2017年11月5日 「神 ー キリスト ー 教会」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「神 ⇒ キリスト ⇒ 教会」        (05/11/2017) ◆[エペソ1:20-23] ・今やすべての主権はキリストにあり、キリストがその主権をもってご自分のみわざを行うために教会(私たち)を 招かれる。もしその招きを見逃したり拒んだりするなら、キリストのみわざは実現しない。 ・キリスト(私たちのいのち)が現れる時、私たちを通して神の栄光が現される。[コロサイ3:4] 自分自身に頼ってい る間は「この世の下」にあり、決してブレイクスルー(勝利)は来ない。 ◆3つの原則 ①神の地上における働きは、キリストによって行われる。 ②キリストはご自分のわざを、ご自身の教会(私たち)を通して行われる。 ③キリストがこのJCFを通して行おうとしておられる『特別なわざ』がある! ◆私たちの課題 [ローマ12:5] ・『召し』の共有。(上記の③が何であるかを「キリストにあって」見極める。) → ビジョン・サンデー [12月31日]   Outline of the sermon        “God ⇒ Christ ⇒ Church.”      (05/11/2017) ◆[Ephesians1:20-23] ・All the authority is given now to Christ and he invites us (his church) Read more…

(277) “まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。”

4週間ほど日本へ一時帰国していました。その間「聖書のいい話」をお休みしてしまいました。ごめんなさい。 さて、ある夫婦がドライブに行こうとしてガソリンスタンドに寄りました。するとスタンドの青年がフロントグラスを拭いてくれています。料金を払い終わり出発しようとしてふと見ると、何と拭いてもらったばかりのはずのフロントグラスがずい分と汚れています。夫の方が拭いてくれた青年に叫びました。「ずい分と雑な仕事をしてくれたじゃないか。もう1度キチンと拭いてくれたまえ!」青年は怪訝そうな顔をしながら、もう1度丁寧に拭いてくれているのですが、相変わらずフロントグラスは汚れたままです。夫は少々イライラしながら言いました。「その布が汚れているんじゃないか?よく確かめてみたまえ。」するとそれまで黙って見ていた妻がチョッピリあきれた顔で夫のメガネを取ると、自分のハンカチを取り出してきれいにし、再び夫の顔に戻しました。あらためてフロントグラスを見ると、一点の汚れもなくきれいになっていました。 この世のさまざまな『宗教』は、私たちに「道徳的な教え」や「立派な行動の規範」を示してくれます。それらはもちろん大切なことではあるのですが、私たちは決して外面的な努力によっては真の意味で自分自身を向上させることはできません。私たちの行動が洗練されていくためのカギは「私たちの内面の変化」にあるのです。私たちはまず内面的に造り変えられ、その後でその刷新された内面が、目に見える行動となって現れるようになるのです。 キリストは私たちの内面に潜んでいる「創造主なる神からそれている思い」という人類の根本的な問題に光を当てるために来られ、そしてその問題を解決するために私たちの身代わりに十字架の上でその罰をお受けになりました。このキリストを内側にお迎えすることによって初めて、私たちは物事の真実を見つめることができるようになり、少しずつ「人間のあるべき姿」へと回復されて行くことができるのです。

2017年10月29日 「霊的な波乗り」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「霊的な波乗り」         (29/10/2017) ◆日本訪問レポート ①関西帰国者同窓会  ②関東帰国者同窓会  ③JCFNオフィス訪問  ④懐かしい人々 ◆霊的な波乗り ・信仰生活は「水泳」よりも『サーフィン』に似ている。自分の力に頼るのではなく、いかにして「神の繰り出す波」 に乗るか?それは『神主導』による「神と人との共同作業」 ・私たちのなすべき祈りは、「私を祝福してください」というより、むしろ「あなたの祝福の中を歩ませてください!」 ◆まず内面から [ルカ6:46-49] ・私たちは“Human doing”ではなく“Human being”。 ・聖書の命令は「肉の力で成し遂げるもの」ではなく、「聖霊に『変えられた人々』を通して自然に現れるもの」。 ✰まず「キリストが主である」という土台をしっかり築き、その上にキリストにあって『主のわざ』を建て上げよう!   Outline of the sermon           “Spiritual surfing.”         (29/10/2017) ◆Report from trip to Japan. ①Reunion in Osaka.  ②Reunion in Utsunomiya.  ③Visiting JCFN office in Tokyo.  ④Other special friends. ◆Spiritual surfing. ・Our Christian life is more similar to Read more…

(276) “見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを(神に)願って聞き届けられました。”

 「もし全知全能の神がおられ、私たち人間を愛しておられるなら、どうしてこの世には悪が存在するのか?」そのように考えたことがある方は少なくないと思います。 聖書を気をつけて読むなら、何箇所かに渡って「この世における『悪の力』の存在」について描写してあることが分かります。そしてその首領は『悪魔』とか『サタン』とか呼ばれて、ある箇所では「この世の王」とも呼ばれています。すなわち、本来神様はこの地上を人間のために造られたのに『初めの人アダム』が神のことばよりも悪魔のことばに従って以来、この地上の支配権が悪魔に奪われてしまったのです。では、神様はそんな悪魔をどうして野放しにしておくのでしょう? 聖書の中の悪魔に関する記述を注意深く読むと、悪魔は「神の許容範囲内」でしか活動できないように制限されていることが分かります。悪魔がある個人または地域に災いをもたらそうと考えたとき、いつも神に「お伺いを立てに来る」のです。では、神は何故そのような悪魔の思惑をお許しになることがあるのでしょうか?それにはいくつかの理由がありますが、その主な理由は「私たちの目を『霊的な世界』に向けさせ、ご自身の許に引き寄せ、試練を通してその信仰を成長させるため」であるということができるでしょう。日本語のことわざにも「苦しいときの神頼み」とありますが、私たちはしばしば「痛い目を見るまでは神を求めない」頑なな存在です。しかし私たちが心を神に向け、彼を呼び求めるなら、神は私たちを「暗闇から光へ」移すことのできる方なのです。 悪魔は人間よりも力がありますが、神はその悪魔よりも圧倒的に優れたお方です。神は、彼に信頼し彼と共に歩む者とされた人々と『一緒に』この世界をご自身の許へと取り戻そうとしておられるのです。神は、私たちが苦難の真っ只中にいる時に、それをただ「傍観している方」ではなく、私たちが神に向かって助けを求めて叫ぶのを今日も「心を痛めながらじっと待っておられる方」なのです。

2017年9月24日 「聖なる神の宮」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「聖なる神の宮」         (24/09/2017) ◆私たちは『神の神殿』 ・イエスはご自身が『神殿』(神の臨在・聖なるもの)であるという自意識を持っておられた。[ヨハネ2:19-21] ・私たちも『神殿』(神の臨在・聖なるもの・神の注目の的)である。[Ⅰコリント3:16-17] その「存在自体」に価値がある。「建物(外見)の立派さ」が重要なのではなく、『内容物(神の御霊)』が重要。 ◆『聖なる神の宮』として生きる ・「神以外の偶像」を据えないように心を見張る。(悪王マナセのストーリー[Ⅱ列王記21章]から学べ!) マナセは『主の宮』に「偶像のための祭壇」を築いた。この行為は神の逆鱗に触れた。[Ⅱ列王記23:25-26] ・[ヨハネ2章]のイエスの『宮きよめ』は、私たちが「神の宮としての自分」を日々聖く保つべきことを教えている。 神の前の『聖さ』とは、単に「きれいにしてあること」ではなく、「心が分かれていない(定まっている)」こと。 ・この世は様々な魅力をもって私たちの心(主の宮)に偶像を据えようとするが、だまされてはならない! 本当に『良いもの』は、『良い父』だけから来る![ヤコブ1:14-17]   Outline of the sermon      “We are God’s holy temple.”    (24/09/2017) ◆We are “God’s temple”. ・Jesus identified himself as “God’s temple”(revealing God’s holiness & presence). [John 2:19-21] ・We are also “God’s temple”(revealing God’s holiness & Read more…

(275) “私たちは、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。”

『自分の存在価値』というものをはっきりと理解していることは非常に重要です。そうでないと私たちは常に「誰かに認められよう」とやっきになり、相手のために貢いだり、自分を偽ったりして、かえって自分をおとしめることになります。『自分の存在価値』を人からの評価に捜そうとするなら、それは中毒のように私たちを滅ぼして行きます。何故なら私たちは決してそのような方法では「満足に至る」ことはないからです。 私たちが聖書のことばを通して『創造主である神』と出会う時、私たちは初めて「自分の真の存在価値」というものを見出すことができます。何故なら『私たちの真価』は、私たちの「能力」「業績」「財産」などによって測られるのではなく、「私たちが誰の作品であるか」によって決まるからです。 私たちが他の人と語る時、もし「この人は私のことをどう思っているのだろう?」ということが気にかかるなら『心の中の真実』を語ることは難しくなり、結果として「耳障りの良いことだけ」を語るようになります。しかし実のところ大抵の人々はいつも『自分のこと』がその思いの中心にあるので、あなたのことにそこまで真剣に気を遣ったりはしていません。だから「人の目」や「人の言葉」を恐れないで下さい。むしろあなたのことをいつも心にかけてくださっている神様の「あなたは私の最高傑作なのだ。今日も自信を持って堂々と自分自身を生きなさい!」という語りかけにいつも心を留めていましょう。こういうわけで、私たちは「私たちの真価をご存知の神」にふさわしく、いつでも誰に対しても「愛をもって心の真実を語る」べきなのです。

2017年9月17日 「神の国の権威を行使する者」

琢磨くんの洗礼の証をダウンロードして聴く メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「神の国の権威を行使する者」     (17/09/2017) ◆神の国の権威を行使する者 [マルコ16:17-18] ・『しるし』 = 「証拠としての奇蹟」 ― 「神の国の民とされている(キリストと交換された)こと」の証拠。 ・私たちはこれらの『現象』を求めがちだが、重要なのは「神の国の民とされている」という事実。[ルカ10:17-20] ◆『神の国の権威』を行使するカギ = 『聖霊』 [使徒1:8] ・そもそも『聖霊』とは何か? ― それは「神のものとされている」というしるし。[エペソ1:13-14] ・神は「初めの人アダム」を造られた時、その鼻から『いのちの息(聖霊の象徴)』を吹き込まれ「ご自身のもの」と された。しかしアダムは神よりも悪魔のことばに従った。この悲しみは深く神の心に刻まれた。 ◆『神のもの』として生きる [ヤコブ4:3-7] ・神は私たちが、地上で『御国の権威の行使者』として生きるために「聖霊の満たし」を求めるなら、喜んで与え てくださる。しかしそれが「自分の願いを実現させるため」であるなら、求め方が間違っている。 ✰こう祈ろう!「天の父よ。私はあなたのものです。あなたの願いを地上で実現する者として使って下さい。       あなたが私に聖霊をお与えになったことを、後悔させない生き方をさせてください。」   Outline of the sermon      “To excise the power of kingdom.”    (17/09/2017) ◆We are called to excise the power of God’s kingdom. [Mark16:17-18] ・『Signs』. ― “To confirm that Read more…

(274) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という日本のことわざもあるように、必要な忠告を聞かないことは大きな失敗をもたらすことがあります。どんなにたくさんの知識を持っている人でも、知るべきすべてのことを知っているわけではありません。「自分にはまだ知らないことがある。まだまだ学ぶべきことがある」と分かっている人こそ『賢い人』と言えるでしょう。 プロゴルファーたちは皆『キャディ』たちと共にコースを回っています。そしてこの『キャディ』というのは、単に「ゴルフクラブを運んでくれる人」ではありません。彼らはそれぞれのゴルフコースに関する多くの知識を持ち、ゴルファーたちに必要なアドバイスを与えてくれています。 往年のプロゴルファーに「トミー・ボルト」という選手がいました。彼は大変技術の優れたゴルファーでしたが『癇癪持ち』でもありました。ある時ボルト選手が南カリフォルニアで開かれた大会に参加した時のことです。その日彼は前日に悪いスコアを出してしまったことに相変わらずイラついていました。そこで彼は1日の初めに自分のキャディに向かって「今日はお前は、オレ様に対して『ハイまたはイイエ』以外は言うんじゃない!」と命じました。そういうわけでキャディは、アドバイスをあげたいと思ったときでも忠実にその言葉に従いました。あるホールでボルト選手はティーショットを林の中へ打ち込んでしまいました。彼はイライラしながら林の中へ行き、そこに落ちているボールを見つけるとキャディに尋ねました。「やっぱりここは5番アイアンで行くべきだろうな?」キャディは「イイエ」と答えました。しかしボルト選手は自分の判断の方が正しいと思ったので、ともかく5番アイアンで打つと、打球は見事にグリーンの上の旗のすぐ側に止まったのです!ボルト選手は得意げにキャディに言いました。「どうだ、今度ばかりはオレ様の判断の方が正しかっただろ?何とか言ってみたらどうだ?」するとキャディは答えました。「ハイ、確かに良いショットでしたが、今あなたが打ったのは他の人のボールです。」 聖書は「人の心の高慢は破滅に先立つ」とも書いてあります。取り返しのつかない失敗をするよりは、立ち止まって忠告に耳を傾けた方が良いとは思いませんか?