(395) “右にも左にもそれてはならない。”

 トランプの遊びの中でも最もよく知られているゲームの1つに『神経衰弱』っていうのがありますよね。幼い子供でもできるので、我が家でも子供たちがまだ幼い頃によくやりました。このゲームは、日本語の名前もずい分面白いですが、英語名もなかなかで「Concentration」といいます。日本語に訳せば『集中(力)』です。ちゃんと集中して、自分が以前選んだカードや、他の人がめくったカードをよぉく観察していなければ負けてしまいますから、この英語名の方がゲームの本質をよく表していると思います。  さて、私たちの人生にもこの『集中力』はとても大切です。しばしば私たちが失敗を犯したり、計画したことをちゃんと成し遂げられなかったりするのは、この『集中すること』をおろそかにしていることが原因だからです。「親切心」や「優しさ」が高じて、「本来第1優先すべきこと」から目をそらしてしまったために、後で後悔することが多いのではないでしょうか?  そもそも多くの現代人は「自分はこれを成し遂げるために生きている」と言えるような『人生の大目標』や『夢』と呼べるものをつかむことなしに日々を過ごしているような気がします。もちろん毎日行き当たりばったりに生きていてもそれなりに楽しく過ごせるかもしれませんが、神様は私たち人間をそのように「無駄に時間を過ごす」ためにはお造りにならなかったと思います。神様は私たち1人1人に特別な計画を持っておられ、そのために日々私たちを整え、来るべき日のために備えておられるはずです。そしてそれが何であるかを私たちが知るために、ご自身を求めて生きる者となって欲しいと願っておられます。そして人は、その神様の計画を見出し、そのことを第1優先にして、それに集中することを妨げるその他の「まあまあ大切なこと」に敢えて『No!』と言いながら、集中すべきことに全力を注いで行く時に、『自己最高の人生』を歩むことができるのではないでしょうか?

(394) “鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。”

 現代は「同年代の者同士」が集まることはあっても、「世代の違う者同士」が親しく付き合うことは、家族でもない限りほとんど無くなってしまっているのではないでしょうか?これは大変もったいないことだと思います。世代を超えた人間関係は、これからの日本、また世界の将来に大きな益をもたらすために必要とされている大切な要素であると思います。  聖書の中にも様々な人間関係(友人関係)が登場します。イエス・キリストでさえ、「わたしはあなたがたを『しもべ』ではなく『友』と呼びます」とおっしゃいました。『親しい友』は、どんな財産や人生経験にも優る人生の『宝』と呼べるでしょう。  そこで皆さんにぜひ、次の3種類の『友人』を作るようお勧めします。 ①年上の友人(少なくともひと回り(12歳)以上年長)  ・「年長の人」は例外なく私たちよりも多くの『人生経験』を持っています。「成功の経験」もあるでしょうし、「失敗の経験」もあるでしょう。きっと親しくなればなるほど心を開いて、『失敗談』さえも笑いながら分かち合ってくれるはずです。そして私たちは実はこの『失敗談』からこそ、より多くの事を学ぶものです。同年代の友人関係はある面ライバル的な部分がありますから、なかなかこのような分かち合いをすることができません。ところが年を取って行くと通常は徐々に謙遜になって行き、『失敗談』を話すことがさほど恥ずかしくなくなります。そのような友人を持っていることは大変益になります。 ②同年代の友人  ・同年代の友人に必要な要素は、あなたに対して「おべっか」を使ったり、妬んだりせず、いつでも正直でいてくれる『ソウルメイト』と呼べる人です。弱っている時にはかばってくれ、図に乗っている時には諫めてくれる、そんな友人を1人でも持っている人は幸いですね。(ちなみに、私にとって妻は正にそんな存在です) ③年下の友人  ・これは、あなたがその人にとって①(年長の友人)になれる人です。ですから、特に「良い模範にならなくちゃ」などと力む必要はなく、ただ心を開いて、相手の悩みや夢に耳を傾け、また自分の成功や失敗、誇りに思っていることやだらしない部分などを、リラックスした雰囲気の中でユーモアを交えながら語り合えるのが良いでしょう。 忘れないでください。これら『3種類の友人』を持つことは、あなたの人生に益をもたらすだけではなく、「世界的に益をもたらすきっかけとなる」ということを。

2020年6月14日 「キリスト者の自由」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ 「キリスト者の自由」     (14/06/2020) ◆「自由意志」によって『奴隷』となる [Ⅰコリント9:19~23] ― パウロは19節で一見矛盾したことを言っている。   ・パウロがこう言ったただ1つの理由:「より多くの人を獲得するため」(神の許に勝ち取るため[Ⅰペテロ3:1])。   ・パウロにとって『律法』とは、「守るべきルール」ではなく、「最愛の方の願いの現れ」。それ故形式的に律法を守ることよりも、「神の許に人々を勝ち取ること」を最優先した。 ◆福音宣教とは? [22~23節]   ・『福音の恵み』とは、罪の赦しと永遠のいのちだけでなく、「キリストのいのちを現す生き方そのもの」。   ◎『福音宣教』とは、単に「救いのために知識を伝達すること」ではなく、 「ことばによる、行いによるとを問わず、相手に対して『キリストのいのち』を表現して生きること」。   ・『純粋による孤立』か?『妥協による埋没』か? ⇒ キリストは「純粋による埋没」だった!   ・キリストはご自身が「死ぬために遣わされた者」であり、「自分のいのちは御父の御手の中にある」と知っていた。実は私たちも同じ。[コロサイ3:3] 私たちは「固定観念に縛られない『キリストにある自由』」というものを、自分の手で握りしめているのではなく、私たちの「内に住んでおられるキリスト」に預けてある。[ルカ9:24] ✰今日のキーワード: 「純粋による埋没」 ◎学びを深めるための質問  ①パウロは何故、敢えて「すべての人に、すべてのものとなる(22節)」と決心したのでしょう?  ②あなたにとって「福音のためにあらゆることをする(23節)」という言葉には、どんな響きがありますか?    ③私たちは「福音宣教に遣わされている者」として、どのように福音の恵みを『共に』受けることができるでしょう? Outline of the sermon      “Freedom of a Christian.”    (14/06/2020) ◆Becoming “a slave” by “freewill”. [ⅠCorinthians 9:19~23]   ・Only reason Paul said this is: “to win as many Read more…

(393) “キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。”

 聖書はイエス・キリストのことを「神が人となられた存在である」と主張します。これは多くの人にとって受け入れにくい概念かもしれませんが、他方仏教では「人間が修行を積み悟りを開くと仏になれる」と言います。ちょっと考えてみると、我々のような不完全な存在が「仏になること」と、全知全能なる神が「人間になること」とでは、後者の方が可能でありそうなことくらいは直ぐに分かりますよね?もちろん「神がそう望めば」の話ですが…  イエス・キリストは、「神とはどのようなお方なのか?」を私たちに分かりやすく示すために来られた、ということもできますが、同時に「人は本来どのように崇高な生き方ができるのか?」ということを、実際のご自分の生き様を通して教えてくださった、ということもできます。そしてそれはキリストが「神としてのあり方を捨てられないとは考えなかった」ことから始まった、と書いてあります。  私たち人間は皆、それぞれ何かしらの「これだけは譲れない!」という信念のようなものを持っています。「私はずっとこのやり方でやってきたのだから、今更他のやり方に変えることはできない!」とか、「朝食はご飯とみそ汁と決まっている。パンやコーンフレークなんか食べられるか!」などなど、まあ立派と言えば立派かもしれませんが、もしかしたらそのような『固定観念』が、自分自身の更なる飛躍のチャンスをみすみす失わせていることもあるかもしれません。でももし「神の姿である方が、そのあり方を捨てられた」のだとしたら、私たちのちっぽけな信念をちょっとだけ修正することなど、大したことではないと言えるのではないでしょうか?  だれでも「誰かに無理矢理変化を要求されること」には抵抗します。新たなチャレンジをするためには、まず『安心感』が必要です。「自分は今のままでも十分に愛され受け入れられている」という安定した心境からこそ、未知の領域へと冒険する力が湧いてくるのです。そして聖書の神はまさに私たちを「ありのまま受け入れ、愛してくださっている」のです。この方の大きな愛を体験する時、そして私たちに示してくださった大きな犠牲を心から理解する時、私たちは「神が望んでおられる『更に人生の高嶺を目指す自分自身』」へと羽ばたく勇気と力が与えられるのです。

2020年6月7日 「『自由意志』の正しい用い方」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ    「『自由意志』の正しい用い方」  (07/06/2020) ◆自分の真価を知る [ピリピ2:3~5]   ・「自分を立派に見せかけよう」としてしまうのは、『自分自身の価値』に自信が持てないから。「私は神のかたちに造られた傑作品であり、愛されている者である」という自意識をしっかりと持っていることが大切。   ・「人を自分よりも優れた者と思う」とは、単に「相手の方が立派だと考えること」ではなく、「『自分の真価』を理解することで安息し、恐れることなく自分自身を相手の利益のために用いることができる」ということ。 ◆キリストの模範に倣う [ピリピ2:6~8]   ・「キリストに倣う」とは、単にキリストの行為を猿真似することではなく、まず自分の心を「キリストの内なる思い」に寄り添わせること。キリストは「全宇宙を造られた万物の創造主」であるにも拘らず、すべての特権を放棄し私たちの間で仕えられた。この「相手を真に生かすためなら、喜んで特権を放棄する」という姿勢に倣う。   ・主イエスはこれを、誰に強いられたわけでもなく、まさに「ご自分の自由意志による決断」によって実行された。この同じ『自由意志』が私たちにも与えられている。これを「自分自身の益」のためではなく、「真に価値あること」のために、神と人とを愛する愛と信仰によって用いる。これが『自由意志』の適切な用い方。 ✰今日のキーワード: 「信念修正」 ◎学びを深めるための質問  ①「神の子どもであり、愛されている者である」という強い確信がありますか? それが揺るぐのはどんな時ですか?  ②相手の必要を満たすために自分が損をすることに抵抗がありますか? どうしてそう感じてしまうのでしょう?    ③神は何故人間に『自由意志』を与えたと思いますか? これを適切に用いるにはどうしたら良いと思いますか? Outline of the sermon     “How to use our free will.”   (07/06/2020) ◆Know our true value. [Philippians 2:3~5]   ・We pretend because we are not confident of “who we are”.  We all should Read more…

(392) “あなたが祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。”

 きっと誰でも1度くらいは祈ったことがあると思います。そして「お祈りが聞かれた」と感じた人もいると思うし、「祈りなんてするだけ無駄」という印象を持ってた方々もいることでしょう。  私がクリスチャンになる前もそうでしたが、『祈り』というとそれはほとんどの人にとって『お願い事』と同じような意味なのではないでしょうか?日本の寺社仏閣にはそれぞれ「安産に効く」とか「交通安全に効く」とか、「お金が儲かる」などなど、それぞれの専門分野があるようですね。そして多くの方々が『お願い事』のために足を運び、また相応の値段の『お守り』を買って帰ってたりしているのだと思います。  聖書の中に登場する『祈り』の中にも、もちろん『お願い事』も出てきます。しかしそれは『祈り』の中のほんの1部でしかありません。『祈り』というものは「神との対話」であって、それは「お願い事」でなくても、「喜びや悲しみの分かち合い」だったり、「心の秘密の打ち明け話」だったり、「たわいもない日常会話」だったりするのです。そして私たちが周囲の人たちとじっくり時間を取ってコミュニケーションすることによって、より親しさを増していくのと同様に、『祈り』を通して私たちは「神との親しさ」を増していくのです。  新型コロナウイルスの影響によって、外出を制限されたり、友人たちと思うように会えなくなったりして、とっても寂しい思いを余儀なくされていますが、ある意味それは「神様との親しさ」を増すための好機なのかもしれません。私のある知り合いは「コロナの影響で仕事が休みになり、毎日十分に祈りの時間を持つことができている。正直なところ、前の忙しい日々には戻りたくない」と言っていました。  ぜひこの、ある意味『不自由』に感じられる時間を『好機』と捉え、更に幅広い『祈り』というものを体験してみてはいかがでしょうか?

2020年5月31日 「主に対してするように」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ 「主に対してするように」(31/05/2020) ◆心を込める [コロサイ3:23]   ・「人に対してする」のと「主に対してする」のでは、どこが違うのか? ⇒ 『心を込める』 [Ⅰサムエル記16:7]   ・具体的には、時間をかけて相手の真のニーズを理解し、自分が提供できる最良のものを気前良く与える。 ◆人間関係は「主イエスとの関係」 [コロサイ3:23~24]   ・「人との接し方」という点において、私たちクリスチャンと、そうでない人たちとの決定的な違いは、「主イエスとの関係の中で、他の人との関係を捉えることができる」という点。それは「命がけで愛された経験がある」ということであり、また「キリストのあわれみが注がれている」ということであり、そして「たとい地上で報いがなくても、天において私たちの想像を超えた報いが用意されている」という信仰。   ・私たちは「自分の持つ能力レベルの高さ」の故に、人々との関係に違いをもたらすことができるわけではない。私たちの『ベストフレンド』である主イエス・キリストとの関係の豊かさがそのまま、違いを生み出すのである。 ✰今日のキーワード: 「心を込めて」 ◎学びを深めるための質問  ①あなたが主イエスを知る前と知った後とでは、自分の中で「人との関わり方」にどんな変化が見られますか?  ②どのようにして「相手の真の必要」を見出すことができると思いますか? またそれを妨げるものは何でしょう?  ③「どのように、キリストとの関係を更に豊かなものとできるだろうか?」というテーマで分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon     “Do as you do for the Lord.”   (31/05/2020) ◆With all your heart. [Colossians 3:23]   ・How different between “work for men” and “work for the Lord”? Read more…

(391) “泣いている者たちとともに泣きなさい。”

 日本語の古くからの言い回しに『同類相憐れむ』というものがあります。「同じような苦しい境遇にある者同士は、互いに親近感を覚えるものだ」のような意味ですが、何故か最近では「あの人たちって『同類相憐れんでる』って感じで、何だか情けないね」というように、相手を見下した言い方として使われることが多いようです。もしかすると、戦後の高度経済成長を通して発展した日本の『おごり』のようなものが、『社会的弱者』を蔑視する傾向を育んでしまっているのかもしれません。とても残念なことです。  よくキリスト教は『弱者の宗教』と言われますが、それは何も「弱い人たちはキリスト教を信じる傾向がある」という意味ではなく、「キリストと心を通わせて生きる者の心は、不思議と『社会的弱者』に対する憐みに傾く傾向がある」ということなのだと思います。ある時イエス・キリストは次のようにおっしゃいました。「あなたがたの父(神のこと)があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」。そうです。私たちの創造主なる神は『憐れみ深いお方』なのです。  あるジャングルの奥地に住む部族は、『あわれみ』を表現するのにピッタリな単語がありませんでした。その部族に「神の憐れみ」に関して説明すると、彼らはそれを「神が私たちと共に泣いてくださっている」と解釈したのです。これぞ『あわれみ』の真骨頂ではないでしょうか?  神様は私たちに「あわれみ深い人になって欲しい」と望んでおられます。「人の痛みを自分の痛みとして感じ取り、共にその苦しみを乗り越えて行って欲しい」と願っておられるのです。そしてそのような態度で私たちが「共に生きること」ができる者となるために、今日も私たちを憐れんでくださっているお方なのです。

2020年5月24日 「隣人を愛する」

メッセージをYouTubeで観る 説教あらすじ 「隣人を愛する」 (24/05/2020) ◆自分本位の生き方 [ルカ10:25~37]   ・この箇所は「良きサマリア人の話」として有名だが、この話を「親切な行為の勧め」として捉えるならズレている。   ・イエスはこの律法の専門家が、純粋に『永遠のいのちへの道』を求めているのではなく、『自分の正当性』を誇示しようとしていることを察知し、その誤りに気付かせるためにこのたとえを話した。 ◆神との『心』の共有 [箴言3:27, ルカ6:36]   ・律法の専門家であるなら、他のどの律法にもまさって「隣人を愛すること」が大切[ガラテヤ5:14]だと知っているはず。しかし彼らの日々の生き方は「自分に都合の良い律法理解」を反映していた。   ・一方サマリア人は「混血種」としてユダヤ人から隣人扱いされていなかったにもかかわらず、『律法』によってではなく、「あわれみ」によって行動し、結果として律法を全うした。『あわれみ』は神のご性質であり、隣人にあわれみを示す人は神と『心』を共有している。[ヤコブ2:13]   ・イエスは「この小さき者の隣人になってくれるのは誰なのか?」 と私たちを招かれる。真に隣人を愛することは「キリストがご自身の愛を表現するために、自分を用いようとしておられる」と自覚することから始まる。 ✰今日のキーワード: 「あわれみの器」 ◎学びを深めるための質問  ①主イエスが「良きサマリア人のたとえ」で知らせようとしておられた『真理』とは、どのようなことでしたか?  ②私たちが聖書の中の「良い行いに関する勧め」に関して犯しがちな誤解に、どんなものがあると思いますか?  ③キリストが自分を通して「ご自身のあわれみを示そうとしておられる」と感じた経験を分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon        “To love our neighbors.”     (24/05/2020) ◆We tend to think of ourselves only. [Luke10:25~37]   ・This parable is not at all “telling us just to be kind to others”.  Read more…

(390) “求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。”

 クリスチャンたちは、天地創造の神のことを『我らの父』と呼びます。ちょっと馴れ馴れしいと思われるかもしれませんが、確かに「すべての物の根源であるお方」としても、またイエス・キリストが神を『アバ、父』と親しく呼んだことに倣う上でも、「父なる神」と呼ぶのは妥当かもしれません。  そんなイエス・キリストが弟子たちに『祈り』というものを教えた時、やはり「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように教えられました。そして「あなたがたはわたしの名によってどんなことを父に求めても良い」ともおっしゃったのです。ですからクリスチャンたちは、遠慮することなく、文字通りどんなことでも祈ります。  さて、ここで1つ気を付けなければならないのは、「どんなことでも求めても良い」ということと、「どんな願いも叶えられる」ということは、全く別のことだということです。『天の父なる神』は「良いお方」なので、私たちにとって最善でないものは通常与えようとはなさいません。これもまた「父なる神」として当然のことではないでしょうか?  私自身にも3人の子どもがいます。そして3人とも心から愛しています。ですから、できる限りの良いものをいつも提供してあげられるように努力してきました。(もちろん諸々の理由で、提供してあげられなかったことも多々ありましたが…) そしてまた3人の子どもたちは皆それぞれ個性がありましたので、必ずしも『同じもの』を『同じ時』に提供する必要はありませんでした。それぞれの個性や成長度合いに応じて「ちょうど良いもの」を「ちょうど良い時」に提供できるよう心掛けたのです。それが『良い父親』としての特権であり、責任でした。  私たちの『天の父なる神』は、私などよりも「遥かに優れて愛に満ちたお方」ですので、私たち1人1人に「最高のもの」を「最高の時」に与えることがおできになります。ですから当然、わきまえのない私たちが「求めるもの」を、いつも「求めた時」に与えるとは限りません。私たちが求めても与えられない時には、「神様はケチで意地悪だ!」と結論付ける前に、まず「自分自身の内側を吟味すること」が大切なのではないでしょうか?