどこから洗おうかな?」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りなくなります。「習慣性」って、実に素晴らしいですよね?これが例えば「朝起きたら断水していた」とか「サンドイッチが売り切れていた」などのハプニングがあると、とたんに生活のリズムが狂うわけです。通勤電車の遅れやインターネットの接続不良などが起こるとすぐ「キレて」しまう人がいるのも現代の特徴の1つでしょう。 ところが、もし人生がすべてこのように『習慣的に』進められてしまったら、進歩がなくなってしまうというのも事実です。「生活の改善」や「私たちの人格的成長」は、ある意味『強制的な変化』に伴ってやってくるものなのです。別に『変化』を大好きになる必要はありませんが、それらを肯定的に受け止め「成長のための栄養」としていくことは大切です。 神様は私たち人間を『現状維持』のためには造りませんでした。「日々成長するように」お造りになったのです。それ故、神様は時々私たちの人生に「避けられない変化」を送られる時があります。それらに対して私たちはつい「神様どうして?!」と呟いたりしてしまいがちですが、そこにも私たちに対する『神様の愛』を見い出すことができたら、人生がより輝いて見えるようになるのではないでしょうか?

(314) “今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。”

戦後のベビーブームとは対照的に、現代の日本は様々な理由により「子供は1人」と決めている家庭が多いようです。そればかりではなく、その「たった1人の大切な子供」を可愛がろうとするがあまり「できるだけ苦労や冒険をさせないで、必要なもの(時には『必要以上のもの』)はすべて与える」という方針で、万事整った環境の中で子供を育てようとする傾向があります。しかしそれらの『理想的な環境』というものが、必ずしも子供たちの成長のために役に立つわけではありません。 とても残念なことではありますが、この世の中で生きていく上では、様々な問題や困難、そして「思った通りに事が運ばないこと」が多々あります。もし子供時代の成長過程でそのような挫折を経験することなく育つなら、一体彼らはどのようにしてそれらの試練を克服する術を身に付けるのでしょうか? 熱帯雨林に育つ木々は、その水分に恵まれた環境の故に「地中深く根を伸ばすこと」を学ぶことなくグングン成長します。それ故少しでも強い風が吹くと簡単になぎ倒されてしまうのです。ところが砂漠に生息する『メスキート樹』と呼ばれる木の根は、水分を求めてあえぎながらじっくりと時間をかけ、地中深く10メートル以上も根を伸ばします。その結果様々な厳しい自然現象の襲撃にあっても、依然として立ち続けることができるのです。 私たちの大切な子供たちも同様です。立派な次世代を育てて行くために必要なのは「できるだけ苦労をさせないこと」ではなく、むしろ敢えて彼らが困難や挫折を経験することを許し、そしてできるだけその現場に一緒にいて声援や必要な援助を送りつつ、彼らがそれらの試練を自分で克服して行くのを見届けてあげることです。そして実はこれこそ私たちの『天の父である神』がご自身の愛する息子・娘たちにしてくださっていることなのです。

(313) “ある役人が、イエスに質問して言った。「先生、私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか?」”

これは、ある金持ちの若い役人がイエス・キリストの許に来て尋ねた質問です。これに対しイエスは「聖書の戒めならあなたもよく知っているでしょう?それらをよく守りなさい。」とおっしゃいました。しかし実際この役人は忠実なユダヤ人で、幼い頃から『聖書の戒め(盗むな・殺すな・姦淫するな、など)』を注意深く守っていたにも関わらず、未だに「神からの賜物としての『永遠のいのち』」を受けていると実感できなかったのです。一体何が足りなかったのでしょう?それは『規律』に捕らわれすぎて、それをお与えになった『神ご自身』から離れてしまっていたからです。 『永遠のいのち』とは、単に「私たちを永遠に生きながらえさせて、天国に至らせてくれる命」という意味ではありません。むしろそれは「時を越えて永遠に存在される『神』と心を通わせながら生きること」に他なりません。だからこそ、そのいのちは「ルールを守ること」によっては得ることができないのです。 イエスはこの後この金持ちの役人に「あなたの持ち物を売り払って人々に施し、そして私について来なさい」とお招きになりましたが、役人は「悲しみながら帰って行った」と記されています。彼はイエスについて行くことを拒んだのです。彼は単に「多くの財産を所有していた」だけではなく、むしろそれらの財産に「所有されて」しまっていたのです。自分の持っている物を惜しむ心が『本当に大切なもの』を得ることにブレーキをかけてしまったのです。 神は今日あなたのことをも、神との『永遠のいのち』の関係へと招いておられます。あなたがこの『神からの招き』に応えることにブレーキをかけているものが何かありますか?

(312) “私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。”

多くの『宗教』やキリスト教の異端的な教えは「個人の努力」を強調します。これは私たち日本人のメンタリティーに受け入れられやすいため、日本には実に様々な新興宗教がはびこる傾向があるのではないでしょうか?しかし本当に大切なのは「自分の考えに合うかどうか」ではなく「真理なのかどうか」です。どんなに時間や労力(時にはお金も…)を費やしたとしても、その教えが真理から外れていたら、結局は正しいゴールに到達することはできません。後になって「こんなはずではなかった…」と嘆いても時遅しです。 私たちの人生で重要なのは「達成レベル」ではなく「正しい方向性」です。どれだけ早く階段を昇って行ったとしても、間違ったゴールへ向かっているのだとしたら、それは人生の浪費にしか過ぎません。逆にたとえ「正しいゴール」を見定めるのに多少の時間がかかったとしても、正しい方向へ1歩1歩進んで行くなら、必ず目指している目的地に辿り着くのです。 では私たちはどうやってこの「正しい道(真理)」を見分けたら良いのでしょうか?残念ながらそれは『人間の努力』では不可能です。それができるのは「私たち人類を創造し、本来の生き方へと導いてくださる全知全能の神」だけです。この神を認めようとせず「自分勝手な考えで道を切り開こうとする」私たちの態度を、聖書は『罪(元々の意味は「的外れ」)』と呼んでいます。 イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父(神)の許に来ることはありません。」とおっしゃいました。言い換えるなら、神はこのイエスを通して私たちを「正しい方向(真理)」へと招いておられるのです。私たちが自分勝手に設定する方向ではなく、すべてをご存知の神の側から示してくださっている道を辿る人生、これこそが聖書が私たちに提供してくださる『救いの道』なのです。そしてイエス・キリストは、信仰によってその『真理の道』を選び取る者1人1人と共に人生を歩んでくださるのです。

(311) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。”

あなたは床に置いた「50センチ幅の板の上」を5メートルの距離に渡って歩き通すことができますか?恐らく問題なくできることでしょう。ところがもしその板を上空20メートルの高さに据えたとしたら、それでも同じように歩き通すことができるでしょうか?きっと「それはできない!」と言うに違いありません。何故なのでしょう?あなたには確かにその幅の板の上を歩く能力があるのです。一体何があなたに「できない」と言わせるのでしょうか?それは『恐れ』があなたの心に入ってきたからです。『恐れ』は私たちに本来与えられている素晴らしい可能性を一瞬にして奪ってしまう力を持っているのです。 聖書には、神から私たちに向けての「恐れるな!」という言葉が365回出てくると言われています。あたかも神が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。神はご自身が私たち人間にお与えになった豊かな人間性が『恐れ』というものによって十分に発揮されなくなってしまうことを知っておられるのでしょうね。 実際ある統計によると、私たちがつい恐れてしまうことの95パーセントは「確かな根拠のないもの」だそうです。そして残りの5パーセントは「私たちが人生をより良く生きていく上で乗り越えていくべき試練」なのだそうです。確かに人生には試練がつきものです。だからといって「自分は危険な目に遭いたくないから、一生自分の部屋の中で過ごす」などと言ったら、その人の人生は全く意味のないものになってしまいますよね? ご存知のように私たちの日常は『選択』の連続です。朝何時に起きるか?朝食に何を食べるか?どうやって学校または勤め先へと出かけるか?週末はどのように過ごすか?数え上げればキリがありません。しかし1日1日を生き抜くためのもう1つの大切な選択(二者択一)があります。それはどちらも英語の『F』で始まる「Fear(恐れ)」か「Faith(信仰)」かです。いつ自分に襲いかかって来るか分からない「不慮の災い」に不安を抱えながら生きるか、それとも、あなたを愛しあなたの最善を願い、そしてその最善へとあなたの人生を導いてくださる「神に信頼して」生きるかの選択です。 幼い子供が父親と共に夜道を歩いています。すると向こうから大きな犬を連れた人がこちらに向かって歩いてきます。幼子は思わず父親にしっかりとしがみつきます。「お父さんが一緒だから大丈夫」と思うからです。この時の父親の気持はどのようだと思いますか?「喜び」「誇らしさ」そして「仮にその犬が襲い掛かってきたとしても命懸けでこの子を守ってやる」という気持になるのです。それと同様に、神はご自身に信頼する私たちを全力で守り、祝福してくださるのです。

(310) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

「死ぬ時には前のめりに死にたい」と言ったのは確か『坂本竜馬』だったと思いますが、私たちも「失敗する時は前のめりに失敗したい」ものですよね。どんな人でも失敗は経験するものです。「私は失敗を経験したことはない!」と豪語する人は、恐らく今までに何も挑戦したことのない人ではないでしょうか? 日本でも古くから「失敗は成功の元」と言われています。人は失敗してしまったからといって『失敗者』になるわけではありません。けれどももし「失敗するのはいやだから、もう新しいことに挑戦するのは止めよう」というような消極的な姿勢で人生を生きていたら、それこそ『失敗者』になりかねません。大切なのは、失敗するたびにそこから何かを学び取り、次の挑戦に生かすことです。そして何度失敗を繰り返そうと、何度でも起き上がって新たな挑戦に向かって行くことです。 聖書には様々な人物が登場しますが、それぞれいろいろな形で『失敗』を経験しています。アブラハムは子供欲しさに奥さんの女奴隷に手をつけますし、ダビデ王は忠実な家臣の妻と不倫を犯し、その事実をもみ消すためにその家臣を死に追いやりました。預言者ヨナは「ニネベの町へ行って語れ」との神の命令を避けて別の国に逃げようとし、使徒ペテロはイエス・キリストに対し「あなたと共に死ぬことになろうとも、最後まであなたについて行きます」と豪語しながら、いざとなったら「イエスなんて知らない!」と自分の主を否みました。 では何故聖書はこのように情けない失敗を犯した人々の記録を載せているのでしょうか?それは「神は失敗した人々を決して見放したりはしない」ということを私たちに教えるためです。むしろ神はこれらの失敗を経験した人々を何度でも立ち上がらせ、やがてはご自身の輝かしいみわざのためにお用いになったのです。私たちの神は『逆転の神』なのです! 聖書の神は、ある人々が考えているような「人間の粗捜しをしてバチを与える存在」ではありません。むしろ恵みと憐れみとに満ち、私たちの失敗を何度でも赦して立ち上がらせ、ご自身の栄光のために用いられる器として日々造り変えてくださる『決してあきらめない神』なのです。

(309) “私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方”

聖書には『天地創造の神』について書かれてありますが、「創造主なる神を信じて生きる」ということは一体どういうことなのでしょう?ただ単に「神は実在すると信じている」ということとどう違うのでしょう? 私たちは『神』というと、何となく漠然と「大きな力ある存在」というイメージを抱きます。そしてそれが「恐れの対象」になったり「お願い事の対象」になったりするわけですが、あまり『個人的な関わり』を持って生きるなどということは考えません。しかしもしこの神が『創造主』であるならば、この方抜きで人生を生きることは「とてつもなく大きな損失である」ということがお分かりでしょうか? 私たち人間でさえ、何かを作る時にはそれなりにアイディアを巡らせます。意味もなく無駄になることのために時間や労を費やすことは虚しいからです。ましてや神が何かをお造りになるなら、そこには必ず「崇高で綿密な計画」があるに違いありません。そして神は人間とは違って『失敗作』を造ることもありません。ですから「創造主なる神を信じて生きる」ということは「神は私の人生に『崇高で綿密な計画』を持っておられる」と信じて、それを追求しながら生きることに他なりません。「神が自分のために備えておられる偉大な人生」を模索して生きることは、単に「神にお願い事をしてかなえてもらう人生」にはるかに優っているのです! 私は20歳の時にイエス・キリストを通して「神との個人的な関わりを持って生きる人生」へと導かれました。それまでもそれなりに恵まれた人生(家庭的にも、学生としても、友人関係においても)を送っていましたが、それ以降今に至るまでの人生は、私が学生時代に思い描いていたような「そこそこ成功を収めた人生」とはまるで違っています。分かりやすく言うならば「自分の人生がこんなにも喜びと満足と驚きに満ちたものとなるとは思ってもみなかった」という人生を送らせていただいているのです。 恐らく多くの人々は「自分は何故生まれてきたのだろうか?」「自分はどこから来てどこへ行くのだろうか?」というような疑問を1度は感じたことがあると思います。私はそのような方々に「『創造主なる神』を信じて生きることは、こんなに素晴らしいのだ!」ということを、ぜひとも体験していただきたいのです。『創造主なる神』に出会うことに「遅すぎる」ことは決してありません。私は99歳になってこの神と出会って人生を大きく変えられて、喜びをもって104歳で天国へと凱旋していった方を知っています。今この文章をお読みのアナタも、ぜひ「神との個人的な関わりを持って生きる人生」を求めて祈り始めてみませんか?

(308) “なまけ者よ。アリのところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。”

イソップ物語「アリとキリギリス」は良く知られていますが、実際的にアリたちがどれほど勤勉であり驚くべき能力を発揮しているかを知っている人は、それほど多くはないのではないでしょうか? 「女王アリ」の存在を知っている方は多いと思いますが、アリたちの労働を仕切っているのは『女王』ではなく「年上のアリたち」です。年下のアリたちはこの熟練したリーダーたちの行動に倣って文句を言わず黙々と従います。そして彼らはしばしば自分よりもはるかに大きな「パンくず」などを背負って、坂道を何メートルも登っていきます。仮に坂の途中でその『荷物』を落としてしまい、それがコロコロと坂の1番下まで転がって行ったとしても、彼らはもう1度下まで降りて行って、またその『荷物』をかついで上がって行くのです。アリたちが運んでいる『荷物』の重さと距離は、人間の標準の体に換算すると「10トンもの重さを背負って30キロの道のりを運んで行く」のに匹敵するそうです。これは何も「アリたちはスーパーマンのように楽々とこのような仕事をこなせる」というのではなく、むしろ彼らが「常に自分のベストを尽くして1つ1つの労働に誠心誠意取り組んでいる」ということを表しているのです。 最近の世代には『重労働』を避ける傾向があります。もちろん「過労死」に見られるような『働き過ぎ』も問題ですが、「面倒くさ~い」「え~、そんなのムリ~」などと言って、正面からぶつかるべき課題にチャレンジすることを避けてしまうことは、必ず彼らの人生にとって将来の大きな損失につながります。そしてそのような性質は決して一朝一夕に養われたものではなく、親が自分の子供たちに楽をさせすぎてしまったことから来ているのです。「自分が忙しくて一緒にいてあげられない分、お金や物を与えて愛情を表現しよう」などという誤った考えで子供を育てた結果(しわ寄せ?)なのです。 ぜひ子供たちに幼い頃から「労働の喜び」を体験させてあげましょう。家族の一員として家事などを分担するのも良いし、お小遣いを『報酬制』にするのも悪くありません。彼らの将来、ひいては未来の社会のために「アリに見習うこと」をお勧めします。

(307) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。”

私たちが何らかの役割や仕事を担うとき、ついその『仕事内容そのもの』に気を取られて、「これはつまらない」とか「自分には向いていない」「もっとちゃんとした仕事が欲しい」などと文句を言ってしまうことがあります。でも実は、重要なのは「どんな働きを任されているか」ではなく「どんな姿勢でその役割に取り組むか」なのです。人に対して下される『正しい評価』というものは、多くの場合「どのような内容の仕事をしているか」によるのではなく「どのような働きぶりで仕事をしているか」によって測られます。 20世紀のキリスト教界において最も用いられた伝道者の1人に『ジョシュ・マクドウェル』という方がいます。彼は何カ国にも渡って学生伝道を繰り広げた人物であり、また100冊以上もの優れた著書を残しています(まだご存命です)。ところが、彼はその「キリスト教指導者」として初めから華々しい活躍をしていたかというと、決してそうではありませんでした。彼の「キャンパス・クルセード・フォー・クライスト」という団体における最初の役割は『玄関掃除』でした。彼は「オレはこんな仕事のためにこの団体に来たのではない!」と言うこともできたでしょうが、そうしませんでした。彼は毎日「学生たちの汚い運動靴からこぼれ落ちる泥」をただ黙々と掃除し続けました。やがてその「小さなことに忠実な働きぶり」がスタッフたちの目に留まり、少しずつ責任のある働きを任されていったのです。 マザーテレサの遺した有名な言葉の1つに「どれだけのことを成し遂げたかは重要ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」というものがあります。神様が私たちの日々の歩みを見つめておられるのは、きっと「私たちの悪い行いを見張るため」というよりは、むしろ「私たちがいつも神ご自身を微笑ませることを求めながら1つ1つの役割に取り組んでいるかどうか」ということに違いありません。

(306) “あなたは私のために食事を整えてくださいます。”

聖書全体を通して強調されていることの1つは「神は私たち1人1人をそれぞれユニークな存在として創造され、しかも1人1人にそれぞれ違った『目的や使命』を与えておられる」ということです。それはまさに、私たち1人1人の『指紋』がそれぞれ固有のものであるのと同様です。それ故、創造主なる神は、私たち1人1人との『個人的で特別な関わり』を切に求めているのです。 聖書の中でも有名な箇所の1つに、イスラエルの王ダビデが綴った「主は私の羊飼い…」で始まる『詩篇23篇』があります。この詩篇を読むとダビデ王がいかに神様との深く個人的な関わりを保ちながら生きていたかを伺うことができます。その中に「神は私のために食事を整えてくださる」という1節が出てきます。これは一体どういうことなのでしょう? ちょっとショッピングモールのフードコートで食事をする時のことを思い浮かべてみてください。自分の好きなお店で食べたい物を注文すると、注文した品が出来上がるまで、片手で持てるほどの大きさの「札のようなもの」を持たされます。やがて注文の品が出来上がると、その「札のようなもの」が音を出すか、または光を発して「あなたのための食事が用意されました!」と知らせてくれるのです。待っている間「本当に彼らは私のための食事を準備してくれているだろうか?」などと不安になる人は誰もいないと思います。皆「自分の食事はやがて必ず与えられる」と確信しているのです。 神様のあなたに対する備えもこれに似ています。もしあなたが「神のことば」である『聖書』を通して神様のことを深く知り、またイエス・キリストを通して神との「個人的な関わり」を保ちながら日々を過ごしているなら、神様はベストタイミングであなたの心に光を照らし、あなたのために特別に用意された最高の道へと導いてくださるのです。「神と共に生きる」とは、決して『不自由』なものではなく、とてもワクワクした、心躍らされる経験なのです。

(305) “わたし(キリスト)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。”

イエス・キリストはある日、語られたたとえ話の中で『聖書(神のことば)』は「人々の心に蒔かれた種のようなもの」であるとおっしゃいました。ご存知のように種の中には『いのち』があります。ただし『いのち』というものはそれに適した環境に置かれないと、弱ったり死んだりしてしまいます。 『聖書』は単なる「人生教本」ではありません。『聖書』は私たちの中に「神への信仰」を生み出し、「もっと成長したい」という意欲をもたらし、「不可能に見えることに挑戦させる勇気」を与え、「傷ついた心」を癒し、「聖く正しい心」を形造り、「状況を一変させる」力を持ち、「喜び」に溢れさせ、「逆境」を乗り越えさせ、「誘惑に打ち勝つ力」を与え、人生の暗やみの中に「希望の光」を灯し、一見何もないような場所に「新たな道と限りない可能性」を見い出させてくれるのです。 『聖書』は、私たちの人生にとって「ちょっとは足しになるもの」ではなく、「無くてはならないいのちの素」なのです。それはしばしば『霊的食物』にたとえられています。「乳飲み子にとっての乳」「すべての人々にとってのいのちのパン」「成長した者にとっての『堅い食物』」「疲れた者にとっての蜂蜜」などなど。神様からせっかく与えられているこのような「人生にとって不可欠な栄養」を取り入れること無しに生きることは、まさに『宝の持ち腐れ』なのです。

(304) “私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。”

キリスト教における最も特徴的な概念(価値観)と呼べるものは『恵み』です。この世のいわゆる「宗教」はどれも、神からの救いや祝福を受けるために、必ず何かしらの要求をします。「入会金」「修行」「何らかの善行」などなど。それらの『宗教』は私たちを人間的に高めてくれるかもしれませんが、所詮人間が作り出した「自分を磨く手立て」に過ぎません。 聖書が私たちに教えてくれる「神の救いや祝福を受け取る道」は『神からの一方的な恵み』です。上記の聖書のことばは、イエス・キリストの1番弟子とも言えるペテロが聖書の中に遺した最後のことばです。では「恵みと知識において成長する」とはどういうことでしょう?それは「キリストの教えに関する知識を増す」ということではなく、「キリストご自身を更に深く知り味わう」ということです。 神は、私たちの神に対する不信仰や不遜な態度(神を神と認めず、己れの人生を己れの好き勝手に使おうとする姿勢)に対する罰を、私たち自身に負わせる代わりに、神に対して全く従順に歩まれたキリストに負わせ、十字架におかけになりました。キリストは十字架の上で息を引き取られる前に「完了した」という言葉を遺されました。これは「すべての人の罪のために支払われるべき代償は完済された」という意味です。もはや私たちが神に対して支払うべき負債は残ってはいません。私たちが神から祝福をいただくために『代償』としてささげるべきものは既にイエス・キリストがその恵みの故にすべて支払ってくださったのです。 アメリカの著名なクリスチャン作家であるフィリップ・ヤンシーは、この『キリストによる恵み』の概念を「もはや私たちがどれほど良いことをしても、私たちに対する神の愛を増やすことができないほど、神は私たちを愛しておられる。また私たちがどんな失敗を犯したとしても、神の私たちに対する愛を微塵も減らすことはできない」と表現しました。この『恵み』を日々深く味わいながら生きる時、私たちはまさに「恵みにおいて成長していく」のです。

(303) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。”

新しい電化製品を買うと『取扱説明書』が付いてきます。私たちは「取り合えず自分たちの必要を満たせれば良い」と思うので、必要最低限の説明部分だけを読んで、後は機械の調子が悪くなった時に原因を探る時まで、大抵この『取扱説明書』なるものは放って置かれがちですよね? 実際はほとんどの電化製品は、私たちが考えているよりもはるかに多くの機能を持っており、私たちの生活により多くの益をもたらすことができるのですが、私たちがこの『取扱説明書』を十分に読むこなすことを怠ってしまうために、いわゆる「宝の持ち腐れ」になってしまうのです。 神様が私たち人間をこの地上に送り出された時、やはり『取扱説明書』を添えてくださいました。それが『聖書』です。聖書は何やら難しい「説教の書物」ではなく、言わば私たちにとって「人生の取扱説明書」なのです。ご自身の知恵と愛情を込めて私たちを造ってくださった神様は、私たちがそれぞれの人生を「自分の持ち味を最大限に生かして花を咲かせること」ができるようにと、この『聖書』というコーチングを与えてくださっているのです。それを「人生の調子が悪くなった時に、ちょっとだけ開く」のではあまりにもったいないとは思いませんか? アナタはアナタが思っているよりもずっと優れた、価値ある存在です。もっとエキサイティングで喜びと感動にあふれた人生を送るための『潜在能力』が、アナタの中でまだ眠ったままなのです。それらを掘り起こして「神が用意しておられるビッグ・プロジェクト」に取り組むために、更に深く聖書を読んでみてはいかがでしょう?

(302) “互いの重荷を負い合いなさい。”

『三無主義』(無責任・無関心・無感動)という言葉が取り沙汰されるようになって久しいですが、どうやらこれは日本だけのことではなく、世界的な傾向になっているようです。本当に悲しいことですね。 世の中が便利になればなるほど、私たちは「もっと迅速に、もっと多くを」追求するようになり、自分の日常に益をもたらさないことに関しては、つい「それは私の責任範疇ではないから」とか「そんなことに関わり合っている暇はない」などと言って、助けを与えることを拒否してしまいがちです。 神様は元々人間を「1人では生きられないように」お造りになられました。私たちは皆「互いに助け合う」ように造られているのです。そんな私たちが「互いに助け合うこと」を忘れてしまったら、ドンドン『人間らしさ』を失って行ってしまうに違いありません。では、どんなことから始めたら良いのでしょうか? 「互いに助け合う」ために、何もいきなり『ボランティア活動』に登録する必要はありません。まず自分の周囲に関心を持つことから始めましょう。「助けが欲しいなら、そう言ってくれればいいのに…」という人がいるかもしれませんが、本当に深刻な必要に迫られている人ほど、それを他の誰かに打ち明けるのには大変な勇気がいるものです。「周りを見ても皆忙しそうにしている。自分なんかのために時間を割いてもらっては申し訳ない。自分のことは自分で何とかしなければ…」と自分に言い聞かせながら、ドンドン悪い状況へと陥って、しまいには手遅れになってしまうのです。だからこそ私たちの側でまず周囲を見回す機会を持ち、こちらから声を掛けてあげるべきなのです。 助けを必要としている人を見つけたら、その人にしっかりと『アイコンタクト』を取りながら、辛抱強く相手の話を聴いてあげましょう。大抵の人は「この人は自分に関心を持ってくれている。親身に聞こうとしてくれている」と感じただけで、グッと心が軽くなるものです。たとえ相手が必要としていることがアナタの手に負えないことだったとしても「重荷を共有してもらえた」という安心感が相手に希望を与えます。そしてその人の「真の緊急の必要」のために、一緒に助けを探してあげることができたなら(多くの場合、問題のただ中にいる人たちは、客観的に自分の状況を見ることができず、正しい判断を下すことができません)、神様はそんな私たちの姿をご覧になって微笑まれるのです。

(301) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”

今日は「幸福な結婚生活の秘訣」を2つご紹介します。  ①決して公の場で自分の配偶者をけなさない。 ・夫婦間のいさかいを戒める言葉に「自分の夫(または妻)の趣味をとやかく言う前に、彼(または彼女)が自分を結婚相手として選んだのだということを忘れるな」というものがあります。どんな人にも「好み」「傾向性」「葛藤」「弱さ」「憧れ」「苦い経験」「口に出せない思い」「切なる願い」などがあります。すべての人の内側に「誰かに心から信頼してすべてを打ち明けることができたら…」という変わることのない深いうめきがあるのです。神様は私たちのそんな切なる思いをご存知で、この移ろいやすい世の中においても「安心してすべてを打ち明け合える関係」として私たちに『夫婦関係』というものをお与えになったのです。もしあなたの夫(または妻)があなたにそのような信頼を持てなくなってしまったら、彼(彼女)は一体どうすればよいのでしょう?  ②常に共通の夢や目標を抱く。 ・統計では、近年多くの夫婦が離婚してしまうのは「結婚17~25年目」が最も多いという結果が出ています。すなわち「子供たちが自立した後が危機だ」というわけです。結婚生活の日々を「夫婦お互いのこと」ではなく「自分たちの子供のこと」ばかりに終始してしまっていると、やがて子供たちが手を離れた時、夫婦2人きりでは時間をどう過ごして良いか分からなくなってしまうのです。だからこそ「夫婦2人で目指すことのできる『共通の夢や目標』」が大切なのです。 もしあなたがた夫婦がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合っているとしたら、それは危険信号ですよ。あなたたちは「子供の親」である前に「互いの人生ための最愛・最良のパートナー」なのです。神はあなたがた2人が共にこの世界を向上させるために、互いに出会わせてくださったのです!

(300) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものである。”

私たちは『自分の理解を超えた辛い出来事』に出会うと、思わずも「神様どうして?」と叫ばずにはいられないものです。また『どうしても今すぐにかなえて欲しい願い』を祈り求めても答えられない時、私たちは「神は本当に私の祈りに耳を傾けて下さっているのだろうか?」と不安になります。このような時、一体何が起こっているのでしょう? まず『祈り』に関して言うならば、神はある時は私たちの祈りに対して「私たちの願った通りのもの」を与えてくださいます。しかし別の時には神は『祈りの答えそのもの』の代わりに、言いようのない『平安』を与えてくださいます。神は「私たち以上に私たちの本当の必要を理解しておられる方」なので、その時その時の最善をもって私たちの祈りに応えてくださる方なのです。 では『私たちの理解を超えた出来事』に関してはどうなのでしょう?まず私たちが知っておくべき大切なことは「私たちの知っていることは、神様がなさっておられることの『ほんの一部』にすぎない」ということです。私たちは神様が支配しておられる膨大な数々のみわざを到底知り尽くすことはできません。私たちができることは、ただ「私の神は『良いお方』であって、すべてのことは最終的に必ず『神の大いなる愛と偉大さ』とを示す結果に至るのだ」と信じることなのです。 私たち夫婦の子供たちは皆すでに成人していますが、彼らがまだ幼かった頃、私たちはすべてのことを詳細に説明したりはしませんでした。ただその時その時、1人1人の成長度合いと能力や適性に応じて、知らせるべきことは知らせ、「説明しても分かってもらえそうにないこと」に関しては特に説明しませんでした。それは『意地悪だったから』ではなく、子供たち1人1人に対する『愛と理解』の故です。同じように、もちろん時には神様は、その深い愛の故に、私たちに『事の詳細』を明らかにされることがあるかもしれません。しかし多くの場合神様は、これまたご自身の深い愛の故に「そのことはいずれ明らかにされるから、あなたはただ私に信頼していれば良い」とおっしゃるのです。

(299) “神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。”

あの偉大な作曲家バッハは256もの声楽曲を作曲し、それらの多くは300年以上経った今も名曲として歌い継がれています。しかし一体彼の作品は何故これほどまでに人々の心を震わせるのでしょうか? バッハの書いた譜面の1番初めにはいつも『JJ』という文字が刻まれています。これは「Jesu Juya」の略で「主イエスよ、助けてください」という意味です。そして1番最後には必ず『SDG』と書かれています。これは「Soli Deo Gloria」の略で、意味は「すべては神の栄光のために」。すなわち、彼が曲を作る時はいつでも「神が与えてくださる力を最大限に用いて、心から神の栄光を讃えたい」という願いが込められていたのです。 私たちの人生も同じです。私たちは1人残らず「世界の歴史始まって以来の存在」です。ですから神は私たち1人1人がそれぞれのユニークな方法で「神の栄光を讃えるように」と望んでいます。私たち1人1人の存在、そして日々の生き様が、そのまま「神の素晴らしさを表現する」ようなものとされたなら、何と幸いなことでしょう! しかしそのためには、イエス・キリストを通して『神との関係』の中に生かされ、神があなたに与えておられる「あなたにしかできない方法」を見出し、またそれを開発していく必要があるのです。そのために神は今日もイエス・キリストを通して、あなたをご自身の御許に招いておられるのです。そこに辿り着くまでは、私たちは大変な『宝の持ち腐れ』を冒してしまっているのです。

(299) “事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。”

上記にご紹介した聖書のことばは、実は私がクリスチャンになった後「受け入れるのに最も苦労した」ものの1つでした。何故なら私は幼い頃から『努力』というものの強い信奉者で、中学・高校と『卒業時の色紙』に必ず「努力は必ず報われる」と書き続けていたからです。 ところが、聖書に関してより精通していくに従って、この「努力によるのではなく…」という表現は『努力』というものを否定しているのではなく「自分の考え方に固執してしまって、神から注がれる新しいアイディアを受け取ろうとしない頑なな姿勢」を戒めているのだと分かってきました。確かに「人生に対して真剣に取り組んでいる人」ほど『強い信念』というものを持っているものだと思います。ところがその『強い信念』というものがしばしば私たちに『柔軟さ』を失わせ、周囲からの優れた助言に対して聞く耳を持たせなくさせてしまうことがあるのです。 私たちを形造り、この世に生み出してくださった『創造主なる神』からの助言ほど、私たちの人生に有益なアドバイスはありません。その『あわれんでくださる神』の慈愛に満ちたアドバイスに対して「私は私のやり方でやりますから、どうぞお構いなく!」とはねつけるのは、愚か者のすることです。私たち1人1人のために神が備えてくださっている『フルサイズの人生』を歩むためには、「私の持っているアイディアよりも、あなたが私のために用意してくださっている道の方がはるかに優っています。どうぞそれを教えてください。」という謙遜さが求められているのです。

(298) “あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。”

「ボクたちには世界を変えることはできない」という映画をご存知でしょうか?大学生がカンボジアの貧しい子どもたちのために募金活動をして学校を建てる、という実話を基にした映画です。もちろん事は簡単には運ばないわけですが、「普通の大学生」のグループのひたむきさに心を打たれます。一見の価値がありますよ。 私たちはしばしば、わずかな善意を持っていながら、現実の問題の大きさに圧倒されて、いとも簡単に目標をあきらめてしまうことがあります。それはとっても残念なことだと思いませんか? 嵐の後にある男性が海辺を散歩していると、海岸には何千何万という『ヒトデ』が打ち上げられていました。「このまま放っておくと、すべて干上がってしまうだろうな」と思いつつふと見ると、1人の少年がその1つ1つを拾い上げては海に向かって投げ戻してやっていました。男性は思わず「お~い、そんなことをしても無駄だよ。見てごらん、焼け石に水さ。」と声をかけました。すると少年はまた1つヒトデを拾い上げて海に向かって放り投げてから、ニッコリと微笑んで言いました。「でも、これで今の1匹は助かるよ?」 世界では何億という人々が飢えており、何百万もの人々がマラリヤや脱水症状で死に瀕しています。当然1人の人がどんなに努力しても、それらすべてを救うことはできません。しかし、たった1本の注射によって救うことのできるいのちがあります。コーヒー1杯のお金で100人の子供たちに食べさせてあげられることができるのです。これらの現実を「見てみぬふり」をすることもできますが、何か小さなことでも今日から始められる事がたくさんあるのではないでしょうか?ここに1つのウェブサイトリンクを紹介します。『日本国際飢餓対策機構』(http://www.jifh.org/)という団体です。様々な募金やボランティア活動を行っています。 神様は私たちに『善意』『あわれみ』などの心を与えてくださいました。それらの心から湧き上がってくる思いを封じ込め続けてしまうとしたら、やがて神の前に立つ時に、私たちはどう申し開きをすれば良いのでしょう?

(297) “悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。”

こんなお話があります。 ある賢い老人と孫娘が田舎のガソリンスタンドで一緒に座ってくつろいでいました。そこに1人の旅人風の男が車でやってきて、ガソリンを入れながら老人に尋ねました。「オレはじっくり腰をすえて住むのに良い場所を捜して旅をしているんだが、ここはどんな所だい?」老人は答えました。「そうだなぁ、そういうお前さんが前に暮らしていた所はどんな所だったんだい?」男は言いました。「いやぁ、嫌なところだったよ。人々は批判的で、お互いにそれぞれのあら捜しばかりしていてさ。あんな所には2度と戻りたくないね。」老人は申し訳なさそうに答えました。「そうかい、それは残念だったねぇ。実はこの町も、その町と全く同じようにひどい所なのさ。」男はガックリして車に乗り込み、去って行きました。 しばらくすると、1組の家族がそのガソリンスタンドに車を停め、運転していた父親が老人の所にやってきて尋ねました。「失礼ですが、この町は暮らすのに良い場所でしょうか?」老人は答えました。「そうだねぇ、ところでアンタたちが前に住んでいた所はどんな所だった?」父親は言いました。「いやあ、素敵なところでしたよ。町の人たちは皆親切で、仲が良くて、困った人がいるといつも助けの手を差し伸べていました。本当に去りがたかったんですが、都合でどうしても引っ越さなければならなくて…」老人はニッコリして答えました。「安心しなさい。この町もまさに同じような所だよ!」 この家族が車を出発させた後、ずっとこれらの様子を聞いていた孫娘が尋ねました。「ねぇ、おじいちゃん。どうして初めの人には『ここはひどい所だ』って言って、後の人には『ここは素敵な所だ』って言ったの?」老人は孫娘の瞳をじっと見つめて言いました。「なぁに、人間どこに引っ越して行ったって、いつも『自分』を連れて行くもんさ。そして引っ越して行った先がどんな町に見えるかは、その『自分』の態度次第なのさ。」 人生は『人任せ』にはできません。「人生に対するアナタの態度」があなたの人生を決めるのです。周りの状況に左右されることのない、神様から注がれる「内なる平安と喜び」があるならば、どこに行ってもそこは『地上の楽園』となり得るのです。

(296) “喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。”

『パーソナリティ』にはそれぞれいろいろな違いがありますが、その中でも1つの大きな違いと言えば、それは「人間重視(people oriented)」か「任務重視(task oriented)」かでしょう。『人間重視』の人は「やらなければならないこと」を多少後回しにしてでも「人との関係作り」のために時間を割きます。一方『任務重視』の人は多少人間関係を犠牲にしてでも「やるべき任務」を成し遂げようとします。あなたはどちらの傾向が強いでしょうか? 歴史を振り返るならば、恐らく日本は元来『人間重視』の文化を持っていたと思います。あまりアクセクと働くよりも『義理人情に厚い人間』として生きることが美とされていたのではないでしょうか?それがいつの間にか(高度経済成長の頃から?)『生産性・効率性』が重視されるようになり、『義理人情』などという言葉は古臭いものとして片付けられ、会社員たちは「自分たちの任務に献身」させられるようになってしまったような気がします。 話は変わりますが、私の母は現在87歳で、蕎麦を食べるのが大好きです。ですから私が一時帰国するたびに一緒に母の自宅から200メートルほどのところにある蕎麦屋へ歩いて行くのが習慣なのですが、母の歩行速度は年々遅くなってきています。今ではまるで「ウサギがカメと一緒に歩いている」かのように感じてしまいます。はっきり言ってものすごくじれったいのですが、ある時ふと「自分と共に歩んでくださっている神様」のことに思い当たりました。『全知全能の神様』にとっては、私たちのような人間と共に歩むことは「超じれったい」ことに違いありません。でも神様はきっと少しもイライラすることなく、むしろ微笑みながら共に歩んでくださっていることでしょう。そんなことを思いながら、母と共に200メートルの道のりを30分掛けて歩くのもなかなか風情があります。 クリスチャンであっても、中には「神のための働き」に熱心なあまり、身近にいる人々が目に入らなくなっている時もあるかもしれません。でも神様は私たちが「どれだけのことを成し遂げたか」よりも「人々にどれだけ心を注いだか」を評価してくださるのではないでしょうか?

(295) “自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。”

「イエス・キリストによる救い」を得た人々は、死んだ後も『天国』に行ける約束が与えられていますが、神様から与えられた体をキチンと管理していない人は、自分が望んでいるよりも少し早めにそこに行くことになってしまうかもしれませんから、気を付けましょう。今日は「自分の体の自己管理」のお話です。次の3つの点を心がけましょう。 1.食生活の改善 ・実に多くの人が「不健康な理由」によって食生活を左右されてしまっています。ストレス、退屈さ、疲労感、怒り、憂鬱さ、劣等感などなど。また、日常に食べるものもかなりのかたよりがあります。ファストフードやインスタント食品、スナック菓子などを取り過ぎて、新鮮なフルーツや野菜、そして繊維食品をあまり食べない人が多いようです。それでは体が悲鳴を上げてしまいます。ぜひ自分の食生活の傾向性をもう1度よく検討し直してみてください。  2.運動不足解消 ・突然「毎朝1時間のジョギングを始めよう!」などとは思わないで下さい。「少しずつ着実に」が継続のコツです。例えば「エレベーターの代わりに階段を使う」とか、「車を駐車するときに、いつもよりも目的地から離れた所に停めて歩く」とか、「テレビやパソコンに向かう代わりに子供とキャッチボールをする」などなど。神はあなたの体を「1日中座って過ごす」ようには造りませんでした。「週に3日30分の運動」だけで、私たちのストレスや高血圧などはずい分解消されるはずです。  3.早めに床に就く ・人間はたとえ大人であっても『8時間の睡眠』が必要だそうです。「自分はそんなに寝なくても十分やっていける」と多くの方々は言うかもしれませんが、「やっていける」のと「健康に生きること」には大きな違いがあります。「私は床に就くのは夜中過ぎだけど、毎日昼まで寝ているから大丈夫」という方もいるでしょうが、統計によると「夜中の12時より前の『1時間の睡眠』は、12時過ぎの『2時間の睡眠』に相当する効果がある」のだそうです。昔からよく言われているように「早寝早起き」は確かに健康な生活の基本なのです。 信仰深い方々はしばしば「神のみこころにかなった人生を歩みたい」と思うようですが、それならばまず、上記の3つのことに留意しながら『自分のからだをもって神の栄光を現す人生』を、ぜひ今日から始めてください。

(294) “御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。”

我が家の長男の妻はニュージーランド人ですが、ラーメンが大好きです。私たちの住むクライストチャーチにもいくつか「それなりのラーメン」を出すお店はありますが、当然「日本にある美味しいラーメン屋」には到底及びません。2年ほど前に同じ時期に日本を訪問したことがあり、そのとき私たち夫婦が知っているとっておきのラーメン屋に連れて行ってご馳走してあげたら、彼女はこう言いました。「お父さん、お母さんの意地悪!こんなに美味しいラーメンを食べてしまったら、もうクライストチャーチのラーメン屋さんには行けなくなっちゃうじゃない!」私たちが『本物』に触れたとき、もはや私たちは「まがい品」では満足できなくなってしまうのです。 神は私たちを「この世が提供するもの」によってではなく、「神ご自身からしか受け取ることのできないもの」によって生きるようにお造りになられました。ですから私たちは本来「この世にあるもの」では真の満足を体験できないわけなのですが、神から離れて生きている私たちは「本物が与える真の満足」を知らないので、ある人々は「まがい品が与えるそれなりの満足」にごまかされ、またある人々は常に「物足りなさ」を感じているのです。 上記の聖書のことばに出てくる『御霊』とは、人が不信仰によって神から離れてしまう前に神から与えられていた(すなわち、本来人間が生まれつき持っているはずだった)「神ご自身の霊」です。『御霊』は私たちを「神の愛」「神の喜び」「神の平和」へと導き、まさに「人間が本来歩むはずであった人生」へと私たちを導いてくれるのです。「御霊によって歩む人生」が私たちに与えてくれる『満足』を味わったなら、もはや「この世が提供する満足」では物足りなくなるのです。 イエス・キリストは、地上におられる間まさにそのような人生を生き、そして私たちと神との致命的なギャップを埋めるために私たちの代わりに十字架にかかられ、そして今私たちはこのイエス・キリストの身代わりの死を『自分のこと』として受け入れる時、神からの賜物としてこの「神の霊である『御霊』」を与えられ、それまでとは全くレベルの違った平安や喜びを抱いて生きることができるようになるのです!

(292) “私たちは(神に)与えられた恵みに従って、異なった賜物(才能)を持っています。”

海外で暮らすようになって気付いた1つのことは、日本と西欧諸国の『教育方針』の違いです。日本ではどちらかというと伝統的に「不得意分野を伸ばして、極力まんべんなくできるようにする『総合力重視』」の傾向が強く、西欧諸国ではむしろ「得意分野に力を入れて、できるだけ個性を伸ばそうとする『個性重視』」の傾向が見て取れます。どちらが優れているかということはともかく、結果として日本では「どんなことでもそれなりにこなすことができる人間」は育成されますが、いわゆる「一芸に秀でている人材」が育ちにくいように感じます。 牧師でもあり「リーダーシップ哲学」に関する数多くの著作を持つ『ジョン・マクスウェル博士』は「優れた人材を育成するコツとして次のようなことを勧めています。①長所を伸ばすことに80%の時間を費やす。②新たなことを学ぶために15%の時間を費やす。③短所克服のために残り5%の時間を費やす。 それでは、私たちはどのようにして「自分の得意分野」を正確に見出し、それを伸ばして行くことができるのでしょうか?それにはいくつかの要素が必要です。 1.「ありのまま受け入れられている」という実感 ・もしあなたが「自分が変わらなければ受け入れてもらえない」という不安の中にあるなら、いつも肩に力が入り、持っている力をフルに発揮することはできません。そしてプレッシャーの下にいる間は『健全な成長』は望めないものです。「神の大いなる愛の中に憩うこと」は、優れた人生を歩む上で必要不可欠です。 2.自分自身をよく知る ・あなたがもし「自分のことは自分が1番良く分かっている」と思っているなら、あなたはずい分『オメデタイ』人です。もちろん自分でもよく自分を観察し客観的に見つめることが必要ですが、あなたのことを良く知っている家族や友人から率直な意見を聞くことは「自分を知ること」に大いに役立ちます。 3.大きな夢を描く ・「井の中の蛙大海を知らず」ということわざを聞いたことがあるでしょう。『島国日本』で育っている我々はいとも簡単に「小さな自分の中に『自己満足』を見い出してしまう」傾向があります。神はあなたを「世界の歴史始まって以来の存在」としてお造りになりました。あなたにしかできない大きなことがあるはずなのです! 4.失敗を恐れず挑戦する ・私たちが『失敗』と感じることは、実のところ『学習』に過ぎないのです。人一倍大きな『成功』を手にした人たちは、例外なく「人一倍多くの『失敗』を経験した人たち」なのです。私たちはいわゆる『初めて』を数多く体験して行きながら『経験』を積んで行きます。そしてそれらの『経験』を踏まえて、私たちは「自分の得意分野」を発見するのです。 あなたは、あなたが考えているよりも、もっとずっと優れた存在です。何故なら『天地創造の全能の神』があなたをお造りになったからです。神は「あなたを通して以外は実現不能なご計画」を用意して、あなたとの出会いを待っておられるのです。

(291) “知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。”

『クレジットカード』なるものは便利ではありますが、使い方を誤るととんでもないことになります。「誤った使い方」とはどんなものかというと、簡単に言えば「必要ではない物を、今持っていないお金で買うこと」です。ちょっと聞いただけで『愚か』であることがすぐに分かるのですが、それを実現可能にしてしまったのがこの『クレジットカード』なのです。 ではどうしたらこのような愚かさを避けることができるのでしょうか?この答えも実に単純です。①何かを買おうと思いついた時に、まず「自分にはこれが本当に必要であろうか?」と自問自答するのです。そしてもしそれが本当に必要であるという結論に達したなら、次に②「もうしばらくの間、それ無しに生活することができないかどうか?」と尋ねてみてください。恐らくこの①②両方の質問に対する答えが『YES』となる場合はほとんどないと思います。何故ならあなたは今日までそれ無しで暮らせてきたのですから… 神は、ご自身の愛する子供たちが貧困にあえぐことを喜ばれる方ではありませんが、私たちが「物質社会にまみれてご自身を忘れてしまうこと」も決して願ってはおられません。神は私たちに「必要なものをお与えになること」を喜びとし、しかも『一時的な喜び』を与えるよりも『永続的な満足』を与えるものを私たちのために用意しておられるのです。 もしあなたの脳裏に「そんなまわりくどいことをいちいちやってはいられない。クレジットカードで今それが買えるのに、どうして待たなければならないの?」というような考えがよぎったなら、あなたは既にクレジットカードの奴隷になりかけていますよ。くれぐれもお気をつけください。そのようなワナにはめて私たちの人生を破滅に導くことが『悪魔』の常套手段なのですから。

(290) “キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。”

英語環境での生活が長くなってくると「言葉が大きく文化に影響を与える」ということに気づかされます。1つの例ですが、日本語の『愛する』という語を表す『Love』は様々文脈で使われます。例えば「I love chocolate.」「I love this TV program.」などのように。これらを「私はチョコレートを愛している」とか「このテレビ番組を愛している」と訳したとしたら、それは正しい翻訳とは言えませんよね?けれども、このように『Love』という単語を気軽に使っていると、だんだん自分の日本語の意識の中でも「『愛する』って、それほど重要なことではないんじゃない?」というような錯覚に陥ってしまうのです。 明治時代の作家であり翻訳家であった『二葉亭四迷』はこの『Love』という単語を「あなたのためなら死んでもいいわ」と訳したと言われています。実は聖書における『愛する』という語は、そのような深い意味のある言葉なのです。 聖書は夫婦関係において、夫に対し『愛しなさい』と命じています。これをより分かりやすく、また実際的な意味に言い換えるならば「夫は妻が最高に輝いて生きることができるように、あらゆる犠牲を喜んで払いなさい」ということでしょう。そこには『自分本位』に生きる余地はありません。またこれは「妻こそ自分の最大の関心事であるべき」ということを表現しています。一体この世のどれほどの夫たちが、これらの原則の逆さまを生きていることでしょう。そしてその事実がそのまま「結婚生活の破局」があちこちに起こっていることに現されているのです。何と悲しいことでしょうか。 神が人間に『結婚』という祝福をお与えになったのは、私たちがそこに「他のものからは決して味わうことのできない至高の幸福感」を見い出すためです。そしてそれは可能なのです!それを日々味わっている私自身が証人です。世の夫たちよ。あなたの妻を本当の意味で愛することを、ぜひ今日から始めてください!

(289) “私たちは神の作品であって…。”

私たちの『個性』というのは「生まれつき」なのでしょうか?それとも「後から備わったもの」なのでしょうか? ずっと以前には「人間の個性はすべて後天的なもので、生まれた時には皆同じような性質を持って生まれてくる」と信じられていました。しかし2人以上の子供を育てた経験のある母親たちは口を揃えて「そんなわけはない。人間は生まれた時からそれぞれ違った特質を持っている」と主張していました。さて、どちらが正しいのでしょうか? 近代の科学は、この母親たちの意見が正しかったことを証明しています。近年の数々の科学的発見を通して、生まれたばかりの赤ん坊には「その子の個性に影響を与える少なくとも9つの重要な要素」が既に備わっているということが分かりました。そして興味深いことに、その内のいくつかは、成長過程のずっと後の方で徐々に明らかになっていくというのです。時々「ウチの子供たちは、皆同じように育てたのに、どうしてこんなに違って育ってしまったのかしら???」とぼやく親がいますが、それは当然なのです。 考えてみると、空から降る雪の結晶や、海辺の数え切れないほどの砂粒にしても、1つも同じものはありません。ならば『人間』のような複雑な生物が「全く同じような性質で生まれてくる」と信じること自体に無理があるのではないでしょうか? 神は私たち人間を1人1人「ユニークに」デザインしてこの地上に送り出してくださいました。ですからお子さんをお持ちの親御さんたちは、お子さんたち1人1人の違いをしっかり見極めて、それぞれにふさわしい道へと進ませて上げられるよう、日々神様からの知恵を求めてください。そして私たちも「神が自分のために立てておられる計画」を見つけるべく、日々聖書を読み、祈り深く歩んで行きましょう。

(288) “みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。”

現代の1つの風潮に『知識偏重』というものがあります。私たちは「既に分かっていることを実践する」よりも「まだ知らないことを追求しようとする」ことに魅力を感じやすいようです。 例えばある企業はその体質を改善するために多くの会議をし、その道の専門家を招いて講義を聴き、本を読んで勉強したりしますが、肝心の社員たちから日々寄せられる不満や要望にはあまり応えようとしません。 また私たちの日常生活を見ても、健康食品の雑誌や番組を観たり、スポーツクラブの広告を手に取ったり、「甘いものを食べるのは今回限りにしよう!」と決心したりしますが、実際に食生活を変えたり、定期的な運動を始める人はわずかです。 実はこれはクリスチャンとしての信仰生活にも当てはまります。私たちは聖書を読んで感動したり、教会の集会で学んだことに納得させられたりしますが、それらのことを実行に移すことは苦手です。聖書に「赦しなさい」と書いてあるのを読んでも「でも私の場合はちょっと特別なケースだから…」と見て見ぬふりをしたり、教会で「受けるよりも与える方が幸いです」と教わっても「とは言っても、やはり万が一の時のために貯蓄しておかないと困るから…」と出し惜しみしてしまうのです。 神は『知識』の中にはおられません。神は『愛』の中に住まわれるのです。いくら聖書の知識をたくさん蓄えても「分かったことを実践する」ことなしには、本当の意味で神様の祝福を体験することはできません。結論は単純です。あなたはもう十分に『知って』います。ですから今日、分かっていることを実行に移してください!

(287) “神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”

多くの人々は『変化』を嫌います。できるだけ「現状を維持したい」と思うのです。確かに同じ事を繰り返していることは楽ですし、危険を回避することができますが、と同時に「目覚しい成長」を経験できないことも事実です。 聖書の中に出てくる「信仰の偉人たち」(モーセ、ギデオン、ダビデなど)は皆、初めは弱く失敗の多い人々でしたが、神に信頼して人生を歩む中で、後世まで語り継がれるヒーローとなったのです。 空中を美しく舞うあの蝶も、初めはカッコ悪い『毛虫』にすぎません。地面や葉っぱの上にネバネバした後を残しながらノロノロと這い回る、それこそ誰にも見向きもされない存在です。それがやがて成長してあの美しい蝶に変わるのですから、驚きですよね? 実はあの蝶の飛翔する力は、毛虫時代に黙々と這い回り続けた成果なのです。カッコ悪いと嘲笑されながらも与えられたいのちを精一杯生きることは、後になって想像を超えた結果をもたらすのです。今のしばらくの間の試練は、やがてあなたの人生に美しい花を咲かせるためになくてはならない格闘なのです。 悪魔はこのことをあなたに知って欲しくないので、「そんな大変な苦労はもうやめて、サッサとあきらめてしまいなさい。神様はお前なんかの人生を用いて大したことをしてくれるわけがないんだから…」とささやきかけます。しかし多くの試練を潜り抜けて偉業を成し遂げたキリストの使徒パウロは次のように結論付けました。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」と。あなたはどちらの言葉を信じますか?

(286) “ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…”

新年明けましておめでとうございます。新しい年を迎えましたね。ある人は「『新年』って言ったって、ただ12月31日の翌日っていうだけじゃない?」とおっしゃるかもしれませんが、人生に区切りをつける意味では「新たな気持で新年を迎える」ということにも意義があるのではないでしょうか? 毎年、年の初めに「今年の目標」なるものを掲げる人もおられると思います。皆さんは1年前に掲げた目標を覚えていらっしゃるでしょうか?またその目標をどれくらい達成できたでしょうか?もしかすると「全然ダメだった」という方もいらっしゃるかもしれませんね。そんな方々のために「年の初めの目標」を立てるための目安になるものをいくつか伝授したいと思います。  ①真に価値ある大切なことに十分な時間を費やすことを心がける。 ・具体的に言うならば「家族と過ごす時間を増やす」「毎日少しずつでも運動をする」「食べ物に気を配り、無駄食いをしない」など。そして、朝ごとに「聖書を読んで祈る時間」を持つことをお進めします。神様にしっかりと心を向けて1日をスタートすることは、時間を浪費することを防ぐ良い方法です。  ②1度にいろいろなことをしようとしないで、1つのことに集中する。 ・欲張っていっぺんにたくさんのことをしようとすると、結局どれにも満足いく結果を得られなくなってしまいます。真に大切なものがどれなのかを見極め、その一事に全力を尽くしましょう。  ③小さいステップから始める。 ・「大きな夢をみること」は大切ですが、大抵の『偉業』は、やり始めたときはそのような結果になるとは予想されていなかったものです。「夢が大きすぎて尻込みし、最初の1歩をなかなか踏み出せない」よりも、小さくても『確かな1歩』をまず踏み出してみましょう。そうすれば、次の1歩が見えてくるかもしれません。  ④変化を記録する ・どんな人にも『励まし』が必要です。「周囲から見ればその人にかなりな変化が起こっているのに、当人は全く気付いていない」ということは良くあります。自分に少しずつ起こっている「変化・成長」を記録することによって日々励ましを受け、更に前進する原動力として行きましょう。

(285) “確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

「クリスチャンの人たちは、よく『神の導き』などと言うけれど、一体神様はどうやって導くのだろう?」などとお考えになったことはないでしょうか?確かに神様は私たちをご自身のみこころに従って導かれます。でもそれらは「はっきりと見たり聞いたりできる形で導く」というよりも、ある聖書のことばや、聖霊によって内側に湧いてくる強い思いなどによるもので、実際にそれに従って行動を起こしてみないと「あれは確かに神の導きであった」と確証しきれないものが多いのです。 1秒先さえも見通せない私たちは、占いや運勢などを頼りにして、何とかして将来の安全や確証を得ようとします。もしくは人生の先輩のアドバイス、過去の調査データ、また成功マニュアルなどを参考にしようとしますが、どれも私たちに100%の保証を与えてくれはしません。結局は「私たちがその対象にどれだけの信頼をおいているか」ということにかかってくるのです。 私たち家族は今から20年以上前に「海外宣教師」として日本から出発しました。神が私たちをそのように導いておられると確信したからです。当時まだ子供たちは幼く(2歳、4歳、6歳) 周囲には強く反対してくださった方々もいました。しかし私たち夫婦は「聖書のことばによる約束」と「聖霊による強い確信」に導かれて出て行ったのです。以来20年余、数々の危険や不自由な思いも経験しましたが、あのままずっと日本で生活していたら決して味わうことのできなかった特権や祝福そして神の奇蹟を味わうことができました。私たち家族は確かにこの20数年の歩みの中に『神様の御手』を見ることができるのです。 この「神に導かれて生きる信仰の歩み」というものは、一時的なものではなく、生涯続くものです。来年の今頃自分たちがどこで暮らしているのか想像もつきませんが、1つだけ確かなことは、この神様に信頼して従って行く限り、いつも大きな喜びと満足感を心の底に抱いて生きることができるということです。

(284) “私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか?”

神が人間世界に与えられた最も尊いものの1つが「愛による関係」です。しかしこれは『尊いもの』であると同時に『壊れやすいもの』でもあります。その『愛の関係』が誤った理由に基づいている時は特にそうです。 この世における『愛』はしばしば「条件付き」です。「相手が優しいから」「欲しいものをくれるから」「可愛いから」「一緒にいると楽しいから」などなど。時には親子関係においても「ちゃんと言うことを聞いてくれたらオヤツをあげる」とか「次のテストで百点を取ったら許可する」などという条件によって「親からの褒美を勝ち取る」習慣を身に着けさせられます。 私たちが聖書によって神の愛を知り、イエス・キリストを通して『神との愛の関係』の中で歩き始めても、「何故神がそれほどまでに私たちを愛してくださっているのか?」ということを誤って理解していると、神の愛を疑ったり、神からの凝らしめを恐れたりするようになってしまいます。「こんな失敗をしてしまったから、もう神は私を見捨てるのではないだろうか?」「いくら努力しても立派になれない自分に、神は呆れてしまうのではないだろうか?」 では逆にこんな質問をしてみてはどうでしょう?「神は私を愛することを止めてしまうことがあるのだろうか?」あなたが以前の悪習慣に逆戻りしたとしたら、人助けをするチャンスを見てみぬふりをしてしまったら、そしてあまりの苦しさのため、つい神を呪ってしまったとしたら・・・ 神はもう2度と愛してくださらない方なのでしょうか? 聖書は断言します。「決してどんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません!」そうです。『神の愛』は「私たちがどんなものであるか?」に基づいているのではなく、「最愛のひとり子イエス・キリストの故」なのです。イエス・キリストが、ご自分の立場を私たちと入れ替わってくださり、私たちの身代わりに十字架にかかられたので、今や父なる神は「イエス・キリストを愛していた愛」によって私たちを『無条件』で愛してくださるのです。

(283) “彼らのしていることはみな、人に見せるためです。”

『偽善』という語(普段あまり耳にすることはありませんが…)を好きな人はあまりいないと思いますが、実際にその意味を十分に把握している人も多くはないのではないでしょうか?『偽善』を簡単に説明するならばそれは要するに「自分を人に良く見せようとすること」と言えるでしょう。ということは「誰の心にもありがちな思い」なのではないでしょうか?イエス・キリストは多くの面で「寛容と愛情深さ」を示されましたが、この『偽善』に対しては徹底的に挑戦されました。何故だと思いますか?それは「人に良く思われたい」という心は、しばしば「神を見失わせる」からです。 例えばアナタは、今からしようとしている『良い行い』が決して誰の目にもつかないと初めから分かっていても、相変わらずそれを行うでしょうか?もし「それならやっても仕方がない。や~めた!」となってしまうとしたら、アナタは『偽善者』なのです。イエス・キリストは「あなたがたの右手がなそうとしている良いわざを、左手に気付かれないようにしなさい」とさえおっしゃいました。『良い行い』は本来「こっそりと」行われるべきものなのです。でも安心してください。神は私たちのすべての行い(隠れたものも含めて)をご存知です。私たちがどんなにこっそり『小さな親切』をしたとしても、決してそれを見逃したりはしません。神は憐れみ深く、愛に富んだ方ですから、私たちの『愛と憐れみの心』に敏感に反応され、そのような心から純粋に現された『良いわざ』に報いを与えないではいられないのです。

(282) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

私たちは皆「人は1人では生きていけない」ということを知っています。そしてそれは『物理的』な理由だけではなく『精神的』な理由においても言えます。私たちは「真に正しい生き方」をしていくために、お互いの助けを必要としていますし、神様はしばしば私たちと周囲との人間関係を通して『良きアドバイス』を与えてくださいます。問題は、そのような(時には耳の痛い)忠告に私たちが素直に耳を傾けることができるかどうかです。 私たちは「自分はまだ不十分である」と感じている時には積極的に周囲の忠告に耳を傾けますが、「自分はもう大丈夫」と思い始めたとたんに耳を貸さなくなります。もし神様が私たちに「そこそこの(無難な)人生を歩んで欲しい」と思っておられるならば、それで良いのかもしれません。しかし実際はそうではなく、私たち1人1人を『最高傑作』として創造なさった神様は、それにふさわしく私たちに『最高級の人生』を歩ませようとなさいます。それ故私たちの周囲に様々な人々を送り、その時その時に必要なアドバイスを与えてくださるのです。 では、私たちは「優れたアドバイザー」と「そうでないアドバイザー」とをどのようにして見分けることができるのでしょう。いくつかの要素が考えられますが、まず「客観的に物事を判断してくれる人」「話を最後まで良く聴いてくれる人」「早急に結論を出さない人」などが考えられます。私たちはつい「自分の身になって同情してくれる」「すぐにアドバイスをくれる」などの要素を期待してしまいますが、それに応えてくれる人はやや危険性を持っているのでご用心を。神の知恵に基づいて適切なアドバイスを与えてくれる人は、そのために神に祈りつつ十分な時間を掛けてくれるので、必ずしも「欲しいタイミング」で応えてはくれないかもしれません。でもそのような人はある意味「人並み以上の耳や目」を持っているのです。あなたはそのような人からのアドバイスを望みますか?もしそうなら、神様が送ってくださる『良きアドバイザー』からの忠告に耳を傾ける心をもって日々歩みましょう。

(280) “子どもを苛立たせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”

今日は特に「小さなお子さんを持つ親御さんたち」に読んでいただきたい内容です。 最近世界(特に先進国)では、子供たちによるいたましい事件が相次いでいます。生徒が教師を殺害したり、クラスメートを殺したり、そしてついには自分のいのちを絶ってしまうような…。 12歳と13歳の2人の少年が、コンビニの前で1人の男性を殴り殺しました。動機は「あの男が死んで行く様子を眺めているのが面白かったから」だそうです。また別の少年は、駐車してある車の中に座っていた男性を射殺しました。その理由は「オレのことを見たから」…。 何故このような悲劇が多発しているのでしょう?銃が簡単に手に入るから?暴力的な番組やゲームに多くの時間を費やしているから?確かに同様の多くの要因があることは否めませんが、専門家の綿密な調査結果によると、最も根本的な原因は「幼児期に受けた暴力や放任」にあるようです。赤ん坊が3日間以上汚れたオムツのまま放っておかれたり、幼い子供がひどくぶたれたり、家庭で無視されたりし続けると、いくつかのストレスホルモンが異常なほど多量に分泌されて血液中に混入し、次第に脳の機能を冒して行くそうです。そうして彼らはやがて他の人々に対する『思いやり』の感情が失われ、苦しんでいる人々に対する『同情』というものを感じられなくなるのです。 日本語に「三つ子のたましい百まで」ということわざがありますが、まさに生まれてから3年間の間に親から受けた扱いが、その子の一生の歩みを決定付けてしまうのです。こればかりは後でどんなに後悔しても取り返しがつきません。 お子さんをお持ちの方々、神が皆さんに与えておられる責任は、他のどんな社会的責任よりもはるかに重要であることを、ぜひ深く心に刻んでください。そしてあらゆる努力をして、お子さんたちを愛し、守り、日々励まし、十分に時間を共に費やし、そして神と人とを愛する子としてしっかりと育んであげてください。

(279) “私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。”

子供たちが幼い頃から、我が家の合言葉は「ラーニング・エクスペリエンス(失敗から学ぼう)」でした。日本語にも「失敗は成功の元」ということわざがあるように、失敗を恐れていては何も学ぶことはできません。また失敗を恐れていては、神があなたのために立てておられる『偉大な人生の計画』に到達することもできないのです。 人は誰でも失敗するものです。けれどそれらの失敗の数々をじっくり観察するなら、それらはほとんどが「その時だけの恥」であって、多くの場合、その失敗を通して様々な助言をもらえるようになったり、反省してよく準備するようになったり、後輩に良きアドバイスを与えることができるようになったりするのです。 「失敗」が人を『失敗者』にするわけではありません。むしろ「失敗から何も学ばないこと」また「その失敗の故に2度と挑戦しようとしなくなること」が私たちに『失敗者』としての人生を歩ませるようになるのです。 神は決して私たちの失敗を責めたりはなさいません。むしろ私たちが、やること成すことすべてうまく運んで高慢になり、「私には神なんか要らない」などと言い始めることをお責めになるのです。日々私たちに知恵と力とを注いでくださり、私たち1人1人に与えてくださった「ユニークで偉大な人生」を全うさせようとしてくださっているこの神を見上げつつ、失敗を糧としながら前進して行きましょう。

(278) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。”

この天地をお造りになり、私たち人間1人1人にいのちをお与えになった『創造主なる神』は、そのすべてをこよなく愛しておられます。それ故神は、それらすべてを祝福し、慈しみ、聖書のことばを借りるなら「良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」のです。 私たち人間は『自己中心的』な存在なので、自分に意地悪をしたり都合が悪い人などがいるとつい、「神様、あの人に罰を与えてください!」などと祈ったりしますが、とても幸いなことに神は「気分屋」ではないので、私たちのそんな気まぐれな祈りにいちいち答えることはありません。(さもなければ、私たち自身も相当頻繁に『ひどい目』に遭ってしまうことでしょうね!) では神には『感情』のようなものは全くないのでしょうか?ある人々が考えるように、神は何か『法則』のような存在で、ただ機械的に天体を規則正しく運行させたり、悪い習慣に悪い報いが起こるように設定しておられるだけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。聖書をよく読むならば、あちこちに神が「怒って」おられる様子や「悲しんで」おられる様子、そして「喜んで」おられる様子が描かれています。 では、神は一体どのようなことを「喜ばれる」のでしょう?それは、私たちの『信仰』です。信仰というのは何も「ありもしないことを、あるように思い込むこと」ではありません。むしろ「何よりも確かな存在である『人格的な神』がおられること」を素直な心で認めることです。そしてこのお方が日々注いでおられる『愛と恵み』に対して目が開かれ、心を通わせながら生きようとする私たちの「信仰の姿勢」を、神は喜んでくださるのです。 『信仰』とは、いわば「心の向き」です。例えば雨の日にコップを持って外に出たとしましょう。コップの口を上に向けておくなら、雨水はやがてコップの口いっぱいにまで溜まります。しかしコップが傾いていれば十分に溜めることはできないし、逆さまに伏せてしまっていたら雨水は一滴もコップに入ってはきません。同じように、神は「神とのふれ合いを求めて、心を真っ直ぐに神に向けて生きる者」を喜ばれ、他の人たち以上にご自身の祝福を与えずにはいられない方なのです。

(277) “まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。”

4週間ほど日本へ一時帰国していました。その間「聖書のいい話」をお休みしてしまいました。ごめんなさい。 さて、ある夫婦がドライブに行こうとしてガソリンスタンドに寄りました。するとスタンドの青年がフロントグラスを拭いてくれています。料金を払い終わり出発しようとしてふと見ると、何と拭いてもらったばかりのはずのフロントグラスがずい分と汚れています。夫の方が拭いてくれた青年に叫びました。「ずい分と雑な仕事をしてくれたじゃないか。もう1度キチンと拭いてくれたまえ!」青年は怪訝そうな顔をしながら、もう1度丁寧に拭いてくれているのですが、相変わらずフロントグラスは汚れたままです。夫は少々イライラしながら言いました。「その布が汚れているんじゃないか?よく確かめてみたまえ。」するとそれまで黙って見ていた妻がチョッピリあきれた顔で夫のメガネを取ると、自分のハンカチを取り出してきれいにし、再び夫の顔に戻しました。あらためてフロントグラスを見ると、一点の汚れもなくきれいになっていました。 この世のさまざまな『宗教』は、私たちに「道徳的な教え」や「立派な行動の規範」を示してくれます。それらはもちろん大切なことではあるのですが、私たちは決して外面的な努力によっては真の意味で自分自身を向上させることはできません。私たちの行動が洗練されていくためのカギは「私たちの内面の変化」にあるのです。私たちはまず内面的に造り変えられ、その後でその刷新された内面が、目に見える行動となって現れるようになるのです。 キリストは私たちの内面に潜んでいる「創造主なる神からそれている思い」という人類の根本的な問題に光を当てるために来られ、そしてその問題を解決するために私たちの身代わりに十字架の上でその罰をお受けになりました。このキリストを内側にお迎えすることによって初めて、私たちは物事の真実を見つめることができるようになり、少しずつ「人間のあるべき姿」へと回復されて行くことができるのです。

(276) “見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを(神に)願って聞き届けられました。”

 「もし全知全能の神がおられ、私たち人間を愛しておられるなら、どうしてこの世には悪が存在するのか?」そのように考えたことがある方は少なくないと思います。 聖書を気をつけて読むなら、何箇所かに渡って「この世における『悪の力』の存在」について描写してあることが分かります。そしてその首領は『悪魔』とか『サタン』とか呼ばれて、ある箇所では「この世の王」とも呼ばれています。すなわち、本来神様はこの地上を人間のために造られたのに『初めの人アダム』が神のことばよりも悪魔のことばに従って以来、この地上の支配権が悪魔に奪われてしまったのです。では、神様はそんな悪魔をどうして野放しにしておくのでしょう? 聖書の中の悪魔に関する記述を注意深く読むと、悪魔は「神の許容範囲内」でしか活動できないように制限されていることが分かります。悪魔がある個人または地域に災いをもたらそうと考えたとき、いつも神に「お伺いを立てに来る」のです。では、神は何故そのような悪魔の思惑をお許しになることがあるのでしょうか?それにはいくつかの理由がありますが、その主な理由は「私たちの目を『霊的な世界』に向けさせ、ご自身の許に引き寄せ、試練を通してその信仰を成長させるため」であるということができるでしょう。日本語のことわざにも「苦しいときの神頼み」とありますが、私たちはしばしば「痛い目を見るまでは神を求めない」頑なな存在です。しかし私たちが心を神に向け、彼を呼び求めるなら、神は私たちを「暗闇から光へ」移すことのできる方なのです。 悪魔は人間よりも力がありますが、神はその悪魔よりも圧倒的に優れたお方です。神は、彼に信頼し彼と共に歩む者とされた人々と『一緒に』この世界をご自身の許へと取り戻そうとしておられるのです。神は、私たちが苦難の真っ只中にいる時に、それをただ「傍観している方」ではなく、私たちが神に向かって助けを求めて叫ぶのを今日も「心を痛めながらじっと待っておられる方」なのです。

(275) “私たちは、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。”

『自分の存在価値』というものをはっきりと理解していることは非常に重要です。そうでないと私たちは常に「誰かに認められよう」とやっきになり、相手のために貢いだり、自分を偽ったりして、かえって自分をおとしめることになります。『自分の存在価値』を人からの評価に捜そうとするなら、それは中毒のように私たちを滅ぼして行きます。何故なら私たちは決してそのような方法では「満足に至る」ことはないからです。 私たちが聖書のことばを通して『創造主である神』と出会う時、私たちは初めて「自分の真の存在価値」というものを見出すことができます。何故なら『私たちの真価』は、私たちの「能力」「業績」「財産」などによって測られるのではなく、「私たちが誰の作品であるか」によって決まるからです。 私たちが他の人と語る時、もし「この人は私のことをどう思っているのだろう?」ということが気にかかるなら『心の中の真実』を語ることは難しくなり、結果として「耳障りの良いことだけ」を語るようになります。しかし実のところ大抵の人々はいつも『自分のこと』がその思いの中心にあるので、あなたのことにそこまで真剣に気を遣ったりはしていません。だから「人の目」や「人の言葉」を恐れないで下さい。むしろあなたのことをいつも心にかけてくださっている神様の「あなたは私の最高傑作なのだ。今日も自信を持って堂々と自分自身を生きなさい!」という語りかけにいつも心を留めていましょう。こういうわけで、私たちは「私たちの真価をご存知の神」にふさわしく、いつでも誰に対しても「愛をもって心の真実を語る」べきなのです。

(274) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という日本のことわざもあるように、必要な忠告を聞かないことは大きな失敗をもたらすことがあります。どんなにたくさんの知識を持っている人でも、知るべきすべてのことを知っているわけではありません。「自分にはまだ知らないことがある。まだまだ学ぶべきことがある」と分かっている人こそ『賢い人』と言えるでしょう。 プロゴルファーたちは皆『キャディ』たちと共にコースを回っています。そしてこの『キャディ』というのは、単に「ゴルフクラブを運んでくれる人」ではありません。彼らはそれぞれのゴルフコースに関する多くの知識を持ち、ゴルファーたちに必要なアドバイスを与えてくれています。 往年のプロゴルファーに「トミー・ボルト」という選手がいました。彼は大変技術の優れたゴルファーでしたが『癇癪持ち』でもありました。ある時ボルト選手が南カリフォルニアで開かれた大会に参加した時のことです。その日彼は前日に悪いスコアを出してしまったことに相変わらずイラついていました。そこで彼は1日の初めに自分のキャディに向かって「今日はお前は、オレ様に対して『ハイまたはイイエ』以外は言うんじゃない!」と命じました。そういうわけでキャディは、アドバイスをあげたいと思ったときでも忠実にその言葉に従いました。あるホールでボルト選手はティーショットを林の中へ打ち込んでしまいました。彼はイライラしながら林の中へ行き、そこに落ちているボールを見つけるとキャディに尋ねました。「やっぱりここは5番アイアンで行くべきだろうな?」キャディは「イイエ」と答えました。しかしボルト選手は自分の判断の方が正しいと思ったので、ともかく5番アイアンで打つと、打球は見事にグリーンの上の旗のすぐ側に止まったのです!ボルト選手は得意げにキャディに言いました。「どうだ、今度ばかりはオレ様の判断の方が正しかっただろ?何とか言ってみたらどうだ?」するとキャディは答えました。「ハイ、確かに良いショットでしたが、今あなたが打ったのは他の人のボールです。」 聖書は「人の心の高慢は破滅に先立つ」とも書いてあります。取り返しのつかない失敗をするよりは、立ち止まって忠告に耳を傾けた方が良いとは思いませんか?

(273) “わたしの愛の中にとどまりなさい。”

英語で「Make yourself at home」という表現があります。日本語に訳せばさしずめ「自分の家のようにくつろいでくださいね」といったところでしょうか?要するに「何も遠慮せず、ありのまま自由に過ごしてください。あなたは心から歓迎されており、受け入れられているのですよ」というわけです。 イエス・キリストが人々に向かって「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われた時、まさに同じような意味で言われたのです。神は、あなたが今まで誰からもそのように愛され受け入れられたことのないような愛によって、あなたのことを愛しておられるのです。私たちがしばしば『神の愛』というものを正しくイメージできないのは、それと似たようなものがこの世に存在しないからです。恐らく「母の愛」はそれにかなり近いものかもしれませんが、悲しいことに最近は「教育熱心さ」のあまり、自分の子どもに『不必要なハードル』を与えてしまう母親が増えてきています。しかし神の愛は『無条件』であり『永遠』です。あなたの能力や態度が、あなたに対する神の愛を増やしたり減らしたりすることはありません。それは優しく、力強く、完全な愛なのです。 「神の愛を受け取るために必要なもの」は、『努力』でも『我慢』でもありません。『信仰』です。「神はそのひとり子イエス・キリストを私の罪の身代わりに十字架にかけるほどに、私を愛しておられる」と単純に、幼子のように信じる『信仰』のみが、『父なる神』が私たちに望んでおられることなのです。

(272) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。”

ある男性が、経験不足のため「広告代理店」を首になってしまいました。しかし彼はどうしてもこの分野でもっと熟達したかったので、特別な許可を得て、給料なしでそれまで携わっていた仕事を継続させてもらうことになり、それまで以上に熱心にミーティングに参加したり、同僚の話を聞いたり、商談に同席し続けました。 彼の上司は、初めのうちはそんな彼のふるまいを無視し続けていましたが、やがて彼にこう言いました。「給料をもらうことよりも、仕事そのものを目当てに働いてくれる人物に出会うのは、キミが初めてだよ。」 やがてこの男性は「コマーシャル業界」において革命的な発展を遂げさせる様々なアイディアを生み出す人物となったのでした。 「偉大なことを成し遂げること」を夢見る人は大勢いることでしょう。しかし実際にそのための第1歩を踏み出す人は、驚くほど少ないのです。「今にお前たちをアッと言わせてやる」と言う人のほとんどは、昨日も同じ事を言っていたのです。「神がデザインしたようなアナタになるため」には、まず「神がアナタのために用意してくださった道」を歩き始めなければならないのです。当たり前のことですが、スタートしない限り、決してゴールインすることはできません。そしてスタートしたからには「自分の道が明らかに間違っている」と気付かされるまでは、脇目をふらず進み続けるべきです。 たとえ人々があなたを「あきらめた」としても、神様は決してあなたを「あきらめません」。ですから、神が備えておられる『偉業』に向かって、あきらめることなく今日も進んで行きましょう!

(271) “私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。”

今回の聖書のことばは、キリストの使徒であるパウロが残したことばです。彼は文字通り「命懸け」で国々を巡回し、イエス・キリストにある救いを宣べ伝えた人物で、新約聖書の半分近くを書いた人でもあります。このように断言できる『人生の目標』を持って生きることができたら素晴らしいとは思いませんか?実際パウロはその生涯が終わりに近づいた時、次のような言葉も遺しています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 アメリカの有名なキリスト教の牧師の著作で、3200万部も売れた『人生の5つの目的』という本があります。その中で著者のリック・ウォレン牧師は「すべての人間は次の5つの目的のために神によって造られた」と書いています。その5つとは… ①「神の喜びのため」に造られた ・この世は私たちを、私たちの持っているもの(能力・財産など)によって評価します。しかしそれらはすべて私たちが生まれた後で「与えられたもの」にすぎません。神は私たちがまだ何も持っていなかった「生まれる前」から、私たちの両親同様に、私たちの誕生を待ち焦がれていたのです。 ②「神の家族となるため」に造られた ・聖書の神は「関係を好まれる神」です。聖書は「神はイエス・キリストを通してご自身に近づく者を『神の子ども』とされる」と書いてあります。また聖書の中で最も大切な戒めは「私たちが神を愛し、また互いに愛し合うこと」です。私たちは『神の家族』として互いに深く愛し愛されるために生まれてきたのです。 ③「キリストのようになるため」に造られた ・私たちは皆成長します。肉体的にだけでなく、心もです。では、どこに向かって成長するのでしょう?それは『キリストの似姿』です。キリストのように強く、キリストのように優しく、キリストのように気高く、キリストのように清く生きる者とされるために、私たちは生まれ、神と共に生き、そして成長するのです。 ④「神に仕えるため」に造られた ・これは何も「奴隷や使用人のように」という意味ではありません。聖書には「神によって造られた民に対してしたことは、神に対してしたのである」と書いてあります。人間は決して1人で生きるように造られてはいません。誰もが他の人々の助けを必要としています。神は私たちを「1人で何かを成し遂げるように」ではなく、「互いに助け合って神のみこころを成し遂げるように」と造られたのです。 ⑤「特別な使命のため」に造られた ・私たちは1人1人違います。神がそうデザインなさったのです。それは皆が他の人と同じように生きるためではなく、それぞれがユニークな使命を担うためです。神はあなたにも『特別な使命』を用意されています。人生とは、その使命を見出し、その使命のために整えられ、そしてそれを成し遂げるために1人1人に与えられているのです。あなたの人生を浪費しないためにも、まず「神を知ること」から始めてください。 「人生の5つの目的」について、より詳しく知りたい方は、実際にこの本を読むことをお勧めします。

(270) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

1445年にグーテンベルクによって「活版印刷術」が発明されて以来、『聖書』は今に至るまで毎年世界のベストセラーです。一体『聖書』の何がそうさせるのでしょうか?ある匿名の著者が残した次のような文章があります。 「聖書には『神の心・人間の性質・救いへの道・罪人の宿命・信じる者への祝福』が書かれている。聖書はあなたを導く光であり、あなたを育む食物であり、あなたの心を元気づける。聖書は人生の旅路のためのロードマップであり、人生航路の羅針盤であり、人生上の戦いのための武器であり、人生の舞台を最高に演じるための脚本である。聖書は驚くべき富を得させる鉱脈であり、ごまかしのない喜びの源である。その教えは聖く、その訓戒は不動であり、その履歴には誤りがなく、その宣告は不変である。その至高の主人公はキリストであり、その内容は私たち1人1人のためにデザインされており、それらの最終目標は神の栄光である。これを読むことによって知恵を与えられ、信じることによって安息を与えられ、実践することによって全人格的に健康になる。この聖書をゆっくりと、ひんぱんに、祈りを込めて読みなさい。そのことばをあなたの思いに書き付け、心を治めさせ、それに導かれて歩みなさい。これはあなたの生涯の中に与えられており、やがてその生涯の終わりのさばきの時に神の前で開かれ、そして死の向こう側の永遠の世界においても認められる。そこには人類にとっての最大の使命が述べられており、人生における私たちのすべての労苦に対する大いなる報いが約束されており、またそれらの神聖な内容を『取るに足らぬもの』とみなす者たちへの確かなさばきが宣告されている。」 聖書は単に「重視されるべきもの」ではなく、日々の生活の中で「読まれ」「実行に移され」て行くべきものなのです。だてに600年も「世界のベストセラー」を記録しているわけではありません。さあ、あなたも今日からこの『聖書』を読み、行動に移し始めてみてください!

(269) “初めに、神が天と地を創造した。”

どういった理由かは分かりませんが、「聖書は非科学的な書物である」と思い込んでいる人がいるようです。聖書を専門的に学んでいる者として、そのように言う人は「聖書のことをよく知らないで言っている」と判断せざるを得ません。事実、科学的な発見が進むにつれて「何千年も前から聖書に書かれていた記述は事実であった」ということが次々と証明されているのです。 大昔には、地球は巨大な動物または巨人に担がれていると信じられていました。自分たちの住む地上が空中にプカプカ浮かんでいるなどとは誰も信じられなかったのです。しかし聖書の中でも最も古く、BC1500年頃に書かれた『ヨブ記』という書物の中には「神はこの地を何もない上に掛けられた」と書かれています。この事実が科学的に発見されたのは実にそれから3000年以上も経ったAD1650年のことです。天地を造られた神は、当然の事ながら誰よりも先にそのことを知っていたのです。 また新約聖書の「ヘブル人への手紙」には、「神は目に見えないものを用いて、目に見えるこの世界を造られた」と述べられています。この世界の目にみえるすべてのものが、目に見えない微粒子である『原子』というものによって構成されていることが科学的に知られるようになったのはつい最近のことです。 そして「地球は平面ではなく球体である」ということを自らの大航海によって証明した、皆さんもよくご存知の『コロンブス』は敬虔なクリスチャンで、彼は旧約聖書のイザヤ書にある「神はこの丸い地上の遥か上空に住まわれる」という記述からヒントを得ました。この聖書の記述はBC700年頃に書かれたもので、歴史上始めて「地球は球体かもしれない」と提唱したアリストテレスよりも300年以上前のものです。コロンブスはその航海日誌の中で次のように書いています。「この思いを私の心に抱かせたのは、他ならぬ『天地の造り主である神』である。確かに彼の御手が私の上にあるのを感じる。神は聖霊によってご自身の聖なるみことばを通し、私にこの確信を与えてくださったのだから。」 もし今度どこかで「聖書は非科学的だ」などと言う人に出くわしたなら、ぜひ優しく教えてください。「でもね、多くの偉大な科学的発見は、実は聖書をヒントにして見い出されたらしいよ」と。

(268) “あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。”

「神を信じたら、人生は問題がなくなる」と期待して、信仰の道に入る人がいます。しかし実際には問題はなくなりません。むしろ信仰の故に試練が増すかもしれません。それでは『神を信じること』を通して何が変わるのでしょうか?それは、私たちの視点が「私たちの周囲の状況を変えてくださる神」から「周囲の状況を通して私たち自身を造り変えてくださる神」へと移行させられるのです。 もちろん神様は私たちを愛しておられるので、しばしば私たちを不必要な危険から守ってくださいます。しかし神様が求めておられるのは、私たちが単に「安全で苦労のない人生を歩むこと」ではなく、「日々神に信頼し、そのみこころを求め、神から与えられている潜在能力を最大限に生かして生きるようになること」なのです。そのために神は、敢えて私たちが人生の試練に遭遇することを良しとされ、時間をかけてじっくりと私たちをご自身の『最高傑作』へと造り上げていかれるのです。 錬金術師は、鉱石が純金となるためにどれだけの時間火の中に置かれていなければならないかを知っていますし、陶器師も土の塊がどれだけ窯の中にいなければ美しい作品へと仕上がらないかを知っています。もし「熱くて可愛そうだ!」と言って中途半端なタイミングで取り出してしまったら、すべてが台無しになってしまいます。 神様はどんな錬金術師や陶器師よりも優れた知恵と深い愛をもって私たちを「ご自身の最高傑作」へと今日も造り変えてくださっています。神様が与えておられる『試練の火の温度』や『取り出すタイミング』は絶妙で完璧です。ですからぜひ、試練の中にあって「早く過ぎ去ること」ばかりを考えないで、「このことを通して神様が私に与えてくださっているレッスンは何だろう?」と思いを馳せてみると良いと思います。

(267) “主の良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

ある警察官が町内を巡回していると、1人の男が非常にガッカリした顔つきで公園のベンチに座っているのを見かけました。ちょっと心配になった警官は男に近づいて話しかけました。「何か心配事があるんですか?」男は答えました。「はい。実は数ヶ月前に祖父が亡くなり、私に500万円の遺産を遺してくれたんです。」警官は答えました。「あまり落ち込む原因には聞こえませんが?」「いや、話を最後まで聞いてください。」男は続けました。「実はそれに続いて先月にも伯父が亡くなり、私に1000万円近くの遺産を遺してくれたんです。」「なるほど、数ヶ月のうちに2人も身内の方が亡くなられたのは残念ですが、でもやはりそこまで落ち込むほどのことではないように聞こえますが…。もしかして、まだ他にもどなたか亡くなられたとか?」「そこなんです!」男は力を込めて答えました。「今月はまだ、誰も私に遺産を遺してくれていないんです!」 世の中には「物事の否定的な面」しか見ることができずに、自分で人生を暗くしてしまっている人たちがいるものです。あなたはそんなワナに捕まってはいませんか? 聖書は「神が良くしてくださったことを何1つ忘れるな!」と命じています。これは何も神様が私たちに「恩を着せよう」としているわけではなく、私たちの心が「下向き・内向き」にならないようにするためです。神様は『恵み』と『憐れみ』に満ちた方なのです。『恵み』というのは、「私たちには受ける資格がないのに、神様が敢えて与えてくださっているもの」(愛、赦し、平安、解放、喜び 等々)を指し、『憐れみ』というのは、逆に「私たちが当然受けるはずであったもの(罪に対する罰、神の怒り、さばき 等々)を神様が受けないで済むようにしてくださっていること」を指します。 古い讃美歌に「神様の恵みを1つ1つ数えてご覧なさい」という内容のものがあります。私たちが日々の神の祝福を1つ1つ見つけていく時に、私たちの心は「上向き・外向き」にされて行き、周囲に希望を振りまいていけるようになるのです。

(266) “主の御告げ ― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたしの手の中にある。”

多くの人は「新しい自分になりたい!」と願う一方で、『変化』を嫌います。「悪いところを改善したい」と切望しますが、そのために払う犠牲は最小限に食い止めたいと思うものです。 私たちが神を信じ神に従うようになると、しばしば「安楽な人生」ではなく「試練に満ちた人生」に直面します。きっと多くの方々は「こんなはずではなかった。何かが間違っているのではないか?」と感じるのではないでしょうか?でも心配はありません。それらは起こるべくして起こっているのですから。 聖書は「神の御手の中に委ねられた私たちの人生」のことを、「陶器師の手の中にある粘土」にたとえています。陶器師が自分の目指す『最高傑作』を造り出すために行う最初のプロセスは、まず粘土を十分にこねて、中にある空気などの不純物を追い出すことです。そうしないと、作品の形が出来上がって窯で焼くときに、中の空気が膨張して、せっかくの作品が壊れてしまうからです。同様に、私たちは「こねられている時」は、やがて出来上がる形が見えていませんから、ただ居心地が悪いだけで、その手の中から逃げ出したくなるかもしれません。でも「神様は良い方だから、きっと最終的に素晴らしい結果を生み出してくださるに違いない」と最後まで信じて神の御手の中にとどまり続けるなら、私たちは自分の思いを超えた神様のみわざが自分の人生を通して成し遂げられるのを体験できるのです。 偉大なキリスト教指導者の1人が次のように言っています。「単に問題から逃れることだけを求めるのではなく、むしろその問題を解決できる者となることを求めなさい。自分の人生に有益な環境を求めるだけでなく、周囲の環境さえも変えることのできる者となることを求めなさい。同じ事を繰り返しながらより良い結果を求めるだけでなく、思いもよらない結果を得るために新たなことにチャレンジしなさい。何故なら、更に偉大な結果を得るために当然払うべき犠牲を払わないことは、何の成長もない人生のために時間を浪費していることと同じなのだから。」 変化を恐れないで、『良き神様』に信頼して、その力強い御手の中にとどまり続けましょう!

(265) “何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。”

  「神様に願い事をしたのに叶えてもらえなかったこと」に対して文句を言う人たちはたくさんいますが、「神が願い事を叶えてくれてしまったこと」に文句を言う人はあまりいませんよね?「そんな人いるわけないじゃん!」と思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか? こんなことを言っていた人がいました。「神様がすべての私の祈りを叶えてくれなくて本当に良かった。でなければ、私は何度も間違った人と結婚していたに違いない」と。あなたは「あの時のあの祈りが文字通り答えられてしまっていたら、とんでもないことになっていた」と思い当たることは全くないでしょうか? 私たちはしばしば『自分の本当の必要』を理解していません。この天地万物を造り、私たちをも生み出してくださった神様は「最高に良いお方」ですから、私たちの『最善』だけを願ってくださっています。ですから、私たちが『最善以下』を祈り求めている時は、その祈りに答えないでいることをじっと耐えておられるのです。 そもそも『祈り』とは何でしょう?私たちは『祈り』と『願い事』をほとんど同じ意味で用いますが、実はこの2つは全く別のものです。『祈り』は言わば「神様とのコミュニケーション」であり、私たちが『神様』という方をより深く知るために欠かせない営みです。私たちは『祈り』によって神様に近づき、その大きな愛に触れ、私たちのありのままを受け入れていただくことによって、深い平安を体験することができるのです。その上で私たちは「この方が与えてくださるものこそ、私にとって最高に『良いもの』なのだ」と確信し、『神のみこころ』を求めるようになるのです。 神様は、求める者には喜んでご自身の『みこころ』を「聖書のことば」や「祈り」を通して私たちに教えてくださいます。その『神のみこころ』に従って私たちが「願い求める」なら、神は「待ってました!」とばかりにその『祈り』に答えてくださる、これが聖書の約束なのです。

(264) “私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。”

1899年、アメリカの『特許局』が閉鎖に追い込まれそうな時期がありました。何故なら当時の最高理事であったチャールズ・ドゥエル氏が「可能性のあるすべての発明品は、発明尽くされた」と発表したからです。もちろんこのコメントは現代の文明発展から見れば「あきれるほど愚かしい」ものですが、もしかすると私たちの思いの中にも同様な『勘違い』が蝕んでいることがあるかもしれません。 私たちはしばしば自分自身に「そんなことは無理」「自分にそんな資格はない」「時間の無駄だ」「失敗したらどうする?」などと否定的なメッセージを送り続けることがあります。それはあたかも自分がやっと入れるサイズの箱の中に自分で閉じこもっておきながら「誰が自分をこの箱の中に閉じ込めたのだろう?」と問うているようなものです。 こんな話があります。生まれつき体の不自由な男の子がいました。母親が医者に診せたところ「これは今の医学では手の施しようがない」という診断でした。やむなく母親はその子を「車輪付きの木かご」に入れて、どこに行くにもそれを引きながら連れ回していました。やがて男の子は困ったことを始めました。体を激しく揺らして木かごを倒すのです。その度に母親は倒れた木かごを起こし、徐々に重くなる息子を抱き上げて木かごに戻さなければなりませんでした。同じような出来事が何度も繰り返された後、ある日同様に倒れた木かごから転がり出た男の子は、自分の足で立って木かごを起こし、自分でその上に這い上がったのです!やがてこの男の子は普通に歩けるようになったそうです。 もしかするとしばらくの間だけなら「箱の中に住む」のは居心地が良いかもしれません。しかし神はあなたを「箱の中で生きる」ようにはお造りになりませんでした。むしろ「神が与える果てしない可能性の中に生きる」ようにデザインされたのです。「箱の中」に閉じ込めたのは誰でもありません。他ならぬあなた自身なのです。ですから恐れないでその箱から破り出て、「不可能を可能にされる神」がお定めになった『フルサイズの人生』へともう1度チャレンジしてみましょう!

(262) “恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。”

私自身は確かめたことはありませんが、聞いた所によると聖書の中には『恐れるな』という表現が365回出てくるそうです。それはあたかも神様が私たち1人1人に毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。 聖書の神は、ただ単に「気休め」のつもりで『恐れるな』と言ってくださっているのではなく、ちゃんとした根拠をもってそう語りかけてくださっています。その根拠というのは、「あなたはわたしのものだから、必ずわたしが守る」という約束に基づいているのです。 私たちすべての人間はこの『創造主なる神』によって造られました。ですから元来私たちは全員「神のもの」です。しかし神は敢えて私たちがご自身にとってどれほどに価値有る存在であるかを示すために、私たちのために代価を支払ってくださいました。『贖う』ということばは「代価を支払って購入すること」を表す古い表現です。そして神様は私たちを『贖う』ために、ご自身のひとり子(イエス・キリスト)のいのちを支払われたのです。私たち1人1人は、この天地万物を造られた唯一まことの神の前に、それほどに価値有る存在なのです! 「私には自分がそれほどの価値がある者とは思えない。」あなたはそうおっしゃるかもしれません。実際、この世の多くの人々や社会は「能力」「財産」「経歴」などによって人間の価値を測り、しばしば自分自身の足りなさを認めたくないがために他の人をこき下ろそうとしたりします。しかし『人間の真価』を正しく評価することができる存在は、私たちをお造りになり、しかも私たちの「隠れた行いや可能性」さえをもご存知の神様以外にあり得ないのです。彼が私たちに対して下す評価の前には、他の人々の評価などは全く注目するに値しません! もし今日あなたが「自分自身の内なる声」や「周囲の人々の声」から注意をそらして、「あなたはわたしのものだ。恐れるな。」と呼びかけてくださる『創造主なる神のことば』に心を向けるなら、あなたは正しい自己評価を持って残る人生を雄々しく歩んで行くことができるのです。

(261) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

あるコメディアンがこんなジョークを言ったそうです。「私が結婚する時に、ぜひ欲しいウェディング・ギフトは『結婚式の録画ビデオ』です。というのは、結婚生活がいよいよ破局に陥った時、1人きりで部屋にこもってそのビデオを逆回しに再生し、独身だった自分に戻って再び自由を謳歌するためです!」 このジョークを聞いて思わず笑いそうになってしまいますが、実際は私たちは過去に戻って人生をやり直すことはできません。いやむしろ、そのような「後ろ向きの姿勢」で生きていたら、決して豊かな未来を迎えることはできません。私たちは「過去に憧れる」のではなく、「過去から学ぶ」べきなのです。私たちはしばしば「あぁ、こうなることが初めから分かっていたなら…」と言ってしまうことがありますが、もしそのような体験から何かを学び将来に生かして行かないなら、今後何回も同じ事を繰り返して言うことになるのです。「あぁ、もしあの時夫(または妻)に対して冷たい仕打ちをする代わりに、ただ赦すことができてさえいたら、今頃もっと豊かな結婚関係を築けていたかもしれないのに…」「もしあの時あの子を産んであげられていたら、今頃私の人生にはもっと喜びと平和がもたらされていたかもしれないのに…」 あなたの優しい良心は、そのような後悔の念にさいなまれてしまってはいませんか?「もしもあの時 …」「もしもっとこんな風に …」と。 あなたをお造りになり、今日もあなたをご自身の愛の内に招いておられる神は、聖書を通して次のように語りかけておられます。「イエス・キリストの十字架における身代わりの死によって、あなたの罪は赦された!」「わたしはあなたの罪をぬぐい去り、それらを2度と思い出さない」そして冒頭のように「過去のことを思い出すな。見よ。わたしは新しい事をする」と。 自分の手に届かない『過去』は「神様の全能の御手」にお任せし、過去の失敗から学んだ経験を生かして、神様が用意してくださっている『未来』に向かって今日も前進して行きましょう!

(260) “しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。”

私たちが生きている今の時代は、一見便利で豊かに見える反面、時代について行けない人を置いてきぼりにしたり、役に立ちそうもない人を切り捨てたりするむごい側面もあります。生産性・効率性を追求するがあまり「1人の人のためにじっくり待つ」という姿勢が愚かしく思われ、「他の人に頼むから、アナタはもういい!」と切り捨てられた経験からなかなか立ち直れない人も少なくないのではないでしょうか? このような時代であるからこそ求められるのは「誰のことば(評価)に耳を傾けるか?」ということです。自分勝手な視点からしか物事を見られない『人間の評価』なのか、それとも「あなたを形造り、あなたの真価をご存知である『創造主なる神の評価』」なのか、これが私たちの生き方(価値観)を大きく左右します。 『神の恵み』は、私たちの能力や才能によっては勝ち取ることができません。むしろ自分の弱さを認め、「神は良い方であり、決して私を辱めたり見捨てたりなさらない」という信頼の許に神に近づく者に注がれるのです。イエス・キリストは「もしあなたがたが私を信じるなら、あなたがたは『真理』を知るようになる。そしてその『真理』はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。人々のことば(評価)はその人の主観に基づいた一過性のものであって『真理』ではないのですから、恐れるには足りません。 人のことば(相対的評価)に振り回されるのはもうやめて、神のことば(絶対的・不変的評価)に耳を傾けつつ、あなたを通して働く神の豊かなみわざを待ち望む者になりましょう!

(259) “ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。”

聖書は「人間は生まれながらの罪人である」と指摘します。そしてそれは人類の始祖『アダムとエバ』以来、私たちの人間性の中に「罪を犯す傾向性」として巣食っています。 『アダムとエバ』が最初に犯した罪は「禁断の木の実を食べたことである」と描写されていますが、そのことを神から指摘された2人は早速その罪性を「自分の落ち度を他人のせいにする」という行動によって表現します。私たち人間はこんなに昔から「自分の非を簡単には認めない」という頑なさを固辞しているのです。 私たちが神の愛を知るようになり「神に喜ばれる者になりたい」と思い始めると、神はまずこの私たちの『頑なな心』から造り変えようとなさいます。ところが神はいつでも私たちの『自由意志』を尊重される方なので、無理やり私たちの心の中に入り込んでくるようなことはなさいません。私たちが自分から心を開いて「神様、こんな私を憐れんでください」と助けを求める時、神は喜んで私たちの心を優しく修復してくださるのです。 私たち人間は、どういうわけか自分の落ち度を責められると、自動的に『自己防衛スイッチ』が入り、言い訳をしたり、他人に罪をなすりつけたりしようとします。神はその性質をよくご存知だったので、敢えて私たちの罪をまず「十字架におけるイエス・キリストの身代わりの死」によって帳消しにし、もはや責められるところのない者としてくださった上で、私たちが恐れずに「自分の欠点や弱さ」を神の前に素直に告白できるようにしてくださったのです。 実際は、神の前に隠すことの出来るものは何もないのですが、神は敢えて私たちが幼子のように素直になって抱えている問題を自分から素直に告白できるようになるのを待っていてくださるのです。ですからもはや自分を無理に飾ることなく、ありのままの姿で神の前に進み出て、心のありのままを告白し、神に喜ばれる者へと変えていただきましょう。

(258) “平和を求め、それを追い求めよ。”

すべての人が欲しているものの1つと言えば、それは『心の平安』ではないでしょうか?どんな状況の中でも変わることのない平安を保って生きる、果たしてそんなことが可能なのでしょうか? 「平安を保つ」ためにまず私たちが知らなくてはならないのは、「何が私たちから平安を奪っているのか?」ということです。悪魔が私たちを脅かすのにはいくつかの共通した方法もありますが、多くの場合、私たちは1人1人違った理由によって平安を奪われます。例えば、ある人は「やらなければならないことがいくつもある」という状況に陥ると途端にイライラしますが、別の人は「こんなにたくさんのことを委ねられている!」と逆に元気が出るかもしれません。私たちは1人1人違うのです。だからこそ「自分の弱点を知る」ことが必要です。悪魔は私たち1人1人をよぉく観察しており、どこを突けば良いのかを熟知しているのです。 ある聖書の専門家がこんなことを言っていました。「私は疲れてさえいなければ、大抵のことは順調にこなすことができる。ということはつまり、悪魔は私が疲れ切ってしまうのを待っているのだ。このことに気づいて以来、私は決して疲れ果ててしまうまで仕事をしないように気を付けている。みすみす悪魔に付け込む隙を与えないためだ。このような『自分の傾向性』に気付くまでは、「平安を保って生きる」なんて到底無理である。」 皆さんにお勧めします。イライラしたり、ガックリ落ち込んでしまった時は、その時のことをできるだけ詳しく書き留めてみてください。そして「一体何が原因で『心の平安』を失ったのか?」を探ってみましょう。自分の弱みが顕わにされることを恐れないで、正直な気持ちでこのことを行ってください。そしてその原因となるものをできる限り自分の生活から取り除くように心がけるのです。 イエス・キリストは、十字架上の死からよみがえられた後、まず弟子たちに「平安があるように」と語りかけられました。失われた平安は、必ず取り戻すことができるのです。死にさえ打ち勝つことの出来る方があなたと共にいてくださるからです。  

(257) “思いの一新によって変えられなさい。”

人生って「楽しいこと」ばかりじゃありませんよね?神を信じているか否かに関らず、困難や試練は容赦なく襲いかかってきます。ところで知っていましたか?それらの『人生の試練』に屈してしまうかどうかは、「その試練の大きさ」や「その人がどれだけ強いか」にかかっているのではなく、「その試練に立ち向かう態度」すなわち『心の持ち方』次第だということを。 ある人々は、人生の試練に直面すると「これはとても自分には乗り越えられない」とか「もしもう1度同じようなことが起こったら、あきらめるしかない」などと決めてしまって、ある意味困難が襲いかかって来る前に、既に『敗北宣言』をしているのです。私たちの『思い』のうちにある「あきらめムード」こそが、私たちを打ちのめす最も強力な敵なのです。 私たちはこのような『敗北に向かわせる傾向性』の代わりに、むしろ「この困難は私をより強くさせるための神からの訓練である!」「試練が大きいほど、それを乗り越えさせる神の助けは更に大きい!」というような『肯定的・積極的な心の態度』を培うべきです。そしてそのような心の姿勢は「神のことばに従って『自分の思い』を一新させること」からやってくるのです。

(256) “神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

誰でも「問題のない人生」を望みます。しかし実際は「生きている限り問題に直面する」というのが現実です。ですから私たちの問うべき質問は「自分の人生にも問題は起こるだろうか?」ではなく、「問題が起こった時に、どう対処するべきだろうか?」なのです。 あなたの人生に問題が生じた時、あなたは誰に頼るのでしょうか? 親?友だち?それとも自分自身? 聖書は私たちにもう1つの、そして他の誰よりも確かに信頼できる存在を紹介しています。それはこの天地万物を造り、今も支配しておられる『創造主なる神』です。そしてこの『神』は、「私たちがご自身の許に身を避け、信頼を寄せる時に、私たちを苦しみから救い出してくださる方である」と証言しています。 しばしば聖書は私たちに「試練を喜ぶように」と勧めています。常識的に考えれば愚かしく聞こえます。何故なら、この世の価値観は私たちに『安全』や『問題のない人生』こそ善であると教えるからです。しかし私たちをこよなく愛しておられる神様は、私たちをご自身の許に引き寄せるためであるなら、人生の問題をも用いることが出来る方なのです。 神と人々とを憎んでいる悪魔は、私たちが恐れたり悲観的になったりするのが大好きです。しかし私たちが試練の中でも神に信頼し喜んでいる姿を見ると、なす術を失うのです。すなわち私たちが、周囲の状況や己の限られた能力に頼るのではなく、「神に深く信頼することによってのみ得られる真の平安」を見い出しその中に憩うとき、悪魔が張り巡らしている「この世の奴隷とする呪縛」から完全に解放されることができるのです!

(255) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

オペラ史上最も有名なテノール歌手の1人に「エンリコ・カルーゾ」というイタリア人がいます。実は彼がまだ10歳の時、彼はレッスンの担当者から「キミは全く才能のかけらも無いから、この道はあきらめた方が良い」と言われたのでした。しかし彼の母親は息子の才能を信じて疑わず、貧しさの中で大きな犠牲を払いつつ、彼のためにレッスンの費用を捻出し続けました。そしてこの母親の励ましは、まだ幼かったエンリコの心に大きな自信と勇気を与え、歴史は『専門家の評価』ではなく『息子を信頼し続けた母親の評価』の方が正しかったことを証明したのです。 この世界はしばしば私たちを『見た目』だけで評価し、こき下ろします。だからこそ私たちは「自分を信じてあきらめることなく励まし続けてくれる存在」を必要としています。そして特に子供たちにとっては、まずその親たちがそのような存在であるべきなのです。下記に「子供の視点で書かれた『親たちへのお願い』」を列記します。 1.「ボクが上手にベッドメイキングできなかったり、上手に絵を描けなかったり、上手にボールを投げられなかったとしても、あんまりガッカリしないでね。だってボクの手はまだ小さいのだから。」 2.「あんまり早く歩かせようとしないで、アタシと一緒にゆっくり歩いてね。アタシの足はまだ短いのだから」 3.「ボクに少しずつ冒険をさせて、世界がどんなに大きいのか見つけさせてね。ボクの目はまだまだ見たことのないものがたくさんあるから。」 4.「少しずつ、でももっともっとたくさんのお手伝いをさせてね。そしてゆっくりと丁寧に教えて欲しいの。だってお手伝いは逃げないし、アタシにはまだまだ時間がたっぷりあるんだから。」 5.「そんなに1日中ガミガミ言わないで、自分がしてもらいたいのと同じように優しくしてね。ボクの心だってデリケートなんだよ。」 6.「誰かが言ってたけど、アタシは神様からアナタへの贈り物なんだって。それってホント?だとしたら、アタシはアナタにとって『大切な宝物』なのね!それじゃアタシがアナタの他の宝物よりももっと素晴らしく輝けるように、立派な大人へと育ててね。」

(254) “この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。”

誰でも1つや2つは、日々の生活の中で陥りやすい『悪い傾向性』を持っているものです。「アルコール依存」「浮気や不倫」「すぐ怒りが爆発する」「悪いうわさ話」「憎しみや嫉み」「盗み癖」「すぐ嘘をつく」「ギャンブル」などなど。ある人々は「親から受け継いだ悪習慣だから仕方ないさ」と言うかもしれませんが、聖書に照らし合わせるならば、これは「親からの遺伝」ではなく、むしろ「初めの人『アダム』から引き継いだ『霊的遺産』」、まさに「そう生まれついた性質」なのです。 『神のかたち』に造られた私たちは、誰でも「正しい生き方をしたい!」という願いを持っています。しかし私たちの始祖アダムが神に反逆して以来、私たち人間に染み付いてしまっている『罪の性質(自分を第1優先にしようとする性質)』が「神を喜ばせようとする願い」に戦いを挑み、勝利してしまうのです。私たちは「罪を犯してしまったから『罪人』となる」のではなく、「生来の『罪人』なので罪を犯してしまう」のです。 それでは、私たちにはもう希望がないのでしょうか?一生『罪の性質』の奴隷となり「神に喜ばれる者として生きること」をあきらめなければならないのでしょうか?キリストの使徒パウロは、次のように言っています。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、かえってしたくない悪を行っています。私は本当にみじめな人間です。だれがこの『死のからだ』から私を救い出してくれるのでしょうか?」「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します!なぜなら、キリスト・イエスにある『いのちの御霊の原理』が、罪と死の原理から私たちを解放してくれるからです。」 『霊的戦い』は、私たちの戦いではなく「神が勝利を与えてくださる戦い」です。神は私たちを『死のからだ』から『まことのいのち』に移すために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかからせ、そして3日目によみがえらせてくださいました。それがこの週末に世界中の教会でお祝いされている『復活祭(イースター)』なのです!

(253) “正しい者は、自分の家畜(動物)のいのちに気を配る。”

ある人が休日に旅行に出かける計画を立て、旅行先で宿泊予定のホテルにこんな問い合わせをしました。「実は私が可愛がっている1匹の犬がいるのですが、一緒に泊まらせていただくことはできますでしょうか?しっかりしつけてあるので、決して他のお客様にはご迷惑をかけないと思うのですが…」 すると、ホテルの方から次のような返答が来ました。「当ホテルは開設以来30年が経ちましたが、未だに犬がタオルやベッドシーツ、また壁にある高価な絵などを盗んで行ったことはございません。また犬が酔っ払って暴れたり、ホテル代を払わずに帰ってしまったこともございません。ですから、もちろん犬がおいでになることは何の問題もございません。念のため付け加えさせていただきますと、その犬が、同伴される飼い主様の身元を保証してくださるのであれば、その飼い主様のご宿泊も心から歓迎いたします。」 神がこの天と地を創造された時、大地や人間だけでなく、すべての動物たちもお造りになり、「すべては非常に良い」と言われたことが、聖書には書いてあります。事実、多くの「寂しさを抱えた人々」や「傷ついた心」を動物たちは慰め、再び立ち上がる力を与えてきました。統計によると、ペットを飼っている人々の方が、そうでない人々よりも長生きし、病気も少なく、病気からの回復も早く、鬱になる割合も少ないそうです。 私は定期的に『盲導犬育成』の団体を支援していますが、盲導犬の主人に対する忠誠は、知れば知るほど感動させられます。神は私たちに、これらの動物たちに注目させることによって、「私たち自身の生き方」について何かを学ばせようとしておられるのではないでしょうか?

(252) “もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”

前回に続いて『忍耐』についてです。現代は「インスタントの時代」です。このような時代にどのようにして子供たちに『忍耐(待つこと)』を身に付けさせることができるのでしょうか? 1.実物教育によって ・大抵の子供は植物を育てるのが好きです。ぜひ子供が好む花や野菜の種を一緒に蒔いて育ててみましょう。そして「どんな生き物も、成長するのには時間がかかる」ということを実体験させてあげましょう。 2.時間の流れを体験させる ・子供は『待つ』ために何か「見えるもの」が必要です。例えば「夕食は6時から」ということを学ばせるために、時計の針やタイマーが進んでいくのを見せたり、一緒に遊園地に行く日をカレンダーに記して、それまでの日々にチェックを入れさせたりするのです。子供たちが「待つこと」を嫌がる大きな理由の1つは、それがいつまで続くのかがはっきりしないからです。 3.ぬけがけ(ズル)を許さない ・我慢できない子供たち(大人もですが…)は、よく「横入り」をします。大切な会話をさえぎったり、おやつの時間をごまかしたり。緊急の状況以外は「時間や礼儀を守ること」を、自分でも模範を示しつつしっかりと教えましょう。 4.楽しく学ばせる ・子供は『ボードゲーム(すごろくなど)』が大好きです。そしてこれらのゲームは必ず「自分の順番を待つ」ことになります。素晴らしいことに子供たちは「自分は待たされている」などと感じることなく『待つ』ことを学びます。将棋や囲碁などに興味を持つようならしめたものです。『待つこと』を楽しく身に付けさせましょう。 5.褒美を与える ・もし幼児が、あなたが赤ちゃんにおっぱいをあげている間、自分の『空っぽのコップ』を持ちながら「お母さんがミルクを入れてくれる」のをじっと待っていられたなら、思いっきり褒めてあげましょう。子供がずっと欲しがっていた高価なもののために長い間一生懸命お金をためているなら、そのお小遣いが95%貯まった時に残りの5%を出してあげるのも良いかもしれません。 神は、私たちが「祈りの答え」を待ち望んでいるとき、私たちが「あきらめてしまうこと」を望んでいるのではなく、「最後まで待っていられるように励ましを与えてくださる方」です。私たちも同じように『待っていられる子供』を愛情をもって育てて行きましょう。

(251) “あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。”

こんなお祈りを聞いたこと(あるいは自分で祈ったこと)がありますか?「神様、どうか私に『忍耐』をお与えください。今すぐに!」 神様は恐らく、このお祈りに答えるために、敢えて「すぐには」この祈りをかなえないに違いありません。 現代は『スピード時代』です。私たちはテレビのスイッチを入れてからほとんど数秒しか待っていることができません。スーパーのレジでも、3人以上並んでいる列の最後尾につきたくはありません。でも気付いているでしょうか?この「忍耐のなさ」が私たちの心を蝕んでいることを・・・ 物事がそうなって欲しい時に、そうなって欲しいと思う通りに実現することができるお方は世の中にたった1人しかおられません。それは『天地創造の神』です。しかし驚いたことに、この神様は恐ろしいほど「忍耐強く」「寛容」であられ、私たち『人間の思い』がご自身の『みこころ』に沿ったものとなるまで、じっと待ち続けてくださるのです。そう考えると、ほんのささいなことですぐイライラする私たちって、ちょっと馬鹿げていると思いませんか? 神は私たちに「喜びと平安に満ちた人生」を送って欲しいと願っておられます。そしてこの『喜びと平安』は、私たちが「思い通りにならないことにどう対処するか」によって左右されます。私たちは神ではないので、周囲の状況を変えることはできませんが、自分の心の中に起こることをコントロールすることはできます。そのための秘訣をいくつかお教えしましょう。 ①「自分の中には変えられなければならない部分がある」とはっきり認める。自己正当化したり、言い訳を繰り返しているうちは、決して成長することはできません。  ②神に対して心を開き、心の内に「忍耐の実」を結んでくださるよう求め、神に信頼して生きる。  ③「次のことにとりかかること」よりも「現在の状況の中でベストを尽くすこと」に集中する。 聖書では『忍耐』のことを「聖霊が結ばせてくださる『実』」であると描写しています。ご存知のように『実』は一夜にしては結ばれません。でも心をこめて育てれば、素晴らしい実が結ばれます。一緒に「忍耐の実」を求めて、1日1日をじっくりと歩んで行きましょう。

(250) “光がある間に歩きなさい。”

カビは『暗闇』の中で大いに成長します。しかし光に当てたとたんに、カビはしぼみ、そして枯れます。 私たちの心の中にも『カビ』がはびこることがあります。イエス・キリストは次のように言われました。「光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。」すなわちこれは「人に知られたくない(公明正大でない)計画や行い」を抱いている状態のことです。(誰かのための『サプライズ・パーティ』を計画することは別ですが…) 『隠し事』はしばしば私たちの人生にダメージを与えます。カビのように、初めは小さくても、心の中の『暗闇』に閉じ込めておくことによってそれは徐々に大きくなり、私たちの心をさいなませ、悪い考えや習慣へといざない、最後には破滅へと追いやります。『隠し事』は私たちの心を『暗闇』へと追い込み、否定的な思いの虜へと陥れるのです。 では、どうすれば良いのでしょう?素晴らしいことに、聖書はその脱出の道をも教えてくれています。「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」もし私たちが勇気をもって『光の中』へと1歩踏み出すならば、すべてが変わります!その隠し事、そしてあなたの心を縛っている恐れや否定的な考えを神に告白し、明るみに出すのです。(必要ならば、信頼できる友人などに告げるのも良いでしょう。)いったん光が投じられたならば、カビがしぼんでいくように、あなたの心の中の暗闇は逃げて行き、あなたは「大いなる解放」を体験することでしょう! 悪魔はいつでも私たちを『罪の暗闇』へと閉じ込めようとします。ですから、もう「隠し事を持つこと」を止め、心の目を覚まして、いつも神に対して心を開いて、光の中を生きて行きましょう!

(249) “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”

聖書に出てくるイエスの教えの中に「ある家の主人が3人のしもべたちにいくばくかのお金を託して旅に出る」というたとえ話があります。主人が旅から戻った時、3人のうち2人は「託されたお金を元にこれだけ儲けました。」と報告し、「良い忠実なしもべたちだ!」とほめられますが、最後の1人は託されたお金を全く活用しなかったために叱られます。そのしもべは主人にこう言い訳しました。「私はこわくなり、出て行って、あなたから託されたお金を地の中に隠しておきました」と。 『恐れ』は私たちの心の平安を失わせるだけでなく、私たちが自分の能力を活用することを邪魔します。「そんなことしている人、ほかに誰もいないじゃないか」「自分が本当にそれにふさわしいと思っているのか?」「もしそれをやって失敗したらどうするんだ?」などなど。そのようにして『新たな可能性の芽』を摘まれてしまっている人の何と多いことか! 敬虔な信仰を持っていた「イスラエルの王ダビデ」は、その生涯の長い期間を敵にいのちを狙われながら過ごしました。以下はそんなダビデの残した言葉です。「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。・・・それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」また彼は神に次のように祈っています。「聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」 「神になんて頼る人間は弱虫だ!」などと言う人があります。しかしこのダビデ王はイスラエル王国の歴史上最も勇敢で力強いヒーローとして知られています。「神に頼る」という行為は少しも「弱い者のすること」ではありません。むしろ「神によって与えられている能力を最大限に活用して生きるため」にどうしても必要なことなのです。逆にそれでも神を求めようとしないのは、「アイツは神になんか頼っている」と思われることを恐れる『弱虫』のすることではないでしょうか?

(248) “陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。”

今日は『喜び』と『幸せ』の違いについて述べたいと思います。ひと言で言うなら「『喜び』がなければ『幸せ』にはなれないが、『幸せ』でなくても『喜び』を味わうことができる」ということです。すなわち『幸せ』は私たちの外側(経済状態、健康状態、人間関係など)によって左右される「感情的なもの」であるのに対して、『喜び』は私たちの内側(無条件に神から愛されていることの確信)から生まれるのです。 日本語でも「笑う角には福来る」と言いますが、私たちが笑う(喜びに満たされている)ことは、多くの良い物をもたらします。それはストレスを解消し、頭痛を癒し、感染や高血圧を抑制します。また「大笑いすること」は適度な運動と同様にあなたの腹・胸・肩その他の筋肉を引き締め、血圧や脈拍をいったん上昇させてから元に戻し、体や気分を大いにほぐしてくれるのです。 この世には、私たちの気分を落ち込ませるものがたくさんあります。しかし神はそのような状況の中でさえ私たちが喜べるように私たちをデザインなさいました。すなわち、私たちが「環境の奴隷」となるのではなく、「神の愛の奴隷」となるように造られたのです。環境は常に変化します。しかし『神の愛』は私たちの外見や人間性、能力や持ち物、また出来・不出来などには決して左右されません。この『神の愛』に心を支配されながら人生を歩み時、他の人々にとって「何1つ喜べる材料が見当たらないような状況」の中でも、喜びに満たされて生きることができるのです。

(247) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

私が大学生の時(ずいぶん前のことですが…)『教育学』の授業で「誉め方・叱り方」についてのリサーチをしたことがありました。いくつかの小中学校でアンケートを取ったのですが、その結果からはっきり分かった1つの意外なことは「人は叱られた経験よりも誉められた経験の方が強く心に残っている」ということでした。しかし大変残念なことに、ほとんどすべての学生たちにとって「誉められた経験」よりも「叱られた経験」の方がずっと多かったのです。 どうして私たちは、人を誉めたり励ましたりするよりも、むしろ叱ったり批判したりすることを選んでしまうのでしょう?恐らくその1つの理由は「長所よりも短所の方が見つけやすい」もしくは「自分の欠点を直すよりも、他人の欠点を指摘する方が楽だから」ではないでしょうか? 私たちは『自分自身の価値』というものを「自分が持っているもの」に求めがちです。すなわち「自分の知識」「自分の長所」「自分の能力」「自分の経験」などです。ですから、自分よりも多くを持っている人と出会うと、妬んだり落ち込んだりするし、逆に自分よりも少なく持っているように見える人と出会うと、優越感に陥ったり、何とか相手を修正してあげようと余計なお世話をするのです。 誰も、この天地を造られた『創造主なる神』以上に多くのものを持っている人はいません。しかし神は私たちに対して優越感を抱いたり、私たちを無理やり修正しようなどとは決してしません。むしろ私たちの弱さをあわれみ、いつくしみ、そしてその弱さを通してご自身の栄光を現そうとしてくださいます。ですから私たちは安心して、この神様に自分自身の弱さを明らかにし、それを受け止めていただくことによって大きく励まされ、そして今度は周囲の人々の「あるがままの価値」を認めて喜び、その弱さを受け入れ、一緒に神様の優しさを求めていくことで成長していくことができるのです。 誰もが「人生のチアリーダー」を必要としています。ところが今や自分の家族からでさえ、そのような『声援』を受けることなく大人になってしまう人々が増えています。あなたも「神との関係に生きる者」となることを通して、人を妬んだり批判したりする毎日から脱出して、周囲を奮い立たせる人生を送りませんか?

(246) “人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。”

神がこの天地万物をお造りになった時、最初の人間アダムとエバの間には、何も隠し事はありませんでした。彼らは体も素っ裸だったし、心も素っ裸でした。「相手に知られたら困ること」は何もなかったのです。 このアダムとエバが悪魔にだまされて神様から離れたときに、彼らは多くのものを失いましたが、それらの中の最も大切なものの1つは『親密な関係』です。以来私たち人間は「神との親密な関係」を体験することができなくなり、また人間同士の間(最も親密であるはずの夫婦関係においてさえ)でも、本来味わえるはずの『親密さ』を持てなくなりました。 私たちがこの『親密な関係』を築けない大きな原因となっているのは『恐れの心』です。「もしあの人が私の本当の姿を知ったならば、きっと私から離れて行くに違いない」「私が彼の要求に十分に応えられなかったら、きっと彼は私にガッカリしてしまうに決まっている」「アイツにこの弱みを握られてしまったら、一生アイツの奴隷としてこき使われてしまうかもしれない」などなど。私たち人間は皆「真に信頼し合える関係」を切望しながらも、これらの『恐れ』によって自然と「心を許し合う関係」から遠ざけられてしまうのです。 では、一体どうすれば私たちはもう1度、神が私たちに人間に本来与えてくださっているこの『親密な関係』を回復することができるのでしょう?その方法はたった1つ。創造主である『神との関係』を回復することから始まるのです。 神は、自分の罪によって神から離れてしまっている私たちのために、『和解の使者』としてイエス・キリストを遣わし、その十字架の死によってすべての罪を清算し、ご自身との関係を回復する道を備えてくださいました。このイエス・キリストを通して神との関係を回復された者同士が、共に「すべてをお見通しの神」の前に『裸の心』で進み出ることによって初めて、お互いのことをもありのまま受け入れることができるようになるのです。これは「神に心を開いた者」だけが体験できる、驚くほど喜びに満ちた特権です!

(245) “少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。”

ある日マザー・テレサは、もう1週間も何も食べずに暮らしている貧しい7人家族がいると聞き、お米がたっぷり入った袋を携えて訪問しました。あばら家では栄養失調の子供たちを抱えた母親が大喜びでマザーを迎えました。ところがその母親は興味深いことを始めたのです。もらったばかりのお米を2つに分け、その1つを持ってどこかへ出かけていきました。戻ってきた母親にどこに行っていたのかとマザーが尋ねると「近所に私たちと同じようにお腹をすかせている家族がいるので、お米を届けてあげたのです」と答えました。この一連の出来事を振り返り、マザーは次のように述べています。「この母親がせっかくもらったお米を分けてあげたことは別に驚くことではありません。何故なら貧しい人々はいつも気前が良いものだからです。ただ私が驚かされたのは、自分たちが飢えの極致にいたにも関わらず、この母親が近所の人々の抱えていた問題にも気を配っていたということです。人間は通常、自分たちが大きな問題を抱えている時は、他の人のことなど考えてはいられないものだからです。」 「蒔いたものを刈り取る」これは、神が定めた『全世界共通の法則』です。しかも普通は、1粒の種を蒔いたら、その何倍もの収穫を刈り取ることになります。もし私たちがこの『1粒』を惜しんでしまうなら、後に与えられるはずの大きな収穫を受け損なう結果になります。 イエス・キリストは「与えなさい。そうすれば与えられます」とおっしゃいました。ここで問われているのは「自分がどれだけ持っているか」ではなく、「どれだけ与えるか」だけです。この世の常識に基づくならば「有り余るほど持っている人だけが分け与えるべきであって、自分は余るほどは持っていないのだから、分け与える必要はない」と考えるかもしれませんが、自然界の法則はそのようには働きません。 この天地を造られた神は『気前の良いお方』です。彼は善人悪人に関わらず、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。そしてこの神は、ご自分と同様に「気前良く生きる人々」を祝福せずにはいられない方なのです。

(244) “よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。”

『成功者』という言葉を、もし「目に見える多くの成果をあげた人」にのみあてはめるとすれば、世の中には『成功者』と呼べる人はほんのひと握りしかいないことでしょう。しかし「人のうわべではなく『心』をご覧になる神」にとっては、『成功』とは、決して「目に見える成果をあげること」ではなく、「自分に与えられている状況下で心を込めて忠実に生きること」なのです。 以前アメリカの上院議員であったマーク・ハットフィールド氏が、マザー・テレサの運営する「死を待つ人の家」を訪問した折、次々と運び込まれてくる『半死人たち』に圧倒されたハットフィールド氏が思わず「到底回復する見込みのないこれらの人々の面倒を看るエネルギーが、一体どこから湧いてくるのですか?」とマザーに尋ねたところ、彼女は答えました。「親愛なる上院議員殿、ご心配どうもありがとう。でも私はね、「成果を上げるため」に神様に召し出されたわけではなく、「ただ『わたしに忠実であれ』と今日も招かれるお方」にお仕えしているだけなのですよ。」 神は今日もあなたに「心血注いで仕えるべき」十分な労を与えてくださっています。つぶやくことなく、決してあきらめることなく、ただただ神を見上げつつ、自分自身をささげていきましょう。

(243) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

今日は「まもなく思春期を迎えるお子さんをお持ちの親御さん」向けのお話です。 子供が思春期に突入した後になって、あれこれと教えたり指図したりしても手遅れです。何故なら彼らはもはや親の言うことにほとんど耳を貸さないからです。ですから、自分の子供たちが正しい道へと進んで行って欲しいと望むなら、「思春期に差し掛かる前にどれだけのことを伝えておけるか」が勝負どころです。 『思春期手前の子供』を持つ親の役割は、あたかもシーズン間近を迎えたスポーツチームの監督のようなものです。これから新しい知識やテクニックを教え込もうとしても、かえって混乱を招くだけです。ですから選手たちをロッカールームに集めて、「今まで伝えてきたことを再度各自に思い起こさせ、それらを試合の中で精一杯発揮できるよう励ますこと」これが監督のできる最善策です。同様に、子供たちが思春期に突入する時、それは親たちにとって、それまでにどれだけしっかりと子供たちに「何が真に正しいことなのか?」「何を信じて生きたら良いのか?」「人生で最も大切なものは何なのか?」などの『人生における確固たる指針』を伝えていたかの成果を計るシーズンの始まりなのです。 それでは、子供たちが思春期に突入してしまった後は、親としてすべきことはもう何もないのでしょうか?いえいえ、また次の2つの責任が残っています。 ①「無条件の愛情を注ぐ」。子供たちに「どんな時でも愛していること(自分にとって都合が良い時も悪い時も)」を表現しましょう。どんなことがあっても、必ず自分だけは彼らの味方であること、そしてそれは生涯変わることがないことを伝えましょう。 ②「毎日祈りによって神に頼る」。子供がいくつになっても、「子供のために祈ること」は親としての責任であり特権です。ただ口先だけで祈るのではなく、「神は必ず私の祈りに答えてくださる」という強い確信を抱いて祈りましょう。神は「親が祈る子供のための切なる祈り」に必ず報いてくださいます。

(242) “この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。”

2017年、明けましておめでとうございます。皆さんはどんな思いをもって新年を迎えられましたか?希望に胸を膨らませていますか?それとも「今年もどうせ今までと同じで、何もワクワクすることなんてありはしない・・・」と感じていますか? 世界には(特に日本には)日々の生活を興奮させる様々な品物やイベントがありますよね?特にお正月には美味しい食事やお年玉、年賀はがきや大売出し。テレビでは連日「お正月特別番組」が目白押しです。大抵の人はこれらの風潮に踊らされて「毎日楽しい!」と錯覚してしまうのだろうと思います。 もちろん『楽しい』に越したことはありませんが、これらのほとんどのものは遅かれ早かれ「失われて」しまうものです。『最新型』の品物を手に入れても、1年後にはありふれた物になってしまう時代に私たちは生きています。「時代の進歩」とはこんなものなのでしょうか? 聖書は何千年も前に記された「ふる~い書物」ですが、現代に生きる私たちにも十分通用する「変わることのない真理のことば」に満ちています。そしてそこに著されている「イエス・キリストを通しての神との生きた関係」は、『いつでも・いつまでも』私たちを豊かに満たすいのちをもたらします。私たち「血の通った人間」に真に必要とされているのは、見た目に魅力的に映る品々ではなく、私たちの『命の源』である創造主なる神なのです。 この新しい年2017年こそ、聖書を読み始めることを通して「真の意味での人間らしい人生」を発見してみませんか?聖書をお求めの方は、<ken_shibu@xtra.co.nz>までご一報ください。

(241) “私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。しかし私の顔の光はかげらなかった。”

クリスマスシーズンの興奮も終わって、ホッとひと息ついておられる方も多いことでしょう。皆さんは今年のクリスマスをどのように過ごされましたか?ある方は「生涯忘れられないクリスマス」を過ごしたかもしれませんし、またある方は「何1つ楽しいことはなかった」とおっしゃるかもしれませんね。 「今の私には『微笑む』理由などどこにも見つけられない!」という方は、上記の聖書のことばが「つい最近子供たちの死を経験し、全財産を失い、自分の健康さえも失った『ヨブ』という男性によって語られたことばである」ということに心を留めていただきたいと思います。どんな状況の中にあっても私たちは『微笑み』を失わずに生きることが出来るし、またそのような『微笑み』の力は、かえって状況さえも変える力を持っているのです。 あるクリスマスシーズンに、大手ショッピングセンターが『微笑みの力』という次のような広告を出しました。 「『微笑み』それは一銭もかからないけれど、多くを生み出す力を持つ。『微笑み』それは与える側に何1つ損をさせることなく、受ける側に大きな利益をもたらす。『微笑み』それはあっという間に創り出すことができ、しかもそれはしばしば受け取る人の心に消えることのない思い出を残す。どんなに裕福な人でも『微笑み』なくして生きることはできず、どんなに貧乏な人でも『微笑み』を与えられないほど貧しくはない。『微笑み』それは家庭の中に幸福感をもたらし、職場の中に善意を育て、互いの間に友情があることを確認させる。『微笑み』それは疲れ切っている人に安らぎを与え、落胆している人に希望の光を照らし、悲しんでいる人を慰め、人生の様々な問題を最も自然な形で解決へと導く。『微笑み』それはお金で買うことはできず、請い求めるものでもなく、貸し借りすることもできず、盗まれることもない。何故ならそれは誰かから誰かへと与えられるまでは神の手の中に隠されているからである。というわけで、もし私たちのショッピングセンターにあるお店のどこかで、あなたに応対する店員が疲れていてあなたに『微笑み』かけてあげられなかった時、どうか彼らにあなたの『微笑み』をわけてあげていただけないでしょうか?何故なら、人が誰かに微笑みかけてあげられなくなっている時、その時ほど人が『微笑み』を必要としている時はないのですから。」 年末年始の忙しいこれからの1週間、『微笑み』を浮かべながら過ごすことによって、あなたの周りの世界でどんな奇跡が起こるか試してみませんか?

(240) “人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。”

うつ病に悩む人、しばしば自殺にまで踏み切ってしまう人が激増しています。何が人をそこまで追い込むのでしょうか?もちろん外から来るプレッシャーも少なくはないでしょうが、多くの場合、その原因はその人自身の内面的な葛藤から来ているようです。 ある人々は、実際の出来事以上に『自分の感情』に重きを置き過ぎて、悪循環に陥ります。ある1つのことに失敗したことが原因で、自分のことを『失敗者・人生の落伍者』のように感じてしまうのです。しかし考えてもみてください。失敗は誰にでもあることです。大切なのは「失敗した過去の自分」に注目するのではなく、「失敗から学び、成長した将来の自分」に希望を置くことです。偉業を成し遂げた人々は皆、私たちよりもずっと多くの『失敗』を経験した人々なのです。 またある人々は「他の人と比べること」によって落ち込みます。そして面白いことにほとんどの場合は「相手の長所と自分の短所」を比べて落ち込むのです。誰にでも「得意・不得意」はあるものです。それは私たちが1人で生きるのではなく、互いに助け合うためです。何でも自分でやってしまおうと思う(実はこれは高慢な態度です!)のではなく、へりくだって相手の助けを歓迎できる者になりましょう。 もう1つの落胆の原因は「自分で負う必要のない責任まで負ってしまっているから」です。神は私たち1人1人に『自由意志』をお与えになりました。相手に助言をすることはできても、「相手のために決断してあげること」はできません。あなたの『失敗』が学習の過程であるのと同様に、周囲の人々の『失敗』もその人に必要な「成長のプロセス」なのです。神様があなたに与えている『責任』を超えてまで、他の人の動向に気を回し過ぎないようにしましょう。

(239) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記に掲げた言葉は、一般に『黄金律』と呼ばれ、イエス・キリストの教えの中でも最も有名であり、また重んじられているものの1つです。非常に分かりやすくて実際的ですよね?ただ唯一の問題は「言うには易し、行うには難し」という点でしょう。でも後述の3つの点に気を付けるようにすれば、誰でもこの優れた『行動の規範』を自分のものとすることができるのです。 ①信頼すること ・『信頼』なしには、決して豊かな人間関係を育むことはできません。長年アメリカ大統領の秘書を務めたある女性が次のように言っています。「私が秘書としての務めの中で学んだ最も重要なレッスンは、人は『信頼されること』によって『信頼できる人』へと成長して行く、ということです。逆にいつも疑われていたら、人はドンドン『信頼を裏切る人』へとしつけられて行くのです。」ある方々は「信頼していた人に裏切られた経験があるから、もう2度と人を信頼しないことに決めた」とおっしゃるかもしれません。でも「人を信頼することによって失うもの」は、「人を信頼しないことによって失うもの」よりもずっと少ないのです。 ②感謝すること ・相手の存在をどれほど感謝しているかをちゃんと相手に伝えることは、とても重要です。私たちの多くは「そのうちに伝えれば良い」と考え、そして結局そのチャンスを一生つかめないで終わるのです。「受けるべき正当な賛辞」を受けられなかったことによって、自信を失ったりあきらめてしまったりする人たちがどれほどいることでしょう?特に日本人の基本的な性質として「改めて言わなくても分かる」ということを美徳とする傾向があります。私たちはそれが必ずしも「相手を生かす」ことにならないことを知る必要があるのではないでしょうか? ③相手の価値を認めること ・ある調査によると、辞職する人の理由の70パーセントは「正しく評価してもらえなかった」ことにあるそうです。誰も「歓迎されていない」と感じる場所にとどまりたいと思うわけがありません。どんな人にも短所はあるでしょうが、どんな人に対しても「その人の短所よりも長所を積極的に見つけようとする人」こそが良いリーダーとして用いられて行くに違いありません。 ぜひこれら3つのことを自分の習慣として身に付けられるよう心がけてみましょう。

(238) “アリは力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。”

皆さんは「アリとキリギリス」のお話をご存知のことでしょう。暑い夏のさなか、アリたちはせっせと食糧を蓄えますが、それを見ながらキリギリスはあざ笑います。しかし冬が来て何の食糧も得られなくなった時、アリたちの住まいには十分な食べ物があり、キリギリスは寒さと飢えに苦しむはめになるのです。 「苦労のない人生」はありません。私たちは皆人生のどこかで『労苦する』ことになるのです。ただそれが「先取りの労苦」なのか、または「しわ寄せの労苦」なのかの違いです。将来の成功のためにあらかじめ備えに精を出す人もいるし、目先の楽しみのために時間を浪費して後で苦労する人もいます。試験を控えた学生が、「遊びたいのを我慢して必死に勉強し、当日自信を持って試験に臨む」か、「勉強を先延ばしにして、当日慌てて時間ギリギリまで単語帳を握り締めている」のと同じです。それでは、一体どのようにして1日1日を自信をもって生きて行くことができるのでしょう? 多くの人々は日々の出来事の『リーダーシップ』を執るのではなく、それらをただ『受け入れて』生きています。しかし神様は私たちに「ただ待っているだけ」のために『人生』を与えておられるのではありません。ある意味「アリから学べ!」と言っておられるのです。「有意義な人生」は決して『一夜漬け』では形造られません。同様に「後悔に満ちた人生」も突然にはやってこないのです。1日1日が「翌日のための準備期間」なのです。 今日のあなたの歩みは、明日の『成功』のための投資となっているでしょうか?もし「明日の成功」を夢見るばかりで何もしていないなら、それはある意味『失敗』のために投資しているのです。

(237) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。”

ある古本屋さんのバーゲン品コーナーに紛れて1冊の古い聖書が置いてありました。これまでに何人かの人々が手にしてはペラペラとページをめくりはしたものの、かなり傷んでいたので購入するには至りませんでした。そのうちにある男性がやってきて、やはりその古びた聖書を手に取りしばらく眺めていましたが、やがて驚いたように息を呑み、その聖書を手に慌ててレジへ行って料金を支払い、急ぎ足に去って行きました。 一体何があったのでしょう?実はその聖書は『活版印刷術』を発明したグーテンベルグによって印刷された貴重な聖書の1冊であり、何億円もの価値があったのです!これまでに「その価値を見い出せない多くの人々」によって見捨てられていたものが、「その真価を知る人」の手に渡った時、その価値は見事に輝いたのです! あなたは自分がどれほど価値のある存在であるか知っていますか?「私は身の程をわきまえている。自分はたいした人物ではない。誰も自分に目を留めてくれる人はいない。」と決めてかかってはいませんか?あなたの真価を正しく評価できるのは1人だけです。それはあなたを形造られた創造主なる神です。彼こそはあなたがどれほど高価であるのかを知っておられ、あなたをご自身の許に買い取られるために、そのひとり子「イエス・キリスト」のいのちを支払われたのです。

(236) “滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。”

『友情』と言えば、人生を豊かにしてくれる重要な要素の1つということができると思います。ところで、あなたには『真の友』と呼べる人が何人くらいいますか?毎日多くの時間を費やしている仲間の多くは、『真の友』と呼ぶにふさわしい人々でしょうか?それとも「単なるその場しのぎの相手」でしょうか? そもそも『真の友』とは一体どんな人たちのことをいうのでしょう?「ピンチの時に助けてくれる人」「自分の幸運を一緒になって喜んでくれる人」「大きな悲しみに直面した時に、ただ黙って側にいてくれる人」など、いくつかの要素が考えられますね。 最近ようやく「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」の映画三部作をすべて見終えました。この物語に登場する主人公のフロドと危険な旅を共にする『サム』という青年の友情に大変感銘を受けました。サムは何度かフロドに誤解され、罵倒され、見捨てられますが、最後までフロドを支え、見守り、助け続けます。最後にはフロドもサムの真実の友情に気づき、到底達成が無理と思われていた使命を共に果たすことができるのです。 実はこの作品の原作者であるトールキンは敬虔なクリスチャンです。おそらく彼はこの作品を通して「人には誰でも『神から与えられた固有の使命』がある。そしてそれを全うするためには必ず私たちが互いに協力し合わなければならない」ということを伝えたかったのではないかと思います。そしてその「神から与えられた固有の使命」を達成するために相手を信じ、「徹底的に自分を相手にささげていくこと」こそ『真の友情』と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか? このような『友情』は一朝一夕で生まれるものではありません。まず自分自身がそのような『友』となれるよう、「自分が望んでいるものをまず相手に与え」「自分が期待している誠実さを相手に表現し」「自分の実現したい目標が相手の人生において達成されるために」与えられている時間や能力をフル活用してみようではありませんか!

(235) “悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。”

その存在を信じているいないに関わらず、誰でも『天国』という言葉を1度は聞いたことがあるでしょう。そしてきっとそれなりのイメージも持っていることと思います。「雲の上にある」とか「三途の川の向こうにある」「死んだ後に行くところ」とか「ピカピカ光っている」などなど。 ある人が面白いことを言いました。「天国でも地獄でも、食事の時に長~いお箸が使われているんだよ。けれども天国の人たちは皆健康に太っているのに対して、地獄の人たちは全員やせ細っているんだ。どうしてかっていうと、地獄の人たちはその長いお箸を使って何とか食べようとしているけど、自分の口が箸の先に届かないので食べられないのに対し、天国の人たちは皆他の人たちとお互いに上手に食べさせ合っているからさ。」 私も個人的にはまだ『天国』というものを自分で見たことはないので確かなことは言えませんが、『天国』のこの世との大きな違いの1つは、きっと「お互いに対する深い思いやりに満ちていて、しかもそれが何も妨げられることなく実践されている」ということではないでしょうか? イエス・キリストは「天国が近づいたから、悔い改めなさい!」とおっしゃいました。『悔い改める』の原語直訳の意味は「向きを換える」です。「この世と調子を合わせる生き方」「自分中心の考え方」から向きを換えて、「神を求める生き方」「他の人を顧みる生き方」へと進んで行くなら、『天国』は単に「死んでから行き着くところ」ではなく、今まさにこの世にいながらにしてその片鱗を体験できるものとなるのではないでしょうか?

(234) “人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値打ちをはかられる。”

最近「高台家の人々」という、漫画を実写版映画化した作品が流行りましたよね?(実は私自身はまだ見ていないんです!)『高台ファミリー』は「人の考えていることが分かってしまう」という特別な能力を持つ家系。その長男と恋に落ちてしまう『夢見る乙女』というのが登場人物の設定なわけですが、恐らく「相手の心の中が読めたらなぁ」というようなことは、誰でも1度は夢見たことがあるのではないでしょうか?まあ「相手の心の中が読める」というのは、必ずしも良いことばかりではないかもしれないし、逆に「相手に自分の考えていることが知られてしまう」なんて、考えただけでもゾッとしてしまいますが・・・ というわけで、私たちが人の考えを理解するためには、その人の『行動(または言動)』から推し測ることが限界なわけです。ですから私たちはある程度「ふりをする」ことによって相手を欺くことができますし、もしかしたらすっかりそのような振る舞いに慣れてしまっているのかもしれません。 聖書は、私たちが「ふりをする」ことによってはだますことのできない存在があることを示唆しています。それは私たちの肉体と共に「心や思い」をも造られた創造主なる神です。たとえ友人や親兄弟をだませたとしても、この方だけは決して欺くことはできません。神は私たちの心(内面)を探られます。それは私たちを糾弾するためではなく、私たちに『誠実さ』を求めるからです。神は私たちに「神の前にも、人の前にも」誠実に生きて欲しいと願っておられるのです。 「自分を偽ること」「相手を欺くこと」に慣れすぎてしまう前に、「真の神を恐れること」そして「神と人との前に誠実に生きること」へと方向転換しませんか?

(233) “わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。”

世の中には「すぐにはっきりした結果を見たいタイプの人」と「すぐに成果が現れなくても、自分のしていることに確信を持って継続できるタイプの人」とがいます。実際にこの世の出来事には「すぐに結果に現れること」と「なかなか成果が見られなかったり、答えが見つけられなかったりすること」の両方が存在します。そして『重要』と思われることほど、この後者であることが多いのではないでしょうか? 『科学』を崇拝する人々は、「十分な時間とデータさえあれば、この世の事象はすべて科学的に証明できる」と言いますが、本当にそうでしょうか?世の中には、私たちの理性や知性では納得できないことがあまりにも多すぎます。「なぜある家族は不幸な出来事に襲われ、別の家族にはそれが起こらないのか?」「なぜ有り余る食べ物を日々捨てている地域があり、別の地域ではその日食べる物にも事欠いているのか?」「なぜ罪もない前途有望な若者が不治の病や突然の事故などで尊い命を奪われるのか?」などなど。これらの疑問に対して自分の存在があまりにもちっぽけなので、できるだけ考えないようにしようとするのですが、時に応じて再び心に上ってきて私たちを悩ませるのです。「現実主義者」と呼ばれるうちのある人々は、この時とばかりに「ほら見ろ、神も仏もあったもんじゃない!」などと口走ったりします。 それでは、聖書はこれらの問題に関して何と言っているのでしょうか?聖書のある箇所では「隠されていることは神のもの、現されたことは私たちの物」と書いてあります。これはあたかも、神が私たちにこう語りかけておられるようです。「どんなに考えても調べてみても解決されないことは、私に信頼し、私の手にゆだねなさい。そして既に明らかにされていること、また与えられているものに目を向け、それらを喜び、また最大限に活用することによって幸福を得なさい。」と。

(232) “志の堅固な者を、あなた(神)は全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

いのちあるものは『成長』します。そして『成長』とはワクワクするものです。多くの人は、同じような日々の繰り返しに飽き飽きしたり、生きることをむなしく感じる原因を「人生の倦怠期」と診断したり「きっと転職が必要なんだ!」などと思ったりするようですが、本当の理由は「成長意欲を失っているから」なのです。 私たちに『成長意欲』を与えるのは「職業」や「立場」ではなく、『大志』です。言い換えるなら「何をしているか」が問題なのではなく、「何故それをしているのか」が重要なのです。『大志』のない者はどんなに転職しても虚しさを拭い去ることはできませんが、逆に心に大きな志を抱いている人は、たとえ左遷されても、飛ばされた先で花を咲かせることができるのです。 「ピーナッツの栽培に生涯をささげる」と聞いたら、あまりヤル気が起こる人はいないかもしれませんが、ジョージ・カルバート氏にとってはそうではありませんでした。彼はこのプロジェクトに徹底的に取り組み、何百ものピーナッツの用途を考案し、アメリカ議会に招かれて発表するほどになりました。彼はインタビューに次のように答えています。「この天地を造られた神が『ピーナッツ』をも造られたのです。ですから私は神に『このピーナッツで何をしたら良いのでしょう?』とお尋ねしたのです。そうしたら神が私に様々なアイディアを与えてくださったのです!」 日常のありきたりのことに、日頃注いでいる時間や注意力の数倍を費やしてみたらいかかでしょうか?もしかしたら今まで見えなかった全く新しい何かを発見し、その発見があなたを『新しいレベルへの成長』へと導いてくれるかもしれませんよ。

(231) “主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。”

私たちの人生において「生きる力を失わせるもの」の1つに『後悔の念』というものがあります。「浪費してしまったお金や時間」「逃してしまった絶好の機会」「犯してしまった過ち」そして「壊れてしまった人間関係」などなど。これらの『後悔の念』は、それを「将来のプラス」へと生かしていくのでなければ、人生やエネルギーの無駄遣い以外の何ものでもありません。 私たちが生きている限り、必ず「次の機会」というものがあります。過去の失敗は、将来のための『教訓』として行けば良いのです。そのために次の3つのことを心に留めておくと良いでしょう。 ①過去の失敗を「見て見ぬ振り」をするのではなく、しっかりと認め、その原因をつきとめ、心に刻む。『言い訳』をすることは、その場での責任逃れには役に立つかもしれませんが、決して根本的な解決はもたらしません。 ②もし失敗の原因が「自分の誤った態度・考え」であるなら、「まあ仕方ないさ」というようなあやふやな態度でやり過ごすのではなく、毅然とした態度で悔い改める。「誤った態度」を放っておくことは、神を、自分自身を、そして周囲の人々を傷つける結果を繰り返させるだけです。 ③「人生はやり直しが利く」ということを自分に言い聞かせ、私たちの弱さを憐れんでくださる神に信頼して再スタートする。 この天地を造り、私たち1人1人に命を与えてくださった神様は、私たちの「あら捜し」をされる方ではなく、「不完全さを覆ってくださる」お方です。この方と共に歩む時、私たちは他の人のことだけでなく、自分自身のことをもゆるしながら生きることが出来るのです。

(230) “わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。”

人間のからだというものは、ノドが渇いたりお腹が空いたりすれば、敏感に反応を示しすものです。では私たちの『たましい』はどうでしょうか?もちろんたましいだって「渇く」のです。もし私たちがキチンと心を配っているなら「たましいの渇き」にも気づくはずなのですが、現代では「からだの渇き」をそそるものばかりがはびこり、より重大な「たましいの渇き」を紛らわしてしまっているのです。 皆さんは「~中毒」という言葉を耳にすることがあるでしょう。「自分とは無縁のもの」と思う方が多いかもしれませんが、中毒には『アルコール中毒』『ニコチン中毒』『麻薬中毒』などの他にも、『仕事中毒』『セックス中毒』『ギャンブル中毒』そして特に最近では『インターネット中毒』の症状も顕著になってきているように思えます。これらのものは初めは私たちの「からだの渇き」を満たすために近づいてくるように見えますが、やがて私たちのたましいに侵入し始め、ひいては人生を破壊してしまう危険性さえ含んでいます。 私たち人間には『食欲』のようなごく自然な生物学的な「渇き」と同様に、「より確かなもの(真理)」を求める「たましいの渇き」があります。そしてそれは私たちをお造りになられた「創造主なる神」以外には満たすことのできないものなのです。神と出会い、その心を満たしていただくまでは、私たち人間は「渇きを満たしてくれるもの」を求めて一生さまよい続けるのです。 古代イスラエルの名高きダビデ王は、誰もが望む名声・財産・権力のすべてを手にしていたにもかかわらず、次のように告白しています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」誤った娯楽による中毒に陥ってしまう前に、さあ、あなたもたましいの渇きを永遠に潤してくださる方の許へ帰りましょう!

(229) “このわたし(神)が地を造り、その上に人間を創造した。”

私たち夫婦に長男(第一子)が生まれたとき、私たちは自分たちの家の最も良い部屋を彼のために用意しました。真冬だったので、1番性能の良いヒーターを備え、「空気が乾きすぎてはいけない」と加湿器を購入し、私の両親(彼らにとっても『初孫』でした)が買ってくれた新品のベビーベッドとベビーダンスを置き、準備万端整えて、彼がその母親と共に退院してくるのを待ちました。 誰も赤ん坊が生まれてくるのに「何も用意しないで」迎える親はいないと思います。私たち夫婦のように、愛情を込めて、できる限りの準備をして、その到着を待ち望むはずです。そして私たちの『天の父』である神様も同様です。彼はその愛する子どもたちである『私たち人間』をお造りになる前に、私たちが暮らすための完璧な環境を整えてくださいました。 考えてもみて下さい。もし私たちの住むこの『地球』があと数パーセント大きかったり小さかったりしたら、私たちのような精密な生物はその中に存在することができません。また太陽との距離がちょっとでも遠かったら私たちは凍え死んでしまうし、逆に近かったら焼け死んでしまうのです。 皆さんは地球の地軸が垂直から23度傾いていることをご存知でしょうか?学生たちは「そのお陰で物理の計算がややこしくなって迷惑している」と愚痴をこぼすかもしれませんが、この微妙な傾きのお陰で年間を通して太陽光線が地表面にまんべんなく当たるようになっているのです。この傾きがなければ、南極や北極はとてつもなく巨大な氷で覆われてしまうし、赤道直下は近寄ることも出来ない高温になってしまうのです。 この天地を造り、私たちをそこに生まれ出させてくださった神様が、私たち人間1人1人をこよなく愛し慈しんでくださっている事実は疑いの余地がありませんよね?

(228) “いつも主にあって喜びなさい。”

一般的に次の3種類の人がいると言われています。①自分が幸福であることを他の人に申し訳なく感じる人 ②人の幸福を見るとケチをつけたくなる人 ③落ち込んでいる人を励まし、元気付ける人  ①のようなタイプはある意味「非常に責任感が強い人(?)」であり、②のようなタイプは恐らく「深く傷つけられた経験があって、心の中に苦々しさを抱いている人」に違いありません。 キリストの使徒パウロは「いつも主(神)にあって喜びなさい」と書き送りました。ある人は「そんなことが言えるのは、人生の厳しさや試練を知らないからだ」と言いたくなるかもしれませんが、実はパウロがこの言葉を書いたのは、彼がいつ釈放されるかも分からない牢獄の中にいた時なのです。彼にとって『喜び』とは「自分の置かれている状況に対する反応」ではなく、「自分で決めて選び取る心の態度」だったのです。真の喜びは、移ろいやすい私たちの心から生まれては来ません。もっとずっと大きな、周囲の状況を超えたところにおられる『神』から来るのです。 このような喜びを心に抱いて生きるには、次の3つのことに心を留める必要があります。①『真の喜び』は出来事や状況の中にあるのではなく「喜びの源である『愛の神』」から来る。②日々意識してこの『愛の神』に心を向け、信頼と希望を育む。③神があなたをご覧になっているのと同じ目線で人々を見つめ、祝福する。 私たちの人生を左右するのは、「どんな心を持っているか」ではなく、「どこに心を向けているか」なのです。

(227) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

日本人の持つ特徴の1つに『恥の文化』というものがあります。人前で恥をかくことを嫌いますし、誰かに人前で恥をかかせるようなことは、最も避けるべきことの1つと考えられています。そしてそれが日本人の1つの美意識にさえなっているのです。そのことを卑下するつもりは毛頭ありませんが、この「恥を恐れる」という意識が私たちの人格的な成長を抑制することがあるのも事実です。 私たち家族の昔からの合言葉に『ラーニング・イクスピアリアンス(失敗から学ぶ)』というものがあります。すなわち、「失敗を恐れる故に新たなことに挑戦するのを避けるよりも、失敗を繰り返しながら学んでいこう!」というわけです。私たち家族は、末息子が生まれてまもなく海外での生活が始まりました。フィリピン、オーストラリア、パプアニューギニア、バヌアツ、そして現在のニュージーランドと太平洋周辺を転々としました。というわけで、しばしばその地域での生活習慣に対する無知の故にとんでもない失敗を経験してきました。当然初めの頃は「恥ずかしい、もう嫌だ!」とか、「サッサと日本へ帰ってしまおう!」などと弱気になったものですが、失敗を繰り返すうちに徐々に開き直れるようになり、「全く生活習慣の違う国から来たのだから、失敗するのは当たり前。クヨクヨするのはやめて、同じ失敗を何度も繰り返さないように学んでいけば良い」と考えられるようになりました。するとそのうちに、私たちの失敗を見て笑っている人々は、決して私たちを「あざ笑っている」のではなく、全く異なった生活習慣の中で一生懸命適応しようとしている私たちに対して「好意を示している・受容してくれている」ということが分かってきました。そうして周囲の人々と共に自分たちの失敗を笑い飛ばせるようになったのです。 失敗を恐れる人は、他の人の失敗に対しても寛容になれません。しかし失敗を繰り返し、それを周囲に受け入れてもらうことを経験することによって、私たちは他の人々の失敗を責めるのではなく、かえって『一歩前進』と見ることができるようになりました。そして私たちの神様も「私たちの失敗をいちいち咎める方」ではなく、幼子が転びながら歩き方を覚えて行くのを見守るかように、「ドンマイ、ドンマイ。何度失敗してもいいよ。もう1度立ち上がって歩き出してごらん」とおっしゃるのです。

(226) “神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。”

様々な技術が発展し、知識も増し、人々の暮らしが豊かになり、欲しいものがほとんど手に入る世の中になったのに、人々は不安にあえぎ、心は満たされず、自殺者は増加の一途を辿っています。何故なのでしょう?一体何が人々の心を脅かしているのでしょう? 『歴史上最も知恵に満ちていた』といわれる人物が聖書の中に出てきます。イスラエル王国の第3代の王様『ソロモン』という人物です。神は彼に「非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えた」とあります。このソロモン王が書き残した有名な言葉に次のようなものがあります。「神を恐れることが知識の初めである」。 この天地万物を造られた神は、すべての知恵と力とに満ちておられる方です。この方に対抗することができるものは何もありません。このお方を恐れ、このお方の御手のもとにへりくだって生きるならば、他に何も恐れる必要はないのです。キリストの使徒パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言っています。全くその通りです! 現代の1つの『カッコイイ』風潮として、「私は誰にも指図されたりなんかしないわ!」というような言い回しがありますが、そんなことを言っている人々に限って『人生の意義』というものをしっかりと見つめることもなく、ただ行き当たりばったりに生きて、やがて行き詰まり、恐れと不安の中に閉じ込められるのです。 「真に恐れるべき対象をしっかり恐れること」こそ、不必要な恐れや不安から完全に解放されて、希望を抱いて生き生きと生きるための秘訣なのです。

(225) “互いに慰め合いなさい。”

ある男性が、ちょっとした知り合いの死亡広告を目にしました。葬儀がちょうど出席可能な日時だったので、彼は身支度を整え会場へと向かったのですが、うっかりして同じ葬儀社の別のセレモニー会場に行ってしまいました。気付いた時は既に遅かったので、やむなく全く別人の葬儀に参列することになりました。参列者は少なく、悲しみを露わにしていたのは、長年連れ添った夫を亡くした未亡人のみでした。葬儀が終わると他の参列者たちは急ぎ足で帰途につきましたが、1人寂しそうに墓地へ向かって行く未亡人を気の毒に感じた彼は、彼女に墓地まで付き添って行きました。墓地からの帰り道、彼は思い切って未亡人に告げました。「誠に申し訳ないことなのですが、実は私はご主人のことを全く知らないのです。」未亡人は少し微笑んでこう答えました。「そうではないかと思いましたわ。全く見覚えのない方でしたから。でもそれはあまり問題ではありません。今日あなたがしてくださったことがどれほど私にとって大きな意味があったかは、神様しかご存じないことですから。」 旧約聖書の『ヨブ記』という書物には、ヨブという人物が悪魔の悪巧みに会い、全財産と子供たち、そして自身の健康をも失い、失意のどん底をさまようストーリーが収められています。そこに彼の3人の友人たちが慰めにやってくるのですが、その初めの部分にこう書かれています。「彼らはヨブと共に7日7晩地に座っていたが、誰もひと言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。」その後1人1人とヨブに語りかけるのですが、私の見る限りでは、それらの言葉は「ただ黙って側に座っていてあげること」以上にはヨブの慰めにはならなかったようです。 私たちは、苦難の真っ只中にいる人を見る時に「何とかしてあげたいけど、何にもしてあげられることがない」とついあきらめてしまいがちです。しかし最悪なのは、そう言って「できるだけ関わらないように」してしまうことです。何もできなくてもいい。何を言ってくれなくてもいい。ただ黙って側にいてあげることが出来る人は幸いです。

(224) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

クライストチャーチに滞在しておられる日本人のうち2人の方々が、最近イエス・キリストにある救いを受け入れて『クリスチャン』となられました。どちらも50歳前後の方々です。 1人は男性で、今まで数々の挫折を経験してこられました。幼い頃のいじめ、青年時代の交通事故とその後遺症、そして離婚。人生に希望を見い出せず毎日の生活に行き詰っていた時、ニュージーランド留学を望む姪御さんの親代わりとしてクライストチャーチに付き添って来ることになりました。ホームスティ先のクリスチャンのご家族から教会へ行くことを勧められ、JCFに来られました。当初はその表情から疑心暗鬼な様子が見て取れましたが、徐々に馴染んで来られ、表情も和らいできました。毎週の礼拝での聖書の話や、姪御さんの留学・ご自身のビザ延長などに関して親身に相談に乗ってくれる人々の暖かさに触れることを通して、「慈愛に満ちた神がおられること」「イエス・キリストの十字架による罪の赦し・救い」などを信じられるようになりました。今ではすっかり表情も明るくなり、人生の目標も定まって、毎日生き生きと過ごしておられます。 もう1人は女性で、高校生のお嬢さんの留学に付き添って来られました。やはり離婚を経験しておられますが、こちらは「女手1つで娘を育ててきた」という自負があり、「自分の人生は自分で切り拓く」というファイト満々で、「せっかくニュージーランドに来たのだから、バリスタの資格を取って帰ろう」と学校に通っておられました。そんな中、同年代の娘を持つクリスチャンの方と親しくなり、教会に来られるようになりました。初めのうちは「私は神様など信じないけれど、人生の参考になるから、続けて通ってみよう」と思っていたそうです。ところが毎週聖書の教えを聞いているうちに神様からの語りかけを感じるようになり、礼拝の終わり頃にはいつも涙が流れてくるようになったそうです。「わたしはいつもあなたと一緒にいたよ。たくさん傷ついてきたね。強がって生きるより他に方法を知らなかったんだね。でもわたしに寄りかかっていいんだよ。」と。 「キリスト教は『弱者の宗教』」と言われます。でも実際誰か「弱くない人」がいるでしょうか?私は世の中には「自分の弱さを認めることができる人」と「自分の弱さを認めることを恐れている人」しかいないのではないかと思います。また、キリスト教は『宗教』ではありません。創造主なる神との『生きた関係』なのです。すべてをお見通しの神様の前に素直な心で立った時、誰でもこの方と真の意味で『出会う』ことができるのです。

(223) “人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。”

「自分はそのように生まれついてしまったのだから、仕方がない」という言い方で、自分の欠点の言い訳をしたり、人生をあきらめてしまったりしている人がいます。しかし本当にそのように決め付けてしまって良いのでしょうか? ある調査結果によると、『一卵性双生児』が何らかの理由で生まれてすぐに別々の環境に育てられた場合でも、性格や好み、また知的レベルなどの約70パーセントは、非常に酷似して成長していくそうです。DNAの伝達機能と言うのは確かにあなどれません。しかし、人間は動物とは違い、そこまで単純に造られてはいません。私たちは生まれつきそれぞれに「自由意志」「理性」が与えられており、自分の人生を自分の「決断・選択」によって切り拓いていくことができるのです。 聖書は「誰でもキリストのうちにあるならば、その人は『新しく造られた者』です」と言っています。私たちがイエス・キリストを通して『創造主である神』との関係において「新しく生まれる」ならば、私たちは真の意味での『人生の意義』を見い出し、全く新しい(正しい)人生観によって雄々しく歩み出すことができるのです。「そのように生まれついている」という言葉を、『事がうまく運ばない言い訳』としてではなく、『神と共に歩む実りある人生』の秘訣として用いることができるようになるのです!

(222) “子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”

思春期のお子さんを持っておられる方はいらっしゃるでしょうか?私たち夫婦には3人の子供たちがいますが、今は上から26歳・24歳・22歳になりました。まあ「子育ての峠は越えた」と言うべきですかね。父親の私としては「やっと手が離れてくれた」という気持ですが、妻(彼らの母親)にとっては「(特に1番下の子に対しては)いつまでも子供のままでいて欲しかった!」というのが正直な気持のようです。 逆に子供の立場に立つならば、十代のある頃に「私はもう子供じゃない!」と強く感じる時期があります。この時期を『思春期』と呼ぶのでしょう。それまでと同様に親が何でもかんでも干渉しようとすると、「ウザい!」と感じるわけです。ですから、1番上のお子さんがこの時期に差し掛かってあなたに「いちいち指図しないで!」と怒鳴ったとしても慌てないで下さい。お子さんは極めて正常な成長を遂げています。 それでは、このような『思春期の子育て』をどう乗り切れば良いのでしょう?ある方は「ウチの子はまだまだ小学生だから心配には及ばない」と考えるかもしれませんが、それは大きな間違いです。何故なら、正しい『思春期の子育て』は、そこに至るまでの子育てを土台としているからです。すなわち、子供が親の権威に素直に従っているうちに『適切な賞罰』によって正しい価値観を子供の心にしっかりと植えつけておくことによって、子供たちが思春期に差し掛かってきたときに、上手に少しずつ「たずなを緩めて」あげることができるからです。 あまり早く「たずなを緩め」すぎ『放任』すると、愚かでわがままな大人に成長することがあります。かと言って「たずなを緩める」のが遅すぎると、反抗的、またはかえって依存心の強い人間になってしまうかもしれません。この部分で非常に慎重になる必要があります。知恵が必要です。 聖書は『子育て』や『夫婦関係』などに関して、私たちに多くの優れた『知恵』を提供しています。我が家の子供たちも、彼らがまだ幼い頃から「一緒に聖書を学んできた」ことが大いに役立って、皆なかなか頼もしい成人へと成長してくれました。次世代を担う立派な大人たちを育成するために、皆さんにも「お子さんと共に聖書を学ぶこと」を強くお勧めします!

(221) “ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・・”

私たちはしばしば「自分の行く手を阻んでいる障害」が自分の外にあると勘違いしていますが、実際はそれらのほとんどは『自分の中』にあるものです。私たちがそれまでに経験してきたこと(それらが喜ばしいものであれ、苦々しいものであれ)が、現在の私たちを形造っています。そしてそれらが、私たちが「今後直面する状況にどう反応するか」に大きく影響を与えていくのです。壊れた家庭環境で育った人が「自分は絶対に幸せな家庭を築く」という強い意志を持ちながらも家庭崩壊の一途を辿って行ったり、離婚を経験した人が「この人と再婚すれば決して別れたりすることはない!」と確信しながらも結局再度離婚に踏み切ったりしてしまうのも、これらの『自分の中にある苦々しい思い』に影響されてしまっているからです。 では、どうしたら良いのでしょう?私たちはどのようにしてこれらの「過去の苦々しい経験からの呪い」から解放されることができるのでしょう? 冒頭の聖書のことばは、イエス・キリストの使徒パウロによるものです。彼は新約聖書の約半分を書きました。そんなパウロに「忘れるべき後ろのもの」があったのでしょうか?実はたくさんあったのです。彼は元々はクリスチャンを迫害する者でした。彼は多くの信者を捕らえては牢に入れ、またある敬虔な信者を殺すことさえしました。もしパウロがこれらの「苦々しい過去」に捕らわれていたなら、これほどに神に用いられる器となることはできなかったでしょう。しかし彼は「イエス・キリストによる罪の赦し」によって過去をすっかり清算され、キリストにある『新しいいのち』に生かされることに徹しました。それによって人間わざとは思えないほどの働きを成し、多くの教会を建て上げたのです。 あなたの『過去』が生き延びることのできる場所は「あなたの記憶の中」だけです。そしてその『過去の記憶』があなた対して働かせることのできる「影響力の大きさ」は、あなたがそれを許可した範囲内に限られています。あなたが前に向かおうとする時に、その原動力を「過去の苦々しい経験を恨むこと」に求めるなら、同じ失敗が繰り返されるだけです。私たちが力を求める場所は過去にあるのではなく、あなたを『新しいいのち』『新しい人生』に生かしてくださる「創造主なる神」そして「よみがえりの主」であるイエス・キリストに拠り頼むことからやって来るのです!

2016年8月7日 「ただひとつのこと」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「ただひとつのこと」     (07/08/2016) ◆マルタとマリヤ [ルカ10:38-42] ・イエスのために? or イエスとともに? ・イエスは「どうしても必要なことは、1つだけ」と言われた。 = イエスの足元で『みことば』に聞き入ること。 ◆イエスが与える『食事』 [黙示録3:20] ・主人は『私』ではなく、『イエス』。従って、食事でもてなしてくださるのも、主イエス。 ・イエスは私たち1人1人にちょうどよい『食事』を与えてくださる。[Ⅰペテロ2:2,マタイ4:4] *「食事」をするのは、何のため? ①生きるために必要だから  ②楽しいから  ③交わりのため ・マルタはイエスのために何かをしたかったが、いつの間にか喜びが失われた。自分のガンバリだけで 「霊的にからっぽ」では、何もできない。[ヨハネ15:5] ◆なぜ『食事』をしないのか? 『忙しい』? 『時間がない』? 『やらなきゃならないことが、たくさんある』? ― それはただの言い訳。 ・本当の理由は、「自分のことが最優先で、神様のことは『二の次』だから」。 ◆きちんと食事をすることから生まれる結果 [マルコ14:3-9] ・自分の結婚の準備のためにコツコツと溜めた「1年分の給料にも相当する高価な香油」を、マリヤは惜しみなく イエスに注いだ。一見愚かで無駄なように見えることを、なぜ・・・ マリアは、1つのこと(ひとりのお方)だけ、見ていた。そしてそのことは、マリアの心を豊かに満たしていた。       ◎あなたも、この『たった1つのこと』に心を満たされて生きたいですか?   Outline of the sermon      “Only one thing is needed.”      (07/08/2016) ◆Martha and Mary. [Luke10:38-42] ・To do for Jesus? […]

(220) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

すべての人は「幸せになること」を求めていると思いますが、つまるところ『幸福』とは何でしょうね?お金が十分にあって、何でも欲しいものが手に入ること?家族が仲良く暮らしていて、人間関係がうまくいっていること?仕事にやりがいを感じていて、成果を上げていること?健康で食欲もあり、日々の食事を楽しめること?どれを取っても「幸せを実感できる要素」に違いありません。ただ、これらのものがいつもすべて揃っているわけではないし、もし揃っていたとしても「いつ失われてしまうのだろうか?」という不安があるなら、結局本当の意味で『幸せ』とは言えないのかもしれません。すなわち「幸福の条件」を出来事や状況の中に見出そうとしている限り、私たちはいつまで経っても『不変の幸福感』を手にすることはできないのです。 『真の幸福感』というものを言葉に表現するとしたら、それは恐らく「永続的な平安」ではないでしょうか?人生の荒波に出会っても動じることなく、大切なものを失ってしまったとしても決して絶望させられることのない『不動の平安』。そしてそれは、真の神のみが私たちに与えることのできるものです。 私たちを取り巻く『平安』には3種類あります。①人間関係における平和 ②健全な自己愛による心の平安 ③神に完全に受容されているとの確信  これら3つのどれが欠けても、私たちは『真の平安』をもって生きて行くことができません。そしてこれらの平安は別々に起こるものではなく、互いに関連づいているもの、すなわち③→②→①の順に起こるものなのです。 私たちは、「創造主である神に完全に受容されている(神に対して後ろめたいところは何もない)」という確信を持てて初めて「私は生きていて良いのだ。私は『絶対的な価値』を持つ存在なのだ。」と実感することができ、「健全な自己愛(自分を価値ある者として受け入れ、大切にしようとする心)」を持つことを通して、「自分同様に他の人のことも受け入れ、尊重すること」ができるようになるのです。そしてこの神に完全に受容されているという確信は、「神がそのひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架におかけになった」という事実を信じることから生まれるのです。

(219) “アリは力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。”

『絵に書いた餅』ということわざがあります。「たとえその計画がどんなに素晴らしくても、実現しなければ何の役にも立たない」というような意味です。良い仕事を成し遂げる人たちには、1つの共通点があります。それは「他の人たちがやりたがらないことでも積極的に取り組む姿勢」です。お金が欲しい人たちはたくさんいますが、重労働は好みません。皆健康なからだを求めていますが、規則的な食事や運動をしようとはしません。優れた人生を歩むために必要なのは「立派な計画」ではなく、それを「実行に移す行動力」と「最後までやりぬく忍耐力」です。 良い習慣を身に付けるために「新しく何かを始める」のは簡単なことではありません。私たちはせっかく優れたスタートを切っても、ついなんだかんだと理由をつけてあきらめてしまいがちです。それでは「優れた習慣を身に付けるため」にはどうしたら良いのでしょうか? ①『小さいことから始める』 「優れた習慣」に向かうために大切なのは、進む『速さ』ではなく『方向』です。たとえ時間がかかっても、まっすぐに目標に向かってさえいれば、やがて必ず到達します。慌てず、急がず、着実に前に進んで行きましょう。 ②『自分から始める』 周りの状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても始まれないかもしれません。他の人々も「誰かが始める」のを待っているものです。それが真に「優れた習慣」ならば、あなたが始めることによって必ず『何か』が起こり始め、その『何か』が周りを動かし始めるのです。 ③『とにかく始める』 新しい習慣を始めない理由はいくらでも見つけられます。「取りあえず学校を卒業してから」「結婚してから」「仕事が忙しくなくなったら」「退職してから」「死んでから???」 一見大変そうなチャレンジでも、実際に始めてみると思ったよりも楽だったり楽しかったりするものです。後回しにし続けた後に残るものは「あ~あ、あの時に始めておけば良かった…」という後悔の念だけです。 神様があなたに与えてくださった「たった1度きりの人生」を『絵に描いた餅』にしないために、今日「優れた1歩」を踏み出しましょう!

(218) “悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”

ある会社員が毎朝駅の売店で新聞を購入していました。売店の販売員はいつもこの会社員に礼儀正しく丁寧に応対するのですが、この会社員はいつもイライラしていて、お金を払うと新聞を奪い取るようにして急ぎ足に去って行くのです。それにも関わらずこの店員は去り行く男の背後から、毎回明るく弾んだ声で「いつもありがとうございます!」と声をかけるのでした。ある朝売店で一緒に働いていた同僚がその様子を見ていて「あのお客はいつもあんな風に無愛想なの?」と尋ねました。「ええ、そうなのよ。」同僚は更に尋ねました。「それなのにあなたはどうしていつもああやって明るく丁寧に応対できるの?」店員は答えました。「だって、私がお客さんにどんな風に応対するかを、お客さんの私に対する態度で左右されたくないもの。」 『移る病気』は「インフルエンザ」とか「エイズ」ばかりではありません。「不機嫌」「怒りっぽさ」「陰口」など、人の気分や悪習慣も大変伝染しやすいものです。ですから「どんなタイプの人といつも一緒にいるか」は選んだ方がいいですね。けれど「1日のうちにどのような人と出会うか」を選ぶことはできません。ですから私たちは朝ごとに自分の心にこう言い聞かせる必要があります。「私の気分は、他人や周囲の状況(お天気?)が決めるのではなく、私自身が決めるのだ!」 神はそのひとり子イエス・キリストをお与えになるほどに、私たち1人1人を愛してくださいました。そしてその同じ愛が今日も私たち1人1人に注がれています。私たちが周りではなく、上を見上げて、今日も変わらない愛を注いでくださっている神と心を通わせて生きる時、あなたから発信される『愛のウイルス』が周りを変えて行くかもしれません。

(217) “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。”

野生の鹿やシマウマなどの群れは、ライオンや虎などの野獣に襲われた時、生まれたばかりの赤ん坊をその場に置き去りにして逃げるそうです。これは彼らが自分の子供を大切にしないからではなく、次の2つの理由からです。第1に、赤ん坊は足手まといになるので、赤ん坊を連れて逃げると、自分自身も赤ん坊のいのちも危険にさらされるからです。そしてもう1つの理由は、赤ん坊はまだそれらの野獣を恐れることを知らないので、置き去りにしても野獣に見つかる可能性が低いからです。何故なら、野獣は獲物たちの『恐れの波長』を嗅ぎ取って追ってくるからです。 私たち人間の世界も同じです。私たちの人生を脅かす災いは、しばしば私たちの『恐れの波長』に引き寄せられて忍び寄ってきます。「もしかしたら悪い病気にかかっているのではないか?」「事故に遭ってしまうのではないか?」「これだけの貯金では足りないのではないか?」「いつか恋人に裏切られてしまうのではないか?」などなど。これらの恐れは私たちの人生に対する態度を消極的にし、お酒やドラッグへと走らせ、少しずつ私たちの人生を蝕んでいき、やがて破滅へと至らせるのです。 これらの恐れは一体どこからやってくるのでしょう?それは「私たちのいのちの根源である『神』から離れてしまっていること」から来ているのです。ある人々は「自分の人生は自分で切り拓く。『神』なんか要らない!」と言い、また別の人々は「神様は真面目で勤勉な人たちにはご利益をくださるが、自分のように弱く失敗ばかりしている者は見捨てられてしまうに違いない」という『誤った神観』を持っています。 聖書では、しばしば私たち人間と神との関係を「羊と羊飼い」にたとえています。羊は動物の中でも最も弱く依存的であり、羊飼いの優しく力強いケアなしには生きられない存在です。そして神は私たちにも、「自分の弱さや限界を素直に認め、神に信頼して生きるように」と願っておられるのです。生きていく上で試練や挫折が起こるのは、それらの経験を通して私たちが「私たちの人生の羊飼いである神」と出会うことができるためなのです。

(216) “だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。”

幼い子供がお友だちに囲まれて誕生日を祝ってもらっている状況を思い浮かべてみてください(自分がお祝いしてもらった時の思い出でもいいですよ)。きっとその子どもはその日、何だか「物語の主人公になったような気分」を味わっているに違いありません。大人になるにしたがってそのような機会は減っていくかもしれませんが、何歳になっても「自分は価値のある存在である」という気分を味わいたいという欲求は変わらないはずです。 前述の聖書のことばの「養い育てる」という語の原文は「建て上げる,敬う,祝う,宝物のように扱う」というような意味を持っています。このように扱われて悪い気分になる人はいないのではないでしょうか? 私たちは皆上記のように扱ってもらうことを望みますが、と同時に親しい間柄において(夫婦や親子、親しい友人など)互いを「養い育てる」ことができたとしたら、どんなに人生が豊かになって行くことでしょう。誕生日や試験にパスした時などに「おめでとう」のひと言をかけてあげるのはもちろんのこと、ささいなことに関しても「あなたの存在を感謝してるよ」「あなたは私にとってかけがえのない存在だよ」と照れることなく伝えてあげられたら、相手はきっと心強く感じるに違いありません。 また私たちがそのような心遣いを必要としているのは、何も『お祝い事』の時だけではありません。何かに失敗したり、新たなチャレンジに尻込みしたりしているときに、影のようにそっと側にいてあげることは、どんな言葉にもまさって相手の心を力づけることでしょう。 神様は「自分を愛するごとくに、あなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいました。神様にとっては、私たち1人1人がかけがえのない存在です。その私たちがそのように互いを喜び合い、祝福し合い、支え合う時に、天では大きな喜びが湧き起こるのです。

(215) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

あなたがもし、はしごを登って高いところの壊れた部分を修理しようとして、てっぺんまで登ってから、間違った方向にはしごをかけていたと気づいたらどうしますか?ガッカリしますよねぇ。登ったはしごが長ければ長いほどその落ち込みは激しいのではないでしょうか?それでも単なる『はしご』ならば、またちゃんとしたところにかけ直して登りなおせば済みます。 ところがこれが「人生のはしご」だとしたら、どうでしょう?半ばまで登った時点で「どうやらこのはしごは、間違ったゴールへ向かっている」と気づけば、また登りなおすことも可能でしょうが、終わりまで登りつめてから「しまった!はしごをかける場所を間違った!」では遅すぎます。 私たちはこの『人生のはしご』をそれぞれの「基本的価値観」に基づいて登って行きます。「食べ物の好み」や「学歴」また「職業」などはこれに含まれません。もっと基本的なもの、すなわち「どうしてそういう考え方をするのか」また「何故あえてそちらを選ぶのか」など、私たちの人生の方向性を左右する基準がこれです。 この『基本的価値観』は次のような3つの性質を持っています。 ①生涯共に過ごすパートナー ②状況や気分に左右されることのない『方位磁針』 ③時代の流れや他人の言葉などに振り回されるのを防ぐ『錨』 誤りのない「基本的価値観」に基づいて生きることは、人生において最も重要なことの1つです。そしてその「正しい価値観」を私たちに提供してくれるのが、私たちをお造りになられた『神』であり、またその神が私たちに与えてくださった「人生の取扱説明書」である『聖書』なのです。

(214) “愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。”

『怒り』という感情は、私たちに必要なものとして神から与えられているものですが、私たちはこの感情に「振り回される」のではなく、きちんとコントロールできる者でなくてはなりません。何らかのきっかけで怒りが爆発しそうになった時には、ぜひ自分自身に次の2つの問いかけをしてみてください。 ①「この出来事は、本当に自分の怒りをぶつけるにふさわしいことであろうか?」 ・多くの場合、私たちは物事や人々の「一面だけ」しか見ないで判断してしまいます。誰にでも失敗はあります。たまたまその人の悪い面を見てしまったからといって、そのことだけで相手を評価してしまわないように気を付けなければなりません。 ②「ここで自分の怒りを表すのが、最も良い時・場所・方法であろうか?」 ・頭に血が昇ってしまっている時にこのように自問自答するのは難しいことですが、感情のままに行動するのは真の人間らしさではありません。誰かに不当な扱いをされた時や、物事が思った通りに運ばない時、私たちが自問自答すべきことは「自分にはここで『怒りを表す権利』があるだろうか?」ではなく、むしろ「自分にはここで『怒りを表す権利を拒否するだけの度量』があるだろうか?」です。 私たちはしばしば「ここで黙っていては、相手から甘く見られる」と思いがちです。しかし真の強い人とは「落ち着いて判断する心」を持つ人です。そしてそのような強さは私たちを「要らぬ後悔の念」から救い出すことができるのです。

(213) “あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”

“コンフォート・ゾーン”という言葉があります。日本語に訳すと「居心地の良い場所」となるでしょうか。例えば普通の人にとっては「自分の家」「安心できる職場」「親しい友人たちに囲まれた状態」などがこの“コンフォート・ゾーン”にあたるでしょうし、またそこから1歩踏み出すのには少し勇気が要ります。 “コンフォート・ゾーン”は通常年齢と共に少しずつ拡げられていきます。例えば、生まれてから3~4歳までは母親の許で過ごしていたのが、幼稚園へ行くようになり、また小学校へ上がり、徐々に「学外活動」へも参加するようになり、やがて親元を離れて暮らすようになります。ところがこの“コンフォート・ゾーン”から踏み出すのを恐れ、「自分は学校へ行かず、ずっと家の中で家族と過ごしたい!」となると、その人の成長は止まってしまいます。 神が私たちの人生におけるご自身のご計画を成就なさろうとする時、神はしばしば私たちをこの“コンフォート・ゾーン”の外へと踏み出すように招かれます。何故なら、私たちが『現状維持』に満足しているうちは、神が私たちのために用意しておられる「ダイナミックな人生」を真の意味で体験することができないからです。そして実際、10年後20年後に自分の人生を振り返ってみる時、私たちが感動を持って振り返ることができるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出した経験」であり、逆に深い後悔の念を感じるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出る機会を拒んだ経験」なのです。 今から20年前、私たち家族は『宣教師』としての人生へと踏み出しました。3人の子供たちはそれぞれ6歳,4歳,1歳半でした。何人かの知り合いは、私たちのむこうみずな決断にあきれていました。しかし私たち家族が今喜びと感動を持って振り返るのは、神の祝福に満ちた『並外れた20年間』なのです。一方ある家族は「神が自分たちを宣教師として働くよう招いておられる」と感じていたにも関わらず、周囲の強い反対に負けてその道を断念し、大きな後悔の念にさいなまれつつ晩年を過ごした、と聞いたことがあります。 初めにも書いたように、「コンフォート・ゾーンから踏み出すこと」は簡単ではありません。しかしそれは決して単なる「危険な賭け」ではなく、「共に歩んでくださる神への信頼を行動に現すこと」なのです。そして私たちの『真実な神』は、ご自身に信頼して敢えて“コンフォート・ゾーン”から踏み出す人々に、特別の祝福を注いでくださるのです。

(212) “熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。”

私たちの人間関係にしばしば混乱をもたらすものに「勝手な思い込み」というものがあります。私たちは元来自己中心的な性質をもっていますから、相手を「思いやろう」としているにも関わらず、自分勝手な考え方で相手の気持を察しようとしてしまい、思いやりが裏目に出て、感謝の代わりに恨みを買ってしまうことがあるのです。結果的に、本当なら関係が更に親密なものになるはずだったのに、お互いの心に深い傷を残すことになります。 しかしこのような悲劇は、ほんのちょっとした機転で回避することができます。それは「自分勝手な推測に頼らず、思い切って本人に尋ねてみる」ということです。あなたが本当に心から相手にとっての益を求めているなら、相手が今本当に必要としているものを教えてもらう時間(手間)をかけてみたらどうでしょう? 物質社会に生きている私たちは、つい『人助け』を「物を与えること」で片付けてしまう傾向があります。でも実際は『物』よりも価値があるのは『時間』です。仮に相手が打ち明けてくれた必要が、あなたが具体的に応えてあげられないものであったとしても、相手はあなたが「聞いてくれた」ことによって励ましを受けるでしょうし、聞いたあなたもその人の必要のために祈ることができるし、またその必要に応えられる人を一緒に探してあげることだってできます。 神は私たちとの親密な関係を築くために『人(イエス・キリスト)』となられました。私たちも「私:助ける人」「あなた:助けてもらう人」ではなく、「相手と共に立つ人」となるために時間を割ける者となりましょう。

(211) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

1980年代に上映された「スタンド・アンド・デリバー」というアメリカ映画があります。主人公はある高校に赴任した数学の教師なのですが、彼のクラスに同じ『ジョニー』という名前の2人の男子学生がいました。名前は同じでしたが、出来は全く異なり、1人は明るい性格で成績も良く、クラスの人気者でした。ところがもう1人のジョニーはというと、いわゆる「クラスの問題児」で、その教師はいつも彼に手を焼くのでした。 ある日のPTAの集まりの日、1人の母親が教師のところにやってきて尋ねました。「ウチの息子のジョニーはちゃんとやっているでしょうか?」教師は「出来の良いジョニー」の方と勘違いして、「いやぁ、彼が私のクラスにいてくれることは大きな喜びですよ。彼の存在をどんなに感謝しているか、表現のしようもありません!」と答えました。翌日当の「問題児ジョニー」が教師のところにやってきて言いました。「昨日お母さんから、先生がボクのことをどんな風に思っていてくれているか聞きました。ボクのことを歓迎してくれた教師は、先生が初めてなんです!」 その後このジョニーはどうなったでしょう。彼は頑張って毎日宿題をこなすようになり、クラスの中でも指折りの熱心な学生となって、そして何よりもこの教師の1番の理解者・友人となったのです。 もしあなたが誰かの隠れた優れた点を見出し、勇気をもってそれを相手に伝えるなら、それは相手にとって「生きる希望を増し加える」ことになるのです。別の言葉で言うなら、「今の自分よりもひと回り優れた者となろう」という『ヤル気』を起こさせるわけです。そんな励ましを与える者となるのに『お金』も『特別な才能』も『立派な外見』も要りません。また、そんな励ましを必要としていない人はいません。さあ、今日から初めましょう!

(210) “争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。”

一般に日本人は「議論するのが苦手」と言われます。実際「議論すること」自体は悪いことではないのですが、しっかりとしたマナーを持って議論しないと、相手との関係がギクシャクしたり、関係そのものを壊してしまうきっかけになるため、敢えて議論することを避けてしまう傾向があるのではないでしょうか?ではどのようにして上手に(建設的に)議論することができるのでしょう? 神は私たち1人1人をユニークな存在としてお造りになりましたから、1人1人が違った意見を持っていて当然です。私たち夫婦は大変仲良しですが、意見の衝突はしょっちゅう起こります。しかしそれをエスカレートさせない方法はそれほど難しいことではありません。 まず第1に、「相手の意見に深く耳を傾ける」ということです。意見の衝突をエスカレートさせる大きな原因の1つは、「自分が最も正しい」と無意識のうちに思い込んでいることにあります。ですから「相手は自分のことが分かっていない!」という不満がお互いに爆発し、もはや議論は収集がつかなくなります。ところが、もしあなたが「相手は私がまだ知らない何かを知っているのかもしれない」というへりくだった姿勢で聞く耳を立て、相手の言い分だけではなく、その背後にある気持をも汲み取ってあげるならば、議論はお互いに対する『深い理解』につながり、建設的な方向へと進みます。 上手な議論のもう1つのコツは、「焦点を『問題そのもの』ではなく、『問題の解決』に合わせる」ということです。聖書によると、人間は『禁断の木の実』を食べて以来、その罪責感の故に「責任転嫁」をするようになってしまったようです。「こんな事件が起こったのは、一体誰が原因なのだ?」と問われるや否や、私たちは自分を守ろうとするがあまり、必死で言い訳したり、他の誰かに責任をなすりつけようとしたりします。それでは何も問題の解決にはならず、人々が傷付くばかりです。神様は私たちの目を前後に付けることなく、前にだけお付けになりました。それは私たちが後ろ向きな姿勢ではなく、常に前を向いて(事態の改善に向けて)歩むためです。問題解決のために原因を探ることは大切ですが、それが「誰の失敗によるものか」は重要ではありません。 『上手な議論』とは、常に「お互いをより深く理解しようとする姿勢」と「共に事態の向上を願う心」から生まれるものなのです。

(209) “あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。”

ある人々は、「クリスチャンの人たちはよく『お祈り』をするけど、一体どんな風にお祈りしたらいいの?」 と尋ねます。実のところ、そのような人々は「どう祈ったら良いのか分からない」のではなく、「どうやったら『あの人々のように』祈れるのか分からない」のです。 イエス・キリストは『祈り』に関して教えるとき、「形式や言葉遣いなどにこだわらなくて良い」とおっしゃいました。何故なら、神は私たちの祈る『ことば』に関心があるのではなく、『心』に関心があるからです。その祈りがどれほど口先で上手に表現されていても、その人の心が深く神様につなげられていないなら、その祈りは神の前に価値のないものなのです。 『祈り』はある面『呼吸』のようなものです。私たちは通常ほとんど意識することなく、本能的に『呼吸』をしています。それは私たちのからだが「酸素」なしには一瞬たりとも生きられないからです。すなわち『呼吸』は、「わたしたちが酸素にどれほど依存しているか」をありのまま表現しているのです。 『祈り』も同様です。私たちは何も格好をつけて「自分を信仰的に見せるため」に祈るわけではありません。それは「私たちが神様にどれほど依存しているか」をありのままに表現した、いのちの営みなのです。『祈り』を通して私たちは、今日も生きて働いておられる神様と、親しい関係を保ちながら歩むことができるのです。

(208) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

今日はまず、ちょっと想像力を働かせていただきましょう。暗くて長~い廊下を想像してみてください。その両脇にはいくつものドアがあるんです。それぞれのドアには、その部屋の中で行われている様々な「ためにならない楽しみ」が書かれています。『アルコール中毒』『ニコチン中毒』『麻薬』『ポルノ』『ギャンブル』などなど。各部屋の中からは楽しそうな笑い声や興奮に満ちた叫び声が洩れ聞こえてきます。 これは私たちの人生を現しています。私たちの人生(特に思春期)の道のりには、様々な「ためにならない活動への誘惑」が満ちています。しかもそれらの力は強大で、そこに加わらないことはあたかも「大事なものを受け損ねている愚かなこと」のように思えるのです。「いま自分が歩いている道はあまりにも不確かで、何の楽しみも感じられない。いっそのことどこかの部屋へ飛び込んでしまった方が・・・」 すべての誘惑は、大抵その『恐ろしい実体』を隠しながら、親しみのあるごくありふれた装いをして近づいてきます。「皆やっていることさ。ちょっと試してみるだけなんだから大丈夫。楽しいこと請け合いだよ!」そんな誘いについ心を許して「じゃあ、ちょっとドアを開けて中を覗いてみるだけ。」そのように始まって、そしてズルズルとアリ地獄へ落ちるように堕ち込んで行くのです。 ではどのようにしてこのような誘惑に打ち勝つことができるのでしょう?2つの方法があります。1つ目は「必要な忍耐力を養うこと」です。面白い実験を聞いたことがあります。3~4歳の子供をある部屋に1人にさせ、テーブルに美味しそうなお菓子を1つ置いておきます。子供にはこう言い聞かせておきます。「ここで15分間待っててね。このお菓子を食べてもいいけど、もし食べないで待っていられたら、戻って来た時にもう1つあげるよ。」ある子供は大人が立ち去った後直ちに食べてしまいますが、いろいろと気を紛らわせながら、最後まで待っている子供もいます。そして待つことができ、ご褒美をもらえた子供たちこそ、様々な誘惑に打ち勝つ人生を歩むことができるようになるのです。現代は「欲しいものを何でもすぐに買い与えてしまう時代」です。『恵まれた時代』ということもできますが、ある意味子供たちにとって大変不幸な時代です。『必要な忍耐力』を養いにくい時代だからです。 もう1つの良い方法は「人生の真の醍醐味を若いうちから体験しておくこと」です。我が家の3人の子供たちは、幼い頃から『宣教師の子ども』として発展途上国で暮らしながら「神を愛し、人々を愛して生きることの醍醐味」を実感しつつ育ち、日本へ帰国してから『思春期』を迎えました。当時日本はいわゆる「ファミコン」の真っ盛りの時代で、大変ご親切な知り合いがウチの子供たちにもこの魅力的な遊具を買い与えてくださり、しばらく彼らも「はまって」いました。ところがしばらくするとすぐに飽きてしまって、もっぱら親しい友人たちと外で遊び始めたのです(まあ長男は音楽にはまり、今では教会や高校などで楽器の指導に当たっていますが…)。すなわち『ファミコンの魅力』も、彼らの心に根差していた「より高次の楽しみ」には勝てなかったのです。 神は私たちを「人生の真の醍醐味を味わいながら生きるように」とお造りになりました。自分自身が、そして次世代の子供たちが『目先のお楽しみ』に振り回されることなく、しっかりと高次元の目標に向かって歩んでいけるように最善を尽くしていきたいですね。

(207) “機会を十分に生かして用いなさい。”

私がまだ20歳の頃好んで人々に尋ねていた質問があります。それは「もしあなたが『余命3ヶ月』と宣告されたらどうしますか?」 というものでした。特に深い意図は無く、単なる好奇心から出た質問でしたが、返って来る答えはいつも「今と違った生き方をする」というものでした。「持っているものをすべて処分して世界旅行をする」とか、「食べたい物を好きなだけ食べる」、また「ずっと好きだった人に告白する」などなど。しかしたった1人だけ、こう答えた方がいました。「何も変わりはしません。私は今でも1日1日を精一杯生きていますから」。 この女性は、私が通っていた教会で託児所を営んでおられる方でした。こよなく神を愛し、また子供たちを愛していた人でした。毎週日曜日には教会学校で子供たちに神様の愛について教え、そしてある祝日にやはり教会の子供たちをピクニックに連れて行く途中脳溢血で倒れ、そのまま息を引き取られました。まさに死の瞬間まで子供たちを愛し、神に仕えていた人でした。 「豊かな人生を生きる」とは、単に長生きするとか、財産を増やすとか、多くの業績を成し遂げるとかいったものではありません。言わば「次の24時間にどれだけのエネルギーを注いで生きるか」ということだと思います。今日を精一杯生きられない人に、いわゆる「豊かな人生」を生きることはできません。ついダラダラとテレビを観てしまったり、意味も無くパソコンの前に延々と座ってみたり、くだらないおしゃべりに時間を費やしたり・・・ 現代の世の流れは私たちの貴重な時間を奪って行きます。私たちは「より確かな目標」に向かって歩みを進めて行かなければなりません。 あなたをお造りになられた神は、あなたの人生に崇高な目的・計画をお持ちです。イエス・キリストを通してこの神との関係の中に生きることは、あなたが『真に豊かな人生』を歩むための必須事項です。あなたに残された貴重な時間を最大限に生きるために、「神があなたのために抱いておられるご計画」にフォーカスをおいてみませんか?

(206) “神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。”

日本ではあまり馴染みはありませんが、この週末は「イースター・ウィークエンド」と呼ばれ、世界中で『イースター』すなわち「イエス・キリストの復活」が祝われます。 ここニュージーランドでは、イースターの時期が来るたびに店頭に並ぶ食べ物が2種類あります。1つは『ホット・クロス・バンズ』と呼ばれるもので、小さな柔らかくて四角いパンの表面に十字架の模様をあしらったものです。まあこれは意味が分かりやすいのですが、もう1種類は『イースター・エッグ』と呼ばれ、もともとは本物の卵が使われていたのですが、今では「卵型のチョコレート」がお店の広いスペースを独占して売られており、さながら日本の「バレンタインデー」のようです(ちなみに、バレンタインデーに女の子が男の子にチョコレートをプレゼントするのは日本くらいです)。 では、「キリストの復活」と「卵」とはどのような関係があるのでしょうか?1つにはやはりそこに『新しいいのち』が象徴されていることでしょう。卵は外側から見ると一見いのちを感じられません(単なる食べ物?)が、実はその中にいのちが宿っていて、時が来るとそのいのちが内側から飛び出してきます。そのようにしてイエスも十字架の死から3日目によみがえられたのです。 もう1つのことは、その『3重構造』にあります。卵が「黄身・白身・殻」の3つの部分からできているように、イエスの遺体も真っ白な「亜麻布」に包まれ、そしてその墓の入り口は堅く重たい岩で閉じられていました。しかし『黄身』の部分にいのちがあって、それがやがてヒヨコになり、まとわりつく『白身』を脱ぎ捨て、堅い殻を破って出てくるように、死からよみがえられたイエスは、まとわりつく亜麻布を脱ぎ捨て、堅く閉じられていた墓を打ち破って出てこられたのです! イエス・キリストは今日も生きておられ、ご自身に信頼し従う者たちを『死に打ち勝ついのち』によって生かしてくださるのです。

(205) “イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」”

1人の男性がローカル列車の中で、外の景色を凝視しながら「素晴らしい!なんて素晴らしいんだ!」を連発していました。これといって目を留めるほどの眺めがないばかりか、むしろゴミゴミした街並みの中、歩道には投げ捨てられた紙屑が散乱しているような光景しか見当たらないのを見て、隣に座っていた婦人が思わず彼に尋ねました。「一体何を見てそんなに感動しているの?」すると男は答えました。「いや、実は私は生まれてから30年間ずっと盲目だったのですが、多くの方々の資金援助と医学の発達によって『角膜移植手術』を受け、ついに見えるようになったんですよ!ですから、見えるものすべてに感動してしまうのです!」 心が不平不満に覆われてしまうと、せっかく神様が用意してくださっている『美しいもの』さえ見落としてしまいがちです。日常のささいなことの中にも『神の恵み』は満ちています。日々「神様、あなたが私の人生に用意されている祝福の一端を見逃すことの無いように、どうぞ今日も私の目を開いてください」と祈りましょう。

(204) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

『思い煩うこと』ほど「無駄な時間の過ごし方」はありません。イエス・キリストも次のように言われました。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか?」全くその通りです! 『思い煩い』は「心の平安」や「親密な人間関係」といった、私たちの人生を豊かにしてくれる要素を奪っていきます。また『思い煩い』はいつも背後から私たちの隙を伺って、私たちの思いの中に忍び込んで来るのです。 『思い煩い』というものは通常「私たちにはどうにもできないこと」に関してわたしたちが「あれやこれや」と思い巡らすことが原因です。1日の営みを終えて床に就いた後で「もっとああすれば良かった…」とか「あのことはどうなってしまうのだろう???」などと考え始めて、良く眠れなくなったりするのです。どちらにしても寝ている間には何もできないのだから、頭を切り替えてサッサと寝てしまえば良いのに、この『思い煩い』のためによく眠れず、結局翌日は寝不足のために、逆に仕事の能率が更に落ちてしまい、更に『思い煩う』ことになるのです。 聖書が私たちに勧めるのは、「思い煩う代わりに、あなたが眠っている間にさえあなたを顧みてくださる『全能の神』にゆだね(祈り)なさい」ということです。あなたの頭を悩ませている数々の『思い煩い』を片っ端から神様にぶちまけて、「もうあなたに打ち明けましたから、あなたに信頼して、もう悩みません!」と言って終わりにするのです。 ある方は「そんな、神様を『悩み相談所』のように使っては申し訳ない」とおっしゃるかもしれません。しかし聖書には「神は、彼に信頼する者を『神の子供』と呼んでくださる」とあります。そして『親』にとって、愛する自分の子供が1人でクヨクヨと悩んでいるのを、ただ黙って見ていることほど辛いことはありません。 『祈り』とは、何も「お願い事」ではありません。むしろ「神に信頼する者が、その真実な思いを神に打ち明ける行為」なのです。

(203) “彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。”

『親しい者の死』を経験することは、私たちの心に「深い悲しみ」、時には「神に対する怒り」を起こさせます。何を隠そうこの私もそのような人間の1人でした。 私は小学2年生の時に、祖父の臨終の場面に遭遇しました。今では「人の死に目に会う」という機会はあまりないように思えますが、私にとってこの経験はいろいろな意味で衝撃的でした。 また私が小学4年生の時には、前の年の担任の先生が自殺をしました。電車への飛び込み自殺でした。「そんなことがあっていいのか?」と、ただただ驚くばかりでした。 極めつけは、忘れもしない、私が小学6年生になる年の4月1日(エイプリルフール)。前日にも遊んだばかりの私の1番の親友が、交通事故で亡くなったのです。それを母から聞かされたとき、まさに「頭の中が真っ白」になりました。葬儀出席のために彼の家を訪れたとき、彼のお母さんが玄関先まで走り出てきて私を強く抱きしめ、「ケンちゃんだけが私のこのどうしようもない悲しみを分かってくれるよね!」と泣き叫んだことを、昨日のことのように思い出します。 神は私の人生にこのようなことが起こることをどうして許されたのでしょうか?そもそも私たちの人生には何故この『死』という乗り越えられない壁があるのでしょう? しかし私は、イエス・キリストと出会ったことを通して答えを見出しました。何故なら彼は「死を味わう必要のない方」だったにも拘わらず、私たちの代わりに十字架で死なれ、そして3日目によみがえられたからです。彼は私たちの弱さや深い心の痛みを理解してくださる優しさと、私たちを死の向こう側の希望へと運んでくださる強さとを兼ね備えておられる方なのです。 あなたもこの「イエス・キリストによる慰め」を経験し、彼に倣って「弱さを理解することのできる真の強さ」を持って生きたいとは思いませんか?

(202) “志の堅固な者を、(神よ)あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

海洋学者たちの調査によると、どんなに激しい嵐(例えば、高さ30メートル以上もの津波が起こるような)のときでも、海中に8メートルも潜るならば、そこは何事もないような静けさだそうです。 これは私たちの人生にも同様なことが言えます。すなわち、私たちの人生に大きな嵐が起こることは避けられないけれども、私たちの心の深い部分で『決して揺るがされることのない存在』につなげられているならば、私たちはそれらの『人生の荒波』を乗り越えていくことができるのです。 迫害下にあったクリスチャンたちの遺した次のような詩があります。「激しく打ちたたかれれば打ちたたかれるほど、私たちは釘のようにより深くめり込んでいく。そしてその深みで私たちは『真の神の平安』と出会うことができる」と。 私たちが『平安』を失うのは、自分ではどうしようもない困難に陥った時でしょう。でも神に解決できない問題は1つもありません。私たちが「人生の試練」に直面するのを神が許されるのは、それらの試練を通して私たちが「神のみが与えることのできる『真の平安』」を体験させるためではないでしょうか?

(201) “あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。”

以前クライストチャーチでお会いした方から、最近こんなお手紙をいただきました。 「ニュージーランドで1番利率の高い銀行を紹介していただけませんか?日本にある私たちの貯金の大部分をそちらの銀行に移したいと思うので…」 恐らくほとんどの人々は『お金持ち』になりたいと思っていることでしょう。もしかするとある方々は「もしもっとお金が貯まったなら、きっともっと気前よくなれて、いろいろな場面で施したり寄付したりできるようになるに違いない」と思っておられるかもしれませんが、実際は、『お金持ちであること』と『気前のよさ』とはあまり関係はないようです。数年前のイギリスの調査では、収入の少ない方から20%の方々は、その収入のうちの3.2%を寄付していて、収入の多い方から20%の方々は、収入のうちの0.9%しか寄付していないそうです。 金融関係に関する専門家のダニエル・レビン氏は次のように言っています。「『経済的繁栄』とは、どれだけ稼いだかによって測られるものではなく、むしろどれだけ与えたかによって測られるものである。」つまり、本当に気前の良い人というのは、自分がどれだけ持っているかに拘わらず、いつも『与える機会』を捜している人のことを指します。そしてもし私たちがしっかり目を開けて生きているなら、この『与える機会』というものはそこらじゅうにあるものです。 イエス・キリストは「あなたがたがこれらの小さき者たちにしたのは、わたしにしたのだよ。」とおっしゃいました。神にとっての1番の宝物は『お金』ではなく『人(私たち)』です。神は私たちに「2番目以下の宝を、1番の宝のために用いること」を願っておられるのです。

(200) “わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。”

皆さんは『台風直撃』の経験をしたことがあるでしょうか?私たち家族はバヌアツ共和国にて宣教師として働いていたとき、電気も水道もない小島にある粗末な小屋でそれを経験しました(ですから『停電』や『断水』の被害の恐れはありませんでしたが…)。いやぁ、なかなかの迫力でしたよ。その辺のジェットコースターその他のアトラクションとは格段の差がありますね。 ところで『台風』には面白い構造上の特徴があります。あれほどの破壊力を持つ自然現象であるにも拘らず、その中心部にある『台風の目』と呼ばれる部分は比較的穏やかで、その部分にいるときは一瞬「あれ、もう台風は去ったのかな?」と勘違いしてしまうほどです。ところがその中心から少しでもズレているいわゆる『中心付近』では物凄い暴風と大雨にさらされます。もし私たちが台風の様子を遥か上空から眺めることができたなら、恐らく「荒れ狂う風雨のど真ん中に存在する不思議な静けさ」を見てビックリすることでしょう。 私たちの人生にも「台風の真っ只中」のような時期がありますよね?「泣きっ面に蜂」ではありませんが、ただでさえ苦しい状況にあるのに、更にまた試練が増し加わるようなことがあります。思わずも「神も仏もない!」と叫びたくなるような…。 こんなとき、神様がそれらの試練を直ちに解決してくだされば良いのに、滅多にそういうことはありません。何故なのでしょう?神様は私たちをもてあそんでおられるのでしょうか?そうではありません。神は私たちに「困難なしの人生」を約束してはおられませんが、「どんな困難の中でもわたしは必ずあなたと共にいて、あなたを守る」と約束してくださっています。神は私たちに「何の困難もないお気楽人生」を与えることによってご自身の愛を現されるのではなく、かえって「神様の助けなしには耐えられそうもない試練」の中にあって『不思議な平安(静けさ)』を体験させることを通して、ご自身の私たちに対する深い愛を伝えようとしておられるのです。

(199) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。”

何年か前に、カナダのエドモントンで行われた陸上競技大会の4百メートルリレーにジャマイカのチームが出場しました。ちょうどそのリレー競技が始まる頃、そのチームの第3走者の親しい友人が、同じ競技場の別の競技に出場していました。まだ自分の走る順番が回ってこないと油断していたその第3走者は、ついつい友人の活躍ぶりに熱中してしまい、何と第2走者がバトンを持って自分に向かって突進してくるのに気づかず、2人は衝突してしまったそうです。言うまでもなく、ジャマイカチームは大切なレースに惨めな敗北を喫してしまいました。どうしてこんな悲劇(喜劇?)が起こってしまったのでしょう?それはもちろんこの第3走者が『自分のレース』に集中する代わりに「他の人のレース」に注目しすぎてしまったからです。 神様は私たち1人1人に「全力で走るべきレース(人生)」を与えてくださっています。そして見つめるべき場所(人)も。それは「周りにいる目を引く人々」ではなく『イエス・キリスト』です。 『人生』はある意味「リハビリテーション・ルーム」のようなものです。そこに集まる人々のニーズは1人1人違っており、それぞれの現在のレベルも異なっています。お互いを眺めながら一喜一憂していても始まりません。ただしそこに集まっているすべての人に共通する『1つの目標』があります。それは「本来あるべきコンディションに回復する」というものです。そして私たちすべてが目標とすべき『人間として本来あるべき姿』それがイエス・キリストなのです。 オリンピックの「ボート漕ぎレース」をご覧になったことがあるでしょうか?複数の漕ぎ手がペースを合わせてボートを漕ぎながらゴールを目指すのですが、肝心のゴールは自分たちの背後にあるので見えないのです。それでは彼らはどこを見つめて進むのでしょう?それは選手のために号令をかけ、また軌道修正を命じる『キャプテン』です。このキャプテンは自分では少しもボート漕ぎに参加しません。しかし彼はメンバーを力強く励まし、正しい方向へと導き、全員がゴールの栄冠を勝ち取ることができるように最善を尽くします。そして漕ぎ手たちはそれを微塵も疑うことなく、ただキャプテンを見つめながら力を出し切るのです。 私たちもこの『人生最高のキャプテン』であるイエス・キリストを見つめながら、力いっぱいそれぞれの人生を進んで行きましょう!

(198) “私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。”

皆さんは飛行機に乗ったことがありますか?搭乗手続きの最初にはいつも『手荷物検査』という場所を通ることになります。そしてそこには「金属探知機」があって、そこを通るためにポケットなどに入れている金属類やアクセサリーなどをいったん全部外さなければなりません。さもなければ金属探知機が反応して危険を知らせるからです。もしナイフや銃などを隠し持ってでもいたなら、拘置所に連れて行かれることでしょう。 私たちの心の中にもそのような「危険を知らせる探知機」があります。それは『良心』です。そして私たちがイエス・キリストに人生を明け渡して生きるようになると、聖霊なるお方がその良心を清め、より敏感に私たちの人生を破壊しようとする悪に反応し、私たちを「悔い改め」と「聖い歩み」へと導いてくださいます。 残念ながら今の世の中には、この大切なセンサーである『良心』が鈍らされてしまっている人々もいます。何度も警告を受けたにもかかわらず、それらを無視して自分の欲を優先し続けた結果です。 皆さんの多くは「タイタニック号の悲劇」をご存知だと思います。「決して沈むことのない豪華客船」といううたい文句で出港したタイタニック号は、迫りくる危険のために周囲の船から多くの警告を受けながら、それらを無視し続けて、結局大きな氷山に衝突して沈没し、多くの命が失われました。 ニュージーランドの多くの住居では「不法侵入者防止のためのアラームシステム」が用いられています。家が留守になる時に、最後に家を出る人がアラームをセットするのです。帰宅した時には、通常ドアを開けてから30秒以内にアラームを解除しないと、けたたましいベルが鳴り響き、近所中から「何事が起ったのか?」と注目を浴びる羽目になります。 神が私たち1人1人に与えて下さっているアラームシステムである「心の中の良心」も同じように働きます。そして私たちはこの『良心の声』に対して3通りの反応から選ぶことができます。①スイッチを切っておく。②聞こえないふりをする。③その声に素直に従い、正しい対応をする。 さて、あなたはどれを選んで生きて行きますか?

(197) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

現代ほど子供たちを正しい道に育んで行くのが難しい時代はないかもしれません。テレビ、雑誌、インターネット、ユーチューブ… ありとあらゆるところから強烈で不純な情報が入り込み、子供たちはそれらを適切に取捨選択する術を知りません。「一体どのようにして愛する我が子をこのような『世の悪影響』から守ったら良いのだろうか」と頭を痛めている親御さんもきっと多いことと思います。 でも決して希望を捨てないでください。何故なら様々な調査や研究の結果は「『その子の親』以上に子供たちに影響力を持つ存在はない」ということを証明しているからです。友人や学校、そしてメディアさえも、子供たちの人格形成に対して、決して親たち以上の影響力は持っていないのです。 ちょっとリレー競走のことをイメージしてみてください。リレーの勝敗を決定するのは多くの場合「どれだけ速く走れるか」ではありません。むしろ「どれだけ上手にバトンを渡せるか」にかかっています。ですから、決してバトンを落としてはなりません。すなわち「自分たちの信念(信仰)を次の世代に受け継がせること」を怠ってはならないのです。私たちはあらゆる努力をして、自分が築き上げてきた優れた人生観を自分の子供たちに受け継がせ、子供たちがそのしっかりとした土台の上に更に積み上げていけるようしてあげるべきです。もし親である私たちが本気でこのことに身をささげて生きるなら、神は必ず私たちの『愛ある努力』に報いてくださいます。

(196) “神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。”

ジェームズ・シーズーという牧師は次のように書いています。「外見的な魅力が真の偉大さというわけではない。人々からの賞賛が人の真価を決めるわけではない。目立っているからといってそれが特筆すべきものなわけではない。最近はやりの人物が必ずしも何年も注目されるとは限らない。石が太陽を反射して輝いたからといってダイヤモンドになるわけではない。たくさんお金を儲けたからといってそれが人を幸せにするとは限らない。歴史を作ってきた人々はしばしば名前さえ知られていなかった。宇宙体系の中で重要な働きを担っている力はしばしば視覚では捉えられない。夏にしとしと降る小雨は台風がもたらす大雨よりも益をもたらすが誰にも注目されない。多くの場合、本当に価値のあるものは、この世において好評を博したり注目を浴びたりしないものの中にあるのである。」 この世の風習というものは、あっと言わせたり、目を見張らせたりするパフォーマンスこそが価値あるものであるかのように錯覚させます。しかしそのようなことができるのはほんの一握りの人々であり、またそれらの出来事は必ずしも世界に有益で恒久的な変化をもたらすとは限りません。むしろ、誰もができるような些細なことを『大きな心を込めて』行っていくことこそ、神が私たち1人1人に望んでおられることであり、また世界に良い変化をもたらす力を持っているのです。その行いが誰の目にも留まらなくても、誰からの賞賛を受けなくとも、そこでささげられたあなたの愛と思いやりは、それを受けた人の心にいつまでも残り、また天にある神の書物に永遠に刻まれているのです。

(195) “私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…”

明けましておめでとうございます。皆さんはこの新しい年を迎えて、どのような目標を立てていらっしゃいますか?前進するための目標を持っていないことは、後退への目標を立てているのと同じです。また確固たる目標を持つことが、その人の時間やエネルギーの使い方をはっきりとさせます。ぜひ「成長のための目標を立てること」をおススメします。 良い目標を立てるための1つのコツは、単に「何かを成し遂げること」にこだわらず、むしろ「向かうべき方向」を正しくはっきりと定めることです。私たちの人生の満足度は「どれだけのことを成し遂げたか?」よりもむしろ「自分がどれだけの向上を遂げたか」にかかっています。あまりにも多くの人々が「ただ存在すること」に甘んじ、神が私たち1人1人に立てておられる崇高なご計画をはるかに下回っている場所で落ち着いてしまっています。それはまるで「川の流れがよどんでいる部分に魚が生息しなくなってしまった状態」のようです。過去の栄光にしがみついていても成長はありません。 さあ、今年はまだ始まったばかり。ぜひゆっくりとした時間を取り、「今年の終わりまでにどのような自分になっていたいのか」をいくつかリストアップしてみましょう。そして具体的な方策を立て、実行に移しましょう。多くの場合、「順調に感じる時」もあれば、「2歩進んで3歩下がっているように感じる時」もあります。でも心配要りません。どんな偉業だって、インスタントに出来上がったものはないのですから。何らかの目標のために死ぬほうが、目標なしにただ生きているよりはずっとマシではありませんか!

(194) “イエスは彼に「あなたは何という名か?」とお尋ねになった。”

「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか」ということは、私たちの日々の歩みに大きな影響を与えます。たまに「実際以上に自分のことを偉大な人物」と思っている『誇大妄想』的な人もいますが、多くの場合私たちは実際よりも自分のことを低く見積もってしまいがちです。 イエス・キリストの代表的な弟子の1人で『ペテロ』という人物がいますが、彼は初め『シモン』と名乗っていました。それが親の付けた名前なのか、それとも人々から呼ばれていたあだ名なのかは定かではありませんが、はっきりしていることは『シモン』という名は「風に揺れ動く『葦』の葉」のことであり、このシモンに向かってある日イエスは、「あなたの名はもはや『シモン』ではない。今日から私はあなたを『ペテロ(岩)』と呼ぶことにする。」とおっしゃったのです。これはすなわち「あなたは今まで人生の目標の定まらない『葦の葉(シモン)』のように生きてきたかもしれないが、これからは私と共に生きることによって『岩(ペテロ)』のように、多少の試練や逆境には動じない者と変えられていくのだ」という、イエスのペテロに対するメッセージだったのでしょう。 私たちが「自分のことをどんな人間だと思っているか」は、生まれてから思春期に至るまでの成長過程で「周囲の人々からどのような評価を受けてきたか」に大きな影響を受けています。もちろん良い家庭環境に育った方であればそれなりの良い評価を受け、ある程度健康な『セルフイメージ』を抱いておられることでしょうが、私たち1人1人の真に正しい評価を下すことのできるお方は、私たちを絶対的な愛をもって形造ってくださった『創造主なる神』だけです。だからこそ聖書を読むことによって、この神様があなたに対して抱いておられる『正しい自己像』を知り、それをあなたの人生の土台として生きることが重要なのです。

(193) “キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。”

多くの方々がご存知のように、『クリスマスの由来』は、今から2000年前にイエス・キリストが処女マリアからお生まれになったことから始まりました。でもちょっと考えてみてください。ある日天使が突然マリアの前に現れ、「あなたはまもなく男の子を生む。その名を『イエス』と名付けなさい」と告げたのです。もしあなたがマリアだとしたらどうしますか?全く心当たりがないのに、突然身ごもるのです。いくら天使のお告げだからと言って、簡単に受け入れられるはずがありません。しかしマリアは答えました。「どうぞ神様のみこころの通りにこの身になりますように。」 恐らく私たちはマリアのような経験をすることはないでしょうが、今日でもイエス・キリストは私たちの心の中に生まれ、そして私たちを通してご自身の豊かな命を現すことがおできになります。この記事を読んでくださっている方々の中で、心に苦々しさを抱えている人、悩みを負っている人、悪い習慣から逃れられないでいる人、心の平安を求めている人がおられるなら、イエス・キリストは今日あなたの心のドアをノックしておられます。もしあなたが彼に対して心を開いて、「イエス様、私はあなたの助けを必要としています。どうぞ私の人生に入って来てください。」と迎え入れるなら、その瞬間イエスはあなたの心の中に生まれてくださり、あなたと共に人生を歩み始めてくださるのです。 この2015年のクリスマス・シーズン、あなたが単なる「この世の余興としてのクリスマス」ではなく、「真の意味でのクリスマス」を迎えることができますように。

(192) “信者となったものたちはみないっしょにいて、いっさいのものを共有にしていた。”

『幸福の条件』とは何でしょう?ある人々は「もう少しお金があったらもっと幸せになれるのに…」と言います。本当にそうでしょうか? 『幸福感』に関する研究を重ねたある調査結果によると、より幸福感を経験しているグループと経験していないグループを分ける決定的な要因は「経済力」でもなく「健康」でもなく「安定した生活」でもなく「魅力的な容姿」でもなく「知能指数」や「経歴」でもないそうです。 では一体何なのでしょうか?それは、豊かで親密な『人間関係』です。自分が何らかのコミュニティに属しているという意識、「存在を認められている・必要とされている」と実感できることは何よりも私たちに充足感と幸福感を与えてくれます。 イエス・キリストが天に帰られた後、地上に残された弟子たちによって「キリスト教会の営み」がスタートしました。迫害下にあった彼らが周囲に押しつぶされてしまうことなく、かえって次々と信者を獲得し大きく成長して行った大きな要因として、彼らを通して行われた「奇跡的なみわざ」が挙げられますが、それとともに忘れてはならないのは、彼らの間にあった『親密な交わり』です。それぞれが持てる時間・財産・労力を分かち合い、互いを支え合う中で生まれる一体感、これこそ神によって造られた私たちが真の『幸福感』を味わうための秘訣なのでしょう。 高度経済成長を遂げ「万民中流意識」にすっかり甘んじてしまっている日本人。誰もが自分の必要(以上?)を満たすことに夢中になり、もはや他の人の助けをほとんど必要なく感じている今日。そのようなよどんだ空気の中に一石を投じるのは、きっと「親密な関係の中に幸福感を見出そう」として行動を起こす人々ではないでしょうか?

(191) “隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか?”

ある小学校の運動会で、子供たちが元気よく入場行進をしています。ふと1人の母親が自分のカワイイ1人息子の行進する姿を見て、彼だけが他の子たちと手足が逆になっているのを見つけて思わず叫びました。「ちょっと見てください。ウチの子以外は全員、手足を逆に動かしちゃってますよ!」 私たちは自分の事は棚に置いて、ついつい他の人の過ちや失敗を批判してしまいがちです。自分では「相手の間違いを正してあげようという善意のつもり」でも、実は相手のことを深く傷つけてしまっていたり、ひいては周囲の人々を自分から遠ざけてしまうきっかけにもなりかねません。 では、どうしたら良いのでしょうか?まず第1に、他の人を批判しやすいタイプの人は「自分のやり方・考え方が1番正しい」と思い上がっているのだということを自覚しなければなりません。その上で「あなたの立派さの故ではなく、ただご自身の恵み深さの故にあなたを受け入れてくださる神」を知ることです。そしてその神様に次のように祈りましょう。 「神様。私の高慢の罪をお赦し下さい。そして、あなたが私に対して恵み深いように、私も他の人々のことを『さばきの目』ではなく、『恵みの目』によって見つめ、また受け入れることができるように助けてください。」

(190) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

聖書の巻頭にある『創世記』という書物に、神が6日間で全世界をお造りになったくだりが出ていますが、神はその6日目の最後に人間をお造りになり、そして「7日目に休まれた」と書いてあります。すなわち人間にとっては第1日目は『休日』だったわけです。 日本人は一般的に『勤勉』です。それは良いことですが、しばしばそれが高じて「働きすぎ」になる傾向があります。毎日夜中まで残業したり、土日も休まず働いたり…、あたかも「休むことは無駄である」とか、休息をとることに後ろめたさを感じているかのようにも見えます。こちらニュージーランドに来たワーキングホリデーの若者の中にも、時々「日本の忙しさから逃れて精気を回復するために来た」はずなのに、仕事場の事情で『12連勤(12日間連続して休みなく働くこと)』などを余儀なくされている人がいたりします。本当に残念なことです。 こんな話があります。ある日2人の木こりが「1日のうちにどちらがよりたくさん木を切り倒せるか」を競うことにしました。1人は少し年をとっているが熟練した木こりで、もう1人はまだ若くて未熟ではありましたが体力にはめっぽう自信がありました。若い木こりは夜明けから日が暮れるまで休まずに斧をふるい続け、1日の終わりまでに25本もの木を切り倒しました。「これだけ切り倒せば、アイツに負けるはずがない。きっと今頃スタミナを使い尽くしてぶっ倒れているに違いない。」 一方熟練した木こりは「1時間ごとに10分間の休憩時間」を取りながら働きました。当然斧を使うのに費やした時間は若者よりもずっと少なかったわけですが、何と彼は1日の終わりまでに40本もの木を切り倒していたのです。若者は愕然として言いました。「こんな馬鹿な!アンタは俺よりも力がないばかりか、1時間ごとに10分もの休みを取りながら働いていたのに、俺の倍近くもの木を切り倒してしまうなんて?!」そこで熟練した木こりは答えました。「私は10分間の休憩時間に2つのことをしていたのさ。1つはゆっくり休んで体力を回復させること。もう1つは歯が鈍くなりつつある私の斧を十分に研ぎ直すことだよ。」 神は私たちを「休みなく働くように」とはお造りになりませんでした。私たちが与えられた才能や潜在能力を十分に発揮するためには「心身共に休養が必要」なのです。今日もイエス・キリストは私たち1人1人を招いて言われます。「わたしの許に来て十分に休息を取り、また『真の自分自身』を取り戻して、もう1度出て行きなさい」と。

(189) “すべてのことについて感謝しなさい。”

あなたは素直に物事を喜べる方ですか?それとも疑り深くてすぐに喜べないタイプでしょうか? 『感謝の心』というものは、単に「喜べることが起こった時に用いるもの」というだけではなく、それ以上のものです。すなわち『感謝の心』はあなたの中に「更に優れた喜びをもたらすための門」を開くのです。 『感謝の心』はあなたの心を良いリズムに保ち、あなたの中にあるストレスを軽減し、肉体的な健康を促進し、思考回路をクリアにします。また医学的にも『感謝の心』は脳や体内にエンドルフィンを放出させ、人体に活力を与えると言われています。肉体のどのような働きにおいても同様ですが、この『感謝の心』も使えば使うほど発達します。何も『筋トレ』のような大変さはありません。ただ単純に「思いの焦点」を変えればよいだけです。老人施設で暮らすある老婦人は神にこう感謝したそうです。「ああ神様、私に丈夫な『2本の歯』を与えてくださって本当にありがとう。そのうち1本を上にそしてもう1本を下に与えてくださってとても感謝です。しかも何とその2本はちょうどピッタリ噛み合うのです!」 あなたにもし家族がおられるなら、ぜひ毎日の食卓で1人1つずつ「今日出会った感謝なこと」を分かち合うようにしてみてください。このように『感謝の心』を育てることにより、家族皆が生き生きと人生を送れるようになり、そしてそれは周囲の世界にも影響を与えていくのです。ある作家はこのように書きました。「あなたがもし孤独を感じている人や落胆している人に『ほんの小さな感謝の気持』を伝えることができたら、この世界の幸福度はグンと上がるに違いありません。だってあなたがつい忘れてしまいがちなその『小さな感謝』が、それを受け取った人には『一生の宝物』になるかもしれないのですから。」

(188) “お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

『家庭内暴力』というものが問題視され始めて久しいですが、様々な対応がなされているにも関らず、発生件数やその激しさは日に日にエスカレートしています。一体何が原因なのでしょうか? 私が子どもの頃に比べて、現在の日本社会(に限らず世界全体でも…)が遂げた大きな変化は次の2つでしょう。それは「物質的豊かさ」と「人間関係の希薄さ」です。そしてこの2つは関連性があります。最も典型的な例が、『少子化』に伴って子供たちが家庭において兄弟関係の醍醐味を体験する機会が減った上に、「物を与えられて放っておかれること」を通して親からさえも『人間味のこもった愛情』を体験しにくくなっている現状です。そのような子供たちが大人になって結婚しても「豊かな夫婦関係を築くこと」は非常に困難であり、また生まれてくる子供を「人間らしく愛情深く育てていくこと」は更に無理があるのです。 人は誰でも豊かに生きる上で『生きた模範』また『正しく愛された経験』が不可欠です。家庭内暴力がエスカレートしてしまうのは、人生にとって必要不可欠なそれらのものを味わう場(本来なら『家庭』)が失われているからです。 イエス・キリストは十字架の上で虫の息になりながら「父(神のこと)よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのですから。」と祈られました。イエスが祈られたように、まさに私たちは自分で自分の人生をダメにしてしまっていることが分かっていないのです。そしてその根本的な原因は、私たち人間が「私たちを創造し、今日も私たちを愛しておられる神」を見失ってしまっていることなのです。 神は私たちがもう1度「神との壊れた関係」を修復することができるようにと、ご自身の側から『和解の使者』であるイエス・キリストを遣わされました。このイエスの十字架によって現された『自らをささげて赦す愛』を受け入れる(自分で体験する)ことによってのみ私たちは、人間が本来与えられている「愛に基づいた豊かな関係」を築いていくことができるのです。

(187) “何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心(思い)の一新によって自分を変えなさい。”

私たちは「自分のためにならない欲(誘惑)」からどうすれば解放されるのでしょう?例えばある人が体重を減らすために大好きな甘い物を我慢するとします。その人が一生懸命「甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃ…」と繰り返せば解放されるのでしょうか? いいえ、むしろそれは逆効果でしょう。なぜなら私たちが何かに対して頻繁に思いを向けるほど、それからの誘惑が強くなるからです。誘惑から解放されるためには、むしろ「他のより優れたもの」に思いの『向きを変える』必要があります。私たちの敵は「甘味処」にあるのではなく「私たちの思いの中」に住んでいるからです。たとえ甘い物を買いに行かないために1日中家の中に閉じこもっていたとしても、私たちは相変わらず1日中「大好きな甘いもの」のことを考え続けることができてしまうのです。 イエス・キリストは、私たちの「罪を赦すため」だけでなく、私たちを「罪の誘惑から解放するため」にもこの世に来てくださいました。彼は地上での生涯を通して私たちに「何よりも魅力的で崇高なもの」すなわち『神との関係の中で生きること』を身をもって示してくださいました。病んでいる者には癒しを、悩む者には平安を、憎しみの中には赦しと和解をもたらされました。それは彼を通して『神の愛』を体験した私たちが、その愛に魅了され、その同じ愛を人々の間で流していく者とされるためです。 あなたはもうこの愛に出会いましたか?もしまだなら、世のハイペースで疲れきったあなたの思いを、このイエスに向けてみませんか?

(186) “それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”

上記のことばは『人間関係』に関して聖書に登場する最初のことばです。ここから次の2つのことが分かります。 第1番目は「『夫婦関係』というものがこの世の人間関係の中で最も基本であり、重視されるべきものであり、また最大限の努力をして守るべきものである」ということです。日本では夫婦の間で子どもが生まれると夫と妻がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合うことが通例になっています。これは日本の家庭社会が『子供中心』に回っているということを如実に表しています。しかし聖書に照らし合わせてみるならば、この考え方は誤りです。「豊かな夫婦関係」あっての「子育て」であり、夫と妻は常にお互いが『最優先の存在である』ことを心に深く刻んでおくべきでしょう。 第2番目は「『豊かな夫婦関係』は夫と妻双方のたゆまぬ努力なしには育たない」ということです。夫婦関係はある意味『草花』のようです。心を込め手をかけて育てないと枯れてしまいます。しかもそれは「相手を変えようとする努力」ではなく「相手のために自分が変わろうとする努力」です。何度か離婚の悲しみを味わったある有名俳優は次のように言いました。「もう『自分にふさわしい相手』を探す努力はやめにします。その代わり『相手にふさわしい自分』になる努力を始めることにします。」 多くの夫婦が結婚生活を保つのに苦労している最大要因は「夫婦間の意見の衝突を上手に解決できない」ことです。どんなに気の合う夫婦でも、毎日顔を合わせるのですからどうしても『意見の衝突』が起こります。そして多くの場合「何とか自分を正当化しよう」としたり「言い争うのが嫌だから、心の奥にしまっておこう」としたりします。これは夫婦関係だけではなく、あらゆる人間関係をも壊すもとになります。 現代のような競争社会では「勝利すること」が善とされます。ですから意見が衝突した時にも「最終的な勝ち負け」を意識してしまうのです。しかし「誰かが勝利すること」は逆に「敗者を生み出すこと」にもつながることを忘れてはいけません。特に『夫婦関係』においては「一方が勝利すること」は「関係としての敗北」を表しています。夫婦間の衝突が起こった時は、「どちらかの勝利」を目指すのではなく、「たとえどちらか(自分?)が負けた」としても「夫婦としての向上(更に強い結び付き)」を目指すことが本当の勝利なのです。

(185) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

イエス・キリストは、十字架にかかる前の晩のいわゆる『最後の晩餐』の席で、目前に迫っている恐ろしい出来事に備えさせるためか、12弟子たちに次のようにおっしゃいました。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 誰もが『変わることのない平安』を求めています。何故でしょう?それはこの世界があまりにも「変わりやすく」「移ろいやすい」からに違いありません。昨日まで新しいと思っていたことが、今日はもう古いと言われてしまう。昨日までは味方だと思っていた人が、手のひらを返したように敵に回ってしまう。そのような世界に生きている私たちは『変わることのない本物』を欲しているのでしょう。 多くの人々は「お金」「地位」「安定した生活」などに『平安』を見出そうとします。「これさえ手に入れれば、きっと幸せになれる。安心できる。」と思うわけです。しかしひとたびそれらのものを手に入れると、やがて襲ってくるのは『物足りなさ(「もっと欲しい」と思う気持)』でしかありません。私たちの外側にあるものは、決して私たちに恒久的な平安をもたらしません。 ある時『平安』というテーマの絵画展が開かれ、その中の1つの作品に注目が集まりました。その作品には画面いっぱいに荒れ狂う嵐の光景が描かれていました。しかしよぉく見ると、その中央付近に描かれている一本の木の枝に鳥の巣があって、その巣の中で一匹の親鳥が大きな翼を拡げてひな鳥たちを囲んで嵐から守っているのです。ひな鳥たちは外の嵐がうそのように安心しきって憩っています。 『真の平安』とはそのようなものです。たとえ周囲の状況がどうであれ、「わたしは大きくて力強い守りの中にいる」と確信して日々を生きることができるということ。これがイエス・キリストが言われた「この世が与えるのとは違う、わたしの平安」というものなのです。

(184) “風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。”

冒頭の聖書のことばは、何も『農民の心得』について語っているわけではなく、平たく言えば「理想的な状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても仕事は進まない」というわけです。神を信じる者の歩みも同じことが言えます。 最近ある牧師が面白いことを言っていました。「『信仰』の反対語は、『不信仰』ではなく、『恐れ』である」と。すなわち、「心から神に信頼しているなら、逆境においても恐れず大胆に進んでいける」というのです。なるほどな、と思いました。『大胆であること』と『浅はかであること』が似てて非なるものであると同様に、『忍耐強いこと』と『臆病であること』も一見見分けるのが難しいですが、根は全然違います。真の『信仰』は、待つことが難しい時にも忍耐を可能にし、また前進が難しい時でも大胆な1歩を踏み出させてくれます。 三重苦を克服した人物として有名な『ヘレン・ケラー』はこんな言葉を遺しています。「どれほど万全を尽くしたところで『完全な環境』などというものはあり得ない。もしあなたが人生を『素敵な大冒険』として味わっていないとしたら、あなたは真の意味で『人生』を味わっていないのである。」 私たちの人生に『試練』や『挫折』が存在するのは、神が私たちを打ちのめそうとしておられるのではなく、かえって私たちが神ご自身を更に深く求め、その信仰を成長させるようにしておられるのです。恐れに対して『No』と言い、神の招きに対して『Yes』と答えながら、この『素敵な大冒険』進んでいきましょう。

(183) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。”

神を信じようとする者にとって最大の試練と言えるものの1つは、「神がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのだろう?」と言いたくなるような出来事に直面した時です。あるクリスチャンの作家は「神様、あなたはご自分が何をなさっておられるのか分かっていらっしゃるのですか?」というタイトルの本を出版しました。思わずそんな風に言いたくなる出来事が世の中には確かにあります。ではそんな時に私たちはどうしたら良いのでしょう? 聖書は「あなたがたに隠されていることは、神の領域であって、今はまだあなたがたが知らなくても良い。しかし既に現わされていることは、あなたがたのためであるのだから、それらをしっかりと握っていなさい。」と教えています。もっと分かりやすく言うならば、「理解不能なことから神を推し測るようなことをしないで、既に与えられている確かな情報(例えば『聖書』)を基に神について知り、またその神に信頼しなさい」ということです。 聖書は私たちに「神は私たち人間を愛しておられ、私たち1人1人の人生のために最高の計画を用意しておられる」と教えています。ですからこのことを大前提として、人生に起こる様々な出来事を理解しようと努めるのです。すなわち、私たちが神に尋ねるべき質問は「神様何故ですか?」ではなく、「あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを学んで欲しいと願っておられるのですか?」なのです。 もしかするとある人は「そんな理屈は『この世に試練が存在する理由』を説明していない!」と憤慨なさるかもしれません。しかし驚いたことに、実際は「試練に出会ったことを通して、私は神を求め、また神を知るようになった」という人々がとても多いのです。神は、人をご自身の許に引き寄せるためであるなら、試練さえもお用いになるのです。

(182) “あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。”

あなたが誰かから手厳しい批判を受けた時には、大きく分けて2通りの適切な対応の仕方があります。 まず、もしその批判の中に「耳が痛いけど、確かに真理をついている」という部分があるなら、あなた自身がへりくだって反省し、成長の糧としてください。 またもし、それが全くいわれのない、デタラメな嫌がらせだったのなら、その時こそイエス・キリストの教えを実践する絶好の機会です。どういうことかと言うと・・・ 世の中には、特に正当な理由がないのに他の人に辛く当たったり、わざわざ人を困らせることをして楽しんだりする種類の人々がいます。そのような人々は大抵、過去に不当な取り扱いを受けて深く傷ついた経験があったり、他の人が自分よりいい目を見ているのが妬ましくて、ついそれらの人を自分のレベルまで引き下げようと躍起になっているのです。このような時には、反射的に復讐したくなったり、「こういう奴らをつけあがらせておくと世のためにならない」などと理屈を付けて、相手を徹底的にやりこめようとしてしまいがちですよね?しかしこれらの反応はイエスが私たちに示された方法ではないし、実際「復讐が復讐を呼ぶ」だけで、根本的な解決にはなりません。 イエスが「右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ」とおっしゃった時、一体何を意味されたのでしょうか?それは「敵の外側からの攻撃で、内側までダメージを受けてはならない」ということです。私たちが傷つけられ人生の道を踏み外すきっかけとなるのは、「外側の痛み」ではなく、その原因を自分で勝手に解釈することによって生み出す「内側の苦々しさ」です。受けた攻撃が不当であればあるほど、それを自分の内側で何度も反芻することは無意味です。そのような攻撃はむしろ軽く受け流し、あなたの心はもっと他のことがら(あなたを正当に評価してくれる人の言葉や、あなたの成長のために適切な批評をしてくれる人のアドバイス)に向けるべきです。これらのものにあなたの心がしっかりと向けられているなら、誤ったくだらない評価にいちいち捕らわれていることが時間の無駄に思えてきます。 聖書は、あなたを「愛をもって正しく評価してくださる」神からの励ましの言葉に満ちています。今日もこの聖書のことばに深く耳を傾け、不当な攻撃を受け流す知恵と力を身に着けていきましょう!

(181) “からだのあかりは目です。”

神は人体を実に精密に造られました。今日は『目』の機能のいくつかを例にとって見てみましょう。 目が適度に湿り気を保ち、またいつも清潔さを保っているために、定期的な分泌物が供給される必要があります。これが『涙』です。涙はどんな目薬よりも複雑な構造であり、完璧に目を守ることができます。涙は「ムチン層・涙液層・油層」という3重構造からなり、目のための豊かな栄養がしっかりと目の表面に定着し、また簡単に蒸発してしまわないようになっています。実際涙は目を乾きから守るだけでなく、目の表面を常に平らに保ち、物がキチンと見えるようにも助けています。また眼球の透明な部分『角膜』には血管が通っていないので、代わりにこの涙が目に必要な酸素などの栄養素をも届けているのです。 また、この涙の分泌を促しているのが『まばたき』です。目の表面には「目の状態を感知するセンサー」があって、このセンサーが常に働いて自然にまばたきをするようになっています。通常は3秒に1度くらいまばたきをするものですが、これがパソコンの使いすぎや暗い部屋での作業などで目を酷使したときには、更に頻繁に起こるようになり、目の健康を保ってくれるのです。 ところで皆さんは「突然暗い部屋に入ったときに、目がだんだん慣れてくる」という現象を体験したことがあるでしょう。実はそのような状況で、皆さんの目は普段の10万倍もの能力を発揮しているのです。どんな高性能のカメラでも、その足元にも及びません。また私たちの2つの目は驚くべき共同作業で、私たちが見ようとするものに対して完璧にピントを合わせてくれているのです。 更に驚いたことに、私たちの目を守る『涙』には2種類あって、前述のような「日常生活の中で目を健康に保つもの」のほかに、「目にゴミが入ったり、玉ねぎが目にしみたりした時に出る涙」があります。こちらは上記の涙と違って「洗い流す」という使命があるため、「定着させる成分」が含まれていないのです。まるで何か意志を持った力が背後で指令を出しているかのようです。まさに『神秘』です! 全く神様のなさるわざには驚かされますよね。これらの人体の特徴が「単なる偶然の進化によって起こった」と信じている「進化論」提唱者たちの『妄信』にあきれませんか?

(180) “人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

ある男性が、何年もの結婚生活の末、妻との離婚を決意し、結婚カウンセラーの許に相談に訪れました。彼は離婚の意志を固めた理由を次のように述べました。「とにかくひどいもんです。妻は身だしなみもしようとしないし、冗談も通じないし、体形のことも省みません。家事もろくにできないし、はっきり言って魅力のかけらもないんです!」黙って聞いていたカウンセラーはここで大変有用な1つのアドバイスをしました。「分かりました。それでは離婚の準備に当たって、少しでも離婚調停を有利に進めるために、今日からしばらくの間、できるだけ『良い夫』としてふるまってください。まずできるだけ毎日仕事から早く帰宅するように心がけ、家に足を踏み入れたら、奥様に対してまるで『女神』に対するかのように優しく接するのです。何か魂胆があるかのように悟られてはいけません。ともかくすべての努力をして奥様を喜ばせようと努め、彼女のくだらない話にも熱心に耳を傾け、できるだけ家事を手伝い、そうそう、週末にはぜひディナーに連れ出すといいでしょう。何しろ相手は『女神』なのですから、時に応じて彼女の美しさや振る舞いに特別な言葉で賛辞を送るべきことは言うまでもありません。これだけしておけば、離婚調停において事があなたの側に有利に運ぶこと請け合いです。ではまた2ヵ月後にご連絡いたします。」 男は非常に満足し、一大決心をし、その日はバラの花束を抱えて帰宅しました。週末には妻をロマンチックなレストランへと連れ出し、毎晩寝るときには素敵な詩を読んで聞かせました。家事には積極的に協力し、妻の愚痴にも熱心に耳を傾け続けました。そのように過ごしていたある日、カウンセラーから電話が入りました。「さて、お約束の2ヶ月が過ぎましたが、離婚調停を進める用意はいいですか?」男は答えました。「離婚?一体何のことをおっしゃっているんですか?私は『女神』のような妻と生活しているんですよ!このような女性を妻にしているのに離婚を考えるなんて愚か者のすることですよ。悪い冗談はやめてください!」 この男は、以前は誤った種を蒔き続けていたために質の悪い実を得ていましたが、良い種(愛の種)を蒔き始めたら良質の実(麗しい結婚生活)を刈り取れるようになったのです。あなたは何か悪い種を蒔いてきたことによって大切なものを失いかけてはいませんか?今からでも、このカウンセラーのアドバイスに従って、良い種を蒔き始めてみてはいかがでしょう?

(179) “たとい法令にそむいても私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。”

2006年に映画化された「One Night with the King」(日本語タイトル:『プリンセス・オブ・ペルシャ』)のもとになっている聖書の中の書物『エステル記』の主人公エステルは、彼女の同胞であるユダヤ民族のいのちを救うため、自分のいのちの危険を顧みず、法令にそむいて王の前に立ちました。(結果は、自分のいのちもユダヤ民族も助かるのですが…) あなたは何か「いのちを燃やす」ことがらに取り組んでいますか?それとも『無難』に日々を費やしていますか?もしかしたら「どうせ自分になんかたいしたことは成し遂げられやしない」と最初からあきらめムードですか?だとしたら、エドワード牧師が遺した次の言葉に耳を傾けてください。「私はちっぽけな1人の人間に過ぎない。しかし少なくとも1人の人間である。私には多くのことはできないかもしれない。しかし何かはできるに違いない。だからこそ、多くのことができないからといって、できることをもあきらめてしまうようなことは決してしない!」 この天地万物をお造りになった神様が、あなたをもお造りになられました。神はそのお造りになられた人間1人1人に「夢を持つ心」をお与えになりました。1人1人違った(ユニークな)夢です。もしあなたがその夢を追うことなしに人生を終えてしまうなら、その夢は永遠に実現される機会を失うのです。ある詩人は次のように書きました。「世界で最も悲しい言葉は、『もしかしたら、こうなれたかもしれないのに…』である。」 あなたの人生はまだ終わってはいません。いかがでしょう?今からでもそのいのちを燃やしてみませんか?あなたの人生の本当の終わりが来たときに「何だか自分の人生は、他の人の目ばかり気にしたものだったなぁ」などと振り返るのではなく、「私は神が私にだけ与えてくれた『夢』を追って、精一杯走りきることができた」と告白できたら何と幸いでしょう。その夢を追い始めるのに、まだ遅すぎることはありません!

(178) “あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。”

社会に大きなインパクトを与えるような活動も、大抵の場合『ほんの小さな1歩』から始まるものです。マザー・テレサは「貧しい人々の役に立ちたい」という願いを神様から与えられ、たった1人でインドのカルカッタへ出かけ、誰も関心を払わないような道端で倒れて死にかかっている人々に手を差し伸べました。彼女は社会から忘れ去られた取るに足りない人に、ひたすら自分の心と思いの限りを注ぎ尽くしたのです。彼女は自分のちっぽけな働きがやがて世界中の注目を浴びるなどと思いも寄りませんでした。彼女の心の中には「神の愛に応えたい」という純粋な気持ちだけがあったのです。 もし大きな夢や目標を抱いて毎日を過ごしているのでなければ、私たちが行なっている1日1日の営みはあまりにちっぽけで虚しく感じられるに違いありません。しかしその「小さな営み」がやがてもたらそうとしている『大きな完成』を見つめていることができるなら、たとえ今していることがどんなに小さくても、私たちの心はワクワクしてくるのです。 3人の人々がそれぞれレンガを積み上げていました。1人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとその人は不機嫌そうに答えました。「見りゃあ分かるだろ。レンガを積んでるんだよ!」 2人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 彼はニヤリとして答えました。「1時間千円さ。結構いい稼ぎだろ?」 3人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとこの人は興奮しながら目をキラキラ輝かせて答えました。「立派な城を建ててるんだよ。これはその大切な土台の1部分なのさ!」 私たちの日々の営みはあたかもこのレンガを1つずつ積み上げているようなものです。大切なのは、その行為そのものではなく、「どこへ向かって(何を見つめて)それを行なっているのか」ということです。あなたは3人目の人のような心を躍らせる「人生の偉大な目標(ゴール)」を持っていますか?それを与えることができるのは、あなたをこの世界に送り出された『天地創造の神』 ただ1人なのです。

(177) “ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼(息子)を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”

聖書は『ただ1人の神』について語りますが、しばしばそれは読み手である私たちが抱くイメージによっていろいろに様変わりします。ある人は『神様』と言えばすぐに「雲の上におられる白いヒゲの柔和なおじいさんで、何でもお願いを聞いてくれる」と思い描きますが、別のある人は『神様』と聞くと反射的に「怒りっぽい大王で、手にムチを持っていて、いつも私たちを見張っていて、失敗するとバチをあてる」とイメージします。 しかし聖書が私たちに伝えようとしている『神様』はそのどちらとも違います。イエス・キリストはまさに私たちのそのような誤解を解くためにこの世界に来られ、その教えと生き様とを通して『正しい神のイメージ』を私たちに伝えようとされたのです。彼が伝えた神のイメージ、それは言うなれば『愛に病む父』です。 神は私たち人間をお造りになられました。それは私たちが神との「愛の関係」を保ちつつ、この地上に増え拡がって行くためです。ところが私たち人間は「自分の益」に心を奪われ、神を見失い、他の人々への思いやりも忘れて「自分のこと」に終始するようになってしまいました。そのような私たちの様子をご覧になり、私たちの生みの親である『天の父』は日々心を痛めておられるのです。 神の求めておられるのが、単なる『従順な子供』としての私たちではなく「私たちとの愛の関係」であるため、神はそれを「無理強いする」ことができません。ただひたすら私たちがその愛に気づいてご自身の許に帰ってくるのを「待ち続ける」しかないのです。この『神の愛』に応えるためにあなたにできることは「一生懸命『良い子』を演じること」ではなく、この天の父の愛に向かって振り向いて「今までお待たせしてごめんなさい。これからはぜひ一緒に生きて行きますから、どうぞよろしく!」と言うことなのです。

(176) “私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。”

神が人間に与えた最も『神秘的な能力』の1つは、恐らく「自由意志による選択能力」でしょう。神は人間をお造りになった時、ご自身の好みに合わせて動く「ロボットのような存在」を造ることもおできになりましたが、敢えて私たちのような『気分屋』で「その場の雰囲気に流されやすい」非常に危なっかしい存在として人間をお造りになりました。 私たちは1日の中で、様々な『思い』を持ちながら生きています。「もうそろそろ起きなきゃ…」とか、「お昼は何を食べようかな?」とか、「この仕事をどうやって定時までに終わらせられるだろう…」などなど。そのうちのほとんどの思いはたわいのないものですが、いくつかは私たちに大きな精神的プレッシャーを与えるものもあります。私たちは「自分の思いは、自分ではコントロールできない」と思いがちですが、決してそんなことはありません。実は神様はそのために私たちにこの神秘的能力である『自由意志』をお与えになったのです。私たちは日々繰り返される「自分の意志による選択」によって私たちの人生(人格)を形造って行くことが許されているのです。私たちは「その場しのぎ」の選択繰り返すことによっていわゆる『逃げの人生』を送ることもできますし、「しばらく後に得られるであろう大きな利益」を期待しつつ、敢えて忍耐を働かせて「正直で正しい選択」を繰り返していくこともできます。そしてこの『正しい選択』を助けてくれるのが、「神の言葉」である『聖書』であり、またその聖書が私たちに教えてくれる「私たちの神は善き父である」と信じる信仰なのです。 『正しい選択』は、初めのうちは多くの忍耐を必要とされるかもしれませんが、それを繰り返し行なっていくことによって習慣化し、より自然な形で正しい道を選び取っていけるようになるものです。この「繰り返し行なうことによって習慣にすることができる」というのもまた、神が人間に与えた『神秘的な能力』に違いありません。

(175) “私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。”

私たちが神に何かを祈る時、「災いを与えてください」とは祈りませんよね?普通は「私を祝福してください」と祈るはずです。そこまでは良いのですが、私たちは自分のための祝福や成功を祈りはしますが、「環境が変わること」や「新しいことに挑戦すること」は好みません。『現状維持』が好きなのです。 神は私たち人間を愛しておられます。そしていつでも私たちを祝福したいと願っておられます。神は私たち1人1人を通してご自身の『栄光』(神の優れたご性質)を表現したいと望んでおられるのです。それによって全世界が神の偉大さを知るようになるためです。ですから私たちが「大いに祝福されること」が神のみこころなのですが、それを手にする人々は多くありません。何故でしょうか?それは、神がご自身の『大きな祝福』を携えて「この祝福を受け取るために今抱えているちっぽけなものを手放す勇気のある者はいないか?」と探し回る時、その『今抱えているちっぽけなもの』を捨てて大胆に神に向かって名乗りをあげる者があまりいないからです。 聖書に「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」と書いてあります。『信仰』とは、まだ見ていないものを深く確信して大胆に行動を起こすことです。私たちはあまりにも『目に見えるもの』に捕らわれすぎてしまって、神が与えようとしている「私たちの思いを超えた祝福」を信じられないでいるのです。ですから私たちはこう祈るべきです。「神様、あなたが私のために用意してくださっている『大いなる祝福』を受け取ることができるように、私に信仰によって新しい1歩を大胆に踏み出させてください!」

(174) “愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し…”

どんなに親しい間柄にも『意見の食い違い』はつきものです。本当の意味での『豊かな人間関係』というものは、「自分の本心を隠して相手に合わせること」ではなく、むしろ「相手を恐れずに自分の本心を正直に打ち明けること」から始まります。ここで非常に大切になるのが「『意見の不一致』や『口論』を正しく解決することのできる能力」です。 ちょっとした口論が原因で夫婦関係や親子関係、そして親しい友人関係に亀裂が入ってしまうことがよくあります。どうしてなのでしょう?それは「口論のフォーカスを『元々の原因』から『相手の人格』へと移してしまうこと」に大きな原因があります。例えばよくあるパターンは「全くアナタはいつもそうなんだから!」とか「お前のそんなところは、お前のお袋にそっくりだ!」などという捨てゼリフで口論を終わらせようとすることです。そうではなく、むしろ「夕食に遅くなる時は、ちゃんと連絡して欲しいわ。せっかく出来たてのお食事を食べさせてあげたかったのに…」、または「昨夜のパーティの時、皆の前でキミに言われたことに、ボクはとても傷ついたよ」というように、問題の焦点をはっきりさせた発言をするのです。どちらの場合も双方に『怒り』『悔しさ』『驚き』などがあることに変わりはありませんが、少なくとも言われた方は「何をどう反省し、どのように自分の行動を変えたらよいのか」が分かるので、関係を成長させるきっかけがずっとつかみやすいのです。 大切なことは「口論に勝利すること」ではありません。「不一致の原因を突き止め、それを共に克服し、お互いの関係を成長させること」です。そして相手をおもいやる『愛の心』をもって、あなたの怒りの原因を正確に伝えるならば、あなたの言葉は相手にとってずっと受け入れやすいものとなるのです。

(173) “私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

『信仰』というと、何だか分かるような分かんないような、あやふやなものといった印象があるかもしれませんね。1つの解りやすいたとえは、「盲導犬に信頼する盲人の感覚」でしょうか? なぜ盲人は盲導犬に信頼するのでしょう?それは盲導犬は盲人には見えないものが見えるからです。そして盲導犬は「いつ・どこで止まり、どちらへ向きを変え、どのタイミングでまた歩き出すのか」を、ハーネスを通して盲人に伝え、盲人はそれを注意深く受け取り、それに全幅の信頼を寄せて行動するのです。これが、もし「おかしいな。いつもはこの角でこんなに長く止まっていることはないのに…。これはきっと犬が何か勘違いしているか、または私に意地悪しているに違いない。こんな奴に従ってまごまごしているわけにはいかない。自分の感覚に頼って、もう行ってしまおう!」などと、盲導犬に逆らって進もうものなら、たちまち私たちの人生は危険にさらされてしまいます。 私たちが神に信頼して歩む人生もこれによく似ています。私たちには1秒先のことも解りません。そういう意味ではまさに『人生に関する盲人』のようなものです。それなのに私たちは無謀にも先を急ぎたがります。「なぜこのタイミングでこんなに長く待たなければならないのだろう?もっと早く進んでいきたいのに…」とじれったく思うこともあるでしょう。しかしそれは、今急いで先に進むと、何か危険が潜んでいるからに違いないのです。 神は時空を超えた方です。また彼は私たちを深く愛し、慈しんでおられます。誰よりも私たちの最善を望み、そして導いてくださる方なのです。ですから、盲人が盲導犬に深く信頼して、その歩みを任せているように、「神は私よりも優れた方である。また彼は私を愛し、私のために最善の道を歩まそうとしておられる」そう信じて、自分の感覚よりも『神の導き』を敢えて選んで進むこと、これが聖書の教える『信仰』なのです。

(172) “神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。”

日本の昔物語に『彦一ばなし』というものがありますが、その1つに彦一が『隠れ蓑』を着ていわゆる「透明人間」になっていたずら三昧をするくだりがあります。いくらいたずらをしても何しろ姿が見えないわけですから、被害者たちは「目に見える周囲の誰か」を疑って互いに疑心暗鬼になってしまうわけです。 実は私たちの周囲にも同様に「私たちの目には見えないところで悪さをしている存在」がいます。それが聖書の教えるところの『悪魔』です。悪魔は何も「角がはえている黒装束の魔物」というわけでも「驚異的な力をもって私たちに襲い掛かってくる怪物」でもありません。むしろもっと巧妙に「思いの中に働いて私たちをだまし、私たちの自尊心や人間関係を破壊」しながら、私たちの心が『真の神』から離れていくようにと仕組んでいるのです。 では、そのような悪魔の巧妙な働きに対抗する術があるのでしょうか?もちろん、あります!そしてそのためには下記の2つのプロセスが必要です。 1.悪魔の存在を認める。 あなたが「『悪魔』なんてそんな馬鹿げたものはいやしない!」と言っている間はあなたは見事に悪魔の術中にはまってしまっています。透明人間に対して私たちがなす術を持たないように、悪魔の存在を認めない限り、あなたは悪魔のしわざに対して勝ち目はありません。 2.「キリストを通して現された神の愛」を受け入れる。 私たちがキリストを自分の救い主として受け入れるならば、キリストは私たち1人1人の内に住んでくださいます。そして聖書は次のように断言しています。「私たちのうちにおられる方は、この世のあの物(悪魔のこと)よりも力がある!」 この世ではいわば「神様と悪魔の勢力争い」が繰り広げられています。神は悪魔よりも優っている方ですが、私たち人間を「思い通りに操ろう」とはなさいません。あなたが『神の勢力』に入れられ、悪魔に対する勝利の人生を送るためには、あなた自身の決断が必要なのです。

(171) “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。”

『発明王エジソン』は、単に「発明の天才」であっただけではなく、「失敗に対処する天才」でもありました。ある日彼の実験室で大きな爆発音が起こり、エジソンが慌てて駆けつけると、彼の弟子たちが申し訳なさそうに言いました。「先生、これでもうこの実験に何度失敗したか分かりません。」するとエジソンはこう応えたそうです。「諸君、それらを『失敗』と呼んではいけない。『学習』と呼びなさい。何故なら諸君は既に『こうしてはダメだ』といういくつもの方法を経験によって学んだのだから。」 何かに失敗してしまった時に私たちが問うべき質問は「何でこんなことをしてしまったんだろう…」ではなく「この状況にどう対処することが最善なのだろう?」という問いです。失敗を責めることはかえって新たな失敗を生むきっかけになります。しかしその失敗を前向きに捉え、解決の糸口を捜そうとする態度は、私たちを成長へと導きます。 『成長』とは「目標地点」ではなく「そこに至るまでの道のり」のことです。神はもちろん私たちが「目標地点に達すること」を私たちと共に喜んでくださいますが、それ以上に、つまずいたり途中で転んでしまいながらも「目標地点を目指して1歩1歩進んでいく私たち」を大いに喜び、共に歩んでくださるのです。聖書が教える神は「怒りっぽくてあきれ果てる神」ではなく、「忍耐と赦し、そして励ましに満ちた神」なのです。

(170) “この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。”

ある家庭や個人に立て続けに不運が襲ったりした時、それらの人々のことを評して「あの家庭(家系)は呪われているに違いない」などと言う人たちがいます。とても悲しいことですが、実際ある精神科医のグループの研究によると、暴力癖のある人々の90%は自分が以前に誰かの暴力にさいなまれていた経験があるそうです。すなわち「誰かから受けた心の傷が、その人の性質に同様の習性を養ってしまう」ということなのでしょう。ですから親が何らかの中毒症状(アルコール・タバコ・麻薬、その他)を持っていた人たちは、他の人たちよりもずっと同様の中毒症状に陥りやすい危険性を持っていると言えます。 恐ろしいことにある種の宗教活動グループは、このような人間の弱さや傾向性を逆手に取り、「あなたの家系は呪われているからOOをしなければならない」とか、「その呪いを断ち切るためにはOOを購入しなければならない」などと人々を脅して入信させようとしたり資金稼ぎをしたりしているようです。これらは許しがたい行為です。 これらの私たちの弱さに関して、イエスは全く違った見解を示されました。彼は「それらのあなたがたの弱さは、単に神の偉大な力が現されるための機会の1つに過ぎない」とおっしゃったのです。言葉を換えれば「その問題がたとえあなたにとって大きすぎて乗り越えられないとしても、神にとってはあなたのために解決できないほど大きすぎる問題など存在しないのだ」ということです。 使徒パウロは「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は『新しく造られた者』である」と言いました。イエスにとってあなたの『過去』がどのようであったかは問題ではありません。イエスはあなたに『全く新しい未来』を用意して、あなたが彼のところにやって来るのを待っておられるのです。

2015年6月14日 「心に書かれた『御霊のことば』」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「心に書かれた『御霊のことば』」     (14/06/2015) *教会(私たち)が与えられた使命を全うするために必要不可欠なもの = 『聖霊』 ・イエスは言われた。[ヨハネ6:63]  では、「イエスの語られたことばが『霊』であり『いのち』である」とは? ◆『御霊のことば』[Ⅰコリント2:11-13] ・聖霊は、私たちが彼の働きに心を開くなら、イエスのことばを私たちに個人的に取り次ぐ。[ヨハネ14:26] ・この『御霊のことば』は、私たちの心に刻まれ、いのちをもって働きかける。[Ⅱコリント3:3, エレミヤ31:31-34] ◆この『御霊のことば』がどのようにして教会の中で働くのか?[Ⅰコリント12:7, 13, 27] ・「みなの益となるために」 ― 「個人の益」ではなく「互いの益」。すなわち「キリストのからだの益」のため。 ✯私たちの使命は、それぞれの心に書かれた『御霊のことば』をキリストとの親密な関係の中で読み取り、 「御霊が与える愛と自由」を通して大胆に表現して行くこと。   Outline of the sermon  “‘Spirit-taught words’ written in our hearts.”  (14/06/2015) *What is essential for us(church) to fulfill our mission? = “The Holy Spirit”. ・The words spoken by Jesus […]

(169) “あなたがたは世のものではなく、かえってわたし(イエス・キリスト)が世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。”

クリスチャンになったばかりのある方はこんな風におっしゃることがあるかもしれません。「せっかくキリスト教を信じたのに、少しも問題がなくならない。こんなことならば信じなければよかった」と。 聖書は私たちに「主イエスを信じたならば問題はなくなる」とは約束していません。いや、かえって問題は増えることが多いのです。何故なら私たちが聖書の原則に生きようとする時、それはしばしばこの世の流れに逆らうことを意味するからです。 『この世の流れ』は私たちに「できるだけ楽をして儲ける」ようにといざないます。しかし聖書は「たとえ自分が損をすることになっても、正義と公正を求めて生きるように」と勧めます。そこにはしばしば衝突が起こり、私たちは「何の疑いも感じずにこの世の流れに流されている人々」とうまく人間関係を保てなくなるのです。 では、イエス・キリストと共に生きることにどんな益があるのでしょうか?それは、そのような試練の真っ只中に「神が共にいてくださる」ということです。この世の流れに流されるというのは、すなわち「おのれを神とする」もしくは「この世を支配している悪魔の権威の下に生きる」ということを意味します。そしてそのような生き方には神は関与なさらないのです。神はご自身を歓迎し、喜んで彼に従って生きようとする者と共に、その人生を歩んでくださるのです。

(168) “夫は自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。”

インドに『タージマハル廟』という大変優れた歴史的建築物があります。これはインドのある王様が、愛する妻のために建てた『お墓』なのですが、その建設にまつわるこんなお話しがあります。 インドの王『シャー・ジャハン』は、その最愛の妻を失った時、彼女への思いを何とか形にして遺しておきたいと思い、彼女のために壮大なお墓を建てようと決意しました。王は妻の遺体をお棺に納め、広大な土地の真ん中に置き、そのお棺を中心にして大工事が始まりました。ところがこの大工事が進むにつれて、王の心は「妻を偲ぶ思い」から徐々に「この大プロジェクトを完成させること」へと夢中になっていきました。そして何年かが過ぎたある日のこと、王はこの工事現場を視察している最中に、1つの木箱につまずいて転んでしまいました。王は怒りに燃えて「誰だ!こんなところに邪魔な木箱を置いた奴は!さっさとどこか邪魔にならないところへどかして来い!」と怒鳴りました。この木箱が『最愛の妻の納められているお棺』だったことに王が気が付いたのは、何ヶ月間も後になってからだった、ということです。 どんな夫婦でも、最初は深く愛し合って結婚したことでしょう。しかし長い結婚生活の間に、それぞれの『大プロジェクト』(それは「子育て」だったり、「仕事」だったり、「マイホームプラン」だったりするかもしれませんが…)に熱中するがあまり、本来の目的 『結婚相手のことを最高に幸せにすること』 を見失ってしまっているかもしれません。 ぜひ今日もう1度あなたの妻または夫にこう尋ねてみてください。「あなたを最高に幸福にするために、私にして欲しいことは何ですか?」

(167) “粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたし(神)の手の中にある。”

やること為すことがうまく運んでいる時は、誰でも「前進している」という手応えを感じることができますが、何をやっても思い通りに行かない時は「全然前に進んでいない!」とガッカリしたり、落ち込んでしまうのが私たちの傾向ですよね?私たちはいつでも『目に見える進歩』に一喜一憂してしまうものです。しかし私たちの向上というものは、必ずしも目に見えている状況から判別できるものとは限りません。 皆さんは『粘土遊び』をしたことがあると思いますが、多くの方はもう1歩進んで『焼き物作り』にも挑戦したことがあることでしょう。どちらも初めにやることは「よく粘土をこねること」なわけですが、その目的は異なります。すなわち『粘土遊び』のために粘土をこねるのは単に「作業を簡単にするために、粘土を柔らかくするため」ですが、『焼き物作り』のために粘土をこねるのは「土の中にある空気を押し出して、後で出来上がった作品がダメになってしまうのを防ぐ」という大変重要な過程なのです。ですからプロの陶器師はことさら長い時間をかけて丹念に粘土をこねます。 聖書のある箇所で、神様は『陶器師』そして私たちはその手の中の『粘土』にたとえられています。神様は私たちを最高傑作へと形造るために、まず丹念に時間をかけて私たちを練ります。この間粘土の見た目は何も進歩がありません。もし粘土に感情があったなら「おいおい、痛いばかりで何も進歩がないじゃないか!」と思わず文句を言いたくなるかもしれません。しかしここで重要なのは『見た目の変化』ではなく『作品に対する陶器師の意気込み』です。私たち人間は生来「できるだけ楽をして成功したい」と考えますが、陶器師である神は『最高傑作を造ること』しか考えていません。逆境に立たされた時、私たちは「環境によって簡単に変化させられてしまう『自分の気持ち』」ではなく、「私たちを最高傑作へと形造ろうとしておられる『神様の愛と情熱』」に信頼して、その逆境の向こう側にあるはずの『完成へのプロセス』を遥かに望み見ながら喜ぶことができるのです。

(166) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”

私の大学時代の専攻は『教育学部の国語科』でした。ですから、日本語のいわゆる文法構造とか文章の読解などが専門だったわけですが、文学作品や論説文などを読み解くのに大変役に立ったスキルの1つは「作者の視点に立つ」ということでした。その作品の著者が「読者に一体何を伝えたかったのか」を考えながら、ひたすら筆者の思いを追求していく時、徐々にその作品の深みを味わえるようになっていくのです。 「聖書の内容はどうも分かりにくい」という声をしばしば耳にします。実はその理由の多くは、聖書を『単なる書物・学術書』と考えていることが原因です。聖書は、この全宇宙を造り、そして私たち人類をお造りになった『創造主である神』が、私たち人間の益のために与えた書物です。いうなれば、その著者は『神ご自身』なのです(もちろん、それらを実際に文字として書き表すためには、人間を用いたわけですが…)。従って、その内容を正しく理解し、私たちの人生に有益なものとして生かしていくためには「著者である神の視点」「神の私たちに対する深い思い」を心に留めることが必要です。しかし一体そんなことがどうしたら可能になるのでしょう? 神は「ご自身に信頼し従う者に『聖霊』を注がれる」と聖書に書いてあります。そしてまたこの『聖霊』という方に関して、別の箇所では『キリストの心』であると表現されています。すなわち、聖書の著者である神は、神に信頼しその心を己れの心として生きようとする者が、聖書の内容をおのずと理解できるようにしてくださっている、ということができるでしょう。別の言い方をするならば、聖書を理解する度合いは、読者の学歴の高さや読書量の豊富さに比例するのではなく、むしろ「自分の足りなさを自覚し、神に頼りつつ人生を正しく生き抜こうとするへりくだった信仰」の度合いによるのです。

(165) “神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。”

「聖書の教えの中で最も大切なものは何ですか?」もしかしたら多くの方々がそんな疑問を持っておられるかもしれませんね。いろいろな答え方ができると思いますが、私ならきっと次のように答えるでしょう。「イエス・キリストを信じ、互いに愛し合うことです」と。 「キリスト教は『愛すること』を強調する」と多くの方々が理解しているようですが、実はそれだけでは的を得ていません。何故なら聖書が説く『愛』は「ヒューマニズムの愛」ではなく「神から来る『無償の愛』」だからです。この愛は「にもかかわらず」の愛であり、いつまでも続く「尽きることのない」愛です。すなわちこの愛は、人から出て来るのではなく、私たちの内に住まわれる『キリスト』がご自身の愛を私たちを通して表現されるものなのです。 聖書は、キリストの十字架上での死を「自分の罪のための身代わりの死」として受け入れた者の内には、キリストご自身が『神の霊』として住まわれる、と教えています。そして『神の愛』はその神の霊を通してまずその人の心に注ぎ込まれ、またその人を通してその周囲の人々へとあふれ出て行くのです。ですから「キリストの十字架を通して現された神の愛をまだ受け取っていない人」は、真の意味で『愛すること』ができないのです。 あなたは『愛する人』になりたいですか? 神からの『無償の愛』を受け取りたいですか? もしあなたが本気で求めるなら、それはあなたの手の届くところにあるのです。

(164) “知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。”

今日は、ある愛犬家の遺した詩をご紹介します。 「もしあなたが『カフェイン』を摂取することなしに1日をスタートすることができ、かつ『強壮剤』なしに日々を乗り切ることができたとしたら、またもしあなたが体や心の痛みをものともせずに、いつも機嫌よく過ごすことができたとしたら、またもしあなたが嫌なことに出くわしてもブツブツ文句を言わず、周囲の人までも嫌な気分にさせることを避けることができたとしたら、またもしあなたが毎日同じ食事ばかり食べているにも関わらず感謝の心に満ちていられたとしたら、またもしあなたが愛して止まない人が忙しさのあまりあなたのために少しも時間を割いてくれなくても、そのことを理解してあげられたとしたら、またもしあなたの友人があなたへの配慮をすっかり忘れてしまっていても、それを気持ち良く赦してあげられたとしたら、またもしあなたではない誰かの落ち度のために物事が悪い方向へ進んで行くのを見て、あなたの友人があなたに向かって当たり散らすのを大目に見てあげられたとしたら、またもしあなたが人々からの批判や責めを少しも気を悪くすることなく受け止めてあげられたとしたら、またもしあなたが友の無学さを見てもあきれることなく、またそれを修正しようともしないでいられたとしたら、またもしあなたが金持ちの知り合いと貧乏な知り合いとに対して全く何の差別もなく接することができたとしたら、またもしあなたがこの世にあってほんの少しのウソもごまかしもなく生きていられたとしたら、またもしあなたが精神的緊張や疲労を何の医学的助けもなしに乗り越えて行けたとしたら、またもしあなたがお酒を一滴も飲むことなしにいつもリラックスしていられたとしたら、またもしあなたがお酒や薬の助けを借りなくても毎晩ぐっすり眠れているとしたら、またもしあなたが心の底から正直な気持ちで『自分はどんな宗教の信者も、人種も、またどんな主義主張を奉ずる人でも、決して偏見をもって扱うようなことはしない』と言い切れるとしたら、もし本当にそうなら、友よ、あなたはきっと、あなたの犬に優るとも劣らない立派な人間に違いない。」 お互い『犬にも負けない人生』を送りたいものですね。神様の憐みと祝福がありますように。

(163) “あなたがたは、世にあっては患難があります。”

皆さんは、小舟で大海を旅したことはありますか?まあそのような体験をするチャンスは滅多にあることではないと思いますが、実は私と私の長男はそんな経験があるんです。私たちがバヌアツ共和国において宣教師として働いていたある日、7~8人乗りの貨物船(『小舟』ではありませんが…)に乗せてもらって、1日の道のりを旅するはずが、途中で大嵐に遭ってしまって、丸3日大海を漂いました。いやあ、実に忘れられない体験でした。 聖書に登場するエピソードで、イエス・キリストが12弟子たちと小舟でガリラヤ湖を渡る場面が出てきます。途中で嵐に遭ってしまい、弟子たちは非常に怯えてイエスに助けを求めます。するとイエスが風や波を鎮めてくださって事なきを得る、というストーリーです。 ここで私たちが学ぶことのできるレッスンは、「たとえ神が私たちと共におられても、相変わらず私たちは『人生の荒波』と出会う」ということです。イエスを信じていても私たちは病気になるし、経済的に困窮するし、様々な形で人生を脅かされることがあります。しかしそこにある『決定的な違い』は、それらの脅威に「キリストなしに立ち向かわなければならない」のか?それとも「キリストが必ずこの状況から私たちを救い出してくださるという確信を持ちつつ挑んでいける」のかという違いです。 私たちの人生を破壊するのは、実は出来事や状況そのものではなく、それらの出来事や状況を「どう受け止めるか」という私たちの心の態度です。もし私たちの心が『恐怖』に支配されてしまうなら、私たちは正しい判断力やすぐ側にある助けを見失ってしまい、荒海の中に飲み込まれてしまうでしょう。しかし「神は私と共におられる。神は必ず私をこの状況から救い出し、ご自身の栄光を現される」と固く信じてその状況に挑んでいくなら、必ず神が備えてくださっている『脱出の道』へと導いてくださいます。 あなたは1人で『人生の小舟』に乗りたいですか?それともキリストに同船していただきたいですか?

(162) “自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。”

多くの人々は『人生の成功者』となるために「自分は何が得意か?」「自分にはどんなことが向いているか?」「自分の興味はどこにあるか?」など、ひたすら『自分』の中にあるものを追求します。 ある時、世界のトップ企業のリーダーたちが集まって会議をした時、1人のアメリカ人ビジネスマンがある日本の企業の代表に次のような質問をしました。「現代の商取引のために最も重要視されている言語はどれだと思いますか?」このアメリカ人ビジネスマンは、当然『英語』という答えが返ってくると期待していましたが、これに対して日本企業の代表は次のように応えたそうです。「それはやっぱり『お客様の話す言葉』でしょう。」 「立派な製品を造る」「優れたプロモーションをする」「その道に精通する」どれも大切なことです。しかし私たちの興味が『自分』に集中してしまっているとしたら、いわば「与えるものはあっても、受け取ってくれる人がいない」ということになってしまいます。人々が本当に求めているものは、私たちが「どんな物を提供できるか」ではなく「どれだけその人を心にかけているか」なのです。 イエス・キリストは「人がいかに生きるべきか」の模範を示すためにこの世に来られました。そして彼の人生をひと言で表現するなら、それはまさしく「他の人々のために生きた」ということです。聖書は「神の御姿であられた方が、ご自分のあり方を捨てることができないとは考えず、ご自分を無にして、人となられた」と描写しています。イエスがこの地上に人として来られたことそのものが既に「人々のため」だったのです。 「そんなことは無理だ!」とおっしゃるかもしれません。しかし実はこのような生き方は全然難しくないのです。全く簡単なことです。たった1つの『不動の決断』をするだけ、すなわち「私はもはや自分のために生きるのではなく、他の人々のために生きる」と固く決心するのです。この決断をする人が少ないのは「できない」からではなく、単に「したくない」からです。もしあなたが今日この決断をするならば、その瞬間から驚くほどに『人々のために生きるチャンス』に直面するようになることでしょう。

(161) “私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。”

少し前になりますが、アメリカ大リーグに『ジョー・ディマジオ』という優れたプロ野球選手がいました。ある時記者が彼にこう尋ねたそうです。「ディマジオさん、あなたはどんな時も全力でプレーをなさっていますよね?平凡なゴロをさばくときも、どんなフライを追いかける時も、しかも自分のチームが大量リードをしている時でさえ、1つでも先の塁に進もうとされますが、そのエネルギーの源はどこから来るのですか?」 ディマジオ選手はこう答えたそうです。「私はいつも自分自身にこう言い聞かせるんです。『おいジョー、もしかしたら今日この球場に、今日初めてお前のプレーを観に来てくれている人がいるかもしれないぞ!』ってね。」 人生に対するこのような態度は、間違いなく周囲の人々に有益なインパクトを与えます。しかしこのような態度は自然発生的には私たちの心に芽生えては来ません。それには日々の強い動機付けを生み出す『不変のエネルギー源』が必要です。そしてそれは私たちを「ご自身のかたちに似るように」とお造りになった神からやってきます。 私たちが試されるのは、自分が絶好調であったり、準備万端な時ではありません。むしろ「問題が起こった時にどう対処するか」「日常生活の中で家族や同僚をどんな態度で扱っているか」「先生や上司がいないところでどう勤勉さを保っているか」、そして「周囲からの心ない批判や試練に出会った時にどう応対するか」などを『見られて』いるのです。私たちの心にスキができそうなこのような時にこそ、「たとえ他の誰もが敵に回っても決して私たちを見捨てることのないお方」との関係を固く保っていることが物を言うのです。

(160) “わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。”

先週末は世界中である1つのことが盛大に祝われました。何のお祭りだかご存知ですか?それは『イエス・キリストの復活祭』です。一般に『イースター』と呼ばれています。 イエス・キリストが十字架刑で殺されたことは有名です。この史実を疑う人はあまりいないでしょう。聖書によると「彼は私たちの背きの罪のために刺し通された」と描写されています。すなわち、本来私たちが自分の罪(神に対する不遜な心)のために神の罰を受けるはずであったのを、キリストが身代わりに受けてくださったのです。しかしこの『十字架上での死』以上に重要なのが、「イエスがよみがえられた」という事実です。聖書によるならば、彼は十字架刑(金曜日)から3日目(日曜日)によみがえって墓から出て来られ、数百人の人々の前に姿を現したそうです。 私たちの多くは「『死』とは人間の人生の最後の最後である」と考えています。すなわち「死の向こうは『無』なのだ」と。と同時に私たちは、親しい人が死んでしまった後、しばしばこんなことを言ったりします。「彼(彼女)は我々の心の中にいつまでも生きているんだよ。」しかしイエスは「心の中」ではなく、現実的に見える形でよみがえられ、私たちに『死の向こう側にある希望』を与えてくださったのです。 次は聖書の1節です。「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私たちは皆「真の神を神と認めない罪」のために『死』に定められていますが、「イエスがその罪を自分の代わりに負って死なれ、またよみがえって下さった」と認め、今までの不信仰な生き方から方向転換して「神に信頼して生きる新たな生き方」を始めるならば、もはや『死』は人生の終わりではなく、単なる『永遠のいのちへの通過点』に過ぎなくなるです。

(159) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

「間違いを指摘されるのが好き!」という人はあまりいませんよね?誰でも耳が痛い忠告を聞くのは楽しい経験ではありません。しかし敢えてそのような忠告をしてくれる人がいなければ成長できないのも事実です。 何故私たちは『率直な意見』を聞きたがらないのでしょう?それは私たちがエゴの固まりだからです。それ故善意に満ちた助言に対し「拒絶された」と感じたり、「アイツは自分のことは棚に上げている」などと思ってしまうのです。私たちのこの『屈折した自己防衛』が砕かれない限り、私たちは人格的に成長することはできません。 「親ライオンが愛する我が子を谷底に突き落とす」のと同様に、神は時に応じて私たちの許に「聞きたくない助言を携えたアドバイザー」を送ってくださいます。それは神様が私たちをこき下ろしたいからではなく、かえって私たちが成長し『自己最高の人生』を送ることができるようにするためです。私たちがしばしば「耳が痛い助言」を聞かされるのは、神が私たち1人1人に心を配ってくださっている証拠なのです。 では、どのような心でそれらの助言に耳を傾けたら良いのでしょう?ぜひ次の4つのポイントに留意してみてください。①自分の未熟さを素直に認める。②成長への意欲を持つ(『現状維持』の心は助言を受け付けません)。③助言してくれる人の『善意』を信じる。④「私たちのありのままを喜びつつも、更なる成長を期待してくださっている神」に信頼して前進する。 私たちはつい「より優れた者となる」ことよりも、安易に「見栄えだけが優れている者になる」方を選んでしまいがちです。私たちの『屈折したエゴ』が後者を選んでしまいそうになる誘惑に負けないで、敢えて「耳の痛い善意の助言」に耳を傾けていきましょう!

(158) “わたし(イエス)が来たのは、羊(人々)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

最近心理学の専門家たちの間で急激に問題視されつつある「現代病」があります。専門用語では『FTT』と呼ばれるのですが、まあ平たく言えば「大人になることへの恐れ」とでも言いましょうか。要するに「人生に意味を見い出せず、大人として成長していくことに希望や喜びを失って」しまっているのです。あなたにも心当たりがありませんか? 聖書は「すべての人は天地の創造主である神によって、独自の目的を持って造られた」と主張します。ですから当然この神から離れていては『人生の目的・希望・喜び』といった、私たちが生きていく上での不可欠要素を見い出すことができないのです。また更に悪いことに、人の心の内に、神を敬わず「自分の人生の主人公は自分である。神の存在なんて、かえって迷惑である」などという『神に反逆する態度(聖書は『罪』と読んでいる)』がある故に、人は生まれつき神を認知することができず、生涯『迷える子羊』のように、目的もなくただ人生を浪費するしかなくなってしまっているのです。 イエス・キリストは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、それを豊かに持つためである」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストの十字架における身代わりの死によって罪の赦しを得、へりくだった心で神に近づくことによって『真に生きる意味・力』を見い出すことができます。キリストを通して『天地の創造主である神』とのいのちあふれる関係の中に生かされて初めて、私たちは『いのちの躍動感』を体験し、「大人へと成長していくことへの希望と喜び」にあふれて、『FTT』を克服することができるのです。

(157) “神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、”

『神のみこころ』などと言うと何だか堅苦しく聞こえますが、どんな人でも「自分は何のために生まれてきたのか」ということを人生に1度は考えることがあるのではないでしょうか?それが証拠に、これだけ文明的に発達しても、相変わらず「手相」「タロット」「星占い」などに多額のお金をつぎ込む人々が後を絶えません。 聖書は『天地万物の創造主である神』の存在をはっきりと主張しています。そしてもし本当に唯一の神がこの全宇宙そして私たち人間を造られたなら、そこには必ず『崇高な目的』があるはずです。そう、そこには私たち1人1人に対する「神のみこころ」というものが存在し、神は私たちにそれを知らせたいと思っておられるのです。では私たち人間に対する『神のみこころ』とは一体どのようなものなのでしょう? 私たちは自分の人生のことを考える時、どうしても「何をして生きるか」ということを真っ先に考えがちです。しかし実際は「何をして生きるか」ということはそれほど重要ではなく、むしろ「どんな思いでそれをしているか」の方が重要なのです。すなわち、もしあなたが勉強や仕事、また人助けなどを「誰かに気に入られるため」「誰かに認められるため」にしているとしたら、たとえその行為自体は立派なことだとしても『神のみこころ』を行っているとは言えないかもしれません。採用試験の面接の時、また誰かとの初デートの時、私たちはついつい無理して「自分以上の何者か」になりすまそうとしますが、後にはドッと疲れが出るだけです。けれども、誰に強いられなくても、誰に認められなくても、またたとえ失敗したり、損をしたとしても、そのことをやっていると深い喜びと充実感がある、そんな何かをあなたが持っているとしたら、それは限りなく、あなたにとっての『神のみこころ』に近いものなのかもしれません。 素晴らしいことに、この『創造主なる神』は私たち1人1人のことを私たち自身よりもよくご存知です。それ故私たちはこの神の前で「無理な背伸び」をする必要がありません。気に入られるために「媚びる」必要もないのです。神は私たちの正直さ、ありのままを喜んでくださいます。そしてありのままの私たちが「無理せず喜んでできる何か」を見つけて、それに全力を尽くすこと、それが『神のみこころ』を行うということではないでしょうか?

(156) “わたしの家は、祈りの家でなければならない。”

『祈り』というと、きっと多くの方々は「神様にお願い事をすること」と考えることでしょう。しかし実際は、祈りとははるかにそれ以上のものです。言ってみれば『祈り』とは、「神様に求めること」ではなく、「神様を求めること」なのです。静かな場所で、目を閉じ、この世のことから思いを離し、心を静めて、「神様の心と波長を合わせること」です。すると神様は私たちの心を癒し、平安を与え、天賦の知恵を与え、私たちを通してご自身のみわざを成し遂げてくださいます。 悪魔は私たちがこの「祈りの力」というものに目覚めることを極度に恐れています。それ故悪魔はいつも私たちを忙しくさせ、日常生活の営みの中に埋没させ、「祈りなんて気休めに過ぎない」と思い込ませることによって、私たちを祈ることから遠ざけることに成功しています。クリスチャンと言えども「食前の祈り」「出がけにドアを閉めながらの祈り」「日曜礼拝の開会の祈り」程度で「自分はちゃんと祈っている」などと錯覚させられています。 使徒パウロは、弟子のテモテへの手紙の中で「何かを手掛ける前に、まず祈りなさい。人々に何かを教える時は、まず祈ることを教えなさい。」と諭しました。 主イエス・キリストは、しばしば朝暗いうちから、時には夜を徹して祈りました。もしあのイエス・キリストにさえ祈りが必要であったのなら、なおのこと私たちが祈りを必要としないことがあり得るでしょうか? 『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンは次のように言いました。「人がもし祈りを生活の一部とするならば、やがて祈ること以上の優れたこともできるようになる。しかしもし祈ることを軽視するなら、いつまで経ってもロクなことができるようにはならない。」と。 あなたも「祈る者」とされたいですか?

(155) “夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。”

「ブルータス、お前もか!」とは、ジュリアス・シーザーが腹心の部下ブルータスの裏切りにあった時にもらした言葉としてあまりにも有名です。「信頼していた人からの裏切り」という経験は、その人の人生に実に長く深い傷をもたらすものです。 聖書の中ほどに『詩篇』という書物がありますが、その第55篇に、イスラエルの王ダビデが親しい友に裏切られたときの心の叫びが詠われています。そこには彼の落胆、怒り、うめき、そして憎悪さえも描かれています。 以前1人の青年が私たちのところに尋ねてきました。その顔は憂いに沈み、何に対しても無気力でした。彼は最も信頼していた友人に、大切な恋人を奪われたのでした。 詩篇の第55篇は『神への賛美』で締めくくられています。一体ダビデはどのようにしてこのような苦しみから立ち直ることができたのでしょうか?それは彼が神への信仰の故に次の2つのことをしたからです。 ①この苦しみを自分の心の中に閉じ込めてしまうことをしないで、勇気を持って神に打ち明けた。 ②「神は自分の代わりにこの重荷を負ってくださり、また自分を立ち直らせることができる」と信じた。 この詩篇の終わりの部分でダビデは次のように言っています。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しいものがゆるがされるようにはなさらない。」 私たちのところに来た上記の青年は、半年ほど私たちと生活を共にし、その中で自分の人生を神に全面的にゆだねる決心をしました。彼は今ではもうすっかり立ち直って、幸せな結婚をし、現在はキリスト教の牧師となって人々(特に若者たち)に希望のメッセージを伝え歩いています。

(154) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

私たちは「なすべきことが分かっているのに、しようとしないこと」は、神の前に正しくないと容易に理解できますが、「なすべきことが分かっていて、いつかしようとはしているけど、もたもたしていること」も神の前に正しくない態度であるとはなかなか気付きません。私たちは恐らくこう言うでしょう。「いや、やろうとは思っているんですよ。ただもうちょっと暇になったら、もうちょっとお金が溜まったら、もうちょっと子供が大きくなったら…」 神の祝福は、ただボ~っと待っているだけの人に注がれるのではなく、既に与えられているものを精一杯用いて人々の必要のために仕えている人に注がれるものです。例えば、今の時点で既に持っているものを用いて人々に施しをしているわけでもないのに「神様、困っている人々を助けてあげたいので、どうぞもっとお金を与えてください」と祈るのは、神の祝福を受けるために正しい順序ではありません。「でもお金が無けりゃ、何も与えてあげられないじゃないですか!」とおっしゃる人もいるでしょう。しかし実際はお金が問題なのではありません。そのような人は今までにそれらの困っている人々に『励ましの言葉』や『あなたの時間』、また「今まで試したことのないような自己犠牲」を与えたことがありますか? 神が私たちに望んでおられる愛し方は、私たちの都合やタイミングに合わせたものではなく、神の憐れみの心に合わせたタイミングや方法なのです。自分の都合や理屈を言い訳にモタモタしてしまう人が得ることのできるものは「せっかくのチャンスを取り逃がしてしまう」という苦い経験なのです。

(153) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。”

3年ぶりに日本へ一時帰国しました。初めのうちはなかなか頭も体も日本の生活に慣れませんでした(季節も逆転しますから…)が、そのうちに生活のリズムを徐々に取り戻しました。故郷での生活を楽しみ始めた頃、1つのことに気付きました。それは「神様が見えにくい」ということです。 日本はニュージーランドと比べて、欲しい物(思い付く以上の物)が何でも手に入ります。言葉にも不自由しないし、とにかくいろいろと便利でスムーズです。そんな何不自由無い生活(?)を続けていると、知らず知らずのうちに「目で見えるもの」のペースにすっかりはまり込んでしまって、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれはどうなった?これはどうしよう?」と『目に見えること』に始終気を取られて、それらのすべてを与えてくださっている『神様』のことをすっかり忘れてしまいそうになるのです。 日本にキリスト教が伝わったのはもう500年も前のことです。それなのに全人口に対するクリスチャンの割合は未だに1%にも満ちません。実を言うと第2次世界大戦後、クリスチャンの数は急成長したのです。ところがその後の高度経済成長の波が押し寄せたとき、その数は減少の一途を辿り、今に至っています。聖書によると、この地上は現在悪魔が支配しており、あらゆる物質的な豊かさをもって私たちの目を神様からそらしているということです。 今回の帰国中に初めて「東北大震災の被災地」を訪問してきました。同時期に震災に見舞われたクライストチャーチに比べて、東北の被災地はずっと「震災後の後片付け」が進んでいましたが、人々の心の中にはまだまだ震災の爪跡が大きく残っているのを感じさせられました。ところがそんな中、嬉しいこともありました。大きな自然災害を通して「神様を恨む人々」が増えているかと思いきや、実際はその逆に「新たに神様を見い出す人々」が続々と増し加えられていることを目の当たりにしたのです。震災からの復興に苦闘する中で、彼らは「目に見えるものに頼って生きること」がいかに虚しいかを学んだのだそうです。ついつい『物質的な豊かさや便利さ』に安住してしまいがちな私たちに対する大きな警告ではないでしょうか?

(152) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。”

近頃はよく『マネジメント(平たく訳せば「上手に管理する」ということ)』という言葉を耳にします。「タイム・マネジメント(時間の管理)」「ファイナンス・マネジメント(家計の管理)」「ウエイト・マネジメント(体重の管理)」などなど。どれもまあ大切なことには違いありませんが、『心のマネジメント』はこれらのどれにも増して大切なのではないでしょうか?ところがそのような言葉はあまり叫ばれていないような気がします。 神の子イエス・キリストがこの地上を歩まれた時、彼はまさにこの『心のマネジメント』を何よりも重視された方でした。人々が彼の持つ知恵と力とに気付き、彼を自分たちの利益のために王として祭り上げようとした時、イエスはひとり退いて山へ登り、静かな祈りの時を持たれました。また1人の少女が亡くなり、イエスが彼女の両親を憐れんでその娘をよみがえらせようとされた時、イエスの「この娘は眠っているだけです」との言葉に周囲の人々はあざ笑いましたが、イエスはそのような冷たく不信仰な人々を外に追い出し、両親の前でその娘をよみがえらされました。そして私たちの罪を身代わりに負って十字架にかかられる前夜、あまりの恐ろしさにひるみそうになった時も、「私の願うようにではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と神に祈られ、私たちの救いのために、十字架への道を辿られました。 私たちは『周囲からのプレッシャー』や『いっときの感情』に簡単に屈してしまいがちです。ですから時には敢えてそのような誤った基準を鋭く発見して、勇気を持って私たちの心から「追い出して」しまうことが必要になってきます。この「うつろいやすい世の中」にあって、はっきりとした確信に立って雄々しく生きていくために、「力の限り自分の心を見張ること」に全力を尽くしていきましょう!

(151) “イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。”

神を信じて生きる者にとっての最もつらい試練は「反対者による迫害」ではなく、思わず「神様なぜですか?」と叫ばずにはいられないような状況に陥った時ではないでしょうか? 旧約聖書の時代の最も偉大な人物の1人である『モーセ』が、当時エジプトで奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民を、神の命令に従って脱出させようとした時、エジプトの王(ファラオ)は民を行かせるどころか、更なる苦役を民に課すようになりました。当然イスラエルの民はこぞってモーセに対し不平不満を並べ立てたのです。きっとモーセの心中は「神様、私はあなたの命令に従ってこの民を脱出させようとしたのに、どうして更なる試練をお与えになるのですか?」という混乱と嘆きに落ち込んだことでしょう。 私たちの信仰生活の中でも同様なことが起こります。「神様の導き(聖書のことば)に従ってここまで来たのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか?」そんな時私たちが思い起こさなければならないのは「神の大いなるご計画は、私たちの小さな頭で想像する規模をはるかに超えている」ということです。神はこの後モーセとイスラエルの民のために、数々の恐るべき奇跡を行ない、最終的には「海を2つに分ける」という考えられないようなみわざによって、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのでした。 私たちは喜ばしくない状況に直面すると、つい「神様、一体何やってるんですか!」と文句を言ってしまいがちですが、私たちがイラついている原因は、実際は『好ましくない状況そのもの』ではなく、「『今置かれている状況』と『自分が予想していたもの』とのギャップ」によるのです。私たちは「自分はこうしてちゃんと神様に従っているんだから、神様は私に何か(こんな風な)いい目を見させてくれるはずだ」と自分勝手に神様がしてくださるであろうみわざを決めてしまうのです。そして結果が願った通りじゃないと「神様のウソつき!」と言ってプイと背を向けてしまいがちです。 神はあなたより遥かに『気長』な方です。そして彼が望んでおられるのは、私たちが神を「自分が予想したとおりの結果を与えてくださる方」としてではなく、「私たちの思いを遥かに超えてみわざを行われる方」として知ることを求めておられるのです。

(150) “機会を十分に生かして用いなさい。”

私たちはついつい「過去の失敗を思い返すこと」を繰り返しがちです。「もっとああすれば良かった…」「あんなこと言わなければ良かった…」などなど。あたかも、何度も思い返せば取り消せるかのように。 日本のことわざに「後悔先に立たず」と言われるように、過去の失敗を修正することは決してできません。しかし、神は私たち1人1人に『現在』というものを与えてくださっています。面白いことに『現在』という言葉は英語で『プレゼント』と言います。まるで神様が私たちにこの『現在』を新たなスタートのために贈り物として与えてくださっているかのようではありませんか!取り返しようのない過去にいつまでもこだわりすぎて、せっかく神様が与えてくださっている『現在』の絶好の機会を見逃してしまわないようにしましょう。 「新たなチャンス」というものは、しばしばそれが去ってしまった後にその価値が認められるものです。だからこそ私たちは毎日しっかりと目を開いて、それが手に届くうちにしっかりと捕まえなければなりません。チャンスはあらゆる方向から、いろいろな形をとってやってきます。決してワンパターンではありません。それを見つけてしっかりと掴むための1つの秘訣は「後ろのことに捕らわれない」ということです。神はご自身に信頼する者に『第2のチャンス』『第3のチャンス』を与え続けてくださる方なのです。

(149) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。”

ある社会学者の話によると、『仕事』に対する人間の見方は3通りあるそうです。 第1番目は、「『仕事』は『仕事』と割り切るタイプ」。すなわち「単なる生きるための糧を得る手段にすぎない」と考えるわけです。この場合働く側はその職場において「受けること」にフォーカスをおいているので、しばしば不満に陥ることがあります。 第2番目は、「自分のキャリアに重点を置くタイプ」。すなわち『自己向上』と重ね合わせて努力していくわけです。この場合それなりに熱心に仕事に取り組むわけですが、順境の時はともかく、逆境に(すなわち仕事が思うように進まなく)なると落ち込み、自分自身の存在価値さえ危ぶまれてしまいます。 第3番目は、「『召命観』をもって仕事に取り組むタイプ」。すなわち「私はこの仕事をするために生まれてきたのだ」という強い確信をもって働く人々です。「召命観をもって働く」ということは、別な言い方をすれば「あなたにその仕事をさせるために『誰か』があなたを呼んだ」ということです。その『誰か』とは、あなたをお造りになられ、あなたの人生に至高の計画を持っておられる神様のことです。そしてもし神様がその仕事をさせるためにあなたを呼んだのなら、その仕事には「他の人々を祝福するための大いなる目的」があるはずなのです。 医者には「病人が回復するのを助ける」という重大な使命があるのと同様に、清掃業者には「世の中をきれいにする」という尊い使命があります。この『召命観』というものは、どんな職業についている人をも重要視させる力があります。1週間のうちの40時間をもかけて取り組んでいるあなたの大切な営みに、あなたはどのような意義を見出していますか?

(148) “私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”

私がまだ日本に住んでいた頃、人々に「教会にいらっしゃいませんか?」とお尋ねすると、「いえ、私は『宗教』には興味がありませんから…」というお返事をよくいただきました。 人々は『宗教』という言葉から主にどのような印象を受けるのでしょうか?「洗脳」「修行」「多額の寄付」などなど、思うにあまり良い印象がないように見受けられます。 英語で「Christianity is not “religion” but “relationship” with God.」ということわざがあります。日本語に訳すなら「『キリスト教』は『宗教』ではなく、『神との関係』である」というふうになるでしょうか?事実私たちクリスチャンは「聖書の教えを一生懸命に実践して、少しでも立派な人になろう!」という意識で日々を暮らしているわけではなく、「私たちをお造りになり、私たちを深く愛し慈しんでくださる『父なる神』との、言葉に言い尽くすことのできない『心と心の交流』」の中で日々生かされているのです。そしてまた、クリスチャンたちがその家族や友人を教会に招いたり、聖書に関して伝えたいと思ったりするのは、「熱心な布教活動によって信者を増やそう」としているわけではなく(いわゆる『宗教』はそのようにしているのかもしれませんが…)、この祝福に満ちた『神とのいのちの関係』を、愛する人々にも体験して欲しいと思うがあまり、つい誘ってしまうのです。それはあたかも「美味しいラーメン屋さんを見つけたから、今度一緒に行ってみようよ!」と誘っているようなものです。 ここニュージーランドでは、日本国内と違い、日本人の知り合いを教会にお誘いすると、半分以上の方々は何の先入観もなしに教会においでになります。そしてそのうちの多くの方々が、イエス・キリストを通しての『神との祝福に満ちたいのちの関係』へと導かれます。日本にいてこのコラムを読んでくださっている皆さんも、ぜひお近くのキリスト教会へ足を踏み入れてみてはいかがでしょうか?

(147) “いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

1隻の大きな貨物船が長い航海から帰ってきました。今回の航海は散々でした。どうしたわけか本来のスピードが出せずに、船荷を待つ取引先からは厳しい苦情を受け、船の持ち主からも「お前のお陰で大損だよ!」と怒鳴られるありさまです。船長は思い切ってこの船を大掛かりな整備に出すことにしました。するとどうでしょう。航海中には見ることのできなかった海面下に触れていた部分には、多くの不要物がビッシリとこびりついており、船の重量は本来の1.5倍にもなっていたのです!これらを完全に取り除くにはもちろん多くの時間と手間がかかりますが、背に腹は換えられません。数ヶ月の整備期間の後、この大きな貨物船は再び意気揚々と次の航海へと旅立って行くことができるようになりました。 さて、これは何も「船のお話し」ではありません。私たちも「身体の定期健診」だけでなく、『心の定期健診』が必要です。見えるところに問題がなくても、見えない部分に「不要物」がこびりついていることがあるのです。私たちは周囲の人々のアラ捜しは得意ですが、自分の事となると気付かないものです。もしあなたが『以前の業績』にばかりすがりつき、「神がこれからあなたと共に成し遂げようとしておられること」を見つめられなくなってきたら、それは危険信号です。 今少し立ち止まって、自分自身を吟味してみましょう。以前のような『心の切れ味』が失われてきていませんか?神様に対する愛や情熱が薄らいではいませんか?この世の流れに妥協してしまってはいませんか?つい批判的になったり不注意になったりしていませんか? もしこれらのことが思い当たるなら、きっと「普段目に付かない部分に『不要物』がこびりついている」に違いありません。それらを見つけるためにはもしかしたら「心を沈めて神様からのアドバイスに耳を傾ける」必要があるのかもしれません。神から委ねられていた使命を『自分の力・知恵』に頼りつつ成し遂げようとしていたのかもしれません。神はそんなあなたの心に溜まってしまった『不要物』をきれいさっぱり取り除き、再び新たな人生の航海へと送り出すことのできるお方なのです。

(146) “賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。”

『カーナビ』を使ったことはありますか?よく知らない地域を運転するときは本当に便利ですよね。たった2つの情報(①現在地 ②目的地)をインプットするだけで、私たちの辿るべき道を示してくれます。 私たちが人生において確かな歩みをするために必要なものもこれと似ています。それは次の3つです。   1.自分は今どこに立っているのか?   2.自分が向かおうとしているのはどこなのか?   3.その目標に辿り着くために、どのような道を辿って行けば良いのか? マーク・トウェインは次のように言いました。「前進していくためにまず必要なのは、とにかくスタートすることだ。そしてスタートするために必要なのは、面前に立ちふさがる圧倒されるほどの数々の障害を細かいピースに分けて分類し、その中のまず可能なものから手を付けていくことだ。」 「夢を持てない時代」と言われています。情報過多の故に、夢を持つ前に現実を突きつけられて「大それた考えは止めにして、やっぱりほどほどにしておこう…」とあきらめてしまうのです。しかし聖書は「あなたがたは神の大いなるご計画を担うために生まれてきた」と私たちを励まします。ですから「夢を持つ前からあきらめてしまう」のは止めましょう!まずあなたの現状を十分に把握し、そして神があなたの心に与えてくれている『大いなる目標』をしっかり見つめましょう。紙に書いて自室の壁に貼っておくのも良いかもしれません。そしてその目標を達成するために必要なことを1つ1つ書き出して、まず今できることから始め、また協力者を求め、そしてどうしても無理に思えることは神に祈りましょう。神はあなたを通して、ご自身がどのように偉大な存在であるのかをこの世に示したいと願っておられるのですから。

(145) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

江戸幕府初代将軍『徳川家康』の遺した有名な言葉に、「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものがあります。確かに人生にはそういった面がありますが、しばしば我々は『不必要な荷物』をも負って人生の道のりを歩いていることがあるのではないでしょうか? ローマ帝国時代、オリンピックに出場する走者たちは、毎日多くのおもりを身体に巻きつけてランニングをすることによってトレーニングをし、レースの当日にはすべてのおもりを外して伸び伸びと走ることによって優れた記録を残したそうです。この時もし走者が相変わらず『おもり』のいくつかをつけたまま本番のレースに臨んだとしたら、それは愚かなことだと思います。 イエスは「金持ちが天の御国に入るよりは、ラクダが『針の穴』を通るほうが易しい」とおっしゃいました。『針の穴』というのは文字通り「糸を通す穴」のことではなく、旅の途中でしばしば出くわす「狭い通り道」のことで、そこではいちいちラクダに背負わせているたくさんの荷物をいったん外さなければ通ることができなかったのです。 私たち家族が今から20年前に神様から「海外宣教師になりなさい」とお声をかけていただいたとき、私たちは所持品をすべて整理しなければなりませんでした。私たちは決してお金持ちではありませんでしたが、自分たちが所有していた物の多さに愕然とさせられたものです。しかし面白いことに、所持品が減っていけばいくほど、身も心もドンドン軽くなっていくのを感じました。最終的にはいくつかのスーツケースと段ボール箱だけになり、「人生で本当に必要なものは、実はわずかなのだ」ということを痛感させられたのを覚えています。(現在はニュージーランドに来て再び物が増えつつありますが…) 私たちが人生のレースを走る上で「栄冠を勝ち取るために邪魔になるもの」は、しばしば「レース場に置かれている数々の障害物」ではなく、「レース中に私たち自身が負い続けている余分な重荷」が原因になっているのではないでしょうか?

(144) “私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。”

2014年10月5日早朝、クライストチャーチ日本人キリスト教会の創始者の1人であられるベティ・ラウンドヒルさんが天に召されました。94歳でした。彼女はご主人のケン・ラウンドヒル先生と共に、日本での40年間の宣教師としての働きを終えてから24年前にニュージーランドに来られ、このクライストチャーチJCFを始められたのです。彼女が70歳の時です。70歳と言えば『隠居』の年であり、わざわざ何か新しいことを始めることは至難のわざであったに違いありません。しかし彼女は、クライストチャーチで不自由な英語を駆使しながら苦闘している日本人妻たちや留学生たちを見て、じっとしてはいられなかったのでした。 聖ルカ国際病院の名誉院長であられる日野原重明教授は次のように言っています。「新しいことを創められる人は、いくつになっても老いることがない。」 ベティ先生はまさにその94年間の生涯を「神と人に対する情熱を持って走り続けた女性」だったのです。 実を言うと彼女が亡くなられた前日(10月4日)は私の長男の結婚式でした。ある方々にとっては「息子さんの結婚式の直後に大切な方が亡くなるなんて、とんだ災難でしたね」ということになるのかもしれません。しかし私にとっては『とんだ災難』ではなく、むしろ「お祝い事が2つ重なった」と言えると思います。何故なら、私はベティ先生が今どこにおられるのかよく分かっているからです。彼女は今、老いて不自由になった肉体を脱ぎ捨てて、天国の神のみもとで「古びることのない、新しいからだ」をいただいて、喜びに満たされているのです。 もちろん「地上での別れ」という寂しさがあることは否定できませんが、私たちには『再会の希望』があります。そしてこの地上での残された人生を、ベティ先生に倣って「最後まで力強く走りぬく」という使命を全うする責任も与えられています。あなたもこの『死の向こう側にある希望』を抱きながら、地上の人生を精一杯走りぬく力を、神様からいただきませんか?

(143) “あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。”

あるお母さんが息子をお友だちの誕生会に送って行った時、別れ際に息子にこう言いました。「ちゃんと良い子にして、楽しく過ごすのよ。」 すると息子が不満そうな顔をして答えました。「そんなの両方は無理だよ。ねぇ、どっちか1つにしてくんない?」 何故か私たちは「正しく生きること」と「楽しく生きること」は共存しない、と思ってしまいがちです。しかし本当にそうでしょうか?例えばある人が「交通ルールなんてイチイチ守って運転していたら不自由で仕方がない!」と言って、制限速度や信号を無視して走っていたらどうなるでしょう?事故で怪我をしたり、警察に捕まったり、あるいは人身事故を起こして一生を後悔と自責の念で過ごさなくてはならなくなるかもしれません。交通ルールを守って正しく運転してこそ、私たちは快適にドライブを楽しむことができるのです。 聖書は「神は私たちを『神ご自身に似せて』造られた」と告げています。それは必ずしも「神にも2本ずつの手足や、目や鼻や口がある」ということではなく、私たち人間を「『聖さ』を求めて生きる存在として造られた」という意味に違いありません。だからこそ私たちが『みだらなお楽しみ』(深酒や麻薬、不倫など)に没頭している時、心のどこかで『うしろめたさ』を感じたり、「これではいけない!」という叫びにハッとしたりするのです。 『幸福感』というものは、私たちが自分の力で生み出すものではなく、私たちが神の望まれる通りに生きている時に、神の許から注がれてくる『祝福』なのです。私たちが『聖さ』を求めて生きる時、実は私たちはこの神からの祝福を受け取るための風呂敷を広げているのです。「正しく生きること」は決して私たちの楽しみを奪うものではなく、かえって私たちを「変わることのない喜びの道」へと導いてくれる道先案内人なのです。

(142) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

ある人が懐中電灯に新品の乾電池を入れたまますっかり忘れて引き出しの中に1年以上放っておいたそうです。ある時引き出しを整理しているときにその懐中電灯を見つけたのでスイッチを入れてみたら、電気がつきませんでした。念のため中身を確かめたところ、乾電池は中身の液体が染み出してしまっていて使い物にならなくなっていました。引き出しは暖かな部屋の中にあり、周りには害になるようなものは何もなかったにも関らずにです。 乾電池は「暖かくて安全な場所に放置されるため」に設計されてはいません。イザという時に『用いられるため・使われるため』にデザインされ、作られたのです。私たちの人生に関しても同じことが言えます。聖書は私たちのことを「神と人とに仕えるために生まれた」と表現しています。私たちは居心地の良い場所で安穏と過ごすようにはデザインされていません。互いに愛し合い仕え合うようにと『愛の神』の御手によって心を込めて造られたのです。ところが私たちはしばしば自分自身のことに夢中になりすぎてそのことをすっかり忘れ、周囲に私たちの助けを必要としている人がいても「私は今自分のことで忙しいから、誰か他の人に頼んで!」とすげなくあしらってしまいがちではないでしょうか? 神様から与えられている貴重な1日1日を「ごめん、今ちょっと手が放せない!」というようなことでいっぱいにしてしまわないようにしましょう。神様が助けを必要としている人をあなたの側に送られたとき、喜んで助けの手を差し出すことのできる人は幸いです。

(141) “ことばが多いと愚かな者の声となる。”

2匹のガチョウが南へ下る旅の準備をしていると、1匹のカエルが近づいてきて、自分も一緒に連れて行ってくれるように頼みました。ガチョウたちが「一体どうやってそんなことができるのか?」と尋ねると、カエルは答えました。「簡単だよ。キミたち2匹が1本の枝の両端をくちばしにくわえながら並んで飛んで、ボクがその真ん中を加えていればいいのさ!」 2匹のガチョウはその言うとおりにし、3匹が見事なチームワークで大空を渡っていると、下から見上げていた人々が感動のあまり言いました。「これはスゴイ!一体誰があんな名案を考え付いたんだろう?」 これを聞いたカエルは、つい調子に乗って大口を開けて叫んでしまったのです。「ボクだよ、ボク!」(この後カエルがどうなったかは、お分かりになりますよね?) ほとんどの場合『聞くこと』は『語ること』に優っています。聞く耳を持たずに話してばかりいる人からは最終的に人々が離れていきます。神は私たちに「耳を2つ」そして「口は1つだけ」お与えになりました。あたかも「語るより2倍聞くように」と命じておられるかのようではありませんか! 私たちの人生は日々が新たな学習です。しかしもし私たちがいつも「自分が何を話すか」ということにばかり思いを巡らせていたら、多くのことを学ぶことはできません。ほとんどのレッスンは『聞くこと』からやって来るのです。事実、その人の成熟度は「どれほどのことを教えることができるか」ではなく、「どれだけ人々に対して聞く耳を持っているか」で表されます。 神様はいつでも私たちの祈りを聞き、私たちの心の叫びに耳を傾けてくださっています。そしてまた、私たちが人々のつぶやき、そして神からの語りかけに耳をすますことを期待しておられるのです。

(140) “すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや移り行く影はありません。”

私が子供の頃読んで面白かった本に『タイムマシン』というものがありました。ある少年・少女がタイムマシンで昔の世界や未来の世界へ旅をして様々なワクワクする体験をするというものです。子供心に「ボクが生きている間に『タイムマシン』が発明されるだろうか?」と夢見たものです。恐らく、誰もが1度は考えてみたことがあるのではないでしょうか? ところが神様は私たちを『時間』というものの中に閉じ込めておられます。私たちは昨日に戻ることもできないし、明日に飛んで行くこともできません。私たちに与えられているのは『今』だけです。面白いことに『今・現在』という概念を表す英語は『プレゼント』といって、『贈り物』を表すことばと同じです。あたかも神様は『今』という時をかけがえのない『贈り物』として私たちに与えてくださっているかのようです。 私はほぼ毎朝飼い犬の散歩に出かけますが、今のような初春の時期はあちこちの庭に新しい花が咲いたり芽が出てきたりして、日々私の目を楽しませてくれます。しかしこれらの景色は、走っていたり車を運転していたりしては見出せません。同様に、過去のことについていつまでもクヨクヨしたり、将来のことばかり気にしていては、『今』を満喫することはできません。神様は私たちに『今』を大切な贈り物として与えてくださっています。ぜひじっくり辺りを見回してみてください。朝ごとに昇る朝日、鳥のさえずり、頬をなでる風、母親の腕の中でスヤスヤ眠る赤ん坊、そしてあなたのことを大切に思ってくれている人々… これらのささいなことを見出し感謝することができたなら、あなたの心の中に「生かされている喜び」が湧き上がってくるはずです。 「そんなことをいっても、すべてのものは過ぎ去り、変わって行ってしまう!」とあなたはおっしゃるかもしれません。そうですね。私たちの出会うものはある意味すべて一時的で、愛する人の心さえも変わってしまうかもしれません。しかし、神様と神様の私たちに対する愛は永遠です。そしてこの神様とつながっている限り、私たちはいつでも人生に新しい輝きを取り戻すことができます。私たちに『今』を与えてくださっている神様は、この『今』の中で私たちと出会ってくださるのです。

(139) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

レスリーは生まれつき思い肉体的・精神的ハンディを負って生まれてきました。養育能力のない母親の元に生まれた彼は、そのまま病院で保護されていましたが、6ヶ月になった時、ずっと彼を可愛そうに思っていた看護婦のメイは、5人の子育ての真っ最中であったにも関らずレスリーを引き取り、彼女の子供として育てました。 メイは「神様はきっとこのレスリーにも特別な才能を与えているはずだわ」と信じ、神に助けを求めつつレスリーに様々なことをチャレンジさせてみましたが、何1つうまくいきませんでした。 レスリーが13歳になったとき、メイは何とかやりくりして中古のピアノを購入しました。レスリーの前でいくつかの曲を奏でてみましたが、何の反応もみられませんでした。それでもメイは忍耐強くレスリーに関り続け、毎日ピアノを弾きながら大きな声で歌を歌ったり、美しいピアノ曲を聞かせたりしていました。 レスリーが16歳になったある日、彼はおもむろにピアノの前に座り、何といきなりチャイコフスキーのピアノコンチェルトを奏で始めたのです。しかも完璧に!まもなくメイは、レスリーが1度耳にした曲であればどんな曲でも譜面なしに弾くことができることを発見しました。やがてレスリーは世界じゅうを回ってコンサートを開くようになったのです。 英語のことわざに「夢を大きく持ちなさい。やがてあなたはその夢にピッタリ合う大きさに成長することができるでしょう」というものがあります。現代はあまりにも『現実主義的』であり、大きな夢を持つことは「愚かなこと」のように批判されがちです。そんな時代だからこそ、あきらめずに夢を追って生きる人々を育てる「大いなる励まし手」が必要とされているのです。「ここであきらめないで、あと1歩進んでみてごらん」と励ますことのできる者になりませんか?

(137) “彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。”

親しい友人を失ったジェーンさんの手記からの抜粋です。 「ある冬の夜、凍える寒さの中、私は残された友人の家族の許へ食事を届けるために車を走らせていた。忙しい仕事と家事の合間だというのに、通りはひどい渋滞。そしてやっとの思いで辿り着いた友人宅は留守であった。自己憐憫に陥りつつ、忙しさの中わざわざ食事を届けに来たことを伝えるため、携帯電話で留守番電話にメッセージを残そうとした時、私は驚きのあまり声も出なくなった。 そこには、生前の友人が録音したままの留守電メッセージが鳴り響いていた。『コートを羽織って、お気に入りの帽子をかぶって、さあ出かけましょう。すべての思い煩いは玄関口に置き去りにして。外に出て、日の光の中を歩くなら、気分はついつい浮き浮きしてしまうものよ!』 とても懐かしい声だった。乳癌を患っていた彼女は、予想を超えた痛みと長期治療の中でも常に笑顔を絶やさず、愛する夫と幼い3人の子供たちを遺していく悲しみをも不屈の精神力で乗り越えていた。彼女は知っていたのだ。今しばらくの苦しみは、神の恵みによって益と変えられ、やがてその永遠の光の中に招き入れられることを。 生前の明るさそのままの彼女の声を聞きながら、私は神が死んでしまった彼女を通してさえ私を励ましてくださったことを知った。私は自分の情けない我儘さの赦しを乞い、もう1度神の光の中を歩ませてくださるように願った。」 神はこの地上にあっても私たちを助け導いてくださいます。しかし、私たちの希望はこの地上にはとどまりません。それは死を超えて常に明日の光を待ち望ませることのできる希望なのです。

(138) “すべての点で自分自身が良いわざの模範となりなさい。”

「子供は親の教えたことには従わないが、親のすることはすぐ真似をする」と言われていますが、それは本当です。真の『しつけ』また『教育』とは、「正しいことを教える」ことではなく「生き様を通して模範を示す」ということです。『学ぶ』という言葉は本来「まねぶ」すなわち誰かのしていることを「真似る」ことから来ているのです。 あなたがオンラインでどのようなサイトを観ているのか、仕事や勉強にどのような態度で臨んでいるのか、家族や友人とどのように接しているのか、それらはあなたの周囲の人々に『真似』されて誇れるものとなっているでしょうか?また、あなたがあなたの配偶者を扱っている態度は、あなたの子どもたちが彼らの配偶者から受けてもらいたいような処遇となっているでしょうか? イエス・キリストはその生涯の中で数々の素晴らしい教えを残されましたが、その中の多くは「わたしがOOしたように、あなたがたも同じようにしなさい」というものでした。「わたしが愛したように・・・」「わたしが仕えたように・・・」「わたしが赦したように・・・」 イエスは、私たちが『ことば』からよりも『生きた模範』から多くを学ぶことをご存知だったのです。 現代の『インスタント時代』は私たちから多くの大切な習性を奪っています。「忍耐」「献身」「責任感」などなど。私たちは次世代に『便利さ』は残してやれるかもしれませんが、このままでは「卓越した人間性」を残してあげることはできません。今こそ私たちは、次世代に「真に豊かな人生」を受け継いでもらうために、「周囲の人々(少なくともあなたの子どもたち)のために『良き模範』になる」ということのために残りの人生をささげるべきではないでしょうか?

(137) “神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。”

『恐れ』という言葉を聞いてどんなことを思い浮かべますか?「お化け」「暗い道」「テロリスト」「高所恐怖症」…いろいろありそうですね。ある人は「失敗を恐れる」とか「何かを失うことを恐れる」などと言うかもしれませんね。 多くの場合、私たちは「今目の前に見ていること」よりも、「今は直面していないけど、もしかしたらやがて起こるかもしれないこと」を恐れるのかもしれません。「不治の病にかかったらどうしよう」「仕事を首になったらどうしよう」「破産してしまったらどうしよう」「愛する人に先立たれたら・・・」 可能性をあげていたらキリがありません。 聖書が私たち人間に教えている最も基本的な『恐れ』とは、「神を恐れること」です。もっともこれは「神様は怖~い方だから、怒らせないように気をつけなさいよ。」ということではありません。かえって『神を恐れること』は私たちを「その他の恐れ」から解放してくれます。 私たちは小さい時から、何かいたずらをすると「そんなことをしているとバチが当たるよ!」などと脅されてきましたから、「神様はバチを当てる方」という概念が刷り込まれてしまっているのではないでしょうか?しかし、悪いことをして悪い報いを受けるのは「神様がバチを当てたから」ではなく、「自分で蒔いた種を刈り取っている」だけです。これはある意味『宇宙の法則』なのです。そしてこの、自分ではどうしようもない『宇宙の法則』の故に、私たちの人生は休むことなく『恐れ』に付きまとわれているのです。 神の子イエス・キリストが十字架にかかられたのは、この「私たちが自分で蒔いた種」の刈り取りを、イエスが身代わりに刈り取ってくださったことを現しています。このイエスの身代わりの故に、神は今やイエスを通してご自身に近づく者を完全に赦し受け入れてくださるのです。「神を恐れる」とは、私たちのために神が差し出してくださっているこの『救いの道』を素直に受け入れて、神と和解することなのです。「神に受け入れられた者」として生きることができるなら、一体何を恐れることがありましょう。 私たちの力ではどうしようもない「起こるかどうか分からない将来への不安」に脅かされるのではなく、「真に恐れるべき唯一のお方」を見上げつつ、いつも顔を上げて歩んで行きましょう!

(136) “いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではない。”

1923年のある日、シカゴにある高級ホテルに、当時世界で最も成功を収めていた7人の人々が滞在していました。鉄鋼業界最大の収益を上げていた会社社長、最大の公益事業を営んでいたグループの代表、小麦相場を総括していた資産家、ニューヨーク証券取引所の所長、大統領顧問、国際社会福祉銀行の頭取、そして世界最大の専売公社代表の7人です。まさに当時の世界を動かしていた人々と言っても過言ではありません。 さて時間を少し早送りして、25年後を見てみましょう。これらの人々はどのような幸せな生涯を辿ったのでしょうか?何と驚いたことに、この7人のうち3人は自殺をし、2人は刑務所に入り、残りの2人のうち1人は多くの借金を抱えて死んだそうです。どうやら富や財産は必ずしも私たちに幸福や平安を約束しないようです。 では「経済的に豊かになること」は『悪』なのでしょうか?決してそんなことはありません。私たちの神は私たちを経済的に祝福することがおできになります。但し、神はあくまで私たちが「経済的祝福そのもの」に心を奪われることなく、『祝福してくださるお方』に注目すること、そしてそれらの富を「自分自身の利益のために使う」のではなく、神の愛に基づいて「それらを真に必要としている人々やプロジェクトのために使うこと」を求めておられるのです。 「お金に振り回される人」ではなく、『お金を正しく使うことのできる人』になりましょう!

(135) “大ぜいいる私たちも、キリストにあって1つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。”

ちょっとした寓話をご紹介しましょう。いつもメガネをかけている人の顔の部分同士の間で言い争いが起こりました。鼻が目に対して文句を言ったのです。「このメガネは目のために必要なのであって、ボクには全然関係ないのに、どうしていつもボクに負担をかけるんだい?こっちは毎日重たくて仕方ないよ!」 これを聞いて目は心から申し訳なく思って言いました。「分かったよ。今まで迷惑をかけてごめんね。今日からはもうメガネは外すことにするから、どうか許してね。」 さて、メガネを外したこの人は、前方がよく見えないため、しょっちゅう壁にぶつかるようになりました。そしていつも初めにぶつけるのは、顔の中で1番突き出ている『鼻』でした。鼻はたまらなくなって言いました。「分かった、分かった。頼むからもう1度メガネをかけてくれ。もう文句は言わないから。メガネがボクのためにも役に立っていることがよぉく分かったよ。」 『十人十色』という言葉があります。「人はそれぞれ皆違っている」という意味ですよね。互いが違っているために、相手を受け入れたり理解したりするのが大変な時が多々あります。「どうして私と同じように考えてくれないんだろう?」「どうしてあんなやり方しかできないんだろう?」などなど。でもちょっと立ち止まってよく考えてみましょう。互いが違っているからこそ、役に立つことがたくさんあるはずです。違っているからこそ、私たちは時には互いに補い合い、また時には思いもよらなかった新しいことを学ぶことができるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは1つのからだのようなもの、そして互いが1つ1つの器官のようなものである」と教えています。そして1人1人がそれぞれの持ち味を生かし、愛と思いやりによって結ばれて、私たちをお造りになられた神のご計画に従って生きるとき、この地上において大いなる神のわざが現されるのです。 あなたは、からだのどんな部分を担うように招かれているのでしょうね?

(134) “人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。”

 「『聞く』は一時の恥、『聞かぬ』は一生の恥」と昔の人は言いました。「知っている振りをして後で大恥をかくよりも、ちょっと恥ずかしくても『知らないことを勇気をもって尋ねること』が大切だ」というような意味でしょう。人は生きている間にすべてのことを習得することはできません。ですからいつでも「新しいことを学ぶ姿勢」が必要です。 世界の歴史上最も偉大な喜劇俳優と言えば、必ずその1人として「チャーリー・チャップリン」の名前が挙がるでしょう。彼は大変貧しい家庭に生まれましたが、幼い頃からその頭角を現し、17歳の時には既にベテラン喜劇俳優でした。そして何と29歳にして世界初の『百万ドル俳優』としての地位を得たのです。しかしそのようなお金や名声も彼の『向上心』を留めることはありませんでした。彼は自分が出演したフィルムを繰り返し観察しては、「どうしてこの場面で観客は笑ってくれなかったのだろう?」また、「どうして観客はこんな意外なところであんなに笑ったのだろう?」と追求し続け、自分の演技に更に磨きをかけていったのです。 神はあなたが自分の持ち味を生かして社会に貢献することを喜ばれますが、あなたが自分の成功に満足してしまい『現状維持』の守りの姿勢に陥ってしまうことを決して望まれはしないのです。「謙遜で、教えられやすい者であること」を心がけましょう。

(133) “彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう。”

日本の古い言い回しに、『大器晩成』というものがあります。世のいろいろな場面で「スピード」や「若々しさ」がもてはやされる風潮がありますが、じっくりと時間をかけて熟成されるものには、インスタントに出来上がるものよりも深い味わいがあるものです。 メキシコ原産の『リュウゼツラン』という蘭の一種は、芽生えてからの20~30年間は1輪の花も咲かせませんが、やがてある年何の前触れもなく突然つぼみができたかと思うと、大空に向かって毎日20センチくらいずつグングン伸びていき、10メートルほど伸びた後、その先端に黄色くて美しい大輪の花を咲かせるのです。しかもその花は約1ヶ月も咲き続けるそうです。 人間が生きる姿勢に2通りあります。「守りの態勢」と「追及し続ける姿勢」です。『守りの態勢』で生きる人は言います:「家の中の暖炉に火をともし、その周りに集まって共に憩いましょう!」 しかし『追求し続ける(信仰に生きる)姿勢』は言います:「心の内に火をともし、どんなことにでも情熱を燃やして挑んでいきましょう!」 90歳を過ぎたある老人が、聖書を更に深く読みたいがためにギリシャ語を勉強し始めたそうです。「何故今頃になってそんなことを始めたのか?」と尋ねられて、老人は答えました。「だって、今始めなかったら、いつになってもギリシャ語をマスターできないじゃないか!」 「今までに何年生きたか」が問題なのではありません。「何年経っても『生き生きと生きている』こと」が大切なのです。

(132) “落胆している者には、その友から友情を。”

 1989年夏、下半身麻痺の障害をもつ「マーク・ウェルマンさん」は、アメリカのヨセミテ国立公園内にある世界最大の花崗岩の一枚岩『エル・キャピタン』を登ることに成功しました。新聞報道には、友人「マイク・コルベットさん」に担ぎ上げられながら歓声を上げるマークさんの写真と、「たとえ麻痺した身体でも、堅い友情に支えられているなら、登れない岩はない」という記事が載っていました。新聞には載っていませんでしたが、実は友人のマイクさんは、このマークさんのプロジェクトを成功させるために、事前に3度この大岩を登りながら綿密な計画を立てていたのでした。  誰かに「共感すること」「思いやる心」は、苦闘している人々を力づけることができます。『共感』とは、単に「分かる分かるその気持ち」と口先だけで言うことではなく、「私はあなたと一緒にいます。あなたが再び立ち上がれるまで、私はあなたの力になり続けます。」という覚悟です。このようにして私たちは2つの面で困難の中にある人々の力になることができます。すなわち「今の苦しさを分かって欲しい!」という訴えに応じ、「こんな自分でも生きていてよいのだ」と確信させることによってです。このようなことを可能にするのが、『真の友情』です。  私たちは誰でも(どんなに強いように見える人でも)「共感してくれる人」「助け支えてくれる人」が必要です。だからこそイエスは私たちの身代わりに十字架にかかり、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのです。このような『愛』、そしてそれを受け取る『謙遜さ』を神に求めましょう。

(131) “神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。”

 聖書によると、死後も含めて私たちが永遠の時をどんな場所で過ごすかは「私たちが何を信じているか」によって決まり、私たちがどのような豊かさの中で過ごすかは「私たちが今をどのように生きているか」にかかっているようです。どちらにしてもはっきりしていることは「私たち自身の態度」が重要であって、決して私たちの人生の成り行きを「誰かのせい」にすることはできない、ということですね。  今日という日にあなたが下す決断や選択は、そのままあなたの将来(死後も含めて)に決定的な影響を及ぼすことになります。あなたの退職後や死後の人生を左右するものは、年金や生命保険ではなく、今日のあなたの生き様なのです。よく言われるように「過ぎ去ったことは今更悩んでも仕方ないけれでも、今後のことは自分の態度次第で変えていける」わけです。  神様が私たち1人1人に望んでおられることは、私たちがまずイエス・キリストによる救いを信じることによって「神からの永遠の祝福」を受け取り、もはや将来に関して何の心配もせずに『今』という時を神と共に精一杯生きるようになることです。私たちがそのように一瞬一瞬を全力を尽くして歩んでいく時、神は私たちが思いもかけないような有形無形の祝福をこの地上の人生においても後の世においても『報い』として与えてくださるのです。

(130) “私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。”

イエス・キリストの使徒パウロは、結婚もせず家庭も持ちませんでしたから、死んだ後にいわゆる『資産』と呼べるものを何1つ残しませんでした。しかし実際には、彼が残してくれた偉大な財産によって、私たちは今日に至るまで大いに助けられています。その財産とは、聖書の中に残された彼の手紙であり、彼が宣べ伝え、多くの人々をキリストにある救いへと導いた『福音の力』です。  実を言うと、今これを読んでいるあなたの今日の生き様も、目に見えない形で周囲の人々に何らかの影響を残しているのです。例えば誰もいない部屋に踏み込んだ時、そこに何とも言えない芳しい残り香が感じ取れるように、人生にもたらされる祝福も、知らず知らずのうちにあなたから発せられ、また受け継がれているものなのです。  「自分には大した貯金もないし、立派な土地や家屋もない。子供たちには何も大したものを残してやれない!」と思うでしょうか?その通りです。私たちが『遺言書』にリストアップすることができるようなもので、後の世に『大した影響』を与えるようなものはほとんどありません。しかし「夫や妻、そして子供たちをどのように愛したか」「仕事仲間や近所の人々にどのような誠実さをもって接したか」そのようなあなたの日々の人生に対する態度は、あなたがこの世を去ったはるか後にも、暗闇に光る松明のように輝き続けるのです。そしてこれらのあなたの財産には、それらを獲得するためにあなたが日々支払い続けた尊い金額がきっと刻まれているに違いありません。

(129) “その聞いたみことば(聖書のことば)も、彼らには益になりませんでした。みことばがそれを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。”

どんなに良い材料が揃っていても、その『媒体者』がいなければ、正しい結果は期待できません。例えば、どんなに立派な小麦粉を用いても「イースト菌」がなければ美味しいパンは作れないし、どんな立派な火種があっても「空気」が周りになければ火は燃えません。同じように、どんなに素晴らしい聖書の言葉を聞いたとしても、それらのことばが『信仰』によって私たちの心に結び付けられないなら、それは人生に益をもたらすことはできないのです。  どんなに美味しい食べ物でも、それを机の上に放っておくなら、ただ腐っていくだけです。良質の食べ物は健康な肉体の中に取り入れられてこそ、大きなエネルギーとなって実を結ぶのです。聖書の言葉も同じです。「ただ聞くだけ」ではなく、「そこに働く神の知恵と力とに信頼して、その教え通りに従って」ぜひ実生活の中に生かして行ってください。『信仰』とは、単に聖書のことばに知的に同意したり、口先だけで「神様、信じます」と言うことではありません。「私にご自身のひとり子さえも与えてくださった方は、今日も私に真実を尽くしてくださっている。だから、私も彼の言葉に誠実に従って生きよう!」 という具合に、あなたの日々の生き様に影響をもたらすものなのです。そのようなあなたの真摯な態度に応えて、神様はきっとご自身の大いなるみわざを現してくださることでしょう。イエス・キリストはおっしゃいました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。

(128) “怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。”

喜び・憂い・怒りなど、私たちの持っている感情はすべて神から与えられたものであり、基本的には良いものです。私たちは正しいものが損をしたり、弱いものが虐げられたりしているのを見るとき、怒りがこみ上げてくるのを感じます。これは、この地上に正義がもたらされるためにどうしても必要なものです。  ところがこの『怒り』を自分で制御できなくなってしまうようになったら、それは危険信号です。自制されない怒りは人間関係を破壊し、事の真実を見失わせ、神を悲しませる結果を生みます。『家庭崩壊』『幼児虐待』『殺人』『戦争』などなど。では、どのようにして私たちはこれらの「行き過ぎた怒り」から自分を守ることができるでしょうか?  第1に「怒りを表現する前に、少し間をおく」ことです。ほとんどの場合『怒り』の原因は「出来事そのもの」というよりもむしろ「それに対する認識や感情」です。私たちはよく「あの人があんなことを言ったから」とか「こんなことをされたから」などと言いますが、実際はあなたが「自分でその言動をどう理解したか」に原因があるのです。もしあなたの感情が他の人から言われたりされたりしたことにいちいち影響されていたら、まるであなたは周囲の人の奴隷のようです。そうではなくて、むしろ「ちょっと待って。今のはどういう意味?」とか、「私が誤解しているかもしれないから、もう1度良く説明してくれる?」と尋ね返す余裕を持ってください。  2番目は「怒りを溜め込まない」ことです。私たち夫婦は結婚してまもなく1つの約束事をしました。それは「もし喧嘩をしたとしても、寝る前までに必ず和解する」という約束です。『怒り』や『相手に対するわだかまり』をそのままにしておくと、ぐっする眠ることもできないし、2人の間の溝はドンドン深まっていきます。「どちらが悪かったかをはっきりさせること」よりも、「ともかく和解すること」のほうがずっと重要なのです。  怒りからは決して『平安』は生まれません。かえって『怒りの香り』は悪魔を引き寄せるのです。私たちの生活から『過ぎた怒り』を締め出して、悪魔を失業させてしまいましょう!

(127) “キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。”

ある牧師がこんなことを言いました。「地上のあらゆる場所に『万有引力の法則』が働いていて、他の力が働きかけない限り物質は必ず上から下に向かって落ちていくように、すべての人間の心の中には『自己中心性の法則』が働いていて、意識して他の人のために生きようとしない限り、私たちは自分が楽をしたり得をしたりするように行動するものである。」 確かにその通りですよね。私たちは知らず知らずのうちに「何かいいことないかなぁ。誰かうまい話持って来てくれないかなぁ。」と周りが自分のために動いてくれることを期待してしまう傾向があります。  イエス・キリストの生涯は、これとはまるで違いました。彼は病人や貧しい者をあわれみ、世間からつまはじきされていた人々と多くの時を共に過ごし、そして罪と死に縛られていた私たちを解放するために、身代わりに十字架で死なれました。彼の生涯はまさに「自分自身のため」ではなく、「他の人々に仕えるため」だったのです。そしておっしゃいました。「私があなたがたに仕えたように、互いに仕え合いなさい」。  多くの人々(クリスチャンの方々でさえ)は、「イエス・キリストは『特別な人(神の子)』だったのだから、そんなことができて当たり前だ!」とおっしゃいます。でもちょっと想像してみてください。イエスが十字架にかかる前の晩、有名な『最後の晩餐』の席で、イエスは弟子たちの足をお洗いになりました。天と地の創造者、私たちの神である方が、私たちの汚くて臭い足(弟子たちの中には漁師たちもいました!)を素手で洗ったのです。何という『謙遜』、何という『無私』なのでしょう!恐らく私たちは、私たちのクラスの先生、また上司などがそんなことをしてくれたとしても驚きあきれ、恐れ入ってしまうのではないでしょうか?(まあ、そんなことをしてくれる『先生』や『上司』など聞いたこともありませんが…)しかし仮にも『神の子』と呼ばれた方が私たちにそのような模範を示されたのだとしたら、私たちは今日から人生に対する態度を改めなければならないのではないでしょうか?

(126) “神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”

  すべての人間にとって『関係』というものは大きな祝福であり、また課題です。「豊かな関係」を通して私たちは励ましを受け、勇気付けられ、生きる意欲が湧いてきます。一方で「壊れた関係」によって私たちは傷つき、落ち込み、時には自殺に追い込まれることさえあります。もし「関係の達人」がいるとしたら、その人こそまさしく「人生の達人」と呼ばれるにふさわしい人でしょう。  人は誰でも「3つの関係」の中に生きています。 ①『神との関係』 ②『自分との関係』 そして③『周囲の人々との関係』です。ほとんどの人々はこの③の関係を築くことに多大な労力を費やしますが、実際は①の関係が正しく築かれて初めて健全な②の関係が築かれ、①②の関係を豊かに築いている人だけが、真に円滑な③の関係を築いて行くことができるのです。  人はこの天地万物の神、すなわち自分自身の創造主を知ることなしに、自分自身の真価を理解することはできません。「自分の親」と呼べる存在を知らずに育った孤児が「自分自身の健康な家庭」を築くことに戸惑うように、「自分のありのままを喜び、愛し、完全に受け入れてくださっている方」との豊かな関係の中に生きることなしに、健康なセルフイメージは育てようがないのです。  しかし、この真実な愛を基礎にして自分自身を建て上げている人は、その愛を動機として周囲との関係を築こうとします。このような人は拒絶を恐れません。それが自分の価値を落とすことがないことを知っているからです。むしろそのように拒絶する人々さえも愛し受け入れることができます。何故なら『本物の愛』は、それを必要としている人々のところへと流れていこうとする性質を持っているからです。  私たちを造られた神は、真の意味で私たちに必要なものが何であるかをご存じです。私たちがそれを受け取ることができるのは神からだけであり、そのため神は私たちがそれを求めてご自身の許にやってくるのを心待ちにしておられるのです。

(125) “神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる…のです。”

1961年、初のロシア人宇宙飛行士として飛び立った無神論者『ユーリ・ガガーリン』は、地球に戻って後次のように述べました。「私はロケットからあちらこちらをじっくりと見回したが、どこにも神など見当たらなかった。」  確かに彼は人類のほとんどが眺めたことのない世界をほんのちょっとだけ見回してきたかもしれませんが、それで「神はいない」と結論付けるとしたら、それはあまりにも浅はかです。もしあなたが1秒に2つのペースで星を数え上げていったとしても、『天の川』の中にある星だけを数えるのにさえ2000年以上かかるのです。そしてまた、標準の大きさの星でさえ、その直径は100億人以上の人間が手をつないでならんだよりも長いのです。それほどに広大な宇宙の一体どこを眺めてきて「神はいなかった」と結論付けられるというのでしょう!?  聖書には「この広大な宇宙でさえ、神の『ほんの指先のわざ』にしかすぎない」と書かれています。そしてその「『ことばでは到底言い尽くせないほどの偉大な神』が、私たち人間を心に留めておられる」というのです。このお方を、私たちのほんのわずかな知識や経験によって結論付けようとするのは、人間の傲慢以外の何物でもありません。神は「人間の探求によって見出される」存在ではなく、唯一「神ご自身がみずからを啓示される」ことによってのみ私たちが感知可能なお方です。  優れた物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。そうです。神はその認知不能なご自身の偉大さを私たちに啓示されるために、この広大な宇宙を私たちの面前に広げ、またその愛の深さを知らせるために、私たちに『聖書』を与え、更にまた人の形をとって現れてくださったのです。

(124) “なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”

 聖書は人の『罪』ということを問題にしますが、私たちは『罪』と聞くと、「してしまった悪いこと」というものを思い浮かべます。「他の人の物を盗んだ」とか「不倫をした」とか「人を殺した」などなど。確かにこれらは神の前に『罪』に違いありませんが、実は聖書はむしろこれらのこと以上に、私たちが「しなかった良いわざ」の方を問題にしています。  イエス・キリストはこの地上を歩まれた際、多くのことを「たとえ話」によって教えられましたが、それらの中には「灯火のために十分な油を用意していなかった娘たち」や「せっかく主人に預けられた予算を活用しなかったしもべ」や「自宅の門の前に横たわっていた乞食に施してやらなかった大金持ち」などの話があります。そして極めつけは、イエスが『最後の審判』に関してなさったたとえ話です。イエスは「天国へ迎え入れられる人々」に対しての祝福のことばを述べられた後、「地獄へと投げ込まれる人々」に向かって次のように言います。「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食物を与えず、わたしが渇いていた時に飲ませず、旅人であったときに宿を与えず、裸だった時に着る物をくれず、病気や牢にいたときに訪ねてくれなかった。」 人々は驚いてイエスに尋ねます。「一体いつ私たちはあなたに対してそのようにして差し上げなかったでしょうか?」と。するとイエスはこう答えるのです。「あなたがこの世の最も取るに足りない人々にしてあげなかったことは、実はわたしにしてくれなかったのです。」  神は日々あなたに「なすべき良いこと」の機会を与えておられます。それを見過ごさないように!

(123) “彼女は力と気品を身に付け、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みの教えがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。”

ある日の新聞のコラムに、次のような記事が載りました。  「神が『母親』を創造された時、その様子を隣りでじっと観察していた天使が言いました。『今回はずいぶんと手をかけていますね。』すると神は答えました。『その通りだとも。何しろこれは他の生き物にはないいくつもの微妙な部品を必要としているのだから。「ひざ小僧の小さなすり傷に始まって、恋に破れて痛んだ心をまでも癒すことのできる優しいキスをする唇」「台所の片づけをしながら、子供の着替えをさせ、夫のゴミ出しの準備をし、飼い犬にエサをやり、そのついでに洗濯物を干すことのできる腕」、う~む、やはり腕は5組は必要だな。』 天使は叫んだ。『腕が5組ですって!』 いやいやそんなことより、やはり難しいのはこの「それぞれ違った機能を持つ3組の眼だよ。ドアの向こう側を見透かすことができるために1組、また頭の後ろには子供が母親に見つからないように悪さをしているのを見抜くためにもう1組、そして最後は誰かがへまをやらかしてしまった時に「大丈夫、大した失敗じゃないわよ。それでもアナタを心から愛してるわ」と語ることのできる眼差しだ。』 『神様、そんなの無茶じゃないですか?』 『そんなことを言ってはいけない。私は何としてもこの「わたし自身に最も似た存在」を完成させたいのだから。何しろ彼女は病気になっても誰の看病も受けずに回復することができ、冷蔵庫の残り物だけを使った料理で家族を喜ばせることもでき、5歳以下の3人の幼児をいっぺんにお風呂に入れるほどの芸当をやってのけるのだから。』 『それはまさしく「奇跡」ですね!』天使は驚きつつこの生き物の身体に触れてみて言った。『何て柔らかいんでしょう!』 神は答えた。『そうだろう?しかしその実質は恐ろしく強靭に造られているのだ。彼女が一体どれほどの逆境に耐え抜くことができるか、お前には想像もできないだろうな。』 今度は天使は彼女の頬に手をやり思わず叫んだ。『こんな所から水が漏れていますよ!』 『いやいや、それは水漏れではない。「涙」と呼ぶのだ。』 『へぇー、一体何のために使うんですか?』 『「喜びを表すため」「悲しみを表すため」「痛みを表すため」「失望を表すため」「寂しさを表すため」「誇りを表すため」…、まあいろいろだな。』 最後に天使は言いました。『神様、あなたこそまさしく「天才」です!』  もちろんこの物語はフィクションですが、じっくり読む価値があるでしょ? お母さんたち、本当にありがとう!!!

(122) “立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。”

現代の『スピード社会』は、とにかく私たちに「仕事を手早くやりこなす能力」を要求します。「多くの仕事を任される人」が『有能な人』とみなされるため、ついつい「他人から頼まれた仕事」をできるだけ優先させ、「自分が本来なすべき事」を後回しにしてしまいがちです。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみてください。あなたは「人を喜ばせることの『中毒』」に陥ってはいませんか? 真面目で親切な人ほど「人のためになることは良いこと」と考えるあまり、自分の本分を犠牲にして『人からの頼まれ事』に没頭する傾向があります。もちろんそれが「相手に対する純粋な思いやりや愛情」から出ているものなら、それほど害悪はないかもしれませんが、もしそれらの行為が「相手に良く思われたい」とか「人の役に立つことで自分自身の存在価値を保てるから」などの誤った動機から来ているのだとしたら、それは危険信号です。 神は私たち1人1人を『ユニークな存在』としてお造りになりました。それは「誰か他の人の仕事に携わらせるため」ではなく、「ぜひともあなたと一緒に成し遂げたい『ユニークなわざ』をお持ちだから」です。神は決してあなたを『何でも屋』としてはお造りになりませんでした。「みんなを喜ばせること」よりも、「神を喜ばせる働き」をして欲しいと願っておられるのです。 「でも神様は、私が他の人々を助けることをお喜びになるんじゃないですか?」とおっしゃるかもしれません。確かにそうです。しかし神は同時に、あなたが終始「誰かのためにしなければならないこと」に振り回されること、をお望みにはなりません。ですから、もしあなたが「神から委ねられた働き」に携わっている時に、誰かから何かを頼まれたときは、まず神の前に静まり、神からの知恵と導きをうかがうべきです。 最後に、私の尊敬する『マザー・テレサ』の遺した言葉で締めくくりたいと思います。 “「どれだけのことを成し遂げたか」は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。”

(121) “イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」”

小型飛行機の事故が起こる原因のほとんどは、飛行機の整備の不十分さにあるのではなく、操縦士のミスによるものだそうです。そしてまたその『操縦士のミス』というのも、操作そのものをミスするのではなく、「計器盤をキチンと見ていない」ことによるのだそうです。何故そんな初歩的なミスが起こるのでしょうか?それは操縦士が、イザという時に『計器盤』に信頼しないで『自分の感覚』に信頼しようとしてしまうためなのです。 回転イスに目隠しをして座り、イスをいろいろな方向に回転してもらいます。初めのうちは自分がどちらの方向に回転しているかを簡単に言い当てることができますが、そのうちに自分が一体どちらの方向に回転しているのか、また回転しているのかいないのかさえ分からなくなってしまいます。小型飛行機の操縦もこれと似ています。操縦席からの視界というのは、簡単に雲やその他のものでさえぎられてしまいます。嵐などの風雨が強い日はなおさらです。周囲の環境によって、飛行機の方向や高度は簡単に左右されてしまうのです。そんな時操縦士が『自分の感覚』に頼っていたならば、飛行機は簡単に進路から外れてしまい、最悪の場合、障害物にぶつかったり、墜落してしまったりするのです。ベテラン操縦士というのは「計器盤に頼らなくても飛行機を自由に操られる人」ではなく、「どんな時にも自分の感覚に頼らず、計器盤に絶対的な信頼をおいて、そこから眼を離さずに操縦を続ける人」なのです。 どんな飛行機でもその計器盤には莫大なお金を賭けて、大変精巧な機能を完備しています。なぜならこの計器盤こそ操縦士にとっての『命綱』であり、全面的な信頼を寄せるべきものだからです。そして私たちすべての人間にとっての計器盤とは、私たちをお造りになり、私たちを真理といのちへと導こうと願って止まない神ご自身のことばである『聖書』なのです。私たちが自分の『道徳観』や『経験』などの「肝心な時にあてにならないもの」ではなく、いつ・どんな状況においても冷静で正確な絶対的アドバイスを与えてくれるこの「人生の計器盤」に、あなたの人生の基盤をおいてはいかがでしょうか?

(120) “わたし(キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。”

ある青年が、人生の師と仰ぐ方のところに行って、こういう相談をしました。「先生、ボクは新しい宗教の教祖になって、その宗教を世界的なものにし、これから何百年の後も自分が教祖としてあがめられるような宗教を造りたいのですが、何か良いアイディアはないでしょうか?」 するとその人生の師は答えました。「ああ、それなら簡単だ。まず今日から清く正しい生活を始めなさい。そしてできるだけ多くの人々に『愛と赦し』について語りなさい。そしてまた『自分はもうまもなく、全世界の人々の罪の身代わりとなって死ぬ』ということも予告しておきなさい。そして数年経ったら、できるだけ悲惨な死に方をしなさい。その時に泣き言を言ってはいけません。その時のセリフは『父よ。彼らを赦したまえ』がいいな。そして死んだ後、ここが1番肝心だけど、3日くらい経ったら復活してきなさい。そうすればお前は間違いなく世界的な宗教の教祖になれる。」 この青年がこれを実行したかどうかは知りませんが、もし実行していたら、間違いなく今も墓の中にいるはずです。しかし、このような人生を文字通り歩んだ方が歴史上ただ1人だけおられます。それがイエス・キリストです。 今度の日曜日は『イースター』というキリスト教のお祭りです。日本人には『クリスマス』ほどは馴染みがありませんが、実際は『イースター』の方がクリスマスよりも重要な記念日であり、まさにこの『イースター』こそが「イエス・キリストが死を打ち破りよみがえられたこと」を記念する日なのです。 私たち人間は『死』を恐れます。何故なら未だかつてこの『死』を免れた人間は1人もいませんし、またこの『死』の向こう側に何があるのかはっきりと知っている人間も1人もいないからです。しかし『イースター』は、この「人類の最後の敵」とも言うべき『死』を、神は打ち破ることができる、ということを証明したのです。 あなたは『死』を恐れていますか?『死』の向こう側にある確かな希望を求めていますか?イエス・キリストはそのあなたが求めているものを与えることができる唯一の方なのです。

(119) “恐れのある日に、私は、あなた(神)に信頼します。”

子どもに人気のある伝統的な遊びの1つに「かくれんぼ」がありますよね。ジャンケンで『鬼』を決め、残りのメンバーは鬼に見つからないところに隠れる。隠れるのが上手な人も苦手な人もいます。隠れている間は「いつ見つかってしまうだろう…」とハラハラ・ドキドキ。そしてとうとう見つかってしまったとき、鬼は大喜びしますが、見つかってしまった自分はガッカリ。(いつまでも見つからないままでいるのも困りものですが…) 私たちの人生の中でも「かくれんぼ」があります。会社で上司から隠れようとしたり、反抗期の息子から隠れようとしたり、意地悪なクラスメートから隠れようとしたり…。物理的に姿を隠すことはできなくても、うわべだけの返事や作り笑いの陰に本心を隠したり、他の人にどう思われるかを恐れてつい自分の信念を隠してしまったりすることはありませんか? 考えてみると、「隠れること」は人間の歴史の当初から始まっていました。神から「決して食べてはならない」と言われていた『禁断の木の実』を食べてしまったアダムとエバは「神を恐れて木の陰に隠れた」と聖書の初めに書いてあります。「木の陰に隠れたところで神から身を隠せるはずがないだろう」と思うかもしれませんが、これは単に『隠れている』ことを意味するだけでなく、「関係が壊れてしまっていること」を表現しているのです。 この原則は現代に至るまで同じです。私たちは皆心の底では『隠れること』が問題の根本解決にはならないことを知っています。それは一時的な回避を可能にするかもしれませんが、多くの場合、解決を遅らせた分、問題はさらに増幅されて私たちに襲いかかってきます。ささいな言い争いを恐れたがために、人間関係に大きな溝を生み出してしまうことも度々です。すなわち『隠れること』は『恐れ』に由来し、そして「大切な関係の破壊」に至らせるのです。 ある聖書の記者は書きました。「恐れのある日に、私はあなた(神)に信頼します」と。私たちが「最も力のある方」そして「私たち1人1人に対する慈愛に満ちておられる方」に全き信頼を寄せるとき、もはや私たちは「隠れる」必要はないのです。

(118) “この方(イエス)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”

『人生あきらめが肝心』とは言いますが、「何でもすぐにあきらめてしまう態度」も問題です。優秀なセールスマンでも、顧客15人中14人には断れてしまうそうです。しかし彼らはそこであきらめません。『15人目』と出会うために、次々と前進していくのです。 『No』という返事はしばしば「今はダメだけど、また来てね」ということを意味します。ですから、たった1度断られたからと言って簡単にあきらめてしまうことは正しいとは言えません。あなたは今日までの人生で恐らく何度も『小さな拒絶』を受けてきたことと思いますが、そこであきらめなかったから今のアナタがあるのではありませんか? 言ってみれば、イエス・キリストほど厳しい拒絶を経験した存在はないかもしれません。彼は神のもとから遣わされた『メシア(救い主)』として、神に選ばれた民である『ユダヤ民族』のもとに遣わされましたが、ユダヤ人たちは彼を拒絶したばかりか、「神を冒涜する者」としてのレッテルを貼り、十字架刑に処しました。しかしこの「ユダヤ民族による拒絶」がかえってその『神の救いの計画』を全人類へと広げる結果となったのです。 イエスが人々に『救いの知らせ』を次げ知らせるためにその弟子たちを遣わされた時、彼らにこう忠告しました。「もしその町で誰もあなたがたのことばに耳を傾けないなら、その町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」 もしあなたが誰かから拒絶を経験したとしても、心に浮かんだ苦々しい思いを「払い落として」前進しましょう。あきらめずに前進し続けるなら、必ず理解者と出会うことができます。 また、忘れてはならないことは、仮にあなたがすべての人から拒絶されたとしても、「あなたを決してあきらめず、ありのままを受け入れてくださる方がおられる」ということです。それはイエス・キリストです。彼は人々からの厳しい拒絶を経験されたので、拒絶を受けたあなたの苦しさを深く理解し、また癒すことがおできになるのです。

(117) “もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”

「罪を憎んで人を憎まず」とは、古くから日本に語り継がれている言い回しですが、実に聖書の教えに通じるところがあります。神は私たち人間を深く愛していらっしゃいますが、私たちの罪とは決して妥協しようとはなさいません。それ故、ご自分のひとり子である『イエス・キリスト』を私たちの代わりに犠牲にしてまで、私たちの「罪の問題」を解決しようとされました。 「そんなに私たちを愛してくださっているなら、『罪あるままで』私たちを受け入れてくれたらいいじゃない。」と思われる方もいるかもしれません。しかし、それは本当の愛ではありません。 「大切なキミ」「そのままのキミが好き」などの絵本の著者としてしられる『マックス・ルケード』は、ある日の愛娘との体験を次のように描写しています。「やっとヨチヨチ歩きが始まったばかりの娘のジェナを連れて近くの公園へ行った。ジェナを砂場で遊ばせていると、アイスクリーム売りが通りかかったので、娘の大好きなアイスクリームを買ってやることにした。ところが、ちょっと眼を離した隙に、ジェナはせっせと口の中に砂を運び入れ始めていた。果たして私は、口の中に砂を一杯にしているような娘でも愛しているだろうか?もちろんだ!口の中に砂をたっぷり含んだこの子は、私の娘としての価値を落としているだろうか?そんなわけはありゃしない!では私は、娘が砂をむしゃむしゃと食べているのをいつまでも放っておくだろうか?そんなバカな!私はすぐさまジェナを抱きかかえて水道のところに連れて行き、抵抗する娘を制しつつ、次のように語りかけながら、口の中と周りとをきれいにしてやった。『私の愛する娘。ホラ、ちゃんと砂を吐き出しなさい。お父さんがもっとずっといいものをあげるからね。』」 私たちの神様も同じです。神が私たちから『罪(よくないもの)』を取り上げるのは、神様が意地悪だからなのではなく、私たちを深く愛しており、私たちに「もっと良いもの」を与えたいからなのです。

(116) “あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。”

聖書は私たちに『個人の尊厳性』を教えると共に、「自己中心性」というものを強く戒めてもいます。イエスは人々から「最も大切な戒めは何ですか?」と問われたとき、迷うことなく「心を尽くしてあなたの神を愛し、またあなたの隣人を愛することだ」とおっしゃいました。私たちが「自分のことで精一杯」になってしまっている時、私たちは人間本来の生きる意味を見失っています。それは「神と人々とを愛し、またそのために生きること」です。 2003年に33種類の様々な調査団が、その調査の共通した結果として「人間はその人生の最大の意義を『関係』の中に見出している」と発表しました。すなわち、人間は1人で生きるようには造られていないのです。 その人生の長い期間を『戦闘部隊』で過ごしたチャック・コルソンは、その晩年に次のように述べています。「80年の人生を振り返って私が確信をもって言うことができるのは、『私の人生の最大の喜びは、自分自身の時間や労力を他の人々のために使って、そして彼らがそれを肥やしとして成長していくのを見ることだった』ということである。私はいつも部隊のリーダーとして45名の部下を引き連れて戦場へ行ったが、そのときに生きて帰ってくるためにどうしても必要だったのは『互いのための献身』であった。自分の隣りにいるメンバーが自分のバックアップとして命懸けで支えてくれないとすれば、それは自分の死を意味するのである。『隣人への献身』これがなければ、1人1人の人生はまさに無に等しい。『他の人のために自分をささげること』この中に私たちは人生の意味と目的を見出すのである。」 もし私たちに「このためになら死ねる!」というものがないなら、「私はこのために生きている!」と言えるものがないのと同じことです。聖書はそれが「神と人とのために生きることである」と教えているのです。

(115) “愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”

聖書の中で、使徒パウロは次のように言っています。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」 多くの人々(恐らく全ての人)は『愛』を追い求めています。そしてこの『愛』とは決して「1人きり」でいるところでは学んだり用いたりすることはできません。『愛』を知るために、また体験するために、私たちは「人々の間に入って行く」必要があります。「面倒くさい人間関係」「決して思い通りにならない相手」「時には嫌になるほど様々な要求をしてくる人々」の中に入って行かなければならないのです。それ故私たちはしばしばこの『人間関係』というものをできるだけ後回しにしようとしたり、または無意識のうちに自分1人でさっさと作業を終わらせ、その場を後にしたりしてしまいます。「あぁ、あの人と会う時間を作らなきゃ」とか「今度はいつ家族と過ごす時間を取れるだろう?」などと考えることもありますが、実際そのこと自体が『人との関係』というものが生活パターンの中で優先順位の低い場所に位置してしまっていることを現わしているのです。 「『愛すること』『人との関係』というものが大切」ということが分かっているのに、何故こうなってしまうのでしょう?それは、良い関係を築くのには時間と労力が必要だからです。現代の私たちは、経済的な基盤を築いたり、自分の目標を成し遂げたりするのに忙しすぎて「人と過ごす時間を優先する」余裕を失ってしまっているのです。しかし、実はこれらのことは人生における2次的なものであって『最も大切なもの』ではありません! 「人生で最も意義のあること」それは、『人と神とを愛すること』です。神のご性質をひと言で言い表わすならば、それは『愛』です。それ故私たちが「愛する」時、私たちの間に『神の香り』が放たれるのです。マザー・テレサは次のように言いました。「大切なのは『どれだけのことをしたか』ではなく、『どれだけ愛を込めたか』です」。この『愛』こそが私たちが受け取りうる、また与えうる最高の財産です。「『人生』-『愛』=0」なのです!私たちの生涯の終わりに至る時、皆が「人生とは『人との関係』がすべてであった」と気付くのです。『人生の知恵』とは、いかにそのことに早く気付くか、ということです。どうぞあなたがこのことに気付くのが遅すぎることのないように。

(114) “さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。”

ローリィ・シュナイダ―さんは、エベレスト山の登頂に成功した数少ない女性の1人ですが、彼女はその栄光に甘んじることはしませんでした。「多発性硬化症」と診断された彼女は、次の夢をあきらめるどころか、かえって仕事をやめて世界6大陸の最高峰の登頂に挑戦する方を選んだのです。そして10年後にその夢を見事に実現しました。 この偉業を見届けた後、ローリィさんのお父様は次のようにコメントしました。「娘にとって『多発性硬化症』との診断を受けたことは、彼女の『障害』となるよりもむしろ『踏み台』となりました。彼女はそれを『妨害』としてではなく『挑戦』と受け取ったのです。」 ローリィさんの今の夢は、彼女同様「大きな挑戦」に直面している人々に、「慌てずに1歩1歩前進していけば、世界一高い山でさえ、乗り越えることができる」というメッセージを伝えることだそうです。 イエス・キリストに従う人生も同じです。私たちが目指しているのは「完全になること」ではなく、「成長すること」です。「完成まであとどれくらいか」を測るのではなく、むしろ「昨日よりもどれくらい進んだか」を測るべきなのです。それがたとえたった1センチメートルの前進であったとしても、それは大いに喜ぶべきことなのです。

(113) “小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。”

心理学者たちの調査によると、私たちの行動の90%は『習慣的に』行われているそうです。90%ですよ! しかし考えてみるならば、私たちは皆この『習慣の力』というものの恩恵に多大にあずかっています。私たちは「習慣的に」生きているからこそ、多くのことをより迅速に能率良く行えるわけですし、1つ1つの小さなことにイチイチ煩わされることなく、大切なことに十分な注意と力とを注ぐことができるわけです。 しかし、ということは「良い習慣を育むことは人生の成功につながり、悪い習慣に支配されることは破滅を招く」ということも言えるかもしれません。「ついつい食べ過ぎてしまう」「万年の運動不足」「どうしてもタバコがやめられない」「自分は5時間睡眠で十分やっていける」などなど。日常のつい見逃してしまいがちな些細な『悪習慣』、その時は「まあ、いつか修正すればいいさ」で済ましてしまいがちですが、それらは確実に私たちの人生を蝕んでいるのです。そしてこの『習慣の力』の恐ろしいところは、「その習慣による悪影響がはっきり認識されるようになった頃には、既に手遅れになりかけている」ということです。 ある有名な企業の創始者は次のように言っています。「自分の夢を成し遂げようとする者が最も力を注ぐべきことは、自分を誘惑してくる『悪習慣』を徹底的に破壊し、夢の実現に役立つ『良い習慣』を何度も繰り返すことだ。」 では、そのような『良い習慣』をどのように見出していけば良いのでしょう? 1つの驚くべき事実は、世界人口の1%にも満たない『ユダヤ人』が、ノーベル賞受賞者の50%以上を占めているということです。彼らは幼い頃から聖書を学び、あるいは暗唱し、神を中心とした自意識、世界観、人生観を持って生きています。「自分の心のおもむくまま」ではなく、「神を恐れ、聖さを求め、常に自分自身を神の前に見張る姿勢」こそ、良い習慣を育む原動力なのです。

(112) “私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。”

皆さんは「もっと人のためになりたいと思っているのに、なかなか実践できない」とか、「そんなことを言うつもりはなかったのに、つい相手を傷つけるようなことを言ってしまった」などという経験はありませんか?もちろん私もあります。どうしてそんなことが起こるのでしょう?聖書は「それは私たちの心の中に『悪の原理』が宿っているからだ」と言っています。常に「正直に生きよう」と意識していない限り、私たちはついついこの『悪の原理』に振り回されます。あたかも私たちの心の中にある「自動操縦装置」かのようです。 アメリカ南部に生育するある「つる性の植物」は、いったん庭木や塀にからまり始めると、それをすぐに抹殺してしまわない限り、あっという間に庭全体を覆い尽くしてしまうそうです。 私たちの心の『悪の種』も、小さなうちに摘み取ってしまわないと、雪だるま式に大きくなって、収集がつかなくなってしまいます。軽い気持ちでついた「悪気のない嘘」が、前述のつる性植物のようにあなたの心の中にからまり始め、ついつい「出まかせの言い訳」がクセになり、気がついた時には誰からも信用されない『嘘つき』のレッテルを貼られてしまうのです。 では、私たちは一体どのようにしてこの『悪の原理』に侵されることなく、正しい歩みをすることができるのでしょうか? まず朝ごとに(他の何事も始める前に)、すべてのことをご存知で正しくさばかれる神の前に出て(祈りや聖書のことばを通して)、心の中が暗闇で覆われてしまう前に、神の『真理の光』で照らしていただくのです。そして、心のベルトをしっかりと『真理の霊(神の霊)』につながれて、この神の霊が私たちを導いてくださるのを感じながら1つ1つの営みを進めていくのです。 「私は自分の心を自分の力で十分制御できる」と思うのは、傲慢に過ぎません。神はいつでも「へりくだる者に助けを与えてくださる方」なのです。

(111) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

外見で人を判断することは、しばしば大きな失敗の原因となります。しかし実際に私たちは第1印象によってその人に対する見方を大きく左右されてしまうのも事実です。ある人の調べでは、初対面の人からの悪い印象でその人に対する見方を決めるのには10秒もかからないそうです。その人の外見、声の調子、握手の仕方、物の考え方などが自分とは違うと、つい「この人のことは好きになれない」と決め付けてしまうものです。 『好み』というものは誰にでもありますから、すべての人のことを「好き」になる必要はありませんが、それらの人々を「愛する」ことは可能です。人間というものは『外見』や『能力』以上の存在です。たとえその人の顔かたちや体格、立ち振る舞いが気に入らなくても、「この人は偉大な神によって造られた傑作品である」ということに気付くなら、愛することは可能になります。もし私たちが「神様、私はどうしてもあの人のことが好きになれません。でも、あなたが彼をご覧になっているように、私も見ることができるように助けてください!」と祈りつつ、大胆にアプローチしていくなら、『愛せない』というハードルを飛び越えることができます。『悪印象』を形作るのに10秒もかからないとすれば、いったん「愛する」と決めて相手に接していくなら、同じく短時間で相手に対する全く新しい見方を体験することができるのです。要するに「気分」ではなく「決断」の問題なのです。そして素晴らしいことに、「どうしても好きになれないと感じていた相手」を愛することができる術を身に付けた人は、「神がいつも共におられる」ことを実感しながら生きる者とされ、恐れから解放され、あらゆる環境の中で『愛による影響力』を流していくことができるようになるです。

(110) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

「隣りの芝生は青く見える」ということわざがあります。最近の日本ではあまり『芝生の庭』が見られなくなったので、いまいち馴染みの薄い言い回しですが、要するに「同じものであるはずなのに、何故か人のものは自分のものよりも良さそうに見える」という意味です。隣りの家とか、友人の車とか、知り合いの旦那とか、近所の子供とか…、挙げていればキリがありませんが、「何でウチのは、あの家のようではないのだろう…」とグチをこぼしたくなることがよくありますよね? そこでよぉく聞いてください。実際は「隣りの家の芝生が青く見える」のは、目の錯覚です。そのように見えるのは、「自分のものは良く知っているけど、他人のもののことは良く知らないから」、または「自分のものをキチンと面倒看ていないから」のどちらかです。 こんな話があります。あるハンサムな大金持ちが、大した魅力もない女性と結婚しました。周囲の人々は次のようにウワサしました。「あの結婚は絶対長続きしやしないわ。」 さて、数ヵ月後この新婚夫婦がハネムーンから帰ってきたとき周囲の人が見たのは、この大金持ちが全く見栄えの違った女性を連れていることでした。「ほら、前の女より、今度の女性の方がずっとこの人にふさわしいじゃない!」と周囲の人々は思ったのですが、驚いたことにこの女性はあの『冴えない女』と同一人物だったのです。この金持ちの男性はその妻を心から愛し、折にふれて励ましと賞賛の言葉をかけ、彼女の存在がどんなに自分の喜びであり、支えになっているかを日々告げていたため、この新妻は日々自分の価値を再発見しては、その上に自分自身を築き上げていったのでした。 もうお分かりですね。他の人のものを羨ましがってばかりで、自分のものの真価を見出せない人は、決して『青い芝生』を手に入れることはできません。それよりも、自分の芝生にかかさず栄養を与え、しっかりと面倒を看ることが大切なのです。あなたの妻や夫、子供たちに日々励ましの言葉をかけ、その努力を評価し、彼らの存在があなたにとってどれほどかけがえのないものなのかを伝えてください。言わば彼らの『チアリーダー』になってあげるのです。そうすれば、やがてあなたの家の芝生が、他のどの芝生よりも青々と輝いているのをあなたは発見することでしょう!

(109) “すべての営みには時がある。… 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。”

神を信じ、神を求めつつ歩む人生は、しばしば「受けること」以上に「待つこと」が多い、と言えるかもしれません。そして待ちに待っていたものが与えられる頃には、もう『何か次のもの』を求め始まっているのではないでしょうか?ということは、もし「喜びをもって待つ」ということを知らなければ、相当イライラする人生になりかねませんね。 神様にとっての『ベストタイミング』と、私たちに都合の良い『ベストタイミング』は異なっている場合がほとんどです。神様は私たちにとっての「本当に必要なもの」をご存知で、またそれを「いつ・どうやって」私たちに与えるべきかも知っておられます。ですから、私たちはひたすら「神様は良い方で、私にとっての最善をなさる」と信じて待つべきです。 では、私たちは神様からの応答を待っている間、一体どうしていれば良いのでしょう?答えは「神様に対する『信頼』をひたすら育てる」ということです。私たちは何か新しいものが欲しくなると『今すでに与えられているもの』の価値を見落としがちです。「無いものねだりの心」は喜びを奪います。反対に「今あるものに対する感謝の心」は私たちに失われることのない喜びを与えてくれます。 神様と歩調を合わせ、その時その時神様が与えてくださっているものをじっと見つめて、その真価を見出しながら、「待つことの喜び」を味わう者となりたいものです。

(108) “どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。”

あなたにとって「満足いく人生」とはどんなものでしょう?高級車に乗ること?豪邸に住むこと?流行の最先端の服を着て街を闊歩すること、また一流の職場で働くことでしょうか? 「物質的に満足する」ためには、次の2つの方法があります。1つ目は、とにかく得られる物は限りなくトコトン手に入れること。もう1つは、ほんのちょっとだけしか欲しがらないことです。共産主義ソビエト時代に、その信仰の故何年も刑務所で過ごしたある牧師は、家族からも友人からも、唯一の趣味であった読書からも引き離された時、「本当の自由を体験した」と告白しています。またある探検家は、南極での何カ月もの孤独な生活を通して「人間が本当に必要にしているものは、真にわずかなものにすぎない」ということを発見したそうです。 現代人ほど「所有物に侵されてしまっている世代」は今までに無かったのではないでしょうか?「これさえ手に入れば、きっと満足する」と考えていた物も、実際に手に入れてしまうと、すぐにまた他の物を欲しくなってしまう。あたかも、物を追求すればするほど、満足感は遠ざかって行くかのようです。では、一体どれだけの物を得られれば『満足感』を得ることができるのでしょうか? ある大金持ちの青年がイエス・キリストのもとを訪れて、こう尋ねたことがあります。「先生、永遠のいのちを自分のものとして得るためには、どうすれば良いのでしょうか?」 その時イエスはこう答えました。「あなたの持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施しなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。その上でわたしについてきなさい。」 これを聞いた青年はさぞかしショックを受けたことでしょう。 それでは、神様は私たちが物質的に豊かになることを好まれないのでしょうか?いや、そうではなく、それらの物が私たちの『心の王座』を神から奪い取ることを好まれないのです。イエスはこうも言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」 あなたが「神様よりも大切にしてしまっているもの」は、何ですか?

(107) “主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。”

日本からニュージーランドにいらっしゃる方々の中には「日本での生活に疲れた。もう1度自分自身を見つめ直したい」というような『自分発見』を求めてくる方が多くいらっしゃいます。どうしてそのような方々が多いのでしょう?それはきっと、日本の社会の流れのスピードがあまりにも目まぐるしく、「自分自身を見つめる間」を見つけられないのではないかと思います。 私たちが日本から離れて生活するようになって20年近くの歳月が流れました。時々一時帰国をするたびに感じるのは、やはり「日本は複雑でめまぐるしい」という印象です。こちらが考え付く以上の品物の山、放っておいて欲しいと思っても、後から後から人や物に追いかけられているようなプレッシャーがあります。 私は、本来人間はあまり多くの物を必要としていないと思います。「衣・食・住」があって、「心を分かち合える仲間(家族?)」がいる。それで十分なはずなのに、「もっと豊かに、もっと便利に」と追求した結果が、この慌ただしい社会と、それに振り回されることに疲れ切った人々なのではないでしょうか? 日本の慌ただしさを逃れてニュージーランドにやって来た方々の多くが、こちらの雄大な自然やゆったりとした生活ペースの中で『創造主なる神』、そしてその神に形造られ、また愛されている存在としての『自分自身』を見出して帰国されます。「人は『何かができるから』、また『何かを持っているから』価値がある」のではなく、「偉大な神に形造られ、愛されているからこそ、そのありのままで価値がある」 たったこれだけのことが、私たちに本当に必要な『心の糧』なのです。実は多くの人々が心の奥深くで何となくそのことに気が付いているのに、『忙しさ』や『宗教的なことに対する嫌悪感』か何かで、それを認めることを拒んでいるのではないでしょうか? 年が改まり、気分一新して新しい年のスタートを切るにあたり、「唯一まことの神に造られ、愛されている自分」を見出すことから、歩みを始めてみてはいかがでしょうか?

(106) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”

ワシの母鳥は、小鳥たちが成長してきたとき、自分たちで巣立つまでのんびり待っていたりは決してしません。もしそんなことをしていたら、いつまで経っても巣立っていかないことを知っているからです。母鳥は時が来ると彼らを巣から蹴落とします。「そんな冷たい!」と思ってしまいそうですが、それが小鳥たちに自分自身の人生を全うさせるための最も良い方法なのです。 私たちは、自分の力の限界を超えた挑戦をすべきではないかもしれませんが、いつでも「コンフォート・ゾーン(居心地の良い場所)」からは出て行くべきではないでしょうか?何故なら『コンフォート・ゾーン』に安住し続けた人で、大いなることを成し遂げた人は1人もいないからです。 正直なところ、誰も『コンフォート・ゾーン』から出て行くことを好みません。私たちは安全で落ち着いた場所が好きなのです。敢えてリスクを犯すよりは「現状維持」にとどまりたいのです。そんな私たちのことを評して、劇作家のバーナード・ショーは次のように言っています。「オレは『分別のある人々』にはもう飽き飽きした。アイツラはいつだって『しなくたっていい理由』ばかり捜してやがる!」 『信仰』はいつでも私たちに「コンフォート・ゾーンから飛び出す」ように促します。そして『疑いのドア』を押し開け、神が私たちのためにデザインしてくださった人生の航海へ出発させてくれるのです。真にエキサイティングな人生へのドアは、ノックをして「開けてくれるのを待つ」ものではなく、いつでも「押し開けて」いくものなのです。

(105) “私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。”

「家庭崩壊」という言葉が使われるようになって久しいですが、一体『最大の親不孝』とはどんなものだと思いますか?「非行に走ること」?「親より先に死んでしまうこと」?確かにこれらは大きな『親不孝』と言えるかもしれませんが、やはり何よりも親を悲しませるのは、「親を親と認めないこと」すなわち、親に向かって「アンタなんか知らねぇよ。アンタなんか親でもないでもねぇ!」と言うことではないでしょうか? 昨年全世界で話題となった『The Vow』という映画をご存知ですか?(日本ではバレンタインデーの頃に『君への誓い』というタイトルで上映されました。)これは「新婚の奥さんが事故で記憶を失ってしまい、夫のことさえ分からなくなってしまう」という、実話を基にして作られた映画です。「新婚の妻にそっけない態度を取られ続ける夫の苦悩と、それでも結婚式の時に神の前で誓った『誓い』の故に示し続ける、真実の愛」を描いた、なかなか胸を打つ作品です。 この映画はやや「他人事」に思えてしまいますが、実は私たちも「同じような態度」を神様に対して取り続けているのです。神はこの天地全宇宙を造られ、そして私たち1人1人をもお造りになられました。ところが私たちはそんなことをすっかり忘れ、あたかも自分1人の力で大人になったかのような態度で、「神様?そんなもの要らねぇよ!」と自分勝手に人生を浪費しているのです。そんな私たちに「わたしがあなたを造ったのだよ。わたしはあなたを愛しているのだ。わたしはあなたのために大いなる計画を持っている。わたしの許に来なさい!」そう私たちに知らせるために、今から約2000年前、神は人の姿をとられてこの地上に姿を現わされました。これが『クリスマス』のストーリーなのです。 話は変わりますが、今年の9月に、我が家の24歳になる長男が婚約いたしました。『婚約』といっても、「婚約指輪」を渡したわけでもなく、「結納」を交わしたわけでもありません。こちらニュージーランドの習慣では、男性が女性にプロポーズをし、それが受け入れられたら『婚約成立』ということになるのです。日本人の方々からは「それではずい分簡単すぎる!」と反論が出そうですが、実はこの男性が女性にプロポーズをする前に、必ず「女性のご両親からの承諾を得ていなければならない」という大前提があるのです。息子はプロポーズをする前夜に(彼女のご両親は遠方に住んでいるので)相手のご両親に電話であらかじめ了解を得ておいたそうです。そして一世一代のプロポーズに踏み切り、見事受け入れてもらえたわけです。 ある意味、クリスマスというのは、「神様から私たちへのプロポーズ」ということができると思います。神はご自身のひとり子であるイエス・キリストをこの世に人として遣わすことにより、私たち1人1人に対する深い愛と関心を表現なさいました。そして本来なら私たちの側からへりくだって『和解』をお願いすべきところ、神ご自身から『和解の申し出』を差し出して下さったのです。私たちはこの「神からの和解の申し出」を受け入れることもできますし、断ることもできます。あなたはどちらを選びますか?

(104) “あなたの名は何というのか?”

もうすぐクリスマス。クリスマスと言えば「プレゼント(?)」私たち日本人は誰かに何かを差し上げるとき、よく「つまらない物ですが…」と言いながら渡す習慣がありますが、謙遜な表現にしてもちょっと変だとは思いませんか? 物ならばまだいいのですが、これが『自己紹介』だとしたらどうでしょう?「あなたはどなたですか?」と尋ねられて「いえ、つまらない者ですよ…」などというのは謙遜でも何でもなく、単なる大きな誤りです。 「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか?」ということは、ある意味「現在の自分の実際の姿」以上に重要と言えるかもしれません。ビジネスマンは初対面の人に名刺を渡すのが常ですが、私たちは「名刺に書かれている自分」以上の存在です。名刺に書かれているのは単にその人の職業や地位だけであり、実際のその人は父親や母親であったり、妻や夫であったり、弟や妹またはたったひとりの息子・娘であるかもしれません。 聖書に『ヤコブ』という人が出てきます。その名前の意味は「だます者」という意味でした。しかし神は彼に新たな名前を与えました。それは『イスラエル(神の王子)』という意味です。それ以来彼は以前の名を捨てて、自らを「神の王子」と呼んだのです。 聖書の中で神は私たちにこう語りかけます。「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」と。言わば私たちも『神の王子であり、王女』なのです。 フランス革命の時に、国王であったルイ16世と王妃マリー・アントワネットがギロチン死刑になったことは有名ですが、その息子に関してはこんな逸話が残っています。革命家たちは年端もいかない王子を殺すにはしのびなく、かといって将来親の敵討ちをたくまれても困るということで、街のならず者の一味に預けたそうです。このならず者たちは彼らの習慣に従ってこの少年を盗みや暴力などの様々な悪行のためにしつけようとしましたが、そのたびにこの少年は「ボクは王の子供なのだから、そんなことはできません!」と拒んだそうです。 どうぞ次のことを忘れないでください。私たちも、この天地をお造りになられた『王の王』の子供たちなのです。誰一人「つまらない、不必要な人間」などいません。もちろん、傲慢な態度をとる必要はありませんが、「自分は高価で尊い存在である。くだらないことに身を染めるべきものではない。世界は私を必要としている!」 神様はアナタがそのような自覚を持って生きることを今日も期待しておられるのです。

(103) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。”

1つのなぞなぞを出します。「それをしても少しも得をしないどころか、損をする一方なのに、ついつい時間や力をたっぷり費やしてしまうもの、なぁんだ???」 何だか分かりますか?その答えは『思い煩い』です。 私たちは、いくら考えてもどうしようもないことを、ついつい思い煩ってしまいます。「受験に失敗したらどうしよう?」「このまま結婚できなかったらどうしよう?」「会社をクビになったらどうしよう?」などなど。どれも悩んだからといって事態が好転するものではなく、また実際に起こったからといって、命を失うような大事でもありません。では私たちはどうしてこのような『思い煩い』に捕まってしまうのでしょうか? 次の3つの理由が考えられます。 ①私たちは『現在』にしか生きられないから ・『思い煩い』はみな、「過去」または「未来」に関することです。「あんなことをしなければ良かった…」とか、「こんなことが起こったらどうしよう…」などなど。私たちにはどうしようもないことがらなので、ただ思い悩むことしかできないのです。 ②自分が『人生の主人公』だと思っているから ・人間は基本的に『自己中心的』であり、「自分の人生がどうなってしまうのか」が最重要事項になっています。ですから、たとえ家族や友人が幸運に恵まれていても、かえって自分の状況が心配になってしまうのです。 ③『出来事』に興味が集中しているから ・「人間は環境の動物」などと言われる通り、私たちは自分の内面を整えることより、外側の環境(外見・経済状態・持ち物など)を整えることにほとんどの時間と労力を費やしているので、それらを思い通りにできない時、対処する知恵がありません。 聖書は私たちに「思い煩うな!」と告げています。ということは、私たちが「思い煩わないでいること」が神のみこころなのです。言葉を変えて言うならば『思い煩い』とは、神を信じない(不信仰の)姿勢から発生する弊害です。神はこの全世界を創造され、今日もそれらすべてを支配しておられます。また彼は時間や空間に縛られてはいません。今ここで私たちと共におられると同時に、100年前や100年後にも存在することのできる方なのです。この神が「私こそアナタの人生の主役だ」とおっしゃるのです。私たちの人生は「私たちがどれほどの人間か」を顕示するためではなく、「私たちの神はどれほどのお方か」を表現するためのものなのです。そして聖書は「人はうわべを見るが、神は心を見る」と宣言します。出来事が問題なのではなく、その背後にある『人々の心』こそ重要なのです。敬虔な神のしもべとして有名なマザー・テレサは言いました。「『どれだけのことをしたか』は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」 この聖書の神をあなたの神として、このお方に全面的な信頼を置いて生きるとき、初めて人間は『思い煩い』から解放されるのです。

(102) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

超大型台風がフィリピンを襲い、多くの尊いいのちが奪われました。本当に心が痛みます。私たちが住むこのクライストチャーチでも多くのフィリピンからの移民の方々が暮らしており、家族の消息を案じています。私たちもできる限りの支援を行っています。 私たちの人生にもしばしば『台風の襲来』のような出来事があります。残念ながら「生涯に1度も試練がなかった」という人には会ったことがありません。ある意味「試練に直面する」という経験は、「生きているからこそ」と言えるのかもしれません。ですから大切なことは「いかにして試練を避けて通るか」ではなく、「どのように人生の嵐に備えるか」ということになります。 ある人々の人生、またクリスチャンとしての信仰生活は『自分の気分」に基づいているかのようです。気分の良い日は「何もかもうまくいく」ような気がしたり、「神様は私を愛しておられる」と感じたり。しかし毎日雨ばかり続いたり、何となく気分の乗らない日は、心がふさいでしまったり、「神様なんていやしない!」などと思ってしまう。 イエス・キリストはある時たとえ話を用いて次のように話されました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れません。ところが、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、ひどい倒れ方をしてしまいます。」 神が与えてくださる人生は、「毎日お天気の楽々人生」ではなく、「台風が押し寄せても倒されることのない、確固たる確信に基づく人生」です。そしてそのような人生は「ただ神様について知っている」ことから来るのではなく、「神のことばを聞いて、それに従って生きる」ことから来るのです。

(101) “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

有名な作家であり評論家であるジョージ・バーナード・ショーの遺した言葉に次のようなものがあります。「人々はしばしば自分の置かれている環境に文句を言うが、私は環境などに支配されはしない。人生の成功者たちは皆、逆境の中で奮起し、そこに新たな環境を造り出す人なのだから。」 あなたがもし農場で働くとしたら、重要なのは「どのような土地であるか」以上に、「何の種を蒔くか」に違いありません。どんなに立派な土地でも、誤った種を蒔くならば、望んだ収穫は得られないのです。ましてやあなたの人生のフィールドにどんな種を蒔くかは、あなたの志し次第です。「不安や恐れの種」、「不純な志や自己中心の種」を蒔くなら、必ずその結果を刈り取ります。しかし、「平安や喜びの種」、「愛と思いやりに満ちた優しさの種」を蒔くなら、やはりそれに見合った収穫を刈り取るのです。 祝福された人生のカギは、何か特別な場所やイベントの中にころがっているのではありません。むしろあなたの平凡な日常生活の中に隠されているのです。祈り深く聖書を読み、その日に出会う1人1人に仕える心を保ちながら生きるとき、あなたはそれらのカギを見出すことができます。ある時はそれは「落ち込んでいる人を励ますこと」かもしれないし、またある時は「一見自分には大きすぎるような課題に挑戦すること」かもしれません。お返しできないような人に敢えて施すとき、神はあなたのその手のわざを見ておられます。そしてそれは神が私たちのために用意しておられる『祝福の大倉庫』のカギを開くのです。

(100) “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”

皆さんは『愛』という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?恐らく多くの方々は「男女間の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか?または「親子の愛」「人間愛」、そしてまた「愛は地球を救う」などの標語まで思い浮かべる方もいるかもしれませんね。どちらにしてもそこに共通している概念は「何か崇高で温かいもの」ではないかと思います。 もしかするとある方々は「私はそんな立派な人間ではないから・・・」とか、「愛とか恋とか、そんな乙女チックなことばかり求めていたら食っていけない」などと言って『愛すること』を敬遠しようとしておられるかもしれません。しかし実際は『愛する』ということは、「夢を追うようなこと」でも「非日常的なもの」でもありません。もし『愛する』ということをもっと分かりやすい日常的な言葉に言い換えるとすれば、それは「相手のためにちょっとだけ損をすること」なのです。 現代の私たちの生活は、100年前に比べれば格段に『便利』になりました。ところが「便利になったのならさぞかし暮らしにゆとりができたはずでは?」と問うてみるなら、決してそうではないことは歴然です。『便利さ』は更なる能率性を追求させ、現代人の生活は忙しさに追われ、「自分のことで精一杯」の人間を生み出し続けています。ご存知でしたか?『忙しい』の『忙』の文字は「心が亡びる」ということを意味しているのです。 神は私たちを「互いに愛し合う」ようにデザインなさいました。自分のことばかりにかまけていると「心が亡びる」ようにお造りになられたのです。実際、道端で助けを求めている人にちょっとだけ手を貸すのに、5分もかかりません。けれどもそのたった5分を他の人のために用いるだけで、私たちの心は息を吹き返すのです。 私たちは今日までどれほどの「心を亡びから免れさせるチャンス」を逸して来たことでしょう。でもガッカリしなくても大丈夫。今日から始めれば良いのです。神様はいつでも「愛する機会」をくださっています。もし私たちが『目を覚まして』歩んでいるのなら・・・。そしてイエス・キリストはこう言われました。「あなたがこれらの人々にしたのは、わたしにしたのです。」

(99) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」 笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります。 1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。 2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。 面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』と『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか? 「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。

(98) “キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

我が家(渋沢ファミリー)には2つの『家訓』があります。1つは「Learning Experience」すなわち「『失敗』は悪ではなく、そこから多くを学ぶチャンスである」ということ。もう1つは「昨日の自分より今日の自分」すなわち「自分と他の人とを比べて優越感を感じたり劣等感に落ち込んだりするのは愚かである。それよりも、今日の自分が昨日の自分より何か新しいをことを学んだり、成長することを目指そう」ということです。この家訓のおかげで、我が家の子供たちは実にユニークにのびのびと育ってくれています。 このような『家訓』を思いついたのは、もちろん聖書からヒントを得てのことでもありますが、もともとは私たち夫婦の関係からです。私たち夫婦は『正反対』と言えるほど、考え方や性格が違うのです。 私がまだ学生の頃、何かにつけて几帳面で細かいことにこだわりたくなる性格を見て、私の母はよく言ったものです。「お前みたいに細かいことが気になるタイプは、よっぽど『ズボラ』な奥さんをもらわないとダメだよ。」 これを聞いて私はいつも「オレは絶対そんな嫁さんと一緒には暮らしていけない!」と言い返していました。ところが、私がゾッコン惚れ込んでしまった女性が、(もちろん結婚してから分かったことですが…)何とまさしくその『ズボラ人間』だったのです。 彼女のそのような性格に気付き始めたのは、結婚式の翌朝からでした。前の晩に使った歯磨き粉のチューブが、確かに私はすその方から丁寧に押し出していたはずなのに、何故か中央の部分がギュッと押しつぶされていたのです。その時は「まあ、気のせいか」で済ませたのですが、そのようなことが毎朝毎晩続くので、2~3日後のある日私が新妻に「ねぇ、もしかしてキミは歯磨き粉のチューブを使うとき、真ん中へんを握るの?」と尋ねると、彼女はポカンとして「たぶんそうだと思うけど、他にどんな方法があるの?」と聞き返してきました。私は「イヤ、別に。」と言ってその場をやりすごしましたが、これは1つの例であって、このような食い違いは生活のあらゆる場面で現れ始めたのです。何度かのバトルの後私が下した決断は、「彼女は間違いなく、神様が私に与えてくださった『最高の妻』だ。このような妻がいるおかげでは、自分と違ったタイプの人間を愛し受け入れること、また新たなものの見方を学ぶことができる。」というものでした。 自分と違った考えを持つ人や、ちょっとした間違いや失敗に直面すると、私たちはつい相手や自分を裁いてしまいがちです。でも、はっきり言って世界は「自分と違ったタイプの人々」で満ちており、また「失敗しない人」など1人もいません。そのようなことにいちいちイラついていてはキリがありませんよね。むしろ私たちは、神様が造られた『ユニークな人々』を受け入れ、また神が私たちに対して寛容であられるように、自分や他の人の失敗に寛容に対処できる者でありたいものです。

(98) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”

こんな質問をする人がいます。「もし神様を信じたなら、人生はすべてうまく行くのでしょうか?」 答えは残念ながら『ノー』です。ただこれだけは言えます。「神を信じても試練は減らない。しかし、もはや1人で立ち向かわなくてもよい。」 神は『問題のない人生』を約束してはいません。しかし『勝利ある人生』は約束しています。神が望んでいるのは、私たちが「幸せになること」ではなく、「神と共に生きるようになること」です。 もし神を知らない人に「あなたにとって、幸福な人生とは?」と尋ねるなら、きっと「すべてに満ち足りて、心配のないこと」などと答えるでしょう。ではそのような人生を生きている人は『神との関係』を求めるでしょうか?いいえ!恐らく「私はすべてにおいて満ち足りている。私には神など必要ない」と言うでしょう。だからこそ神は私たちにこの地上での「すべてにおける成功」を与えないのです。もしそのような人生を歩んでいる人がいるとしたら、もしかしたらその人は『悪魔の術中』にまんまとはまっているのかもしれません。 私たちが切に神を求めるのは、多くの場合「試練のただ中にいる時」です。順風満帆な人生を歩んでいても変わらず心から神を求めて生きる人がいるなら、あるいは問題の無い人生を歩ませてもらえるかもしれません。ところが私たちの多くはしばしば『人生の壁』『乗り越えなければならない山』に遭遇します。そのようなとき「神様、どうぞあなたと一緒にこの困難を乗り越えさせてください」と、私たちが神の許に近づくことを、神はいつも待っておられるのです。

(97) “いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

結婚25周年を記念して、妻と2人で「バヌアツ共和国ウリピブ島」へ行ってきました。ウリピブ島は1999~2003年に私たちが『宣教師』として家族で暮らしていた島で、電気もガスも水道もない熱帯のさんご礁に囲まれた美しい島です。 日本人としてこの島で暮らすと、いわゆる「無いもの」がたくさんあります。先にあげた「電気・ガス・水道」に加え、ショッピングセンター、自動車(自転車さえありません)、公園、頑丈な家、ごちそう、コンピューターゲーム、食堂、コンビニなどなど、挙げていたらキリがありません。 しかし、ちょっと視点を変えてみれば、ここには日本には無い多くのものが満ちています。豊富な大自然、エメラルド色の海、美味しい空気、子供たちが自由に走り回れる空き地、数々のトロピカルフルーツ(パパイヤ・マンゴー・パイナップル・ココナツ・グアバ・パッションフルーツ…)、そして「人々のあふれる愛」です。 10年前に私たちがこの島で暮らしていたとき、日本から若い人たちが10人ほどやってきて、3~4日島に滞在したことがありました。私たちの小さな家にはとても入りきれなかったので、言葉の不自由さを懸念しながらも2人1組にして島の家族の中にそれぞれホームステイさせました。さて、どうなったと思いますか?コミュニケーションに四苦八苦して、ちっとも島の生活を楽しめなかったでしょうか? 出発の朝、それぞれの家族に見送られながら船着場にやってきた彼らの目は『別れを悲しむ涙』であふれていました。それぞれの家族と抱き合い、「帰りたくな~い!」と叫ぶ1人1人。彼らは「ことばを超えた愛」を体験したのです。物が豊富で『便利さ』という点では随一の日本には失われてしまった「互いが必要」「人間こそ最も大切」「共に生きる」というような、『人間の原点』と言えるものを、彼らはこの数日間体験し続けたのです。 10年ぶりに訪れたウリピブ島は「ソーラーパネル」や「携帯電話」などが普及し始め、チョッピリ驚かされましたが、肝心の『人々の心』は変わっていませんでした。「オレたちの家族が帰ってきた!」と、島のどこへ行っても(小さな島なので、徒歩1時間で1周できます)人だかりになり、1時間に20メートルも進めませんでした。今回の2週間の滞在を通して「私たち人間に必要なのは、やりがいのある仕事や便利さなどよりも、何より『愛(共に寄り添って生きること)』なのだ」と改めて思い知らされました。

(96) “彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。”

「井の中の蛙大海を知らず」という日本の古いことわざがあります。「井戸の中に住んでいるカエルは、大海の存在も知らずに、自分の存在に得意になっている」というような否定的な意味で使われます。確かに「もっと広い世界があることも知らないで、ちっぽけな(自分だけの)世界だけを知って王様気取りしている」のは良くありませんが、広い世界を知ったために自分の小ささにガッカリし、萎縮してしまって大胆になれないのもどうかと思います。 ひと昔前に「世界に1つだけの花」という歌が流行りました。「ナンバー1になれなくてもいい…、もともと特別なオンリー1」というような歌詞だったと思います。いろいろな分野で「1番になること」を追求することは悪いことではありません。向上心を持ち、日々努力を重ね、更に高いレベルを目指す。すべての人はそうあるべきだと思います。ただこの「1番になること」または「何かができるようになること」が自分自身の価値を決めることのように錯覚してしまうのは危険です。「失敗すること」が『失敗者になること』とは違うように、「より多くのことができること」や「より多くの物を持っていること」と、「より優れた人物であること」とは全く別のことです。『持ち物』や『能力』に自分の価値を置いているなら、火事などですべてを失った時、また病気や事故で体の自由を失った時に、生きる希望まで失ってしまうことでしょう。 私たちの『自信』をいうものは、「何かが人よりも優れている」ということに根拠を置くのではなく、「自分はいったい何者なのか」ということに根差すべきです。聖書は「あなたは天地万物の創造者である神によって造られた最高傑作である」と述べています。この造り主は不動・不変であり、それによって与えられたこの価値観も永遠に揺らぐことはありません。まさにあなたは「もともと特別なオンリー1」であり、「『神のかたち』を宿した、神に愛されている者」なのです。 さあ、もう周囲を見回して自分と他の人とを比べるのは止めにして、上を見上げながら「神様に造られたユニークな作品としての自分」 に磨きをかけていきましょう!

(95) “落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れなさい。”

『三角関係』というと、つい「恋愛関係のいざこざ」を思い描きがちですが、そればかりとは限りません。2人の人がもめているところに、その解決を助けようともう1人が加わるとき、要らぬ『三角関係』を巻き起こすこともよくあります。「自分は善意で関わろうとしたのに、どうしてこんな目に会わなきゃならないの?!」そう言いたくなるのも分かりますが、たとえそれが善意であっても、正しい理解と知恵に基づいていなければ、必ずしも結果が良くなるとは限りません。今日は「もめている2人を助けるための、2つのルール」を下記に述べたいと思います。  ①「神の導きを確信しているのでない限り、口を出さない」 ・英語のことわざに「自分の名前がついているのでない限り、わざわざ拾い上げるな!」というものがあります。日本語にも「小さな親切・大きなお世話」というのがありますよね。たとえそれが善意から出ていたとしても、あなたが必要とされていない問題に首をつっこむことは正しくありません。そういう時はむしろ、「自分に与えられている分をしっかりとこなす」ことに専念しているべきです。もめている当人たちが第3者に求めることは『解決』ではなく、「自分の味方になってくれること」なのですから。  ②「もめている双方それぞれと、良い関係を保つ」 ・あなたに求められているのは『問題の解決』ではなく、それぞれの人を「祈り、支えてあげる存在」となることです。もめごとを解決する責任は、当人たちにあります。しかし、そのことで疲れ果てたり傷ついたりした時、彼らには「支え、慰めてくれる人」が必要です。大切なことは、やがてもめごとに決着がついた時、あなたが2人の友のどちらかを失うのではなく、双方どちらとの関係も更に深まるようになっていることです。

(94) “あなたがたは、地の塩です。”

最近ではいろいろな化学調味料が開発されてきましたが、大昔から用いられている最も基本的な調味料と言えば、それは何と言っても『塩』でしょう。塩には2つの基本的な役割があります。1つは食べ物が腐る(悪くなる)のを防ぐこと。もう1つは、良い「味付け」をすることです。 現代の新聞やニュースを見聞きしていると、そこには『否定的・破壊的』なものが満ちています。戦争・飢餓・殺人・盗み・暴力・家庭崩壊などなど。このような「社会の腐敗」を、一体どのようにして止めることができるのでしょうか? イエス・キリストが「あなたがたは、地の塩です」 とおっしゃったとき、まさに彼はその話しを聞いている1人1人がこの「腐りかけた」世界の中で異彩を放って生きることを期待されたのです。疲れ果てている人々に『憩い』を、そして失望しかけている人々に『希望』を与えることができる者になるようにと。 否定的な生き方を初めから望んでいる人などいません。ほとんどの人は「忙しさ」や「不安・恐れ」また「ストレス」などの故にそのような生き方に追いやられているのです。私たちはそのような人々の言動や行動を操作することはできません。しかし、それらの人々に対する自分の態度(リアクション)は変えることができます。妥協したりあきらめかけている人々に同意する必要はないのです。私たちはそれらの中にあってなお、いつも『最高のもの』を求め、それに向かって最善を尽くすことができます。何故なら、私たちを造られ、私たちを愛し、今日も生きて働いておられる私たちの主イエス・キリストが、それを望んでおられるからです。 多くの場合、人々は「目覚まし」を必要としています。まだまだ残っているはずの「新たな希望・可能性」に向けるべき目が眠りかけてしまっているのを目覚めさせてくれる人、「キミはそんな風に感じているかもしれないけど、本当はそうではない!まだまだ希望はある!まだ試していないことはたくさん残っている!エネルギーを出し惜しみしないで!」と呼び覚ましてくれる人を。 あなたは眠ったまま干からびていく『塩』がいいですか?それとも腐りを止め、美味しく味付けする『塩』としてイエスと共に働きたいですか?

(93) “わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。”

「『人生成功のカギ』をあなたは持っていますか?」 こう尋ねられると恐らくある方々は「そんなものがあるのならぜひ手に入れたい!」と思うでしょうし、別の方々は「そんなものあるわけない。あれば誰も苦労しない。」とおっしゃるでしょう。しかし、私はそれを持っています。そして今日はそれを皆さんにお分かちします。 人生成功のカギ その1.「本当の成功とは何か」を理解する ・『成功した人生』とは、どのようなものでしょう?「周囲の人々から認められたり羨ましがられたりすること」でしょうか?それは単に『人気のある人生』なだけです。『真に成功した人生』とは、「自分の日々の歩みに対して心からの喜びと充実感を味わっている」ということです。そしてより高次元の目標を抱いて生きる人は、より高次元の喜びを体験することができます。 人生成功のカギ その2.「目標設定」のために、まず神に祈り求める ・「生きるための目標」を設定することは悪いことではありません。実際「目標なしの人生」はあたかも「帆のないヨット」のようで、環境に流されるだけです。しかし「目標となるものならどんなものでも良い」というわけでもありません。私たちを造られた神は、私たち1人1人のためにユニークでエキサイティングな計画をお持ちです。それは私たちが自分で思いつくどんな『グッドアイディア』にも優っています。 人生成功のカギ その3.「昨日の自分よりも、今日の自分」 ・種は1日で花を咲かせたり実を実らせたりはしません。しかしちゃんと面倒を看るなら確実に日々成長・発展していきます。神様はあなたに初めから花や実を与えることはしません。ただあなただけに育てられる『種』を与えます。あなたはそれが何であるかを見極め、そこから目をそらさず、日々心を込めて育てて行かなければなりません。他の人の成長を共に喜ぶことは良いことですが、自分の成長と比較して羨んだり落ち込んだりすることは愚かなことです。比較するなら、他の人ではなく、昨日の自分にしてください。 私は神様からこれらのカギを教えていただいてから、毎晩寝る前にこう思えるようになりました。「神様、もし私のたましいが今夜取り去られ、2度と目覚めることがなかったとしても満足です。今日は人生で最高の1日でしたから。でももしまた明日の朝目覚めるとしたら、心から感謝します。明日は私の人生の中で最高の1日となりますから。」

(92) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。”

英語では『神』を表す単語が2つあります。1つは「God」、そしてもう1つは「god(s)」です。最初のアルファベットが大文字か小文字かだけの違いですが、実際には決定的な違いがあります。日本語で言うなら、前者は『人間を造った神』であり、後者は『人間が造り(考え)出した神』と言い分けることができるでしょう。前者は世界で唯一であり、後者はいくらでも存在します。 人間は自分の好みや必要に応じて、様々な神を考え出します。「困ったときには助けてくれるけど、普段は決して口出ししない神」「祈りをかなえてくれたり、約束を守ってはくれるけど、間違いを諌めたり、訓戒したりしない神」「どんなことでもできるけど、あくまでこちらの許可の範囲内で、こちらの都合に合わせてくれる神」などなど。 聖書が私たちに啓示している神(God)は、これらの人間的なイメージにはとても納まりきりません。真の神は完全に聖く、全能であり、かつ私たちの心の奥の奥までご存知の『恐るべきお方』です。聖書は、このことを恐れて生きることこそまことの知恵である、と教えます。 『恐れ』には私たちに必要なものと不必要なものとがあります。事故を恐れて安全運転をしたり、病気を恐れて体力づくりをしたりすることは必要です。しかし、失敗を恐れて新しいことにチャレンジすることをあきらめたり、人を恐れて自分の意見をはっきりと言えないことは、私たちの人生をダメにします。「不健康な恐れ」は、私たちを不安にさせ、生きる喜びを奪い、萎縮させます。しかし、それとは反対に「真の神を恐れて生きること」は、私たちをこれらの『不健康な恐れ』から解放し、生きる意義や喜びを満喫させ、人間に本来与えられた「神の栄光を現す人生」へと導いてくれます。 私たちは『自分で造り出した神』に希望を置いている(言い換えるなら、自分自身を神よりも上に置いている)間は、この『まことのいのち』を見出すことはできません。人生のカギを握るのは、『god』ではなく『God』なのです。

(91) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”

「聖書は世界のベストセラー」と言われますが、なぜ聖書はそこまで人々に読まれているのでしょうか?最近映画の主人公にもなった、歴史上最も偉大なアメリカ大統領とも言われる『アブラハム・リンカーン』は、聖書に関して次のような言葉を遺しています。「聖書は神が人類に与えた最も偉大な贈り物である。私たち人間に必要なもののすべては聖書の中に書かれてある」 と。では、なぜ聖書が「神から与えられたもの」ということができるのでしょう? 第1番目には、「聖書の中に書かれた『預言』がことごとく成就している」という事実です。特にイエス・キリストに関する預言について言うなら、彼の誕生、生涯、そしてその十字架における死と復活に関しての数々の預言が成就しました。ある数学者の話によると、「聖書にある預言のうちの8つが1人の人物によって成し遂げられる確立は、日本の国土全体に1円玉をくまなく並べて、その中の1枚にだけしるしをつけ、1人の盲人が一発でそのしるしのついた1円玉を拾い上げるのと同じくらいの確立(すなわち、ほとんど不可能)である」ということです。ところが、イエス・キリストはたった1日で29の預言を成就しました。これは背後に「神の御手があった」としか言いようがありません。 第2番目は、その教えの崇高さです。「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」などの道徳規準の高いその教えは、現代多くの国々の(キリスト教国に限らず)憲法の模範として用いられています。あたかも、人間をお造りになり、その幸福を願っている大いなる愛に満ちた神によってもたらされたかのようです。 第3番目には、「聖書は歴史を通して多くの人々の人生に影響をもたらした」ということです。聖書は数えきれない人々に、生きる希望・人生の目的・逆境を乗り越える力・生活の知恵、そしてしばしば歴史を造り変えるような大志を抱かせ、それを実現してきました。 通常、電化製品その他の品物を購入すると、必ず『取扱説明書』なるものがついてきます。ベーシックな使い道ならあまり説明書を読まなくても何とかなるのですが、少々複雑な使用目的や、特にトラブルに陥った時には必ずこの『取扱説明書』が必要になります。実は神様が私たち人間をお造りになり、この世に送り出された時にも、私たちのために『取扱説明書』を用意されました。それがこの『聖書』なのです。 さあ皆さん、聖書を読むことなしに人生の荒波を越えていくのがどんなに危険か、分かってもらえたでしょうか?

(90) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

引越しをしたことはありますか?結構大変な作業ですが、良い面もあります。それは「長いこと溜め込んでいた不用品を処理することができる」ということです。私が住むクライストチャーチでは、2年半前にあった大震災後、壊れかけた家の修復工事が進んでおり、最近も友人の家で工事が始まるというので、引越しを手伝ってきました。そうしたら、出てくるわ出てくるわ。数年前に行ったキャンプで残った食べ物や、消費期限のとっくに切れたコンタクト洗浄液。どこに行ってしまっていたか不明だった、ずっと以前に買いだめした缶詰類などなど。捨てたり、人にあげたりして、持ち物が半分くらい(ちょっと大袈裟か!)減ったようです。たまに引越しするのもいいかも。 「溜め込んだ不用品」は家の中だけではありません。私たちの心や思いの中にも、私たちの日々の向上にブレーキをかける『要らぬ重荷』がたくさん溜まっていることがあります。「誰にも分かってもらえない、という不安」「すべての人を喜ばせようとする徒労」「やってみる前にあきらめてしまう気持ち」「人との比較に疲れ果てている心」「皆から好かれていたいという欲求」。どれも何となく捨てがたい気がして、ついつい心のバッグに溜め込んで、いつの間にか人生に疲れ果ててしまうのです。 あるトラックの運転手が、重そうなリュックを背負った人が歩いているのを見かけたので、声をかけて後部座席に乗せてあげました。運転中にふと後ろを振り返ると、せっかくトラックに乗せてあげたのに、その人は車内でも相変わらずリュックを背負い続けていたそうです。さっさと降ろせばいいのに! イエス・キリストは、私たちの心の重荷を代わりに負ってくださるためにこの世に来られました。彼はありのままの私たちを愛し、受け入れ、かけがえのない尊い存在としてご覧になってくださいます。「どんな物を持っているか」「どれだけのことを成し遂げたか」は、彼にとっては問題ではないのです。ただ『神の視点から見た自分』だけが重要なのです。 あなたもこのイエスが運転するトラックに、私と一緒に乗りませんか?そして重荷を降ろして、イエスと共に歩む人生の醍醐味を満喫しましょう!

(89) “わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。”

いつの時代にも、様々な占いがはやります。「星占い」「手相占い」「タロットカード」「水晶玉」などなど。何故このような『占い』がはやるのでしょう?それは「将来のことが分からないのが不安だから」ということではないでしょうか? 私たち人間は1秒先のことさえ分かりません。将来のための『計画』は立てますが、それが必ず実現するという保証はどこにもありません。それ故私たちは何とかして「将来の自分」を垣間見ようと占いに頼るのでしょうが、占いは将来を予測してはくれても、その「来るべき将来」のために今どう生きるべきか、を教えてくれはしません。 聖書は「将来の私」を教えてはいませんが、聖書が教える『神』は、私たちがもし彼に信頼するなら、私たちと「共に歩み」、私たちを「歩むべき道へと導く」と約束しています。言わば、聖書の神は、私たちの人生の『専属コーチ』になってくださるというのです。 ある人は「そんな、自分の人生のためにあれこれと指図されたくない。私の人生のことは私が自分で決める」とおっしゃるかもしれません。でも、そういう方でも「本を読んで学んだり」とか、「先輩にアドバイスをもらったり」とかはすることでしょう。神は何かをあなたに『無理じい』したりはしません。あくまであなたの『自由意志』を尊重します。彼はあなたの人生に祝福をもたらすための知恵は教えますが、それを選び取るかどうかの決断を下すのはあなた自身です。神はあなたを死とさばきから救い出すための『唯一の道であるイエス・キリスト』をお与えになりましたが、驚くべきことに、このイエスをあなたのための救いとして受け入れるかどうかの決断さえも、あなたにお委ねになりました。これでもあなたは「指図されたくないから、神なんて信じない」とおっしゃるでしょうか? 「デタラメな人生を送り、一生を無駄にしたい」などと心から願っている人など誰もいません。皆「有意義で豊かな人生を送りたい」と願っているはずです。そしてそれを与えるために、神はいつでも私たちの前に『スタンバイ』してくださっているのです。この神と関係を結び、そのアドバイスや導きを受けながら実り多き人生を送るかどうかは、今日のあなたの『決断』によっているのです。

(88) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”

キリスト教の教えと言えば、『愛』とか『罪の赦し』などということばが思い浮かぶと思いますが、一体この2つはどのような関係があるのか、考えたことがあるでしょうか? 「愛の反対語」は、「憎しみ」と考える人が多いようですが、実際は『愛』と対極にあるものは「無関心」や「自己中心」といったものです。ある人は「愛なしに与えることはできるが、与えることなしに愛することはできない」と言いました。愛とは、相手のために自分の時間や労力、財産、そして時にはいのちまでも与えさせるものです。 それでは『罪』とはなんでしょうか?『殺人』『盗み』『強姦』などの刑事上の罪もあれば、『偽り』『欺き』『裏切り』などの道徳上の罪もありますよね。面白いことに、聖書はこれらのことに加えて次のような「罪の定義」をしています。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」 電車やバスの中でお年寄りや妊婦さんに席をゆずってあげないこと、あるいは、道端で苦しそうにうずくまっている人に手を貸してあげないことこそ『罪』だと言うのです。これらは相手に対する『憎しみ』から出ているのではなく、私たちの中にある『自己中心性』や『無関心な態度』から出ているのです。 聖書は私たちに「罪から離れるように」と強く勧めています。そしてそれは「愛に生きること」によってこそ可能になるのです。『愛』とは、何か感傷的なものではなく、また男と女がイチャイチャすることでもありません。自分が持っているものを、それを必要としている人に与えることです。そしてそれを実践する力は「愛である神」から注がれるのです。このお方と心のベルトを掛け合って生きるとき、私たちはもはや周囲の人々に対して無関心ではいられません。そしてこの神ご自身が、罪の力に縛られていた私たちを黙って見ていることができずに、人(イエス・キリスト)の姿を取ってこの世に来られたのです。  

(87) “むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。”

現代ほど子どもを育てるのに知恵を必要とする時代はかつて無かったのではないでしょうか?暴力や破廉恥に満ちた漫画やゲーム。インターネットの蔓延。いじめや麻薬。そして多くの家庭は共稼ぎで、子供たちはお金だけ与えられて放置されています。「私は自分の子どもを愛しています」と言うかもしれません。しかし正しい『しつけ』抜きの愛は、単なる『甘やかし』に過ぎません。 私たちは単に「自分の子ども」を育てているのではなく、『次世代』を形造っているのです。ですから、「責任感のある、困難に負けない子供たちを育てること」は、神から私たちに委ねられている大きな責任だと言うことができます。そのために正しいルールを教え、それをしっかりと守って生きるようにしつけることはどうしても必要です。『ルール』というとどうしても「拘束される」というイメージがありますが、適度な理にかなったルールは、かえって子どもを安心させ、「自分は大切にされている」と感じさせるものです。 下記に「子どもを正しくしつけるため」のいくつかのガイドラインを述べておきます。 ①  「どうしても守らなければならない、必要最小限の『ルール』を作って、よく子どもに理解させる」 ・親として自分に都合が良いルールを作るのではなく、愛情を込めて「子どもを危険から守り、責任感のある大人となることを助ける、実行可能で具体的なルール」(多くても5つくらい)を作りましょう。それらを子どもに分かりやすく説明してあげてください。子どもがそのルールを破った時に、自分が何故叱られているのか分からないのでは、かえって子どもは混乱し、イライラするようになります。分かりやすい言葉で紙に書いて壁に貼っておくのも良いかもしれませんね。そして、叱る時には必ず一貫性を持たせるようにしてください。ルールを破ってもある時は叱られ、またある時は叱られなかったというのでは、ルールを作った意味がなくなりますから。 ②  「それらのルールを、子どもを『さばく』ためではなく、『成長を励ます』ために用いる」 ・複数のお子さんをお持ちの方によく見られることですが、決して兄弟同士、また近所の子供たちと比べた評価をしてはいけません。「アナタはどうしてOOちゃんのようにできないの!」 それは無理な話です。神様は1人1人をユニークに造られたのですから。また『レッテル貼り』をしないことです。「ホントにお前はのろまなんだから・・・」などのような言葉は、子供たちの心に「私はのろまだから、何をやってもダメなんだ」という呪いをかけます。子供たちの誤った行動を叱ることはあっても、人格を決め付けるような表現は避けましょう。 最後に、『No』ということを恐れないで下さい。子どもがいくら駄々をこねても、あるいは脅してきても「ダメなものはダメ」なのです。子どもも賢いですから、「だってお母さんだって・・・したじゃん!」などと言って、何とか自分の思い通りに親を動かそうとすることがあります。そんな時はしっかりと「親としての権威」に立ってください。但し、親だって間違いを犯すことはもちろんあります。その時は自分の過ちを素直に認めるように心がけましょう。「子どもは親の言うことは聞かないが、することは真似する」というのは本当です。親が自分の非を素直に認める態度を一貫していれば(もちろん、間違ってばかりでは困りますが・・・)、子どもも謙虚に育ちます。 「自分自身が神を畏れ敬いつつ正しい生き方を心がけ、子供たちをも神を畏れ人々を愛する子どもに育てる」、これが『次世代を育てる責任』を与えられた私たちの生き方なのではないでしょうか?

(86) “無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨ててしまいなさい。”

毒蛇にかまれた男が、慌てて病院に駆け込みました。診察を終えてから男は医者に尋ねました。「命に関わるようなことはあるのでしょうか?」 医者は答えました。「咬まれた傷自体は大したことはありませんが、毒が体に残っていると、その危険はあります。」 私たちの人間関係にも同じようなことが言えます。誰かから嫌なことを言われたり、意地悪をされたりすることは心が痛みますが、その『キズ』自体は致命的ではありません。むしろそれをどう解釈するかが、私たちの人生や人間関係に大きな影響を与えます。私たちの人生に起こる出来事の中には、私たちには選ぶことのできないものもあります。しかし、私たちの人生を壊したり蝕んだりするのは、『出来事そのもの』ではなく、「その出来事をきっかけに私たちの心の中に起こった反応を、私たちがどう処理するか」にかかっています。心に生じた苦々しさを何度も何度も思い返していくうちに、やがてそれが相手への憎しみ(毒)となり、あなたの心を支配し、神様があなたのために備えてくださっている祝福を奪っていくのです。 しかし神様は、私たちがそのような悲劇から逃れるための道を用意してくださいました。それは『赦し』の道です。聖書は言います。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 神は、罪なきご自分のひとり子イエスを、私たちの罪の身代わりに十字架におつけになりました。私たちの『罪』とは、「いつでも自分が1番良い目をみたい、というワガママで自己中心的な心の態度」のことです。神はその罪の『責め』を私たちに負わせる代わりに、イエス・キリストに負わせたのです。それは私たちがもはや「罪の責め」を誰に負わせることもしないようになるためなのです。 憎しみや恨みからは何も良いものは生まれません。私たちがこれらのものから解放されるためには、それらの毒を吸い出してもらうことです。イエス・キリストを通して示された神の『愛と赦し』は、私たちの心に巣食おうとする毒を吸い出す力があるのです。あなたはもうこの『愛と赦し』を受け取りましたか?

(85) “そこでピラトは、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った「この人の血について、私には責任がない。」”

皆さん知っていましたか、天国には悪い人ばかりいて、地獄には善い人ばかりがいるんだそうですよ。だって天国では皆が互いに 「ボクが悪かったんですよ。」 「いえいえ、私の方こそ悪かったんです!」 と言い合っていて、逆に地獄では皆が 「オレは悪くないぜ。悪いのはアイツだよ。」 「何言ってるのよ。私はちっとも悪くなんかないわ。そもそもアナタのせいじゃないの!」 と互いに自己弁護し、罪を人になすりつけているんですから… 上記はもちろん1つの寓話ですが、このように「失敗を誰かのせいにばかりしている人の周りには、決して幸福は生まれない」ということは言えるかもしれません。 私たちは現代、今までにない「責任をなすりつける」という習慣にまみれた時代に生きていると言えるかもしれません。人々は様々な理由を付けて「責任を追及されることを避けるための言い逃れ」をすることに夢中です。「自分がこうなったのは、アイツのせいだ。あの出来事のせいだ。」と。そして問題の発祥は決して自分ではないのです。 他の人に責任をなすりつけることは、一時的にはあなたの気持ちを楽にするかもしれませんが、それはあなたを中心とした人間関係を徐々に蝕んでいくのです。たとえ誰にも気づかれなかったとしても、世界に少なくとも2人は真実を知る者がいます。それは神様とあなた自身です。自分の責任を無視しようとし続ける限り、神のまなざしはあなたの『自責の念』を増長させることにしかなりません。しかし、もしあなたが神の前に自分の落ち度を認め、人々に対する責任を果たそうと努めるなら、その同じ神のまなざしが「愛のまなざし」と感じ取れるようになるのです。 もし非が他の人にあるのなら、その責任はその人自身が取らなければなりません。誰であっても「自分の非を認め、神を敬いつつ自分の責任を果たしていく」ところに、真の解決、そして解放があるのです。

(84) “神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。”

「後悔先に立たず」ということわざがありますが、実際には『後悔』には2種類あって、そのうちの1つは私たちに『死』をもたらし、もう1つは逆に『いのち』をもたらします。 「死をもたらす後悔」というのは、次のようなものです。「ああ、こんな不況になると分かっていたら、新しい家なんて買うんじゃなかった。せめてもう少し安い家を買っておけば…。それとも、貸家住まいにしておけば…。前の家で我慢していれば良かったのに…。」 このような「もしOOしておけば…」的な後悔は、私たちを単に落ち込みと失望へと追いやるだけでなく、新たな挑戦へ踏み出すことを押しとどめる『恐れ』となって私たちの人生に大きく立ちはだかるようになります。 では、「いのちをもたらす後悔」とはどのようなものでしょう?それは「この天と地をお造りになった私たちの神は、私たちの失敗よりも大きく、その失敗から私たちの人生を取り返させてくださるほど恵み深いお方である」と信じる信仰から生まれます。事実、私たちの神は「時空を超えて存在しておられるお方」であり、私たちが失敗してしまう前から、私たちのために『バックアッププラン』を備えて下さっているのです。ですから、もし私たちが自分の過去の失敗にいつまでもクヨクヨして下ばかり向いているのではなく、その失敗を取り返させてくださる『恵みに満ちた神』を見上げるなら、神はご自分の力と愛とを私たちに知らせようと、私たちの人生に働きかけて下さるのです。 「自己憐憫しながらの後ろ向きの人生」と「神に信頼して失敗をものともしない人生」、あなたはどちらを選びますか?

(83) “悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。”

長い髪が似合う女性が、いよいよ出産が近づいた時、ずっとお気に入りだったロングヘアを、泣く泣く思い切ってバッサリと切り落とした帰り道、友人にバッタリ出くわしました。久しぶりに会ったその友人は、彼女の新しい髪形に驚いて思わずこう言いました。「えー、どうして切っちゃったの!全然似合わないわよ。あなたも知ってると思うけど、私は絶対ウソは言わないんだから!」 その友人に別れを告げて、彼女はトボトボと歩きながらつぶやきました。「今日だけでも、ウソでいいから『その髪型も似合うんじゃない?』って言ってくれれば良かったのに・・・」 私たちの人生は様々な『選択』の連続ですが、そのうちの1つは、「今感じていることを、相手に伝えるべきだろうか?それとも口を閉ざしているべきだろうか?」ではないでしょうか? もちろん正直であることは大切ですが、日本の古いことわざにもあるように、「口は災いの元」でもあるのです。もしあなたがいつでもどこでも自分の感じていることを正直そのままに口にしていたら、あなたの周りは『心傷ついた人たちだらけ』になってしまうことでしょう。実際、あなたがそう感じているからと言って、必ずしもそれが「真実で、正しい」とは限らないのです。 何かを相手に伝えようと思った時は、その言葉を発する前にこう自問自答すると良いでしょう。「このことは、この人にとって、また私と彼の関係にとって、本当に有益だろうか?それとも、かえって害をもたらすだろうか?」 「仮に正しいことだとしても、今がこれを伝える時だろうか?また自分がこれを伝えるにふさわしい存在だろうか?」 「語るべき正しいことを知っていること」は、「口を閉ざすべきタイミングを知っていること」ほどは大切ではないのです。

(82) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。”

皆さんの中で、床に置いてある30センチ幅で長さ5メートルの板の上を、端から端まで落ちないで歩き通すことができる人はいますか?恐らくほとんどの方が問題なく歩くことができると思います。では、その板を今度は隣り合った10階建ての2つのビルの屋上の間に渡したとしたら、渡ることができますか?きっと皆さん「お断りします」とおっしゃるでしょうね。どうしてでしょう?能力的には問題なく歩き渡れるはずです。なのに誰も渡ろうとはしない。それは『恐れ』が原因です。 このように、私たちは『恐れ』の故に、本来の能力を発揮できなくなることが多々あります。勉強が得意で、テストではいつも百点をとっているのに、授業中の質問には全く答えられない。「皆に見られている」と思うだけで、緊張して答えられなくなってしまうからです。 聖書は、「天地の創造者であり、私たちをこよなく愛しておられる神を知ることを通して、このような『恐れ』を克服できる」と教えています。何故なら聖書が語る神は、「良い方であり、すべてに勝って力ある方であり、そしてそのひとり子を身代わりに死なせるほどに私たちを愛しておられる方」だからです。 不思議なことに、私たちはこの『恐れ』によって「望ましくない出来事」を誘引してしまうことがあります。驚いたことに、ウサギや鹿などの弱小動物は、ライオンやトラが襲ってきたとき、生まれたばかりの赤ん坊を置き去りにして逃げるそうです。これは赤ん坊を見捨てるのではなく、かえって救うためです。何故なら猛獣たちは弱小動物たちの『恐れ』の波長をかぎつけて追いかけてくるからです。生まれたばかりの赤ん坊は『恐れ』を知らないので、襲われる危険性が少ないのです。 私たちはこの『恐れ』の波長を「恵みと力に満ちた『全能の神』に対する信頼」に置き換えることができます。私たちが『恐れ』を抱えている心の中のスペースは、本来はこの「創造者なる神」に対する信頼を据えるスペースなのです。このスペースを『空席』のままにしておくと、悪魔がやってきて、「シメシメ、こいつの『神様用』のスペースは空席のままだぞ」と言って、代わりに『恐れ』を放り込んでいくのです。 幼い子どもは暗い夜道を歩くことを恐れます。でもお父さんが一緒ならこわがることはありません。「お父さんはどんな敵よりも強くて、必ず自分を守ってくれる」と固く信じているからです。私たちの『父なる神』も、私たちがこのように彼に深く信頼し、『恐れ』から解放されて生きることを心から望んでおられるのです。

(81) “あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。”

ここクライストチャーチでは、2年半前の大震災以来、そこらじゅうで『道路工事』が絶えません。ところで『工事中』というと、日本の工事現場でしばしば見かける、黄色いヘルメットをかぶったおじさんがペコリとおじぎをしている「ただ今工事中。各方面にご迷惑をおかけしています」という看板を思い出します。 私たちがイエス・キリストを信じて「クリスチャン」として歩み始めると、神の霊が心に働きかけ、私たちは少しずつキリストのごとくに変えられて行きます。いわば『修復工事』が始まるわけです。上記のように、工事中は各方面にご迷惑をおかけして当然です。しかし生真面目な人は時々自力で何とかして工事を終了し、早々と看板を取り払い「完成したふり」をしてしまうことがあります。 あるクリスチャンの夫婦に、待望の始めての赤ん坊が与えられました。結婚前にキャリアウーマンだった奥さんは、何とか『子育て業』をテキパキとこなそうと努力し、完璧なスケジュール表を作りました。「いつも決められた時間に寝かせ、決められた時間に買い物へ出かけ、決められた時間にミルクをやり、昼寝をさせ、そしてご主人の帰宅までに素敵な夕食を準備しておく。」 この見事な計画は、完璧なまでにこなされていくかに見えました。彼女がストレスいっぱいになって爆発するまでは…。やがてその日はやってきました。ある日ご主人が帰宅すると、家の中は散らかり放題。髪の毛を振り乱し、シャワーも浴びることなく、買い物にも行けずに、泣きじゃくる赤ん坊を抱きながら、奥さんは叫びました。「もう、夕食なんか作らないわ!ジャンクフードでも何でも食べてきて頂戴!」 これを見たご主人は、ひざまずいて神をほめたたえ、愛しい妻を優しく抱きしめながら言いました。「やっと『本来のキミ』を取り戻してくれたんだね!」 向上心を持つことは素晴らしいことです。ただ、それが高じて神様の恵みを見失い、「自分の力で成し遂げてやる!」とひとり走りすると、多くの場合燃え尽きてしまうものです。私たちは自分の力で完成するようには造られていません。私たちの造り主なる神の恵みの御手に工事をゆだね、「各方面にご迷惑」をかけ合いながら、1歩1歩成長していけば良いのです。

(80) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”

英語に『インテグリティ』という語があります。日本語なら「誠実」とか「高潔」などと訳せるでしょうか?分かりやすく言うなら「まあこれくらいならごまかしてしまってもいいかな。」などと思わない心です。つまり「10円を盗むこと」も「1億円を盗むこと」もどちらも「『盗んだこと』に違いはない」という、大変高い道徳規準です。 オックスフォード辞典によると、このインテグリティはすなわち『正直さ』のことである、と説明されています。歴代のアメリカ大統領の中でも特に尊敬を集めているリンカーン大統領は、20代の頃ある雑貨店で働いていました。ある晩店じまいをしようとしてお金の計算をしていたところ、どうしても6セント余ります。その日店に来たお客さんの顔を1人1人思い浮かべながら、受け渡しした金額を確かめてみると、あるおばあさんにお釣りを渡し足りなかったことが思い出されました。するとリンカーンはその晩暗くて遠い道のりを、わざわざそのおばあさんのところまで、6セントを返しに行ったそうです。これが『インテグリティ』です。 恐らく誰もがこのように誠実に生きることを願うことでしょう。では、何故そのような人をなかなか見つけられないのでしょうか?1つの理由は、『インテグリティ』は、ひとたび軽視して横道に外れてしまうと、もう1度もとの『インテグリティ』に戻るのが至難のわざだからです。ですから『インテグリティ』を保つためには、いつも自分の心を見張っていなければなりません。どんな人も、その人生の真価は、その人の人格によって最も明らかにされるのです。 では、このような『インテグリティ』を育てるために、具体的にどんなことができるでしょうか?実はカギは本当に単純な次の2つのことです。 ①約束を守る: あなたが誰かに約束をする時、あなたはその人に『希望』をもたらします。そしてあなたが実際にその約束を守るなら、あなたはその人の内に「あなたに対する信頼」を建て上げるのです。 ②自分の非を認める: どんな人にも約束を守れないことはあります。そんな時は素直に自分の非を認め、信頼を裏切ってしまった相手に謝罪することです。これは辛い経験ですが、これを軽んじると『インテグリティ』への道は更に遠のいてしまいます。  リンカーンは貧しい農家の出身で、小学校すらまともに通えなかった人物でしたが、その「心の態度」の故に神の祝福を受け、社会のために大いに用いられました。神様はあなたの『インテグリティ』の故に、世界を変えることがおできになるのです。

(79) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」なぁんていう川柳を聞いたことがありますか?なかなか日本人の心理をついてますよね。『和』を重視するあまり、たとえそれが「悪いこと」だと分かっていても、つい周りに流されてしまう。でも実際は、「皆がやっているとしても、いけないことは『いけない』」わけだし、「誰もしていないとしても、正しいことは『正しい』」のです。何故そんな分かりきっていることを、私たちは実践できないことがあるのでしょう? 「ピア・プレッシャー」ということばがあります。この言葉は「人の目を恐れて、本来自分がなすべきことと違ったことをしてしまう様子」を表すときに使います。私たちが「人の目を恐れる」のは、単に『臆病』だからではなく、むしろ「それらの人々を喜ばせたいから」です。例えば、友だちを喜ばせたい人は、自分がしたくないことを頼まれたとき『No』と言えません。職場の上司を喜ばせたい人は、頼まれなくても、敢えて残業をして『勤勉さ』をアピールします。夫を喜ばせたい妻は、自分を押し殺して『従順さ』を装い、作り笑顔で耐えます。子供を喜ばせたい親は、子供に嫌われたり反抗されたりすることを恐れて、厳しくしつけることを軽んじます。しかし、これらの「誤った動機によるサービス」は短期間しか続かず、結果的として「担いきれない不満」を積み重ねることとなり、相手を喜ばせるどころか、取り返しのつかない『破局』を生み出しかねません。では、一体何が間違っているのでしょう?それは「喜ばせる対象」を間違えているのです。 ある信仰者は次のように祈りました。「神よ。私の口の言葉と、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」 彼は自分が「人々に喜ばれること」よりも、まず「神に喜ばれること」を切に求めたのです。聖書が教える『神』は「正義と平和の神」です。私たちがこの方の前に「正しいことを正しい」とし、「誤っていることは誤り」とはっきり認めて、人の目を恐れず、その信じる道を大胆に歩むなら、神は私たちと人々との関係にも『真の平和』をもたらしてくださるのです。

(78) “神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。”

幼い少年がお母さんに言いました。「ねぇねぇお母さん、ボク今日幼稚園で『神様の絵』を描いたんだよ。」 するとお母さんは答えました。「あらスゴイわねぇ。だけど、誰も神様のことを見たことはないんだから、神様がどんな方か分からないんじゃないかしら?」 子供はしばらく考えてからこう言いました。「じゃあ、ボクの描いた絵を見ればいいんじゃない?」 確かに『神』という存在は肉眼では見ることができません。しかし聖書は「神は私たち人間を『神のかたち』として造られた」と言います。すなわち「人間の中に『神のかたち』とも言える性質が備わっているのだ」というのです。では、一体私たちのどこが神と似ているのでしょう?目鼻立ちでしょうか?それとも体格?きっとそういう意味ではないでしょうね。しかし次の2つの点で、私たちは神の性質を受け継いでいるのではないでしょうか? ①  夢を持つ力 ・私たち人間を、他の動物たちと決定的に区別する特性は「夢を持ち、それを追い求めて生きる性質」です。この力が人間を宇宙旅行へと導き、インターネットを可能にし、また神を見出し礼拝する者としているのです。 ②  自由意志によって行動する力 ・単に本能に任せて生きるのではなく、「どちらが正しいか」「どちらがより優れているか」を考慮しながら、日々選択を重ねて生きるのは、人間だけです。能力的・経済的限界があるにしても、私たちには皆『自由に決定するための意志』が与えられています。 私たち人間は上記の2つの性質を用いて、多くの優れたものを築いてきました。しかしそれらすべてが私たちの生活に「益をもたらしているかどうか」は疑問です。神が私たちにこれらの性質を与えてくださったのは、決してそれらを「自分の欲望を満足させるのに用いるため」ではなく、「神の栄光ある豊かさを地上に反映させるため」に違いありません。すなわち、神は私たちがこれらの崇高な性質を、神のみこころに則した方法で用いることを望んでおられるのです。神は私たちが人生を歩む上で、様々なチャンスや出会いを与えてくださいます。その度ごとに「しめしめ。これを機会にガッポリ儲けてやろう!」と言うのではなく、「神は私に、この機会を用いてどのようにご自身の豊かさを表現して欲しいと思っておられるのだろう?」と問いながら生きる、これが『神のかたちとして造られた者』にふさわしい生き方ではないでしょうか?

(77) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記の聖書の言葉は、『黄金律』とも呼ばれる、イエス・キリストが残された教えの中でも最も有名なものの1つです。「言うのは簡単そうだけど、実際にこのように生きるのはとても難しい!」と感じてしまいそうですが、何も大それたことをする必要はありません。「自分にしてもらいたいことを、他の人にもしてあげるチャンス」は、日常生活の中でいくらでもあるものです。 私が働いている教会は、街の大通り沿いにあり、隣りには大きなスーパーマーケットもあるので、1日にたくさんの人々とすれ違います。ちょっと観察してみると、それぞれ「忙しそうな顔」「思案げな顔」「幸せそうな顔」「落ち込んでいる顔」など表情は様々ですが、ある時ふと、「幸せそうな顔の人」を見かけると自分も何だか幸せな気分になり、「落ち込んでいる顔の人」を見かけると暗いことを考えてしまう傾向があることに気付いたのです。そして「では自分はいつもどんな顔をして歩いているのだろう?」と思わされました。 教会で歌われている賛美歌の1つに『スマイル』というタイトルの賛美歌があり、その歌詞は次のようなものです。「『スマイル』、それは誰もが持っている宝物。『スマイル』、それは買うことも借りることもできない。『スマイル』、それがなくても生きていけるほどの、強い人も豊かな人もこの世にはいない。神様がくれた素晴らしい贈り物。幸せを運び、減ることがない。」 そう、『笑顔』は人に微笑みかけても少しも減ることがなく、かえって相手の心に微笑みをもたらすことができます。「そうだ!私はこれから外を歩く時、1人1人に微笑みかけながら歩こう!」 そう決めました。すると、外を歩くのが楽しくなりました。実際、微笑みかけながら歩くと、多くの方々は微笑み返して下さるのです。 ところが時には、微笑みかけるとかえって迷惑そうな表情をする人もいます。その顔はいかにも「アンタは幸せそうでいいねぇ。こっちは踏んだりけったりで、アンタのその笑顔を見ると、逆に落ち込んでくるよ」とでも言っているかのようです。そんな時は「あまりむやみに微笑みかけるのも良くないかな?」などと思ってしまいます。 『ほほえみ』という詩があります。その詩の終わりは次のように結んであります。「もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら 不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい ほほえみを忘れた人ほど それを必要とする人はいないのだから」 カトリック系の大学学長を40年も勤めていらっしゃる渡辺和子さんは次のようにおっしゃっています。「時々わたしからのほほえみを無視する人たちがいました。そんな時にはこう考えることにしたのです。『今のわたしのほほえみは、“神様のポケット”に入ったのだ』と。」 あなたはいつもどんな顔をして歩いていますか?

(76) “陰口をたたく者は、親しい友を離れさせる。”

哲人ソクラテスとある男の会話が記録に残っています。その男がある人のウワサ話をしようとしたところ、ソクラテスが彼に尋ねました。「キミはその話が本当かどうか確かめたかね?また、それは人を感動させるような、ためになる話しかね?」 男は答えました。「いや、そうでもないけど…」 ソクラテスは言いました。「そうか。本当かどうかも分からず、人を感動もさせず、ためにもならぬ話しなら、あまり聞く価値はないな。」 「うわさ話や陰口を交わす間柄」というのは、いかにも親密なように思えますが、実際は第3者をこき下ろすことによって互いに優越感を共有しようとする、とっても不健康な関係です。あなたと陰口を共有することを楽しんでくれるような人は、どこかで必ず他の人と「あなたに関する陰口を共有すること」を楽しんでいるに違いありません。 誰かの情報を他の人に伝えようとするときに、「陰口を楽しむワナ」に陥らないために、次のような点をチェックしてみて下さい。 ①なぜその人に伝えようとしているのか? その人なら問題解決の助けになってくれそうだからか?それとも単に「誰かに伝えたい」という欲求からなのか。 ②その情報は「他の人にも伝えて良い」という許可を得たものなのか?それとも「秘密を漏らす」ことになるのか?そのことを伝えないと「誰かのいのちが危険にさらされる」ことにでもなるのだろうか?もし本当にそうなら「その情報はあなたから漏れたのだ」と知られても、何も問題はないはずですよね? そして最後に、③もしあなたがその人と同じ境遇にいたとしたら、あなたは自分のその情報を他の人にも知らせて欲しいと思うか?それとも打ち明けた相手の心の中に、そっとしまっておいて欲しいのか? 良い人間関係を築く秘訣の1つは、人のうわさ話を「しない・聞かない」と心に決めておくことです。

(75) “なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。”

並外れている人物のことを、英語で「エクストラ・オーディナリー」と言います。この『オーディナリー』とは「ありふれている、どこにでもいる」という意味であり、『エクストラ』というのは「ちょっとした付け足し」のことです。すなわち『並外れた人物』と『ありふれた人』との違いは、「ちょっとだけ余分な努力をするかしないか」の違いだという訳です。 上記の聖書の言葉にある「勤勉さ」とは、「熱心さ」「正直さ」「しつこさ」そして「より優れたものを目指す努力」を指します。ある専門家は次のように言いました。「何かに成功するためには、他の人より100%勝っている必要はない。むしろ、あらゆる部門で他の人より1%勝ってさえいればよいのである。」 つまり、いつも次のように自問自答することが大切です。「あと1ついつもより余分にできるとしたら、それは何だろう?」 ウィリアム・アーサーは次のように書きました。 「『所属するだけ』よりも、むしろ『参加する者』でいよう。『気を配るだけ』よりも、むしろ『手を差し伸べる者』でいよう。『信じるだけ』よりも、むしろ『実践する者』でいよう。『公平を図るだけ』よりも、むしろ『親切な者』でいよう。『赦すだけ』よりも、むしろ『忘れてあげる者』でいよう。『夢見るだけ』よりも、むしろ『行動を起こす者』でいよう。『教えるだけ』よりも、むしろ『奮い立たせる者』でいよう。『教わるだけ』よりも、むしろ『心豊かな者』でいよう。『与えるだけ』よりも、むしろ『仕える者』でいよう。『生きるだけ』よりも、むしろ『成長する者』でいよう。『苦しむだけ』よりも、むしろ『克服する者』でいよう。」 「できるだけ楽をして、しかも成功を収めること」はできません。ちょっとの犠牲、もう1歩の努力が違いを生むのです。  

(74) “私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”

  人生が自分の願ったとおりに進んでいるときに「幸福な気分」を味わうことは誰にでもできます。しかし、実際人生がそのように進む瞬間はどれほどあるでしょうか?自分が置かれている状況に関わらず幸福感を味わうことができる秘訣はないものなのでしょうか? あるプロ野球の2軍のコーチがこんなことを言っていました。「若手選手の中で、やがて1軍で活躍する選手と、ずっと2軍のままで終わる選手の違いは、『技術の差』ではなく『意識の差』である。」 ある選手は、1軍から2軍に行くように言われた時、「2軍に落とされた」と言います。つまり自分が2軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく、1軍のコーチに見る目がなかったからだ、と責任転嫁をするのです。こういう選手に限ってエラーをすると、道具のせいにしたり、グラウンドの整備が悪いからだと文句を言うのです。しかし別の選手は、「もう1度自分を鍛えなおす絶好の機会が与えられた」と、先輩やコーチの助言によく耳を傾け、熱心にトレーニングを重ねます。こういう選手ほど、やがて活躍するようになるものです。 すなわち、『幸福感』は状況に左右されるべきものではなく、自分で管理すべきものだということです。 私たちから『幸福感』を奪う3つのものがあります。 ①   欲張る心 : ないものねだりばかりしている人は、神が既に与えてくださっているものを楽しむことができません。もちろん『向上心』を持つことは良いことです。しかしゴールばかりに気を取られて、「成長の過程」を喜ぶことを忘れてしまうと、幸福感は失われてしまいます。 ②   恐れる心 : 悪魔はいつも、私たちが神様のことを忘れて「目先のものを追求すること」に熱中させ、結果として「根拠のない恐れ」(もしOOを失ってしまったらどうしよう。もし~が起こったらどうしよう。など)の中に捕らえることを狙っています。恐れは私たちから「平安」や「人生のしっかりした土台」を奪い取ります。 ③   『幸福感』を誤った場所に見出そうとすること : 「人は人生の初めの50年を『安定した生活を得るため』に使い、残りの日々を『人生の意義を見出すため』に用いる」と言われています。本当にそれが人生の正しい用い方でしょうか? 人生の本当の満足(幸福感)は、私たちをお造りになり、私たちに人生そのものを与えてくださった神との関係から来るのです。私たちはイエス・キリストを通して神との関係の中に生きるとき、恐れから解放され、現状を喜ぶ心が与えられ、正しいフォーカスを持って生きることができるようになります。

(73) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

私が通っていた幼稚園は『恵み幼稚園』という名前でした。それはキリスト教会の付属幼稚園だったわけではなく、「お寺の付属幼稚園」そして園長先生はお坊さんでした。毎朝お寺で「ありがたいお話し」を聞いてから1日がスタートするのですが、その中で、私が卒園してからもずっと覚えていたお話は「お釈迦様はいつでもあなたのことをご覧になっています」というものでした。私は当時「鼻くそをほじるクセ」があったので、この「お釈迦さまがいつも自分のことを見ている」ということは、『見守られている』というより、むしろ『監視されている』という気分がして、とても辛かったのを覚えています。 ところで「恵み」とは一体何でしょう?少なくとも次の3つのことを含んでいると思います。 ①一方的に与えられる物。 ②自分の努力によってではなく、神の憐みによって与えられる物。 ③自分の力で奮闘している間は手が届かず、「もうダメだ」と思った時、いつの間にか手にしている物。 聖書には次のような言葉があります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ここで言う『へりくだる者』とは、自分の弱さ・足りなさを認め、「神なしには決して成し遂げることはできない」と考える者です。それと反対に『高ぶる者』とは、自分の力で成し遂げることによって「名誉を我がものにしたい」と望む者であり、このような人たちにとっては「神からの恵みを受け取る」ことはおろか、プライドの故それを求めることさえできないのです。 使徒ペテロは「恵みにおいて成長しなさい」と言っています。私たちが「恵みにおいて成長する」には、それを『受け取る』経験を重ねる以外にありません。そしてそれを受け取るには、神の愛と約束を信じ、日常生活の中で神が与えて下さっている物を見出し、それを感謝し、またあなたが助けを必要とする場面でそこに神が介入してくださることを期待し待ち望む姿勢が必要です。実際、「神の恵みなしに私たちが生きることのできる日」なんて、1日だってありはしません。そしてまた、私たちの必要を満たすために、神に「足りない」などということも、決してないのです。

(72) ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、

おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 「努力はいつか報われる」という価値観を握りしめて今日までの人生を送ってこられた方は少なくないと思います。何を隠そう、私自身も『中学校卒業記念文集』の寄せ書きに、「努力はSome Day報われる」と力強く書き込みました。「人間たるもの、努力を怠ったら、もはや生きる資格はない!」などと確信していたと思います。ですから「何の苦労もなく手に入れる」とか、「タダでもらえる」などと聞くと、時には軽蔑したり、「タダほど高いものはない!」などと言って敬遠してきた気がします。 ところが、一見この「人生の美学」とも思える『努力至上主義』が、「神の恵みを受け取る」という状況になると、大きな障害になりかねない、ということも事実です。神は私たちを最高の愛で愛しておられ、ご自身の許にある祝福を私たちに注ぎたい、といつも願っておられます。そして私たちがその祝福をいただくための正しい姿勢は、「何とかして手に入れる」というのではなく、「ただ感謝して受け取る」というものなのです。 イエス・キリストは、私たちを「人生における悩み・束縛・プレッシャーなど」から解放するためにこの地上に来てくださいました。何も『クリスチャン』という名のもとに私たちを新たな「悩み・束縛・プレッシャー」の中に閉じ込めるためではありません。私たちは、すべての神の祝福は「恵みによって無代価で与えられるもの」であって、それを受け取るために必要なたった1つのものは「神はそれをくださる、という信仰」だけだということをはっきりと心に刻まなければなりません。神の目にあなたは一体どれほどに尊い、価値ある存在なのか、あなたはまだよく分かっていないのです。このお方こそ「世界で最もあてになるお方」であり、その祝福をいただくことを妨げている物こそ、今まで「これこそ1番大切で、どうしても手放せない」とこだわってきた『古い価値観(習慣)』なのです。 私たちの『古い価値観』は言います。「1人前になったら、いつまでも他の人に頼ってちゃいけないよ!」 しかし「私は古い価値観で頑張ってきて、ダメでした。もう自分に頼ることはやめて、全面的にあなたに頼って行きます!」と言う者こそ、神が最も祝福を注ぎやすい人々なのです。

(71) 私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである。

使徒パウロは聖書の中で、次のような人々は神の国に入ることはできない、と書いています。「性的な罪を犯す者、偶像を拝む者、酒に酔う者、強奪する者、…そして『すべて偽る者』」。 「それじゃあ、ちょっとした『でまかせ』を言うことや「見え透いたお世辞」を言うことが、不倫や強盗と一緒だって言うのかい?」と問われるかもしれません。でも、そういうことになります。神の前には「税金の支払いをごまかすこと」も、「他の神々に対して膝をかがめること」と同様にその心を痛ませるのです。 どうしてそんなことになるのでしょうか?何故神はそこまで私たちの『不真実』を嘆かれるのでしょう?それは『不真実』は、神のご性質に真っ向から反するからです。神は「ウソをつかない方」でも「ウソをつかないようにしている方」でもなく、「その性質上、ウソをつくことのできない方」なのです。神が私たちに何かを約束されるなら、それを守らずにはいられない方であり、神が何かを語られたなら、それは必ず文字通り理解されるべきです。そして彼が聖書の中で私たちに語られている数々の言葉は、すべてそのまま信じるに値するものなのです!神の辞書には『あやふや』という文字はありません。彼の言葉はいつも白黒はっきりしています。 今日、もし私たちが「本気で神と共に人生を歩もう」と言うなら、私たちはまず「常に心からの真実を神にささげて生きる」ということをしっかりと心に刻まなければなりません。

(70) 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

人生は『選択・判断』の連続です。たった1つの誤った判断が、私たちの人生を台無しにしてしまうこともあります。ですから、私たちが祝福に満ちた人生を送るために『正しい判断力』は欠かせません。ところがこの『正しい判断力』というものが「生まれつき身に着いている」という人は誰もいません。また「普通に生活していれば、いずれ身に着く」といったものでもありません。『勇敢さ』『高い教育』『年を取ること』がそれを得るのに役立つとも限りません。「日々正しい判断を行なっている人」と一緒に時間を過ごすことは、助けになることもあるかもしれませんが、かと言って「一緒に居さえすれば、やがて移ってくる」というわけでもありません。 「正しい判断力」を身に付けるために、私たちにできることが2つあります。 ①「1つ1つの選択には、必ずその結果がついてくる」ということを肝に銘じる。 ・自分の苦労や失敗を『環境』のせいにする人はたくさんいます。しかし実際は「環境そのもの」がその人を追い込むのではなく、「それらの環境に対する対処の仕方や態度」があなたの人生に影響を及ぼすのです。自分の周囲の環境を呪っても何も事態は好転しません。その環境の中で「あなたができる最善を見出そうとする姿勢」が、あなたの内に『正しい判断力』を育てるのです。 ②「他に方法はない」と決めつける考え方を捨てる。 ・私たちはしばしば「これは必ず正しくて、これは必ず間違っている」という考え方に偏りがちです。「この方法は以前やってみてダメだった。だからもう1度挑戦する価値はない!」 本当でしょうか?もしかしてもう1度チャレンジしてみたら、うまくいくことはあり得ないでしょうか?みすみす可能性を狭めてしまうのではなく、『ダメ元』で、以前失敗した方法であっても、多少愚かに見える方法であっても、はたまた1度も試みたことのない道であっても、わずかな可能性を探ってみてはどうでしょう?「必ず何か他にも方法があるはずだ」という姿勢を育てること、これが私たちに「更に豊かな判断材料」を与えてくれます。

(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。

(68) そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか?」

今から2千年前、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネに対して、人々が「あなたはだれですか?」と尋ねた時、ヨハネは迷うことなく次のように答えました。「私は預言者の書の中に書かれている『荒野で叫ぶ者の声』であり、『主の道をまっすぐに整えている者』です。」 当時ヨハネには多くの弟子たちが付き従っていましたが、やがて『来たるべき方』であるイエス・キリストが現れた後、彼の弟子たちの多くはイエス・キリストの許へと移って行きました。ヨハネはガッカリしたでしょうか?いいえ!なぜなら、彼は自分が一体何のために生まれてきたかをよく知っており、その役割を忠実に果たすことができたことに満足していたからです。 あなたは、「自分が何のために生まれてきたか」を知っていますか?もちろん生まれつきそのことを知っている人はいません。しかし、人生半ばに差し掛かってもそれが何であるか皆目見当がつかないなら、それはチョッピリ悲しいことではないでしょうか? 聖書の記述を見る限りでは、使徒パウロはあまり雄弁な説教家ではなかったようです。しかし彼はそれを埋め合わせて余りある『著述家』でした。彼は神の霊に導かれて、多くの説教者を生み出すに至った多くの『著作』を残しました。彼はその生涯の中でたびたび牢獄に入れられましたが、そんな中で彼は、弁護士や美味しい食事を欲しがりはしませんでした。ただ彼が欲したのは「紙とペン」だったのです。彼はそのいのち尽きるまで、書いて書いて書き続けました。その結果、今に至るまで、人生の意味を見出し、神に献身して生きる人々を輩出し続けているのです。 あなたはどうでしょう?あなたは「何のために生まれてきたのか」をもう見出しましたか?「私は生涯かけて、この一事を成し遂げたい!」と心を燃やすものを持っていますか?次のバーナード・ショウの言葉に耳を傾けてみて下さい。 「人生とは、ロウソクの火ではない。それは燃え盛るたいまつに似ている。私はそれをほんのしばらくの間預かり、私がそれを手にしている間に、できる限りそれを赤々と燃やして、やがてそれを次の人へとバトンタッチするのだ!」

(67) 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

『アメリカ宇宙プログラムの父』と呼ばれる、NASA宇宙局の初代所長であるウェーンハ―・ブラウン氏は、その著述の中で次のように述べています。「もしあなたが宇宙の遠大さとそれを支える綿密な法則を知ったなら、これが偶然な爆発によって形造られたなどという寓話を信じる余地はない。そこには間違いなく、人知を超えた恐るべきデザイナーが背後におられると信じざるを得ないのである。一体どんな偶然が人間の脳や視神経を形成すると言うのか。進化論者たちは『神はいない』ということを何とかして科学的に証明しようとするが、それはあたかも『太陽を見るためにはろうそくの灯が必要だ』と言っているようなものである。彼らは『目に見えないものは信じられない』と言う。しかし一体どこの物理学者が『電子は目に見えないから、存在していない』と言うだろう。」 この世に存在しているものは皆、それを生み出した『デザイナー』がいるのです。すべての書物が存在するのは、それを出版した人がいるからです。建物が存在するのは、設計者や建築家がいたからです。芸術作品の背後には芸術家が、素晴らしい曲には作曲家がいるのです。ならば、この壮大な大宇宙と美しい大自然、そして私たち人間1人1人の存在は、それらすべてを崇高なご計画の下に生み出された、『創造主なる神』がおられることを示しているとは言えないでしょうか?

(66) 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 動物園でクサリにつながれたゾウを見たことのある方は、次のように感じたことはありませんか?「ゾウだったら、あんなクサリ簡単に引きちぎって逃げ出してしまえそうなのに…」 実際その通りです。ただ、動物の調教師たちはちゃんとわきまえていて、まだほんの小さな子ゾウの時からクサリにつないでおき「このクサリは決して引きちぎることはできない」と思い込ませることによって、ゾウが逃げ出すのを防いでいるのです。 さて、ゾウが逃げ出せないのは良いことですが、同じようなことが私たちの人生にも多々あります。すなわち「私たちの思い込みが、私たちの可能性を制限してしまう」ということです。もっと具体的に言うなら、「私たちの心の中にある『恐れ』が、私たちの夢の実現を妨げる」のです。 私たちは皆「失敗」を恐れます。ある人々は「拒絶されること」を極端に恐れます。また、人から笑われたり、バカにされたりすることを歓迎する人はいません。しばしば私たちは、やってみる前から「どうせできっこない」とあきらめてしまいます。全くその通りです。やってみる前から「できっこない!」と固く信じている人がチャレンジしたところで、成功することは恐らくないでしょう。しかし実のところ、私たちが抱いている『恐れ』というもののほとんどは、全く根拠がない、漠然としたものなのです。 ところが聖書は、「私たちは『恐れ』を乗り越えることができる」と教えます。その第1の秘訣は、「神が私たちに何かを与えようとしておられる時、それを妨げることのできるものは何もない」と信じることです。「恐れを乗り越える」とは、「もう失敗することはなくなる」ということではなく、「神が与えようとしているもの以下で甘んじてしまおうとする誘惑に、『No』と言う」ということです。 神は私たち1人1人に特別(ユニーク)なご計画を持っておられます。しかし悪魔は何とかそれを計画倒れにさせようと、必死になって私たちの心に『恐れ』を投げ込んでくるのです。ですから「神が用意された優れた人生」を歩むのは、心から神に信頼して生きる者たちだけに与えられた『特権』なのです。

(65) 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は…あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 もし『お金』というものが幸せの条件なのだとしたら、お金持ちの人は他のどんな人々よりも幸せだということになりますよね?ところが残念ながら統計はそれを示していません。幸福に暮らしている人の多くは、お金を追求したことによってではなく、「神様から与えられる生きがい」を追求することによって、それを得ているのです。 『幸福な人々が知っていること』という本の中で、ダン・ベーカー博士は次のように言っています。「私のある友人はすべての物を持っているように見えた。お金、自由、そして友人や家族…。しかし彼は最も欲していた物を手にしていなかった。それは『幸福感』である。彼の家庭生活は惨憺たるものだった。子供たちとはほとんど会話がなく、妻は仕事に忙殺される夫に対して不満がいっぱいだったのである…」 一体この男性の関心事はどこにあったのでしょうか?それは「与えられたものを活用する」のでなく、ただ「蓄えることに一生懸命」だったのです。 この話を聞いてある人は「いやぁ、それはその人が贅沢だっただけで、私だったらそれだけの条件が揃っていたら絶対に幸せになれるさ!」というかもしれません。けれど、決してそんなことはありません。『幸福感』は決してお金では買えないのです。どれほど財産を増し加えても、心にはいつもこんなささやきが聞こえてきます。「まだまださ。もっと儲けなきゃ、まだ安心できないよ。」 一体『幸福になる秘訣』とは何でしょうか?聖書は「それは物を集めることから来るのではなく、私たちの命の源である神様から来る」と言っています。神様は私たち人間を、1人1人目的を持ってお造りになりました。私たちがその「神が私のために用意してくださっている人生の目的」を追求して生きる時、お金その他の物はすべて2次的なものに過ぎません。あなたの人生を確固たるものとするのは「神の与える救い」「内面的な(霊的な)成長」「豊かな家族との関係」「心を分かち合える友」、そして「神から与えられた使命を全うしている、という実感」なのです。神を喜ばせることを熱心に追求している人で、心に喜びと幸福感を持ち合わせていない人に、私はまだ1度も会ったことはありません。

(64) 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

アメリカにある「イエロー・ストーン国立公園」に、『ロッジポール・パイン』と呼ばれる珍しい松の木が生えています。この実であるいわゆる「マツボックリ」は、実ってから地上に落ちてくるまで何年もかかり、その後もしばらく堅くその実を閉ざし続けます。この実が開くのは非常な高温に取り囲まれた時だけなのです。 例えば「山火事」などが起こり、森のすべての木々が燃え尽きてしまったような時、その炎の中でこの松の実は開かれ、死んでしまった森林をもう1度よみがえらせるための最初の種となるのです。 多くの場合、私たちの内に秘められた潜在能力というものは、大きなピンチや抑圧に出くわして初めて見出されたり発揮されたりするものです。私たちは、予期せぬ試練に見舞われた時、思わずも「どうして私がこんな目に合わなければならないの?」とか、「もし本当に神様が私を愛しておられるなら、どうしてこんなことが起こるの?」などと言いがちです。その質問にお答えしましょう。そのようなことがあなたに起こったのは… ①あなたが知らなかった神様の更に深い側面は、激しい試練の中でこそ経験できるから。 ②単なる炭素がダイヤモンドへと変化するためには、耐えられそうにないほどの熱と圧力を通されなければならないから。 そして ③すべてを失って、もはや誰もあなたのことを顧みてくれなくなったとしても、「神様だけはあなたを決して見捨てることはない」ということを、あなたが経験するためなのです。

(63) 私たちのために、ぶどう畑を荒らすキツネや子狐を捕らえておくれ。

しばらくの間商用で出かけていたある人が、久し振りに友人である『天才彫刻家ミケランジェロ』のアトリエを訪れて驚きました。ずいぶん前から手掛けているはずの作品が、全く進んでいないように見えるのです。思わず彼は言いました。「一体どうかしたのかい?その作品、以前から全然進んでいないじゃないか!」 すると天才彫刻家は答えました。「何を言ってるんだい?キミがこの前来てくれた時から、毎日せっせと作業を進めているよ?」 友人はあきれて言いました。「何だって?一体この作品のどこを進めているって言うんだい?」 ミケランジェロは説明を始めました。「いいかい、まずこのところのラインを以前より柔らかくしたし、この唇のところを前よりも真っ直ぐにしたし、筋肉の様子をもっとはっきりさせたし…」 友人は最後まで聞いていることができずに言いました。「そんなの全部、ささいな部分ばかりじゃないか!」 そこでミケランジェロは微笑んで答えました。「そりゃあ『ささいなこと』かもしれないけど、そのささいなことをすべてやり遂げなければ、作品は完成しないじゃないか!」 私たちの人生の『ぶどう畑』を荒らすのは、大きな野獣ではなく『子狐たち』です。幸せなスタートを切った結婚生活が崩れ始めるのは「夫や妻が、相手の小さな親切に『ありがとう』の言葉を忘れてしまうようになった時」であり、陸上選手が競技に敗れるのは「ほんの小さな歩幅がズレてしまったとき」なのです。私たちは人生の「大きな構図」を描くことや、神様にその夢をかなえてもらうことに夢中になりすぎて、一見大したことには思えないような日常の出来事に『愛』と『誠実さ』を込めて取り組むことをおろそかにはしていないでしょうか?神は「小さいことに忠実な人々」にこそ、「大いなることを任せてくださる」のです。 さあ、あなたが今日捕まえなければならない「子狐」は何でしょう?誰かに対して抱いている『ちょっとした苦々しさ』? 「これくらいなら…」と、いつも大目に見てしまっている『ささいな悪癖』? それとも、つい軽はずみに言ってしまう『出まかせ』? それらを注意深く見張って、捕まえて追い出してしまいましょう! きっとあなたの人生に決定的な変化が訪れるはずです。

(62) 自分たちの間で、自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

多少の『競争心』は悪いものではありません。子供が漢字テストで良い点を取るために頑張って漢字練習をしている様子は、微笑ましくもあります。より良い点数を取ることによって励まされたり、自信を付けたりすることは、その後の人生にも役に立ちます。しかし、その『競争心』が高じて、「俺はアイツより優っている」とか、「私はあの娘に比べてダメダメだわ」などと一喜一憂するようになっては少々行き過ぎでしょう。 自分の存在価値を正しく評価するためには、まず「自分は神様によってユニークに造られた」ということを知ることが大切です。例えば、バレーボールのチームに所属してプレーをする場合、自分の持ち場によって役割が変わってきます。アタッカーとレシーバーは全く役割が違いますが、勝利するためには、どちらも欠かせません。レシーバーが相手のチームの得点を阻むことは、アタッカーが得点を決めるのと同様に価値があります。もしかするとアタッカーの方が目立つためにより賞賛を受けるかもしれませんが、勝利はチーム全員のものです。もしチームの各メンバーが互いに競い合ったり、比較し合ったりしていたら、勝利の喜びはどこかに消えてなくなってしまいます。 神様は私たち1人1人を「違った存在(互いに比較する必要のない存在)」として形造ってくださいました。私たちはおのおの特別な役割、そして特別な目的のために、偉大な神によってデザインされているのです。私たちがその「自分のために特別に備えられた人生」を謳歌するために必要なのは、他の人々と比較することではなく、創造者である神様を見上げることなのです。

(61) この世と調子を合せてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ある男性が銀行に入ろうとした時に、すぐ後ろから女性が続いているのに気付いてドアを開けて待っていたところ、その女性はお礼の代わりにこう言いました。「私が女性だからって、何もわざわざドアを支えていて下さらなくても結構よ。」 それを聞いた男性は微笑みながら答えました。「いえいえ、私がドアを支えていたのは『あなたが女性だから』ではなく、『私が紳士だから』です。」 キリストを信じる者として、私たちが他の人たちと『ひと味違った』生き方をするとしたら、それは「私たちがキリストにあって何者であるか」によるのであり、「人々が私たちクリスチャンにそうすることを期待しているから」ではありません。私たちは「人を恐れる者」ではなく、「神を恐れる者」です。「人のご機嫌を取って点数を稼ぐ者」ではなく、既に神様から『愛する我が子』としての称号をいただいている者なのです。 昔、ある貿易会社の船が初めての日本上陸を目の前にした時、取引のリーダーが乗組員たちに次のように告げたそうです。「いいか。これから上陸する国の人々にとって、私たちは皆『外国人』だ。彼らは私たちの国のことを全く知らないし、もちろん言葉も分からない。ということは、彼らにとって『私たちの中に見る物』が、私たちの祖国に関するすべての情報となるわけである。諸君、日本の人々が『あの人たちは、一体どんなに素晴らしい国から来た人々なのだろう?』と感心してもらえるような態度で、これからの日々を過ごそうではないか!」 私たちが人々に証しするのは、単に「私たちの人柄」ではなく、「私たちのお国柄」です。この世の習慣に倣って媚を売るのではなく、キリストに倣ってこの世の人々を魅了し、彼らの「天の御国への移民願望」を駆り立てようではありませんか!

(60) 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

これは本当にあった話です。1人の先生が、受け持ちの生徒たち1人1人にリボンを渡してこう言いました。「あなたたちは、このリボンを使って世界を少しだけ変えることができます。このリボンを、ぜひ、あなたの人生に良い影響を与えてくれたと思える人に、感謝を込めてプレゼントしてください。渡す時、今私があなたたちに言ったのと同じことを伝えるのを忘れないように。」 さて、このリボンをもらった生徒たちのうちの1人が、彼の進学に良いアドバイスをくれた先輩に、このリボンをあげました。そしてその先輩は、自分の職場の上司にこう言い添えてそのリボンを渡しました。「あなたはまだ未熟な私に多くの指導を与えてくれています。あなたの創造性と実行力には、いつも感服させられっぱなしです。ところで、このリボンを、ぜひあなたの人生に大きな幸福を与えてくれた人物に差し上げて下さい。」 この上司は、自宅に戻った後、反抗期真っ最中の息子の部屋へ行き、リボンを差し出して言いました。「『このリボンを、自分の大切な人に渡すように』と言われたんだが、ぜひお前にあげたいんだ。お前にはいつも『遊んでばかりいないで、勉強しなさい!』とか、『少しは部屋をキチンとしなさい!』とか、怒鳴ってばかりいたが、実のところ、私の人生を最も豊かにしてくれているのは、お前のお母さんを除けば、それはお前に他ならない。私たちのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。愛しているよ。」 すると、息子はこらえきれなくなった涙をこぼしながら、次のように言ったそうです。「実は、ついさっき『遺書』を書き終えたところだったんだよ。そして今夜皆が寝ている間に自殺するつもりだったんだ。だって、お父さんがボクのことを愛してくれてるって、今まで分からなかったんだもの。でも、どうやらこの遺書はもう必要なくなったみたいだね。」 私たちの口から出ることばは、文字通り、人を生かしも殺しもする力を持っています。聖書には「時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」という一節もあります。さあ、今日も出て行って、普段あまり気にかけていない人に対してでさえも、励ましと感謝の言葉をかけてみようではありませんか!

(59) 二心(ふたごころ)の人たち。心を清くしなさい。

前回、「時間の上手な使い方」に関連して『優先順位』のお話しをしましたが、実はこの「正しい優先順位を確立する」ということは、『人間関係』で悩まなくなるためにも、大いに役立ちます。 「『人間関係の悩み』というものは、人間生きている限り、一生つきまとうもの」とあきらめてしまってはいませんか?実はそんなことはないのです。ちゃんと解決法があるのです。それを見出せない大きな理由の1つは、私たちの中にある「『八方美人』になりたがる性質」にあります。「誰からも嫌われたくない」「あの人を敵に回すとやっかいなことになるから、おべっかを使っておこう…」などとあちこちに気を回しすぎて、肝心な人々に時間や労力を費やさずにいるために、足をすくわれたり、燃え尽きてしまったりするのです。 私事ですが、最近こんな出来事がありました。どういう成り行きだったか忘れましたが、我が愛する妻にこんなことを言われたのです。「あのねアナタ。アナタはすべての人を幸せにしようとガンバっているみたいだけど、アナタは私のことさえ『最高に幸せ』にしてくれれば、それでいいのよ?」 この言葉は、私に大きなショックを与えたと同時に、はっきりと目を覚ましてくれました。「そうだ!私は24年前に、他でもない、神様の前で『健やかな時も、病む時も、この女性を愛し慈しむこと』を誓ったのだ!」そうなのです。たとえ私が他のすべての人にさげすまれようとも、この妻を「最高に幸せ」にしてあげられたなら、私は神からの『合格印』を押してもらえるのです。なんてシンプルなのでしょう。たった1人の人に全力を尽くしさえすれば、それで良いのです。 もちろん、1人の人でさえ「最高に幸せにする」ことは、決して簡単なことではありません。また、それは「他のすべての人を不幸にしても良い」ということでもありません。しかし、「幸せにすべきたった1人の人」をさえ喜ばせることのできない人間に、他の誰を真に喜ばせることができるというのでしょう? 人生もまた同じです。私たちは皆、「自分を喜ばせるため」に生まれてきたのではなく、「唯一まことの神」をお喜ばせするために、神ご自身に似せて造られたのです。そのことを忘れて、「自分の満足」「自分の喜び」「自分の得」ばかりを追求して生きていくなら、いつのまにか『まやかしの幸福感』にすっかり騙されて、複雑怪奇で焦燥感にあふれる人生の中に埋没していきます。 人生は私たちが考えているより、ずっとずっとシンプルです。私たちが幸福にするために、神が私たちの周りに送ってくださっている人々は、ほんのひと握りです。それが誰なのかをしっかりと見極めて、限られた人生をたっぷりと注いでいこうではありませんか。

(58) 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

私たちの人生で「最も貴重なもの」といえば、それは『時間』でしょう。1度失われた時間は、2度と取り戻すことはできません。これだけ便利でスピードの増した時代は、過去にはなかったはずなのに、相変わらず私たちは「時間が足りない!」と言う。これは一体どうしたことでしょうか? たった1度しかない人生を有意義に過ごすには、何としてもこの『時間』というものを正しく使わなければなりません。すなわち「決して取り戻すことのできない『時間』というものを、より有意義に使う」ということです。では、どんな時間の使い方が『有意義な使い方』なのでしょう?私たちは10年後に『もっと優れた自分』になっているために、どんなことに多くの時間を費やすべきなのでしょう?それは『豊かな関係作り』と『優れた本を読むこと』です。そしてまず初めに私たちが読むべき書物、それが「人生のマニュアル」とも呼ぶべき『聖書』なのです。「あ~あ、今日も時間がないから、聖書を1ページも読む時間がない…」と言ってあきらめないで、半ページでも、3行でもよいから「少しでも目を通す」習慣をつけましょう。「塵も積もれば山となる」と言いますが、1週間全く聖書を読まなくなるところだったのが、気づいてみれば2章も3章も読めた、ということになるかもしれません。 オズワルド・サンダースという人が、『時間の有効利用』について、次の3つのポイントを指摘しています。 ①「時間の漏れをなくす」:時間の計算をするときに『何時間単位』で計るのではなく、『何分単位』で数えるようにする。10分刻みの時間を大切にするよう心がけたら、おのずと1時間ごとの時間を無駄にすることはない。 ②「優先順位をはっきりさせる」:多くの時間が『2番目以下に大切なこと』に費やされている。そのため『最も大切なこと』に使われる時間が足りなくなり、私たちの生活を破壊する。これは「目に見えるもの」にばかり振り回されて、最も大切な「目に見えない、内面的なこと」をおろそかにすることと同じである。 ③「計画的に行動する」:計画無しに行動することは、「失敗の計画」を立てているようなものである。状況にばかり流されているなら、何も成し遂げることはできない。「私が今日成し遂げるべきことは何でしょう?」と神に尋ねながら、日々を進んでいくべきである。 あなたの今日の歩みが、10年後の「より優れたあなた」へと導きますように。

(57) それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

ある辛抱強くない男が、ある時神様にこんな祈りをしました。「神様、ボクは『待つ』ということができません。こんなことでは、立派な大人になることはできません。ですからお願いです。どうかボクに『忍耐』を与えてください。それも、今すぐに!」 …きっと神様は、たっぷり時間をかけて、このお祈りに答えてくださることでしょうね。 さて、私たちはどのようにしてこの『忍耐』というものを学ぶのでしょうか?それは、『試練』を通してです。善意が報われなかった時、重労働に見合った賃金がもらえなかった時、人に親切にしてあげたのに、お礼も言ってもらえなかった時、そしてあなたの愛の労苦が拒絶された時…。このような時にこそ、あなたのうちにある『忍耐』が真に輝くのです! このような実例は、子どもの成長のプロセスにおいて、顕著に見受けられます。親の過保護に取り巻かれ、苦労らしい苦労を知らずに育った子どもは、大志や勇気を持てず、失敗に簡単にくじけてしまいがちです。しかし逆に、幼い頃から数々の挑戦や試練を乗り越えてきた子どもは、やがて逆境の中でも新たな道を切り開いて行くことができるようになります。 実はこの法則は、イエス・キリストを信じて生きる私たちにもあてはめることができます。ある人々は、「クリスチャンになったらすべての問題が解決される」と勘違いするようですが、それはむしろ逆です。この世は悪魔の支配下にありますから、神に忠実に生きようとすればするほど、試練が増します。しかし、神はそれらの試練によって、ご自身の『子ども』とされた私たちを「滅ぼそう」としておられるのではなく、かえって『忍耐』と『練られた品性』に満ちた、「神の子ども」と呼ばれるにふさわしい大人へと整えられるのです。

(56) 闘技をする者は、あらゆることについて自制します。

彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 ある人が次のような言葉を残しました。「疑う人々の中で、信じる者となりなさい。時間を浪費している人々の中で、計画を立てる者になりなさい。ノロノロしている人々の中にあって、決断を下す者になりなさい。夢見てばかりいる人々の中にあって、備えをする者になりなさい。先延ばしにしている人々の中にあって、動き始める者になりなさい。願望にすがっている人々の中にあって、行動を起こす者になりなさい。無駄遣いをしている人々の中にあって、蓄える者になりなさい。おしゃべりをしている人々の中にあって、耳を傾ける者になりなさい。しかめつらをしている人々の中にあって、微笑む者になりなさい。途中であきらめている人々の中にあって、最後までやり遂げる者になりなさい。」 『人生の勝利者』として生きるために、次の3つのことを心に留めておくと良いでしょう。 1.思い切って始めること。 ・当たり前に聞こえますが、何と多くの人々が、スタートラインでモタモタしていることでしょう!「だって、まだ状況が整っていないから…」 しかし神は「信仰によって歩みなさい」とおっしゃったのです。もし神があなたと共におられるなら、それは既にすべてを持っていることと同じです。神の招きを感じたならば、ためらうことなく初めの1歩を踏み出しましょう。 2.目の前のことに全力を尽くすこと。 ・オリンピックの『高飛び込み』の選手をご覧になりましたか?彼らは、次の飛び込みの余力を残すために、今これからの飛び込みを手加減したりはしません。1回1回の演技に全力を尽くすことで、1歩1歩金メダルに近づいていくのです。決して「そこそこ」の程度に満足しないようにしましょう。 3.途中であきらめないこと。 ・1992年のバルセロナオリンピックでの出来事です。陸上の400m走に出場したイギリス代表の「レッドモンド選手」は、レースの途中でアキレス腱を断裂してしまいました。他の走者たちが通り抜けていく脇でのたうち回っている彼を見かねた彼の父親は、涙ながらに応援席を飛び出して彼に駆け寄り、痛みに顔を引きつらせる彼に肩を貸して、一緒にゴールまで完走したのです。その時、スタンドの群衆は、先頭でゴールインした選手に対してよりもはるかにまさった歓喜の拍手喝采を、レッドモンド選手に送ったのです。彼は金メダルよりもずっと価値あるものをこの時手に入れたのでした。 あなたも、神が用意してくださっている栄冠を手に入れたいですか?さあ、何をグズグズしているのですか!

(55) 目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に浮かんだことのないもの。

神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。 物事が順調に進んでいるときは、そうでもないのですが、壁にぶち当たって八方ふさがりに感じるとき、私たちはどうしても「神様に大きなことを期待する」ということがなかなかできないものです。結果として私たちは「妥協点」を見出すのに忙しくなり、その試練から神様が生み出そうとしている『大いなる産物』を受け取りはぐってしまいます。 聖書は私たちに問いかけます。「神に不可能なことが何かあろうか?」答えは当然『No』なわけですが、私たちの日々の人生に対する態度は、しばしばその逆を行っているのではないでしょうか? イエス・キリストは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちに次のようにおっしゃいました。「もしあなたがたが、たった今私が言ったとおりに行うなら、その行いによって祝福されるのです。」 そうです、神の祝福の中を歩むには、彼のことばを信じて行うことが必要なのです。そしてしばしば、神は私たちの常識とは異なったことをおっしゃられるのです!なぜでしょう?それは、私たちがいつも自分が慣れていることばかりを行っているなら、私たちはいとも簡単に神様に信頼することをおろそかにしてしまうからです。 神は、人間が考え出したどのような法則よりも優れた方です。彼のなされることは、私たちの思いをはるかに越えています。あなたが今までどれほど多くの経験を積んできたとしても、神はそれにはるかに勝って偉大なことを、あなたを通して行うことのおできになる方です。ですから、ぜひ神に大いなることを期待しつつ、そのみことばに従っていきましょう。

(54) これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

手相占い、星占い、タロットカードなどなど、将来を占うために人間が考え出した方法は限りがありません。何故人はこうまでして未来を知りたがるのでしょうか?恐らくその最も大きな理由は、「人間は誰も1秒先のことも分からないから」ということに違いありません。一体これだけ科学が進んだ現代にも関わらず、どうして人間には未来を確実に知る術が解明できないのでしょう?それは、私たちを造られた神が、私たちがそれを知ることを許さないからです。神は、「未来を知ること」が、私たちに益をもたらさないことを知っておられるのです。 ちょっと別の角度から考えてみましょう。私たちはしばしば、自分の友人たちや周囲の人々を見回して、「どうしてあの人は持っているのに、自分は持っていないんだろう?」「どうしてあの人にはできるのに、自分にはできないのだろう?」などと考えるものです。確かにいくつかのものは私たち1人1人に「全く平等には与えられていない」と思えるものもあります。しかし、少なくともたった1つのものは、万人に平等に与えられています。それは『時間』です。どんなに忙しくしている人にも、どんなにサボっている人にも、1日には24時間しか与えられていません。そして神は私たち1人1人がこの与えられた24時間を「愛と知恵とをもって使う」ことを期待しておられるのです。過ぎ去ったことにいつまでもクヨクヨしたり、まだ起こってもいないことを当てにして先走りしたりせず、今目の前に与えられている『今日』という日を最大限に生かして、精一杯生きること、これが私たちが人生に向き合う本来の姿なのです。あなたが今与えられている『時間』や「今日という日」をどう使うか、それがそのまま「人生をどう使うか」に反映するのです。 『昨日』という日は、私たちにいくつかの教訓を与えてくれました。そして『明日』という日は、私たちがそれらの教訓を『今日』という日にどう生かすか、ということによって形造られるのです。ですから、こう祈りましょう。「神様、どうか『今日』という日を最大限に生き抜くことができるように、助けてください!」

(53) 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。 ある日ビルは自分の上司に匿名でこんな電話をかけました。「もしもし、聞いたところによると、あなたは『十分な経験のある、勤勉で有能な秘書』を捜しておられるそうですが、もし私でよければ、ぜひその部署に志願したいのですが…」 すると、その上司は応えました。「いや、それは何かの間違いではないだろうか。申し訳ないが、私のためには既に大変有能で勤勉な秘書が働いてくれているのだよ。ところで、キミの声にはどうも聞き覚えがある気がするのだが、どなたかね?」 ビルは嬉しそうに応えました。「私です。あなたの秘書、ビルですよ。ちょっと私の働きぶりがその部署にふさわしいかどうか、試してみたかったんです。」 私たちはしばしば「自分自身の生き方」を吟味する必要があるのではないでしょうか?私たちは、知らず知らずの間に大きく道を外れてしまっていることがあります。そしてそれは一晩のうちに起こるわけではなく、自分では気づかないくらい「少しずつ」起こるズレであり、いつの間にか「2度と元の位置に回復できない」ところにまでズレてしまっていることだってあり得るのです。もし飛行機の飛んでいる向きがたった1°ズレていただけでも、到着場所は何百キロも離れてしまうじゃありませんか。 初めは心を込めて1つ1つの役割を果たしていたとしても、いつの間にか「もっと簡単に素早くできないだろうか?」などと、能率性や楽をすることを追求し始め、「誰に仕えているのか」を忘れて、「給料をもらえれば、それでいい」とか「取り敢えず退社時間まで会社にいればよい」ということが、あなたの基準になってしまっているとしたら、それは危険信号です。私たちは『報酬』のために働いているのではなく、私たちに素晴らしい「思考力」や「運動機能」を与えてくださった『創造主なる神』のご性質を繁栄するために生きているのです。 マザー・テレサは言いました。「大切なのは、『どれだけのことをしたか』ではありません。『どれだけ心を込めたか』なのです。」と。もう1度自分の1日の歩みを振り返り、「人生に対する姿勢」を吟味してみませんか?

(52) 正しい者は7たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。

だれでも失敗するのはイヤなものです。特に「物事を成し遂げるのを生きがいとするタイプの人」にとってはなおさらのことでしょう。では「失敗を克服するためのコツ」のようなものはあるのでしょうか? 昔、イギリスのチャーチル首相は次のように言いました。「『成功』というものは、何度失敗を重ねてもくじけずに、新たに挑戦する情熱を持ち続けた人が手にすることのできるものだ」と。すなわち、失敗は『成功の父』となり得るのです。 「でも、やっぱり失敗するのは怖いなぁ。」と言う人たちもいるでしょう。どうして私たちは、『失敗』を恐れるのでしょうか?主に次の2つの理由が考えられます。 ①『失敗』というものが持つ「真の意味」をよく理解していない。 ②『失敗』が自分の『人格』に影響を与えることを許してしまう。 『失敗』の原因は大きく分けて、「無知」から来るものと、「分かっちゃいるけど、止められない」場合とがあります。聖書には「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と書いてあります。また、イエス・キリストは「分かっちゃいるけど、止められない」という私たちの『罪の性質』を解決されるために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださった方なのです。『失敗』は、私たちを神様から引き離すどころか、かえって私たちを神の御許に近づけるきっかけとなり得るのです。 また「失敗した人」を『失敗者』と呼ぶのではありません。「失敗そのもの」は、私たちの人格に対して何の力も持っていないのです。ただ、私たちがその失敗のあまり、再度挑戦することをあきらめてしまった場合のみ、『失敗』は力を発揮します。しかし、もし私たちがその『失敗』が教えてくれる『教訓』を正しく学び、それをキチンと生かしていくならば、私たちは決して『失敗者』になることはなく、かえって『成功』へとやがて導かれていくのです。 あなたがこのような態度で人生に向かっていくならば、あなたの人生が変えられていくだけでなく、周囲の人々の人生にも、きっと良い影響を与えていけるようになることでしょう。

(51) よくやった。良い忠実なしもべだ。… 主人の喜びをともに喜んでくれ。

ある人の日記から。 「買い物から帰ってきて、数時間前にピカピカにきれいにしたばかりのキッチンに入ってみて、ビックリ!そこらじゅうにネバネバになった小麦粉が飛び散って、チーズやチョコレートのかけらが散らばって、おまけに流しは鍋やボールや泡立て器などでいっぱい。どうやら幼い娘が留守中に『クッキー作り』に奮闘した模様。もう疲れと落胆でしゃがみ込みそうになった私の目に留まったのは、つたない文字が書かれた紙の切れはし。『ママのために一生懸命作ったの。きっと美味しいよ!あなたの天使より』 ですって。とたんに私の脳裏には、喜々としてクッキー作りに励んでいる幼い愛娘の様子が思い浮かび、ついさっきまでとはまるで正反対の幸福感に満たされたわけです。」 私たちをお造りになられた神様は、私たちの『出来の悪さ』を嘆くような方ではありません。むしろ、私たちが自分自身を低く見積もりすぎて萎縮してしまい、思い切ったチャレンジの機会にいつも尻込みしてしまうことを嘆かれるのです。 聖書の『タラントのたとえ話』の中で、イエス・キリストは、3人のしもべの中の2人が、主人から預けられたものを一生懸命に生かして倍に増やしたことにより、最高級のほめ言葉(上記)をいただいたことを語り、一方で、残りのもう1人のしもべは、預けられたものを地に埋めてしまい、後に主人から「怠け者のしもべだ!」と叱咤されてしまったことを教えられました。主人は「失敗を恐れないで、チャレンジ」して欲しかったのです。 神様は私たちに、「ちゃんとできないのなら、やらないでいい!」などとは決しておっしゃらない方です。むしろ、私たちがとにかくやってみて、そして失敗してもそこから学び、成長していくことをこの上なく喜ばれるのです。

(50) 神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

この地上には、人の力では変えようのない法則のようなものがいくつかあります。例えば『万有引力の法則』がその1つですよね。世界のどんな場所へ行っても、モノを高いところから落とせば、必ず下へ落下していきます。 もう1つの代表的な法則は『種蒔きの法則』です。これも世界中のどこででも利用されていて、農民たちはその恩恵を受けて生活しています。でも実はこの『種蒔きの法則』は何も「農業の世界」だけにあてはまるわけではありません。私たちの日常生活の1コマ1コマの中に深く根付いているのです。そしてこの法則は、私たちの人生に良くも悪くも働くのです。 日本語の古いことわざにも、「自分の蒔いた種を刈り取る」という言葉があるように、自分で悪いと分かっているにも関わらず、人からの忠告や自分の良心の呵責に敢えて反抗して、誤った方向へと歩みを続けるならば、その結果を刈り取ることになります。ある時若いカップルが「この先キケン」と書いてある立て看板を軽んじて、猛スピードでカードレールを突き破って車を走らせていたら、橋を修理中の谷底へと車ごと転落して死んでしまったそうです。彼らは悪い種を蒔き、そして悪い実を刈り取ったのです。 しかし、私たちが『良い種』、すなわち人々への親切や愛の行為を蒔いていくならば、私たちはやがて『良い実』を刈り取ります。これは天地をお造りになられた、愛なる神様がお定めになった法則なのです。なぜなら私たちの天の父なる神様は、ご自分の愛する子供たちが他の人々に優しくしているのを見て、ご褒美を与えずにはいられないお方だからです。

(49) へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 離婚の理由の中で、最も多いのが『性格の不一致』だと言われます。しかし、実際問題として「性格がピッタリ一致している夫婦」なんてほとんどいないのが現状です。もし2人が初めから「自分たちの性格は大きく違っているから、お互いを時間をかけてじっくりと理解していこうね。」という努力目標を掲げて結婚生活をスタートするなら、どんなに幸せな結婚生活を築けることでしょうか。 お互いを理解しようとするとき、次の3つのことを乗り越えなければなりません。 ①自分勝手な心 ・どんな状況や出来事にも、大概2つの側面があります。しかし、私たちが自分本位な考え方しかしようとしないなら、物事のたった1面しか見えてきません。解決の糸口はいつでも「仮に自分が一歩譲ってみたらばどうなるだろうか?」という謙遜な態度から見えてくるものなのです。 ②恐れ ・『先入観』や『偏見』と言われるものは、大抵新しいことにチャレンジすることに対する『恐れ』から生まれてくるものです。コロンブスが「地球は丸いのだ!」と信じて西に向かって航路を進めようとした時、人々は恐れの故に必死になって彼の挑戦を思いとどまらせようとしました。人間関係を改善・発展させようと思うなら、私たちはいつでも、今までに試したことのない新しいアプローチに挑戦する勇気が必要なのです。 ③意見の食い違い ・虹の美しさは、いくつもの『違った色』が集まっているからであり、オーケストラの音色が優れているのも何種類もの『異なった楽器』が一緒に演奏するからです。もしあなたが他の人々と自分との違いを「受け入れがたいもの」と捉えず、かえって「自分を成長させてくれるもの」として尊重するなら、実は互いに多くのものを共有できる存在だということをも発見できるのです。 トルーマン大統領は「もし我々が他の人々と『視点』を共有しようと試みるなら、少なくとも10人中9人の人々とは一緒に良い仕事ができるだろう。」と言いました。あなたも今日から「互いを理解する素敵な旅」に出発してみませんか?

(48) 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。

私たちの人生は『選択』に満ちています。それらの内には「どのメニューを注文しようかな?」などのささいな選択から、「誰と結婚するか?」「成功率の低い手術を敢えて受けるか否か?」などの重大な選択まで、限りがありません。そのような様々な選択の現場で、一体どうすれば、私たちはより正しい決断を下すことができるのでしょうか?次の4つの方法は、何かの参考になるかもしれません。 ①選ぶ前に、よく調べる。 ・慌てて選んでから、後で後悔しないため、あらかじめできるだけの情報を集め、よく吟味することは助けになります。現代ほど多くの情報を入手できる時代はありません。ドンドン活用しましょう。 ②神様の前に、状況を明らかにする。 ・私たちは1秒先のことも分かりませんが、神様は永遠の時を支配なさっておられます。彼は私たちにとって何が最善かをよくご存じです。もしあなたが選択しようとしていることが、神の前に良心を責められるようなことならば、それはあなたを破滅へと導く恐れがあります。神の前に祈り、聖書のことばに耳を傾けつつ、神があなたを深い確信と平安へ導かれるのを待ちましょう。 ③古い習慣に捕らわれない。 ・「今までやってきた通りのことを繰り返す」のは、誰にでもできる楽な方法です。しかし神様は時々私たちを更に飛躍させるために、新たな道へと導かれることがあります。もしあなたの現在の状況がそれに当てはまるのならば、まずその新たな道のりをじっと見つめ、そして深く深呼吸をしてから、神様に信頼しつつ、思い切ってチャレンジしてみましょう。 ④信頼できる人々からのアドバイス。 ・「誰が何と言おうと、私は私のやりたいようにやる!」 これではまるで幼児がワガママを言っているようなものです。私たちは自分で思っているほど賢い存在ではありません。信頼できる友人や先輩たちのアドバイスは、いつでも聞き耳を立てる価値があります。他の人が既に経験した失敗を、無駄に繰り返さないようにしましょう。  神様が、あなたの冷静かつ勇気ある決断を、祝福されますように!

(47) 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

日本のことわざに「継続は力なり」というものがありますよね。 発明家のジェームズ・ワットは、蒸気機関の発明のために、12年間の歳月を費やしました。血液循環の謎を解明したウィリアム・ハービィは、そのシステムを見出すのに8年かかり、それを実践医療の中で活用してもらうまでに更に25年間待たなければなりませんでした。 私たちの多くは、大志を抱いて何かを成し遂げようとするとき、ことを早くあきらめすぎてしまう傾向があるのではないでしょうか?しかし実際は、それが価値の高いものであればあるほど、それだけの十分な時間がかかるのも事実です。「成功への近道」を探ろうとする態度は、しばしば私たちの『辛抱強さ』の乏しさを証明しています。 大志を成し遂げるために必要なのは、十分なお金やテクニックではなく、「気分に流されずにコツコツとやり続ける習慣」を身に付けることです。事を成し遂げるためにぶつかる困難は、志半ばであきらめてしまったことを後になって後悔し続ける苦しみに比べれば、ずっと軽いものです。私たちが何かをあきらめずに継続させるためには、次の2つのことが必要です。  ①自分が成し遂げようとしていることは、誰の目にも(神の前にも)正しい、善いことである、という強い確信。  ②このプロジェクトの完成を見るまでは、私は決してあきらめない、という確固たる決意。 私たちは現在、思いつくものが即座に手に入るという大変便利な『インスタント時代』に生きています。しかし、そのために私たちが支払った代償は「無責任・無気力・無関心な人生の中に生きる」という非常に悲しい風潮です。今や心を躍らせるような夢を見ることのできない多くの若者がうめいています。そんな時代であるからこそ、私たちは「わたしはあなたにしかできない、あなただけのための大いなる計画を持っている」と言われる神のことばに耳を傾けるべきではないでしょうか?

(46) 愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。

こんな言い回しがあるのをご存じですか?「無神論者の人たちが神を見出すことができない理由は、逃走中の真犯人が警察官を見つけることができない理由と同じである。」 すなわち「見つけてしまったら、大変な(自分の立場がなくなる?)ことになるから」というわけです。確かに、神様を見出せずにいる間は、自分が自分の人生の『神』でいられるわけですから、「神様なんか、いない!」というより、「神様なんか、いて欲しくない!」というのが本音なのかもしれません。 しかし実際には、神様は様々な方法でご自身の存在を私たちにアピールしておられます。 1.ご自身がお造りになったものを通して。 ・警察が犯人を見極める方法に、しばしば『指紋』が使われますが、この世の美しい大自然や、超精密に造られた私たちの人体などは、いわば「神様の指紋」のようなものだと言えるでしょう。これらはまさに『創造者』がおられることの「動かぬ証拠」と言えるのではないでしょうか。 2.私たちの内なる『良心』。 ・私たちは、誰に教えられたわけでもなく、悪を行ったり人の心を傷つけたりしたときに「胸の痛み」を感じます。また、特に信仰深い人でなくとも、聖書に書かれたキリストの教えを読むならば「自分もこのように生きることができたら、どんなに素晴らしいだろう」と言います。聖書は「人は神のかたちに似せて造られた」とあります。私たちの『内なる良心』こそ、私たちが神によってデザインされた存在であることを示しています。 3.キリストの十字架。 ・神がお造りになったものを通して、私たちが「神の力・神の御手」を見るとしたら、キリストの十字架は私たちに「神の心・神の愛」を示しています。神は決して私たちから遠く離れておられる方ではなく、いつも私たちを見つめ、またみもとに招いておられる方なのです。 フランスのヴォルテールという人は、無神論者として有名で、その存命中次のように言い放ちました。「もしたった12人の無学な漁師その他の人々がキリスト教を広めたのならば、この偉大な1人のフランス人の手でそれを撲滅してみせる!」 さて、歴史は何を証明したでしょう。ヴォルテール亡き後、彼が住んでいた豪華な家は、何と現在ヨーロッパ最大の「聖書配布センター」として用いられているのです! これでもあなたは「神はいない!」と言い続ける勇気がありますか?

(45) あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。 『杞憂』という言葉をご存じでしょうか?昔中国の『杞』という国の人が「もし天が落ちてきたらどうしよう…」と思い悩んでいた、という出来事を元に、「心配してもどうしようもないことを気に病むこと」を指して言います。「そんなバカげたことを心配していた奴がいるのか?」と笑っているアナタ!「自分にはそのような心配事は1つもない」と本当に言い切れますか? ちょっとした心配事なら、誰にでもあります。それらの心配事の中には、「最近太ってきたから、ダイエットしよう。」とか「貯金が減ってきたから、もっと節約しよう。」など、自分で手軽に対応策を講じることができるものもありますし、「今度また大地震が起こったら、どうしよう?」「自分が預金している銀行が倒産したら、どうしよう?」など、今考えたところで、すぐには対応しようのないものもありますよね。自分で何とかできるものならば、できるだけのことをすれば良いわけですが、先に述べた『杞憂』のように、特に打つ手がないものに関していつまでもクヨクヨと思い悩ませる『思い煩い』は、まるで盗賊のように、私たちの『時間』や『精神力』を奪っていきます。 『思い煩い』というのは、大抵の場合「必要な物が手に入らないのではないか?」または「今持っている物をいつかは失ってしまうのでないか?」という不安のどちらかに基づいています。そしてこれらは2つとも「自分の人生に関わることは、すべて自分で何とかしなければならない」という人生観、すなわち「この世には神も仏もない」という人生観から生まれてきます。確かにもし神がおられないなら、あなたの人生で頼りになるのは、究極的にはあなただけですよね。 しかし、ここに良い知らせがあります。「神はおられる」のです!しかもこの神は、私たちの人生をただ黙って眺めておられる方ではなく、私たち1人1人を心に留め、「私たちのことを心配してくださる方」だと聖書ははっきり語っています。私たちには単なる『杞憂』でも、神にとっては「不可能なことは何もない」のです。神は、落ちてくる天さえも、支え、元通りにすることができるのです。この神に信頼することを学ぶとき、『思い煩い』ということばは、もはや私たちとは無縁の言葉となるのです。

(44) 主よ。あなたは代々にわたって、私たちの住まいです。

多忙を極めた1日を終えて、自宅にたどり着いたときの気分ほど、ホッとする瞬間はありませんよね。クツを脱ぎ捨て、普段着に着替えて、お風呂で汗を流して、夕食の食卓に就く。誰に気兼ねすることもなく、どんなにだらしない格好をしていたって大丈夫。大きな音で鼻をかんでも、うっかりオナラをしてしまっても、誰も白い目で睨んだりしません。ホントに身も心もリラックスできますよね。 実は「神様のご臨在の中に生きる」というのも、これと似たような安心感を与えてくれるものなのです。ある人々は、「神様というのは、何か堅苦しく、いつも不機嫌で、こちらの落ち度がないかどうかを見張っている存在」と思っているようですが、それは大きな勘違いというものです。聖書が私たちに知らせている神様は、ざっくばらんで、包容力があり、私たちのありのままを受け入れて喜んでくださり、私たちの思いもかけない豊かな愛で、私たちの必要を満たしてくださる方です。私たちが自分のふがいなさに落ち込んだり、誰にも理解してもらえなくていらだったりしているとき、「大丈夫。あなたは誰よりも私にとってかけがえのない存在だよ。たとえ他の誰もがあなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てたりしない。たとえ誰もキミのことを理解できなくても、わたしにはちゃぁんと分かっているよ。」と言ってくださるのです。 神様は一体、私たちからどのくらい離れたところにいらっしゃるのでしょう?聖書には次のように書いてあります。「確かに神は、私たち1人1人から遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」 まさに神様は、私たちが最も気に入っている『マイホーム』のように、私たちがどこにあっても私たちを心地よい安息で包んでくださるのです。あなたもそんな『移動式マイホーム』に拠り頼んでみませんか?

(43) いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。

訓戒を無視する者は、自分のいのちをないがしろにする。 『忠告』というものは、たとえそれが有益なものであっても、素直に聞き入れるのが難しく感じられるものです。しかし、せっかくの善意に満ちた忠告を無視してしまったことによって、避けることのできた破滅を招いてしまうことがあるのも事実です。 これはアメリカで実際にあった話ですが、ある大地震の後、『コリンガ』という小さな町を走る高速道路の橋が落ちてしまいました。それを発見した町の人が警察に連絡し、その橋に続く道路はしばらくの間封鎖されたのです。ところがミニバンを運転していたある若いカップルが、警察の警告を無視して、バリケードを突破して行ってしまいました。途中何度も「この先危険!」という看板があったにも関わらず、彼らはスピードを落とすことなく走り続け、とうとう谷底に落ちて死んでしまったのだそうです。 自分の人生にこんな悲劇を招かないために、私たちはどうしたら良いのでしょう?次の3つのポイントに気を付けると良いと思います。 ①「その忠告に従うか否かに関わらず、まずとにかく耳を傾ける」  大人と子どもの大きな違いは、その年齢や体の大きさではなく、「自分と違う考えを持つ人の意見に耳を傾けることができるかどうか」です。あなたがもし「自分はもう1人前の大人だ」と思うなら、まずとにかく相手の忠告に耳を傾けましょう。 ②「その忠告の中に、自分を成長させる要素がないかどうか、注意深く聞く」  神様は私たち1人1人に異なった背景や性格をお与えになりました。それは、私たちがいがみ合うためではなく、互いに益を受けるためです。もしあなたが「自分は誰かのために役に立ちたい」と思うなら、まずあなたが、自分と違ったタイプの人から学ぶ姿勢を持ちましょう。 ③「自分の心を探り、謙遜な姿勢を持つ」  もし相手の忠告を聞く中で、「この忠告には従いたくない」と感じるなら、その気持ちがどこからやってくるのかを冷静に探ってみましょう。それがもしかして「この人は自分の気に入らないから」とか「その忠告に従うことは、自分のプライドが許さないから」などという好みや感情的な理由なら、神様に助けを求めましょう。「神様、どうぞ世界の益のために、私がこの忠告に正しく応じることができるよう、謙遜な者としてください。」 そうです!あなたの人格的な成長は『世界のために有益』なのです!

(42) 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

「天災は忘れた頃にやってくる」と言いますが、突然悪い知らせを聞かされたとしても、決して動揺して早まった行動に走らないようにしましょう。神はそのような時のためにこそ、私たちに理性と考える力を与えてくださっているのです。仮に直面している問題が、自分では到底抱えきれないものだとしても、パニックに陥ってはいけません。私たちの神はどんな問題にも間に合う方なのです。神は私たちにもできることに敢えて手を出そうとはなさいませんが、私たちもまた、神が解決すべき問題に敢えて手や口を出すべきではないのです。私たちは祈りの中で神にこう尋ねることができます。「主よ。あなたはこの問題を通して、私に何を知らせようとしておられるのですか?」 「神様は、私たちのお願い事を聞いてくださる存在である」と思っている人たちがあまりにも多くいます。神様は『気前の良いおじいちゃん』ではありません。神様が惹き付けられるのは、私たちの『お願い事』ではなく、私たちの彼に対する『信頼(信仰)』です。旧約聖書に登場する『ヒゼキヤ』という王様は、海辺の砂の数のような敵の大軍が攻め寄せてくるのを見て、ただちに神殿に走って行ってひれ伏し、「神よ。あなただけがこの大軍に相対することができます。」と、ただ神の力に頼り、そしてこの絶体絶命の危機から救い出されました。 もし私たちが心からこの神に信頼して生きるのなら、私たちに襲いかかってくる災いは、もはや「神のみわざが現れる機会」でしかないのです。「もはや神しか頼れるものはない!」とは、すなわち「最も頼りがいのある存在に対して目が開かれた!」ということなのです。聖書は、神が私たち信じる者に語られた約束に満ちています。それらを知り、またしっかりと握ってください。そして「神に信頼して生きる」ことの祝福を一緒に味わいましょう。

(41) あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心(まごころ)から地上の主人に従いなさい。

人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。 「リーダー不在の国家」「取締役不在の企業」「将軍不在の軍隊」、どれを取っても恐ろしそうですね。どんな暴走を始めるか分かりません。キチンとした組織が秩序を生み出し、そして優れたリーダーとそれに忠実に従う部下たちがいてこそ、その組織は成長するものです。私たちはこの「自分のリーダーに忠実に従う」という点においてしっかりと訓練されなければなりません。 私たちには誰にでも「従うべきリーダー(権威者)」という者が存在します。学校では『先生』が、会社では『上司』が、家庭では『父親』が、また社会ではそれぞれの地域のリーダーや、知恵と経験にあふれた『お年寄り』たちがいます。最近はこれらのお年寄りを軽んじる傾向がありますが、私たちは次の世代を担う子供たちのために、「お年寄りを敬う」という良い模範を残したいものです。 さて聖書は、あの人並み外れた知恵と品性に満ちたイエス・キリストでさえも、「与えられた権威に従う」という点で模範を示されたことを記録しています。当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが「ローマに税金を払うことは正当なことでしょうか?」と質問したとき、イエスは「すべてのものは神から与えられているのだから、そんな必要はない」とは言わず、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに、そして神のものは神に差し出すべき」と答えられました。たとえ不当な形での武力的な支配者に対してであっても、私たちは敬意を払うべきなのです。 あなたは、あなたが従うべき相手に対し、疑いの言葉をぶつけたり、軽んじたりしてはいませんか?それはたった今から止めるべきです。もちろん彼らは完璧ではありません。間違いを犯すこともあります。(だからこそ、あなたのような人にも我慢してくれるのです。)あなたが相手のことばに耳を傾けないのなら、やがて誰もあなたのことばに耳を傾けてくれなくなるでしょう。ですから、たとえそれがあなたの「聞きたくないこと」や「納得できないこと」であっても、まず耳を傾けるべきです。あなたの周りにいるすべての『権威者』たちは、たとえあなたに即座に益を与えてくれない存在であったとしても、やがてあなたが人々に益を与えるリーダーへと成長できるように、あなたを訓練してくれている存在に違いないのですから。

(40) 彼(イエス・キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。

皆さんは『葦の葉』がどんなものかご存じですか?そう、沼地などに生えていて、子供でも簡単に折ることのできるとても頼りない草です。また、ろうそくの火が消えそうになっているのを見たことがありますか?あれほど危なっかしくてヒヤヒヤさせられるものもないですよね。この「半分折れかかっている葦の葉」や「消えそうになっているろうそくの炎」ほどはかないものは、他にはあまりないのではないでしょうか?ほとんどの人々は、そのようなものは「もう必要ない!」と言って、きっと投げ捨ててしまうことでしょう。 イエス・キリストは、この「折れかかった葦」や「消えかけたろうそくの火」のように今にも尽き果ててしまいそうな私たちの弱った心を、優しくその手に拾い上げ、介抱し、再び力づけてくださる方です。人々の心ない言葉に傷つけられ、裏切りに遭い、ささいな失敗を決して赦してもらえず、人々の批判にさらされるとき、私たちは「自分はもはや必要とされていない。もう立ち上がることはできない。」そう思わずにいられなくなることでしょう。 実は聖書の中にもそのような人々がしばしば登場します。「姦淫の現場で捕らえられ、人々からまさに『石打ちの刑』に処せられようとしていた女性。」「最後の回復の望みをイエスに託し、彼に触れていただこうと友人たちに背負われてやって来たにも関わらず、大群衆の故にイエスに近づくこともできなかった病人。」「生まれつき目が見えないために、物乞いをして生きていくしかなかった男が、『イエスが近くをお通りになる』と聞いて、あらん限りの大声で『私を憐れんでください!』と叫び続けたにも関わらず、『うるさい!めくらめ、静かにしていろ!』と怒鳴られて…。」 しかし、イエス・キリストは彼らをあきらめませんでした。彼の目は決してこれらの「傷んだ葦」を見逃さず、彼の耳はこれらの「くすぶる燈心」の音を聞き逃さなかったのです。姦淫の女は赦され、重病の男は癒され、盲人は見えるようになって帰って行ったのです。 今日(こんにち)も同じです。イエス・キリストの御手は、今日もあなたに届くのです。彼の恵みは、どんなに深い泥沼よりも深く、その手は、届き得ないと思われたあなたの心の痛みに触れ、もう1度あなたを立ち上がらせてくださるのです。

(39) 人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 「人を外見だけで判断してはいけない!」と分かってはいても、ついつい『高学歴』『高収入』『高身長』などと、見た目や肩書きに目が向いてしまうのが現実ではないかと思います。幼稚園や小学校でも、やっぱり「成績優秀」だったり、「スポーツ万能」な子がモテモテになるわけですよね。逆に「俺は外見じゃなくて、中身で勝負だ!」などと息張ってはみても、「じゃあ、あなたの中身って、どんなもの?」と聞かれて、とっさに答えられる人は少ないのではないでしょうか? 一体「中身を重視する」とは、どんなことなのでしょうか?人の『中身』すなわち『人格』と呼ばれるものは「たとえそれを選ぶことで自分が損をすると分かっていても、敢えて『正しい方』を選ぶ」という性質のことです。人生経験を重ねていけばいくほど「自分の信念を妥協させなければならない」ようなチャレンジに多々遭遇します。「人生の大きなチャレンジに1度打ち勝ってしまえば、もうあとは平坦な道が用意されている」などと考えるのは、とんでもない錯覚です。「チャンピオンになること」は、「チャンピオンで居続けること」よりもずっと簡単なのです。人に誉められるような成功を収めたり、羨まれるような地位を築いたなら、それまで以上の更にしっかりとした『正義への信念』が要求されます。立派な地位を築いた人々が、信じられないような落とし穴に落ちて、その人生を台無しにしてしまうことなど日常茶飯事です。 では一体どのようにして私たちは、そのような『不動の人格』を築くことができるのでしょうか?それは「私たちの肉体しか滅ぼすことのできない『人間』を恐れることなく、私たちのたましいをも滅ぼすことのおできになる『神』を恐れ敬って生きる」ことです。神は「悪を憎み、ひたすら善を求めて生きる者」と共に歩み、たとえそれらの人々が試練の泥沼に落ち込んでも、そこから引き上げてくださる方なのです。

(38) ダニエルは、いつものように、日に3度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

「なくて七クセ」という言葉があります。すなわち「どんな人でも最低7つくらいは『クセ(習慣的に行っているモノ)』があるものだ」という意味ですね。実際、私たちの日常生活の中で、意識的に行っている活動はほんの『氷山の一角』であり、ほとんどのことは無意識(習慣)的に行っています。「朝起きたら顔を洗う」「歯を磨くときは、上の前歯から」「靴を履くときは右足から」…などなど。これらのことをいちいち考えながら行っていたら、1日が何時間あっても足りませんよね。 何冊ものベストセラーの小説を世に出したある著作家は言いました。「私は毎朝同じ時間に起き、午前8時から机に向かって原稿を書き始め、午後4時には終わりにする。もうそれは習慣になっている」と。つまりこういうことが言えるでしょう。「偉業を成し遂げる人々の日常生活には、偉大な習慣あり。」 但し気をつけなければならないことは、「習慣(クセ)というものは、私たちを成長させることもあれば、堕落させることもある」ということです。暗い中で本を読むことを習慣にしていれば目が悪くなるし、習慣的に人のうわさ話ばかりしていれば友人は減っていきます。一般に、21日間同じことを同じように続けていれば、それを21年間続けることが可能である、と言われています。私たちも「悪い習慣」から離れ、「良い習慣」を増やしたいものですね。 イエス・キリストも、少なくとも1つの『習慣』を持っていました。それは「毎朝暗いうちに起きて、父なる神に祈る」ことでした。1日の営みが始まる前、朝ごとに私たちの造り主なる神の前に出て祈り、「今日も神は私に新しい1日を与え、精一杯生きるようにと願っておられる」と確認することは、私たちの生き様に少なからず影響を与えるはずです。私たちがぜひ身に付けたい習慣の1つではないでしょうか?

(37) 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。

私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 ある女性が素敵な帽子をかぶっているのを見て、彼女の友人が言いました。「あら素敵!その帽子をかぶっていると10才は若く見えるわよ。」 するとその女性はガッカリしたようにその帽子を脱いで言いました。「それじゃあ、もうこの帽子をかぶるのはやめるわ。だって、この帽子を脱ぐ度に10才老けて見られるのはイヤだもの。」 私たちは何故「年をとること」を恐れるのでしょうか?力がなくなっていくから?必要とされなくなっていくから?それとも「死に近づくこと」を恐れるから? 西洋文化(主にキリスト教に根ざした文化ですが…)では、引退後の世代を「ゴールデン・エージ」と呼びます。何故ならそれまで忙しさの故に十分に時間を取れなかった「趣味」「旅行」「友人との語らい」そして「神を求める」ためにもっともっと時間を費やすことができるからです。(お孫さんががいるなら、彼らと遊ぶのもいいですね!) 一体私たちが何歳になったら「年寄り」と呼ばれるのでしょう?私たちは何歳になっても眠ります。ということは、相変わらず「夢を見る」ことができます。相変わらずあれこれと考えます。ということは、将来の計画を立てることができます。歩いたり話したりできるのなら、新しい友人を作ることもできます。私たちは人生のクライマックスの時間をみすみす無駄にする必要はありません。神様の前には『ジェネレーション・ギャップ』などというものは存在しないのです。私たちには、次の世代に伝えておくべき多くの知的・精神的・霊的な財産があります。彼らはこの難しい時代を生き抜くために、それらのモノを必要としているのです。 すべて生きている者で、神が必要としておられない者はありません。あなたが朝目覚めたなら、それは「今日も神があなたをこの世界に必要としておられる」というしるしです。ぜひ日々それが何であるのかを見つけてください。そしてあなたのあるったけのエネルギーをそこに注いでみてください。あなたがその力と愛を注ぐ対象を見つけていられる間は、あなたは決して「老いて」はいないのです。

(36) もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

何か新しい技能や資格を身に付けようと思ったら、訓練の期間が大抵は3年くらいかかります。そしてその取得した技能を生かして、きっと30年くらいは活動することができるでしょう。興味深いことに、イエス・キリストの場合はそれが全く逆でした。というのは、彼は生後30年間はその家族の許で仕えつつ公の働きのために備え、後の3年間だけ公に活動して、それから天にお帰りになったからです。 ここから私たちは何を学び取ることができるでしょう?それは、「質の高い働きをするためには、それだけ中身の濃い準備期間が必要とされる」ということです。優れたピアニストは、そのリサイタルのために何百時間もの練習時間を費やすそうです。また、ボクシングのチャンピオンは何も「リングの上の闘いの中」から生まれるのではなく、「日々の生活の中での鍛錬」から生まれるのです。 『インスタント性』が求められる現代、私たちはしばしば「立ち止まって自分の人生のことをじっくり考える」時間を惜しみ、ただ周囲のスピードに押し流されるようにして時を過ごしがちです。しかしちょっと立ち止まって見回してみるならば、そこにはあなたを成長させてくれる出来事や人々が満ちています。慌てて見過ごしてしまうにはあまりにももったいないとは思いませんか? 神様はいつでもあなたのために最良の環境を備えてくださっています。それは必ずしもあなたにとって心地よいものではないかもしれません。しかしそれはあなたを「甘やかせる」ためではなく、かえってあなたが「持っている可能性を最大限に引き出す」ための絶好の機会となるはずです。もしあなたが立ち止まって、それを受け取る準備をしてさえいるならば…

(35) 彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

「人生成功の秘訣」は、必ずしもその人の能力や学歴によるとは限りません。優れた業績を残した『ニュートン』や『アインシュタイン』は学生時代落ちこぼれでした。では「人生の成功」に欠かせない要素とは一体何でしょう?それは、次の質問にしっかりと答えることから始まります。「私はたった1度きりの私の人生を通して、一体何をやり遂げようか?」 この全地を造り、私たち1人1人を創造なさった神様は、私たち1人1人にユニークな目的をもってお造りになりました。「どうしてもあなたと一緒に実現したい!」という熱い思いと共に、あなたをこの世に生み出したのです。それなのに、私たちはあまりにも簡単に他の人の夢に引きずられたり、自分の可能性を低く見積もって安易なゴール設定に甘んじたりします。たとえどんなに偉大な可能性を秘めていても、その本人がそれを信じることなく、逆に「自分は大した人間じゃない。とてもOOさんのようにはなれっこない。」という確信のもとに生きるなら、確かにその通りになるでしょう。 今、周りを見ることをちょっと止めてみませんか?そして『上』を、すなわち偉大な計画をもってあなたを」お造りになり、今日も身を乗り出して熱いエールを送ってくださっている神様の眼差しを見つめてみましょう。「神様、あなたは私のために、どんな計画を持っていらっしゃるのですか?」そう、祈りの中で尋ねてみましょう。そうすれば、きっとあなたが今まで思い浮かべたこともなかったような『心躍らせる夢』が、あなたの思いを喜びでいっぱいにするに違いありません。

(34) さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたがは、何1つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 『試練』は誰の人生にもやってきます。肉体的な試練、精神的な試練、経済的な試練、人間関係における試練などなど。そのパターンは様々で、決して慣れることはありません。あるものは突然襲ってくるもの(愛する者の死であるとか)であり、逆に、ある程度の年月がかかるもの(離婚の危機や不治の病など)もあります。自分が蒔いた種を刈り取る場合もあれば、誰かの失敗の尻ぬぐいをさせられることもあります。たくさんの人がまきぞいをくうこともあれば、自分1人でじっと耐えなければならない場合もあります。 これらの『試練』は決して喜ばしいものではありませんが、しばしば私たちに「本当に大切なものは何か」を思い起こさせてくれます。私の妻は学生時代、実家が全焼してしまった経験がありますが、その時つくづく「目に見えるものはいつかは無くなるんだ」と思い知らされたそうです。そして「本当に頼るべきものは『造られたモノ』ではなく、『造られたお方』なのだ」ということを深く自覚したそうです。 苦しい目に遭っているとき、私たちはしばしば「一刻も早くこの状況から脱したい」と思うものですが、決して慌てすぎて大切なレッスンを見落としてしまわないようにしましょう。神があなたにその試練を経験することを許されたのは、そこに必ず目的があるはずです。『試練の目的』は、決して私たちを打ち倒してしまうことではなく、「成長させ、完全な者とする」ことです。ですから、もし今試練の真っ只中にいる方は、ぜひ心を落ち着けて、自分自身にこう言い聞かせてください。「私のこの試練は、神の知らないところで起こっていることではない。神はいつでも私をこの試練から救い出すことができる。しかし、その前に、まずこの試練のただ中でしか学ぶことのできない大切なレッスンをしっかりと学び取って、ひと回り成長した自分になろう!」

(33) 神である主は、人(アダム)に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

聖書を見る限りでは、神様が初めて発した質問は、「あなたは、どこにいるのか?」というものです。これは何もアダムが隠れるのが上手で、神様が彼を見つけられなかったわけではなく、むしろ「あなたは今の自分の状態をよく分かっているのかい?自分の本当の姿を隠すのはもうやめて、ありのままの姿でわたしの前に出ておいで。」と招いている言葉なのです。 「あなたは、どこにいるのか?」 これは私たちが立ち止まって、深く考えてみる価値のある質問です。私たちは成長過程の中で、いつの間にか「ありのままの自分の姿を隠す」ことを身に付けてしまってはいないでしょうか?他人に認められるために無理な努力に励んだり、仕事や家事に忙殺されて自分自身を見失ったり、自分の中の弱さを知られるのが怖くて周囲に堅い防壁を築いたり…。何とか隠しきれている間は良いかもしれませんが、その隠し続けている間のストレスは、私たちが想像する以上に私たちを精神的にも肉体的にも蝕んでいるものです。 私たちがいくら他人の目を騙せたとしても、いつも私たちの本当のありのままを捜しておられる方がいます。しかもそれは私たちを責めるためではなく、そのありのままを丸ごと受け入れ、愛してくださるためです。それが、私たちに命を与え、この世に送り出してくださった神様なのです。私たちがこの方の『変わらぬ愛』に信頼し、そのありのままを彼にさらけ出しながら生きるとき、自分自身の本来の価値を見出し、他の人々の前にも「自分を隠さずに」生きることができるようになるのです。

(32) 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 こんな面白い詩があります。「あるとても用心深い男がいた。彼は決して笑ったり遊んだりしなかった。新しいことに挑戦したり、危険を冒すようなこともしなかった。歌うことも祈ることもなかった。彼が死んだ時、保険会社は彼の保険金を支払うことを拒んだ。保険会社の言い分は次のようなものだった。『この男の人生は「生きていた」とは到底言えないものだ。それゆえ、彼の死さえ決して認識されることはない。』と。」 確かに、新たなことにチャレンジしようとする時はいつでも、幾分『恐れ』を感じるものです。事実私たちは多くの点で失敗します。恐らく失敗したことのない人など、この世に存在しないことでしょう。けれど失敗を恐れるがあまりあらゆるチャレンジを避けて生きていたら、何も得ることができないのも事実です。では、どうしたら良いのでしょう? 私たちは「失敗に対する恐れ」に捕らわれないで生きることができます!この全地を支配しておられる神に信頼を置くことによって。聖書の中には「恐れるな!」という言葉が365回も出てきます。それはあたかも神様が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と声を掛けてくださっているかのようです。『恐れ』とはもともと、人が神から離れたときに悪魔によって投げ込まれた「霊的な種」です。もし私たちが神と共に歩み、その種を支配していくのでなければ、逆に『恐れ』が私たちの人生を支配するようになります。今こそ神への信頼を学びましょう。

(31) だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

大金持ちの「ロックフェラー一族」をご存じですか?彼らは『スタンダード・オイル』という会社も経営していますが、ある時、その会社の1人の重役がミスを犯して、会社に2億円もの損害を与えてしまいました。他の重役たちは当然「あいつはきっとクビになるか、少なくとも左遷させられるだろうな」と思いました。ところが、社長のジョン・ロックフェラーは、この重役と面接する前に、彼の日頃の勤務態度の記録や、彼が今までにこの会社に与えてきた数々の利益のレポートに目を通し、結局この重役のミスを赦してやったそうです。 私たちは誰かの失敗に直面し、しかもその失敗が自分に何らかの損失を与えた場合、つい、かっとなって軽はずみな言葉を口にしがちです。でもそんな時は、まず神様の前に静まって、座り心地の良いイスに腰掛け、それからその人がいるお陰で、普段自分がどれほど助かっているかを思い起こしてみましょう。するとだんだん怒りが収まってきて、当初とは全く違った判断を下すことができるようになることでしょう。 「後悔先に立たず」ということわざがあります。私たちはこのように「怒りをコントロールする」ことによって、できるだけ「あんな軽はずみな行動を取ったばかりに、大切な友人を失ってしまった…」などと後悔することのないようにしたいものです。

(30) あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。

あるお金持ちが波止場を散歩していると、1人の漁師が舟の上でのんびりとくつろいでいるの見かけました。いかにも仕事を怠けているかのように見えるその漁師に向かって、彼はこう話しかけました。「何で漁にも出かけずに、そんなところでくつろいでいるんだ?」漁師は答えました。「いや、もう今朝のうちに十分魚が捕れたんでね。」金持ちは続けました。「だったら、もう1回出かけて行って、もっとたくさん捕まえてくればいいじゃないか。」今度は漁師が逆に尋ねました。「そんなに余計に捕まえてどうするのさ?」金持ちは答えました。「そうすれば、もっとお金が稼げて、もっと大きな舟が買えて、そうしたらもっと大きな魚を捕まえられるようになって、ドンドン儲かるじゃないか!」漁師は再び尋ねました。「そんなにお金を貯めてどうするのさ?」金持ちは鼻を鳴らしながら言いました。「もちろん、そうすればのんびりとくつろいで、俺みたいに毎日楽しく暮らせるだろ?」漁師は答えました。「じゃあ、俺が今こうしてのんびりとくつろいでいて、何が悪いんだい?」 心の安らぎや満足感というものは、2つのモノを手に入れることからやって来ます。1つ目は「優れた関係」そしてもう1つは「優れた人生の目的」です。 私たちがこの地上で持ちうる『関係』の中で最も優れているのが、この天地を造られた『神』との関係です。そして次に大切なのがあなたの『家族』との関係。この2つの関係をどのように建て上げていくかが、あなたがこの地上での人生の終わりに近づいたときに、大きくモノを言います。 また、「優れた人生の目的」も、あなたを造られた『神』と出会うことからやってきます。神はあなたを、偉大な目的に従って、この地上に送り出されました。それを見出したとき、あなたは何故自分がそのことに以前から興味があり、そのための十分な能力を持っていたかに初めて納得がいくのです。 アメリカ開拓史の中で、次のようなユーモラスな話があります。ある男がアメリカ大陸へ移民を志していた頃、次のようなウワサを耳にしました。「どうやら、アメリカって所は、道がすべて黄金で舗装されているそうだ。」彼はこの「黄金の舗装道路」を見るのを楽しみにしながら、アメリカへ渡りました。ところが、道は黄金どころか、舗装さえされていなかったそうです。彼は「皆が楽しみにしてやってくるアメリカの道路がこんなのでは良くない」と言って、道路を舗装する仕事をライフワークにした、ということです。 あなたはもう自分の『ライフワーク』を見つけましたか?もしまだなら、まず「神との関係」を築き上げてください。神はあなたを最高の『ライフワーク』へと導くことのおできになる方です。

(29) 神はへりくだる者を正しい道へと導く。

こんな人に会ったことはありませんか?どこに行くにも杖を持ち歩いて、分かれ道に出くわすたびに、その杖を高く放り投げ、その杖の先が向いた方が『神様が導いている道』と信じて進んで行く。何て信心深いことでしょう! さて、ある時1人の男性が、この「杖を持った人」がある交差点で、何回も繰り返して、上方に杖を放り投げ、落ちてはまた拾い上げて放り投げているのを見て、尋ねました。「一体何をしているんだい?」 その人は答えました。「見て分からないかい?神様がこの杖の向く方向によって、私の行くべき道を示してくれるのを待ってるんだよ。」 「なるほど、それは分かったけど、じゃあどうして、そうやって何回も放り投げているのさ?」 その人は答えました。「だって、何回やっても、杖が間違った方を指すからさ。」 この話と、あなたの人生とは、どこか共通点がありませんか?「神様がいるなら導いて欲しいけど、あくまで私がやりたい通りにさせてくれるなら…」 神様に伺いを立てながら、その答えが自分の気に入るか否かで、その助言に従うかどうかを決めるなら、一体どちらが『神様』なのでしょう?水が高いところから低いところへと流れるように、神様からの祝福も、心を低くする者へと流れ込んでくるのです。「今まで自分のやりたいように生きてきて、うまく行かなかった」というアナタ!思い切って、神があなたのために備えてくださっている道を求め始めてはいかがでしょうか?

(28) これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、

それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 『タイタニック号』の事件をご存じですか?1912年に「決して沈むことのない安全な船」としてイギリスからニューヨークへ向かった豪華客船が、まさにその初めての航海の途上で北極海に沈没し、およそ1500名の乗客が死亡したという、実に傷ましい事故です。当初の調べでは、沈没の原因は、巨大な氷山に衝突した衝撃でできた、たった1つの大きな穴が原因ということでしたが、その後の詳しい調べによって、「1つの大きな穴」ではなく、「無数の小さな切り込み」すなわち「一見無視されそうな、致命傷に至らないようないくつもの切り込み」が本当の原因だったことが判明したそうです。 私たちはこの『タイタニック号の事故』から、私たち自身の人生を『沈没』させないための、いくつかの教訓を学ぶことができます。 まず最初は、「そんなことは、自分には決して起こらない」という思い上がりは、危険だということです。次に、「『人生の危険』は、必ずしも何か大きな事件ではなく、日常の小さな事の中に隠れている」ということ。そして最後は、1日1日の失敗の中で学んだことや他の人からの忠告をキチンと『教訓』として生かしておかないと、やがて取り返しのつかない『沈没』に至ってしまう、ということです。 実は、タイタニック号にはもともと、すべての乗客を安全に避難させるために十分な数の『救命ボート』が装備されていたのですが、「見栄えが悪い」ということで、対面を気にする乗務員の手によって外されてしまっていました。私たちにも、人生の破船が起こったときのために、初めから『神様の助けの手』が差し伸ばされているのですが、「『神様を信じて生きる』なんて、弱い人たちのすること」などと言われることを恐れて、対面を気にするがあまり、せっかくの助けを得られないでいる人々がたくさんいます。今どうぞへりくだった心で、あなたの前に提示されている『神の助けの手』にあなたの手を伸ばしてみませんか?

(27) 正しい者は、7たび倒れても、また起き上がる。

「失敗は成功のもと」と良く言われます。しかし、すべての人が失敗の経験を生かして成長しているとは言えませんよね。いったいこの「失敗の経験を生かす秘訣」というのは、何なのでしょうか? ウィルマ・ルドルフは、22人兄弟の20番目として生まれた女の子でした。貧しい黒人家庭に生まれた彼女は、幼い頃に『ポリオ』にかかりましたが、その貧しさの故にまともな治療を受けることができず、後遺症のため、9才まで補助器具を付けなければ歩けませんでした。 12才になったとき、彼女は思い切って地元のバスケットボールチームに入るためのテストを受けましたが、落ちてしまいました。それでも彼女はへこたれず、その後も毎日練習し、翌年には合格してチームに加わることができました。高校でもバスケットを続けていた彼女は、ある日陸上競技のコーチに目を留められて、短距離走のトレーニングを受けることになりました。不屈の努力が報われて奨学金が与えられ、テネシー大学に進むことができた彼女は、1960年に何と短距離走走者としてオリンピックに出場することになりました。そこには世界記録保持者の『ジュッタ・ヘイン』がいたにも関わらず、ウィルマは100メートル、200メートル、そして400メートル・リレーすべてで優勝を遂げたのです。 今ではウィルマはすっかりお婆ちゃんになってしまいましたが、相変わらず世界中を巡りながら、次のように言って、子供たちを力づけているそうです。「あなたたちにだって、驚くべきことができるのよ。あきらめないで『いつかきっとできる!』という希望を捨てずに、日々自分のベストを出し切ってさえいれば。」  

(26) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 聖書に「姦淫の現場で捕らえられた女性」の物語が出てきます。律法の専門家たちは「こんな女は、律法が言う通りに『石打の刑』にしてしまうべきだ!」と言います。では、イエス・キリストは何とおっしゃったのでしょうか?この女を軽蔑の眼差しで眺めていた民衆に対しては「あなたがたの中で、罪のないものがまず、彼女に石を投げなさい」と言い、人々が去ってしまった後には、この女をじっと見つめて「私もあなたを罪に定めないから、もう帰りなさい。但し、これからは2度と同じ罪を繰り返してはいけないよ。」とおっしゃいました。この女性は、その後どんな人生を辿ったか、想像に難くはありません。 「互いに励まし合い、徳を高め合う」というのは、聖書全体に流れている1つの大きな思想です。それなのに、なぜ私たちはしばしば『誉めことば』を出し惜しみしてしまうのでしょうか?また「他人の成功のために手を貸すこと」を躊躇してしまうのでしょう?恐らくほとんどの場合、その理由は単に「面倒くさい」「そんなこといちいちする必要ない」などの『自己中心性』から来るモノなのでしょう。 私たちは、人々へのちょっとした『賞賛』や『協力的態度』を現すことがどんな力を持っているか、よく分かっていないようです。それとも、「そんなに誉めてばかりいたら、奴は図に乗ってしまうよ。」などと思っているのでしょうか?世の中には、「心の病で死んでしまう人」はいても、「自惚れすぎて死んでしまう人」はほとんどいません。さあ、今日からぜひ、あなたからの励ましや誉めことばを必要としている人々を見つける旅を始めましょう!そして、それらの人々の傍らに立ち、彼らが目指しているゴールに辿り着けるように、精一杯の手助けをしてみませんか?

(25) ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

ある人がセールスマンとして働き始めましたが、何ヶ月働いても一向に営業成績が上がらず、ついに上司に辞表を提出しました。しかし上司は彼の目をじっと見つめて言いました。「まだこの仕事を始めたばかりじゃないか。私はキミならきっといつかその才能を生かして、大きな仕事を成し遂げてくれると信じているんだ。もう少しだけ、一緒に頑張ってみないか?」 2年後にこの青年は、何と、この営業所でかつてない成績を上げ、全社員の前で表彰されました。表彰の席で彼は次のように述べました。「私は何度もこの会社をやめようと思ったんです。自分には全く将来性がないように思えました。しかし、私の上司は、私が自分に対して失いかけていた『信頼』を、私に対して抱き続けてくれました。彼は私が自分に対して持っていた希望よりも、何倍も強い希望で、いつも私を励まし続けてくれたのです。」 日本ではここ10年以上『自殺者数』が3万人を超えています。これらの人々の周囲に、もし上記のような上司(または友人)がいたならば、その多くは未然に防げたのではないでしょうか。私たちは、人々の『あら探し』はしても、『秘められた可能性』にはなかなか目を向けないものです。どうでしょう?今日からちょっと視点を変えて、人々の中の「磨けば光る宝石捜し」を試してみませんか?そしてまた、あなた自身がその『磨き人』の1人となることができたなら、何て素敵なことでしょう!  

(24) 心の一新によって自分を変えなさい。

“何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” ちょっと想像力を働かせてみてください。今あなたが臨終の床にいるとします。目の前に大きなDVDのスクリーンが現れ、神があなたの名前の付いた『こんな人生を生きることもできたのに…』というタイトルのDVDを上映してくれます。「もっと人々に施していたら、更に経済的に祝福されたのに…」「もっと大胆に新たな課題にチャレンジしていたら、眠っていた潜在能力を発揮できたのに…」「もっと人々に誠実に接していたなら、豊かで真実な人間関係に恵まれたのに…」「もっと悪い習慣に正面から向き合い、悔い改めてそれらを捨てていたなら、キリストのような品性を反映しながら生きられたのに…」。 ある心理学者は言います。「世に存在する言葉の中で、最も悲しみに満ちた表現は『もっと、こうしておけば良かった…』というものである。」 しかし、忘れないでください。私たちにまだ息があるのなら、この「こうしておけば良かった…」を「こうしておいて良かった!」に変えるチャンスがあるのです!そうです、ぜひ今少しの時間立ち止まって「後で後悔しないで済むために、今何ができるだろうか?」と自問自答してみてください。神様があなたに与えてくださっている才能や使命を、くだらないことに費やしてしまってはいませんか?また、自分が人生から学んだ貴重なレッスンを、自分の利益のためだけに独り占めしてしまってはいませんか? もしあなたが心からそう望むなら、あなたの人生はたった今から全く新しいものへと変わることができるのです。

(23) わたしは、人が見るようには見ないからだ。

「やはり所詮私には無理だったんだ…」そのような挫折感・敗北感にさいなまれている方はいませんか?または、そのような人々を周囲にご覧になっている方は? イエスは挫折している人々を『敗北者』としてはご覧にならず『勝利への道を見失っている者』とご覧になります。5回も結婚と離婚を繰り返していた女性をご覧になり、「神の慰めを受け、他の人々を慰めることができるようになる者」とみなします。盲人をご覧になり、「やがて見えるようになる者」とみなします。悪い習慣に捕らわれている人々をご覧になり、「脱出の道を捜している者たち」と捉えます。せっかく貯めた財産を、一見無駄な使い道に費やしている人をご覧になり、「尊い犠牲を払う者」とみなします。そして、あざけりの言葉を投げかけながら自分を十字架に釘付けにしているローマの兵士たちをご覧になりながら、「自分が何をしているのか分からない、赦されるべき罪人」とみなされたのです。 このイエスと出会うまでは、誰も自分の真価に気付くことはできません。ですから、どうぞ人々(自分のことも含めて)に対して『早まった評価』を下さないようにしましょう。そして「神はこの人をどのような目でご覧になっているのだろう?」と心に問うてみてください。私たちは皆『神の作品である』と聖書は言っています。だからこそ、神は私たち1人1人から『最高の結果』を引き出すことを願っており、またそれを実現することのできる方なのです。もし私たちがそれを期待しつつ、神に近づこうとするならば。  

(22) あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

「慌ててワイシャツのボタンを留めていたら、1つずつズレてしまって、最後の1つが合わなくなってしまった…」そんな経験はありませんか?あなたはその時どうしましたか?「もう時間がないから、そのまま出かけてしまった」などという人はあまりいないでしょう。きっと1度全部外して、もう1度慎重に良く確認しながら、キチンとボタンを留めていくはずです。 ところが、これがもう少し複雑なモノ(もっと時間がかかるモノ)だったとしたら、どうでしょうか?「やっと編み終わりそうだった『手編みのマフラー』」とか、「数年前に借りて、返すのを忘れてしまっていた『友人の本』(友だちは引っ越してしまって、引っ越し先を調べなければならないとしたら…)」、そしてまた「何年も前にできてしまった(夫婦や親子などの)『人間関係の溝』」などなど…。思わず「見なかったことにしよう」「今更何ができるって言うんだい!」そう思いたくなってしまうのも無理ないかもしれません。 しかし、マーカス・アウレリウス博士はこう言っています。「『過ち』とは、多くの場合、『してしまった』ことではない。それは、『すべきことをしていない』ことである。」 ある意味「してしまったこと」はもう取り消すことはできません。しかし「しはぐっていること」は今からでもまだチャンスがあります。あなたが臨終の床に就いたときに「ああ、あのことをやり遂げておくんだった!」と後悔するよりも、さあ、今からでも間に合います。悔い改めて(再決心して)立ち上がり、新たな前進のために、初めに戻りましょう!

(21) 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

ある親子がロバを連れて旅をしていました。すると通りがかりの人が言いました。「何てもったいない!せっかくロバを連れているのに、誰も乗っていないなんて。」父親は「それもそうだ」と思い、息子を乗せて旅を続けました。すると別の通りがかりの人が言いました。「何て息子だ。自分1人ロバに乗って、父親を歩かせておくなんて。」息子は恥ずかしくなり、自分は降りて、代わりに父親をロバに乗せました。しばらくすると、また別の通りがかりの人が言いました。「何て父親だ。自分1人ロバに乗って、息子を歩かせておくなんて。」今度は父親が恥ずかしくなり、相談の結果、2人ともロバに乗ることにしました。すると今度は、別の通りがかりの人が言いました。「まあ、何てこと!あんなひ弱なロバに、人が2人も乗っているなんて!」親子は途方に暮れてしまって、とうとう終いには2人でロバをかついで旅を続けたそうです! 果たして私たちは「バカな親子だ」と笑えるでしょうか?私たちは皆、多かれ少なかれ「他人の視線や言葉を恐れる性質」をもっています。もちろん、周囲の人々に気を配ることは大切ですが、それに振り回されて自分を見失ってしまうのは愚かなことです。 真に周囲の人々に気を配り、必要な助けを与えることのできる人、それは「人の目を恐れず、日々自分のありのままを受け入れてくださっている神の愛を、心の拠り所として抱いている人」なのです。

(20) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。

『学ぶ』という言葉は、『倣ぶ』という言葉から来たと言われています。すなわち、もともと人間は物事(特に『人生』)について、学校で『学んだ』のではなく、身近な人(主に親)がしているのを見て、それを真似ながら身に付けていったわけです。 これは何も昔の話だけではありません。現代でも同様のことが起こっています。「子は親の言うことは行わないが、やることは真似する」と言われている通りです。ですから私たち(特に子を持つ親)は、後の世代に良いものを伝えていくために『良き模範』とならなければいけませんよね。では、私たちは特にどのようなものを後の世代に残していったら良いのでしょう? 2つのことが言えます。1つは「正直さ」です。残念ながら、私たちは誰1人『完璧な模範』となることはできません。それはイエス・キリストお1人で十分です。人々が私たちに期待するのは「正直な姿勢」です。残念ながら間違いを犯してしまった時、それを隠そうとしたり、「だってOOのせいで…」などと弁解しようとするのではなく、「ごめんなさい。私が悪いんです」と過ちを素直に認める姿勢を示すならば、彼らはきっと「過ちを赦す心」「失敗を恐れずチャレンジする勇気」「間違いを認める謙遜さ」を学ぶことでしょう。 もう1つは「肯定的な姿勢」です。ある調査によると、親が子供に語る言葉の90%は『否定的な言葉』だそうです。「何度言ったら分かるんだい」「どうしてお前はいつもそうなんだい」「ちっとは頭を使ったらどうだい?」などなど、あなたも心当たりがありますか?一方「肯定的姿勢」は、人々の秘められた可能性を見出し、彼らにそれを気付かせ、励まし、それらの才能が更に開発されるよう、具体的な助けを与えるのです。これらの人は次のように言います。「大丈夫」「あきらめちゃダメ」「あなたならきっとできる!」 人生に困難はつきものです。必ず何度かは、心がくじけてしまいそうな時がやってきます。そんな時、上記の2つのような模範によって育まれ成長した人々は、何と幸いなことでしょうか。

(19) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

あなたは今朝どんなことを考えながら目覚めましたか?「やった!また新しい1日が始まる。今日はどんな素晴らしいことが待っているのだろう?」と希望に満ち溢れて目覚めましたか?それとも「あ~あ、また朝が来ちゃった。起きたくないなぁ。また1日生きなくちゃならないのかぁ…」と憂鬱な気分で目覚めたのでしょうか? 実は、私は毎朝ワクワクしながら目覚めます。もちろん今クライストチャーチは冬なので、なかなか布団から出たくないのも事実ですが、それでも元気よく目覚めることができるのは、私が愛する人々に囲まれて生きているからです。最愛の妻、子供たち、そして教会の1人1人のメンバー。どの顔を思い浮かべても、私を笑顔にしてくれます。それは彼らが私に何かをしてくれるからではなく、私の内側から「今日も彼らの役に立ちたい!」という思いが溢れ、エネルギーが湧いて来るからです。 私は1日を、これらの人々の祝福のために祈ることから始めます。するとあっという間に1時間くらい経ってしまいます。でもそれは決して無駄な時間ではなく、むしろ私にとって『至福の時』だと言えます。たとえその日直接それらの人々に会える機会がなくても、少なくとも私は祈りの中で、神様を交えて、その人々に会ったのですから。 私は「この『愛』こそが、人を毎朝目覚めさせるための真の活力だ」と思うのです。私たちの日々の生活を充実したモノにしてくれるのは「活動そのもの」ではなく、「それらの活力の源」となるべき『愛』なのです。ただタスクだけをこなす「愛のない日々」は味気ないものです。そしてこの『愛』は、必ずしも「愛らしい人々が周りにいる」ことから来るのではなく、「愛に溢れたお方とつながっている」ことから始まります。私たちをこの『愛』に目覚めさせるために、イエスはこの地上に来られ、十字架の上から「私たちへの熱い愛」を注がれたのです。

(18) 私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

あなたにとって『神様のイメージ』はどんなものですか?「白いヒゲをはやした柔和そうなおじいさん」「さぼってるとバチを当てる見張り人のような存在」「何でもお願いを聞いてくれるサンタさんみたいな人」などなど、いろいろありそうですね。 聖書全体からつかみ取れる『神様のイメージ』は、言ってみれば「関係を取り持つキューピット」のような方です。神様が私たちに最も望んでおられることは「正しい行いに生きること」ではなく「正しい関係に生きること」なのです。イエス・キリストは『最も大切な戒め』として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」とおっしゃいました。そしてそのような愛は、私たち1人1人が「神様との正しい関係」の中に招き入れられない限り、決して持つことができないのです。 神様が私たち人間をお造りになったとき、「ご自分との関係の中に生きるように」、そして「神様との関係の中で育まれた『愛』をもって、人々が互いに愛し合うように」と意図されたのです。ところが、この「神様との関係」というのを無視して、己を神のごとくみなし、自分勝手な価値観で生きるようになった私たちは、もはや『真実の愛』を見出すことができず、「心から信頼し、愛し合える関係」を求めて、日々さまようようになってしまいました。 神様は今日もあなたを招いておられます。あなたと神様との間を隔てていた壁は、イエス・キリストの十字架での『身代わりの死』によって取りのけられました。私たちは、このキリストを通して神様との関係の中に生かされるとき、神様が1番初めに意図されていたとおり、ウソもごまかしもない、決して失望させられることのない、『真実の愛に根ざした関係』を築きながら生きることができるようになるのです。

(17) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 「口はわざわいのもと」とは、昔から日本で言われている言葉です。聖書にも「愚か者も黙っていれば賢い者と思われる」とあります。このように、私たちが語る言葉は、しばしば人を傷つけ、ガッカリさせ、己の愚かさを露見させるきっかけとなり得ます。しかし、かと言って、全く何も語ることなく一生を過ごすことはできませんよね。では、一体どうすれば良いのでしょうか? イエス・キリストはおっしゃいました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と。私たちは何か言うべきでないことを言ってしまったとき「心にもないことを言っちゃった…」などと言ったりしますが、そんなはずはありません。心にあったからこそ話してしまったのです。ということは、私たちの『語る言葉』を変えるには、まず『心の中にあるもの』から変えなければなりません。 ところで、私たちの『心の中にあるもの』というのは、一体どこからきたのでしょうか?お腹の中から自然と湧いてきたのでしょうか?いいえ、そのほとんどは、私たちが意識的、または無意識に自分で心に取り込んだのです。家族や友だち、新聞や雑誌、そしてテレビやインターネットなどからです。そして非常に残念なことに、それらのほとんどは、否定的・破壊的な情報に満ちており、本来私たちが触れているべき「崇高で愛に満ちた情報」から隔絶しているのです。 『聖書』の中で神が私たちに語りかけることばは、『愛と尊厳』に満ちています。「わたしはあなたを崇高な目的のために造った」「わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した」「あなたはわたしの目に高価で尊い」「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」…。私たちがこれらの『真理のことば』に絶えず耳を傾けて生きるとき、私たちは「良い倉」から「良い物」を出す、「聞く人に恵みを与える者」とされていくのです。  

(16) どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではないからです。 ある新聞社で「お金とは?」という質問に対する回答を募集したところ、実にいろいろな投書が集まりましたが、その中に次のようなものがありました。「いくらあっても困ることがなく、幸福以外なら何でも買えるモノ。」 確かにお金がたくさんあれば、いろいろなものが買えて大変便利ではありますが、財産は必ずしも私たちを幸福にはしてくれないようです。実際多くのいわゆる『お金持ち』や『成功者』たちは、心に悩みを持ち、ノイローゼや自殺などに至ってしまうこともしばしばです。かえって、その日暮らしの貧しい人々の方が、心の底から笑うことができるのではないでしょうか? 真の『幸福感』『生きる喜び』は「明日のことは心配するに価しないことだ、と信じること」から来ます。幼い子供たちが、時間の経つのも忘れて、ひたすら楽しく遊ぶことができるのは、先のことを何も心配していないからです。彼らには『地位』も『財産』も何の意味も持っていません。ただ「輝く今」だけがあるのです。 私たちは、私たちを限りなく愛し、私たちの明日を守ってくださる「神の御前にあってのみ」この喜びと充足感を味わうことができます。これは単なる『楽観主義』とは全く別のことです。『楽観主義』とは、何の根拠もなく「まあ明日は今日よりもちょっとはマシになるだろう」と考えることです。しかし、私たちが聖書を通して『私たちのいのちを見守られる神』と出会うとき、「根拠のある安息」を持つことができます。しかも、この神が私たちに望んでおられるのは「頑張って活躍し、成功すること」ではなく、「ただ幼い子供のように、その力強さと深い愛に心から信頼し、この方と共に生きる『今』を満喫すること」なのです。

(15) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

多くのいわゆる『宗教』は、『善行(良い行い)』というものを「救いに至る条件」として強調します。気持ちとして分からなくはないのですが、多くの場合、救いの道を求めておられる方々というのは正しい行いを「しなくてはいけないと分かっているのに、できない」からこそ、悩んでおられるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは『神の作品』である」と教えます。だからこそ私たちは、程度の差こそあれ「正しく生きたい !」という願いを持っているのです。しかし私たちが、この世に生を与えてくださったこの神様と無関係に生きようとしているため、どんなに正しく生きようとしても、それを実現できないのです。それはちょうど、電源から抜けてしまっている電化製品が、正しく作動しないのと同じことです。 「クリスチャンが良い行いをするのは、そうしないと救いを得られないからだ」と勘違いなさっている方々がおられます。もし「クリスチャン=良い人たち」という印象があるとすれば、それは「そうしないと救いが得られないから」ではなく、むしろ「救いを得た結果として、自由に良い行いができるようになったから」というのが正解です。 神は初めから私たちを「良い行いに歩むように」とデザインされました。「どうやら私は今、そのデザインからズレて生きてしまっている」とお感じになっているあなた、神が提供しておられる「イエス・キリストにある救い」を素直に受け取ってみませんか?  

(14) 主(神)を恐れることは知識の初めである

『常識』という言葉を辞書で調べると「普通、一般の人が知っている、また知っておくべき知識」とあります。ところが最近この『常識』に欠ける人々が増えてきていることが問題になっています。その事実は、次のような「取扱説明書」の記述を見ると分かります。 ・ヘアードライヤー:睡眠中はご使用にならないでください。 ・アイロン:衣服を身に着けたままご使用にならないでください。 ・チェーンソー:回転中のチェーンを手で止めようとしないでください。 これらのことを理解していないということは、単に「知識がない」というよりもむしろ、「人が生きる上で正しい判断を下すための基準を持っていない」とも言えるのではないでしょうか。 聖書は「人は神を認めようとしなくなって以来、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」と書いています。生まれつきの人間は、自分自身の中に『確固たる判断基準』を持っていません。そしてこの『確固たる判断基準』なしに、ただ知識や経験を積み重ねたところで「正しい分別」を身に付けることはできません。私たちの日々の歩みに確信を与える『絶対基準』、それは、この天地の創造主、絶対者である神以外におられないのです。

(13) わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた 大いなる事を、あなたに告げよう。

ある女性が山道を運転中に居眠りをしてしまって、ガードレールを突き破って転落しそうになりました。幸いガードレールの切れ端が車の1部にからまったため、車体は谷底に落ちずに、宙づりになりました。通りがかった人々の通報によりロードサービスがレッカー車と共に到着し、救出活動が開始されましたが、興味深いことに、救出活動中、車体が揺れるたびに、その女性ドライバーは次のように叫んでいたということです。「もういいわ!あとは自分でできるから!」 ある人々は、他人に与えるのは得意ですが、他人から受けるのを苦手としています。プライドが邪魔をするのです。「他人の助けは要らない。自分1人でできる!」と言うのです。しかし多くの場合、私たちは自分の本当の姿を理解し成長するために、私たちのことを良く知っている周囲の人々のアドバイスを必要としているのです。 「神を信じるのは、愚かで弱い人のすることだ」と言う人々がいます。しかしもし神が本当におられるとしたら、彼こそが私たち1人1人のことを最も良くご存じで、私たちの成長のための最善のアドバイスをすることができる方です。上記の言葉は、聖書の中で、神が私たちに呼びかけている言葉です。私たちがつまらないプライドを捨て、へりくだって神の前に進み出るとき、私たちの人生に有益な『理解を越えた大いなる事』を、神は私たちに知らせてくださるのです。

(12) しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、 主には、彼を立たせることができるからです。

おできを治すにはメスを入れなければならないように、心の傷をいやすには、まず自分で『傷口そのもの』としっかり向き合うことが必要です。ショッキングな出来事と遭遇したとき、それによって打ちのめされてしまうか、それともその出来事を栄養源として成長できるかは、「その出来事がどれほど悲惨か」ではなく「どのような態度でそれに対処するか」にかかっています。 このような局面を踏み台にして前進する人々は、まず「この出来事によって、自分の中のどんな『計画』『希望』『夢』が脅かされているか」をしっかりと把握します。そして「どこがすっかり破壊されていて、どこが未だ修復可能か」を明らかにし、そこから「回復・成長」のための青写真を描いて行きます。 「そんなこと言っても、このことが起こってしまったからには、もう決して元通りには生きられない…」そのように考えてしまうのは、極自然なことです。『人生の危機』が突然訪れると、人は誰でも少なからず不安定になるものです。でもそれは同時に「自分の中に潜んでいた、今まで気づかなかった新たな可能性の扉を開かせるチャンス」にもなり得るのです。「今はまだそんな風に考えられない」としても大丈夫。無理をせず、ただ「私は決して倒されることはない」と信じて下さい。何故なら、私たちの神は、ご自身の名を呼ぶ者が倒されることのないように支えることができる方だからです。

(11) 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

中学入学を目前に控えたある少年が自殺しました。彼はちょっぴり『太りすぎ』だったので、学校で他の子たちから嘲笑されるのが恐ろしかったのです。 人前で恥をかかされたり、人格を傷つけられたりする経験ほど、心の痛むことはありません。逆を言えば「ありのままを受け入れ、愛してもらうこと」ほど、力づけられる経験もない、ということです。 私たちはしばしば、よく知りもしない人のことを、『見かけ』だけで判断したり、拒絶したりします。『同性愛者』に対し、「友になろう」ともせず、「あなたは間違っている!」と批判します。『離別された者』の事情を聞く前に、「どうして離婚なんかしたの!」と怒鳴ります。「孤児を助ける」という覚悟もなしに、「堕胎は不法だ!」と決めつけます。 イエスの弟子たちが「生まれつき目の見えない男」と出会ったとき、彼らはイエスにこう尋ねました。「この人が盲人に生まれついたのは、彼自身の罪のせいですか?それとも彼の親の罪のせいですか?」これに対し、イエスは次のように答えます。「そのどちらでもない。神のみわざが彼の上に現されるためだ。」と。 一見「標準から外れてしまっている」ように見える人々や事柄、それは『批判の対象』ではなく「『神の愛のわざ』が行われるための機会」にすぎません。そして神はそのみわざを現すために、その愛を『運ぶための器(私たちの心)』を必要としているのです。あなたはその準備ができていますか?

(10) あなたがたの信仰のとおりになれ!

鉄道で働くある男が、誤って『冷凍車両』の中に閉じこめられてしまった。いくら叫んでも助けは来ず、『凍死』の恐怖に彼はおびえ、こんな悲惨な状況に陥った自分の運命を呪った。凍える手で彼は「自分がどんなに哀れな死に方をしなければならなくなったか」の顛末を克明に記した遺書を書いた。 翌朝彼は『凍死体』で発見されたが、ここで驚くべき事実が判明したのである。というのは、この『冷凍車両』はずいぶん前から故障中で、既に電源からは外されていた。その内部の温度は、外気より少々低い16℃であった。 私たちは自分の不幸を「他人のせい」や「環境のせい」にしようとする。しかし実際は「私たち自身がその事実をどう受け止め、解釈しているか」の方が、私たちの人生により大きな影響を与える。「人があなたをどう思うか」よりも「あなた自身がどう思っているのか」の方がはるかに重要である。神は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」とおっしゃった。神に信頼し『思いの一新』によって新たな人生を歩もう!

(9) どうしても必要なことはわずかです。いや、1つだけです。

私たちの住むこのクライストチャーチで、そして我が愛する祖国日本で、相次いで大震災が起こった。正直言って今でも、ぬぐいきれない不安と、大きな心の負担を背負いながら日々を送っている。ただ、そんな中で、神様から大切なレッスンをいただいた気がする。 水道・電気・電話が使えず、多くの店が閉じている中、非常にシンプルな生活を余儀なくされた。目に見えるものがことごとくくずれさった後、そこに残されているのは、ただ途方に暮れている人々であった。同じ災害に遭った者同士、提供できるものはほとんどないが、ただ一緒にいてあげることだけはできた。話を聞いてあげることはできた。昨日まで『私事』にかかりきりであった時間を、今は他の人々とたっぷり共有することができる。そして改めて悟った。「大切なのは、イベントや能率性ではなく『人』なのだ」と。 震災後4週間が経ったが、我が家の水道と電話は未だに復旧していない。けれども多くの友人・知人たちが「シャワーしにおいで」「洗濯してあげるよ」「今夜の夕食はぜひ我が家で」と声をかけてくださる。その度に「私たちは本当に『愛し合うため』に生まれてきたんだなぁ」と思い知らされる。「自分1人で生きていける」と思いがちな私たちにとって何と大切な教訓であろう。 起こってしまったことはどうしようもない。失われてしまったものをいつまでも悔やんでいたら、今目の前に与えられている大切なものをも見失ってしまう。「何よりも『人』が大切」このことをしっかりと胸に刻んで、1日1日を生き抜いていこう。

(8) 指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。

あなたが野球の試合に参加していて、今 2塁ランナーだとします。次のバッターがヒットを打ちました。3塁に進めることは間違いありませんが、ホームへ突っ込むべきかどうかは判断に迷います。打球の行方を目で追っていたら、走るスピードが落ちてしまいます。一体どうすれば良いのでしょう? 心配するには及びません。あなたが向かっている 3塁ベースには『サードコーチ』が立っています。彼は打球の飛んだ方向や位置、あなたの走力や外野手の肩の強さなど、すべてを把握して的確に判断し、あなたのために最善のアドバイスを送ってくれるのです。 私たちの人生にも、同様なことがしばしば起こります。「右に行くべきか、いや、左に行こうか」「進むべきか、それとも止まるべきか」…。こんな時に「サードコーチ」のような存在がいたら、どんなに心強いことでしょう。 実は、そんな方がいるんです !すべての状況をいつも正しく把握し、私たち 1人 1人の性格や好みをも知り尽くし、しかも私たちの幸せをいつも願っておられる方…それが、聖書が示している「この天地万物をお造りになられた神」なのです。彼は、ご自身に信頼する者に、時には「聖書のことば」を通して、時には「祈り」の中で、その心に語りかけ、道を示してくださいます。

(7) 生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

幼子でも老人でも、だれでも年をとって行きます。しかし必ずしも「賢くなっている」とは限りません。ある家庭で兄弟ゲンカがありました。妹が言います。「お兄ちゃんがいじめるの。ママ、お兄ちゃんを叱って !」ところがお兄ちゃんにだって言い分があります。「だって、妹が先にボクを叩いたんだよ !」 「それは私が悪いんじゃない !」これは子供たちだけの台詞ではありません。私たちは何歳になっても、身の回りの不幸を、人のせいにしたり、環境のせいにしたりします。しかし何の解決にもなりません。では、一体どうしたら良いのでしょう? 大切なことは「他の人はともかく、自分の過ちは何なのか」を明らかにして、どこをどう正せば良いのかを考え、実行することです。他の人の落ち度に関しては、神様に委ねましょう。もし私たちが神の前にへりくだり、自分の非を素直に認めるなら、神は私たちの側にいてくださり、他の人々との関係を執り成してくださいます。しかし、もし私たちが頑なに周囲を責めてばかりいるなら、そこには神様が関与してくださる余地はありません。もう苦々しい思いを溜め込むのは止めて、スッキリした開放感に包まれた日々を始めませんか?

(6)だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

「口は災いのもと」などと言います。確かに「あんなこと言わなきゃ良かった !」というような苦い経験が誰にも 1つくらいありますよね。かといって一生何も語らずに過ごすのが賢いとも思えません。どうしたら良いのでしょう? 神様は人のために口を 1つ耳を2つ造られました。それはあたかも「語る量の2倍聞きなさい」と教えているかのようです。私たちの周囲には、心の病を抱え「誰でも良いから話を聞いて欲しい」と『聞き手』を捜し求めている方々がたくさんいます。そのような中でもしあなたが「よぉし、今日は徹底的に話を聞いてあげる日にしよう !」と決心して 1日を過ごすなら、きっとあなたの周囲で多くの方々が心を癒されていくことでしょう。 ただ、ここに 1つの問題点があります。というのは、そのような方々の話す内容というものは、多くの場合『否定的』で、耳を傾けている者の心にも重くのしかかってくるからです。 ここで「2倍聞く」のことばの意味を考えてみましょう。これはただ「2倍の時間、聞くことに費やしなさい」ということでなく、「人のことばに耳を傾けると共に、神があなたに語りかけておられる言葉にも聞き耳を立てなさい」ということなのです。神は聖書を通して、私たち 1人 1人に常に『積極的・肯定的』なことばを語りかけます。この神のことばに心を開きつつ、人々の語ることに耳を傾けていくなら、決して『自己防衛的』になることなく、相手に対する思いやりと感謝に満ちたことばを語りかけることができるようになることでしょう。

(5)愛は人のした悪を思わず…決して絶えることがない。

ある7才になる女の子が「どうしてもヴァイオリンを習いたい」と言いました。母親は彼女の決心が堅そうなのを見て、お試しレッスンに通わせることにしました。教室に向かう道で母親は娘にこう言い聞かせました。「あのね、ヴァイオリンを習うにはとてもお金がかかるの。でもそのお金は何とかするわ。但し、1度始めたら、どんなに辛いことがあっても、決して途中であきらめてはいけないわよ。いいわね。」少女はコクリと頷いてから、これ以上真剣な表情はない、というくらいの面持ちで厳かに言いました。「分かったわ、お母さん。要するに『結婚生活』と同じっていうことね。」 聖書は「神様は私たちを『決してあきらめない愛』で愛してくださっている」と教えています。そしてその愛を反映させる場として、私たちに『結婚生活』という舞台を備えてくださったのです。この愛は「もし ◯◯ してくれたら…」というような条件付きの愛ではありません。相手の反応に関わらず、ひたすら愛し続ける愛なのです。神様のこの愛に対して心を開いてこそ、私たちは『家庭』『職場』『学校』などの生活の現場で「ひと味違った愛の香り」を放ちながら生きる者とされていくのです。

(4)なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

ある奥さんが毎朝、お隣の家に干されている洗濯物の汚さを窓越しに見ながら「もうちょっとキレイに洗えないものなのかしら !」と呆れていました。ところがある朝いつものように窓越しにお隣の洗濯物を見ると、驚いたことに、輝くようにキレイに洗われているのです。思わず側にいたご主人に「ねぇ、お隣は洗濯機を買い換えたのかしら?」と尋ねると、ご主人が言いました。「何言ってんだい。俺が今朝この窓をキレイに拭いたんだよ !」 「他人の振り見て、我が振り直せ」ということわざがあります。他人の落ち度ばかり指摘している人ほど、自分の姿が見えていないものです。他人のあら探しをする前に、まず自分が神の前に正しい良心を持って歩んでいるかどうかを吟味してみましょう。そうすれば、あなたの弱さや心の痛みをすべて理解してくださっている神様の優しさに触れて、他の人々の失敗にも寛容に対処してあげられるようになることでしょう。

(3)神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

「神がおられるなら、何故こんな問題が起こるのか?!」とおっしゃる方がいます。『問題』ってイヤですよね。 私たちの人生に問題が起こるのは、大きく分けて2つの理由があるように思います。 ①「自分の蒔いた種を刈り取っている」 ・神様は極めて公平な方です。私たちが掃除を怠れば部屋は散らかるし、暴飲暴食していれば体をこわします。私たちが正しい習慣を身に付けるようにと、神様はレッスンを与えてくださっているのです。 ②「問題のない人生は成長をもたらさない」 ・自分の子どもの正しい成長を願う親は、子どもにそれなりの課題を提供します。最近「自分の子どもには苦労をさせたくない」と甘やかす親が増えているのは残念なことです。神は私たちの堕落を願っているのではなく、成長を求めておられるので、敢えて私たちが試練に会うのをお許しになるのです。 神は決して私たちが試練に押しつぶされてしまうことを望みません。そこには必ず脱出の道があります。たとえ事態が『八方ふさがり』に見えても、『上(神様への道)』は開いているのです。

(2) 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。

「失敗すること大好き!」という人はあまりいないと思います。誰でも、できるだけ失敗や挫折を経験しないで人生を送りたいですよね。でもよぉく考えてみると、どんな偉業を成し遂げた人でも、その偉業に到達するまでには、数々の失敗を乗り越えてきたはずです。日本語のことわざにも「失敗は成功のもと」って言いますよね。 上記のことばは、キリスト教界で大いに敬われている『パウロ』という人が言った言葉ですが、このパウロは初めクリスチャンたちを迫害し、投獄したり殺したりしていました。しかしイエス・キリストこそ真の救い主・神の子であると悟った後、まさに人生を180度転換し、キリストによる救いを世界中に伝える人となりました。「偉業のかげに、失敗あり。」もしかしたら『致命的な失敗』とは「失敗を恐れて何もしないこと」かもしれませんね。

(1) ”わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

誰でも人から誉められたら悪い気はしませんよね。でも、あまり人の評価を気にしすぎると、とてつもなく落ち込まされることがないとも限りません。誰が自分を何と評価しようと、「私の価値は、他人の評価に関わらず尊いものである」ということを知っておくことは大きな助けになります。 上記のことばは、聖書の中で、神様が私たち1人1人に語りかけておられることばです。私たちは皆、この神様によっていのちを与えられて生まれてきました。何かができるかできないか、何を持っているかいないか、は私たちの価値を左右しません。私たちは「神様の御手で造られた尊い存在」であるからこそ、価値があるのです。

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