聖書
(359) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”
1914年12月9日の晩、トーマス・エジソンの研究所は火事のために一夜にして灰になりました。数々の研究の成果や研究途中の資料はすべて燃えてしまい、損失額は当時の金額でも2百万ドル以上。しかし建物が鉄筋コンクリートだったために油断していたせいもあり、ちゃんとした火災保険には入っておらず、降りた保険金はたったの238ドルでした。 67歳にして、少なくとも過去7年間の研究成果を、偉大な発明王エジソンはすべて失ってしまったわけですが、翌日になり、ようやく沈下した黒焦げの火災現場を眺めながら、彼はこう言ったそうです。「いやぁ、今までにいろいろと研究に失敗したけど、その失敗の証拠も全部始末してもらえたわけだ。神様ありがとう!これですっきり新しい気持ちで新しい研究を始められます!」 あなたもきっと何か大切なもの(人?キャリア?)を失って落ち込んだ経験がおありだと思います。でも大丈夫。どんな失敗や損失も、たとえその時は「もう取り返しようがない」と感じたとしても、必ず巻き返すことができます。私の妻も大学生の時に自宅を全焼で失ったことがありますが、その経験を通してかえって「目に見えるもの全てを失っても、相変わらず失われることのない『神』の存在」をしみじみと体験できたと言っていました。 神と共に生きる人生は「何度でもやり直せる人生」なのです!
聖書
(358) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”
日本の古くからの言い回しに、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。本当に心を深く探られる言葉だと思います。私たち人間は本当に弱いワガママな存在で、「自分に都合が悪い存在」や「どうしても好きになれない相手」を排除しようとする傾向がありますが、神は本来私たち人間を『互いに受け入れ合い愛し合う存在』としてお造りになりました。そして「神のひとり子」として来られたイエス・キリストは、まさに地上での生涯において私たちにその模範を示してくださったのです。 キリストはご自身が「罪のない、きよい存在」であったにもかかわらず、当時社会からつまはじきにされていた病人や貧しい人々、そして『罪人』というレッテルを貼られた人たちと多くの時を過ごされました。そのような生き方を、ユダヤ教の宗教指導者たちから問題視された時、彼は言いました。「医者を必要としているのは丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 私たちは「自分はまともだ。人の助けなんか受けなくたって生きていける。」と思いたい存在です。でも実際心の中では「自分は弱く醜い存在で、そんな自分の姿を知られたら、人は皆自分から離れて行く」と恐れているのです。でも安心してください。キリストはまさにそんなアナタが正直に自分の醜さ・弱さを認めたとき、「私の友よ」とありのままのアナタを受け入れてくださるのです。そして私たちは「『ありのままの自分』を受け入れてもらう」という経験を通して、少しずつ「罪を憎んで人を憎まず」に、互いを受け入れ合って生きる者へと変えられて行くことができるのです。
聖書
(357) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”
もしかしたら、ある方は「神様を信じたら、もはや人生に問題は無くなる」と思っておられるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。では『神を信じて生きる人生』の良い点とは、一体何なのでしょう?それは「どんな問題の中にあっても、神が共に歩んでいてくださる」ということです。では、神が共に人生を歩んでくださっているのに、なぜ神は私たちが問題に直面することを許されるのでしょうか?それは、神が私たちに「ご自身に信頼して生きる者のために、神がどのようなことをしてくださるのか」を示そうとしておられるからです。 私たちが恐れるとき、神は平安を与えることができます。私たちが失望・落胆しているとき、神は希望を与えてくださいます。私たちが心を痛めているとき、神は慰めと癒しを与えることができます。私たちが乏しいとき、神は必要を満たしてくださいます。そして私たちが目標を見失って迷っているときに、神は真理によって私たちを『いのちの道』へと導くことができるのです。 ナチス・ドイツの強制収容所において家族全てを失った『コリー・テン・ブーム』という女性は、神と共に生きる人生について次のように述べています。「もし憂鬱な気持ちになりたいのなら、自分の内側を見つめてればいい。もし打ちのめされた気持ちになりたいのなら、自分の過去を見つめてればいい。もしどうして良いか分からない気持ちになりたいのなら、自分の周囲を見つめてればいい。でももしそれら全てから解放された人生を歩みたいのなら、自分の上を見上げたらいい。そこにはあなたを見つめておられる神がおられる。」 神はあなたの問題の真ん中で、あなたと共にいてくださるのです。
メッセージ
2019年9月22日 「『祈り』への招き」
メッセージをダウンロードして聴く メッセージをダウンロードせずに聴く 説教あらすじ 「『祈り』への招き」 (22/09/2019) ◆『祈り』とは? [ルカ11:1] 弟子たちは「イエスの際立った歩みの秘密」は『祈り』にあると嗅ぎつけ、こう尋ねたのだろう。 ・イエスの『祈り』に関する詳しい解説は、[マタイ6:6-15] にある。しかしそもそも『祈り』とは何なのか? イエスは興味深いことをおっしゃった。[7~8節] 「御父は私たちが求める前から、私たちの必要を知っておられる」 では何故『祈り』が必要なのか? ⇒ [イザヤ59:1-2] 私たちの罪(ズレ)のために、私たちの祈りが神に届かない! *クリスチャンにとって… 『祈り』とは、「神との関係を正しい状態に保つための営み」 である。 ◆『祈り』に関する重要事項 ・イエスは弟子たちに「どう祈るべきか(「主の祈り」)」を教えた後、1つだけ『注意書き』を添えられた。[14~15節] ・神が御子を遣わされたのは、「ご自分と人との関係を修復する」ため。そのために不可欠なのが『罪の赦し』。 イエスは、ご自身がまさにこのために来たことを良く分かっていたので、『祈り』について教える時にそのトピッ クに触れずにはいられなかったはず。 ・神はご自分の「御子イエス」によって私たちの罪を赦し、その同じ「御子イエス」によって私たちをご自分に近づ くように招いておられる。『祈り』は、この御父の招きに応える行為。 ・[ヨハネ15:16] 私たちは「出て行って実を結ぶため」、そして「イエスの名によって御父に求めるため」に選ばれている! ✰今日の大切なひと言: 「『祈り』は、『関係』のため。」 ◎学びを深めるための質問 ①どうして『祈り』は「ただ神様に何かを求める」だけではない、と言えるのでしょう? ②今回の説教を通して『祈り』に関して何か新しく学んだことがあったら、自由に分かち合いましょう。
聖書
(356) “静まって、わたしこそ神であることを知れ。”
こんなことがあったそうです。あるジェット機のパイロットが太平洋上空を飛んでいるとき、基地の管制塔から「現在地を知らせるように」との要請を受けました。彼はこう答えました。「え~と、どこを飛んでいるのか分かりませんが、ともかくたった今このジェット機の最高速度を更新しました!」 1人の心理学者は次のようなコメントを残しています。「人間の習性というものは皮肉なもので、自分が道に迷っていると気付いたとたんに、行動のスピードを上げようとする。」 本来なら「立ち止まって、落ち着いてよく考えるべき状況」の中で、私たちは早く解決策を得ようと焦ってしまうようです。 私たちの人生を豊かで正しい道へと導こうとしておられる神様は、「そんな時こそ、ペースダウンして、まずわたしのことを見上げてごらん」と語りかけてくださっています。確かに私たち人間が神様を見い出すことができないのは「自分のことに忙しくしすぎて、じっくりと『真理』を見い出そうとしないこと」に原因があるように思えます。「神様なんて、どこにもいやしない!」という表現を英語に訳すと「God is nowhere」となりますが、この最後の『nowhere』という単語にブレイク(ひと休み)を入れると、「God is now here」(「神が今ここにおられる」の意味)になります。つまり「ちょっとひと休みして、神様があなたと一緒にいてくれていることに気付こうよ」というわけです。面白いでしょ? 日々の忙しさの合間に『ブレイク(ひと休み)』を入れて、あなたを愛し、あなたに真の人生の目標を与えてくださる『神』に心を向ける時間を持ってみましょう。きっとあなたの人生に何か新しい変化が起こるに違いありません。
メッセージ
2019年9月15日 「『神の子イエス』と出会う」
メッセージをダウンロードして聴く メッセージをダウンロードせずに聴く 説教あらすじ 「『神の子イエス』と出会う」 (15/09/2019) ◆2つの注目すべきペテロの態度 [ルカ5:1~11] 1[4~5節] 「経験・自分の考え」 vs 「みことば」 ・この時ペテロは「自分の常識」よりも「イエスのことば」を選び、従った。『信仰』は「選択」によって現される。 ・クリスチャンの歩みは「聖い生活」によって特徴付けられるのではなく、私たちの「信仰による選択」によって。 私たちはこの「信仰による選択」によって「私ではなく、キリスト」という『神の国の価値観』を表明している。 ・私たちはしばしば「人々への証」ということに捕らわれすぎて、肝心の「イエスは何と言っておられるか」に思い を馳せることを忘れがち。私たちが聖書を読むのは、「クリスチャンとして、読むべきだから」ではなく、『私た ちの思い』を「この世の常識」から「神の国の原則」へとシフトさせ、『神の国』をこの地に呼び込むため。 2[8節] 「『神の国の権威者(真の神の子)』としての主イエスとの出会い」 ・私たちがこの世において『神の国の民』として「神の栄光を現し続ける者」となるためには、「十字架の愛に対 する感動」だけでなく、キリストを通して現される『神の子としての栄光』と遭遇しなければならない。この「恐る べき権威と栄光」に満ちた方が、すべてを捨てて『人』となり、この地に来られ、十字架の死にまでも従われ た。[ピリピ2:6-8] ここに『真の神の子』による「招き」がある。そして彼らは「すべてを捨てて」従った。[11節] ✰今日の大切なひと言: 「イエスにうまく従えないのは、イエスをよく知らないから」 ◎学びを深めるための質問 ①「自分の考え」と「神のことば」が衝突するのはどんな時ですか?そんな時どうしますか?それは何故ですか? ②「『クリスチャンは、良い人たち』と思われたい」という気持はありますか?それはどこから来ているのでしょう? ③もし『神に対する聖なる恐れ』を感じたことがあるなら、その体験を分かち合いましょう。
聖書
(355) “先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。”
社会学者たちの調査によると、人間の行動パターンは2つの要因から大きく影響を受けているそうです。1つは『両親』、まあ「育った環境」とも言えるでしょう。そしてもう1つは「その後今に至るまでに経験した(または現在している)出来事や状況など」です。まあ当然と言えば当然ですかね。 旧約聖書に『エフタ』という人物が出てきます。彼は「妾の子」として生まれ、家族や親類たちからも正当な扱いを受けられず、ほとんど「村八分のような存在」として育ちました。上記の調査結果に照らし合わせれば「人生の脱落者」として生きるための条件は揃っていたわけです。ところが彼は「彼が所属していた『イスラエル民族』を敵の支配から救う」という目覚ましい活躍をし、言わば『民族的ヒーロー』としてその名を残したのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?それは、エフタが「自分の生い立ちや不遇な過去を呪って生きる」という後ろ向きな歩み方を止め、「自分を造り、この世に生まれ出させてくださった大いなる神に頼って生きる」という新しい歩み方へと乗り換えたからです。 あなたがもし「自分の生い立ちや環境」にこだわって生きることをやめ、あなたをお造りになり、今の世に送ってくださった『創造主なる神』を心から求めて生きる人生を始めるならば、この神はあなたのすべての「不利な要素」を「神ご自身の偉大なご計画を実現するネタ」へと逆転してくださいます。『この世』は己に益をもたらすための「人間的に優れた人材」を求めますが、『神』はご自身の偉大な『愛と力』を人々に知らせるために、敢えて「この世ではむしろ見放されたような足りない者」を通して働くことを好まれるのです。(だからと言って、わざわざ弱々しく生きようとする必要はありません。私たちは元々「弱く足りない存在」なのですから…) ですから、気を落とすことなく、この神に向かって目を上げ、祈りや聖書のことばによってこの方と多く時間を過ごすことを通して、彼があなたのために立てているご計画に従って進む人生へと歩み始めましょう!