2020年5月17日 「『真理』によって愛する」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ      「『真理』によって愛する」    (17/05/2020) ◆真実の愛 [Ⅰヨハネ3:16-20]  ([ヨハネ3:16]は大変有名だが、この[Ⅰヨハネ3:16]もかなり重要)   ・「相手のために自分のいのちを捨てる」は、一般的な『愛』の概念とは相当かけはなれている。具体的には、「他の人のいのちを豊かにするために、自分自身のいのちにとって価値あるものを喜んでささげる」こと。   ・いわばヨハネは私たちに次のような選択を迫っている。    ①「自分の都合を優先して生きる」か? ②キリストのわざを見るために「自分の都合を後回し」に生きるか?   ・パウロは「自分の弱さ」を認める中で、この②(自分を通して現されるキリストの力)を経験した。[Ⅱコリント12:9] ◆『真理』に属する者[18~19節]   ・『真実の愛』は「自分の気持ち」ではなく「真理であるキリスト」から来る。『自分』に依存した信仰は「自分自身の前だけ」での平安をもたらすが、『真理』に依存した信仰は「神の御前における全き平安」を約束している。   ・「自分が良いと思うこと,したいこと,できること」を「自分のタイミング」で行うのに『信仰』は要らない。しかし「相手のために自分の全てを主にあって差し出すこと」は『信仰』を要求する。そんな時「主よ、私にはできませんが、あなたならできます!」と自分自身を差し出してみよう。『教会』は、そのような「信仰表現のための練習場」。 ✰今日のキーワード: 「私たちを通して現される神の力」 ◎学びを深めるための質問  ①「真実をもって愛する(18節)」とは、どんな風に愛することですか? どうすればそれが可能になりますか?  ②「自分の心が責めたとしても安らかでいられる(20節)」のは何故ですか? この平安はどこから来るのでしょう?  ③「自分の弱さを通してキリストの力が現された経験」があったら、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon        “Loving by ‘Truth’.”     (17/05/2020) ◆True love. [ⅠJohn 3:16-20]  ([ⅠJohn 3:16] is as important as [John 3:16].) “True Love” is the willingness to give up what Read more…

(389) “自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。”

 恐らく多くの方々は『キリスト教』というと「愛の宗教」という印象を持っていることでしょう。有名なクリスチャンとして挙げられる「マザーテレサ」「アッシジのフランシス」「ナイチンゲール」「キング牧師」などなど、そして極めつけはその創始者でもある『イエス・キリスト』、その誰もが「人々への愛に生きるためにその生涯をささげた存在」として知られています。  全ての人は『愛』を求めています。誰もが『愛』を必要としています。ある人は「人は愛することによって安息し、愛されることによって満足する」と言いました。『愛』というものは、ある意味私たちが生きる上で「食べ物」以上に必要とされる、とても基本的な要素です。「私は『愛』なんて無くても生きていける」という人は、単に強がっているか、ものすごく無知なのか、もしくは既に人生を投げてしまっているに違いありません。では、一体どこでどうやって、この『愛』というものを見出せるのでしょうか?  何年か前に「僕らは奇跡でできている」というドラマがありました。主人公は『動物オタク』の青年で、彼を取り巻く人々は初めは彼のあまりの「変人ぶり」に手を焼くのですが、徐々に彼が物事を純粋でありのままに見つめている様子にグイグイ魅き寄せられて行き、逆に自分自身の心が素直でないことに気付かされて行くのです。この主人公がある時こんなことを言います。「ボクは以前『大好きになりたいのに1番嫌いな人』がいた。それがずっと苦しかった。でもある時からその人のことを本当に好きになれて、それから人生がスゴく楽しくなった。その人とは『ボク自身』。」 そしてこの「ありのままの自分のことを大好きになれた主人公」の純粋で自然なふるまいに触れる中で、周囲の人間も少しずつ「ありのままの自分を受け入れること」ができるようになり、生き生きとしてきます。  「人を愛する秘訣」は、努力によって得られるものではありません。実はそれはまず「ありのままの自分を心から受け入れ喜べるようになること」から始まるのです。そしてこのように「自分をありのままに受け入れる」ためには、私たちをこよなく愛し、私たち1人1人をご自身の最高傑作品として形造ってくださった『創造主なる神』との出会いが必要不可欠なのです。キリスト教が『愛の宗教』として知られるゆえんは、まさにここにあるのです。

2020年5月10日 「『成し遂げる』のではなく、『成就する』」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ    「『成し遂げる』のではなく、『成就する』」  (10/05/2020) ◆「良い方」は『私』ではなく『神』 [ローマ12:11-21]   ・この箇所をまとめて言うなら「良いことだけをして、悪いことは決してするな」「受けることは期待せず、ひたすら与えよ」。 ⇒ 無理!もしこれらを目標に努力するのが『クリスチャン』なら、単なる『宗教家』にすぎない。   ・私たちのキリスト者としての歩みのカギは「神との生きた関係」のために「キリストにとどまる」こと。[ヨハネ15:5]   ・神は元々私たちを『良い行い』のためにデザインされた。[エペソ2:10] それを損なったのが『罪』。だから私たちは「クリスチャンになるため」だけでなく、「クリスチャンとして日々生きるため」にも主イエスを必要としている。 ◆心を新たにする   ・神は「良い方」であり、「望んでおられることを必ず成し遂げる方」であり、「それを『愛する者』と共に実現しようとされる方」。それ故、私たちの側に必要な態度は次の2つ。     ①「神の願い」を「自分の願い」とする。 ②神が自分を通して何かをなさろうとする時のために備えている。   ・「心を新たに」(ローマ12:1-2)とは「『最善』を知っているのも、実現するのも、『私』ではなく『あなた』です」という態度を持つこと。このような心で御前に出る時、私たちは「神のみこころ」を見分けることができるようになる。 ✰今日のキーワード: 「私」ではなく、「神」 ◎学びを深めるための質問  ①神は何故、聖書を通して私たちに多くの「良い行いへの勧め」をなさるのでしょう?  ②「自分はクリスチャンらしくない」と感じるのはどんな時ですか? また真の「クリスチャンらしさ」とは何でしょう?  ③『神のみこころ』とは一体誰のためですか? また『神のみこころ』を見分けるためのカギはどんなことですか? Outline of the sermon      “Not You, but He will do it.”   (10/05/2020) ◆God is good, not I am. [Romans12:11-21]   ・If we try to fulfill all these Read more…

(388) “神は人をご自身のかたちとして創造された。”

日本の学校では「人類の起源を説明するセオリー」として『進化論』しか教えられていませんよね?下等なものから高等なものへと、何億年もかけてゆっくりと進化して行った。最終的には『サル(類人猿)』から『人』へと進化した、と。もし本当にそれが事実であれば、現代に生きる『人類』は、相当「高等な生き物」ということになりますが、本当にそうでしょうか? 確かに現代の科学や産業の発展だけを見るならば、そのように感じられる部分もあります。しかしそれらの発展の背景にある思想は必ずしも「高等なもの」とも言えません。「より便利に」「より早く」「より利益を生むために」というのがほとんどの動機であって、本来人間が求めるべき「より崇高な存在として」といった『進化』はあまり見られません。『便利』ということばそのものの名前が付いた『コンビニ』では、毎日何十個もの「手付かずのお弁当」が捨てられています。お金欲しさに『援助交際』という名の下で不道徳な行為が行われています。いわゆる「下等動物」と呼ばれる獣たちは、どんなに獰猛な性質でも、お腹いっぱいになれば、不必要な殺傷はしませんが、「人間世界」では、欲得の理由で殺傷事件が後を絶ちません。これが本当に『進化』でしょうか? 聖書は「神が人をご自身のかたちに創造された」と教えています。そして神は『人』を通してご自身の崇高さを表現しようとされたのです。ところが『人』は神の指導の許に生きることを好まず「自分勝手な道に進んで行った」と聖書は記しています。現代の人類の『堕落』は、その成れの果てなのです。 しかし神はそのように世界がただ堕落して行ってしまうのを黙って観ていることを好まず、もう1度『人』を「ご自身のかたち」に回復しようと、「本来の人間のモデル」である、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、彼を通して私たちのために「本来生きるべき人生へと立ち返る道」を備えてくださったのです。このイエス・キリストを通して『神との関係』の中で生き始めることを通して、私たちは本物の『進化(回復)』へと進む人生を開始することができるのです。

2020年5月3日 「神のみわざの代行者」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ        「神のみわざの代行者」   (03/05/2020) ◆『真の謙遜』を養う [ローマ12:3-10]   ・このローマ書の内容は要するに、「互いに謙遜になって、神から与えられている賜物(恵み)を使って、互いの必要を補い合おう」という勧め。真の謙遜は『自己卑下』ではなく、「できることはできる、できないことはできない」と言える正直な態度。神様は私たち1人1人を「違った存在」として造られた。別の言い方をすれば「互いを必要とするように」デザインされた。ぜひ「互いに求め合い、与え合う共同体」として成長しよう! ◆神のわざの代行者 [ローマ12:1-2]   ・以前『両生類』の話をした。私たちは「地上人」でありながら『天国人』でもある。「この世と調子を合わせて」生きていたら、決して『天国人』としての使命は果たせない。   ・私たちは「キリストのからだ」として、この世にあって『神のみわざの代行者』。「自分が他の誰かに与える時」も「他の誰かが自分の必要を満たしてくれている時」も、神が私たちを通してみわざをなさっておられる。私たちは「神が私たちを通して成し遂げようとしておられること」を妨げてはならない。 *『神の家族』である私たちによって現される働きを通して、神である主の御名があがめられますように! ✰今日のキーワード: 「真の謙遜」 ◎学びを深めるための質問  ①あなたが「誰かに与えよう」また「誰かに求めよう」とする時に、それを躊躇させるものは何ですか?  ②「自分は他の人と少し違っている」と感じるのはどんな点ですか?それを神様にどのように感謝できるでしょう?  ③どのようにして、神様が「自分を用いられた時」と「他者を用いられた時」を同じように喜ぶことができるでしょう? Outline of the sermon       “We are ‘Agents of God’.”     (03/05/2020) ◆Grow in “True humility”. [Romans12:3-10]   ・The essence of these verses is like; “Be humble one another, and serve for each other’s need with Read more…

(387) “だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。”

 だれかからひどい仕打ちを受けた時、私たちのごく自然な反応は恐らく次の2つでしょう。①仕返しをする。②相手が自分の行った悪に対する報いを受けることを期待する。しかし残念なことに、この2つのどちらも私たちにとっての根本的な癒しにはなりません。『相手を赦すこと』だけが、私たちを相手に対する苦々しい思いから完全に解放することができます。ある人はこんな風に言いました。「『赦し』とは、『囚人を解放する』という決断である。その決断を下した途端、『実はその囚人は自分自身であった』ということに気付くのである。」  人を赦した経験のある方なら誰でも知っていることでしょうが、『赦し』というものは決してたやすくできることではありません。ある意味「常識外れの力」が必要です。一体そんな力をどこから得ることができるでしょうか?それはもちろん「常識外れの赦しを与えてくださった神」からです。この方は『赦しの神』ですから、私たちが「赦すための力」を求める時に、喜んで与えてくださるのです。  実を言うと、この「人を赦す」という作業の半分は既に完了しているのです。何故なら、神は既に「神に対するあなたの全ての不信仰や不従順」を、イエス・キリストの十字架において赦してくださっているからです。私たちに残された作業は、心を開いてその「神からの赦し」を受け取り、その中にある『赦しの心』を素直に赦すべき相手に対して開放すればよいのです。神から離れ「罪の奴隷」となっていた自分が『奴隷解放』された喜びに満たされたなら、その解放感はごく自然に「他の人を束縛から解放する力」としてあなたを通して働くようになるのです。

2020年4月26日 「愛の成長を阻むもの」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ         「愛の成長を阻むもの」    (26/04/2020) ◆『愛』は「御霊の実」 ― イエスが愛したように、愛する。[ヨハネ13:34]   ・『真実の愛』は「好き嫌い」とは関係ない。[マタイ5:46-47] これは「自分自身から出てくるもの」ではなく『御霊の実』。この御霊は、イエスを信じた時から与えられているのだから、「愛の種」は既に私たちのうちにある。   では、「私たちの内に蒔かれた『愛の種』の成長を妨げているもの」は何か? = 私たちの不信仰   ・聖書は、はっきりと次のように告げている。[詩篇37:5,ゼカリヤ4:6,ピリピ1:6] 「だから信じて任せよ!」 ◆「不信仰」から『信仰』へ  *「不信仰」の実態は… ①「神が良い父である」と信じ切れない ②自分の力で何とかしたい この2つの混合。   ・私たちは聖書を通して「神のみこころ」に関する多くの『知識』は持っているが、実践できない。その根本的理由は「自分の力不足」ではなく、それらの知識の上に『自分』を置くから。これを『不信仰』と呼ぶ。逆に『信仰』とは主イエスをすべてのものの上に据えること。パウロはこの「信仰の歩み」を次のように要約した。[ガラテヤ6:14]   ・『御霊に導かれた歩み』とは、分かりやすく言えば「神が良い父である」と固く信じ、恐れずに自分自身を日々神にささげること。私たちは「信仰の小さい者」。だから神に助けを求めよう! ⇒ [マルコ9:22-24] ✰今日のキーワード: 「信じて委ねる」 ◎学びを深めるための質問  ①感情的な「好き嫌い」と、「主イエスが愛されたように愛する愛」とは、どんなところが違いますか?  ②なぜ『不信仰』が「内なる御霊による愛の成長」を妨げることになるのでしょう?  ③「キリストが愛してくださったように、互いに愛し合う者」となるために、どのように助け合うことができますか? Outline of the sermon      “What hinders our love to grow.”   (26/04/2020) ◆“True Love” only comes from God. ― Love one another just as Christ has Read more…

2020年4月19日 「キリストのからだ」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ  「キリストのからだ」    (19/04/2020) ◆私たちは皆違う [Ⅰコリント12:14-22, 27]   ・私たち1人1人を必要としているのは『人(私たち)』ではなく、かしらである『キリスト』。大切なのは「自分や他人に関してどう感じているか」ではなく、「キリストが私たち1人1人のことを『かけがえのない存在』と感じておられる」ということ。これが「キリストのからだの1部」としての正しいアイデンティティ。 ◆御霊による発見 [Ⅰコリント12:4-7]   ・先週学んだように、私たちはある意味で『両生類』。この世にあって「神の国の支配の中」に生きている。この「新しいいのち」に生かしているのが『神の御霊』。それぞれが「からだの各部分」として与えられている持ち味を生かして『キリストのからだ』として機能するために、この御霊によって次の2つのことを探って行こう。    ① 神がJCFという「キリストのからだ」を通してなさろうとしていることは、何なのか?    ② ①を成し遂げるために、神が特別に自分に与えておられる役割は何なのか?   ・但し「働きや使命そのもの」にフォーカスを置きすぎることは危険。これらのものは「日々の神との交わり」の中で徐々に明らかにされてくる。焦らずじっくりと『神との個人的な関係』を深めて行こう! ✰今日のキーワード: 「違いを恐れるな!」 ◎学びを深めるための質問  ①私たちは何故「自分とは異質のもの」から離れようとするのでしょう? どうすればそれを克服できるでしょう?  ②JCFが『キリストのからだ』として正しく機能している姿を思い浮かべてみましょう。そこに辿り着くには何が欠けていますか?  ③「神との個人的な交わりの中で自分の心に湧いてくる願い」と、②の「欠け」とはどんな関係がありそうですか? Outline of the sermon        “The body of Christ.”      (19/04/2020) ◆We are all different. [ⅠCorinthians12:14-22, 27]   ・It is “Christ” who is needing every one of us because we are Read more…

(386) “あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。”

 快晴の夜空を見上げると、美しい月や星が満天に見えますよね?(お住いの地域にもよるかもしませんが…) でも考えてみてください。あなたが目にしている数えきれないほどの星々も、限りない全宇宙から見れば「大海のひとしずく」にしかすぎません。あの太陽でさえ、銀河系にある何百億もの星のうちの1つにしかすぎず、その銀河系もまた、宇宙には同様の星の集合体がやはり何百億もあるのです。最新式の「宇宙望遠鏡」の観測によると、この大宇宙は少なくとも130億光年以上あるそうで、これをキロメートルに換算すると「130億の10兆倍」キロメートル…、まさに『天文学的数字』ですよね!  聖書は、これらすべてを「光よ、あれ」というたったひと言で創造された、私たちの想像を遥かに超えた、驚くほど偉大な神について書いてある書物です。そして更に驚くべきことは、その「人知をはるかに超越しておられる創造主なる神」が、私たち1人1人を目に留めて、愛しておられる、ということなのです。  上記の聖書のことばを記した、イスラエルの王ダビデはもちろん、現代の天文学の知識など全く知らずにこのことばを記したわけですが、それでも心からあふれ出てくる感動を抑えられなかったのだとすれば、この驚くべき事実をもっとリアルに理解できる時代に生きている我々は、この時のダビデ王以上の感動をもって神を讃え、またそのような神に目を留めていただいている自分自身の驚くべき尊さを心に刻んで生きるべきではないでしょうか!

(385) “神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることはありません。”

 ある方がこんなことを言っているのを聞いたことがあります。「私は自分が知的に納得できること以外は認めたくありません。ですから『神の存在』なんて決して信じることはできません。」 ちょっと聞くと、なるほどもっともだ、と感じられるかもしれませんが、私は全く逆のことを考えます。すなわち「もし神が私の知性で納得できてしまうようなちっぽけな存在であったら、そんな神なんて私は要らない」ということです。私のこの限られた頭で知ることができてしまうような神は、もはや神でも何でもありません。単なる『想像の産物』です。そんな神は当然頼るに値しないし、そのような神がこの全宇宙を支配していると考えるなんて、あまりにも浅はかに思えませんか?  英語には『大文字』と『小文字』があって、普通名詞には『小文字』が用いられ、固有名詞には『大文字』が用いられます。そして聖書の神は『God』と表記され、その他の神々は『god(s)』と表記されます。その2つには決定的な違いがあります。すなわち前者は「人間[を]造った唯一の存在」であり、後者は「人間[が]造ったどこにでもある存在」なのです。この全宇宙と私たち人類をお造りになった『創造主なる神』は、当然私たちの人間的な知恵によって極め尽くすことはできません。しかし私たち人類が造り出した(考え出した)神は、私たちの『想像の産物』ですから、私たちのイマジネーションによってどんなイメージにもなり得る「都合の良い」神なのです。そういう神を求めている人もいるのかもしれませんが、私は遠慮させていただきます。私が求めているのは「正真正銘の『真の神』」だけなのですから。  では、一体どうやって人間は『真の神』を知り得るのでしょうか?その可能性はたった1つ、神ご自身の側で私たちに知らせようとする場合のみです。もし神ご自身がそう望んで行動を起こされるなら、私たちが『真の神』を心から求めようとする時に、彼を見出すチャンスがあるに違いありません。そして神はそれをなさったのです。それが、何千年も前から人類に与えられている『聖書』であり、また「人となられた神、『イエス・キリスト』」なのです。この「神が自己紹介なさっておられる実体」を無視して、自分の小さな頭で一生懸命に知的努力を重ねて考え出した『神概念』、それはその人を満足させることはできても、『本物の神』とは遠く離れた存在でしかないのではないでしょうか?