2018年12月16日 「岩の上に建てる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「岩の上に建てる」      (16/12/2018) ◆みことばを聞いて行う [マタイ7:24-29] ・この2種類の人の違いはたった1つ。「聞いたみことばを行うかどうか」。つまり「日常のみことばに対する姿勢」 が試される。『岩(キリスト)』の上に人生を築き上げているか、それとも『砂(自分自身)』の上に建てているのか。 ・「みことばを聞いても行わない人」とは、聞いたみことばを『自分の量り』にかけて取捨選択してしまう人。これら の人は、見かけはキリストと関係があるようでも、実は他人。[ルカ8:19-21] ◆『神の心』を行う ・私たちは「自分のための神のみこころ」を求めがちだが、真に求めるべきは『神の心』そのもの。「この先自分 の人生がどうなるのか」が重要なのではなく、「この地に神の願いが実現するかどうか」が重要。 ・イエスはこれらのことを「権威ある者のように」教えた。[28~29節] 私たちも神の主権の許にへりくだり、自分 の願いではなく「神の願っておられること」が自分を通して成し遂げられる『至高の喜び』を証しする者になろう! ◆今週の『暗唱聖句』: [ヨハネの福音書 4章42節]   Outline of the sermon      “Built on the rock.”      (16/12/2018) ◆Listen and put into practice. [Matthew 7:24-29] ・Only 1 difference between these 2 types of people.  “Put His Word into practice or Read more…

(322) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

美しい星空や夕焼け雲を見て感動を覚える方々は多いと思います。そして聖書は、これらの美しさはその背後に『偉大な創造者(デザイナー)』がいることを想起させるためだ、と述べます。かの有名な物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。宇宙(大空)は聖書同様に創造者である神を分かりやすく証ししている、というわけです。 改めて考えてみると、全宇宙はこの「偉大なデザイナー」としての神を想起させるものに満ちています。例えば、私たちが生きているこの地球は太陽から約1億5千万キロメートル離れていますが、これが少しでも太陽に近ければ私たちは焼け死んでしまうし、遠ければ凍え死んでしまうのです。また誰もが知っているように地球は驚くべきスピードで自転していますが(何と時速およそ1700キロ!)、もしこれが半分のスピードだったりしたら、太陽に向いている側は焼け焦げてしまい、陰になっている側は凍ってしまうのです。 神を信じない人々は、これらすべてを「偶然」とか「進化」などと呼ぶようですが、「背後に偉大なデザイナー(神)がいる」と考えた方がはるかに妥当であると言えるのではないでしょうか?

(321) “神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。”

先日母が他界しました。『他界』ということは「別の世界へ行った」ということですよね。実際、母は「死んでしまって『無』に帰してしまった」わけではなく、私たちが生活している『この世』よりもずっと素晴らしい「悩みも苦しみもない『天国』」へ移されたわけです。実に羨ましい限りです。 神は私たち人間を「滅ぶべき者」としてではなく「永遠に存在する者」としてお造りになりました。本来私たち人間は「永遠に神との親しい交わりの中に生かされ、愛と喜びと平和に満たされて生きるべき存在」でしたが、私たちが『神』よりも『自分自身』を人生の王として生きることを選んだため、神と隔絶されて「この世の与える『一時的な満足』に慰めを見い出す存在」へと成り下がったのです。 ところが神は私たちへの深い愛の故に、私たちをもう1度本来の「永遠に神との交わりの中で生きる存在」へと回復されるために、救い主キリストをお遣わしになられたのです。従って、このキリストを自分自身の救い主として受け入れる者は『永遠のいのちの祝福』にあずかり、彼を拒む者は「永久に神から隔絶され、『永遠の死』の苦しみにあえぐ」ことになるのです。 先日あるクリスチャンの女性がこんなことを言っていました。「以前私はよく周囲の様々なできごとに煩わされていました。都合が悪いことが起こると、『このまま物事がドンドン悪い方向へ行ってしまうのではないか』と恐ろしくなって、眠れなくなってしまうこともありました。でもある時ふと『神様は永遠に私から離れることがないのだから、何も心配する必要はない』ということが示され、『あぁ、この世でどんなことが起ころうとも、所詮永遠に続くわけではないのだから、問題ではない。本当に大切なものは、神様から与えられる永遠のものだけなのだ』と、深い平安が心にやってきたのです。」 あなたはこの『永遠の神との関係』の中に、もう生かされていますか?

2018年12月2日「自分の願いではなく…」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「自分の願いではなく…」      (02/12/2018) ◆にせ預言者を見分ける[マタイ7:15-23] ・「にせ預言者」は見分けにくい[15節]が、『実』によって見分けることができる。 それは「社会的に良い影響を与えているかどうか」ではなく、「神のみこころを行っているかどうか」。 ・律法学者たちは『教え』を知っていたが、イエスは『神の心』を知っていた。 ◆イエス・キリストに似せられる[ヨハネ15:4-6] ・「イエス・キリストに似せられる」とは、行いや品性(外見)の猿マネではない!それは「キリストを通して御父を 知っていくこと」の結果として起こる、私たちの内面の変化。 キリストに似た者 = 「父のみこころが成し遂げられることが、自分の最大の願いとなっている者」[ヨハネ4:34] ・これは「自分に死んでいる(自分が無い)」というよりは、「『自分の願い』を相変わらず持ってはいるが、それ以 上に『父の心』を求めている」(そっちの方が良いものであると知っているから)ということ。[マルコ14:36] ◆今週の『暗唱聖句』: [マルコの福音書 14章36節・後半]   Outline of the sermon      “Not what I will, but …”      (02/12/2018) ◆How to distinguish “false prophets”.[Matthew 7:15-23] ・It is not easy but we will know them by their fruit [verse Read more…

(320) “明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”

多くの人が「自分の将来」を知りたがります。そして様々な占いなどに頼って一喜一憂するわけですが、実際は占いの結果が良ければ良かったで「本当にそうなるのだろうか?」と心配したり、結果が悪ければ「そんなはずはない!」と言いながら、どうしても不安がぬぐい去れなかったりしてしまいます。結局不安な気持に陥るのであれば、占ったりしない方が良かったのではないでしょうか? 神様はどうして私たちに「将来を知る力」を与えなかったのでしょう?恐らくその理由は、私たちに『今』を精一杯生きて欲しかったからではないでしょうか。「将来を知りたがる人」というのは大抵「現状に満足していない人」です。きっと『今』を喜べないから『将来』に希望を見い出そうとするのでしょう。でも前述のように、確証のない未来を思い浮かべてみても、結局は「今を喜ぶ」という人生に至ることはできません。 私は「人の将来というものは、『今』の積み重ねによって造られる」と信じています。神様は私たち1人1人の人生を既に決めてしまっているのではありません。もちろん私たち1人1人のために『最高の計画』を立ててくださっていますが、それは「私たちがどんなに適当に暮らしていても成就する」という類のものではなくて、「私たちが神のみこころを捜し求めながら、日々自分が生み出し得るベストをささげて生きて行く」中で開かれて行くものに違いありません。そういう意味では、もしあなたが試練の中にあるならば、それはまさに「神から与えられたテスト」であって、神はきっとあなたがその試練の中で『逃げ腰』に生きるのか、それとも「神に助けを求めつつ『前向き』に進んで行こうとするのか」をご覧になっているのです。そしてそれら1つ1つの試練は、私たちが『更に優れた将来の自分』となれるようにと備えられた、神の愛の証なのです。

(319) “わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

英語で『ライフ(Life)』というと、日本語で言う『いのち』と『人生』という全く別の2つのものの両方を表す意味があります。私たちは『いのち』と聞くと「生物学的・医学的ないのち(生命)」を思い浮かべ、『人生』と言われたら「人間1人1人に与えられた生き様」を想起します。 聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる者には『永遠のいのち』が与えられると教えています。これを前者の「生物学的ないのち」として理解する人の中には「この世で80年生きるのだって退屈なのに、『永遠のいのち』なんてもらっちゃったら、退屈で仕方がない!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、この『永遠のいのち』という言葉で表現されているものは「神と共に生きる人生」のことであり、それはイエス・キリストを信じた瞬間から与えられ、この世においても日々成長して行く「生き生きとしたいのち」であり、永続的にもたらされる『喜び』『平安』そして「天地創造の神に100パーセント受け入れられている」という充足感に満ちた日々を生きることなのです。 多くの人々は「お金」「家庭」「生きがい」などといったものが人生を豊かにすると思っているようですが、実際に私たちが心の奥底で激しく欲しているものは「尽きることのない喜び」「状況に左右されない心の平安」「自分は確かに必要とされている、という確信」そして「何かを失ったり、失敗したりしても、相変わらずありのままを受け入れられている、という確固たる安心感」ではないでしょうか?神がイエス・キリストを通して私たちに与えようとしておられる『永遠のいのち』には、まさにそういったものがすべて含まれているのです。