(205) “イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」”

1人の男性がローカル列車の中で、外の景色を凝視しながら「素晴らしい!なんて素晴らしいんだ!」を連発していました。これといって目を留めるほどの眺めがないばかりか、むしろゴミゴミした街並みの中、歩道には投げ捨てられた紙屑が散乱しているような光景しか見当たらないのを見て、隣に座っていた婦人が思わず彼に尋ねました。「一体何を見てそんなに感動しているの?」すると男は答えました。「いや、実は私は生まれてから30年間ずっと盲目だったのですが、多くの方々の資金援助と医学の発達によって『角膜移植手術』を受け、ついに見えるようになったんですよ!ですから、見えるものすべてに感動してしまうのです!」 心が不平不満に覆われてしまうと、せっかく神様が用意してくださっている『美しいもの』さえ見落としてしまいがちです。日常のささいなことの中にも『神の恵み』は満ちています。日々「神様、あなたが私の人生に用意されている祝福の一端を見逃すことの無いように、どうぞ今日も私の目を開いてください」と祈りましょう。

2016年3月13日 「祈りの扉が開かれた!」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「祈りの扉が開かれた!」     (13/03/2016) ◆福音の中身⑤ ― 「祈りの扉が開かれた!」 *神はイエスの十字架と復活のみわざによって、私たちのために『祈りの扉』を開かれた! ・誰に向かって祈るのか? ― 天地創造の全能の神。ひとり子さえお与えになった気前の良い愛の神。 ・何によって祈るのか? ― 自分の業績や立派さではなく、義なるイエスの身代わりによって。[ヨハネ16:23-24] ◆『聞かれる祈り』の秘訣 ①信じて祈る [マタイ21:22] ・「何を信じるのか?」 ― 神は善い父であり、不可能は無い。みことばの約束と聖霊の導き。 ②しつこく祈る [ルカ18:1-8] ・「求めなさい」の原意に忠実な訳は、「求め続けなさい」。 ・いつまで祈ればいいの? ― 答えられるまで or 「みこころでない」とはっきり分かるまで。 ③共に祈る [マタイ18:19] ・神はいつも『愛のうちに』働く。 ・『信仰の友』によって霊的に励まされる。   *結局カギは、『信仰』! ◆よくある質問 ◎「こんなこと祈っていいの?」 ― それは「祈る側(私たち)」ではなく、『答える側(神)』が決めること。 ◎「みこころにかなった祈り」(Ⅰヨハネ5:14-15)をするべき? ・確かにその通りではある。しかし「みこころが分かるまで祈らない」よりも、「みこころはよく分からないけど、 とにかく祈る」ことの方が優っている。祈り続けるなら、やがて『みこころ』に近づいてくる。 ✰共に「祈りの答えをたくさん経験する教会」となって行こう!    Outline of the sermon    “Window of prayer is now open!” Read more…

(204) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

『思い煩うこと』ほど「無駄な時間の過ごし方」はありません。イエス・キリストも次のように言われました。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか?」全くその通りです! 『思い煩い』は「心の平安」や「親密な人間関係」といった、私たちの人生を豊かにしてくれる要素を奪っていきます。また『思い煩い』はいつも背後から私たちの隙を伺って、私たちの思いの中に忍び込んで来るのです。 『思い煩い』というものは通常「私たちにはどうにもできないこと」に関してわたしたちが「あれやこれや」と思い巡らすことが原因です。1日の営みを終えて床に就いた後で「もっとああすれば良かった…」とか「あのことはどうなってしまうのだろう???」などと考え始めて、良く眠れなくなったりするのです。どちらにしても寝ている間には何もできないのだから、頭を切り替えてサッサと寝てしまえば良いのに、この『思い煩い』のためによく眠れず、結局翌日は寝不足のために、逆に仕事の能率が更に落ちてしまい、更に『思い煩う』ことになるのです。 聖書が私たちに勧めるのは、「思い煩う代わりに、あなたが眠っている間にさえあなたを顧みてくださる『全能の神』にゆだね(祈り)なさい」ということです。あなたの頭を悩ませている数々の『思い煩い』を片っ端から神様にぶちまけて、「もうあなたに打ち明けましたから、あなたに信頼して、もう悩みません!」と言って終わりにするのです。 ある方は「そんな、神様を『悩み相談所』のように使っては申し訳ない」とおっしゃるかもしれません。しかし聖書には「神は、彼に信頼する者を『神の子供』と呼んでくださる」とあります。そして『親』にとって、愛する自分の子供が1人でクヨクヨと悩んでいるのを、ただ黙って見ていることほど辛いことはありません。 『祈り』とは、何も「お願い事」ではありません。むしろ「神に信頼する者が、その真実な思いを神に打ち明ける行為」なのです。

2016年3月6日 ジャパンデーに参加

メッセージはありません この日は、年に1度の日本人コミュニティによるビッグイベント『ジャパンデー』に参加しました。1万5千人にのぼる大群衆の中でJCFとしての出店を出し、主を賛美するのは最高の気分でした。写真は当日の様子のほんの一部です。

(203) “彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。”

『親しい者の死』を経験することは、私たちの心に「深い悲しみ」、時には「神に対する怒り」を起こさせます。何を隠そうこの私もそのような人間の1人でした。 私は小学2年生の時に、祖父の臨終の場面に遭遇しました。今では「人の死に目に会う」という機会はあまりないように思えますが、私にとってこの経験はいろいろな意味で衝撃的でした。 また私が小学4年生の時には、前の年の担任の先生が自殺をしました。電車への飛び込み自殺でした。「そんなことがあっていいのか?」と、ただただ驚くばかりでした。 極めつけは、忘れもしない、私が小学6年生になる年の4月1日(エイプリルフール)。前日にも遊んだばかりの私の1番の親友が、交通事故で亡くなったのです。それを母から聞かされたとき、まさに「頭の中が真っ白」になりました。葬儀出席のために彼の家を訪れたとき、彼のお母さんが玄関先まで走り出てきて私を強く抱きしめ、「ケンちゃんだけが私のこのどうしようもない悲しみを分かってくれるよね!」と泣き叫んだことを、昨日のことのように思い出します。 神は私の人生にこのようなことが起こることをどうして許されたのでしょうか?そもそも私たちの人生には何故この『死』という乗り越えられない壁があるのでしょう? しかし私は、イエス・キリストと出会ったことを通して答えを見出しました。何故なら彼は「死を味わう必要のない方」だったにも拘わらず、私たちの代わりに十字架で死なれ、そして3日目によみがえられたからです。彼は私たちの弱さや深い心の痛みを理解してくださる優しさと、私たちを死の向こう側の希望へと運んでくださる強さとを兼ね備えておられる方なのです。 あなたもこの「イエス・キリストによる慰め」を経験し、彼に倣って「弱さを理解することのできる真の強さ」を持って生きたいとは思いませんか?

2016年2月28日 「聖霊(キリストの心)」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「聖霊(キリストの心)」      (28/02/2016) *福音の中身 ― ④聖霊 [ヨハネ14:26] ◆『聖霊』とは? ― イエスの名によって、父なる神から遣わされる ・信じる者すべてに既に与えられており、私たちの信仰生活のカギを握っている。[Ⅰコリント2:12] ・「神から来る良きもの」の代名詞的存在。[マタイ7:11,ルカ11:13] ― *何故そう言えるのか? ◆聖霊の働き ◎人生で最も重要なもの = 神との個人的で親密な関係 ・『神との関係』において「神の心を察すること」は重要。でもどうやって?[Ⅰコリント2:15-16] ・私たちは、神に対する「真実の愛」の故に自分自身をささげることもできるし、逆にその「自己中心性」の故に 相手の心を拒むこともできる。これぞ究極の『自由意志(信仰)による選択』。 *神に対してNoと言うか?[エペソ4:30,Ⅰテサロニケ5:19] *それとも自分の欲に対してNoと言うか? [ガラテヤ5:16-17] ◆イエスの願い [ヨハネ20:20-21] ・「求めなさい!」[ルカ11:9-10, 13,ヨハネ7:37-39] ・「聖霊(の満たし)を求める」とは、何か「奇跡的なことを行う力を求める」ということではなく、 本気で「神との親密な愛の関係を求める」ということであり、 「神が私たちに『最も与えたい』と思っておられるものを『他の何にも優って』求める」ということ。   Outline of the sermon        “The Holy Spirit.”    (28/02/2016) *What has God given us with Jesus? ― ④ Read more…

(202) “志の堅固な者を、(神よ)あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

海洋学者たちの調査によると、どんなに激しい嵐(例えば、高さ30メートル以上もの津波が起こるような)のときでも、海中に8メートルも潜るならば、そこは何事もないような静けさだそうです。 これは私たちの人生にも同様なことが言えます。すなわち、私たちの人生に大きな嵐が起こることは避けられないけれども、私たちの心の深い部分で『決して揺るがされることのない存在』につなげられているならば、私たちはそれらの『人生の荒波』を乗り越えていくことができるのです。 迫害下にあったクリスチャンたちの遺した次のような詩があります。「激しく打ちたたかれれば打ちたたかれるほど、私たちは釘のようにより深くめり込んでいく。そしてその深みで私たちは『真の神の平安』と出会うことができる」と。 私たちが『平安』を失うのは、自分ではどうしようもない困難に陥った時でしょう。でも神に解決できない問題は1つもありません。私たちが「人生の試練」に直面するのを神が許されるのは、それらの試練を通して私たちが「神のみが与えることのできる『真の平安』」を体験させるためではないでしょうか?

2016年2月21日 「永遠のいのち」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「永遠のいのち」      (21/02/2016) *福音の中身 ― ③永遠のいのち [ローマ6:23] ◆「永遠のいのち」とは? ・「死ぬ瞬間に与えられる」のではなく、既に与えられている。言わば私たちは今『2つのいのち』によって生かされている。 ・[ローマ6:23]で言われている『死』とは、「肉体の死」というよりはむしろ「神との断絶」を表している。 ・[エペソ2:1-2] ― この「不従順の子らの中に働いている霊(サタンとその手下たち)」の支配から、神の支配へと 私たちを取り戻すために、イエスは十字架にかかられた! *それ故、「永遠のいのち」とは… ①神との生きた関係 [ヨハネ17:3] ― それは日々豊かにされていく![ヨハネ10:10] ・唯一後の世に持って行くことができるもの。後の世では完全。しかし今の世でも体験することができる。 ・ただ、この世にあっては多くの妨害(「この世のいのち」の魅力)がある。[ヨハネ12:25] *神を深く知るごとに「この世の魅力」はかすんで行く。「空いている時間をどんなことに費やすか」がカギ。 ②イエス・キリストご自身[Ⅰヨハネ5:11-12,20] ― 心に迎え入れた時以来、私たちの内に住まれる『内なるキリスト』。 ・言い換えるなら「キリストがこの世で生きられたいのち」。「この世を愛する人々」から迫害されたいのち。 「父なる神にのみ希望を置く」いのち。御父のみこころをひたすら求め、それに生きるいのち。[ヨハネ4:32-34] ・あの『史上最高の生涯』を送られたイエスが、今度はあなたを通してこの地上を生きられる。 これほどエキサイティングなことがあるだろうか?! まとめ *「永遠のいのち」とは… ①神との生きた関係  ②イエス・キリストが歩まれたいのち   Outline of the sermon        “Eternal life.”    (21/02/2016) *What is “Good News”? ― ③ Eternal life. [Romans 6:23] Read more…

(201) “あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。”

以前クライストチャーチでお会いした方から、最近こんなお手紙をいただきました。 「ニュージーランドで1番利率の高い銀行を紹介していただけませんか?日本にある私たちの貯金の大部分をそちらの銀行に移したいと思うので…」 恐らくほとんどの人々は『お金持ち』になりたいと思っていることでしょう。もしかするとある方々は「もしもっとお金が貯まったなら、きっともっと気前よくなれて、いろいろな場面で施したり寄付したりできるようになるに違いない」と思っておられるかもしれませんが、実際は、『お金持ちであること』と『気前のよさ』とはあまり関係はないようです。数年前のイギリスの調査では、収入の少ない方から20%の方々は、その収入のうちの3.2%を寄付していて、収入の多い方から20%の方々は、収入のうちの0.9%しか寄付していないそうです。 金融関係に関する専門家のダニエル・レビン氏は次のように言っています。「『経済的繁栄』とは、どれだけ稼いだかによって測られるものではなく、むしろどれだけ与えたかによって測られるものである。」つまり、本当に気前の良い人というのは、自分がどれだけ持っているかに拘わらず、いつも『与える機会』を捜している人のことを指します。そしてもし私たちがしっかり目を開けて生きているなら、この『与える機会』というものはそこらじゅうにあるものです。 イエス・キリストは「あなたがたがこれらの小さき者たちにしたのは、わたしにしたのだよ。」とおっしゃいました。神にとっての1番の宝物は『お金』ではなく『人(私たち)』です。神は私たちに「2番目以下の宝を、1番の宝のために用いること」を願っておられるのです。