(452) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 前回『成長』について述べましたが、「成長を目指すこと」と「人からの評価を期待すること」は全然別なことです。『成長』とは、いわば「より上を目指して全力を尽くす」ということです。そしてそれは「肉体や能力における成長」などの『外面的成長』と、「品性や人格的成熟度」に現れる『内面的成長』の両方を含みます。  「神が私たちの創造主であると信じる」ということは、単に「困った時に神頼みする」ということではありません。「最高・最善であるお方に造られた存在」として自分を見つめ、また取り扱うということです。ですから「成長を目指す」とはすなわち、「この偉大な造り主に恥じない生き方をしようとすること」と言えるでしょう。たとえ誰も見ていないところでも、たとえそれが1円の得にもならなくても、「すべてをご存じで、すべてをご覧になっておられるお方を笑顔にさせる」、ただそのことを目指して、持てる力・知識・善意をフル活用して1つ1つのことに対処する。これが「成長を目指す」ということです。その結果として人々の評価を受けるとしたら、それはオマケのようなものです。  大変残念なことに、最近は「そこそこの仕事をしておけばオッケー!」というような風潮が増えているように思います。もちろん「上司の命令は絶対。残業手当が出なくても、残業は当然!」などという、人格を無視したような雇用態度はもってのほかですが、私たちを造り、私たちを愛し、常に私たちの『最高・最善』を期待して日々励ましてくださるお方を喜ばせるために、今日も「成長を目指して」進んで行きましょう!

2021年8月22日 「目の前の必要と永遠の必要」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「目の前の必要 と 永遠の必要」       (22/08/2021) [マルコ 8:1~10] ◆神は目の前の必要を満たす   ・この記事は6章に出て来る『5つのパンと2匹の魚の奇跡』とそっくり。恐らく「同じ奇跡を2度体験した人々」もいたことだろう。もしかしたら、「パンをもらうことを目当てにイエスについて回っていた人」もいたかもしれない。しかしイエスはそんなことは気にもかけず、「かわいそうに…」と再び奇跡をなさった。 ◆神は永遠の必要を満たす [ヨハネ6:26~27]   ・イエスは人々が肉体的に一時的に満たされることでは満足されなかった。彼が期待したのは、人々が『永遠に保つもの(神が真に与えようとしておられる「より優れたもの」)』を求めるようになること。[ヨハネ4:13-14]   ・私たちはつい『目先の必要』に気を取られて神に求める。悪いことではないが、神はそのような祈りに答えることを通して「もっと優れたものがあること」を知らせたいと願っておられる。そして私たちがその『真に優れたもの』に思いを馳せることができるようにと、「実物教材」として、この世の様々な事象をお用いになる。   ・このことを知っていたパウロは、エペソの教会のために祈った。[エペソ1:18-19] 私たちも、神がご自身の聖徒たちのために用意しておられるものにこそ思いを馳せながら、1日1日を進んで行こう! ✰今日のキーワード: 更に優れたもの ◎更に深い学びのために  ①2度も同じような「パンを増やす奇跡」を行われた主イエスの心の内にあったであろう思いを想像してみましょう。  ②イエスが人々に与えたいと思っていたものは、どのようなものですか? 人々は何故それを求めないのでしょう?  ③神が私たちのために用意しておられる『更に優れたもの』に目を向けるため、あなたにできることは何ですか? Outline of the sermon      “Temporary vs Eternal”      (22/08/2021) [Mark 8:1~10] ◆God provides our “temporary needs”.   ・There might be some followers who were just seeking for more bread.  Jesus didn’t Read more…

(451) “叱責を大事にする者は賢くなる。”

 賛否両論あるかとは思いますが、東京オリンピックでの日本選手たちの活躍ぶりは素晴らしかったですね!メダルを取った人も、残念ながら取れなかった人も、私たちの代表として競ってくださり、本当にありがとうございました。  さて、どの種目においても『金メダル』を取れるのはたった1人ですが、私たちの人生の目標は必ずしも1等賞になることではありませんよね?私たちの子供たちがまだ幼かった頃、よく彼らに言い聞かせたことは、「『昨日の自分』よりも『今日の自分』、そして『今日の自分』よりも『明日の自分』が、何らかの形で1歩優れた者となれるように努力しようね」ということでした。「成長できない人」は、『死人』だけです。生きている限り私たちは『成長』することができます。  ところで、私たちが『成長』しようとする時に経験する共通の『障害物』があります。それは、私たちの中にある「楽しくないことには敢えて挑戦しようとしない」という性質です。新しいことに挑戦したり、周囲が理解してくれないことをしようとする時、私たちはどうしてもためらってしまいます。ですからどうしても「今までやってきた慣れていることを、今までやっていた方法で、今までやっていた場所で、今までやっていた人たちと一緒に、今までやっていた通りに行うこと」に甘んじてしまうのです。しかしそれでは『成長』は望めません。  最近、素敵な友情を描いたドラマをいくつか観ました。それらの友人関係に共通していたのは、お互いに「耳の痛い助言」を言い合いつつも、相手が悲痛な思いでいる時に、そっと傍で一緒に泣いてくれることでした。それはまさに『私たちの友』となってくださるイエス・キリストの姿です。彼は私たち1人1人が、与えられている潜在能力をフルに発揮できるようにと、時には厳しく、そして辛い時にはそっと傍らにいて支え励ましてくださるのです。この方と共に日々『成長』して行きましょう!

2021年8月15日 「メシヤ到来」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「メシヤ到来」(15/08/2021) [マルコ 7:31~37] ◆この箇所の特殊性   ・一見なんの変哲もない「イエスの癒しのみわざ」のストーリーだが、よく観察すると『深い意味』が読み取れる。   ・32節の「口のきけない人」という語は、ここの他には『イザヤ書35章』にだけ出てくるが、この章は「メシヤ到来による神の支配の回復」が預言的に描写されている箇所。今日の箇所にも『メシヤ到来』が暗示されている。 ◆メシヤ到来 [33~35節]   ・イエスはわざわざこの人を群衆の中から連れ出した。「深く息をして」のギリシャ語は、ローマ8章にも出て来る(「被造物のうめき」「御霊のうめき」など)。これは強い感情を表し、イエスの並々ならぬ意気込みを感じさせる。またイエスはアラム語で『エパタ』と言われた。他にイエスがアラム語を用いたのは、少女をよみがえらせた時。   ・次に『開け』は、単に「耳や口が開くように」というだけではなく「全人格的な解放」を命じている。それは35節で『舌のもつれ』に用いられているギリシャ語が「サタンによる束縛」を意味する語であることから分かる。   ・イエスのみわざは「ご自分がメシヤであることを証しする」ため。[ヨハネ10:24-26] しかしユダヤの指導者たちはそれを悟らなかった。イエスは今日も私たちをあらゆる「サタンの束縛」から解放する『真のメシヤ』である! ✰今日のキーワード:束縛からの解放 ◎更に深い学びのために  ①他の癒しのわざを描いた箇所とこの箇所ではどう違いますか? またそれはどのようなことから分かりますか?  ②イエスが『真のメシヤ』であることはどうして分かりますか? ユダヤ人たちには何故分からなかったのでしょう?  ③イエスは今日も「束縛からの解放のわざ」を行われます。あなたはどのような『束縛』から解放されたいですか? Outline of the sermon     “Messiah is revealed!”     (15/08/2021) [Mark 7:31~37]  *This story looks like common as the work of Jesus.  In fact deeper feature is in it.  This article reminds Read more…

(450) “必要な時に、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。”

あなたはどんなタイプの人と一緒に時間を過ごしたいですか?不機嫌な人?冷たい人?それとも何事にも否定的な人ですか?もちろん違いますよね?やはり一緒にいるなら、明るくて、元気で、肯定的な人だと思います。そういう人と時間を過ごすなら、それまで落ち込んでいた気持ちさえもどこかへ吹き飛んで、再び前向きに歩き出せるようになるはずです。 ところで、あなた自身も、誰かと会う時には必ず相手に何らかの「あと味」を残していることを知っていましたか?それらは、①元気を与えている ②ガッカリさせている ③変わり映えしない のうちのどれかです。どうせなら「良いあと味」を残す者になりたいですよね?ではそのような人となるにはどんなことを心がければ良いのでしょう? この世に『完成されている人』は1人もいません。全ての人は相変わらず「成長の余地」を残しています。ですから、「相手がより成長するために何ができるか」をいつも考えながら接するのです。これを聞くと「そうしたら他の人ばかり助けていて、自分は少しも成長できない」と思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。実は、「たった1代で大きな業績を築いた人100人」の統計を調べたところ、1つの大きな共通点が見つかりました。それは、彼らはいつも「他の人のポテンシャルを最大限引き出そうとしていた」ということです。 この世の雑誌や新聞には『否定的なことば』があふれていますが、聖書は『肯定的・積極的なことば』が満ちています。この「聖書の言葉(神のことば)」を日々自分の内側に取り入れて行くことは、自分自身を前向きにし、また人々に対する態度をも前向きにします。そのような心持ちで人々と接する時、あなたは相手に「良いあと味」を残す『人格成長マスター』としての人生を歩むことができるのです。

2021年8月8日 「信仰のあるべき姿」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「信仰のあるべき姿」(08/08/2021) [マルコ 7:24~30] ◆異邦人の地へ [24~26節]   ・イエスはガリラヤから北へ向かい、異邦人の多い地域に滞在された。律法学者たちの頑なさに疲れ、彼らが近づきたがらない地域でリフレッシュしようと思ったのだろう。(律法学者たちは異邦人を『犬』と呼んで軽蔑していた) ◆ギリシア人女性の信仰 [27~29節]   ・「子供たち」とは、ここでは「神の選びの民であるユダヤ人」を指す。イエスの応対は少し冷たい感じもするが、彼は御父から遣わされていることに忠実だった。[マタイ15:24] しかし「小犬扱い」されても、この女はひるまなかった。彼女の態度は「信仰のあるべき姿」を力強く表現している。    ①あきらめない ― 「自分のふさわしさ」ではなく、『神の恵み(あわれみ深さ)』にしがみついた。    ②つまずかない ― 「犬扱い」されるつまずきを飛び越える勇敢さ。(自分がどう思われようとも…)    ③見ずに信じる ― 『信仰』は、「結果」に先立つ。(『見えるもの』ではなく、「イエスの約束」に信頼した)   ・イエスの29節のことばに注目しよう。神はしばしば「私たちの信仰」を見たいがために、人生にチャレンジを送る。そんな時、イエスにここまで言わせる「一見バカげているほどに大胆な信仰」をもって応答する者になろう! ✰今日のキーワード:そこまで言うのなら… ◎更に深い学びのために  ①7章前半のパリサイ人や律法学者たちの態度と、このギリシア人の女の態度とは、どんな違いがありますか?  ②この女(母親)がこれほどまでに執拗にイエスに求めた原動力は何でしょう? また、どうしてそう思いますか?  ③この女に見倣いたいと思う要素はありますか? それはどんな部分ですか? 互いに分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon    “This is how our faith should be.”    (08/08/2021) [Mark 7:24~30] ◆Jesus went to the region of Read more…

(449) “すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。”

さて、正直に答えてみてください。最も最近『不平』を口にした(または感じた)のはいつでしたか?「あまりに昔で思い出せない」という方はまずいないと思います。大抵の人は「ついさっき」と答えるのではないでしょうか?私たちは何て「不平不満の種」を見つけるのが上手なのでしょう!まあ考えてみれば、それは人類創生から始まっていました。アダムとエバは理想的な環境に置かれながらも、たった1つだけ禁止されていた『禁断の木の実』に興味を持ち、「どうして神様はこんなにケチなんだろう!」(と聖書には書いてはありませんが…)と不平を持つことでそれを食べてしまって、自分自身に災いを招いてしまったわけです。 ベトナム戦争時代に空軍の指揮官として戦った『ロビンソン・リスナー』は、捕虜として8年間北ベトナムにある独房に収容されていました。彼がこの厳しい環境の中で生き延びることができたのは、独房の床下から生え出ていた1本の草のお陰でした。すべてが希望を失わせるような状況の中で、時折差してくる陽の光によって青々と伸びて行くたった1本の草を日々じっと見つめることで、リスナー将軍は「忍耐して待っていれば、必ず神様が道を開いてくださる」と希望を持ち続けることができたのです。 物事が思うように進まない時、私たちは「何を見つめて生きるか」を選ぶことができます。「絶望か、希望か」「問題か、解決か」「己の力の限界か、限界の無い神の力か」。そしてこの「状況を超えて働かれる神の力」に信頼を置いて生きる時、私たちは問題のド真ん中にあって平安を持ち続けることができるのです。

2021年8月1日 「『内側』が大切」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『内側』が大切」(01/08/2021) [マルコ 7:14~23] ◆『外側』のこと [18~19節]   ・弟子たちは何か律法学者たちよりも優れていたから選ばれたのではなく、主イエスが「みそばに置くため」に選ばれた。私たちも同じである。また「洗わない手で食べること」は肉体的健康のためには理想的ではないが、『神の国の視点』では、「肉体的健康」よりも「内面的・霊的健康」の方がはるかに重要である。 ◆『内側』のこと [20~23節] ― この『心の中』こそが、見張るべき部分![箴言4:23]   ・「人から出て来るもの」は全て悪いのか? ⇒ 答えは『YES』。 人から出て来るもの、すなわち『人間的考え』は    いつも自己中心的であり、『人(地上)』のことを考える。[マルコ8:33] 私たちが一生懸命に考えれば考えるほど頭の中が「この世の常識・人間的な考え」中心になって行く。では、それの何が悪いのか?   ・『この世の常識』に根差して生きることは人間的な計算に基づいており、『信仰による(見えるところによってではない)歩み』と相容れないから。[ローマ14:23] 「信仰によって歩む」ためには、私たちの心から雑草を抜き取り、『みことば』で満たす必要がある。[ヤコブ1:21] 頭に浮かんでくる「常識的な思考パターン」を、みことばで置き    換えるクセを付けよう! ✰今日のキーワード:内なる変革 ◎更に深い学びのために  ①なぜ『外側』よりも『内側』の方が大切なのですか? 例を挙げながら考えてみましょう。  ②なぜ「人から出て来るものは悪い」と言えるのですか? それを実体験した証しがあれば分かち合いましょう。  ③私たちが内側から「良いもの」を出すためにどうすれば良いでしょう? そのために今日から何ができますか? Outline of the sermon    “‘Inside’ is more important.”    (01/08/2021) [Mark 7:14~23] ◆Things from “outside”. [Verses18~19]   ・Disciples were Read more…

(448) “私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされた。”

 「自分の勘違いで誰かに疑いを持ち、後になって相手の無実を知り後悔する」、そんな経験をしたことはありませんか?私はあります。ある意味「正義感の強さの現れ」ということもできるかもしれませんが、確かな情報を得る前に早まった判断をすることは、後悔の元ですよね? 聖書に登場する『サタン(悪魔)』の語源は「訴える者」です。サタンは私たちを「罪あり!」と神の前に訴え、私たちの内に不健康な『罪責感』を植え付けて、私たちと神との関係を壊そうとするのです。ということは、もし私たちがよく調べることをせずに誰かを「罪あり!」とみなすなら、自分をサタンと同じ位置に置いていることになるので気を付けましょう。 人の成熟度を測る1つの目安は、「早まって判断を下さない性質」です。誰かを疑わしいと感じても、客観的な目で正確な情報を集め、且つ本人の言い分にしっかり耳を傾けるまでは、決して早急な判断を下すべきではありません。1つの興味深い『模範』は、聖書の最初の部分に出てくる「エデンの園におけるアダム&エバの犯した罪に対する神の対応」です。全てをご存知であるはずの神ですから、初めから「お前たちは一体何という事をしでかしたのか!」と彼らの過ちを責め立てることもできたわけですが、神はそうなさいませんでした。神がまずなさったことは、次のような質問でした。「お前たちはどこにいるんだい?」 そしてアダムが「私たちは裸であることに気付いたので、隠れています」と答えたのに対し、神は更に「誰が、お前たちが裸であることを知らせたいんだい?」「もしかしてお前たちは、わたしが『決して食べてはならない』と教えた木の実を食べたのかい?」と尋ねます。当然神はこれらすべての質問の答えを既にご存知でした。しかし神は敢えて「彼ら自身の口から事の真相を聞こうとされた」のです。 あなたは今までに「ちゃんと事情を聴いてもらうことなく勝手に決めつけられてしまったこと」がありますか?もしあるなら、それがどれほどの痛みを伴うかをご存じのはずですね?ならば同じような痛みを決して他の人に与えることの無いように気を付けましょうね。

2021年7月25日 「『神の心』を見つめる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『神の心』を見つめる」(25/07/2021) [マルコ 7:1~13] ◆『律法』と『言い伝え』 [3~4節]   ・ユダヤ人には『律法』以外に、自分たちの習慣や「律法厳守」の精神に基づいた『昔からの言い伝え』と呼ばれる「文字化されていない様々な規律」があった。パリサイ人たちは「神に従っているつもり」で、実は「自分の欲や信念の故」にこれらの『言い伝え』にも厳格に従い、また人々にも強要していた。   ・私たちは、自分が信じ従っているのが「神のことばそのもの」なのか、それとも「人間的な解釈」なのかを見分けることが大切。そのためにこそ、いつも言っている『神との個人的な関係』が何よりも重要。 ◆『神の律法』と『神の心』 [6~8節]   ・イエスは「律法を敬っている」と言いつつ、パリサイ人の『心』が神から遠く離れてしまっているのを嘆かれた。   ・[Ⅱコリント3:6]のみことばは「聖書を読むことを軽視させる」のではなく、聖書を読む時は「ただ文字面を読む」のではなく、聖霊に拠り頼みつつ、そこから『神の心』を汲み取るべきだということ。聖書は『神の心』の現れ。   ・イエスは「神のことば」としてこの地上に来られた。彼の地上での歩みは『神の心』そのもの。このイエスの歩みをじっと観察することを通して日々『神の心』を見つめ、味わいつつ生きて行こう![詩篇34:8](JCF年間聖句)  ✰今日のキーワード:『神の心』を味わう ◎更に深い学びのために  ①なぜパリサイ人たちは、「昔からの言い伝え」を守ることに一生懸命になってしまったのだと思いますか?  ②私たちが『神のことばそのもの』でなく、「それと似た別物」に捕らわれてしまうのはどんな時だと思いますか?  ③みことばを通して『神の心』に触れた経験があれば、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon    “Jesus, revelation of ‘God’s heart’.”    (25/07/2021) [Mark 7:1~13] ◆“Law of Moses” and “Tradition of elders”. [Verses 3~4]   ・The Jews not only had “the law” but also Read more…