2022年1月16日 「『目的』と『手段』」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「『目的』と『手段』」    (16/01/2022) [マルコ 11:12~19] ◆宮きよめ   ・この時の『宮』は、1週間後に迫った「過越の祭り」のためにごった返しており、地方から出てきた巡礼者たちを相手に商売が行われていた。しかし「過越の祭り」は、これから十字架にかかろうとしているイエスの「贖いのみわざ」を象徴しているできごと。それを「利得の手段」としているご自分の民に、イエスはどのような感情を抱いたことであろう。 ◆祈りの家 [17節]   ・『神殿(神の宮)』の本来の目的は「神との出会い」。「神を知り、神を礼拝し、神との関係を育むため」に神殿は建てられた。最初の神殿を建てたソロモン王は、多くのリストを挙げ「これらの事が起こった時に、もしあなたの民がへりくだって御前に祈るなら、あなたが親しく天から聞いて、その祈りに答えてください!」と神に嘆願し、神はその祈りに対し「わたしの目と心はいつもそこにある」と約束してくださった。   ・私たちはこの『祈りの家』である「神の宮」を、自分勝手な都合のために利用しようとすることなく、「神である主を礼拝し、祈り、この方を更に深く知るため」に、心を躍らせながら、日ごと、週ごとに『主の宮』へ行こう! ✰今日のみことば: 詩篇100篇 ◎更に深い学びのために  ①イエスが『宮きよめ』をなさったのは、どんな理由からだと思いますか?  ②『宮(神殿)』は、本来どのようなことのために用いられるべきでしょう?  ③『神の宮』に対する意識として、私たちが陥ってしまいがちな誤りには、どんなものがあるでしょう? Outline of the sermon      “What is ‘the temple’ really for?”      (16/01/2022) [Mark 11:12~19] ◆Inside “the Temple”.   ・There were lots of trade business happening in the temple as “Passover” was coming up.  This “Passover” is Read more…

(472) “神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる。”

 神の存在を信じようとしない人たちを『無神論者』と言います。彼らは「神の存在を信じるなんて、実に『非科学的』である」と主張しますが、これは大きな誤りです。何故なら、何かに関して「それは決して存在しない」と断言することこそ『非科学的』だからです。無神論者は、神の存在を「信じようとしないこと」はできますが、「神の存在自体を否定すること」は科学的に不可能です。そしてもちろん、「神の存在を信じようとしない人がいるから」といって、神が存在しなくなるわけではありません。  『神』すなわち『創造主』を信じないということは、よくよく考えるなら実に無謀なことです。『創造主』の存在を否定してしまうなら、一体どのようにして様々な『被造物』の存在理由を説明できるのでしょう?日々私たちの目を楽しませてくれる美しい花々は一体どこから出てきたのでしょう?これらの花々からミツバチたちが蜜を集め、私たちに美味しい蜂蜜を提供してくれるなんて、誰が考えたのでしょう?私たちが毎日必要な酸素を、緑の木々が提供してくれるように、一体誰がアレンジしてくれたのでしょう?『無神論者』とはすなわち、これら全ての出来事は「偶然の産物」ということで片づけてしまう人たちなのです。  あなたももしかしたら今までは「神を信じるなんて愚か者のすること」と思いかけていたかもしれませんね。でも実際のところ「神の存在を信じないことほど無知で愚かなことはない」というのが、はるかに妥当な考え方なのです。

2022年1月9日 「イエスを『王』とする」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「イエスを『王』として生きる」    (09/01/2022) [マルコ 11:1~11] ◆遣わされた2人の弟子 [1~3節]   ・この2人の弟子と同じように、私たち1人1人も主イエスによって「遣わされて」いる。『遣わされた者』にとっての最優先事項は「自分の解釈や印象」ではなく、「遣わした方」の指令をよく理解し、それを忠実に遂行すること。それには『信頼』が要求される。この新しい年も日々の交わりを通して主イエスのことをより深く知り、彼に対する信頼を深めて、任せられた役割を忠実に行っていこう。 ◆王なるイエス [7~10節]   ・この「エルサレム入城」は、イエスが『王』であることをいくつかの点で描写している。    ①「預言の成就」。[ゼカリヤ書9:9]  ②「上着や葉の付いた枝を道に敷く」のは、『王』を迎える時の態度。    ③イエスご自身も『まことの王』としての自覚を持っておられた。[ヨハネ18:33, 36~38] ここでいう『真理』とは、「天に唯一まことの神がおられ、人はこの方の権威の下で歩む時にのみ、真の自由をもって『自己最高に』生きることができる」 ということ。   ・この2022年、イエスこそ『真の王』と仰ぎ、彼の『真理のみことば』に根差し、揺るぎない人生を歩もう! ✰今日のみことば: マタイ25章40節 ◎更に深い学びのために  ①「主イエスに遣わされている者」という意識を持つことは、あなたの日々の歩みにどんな違いをもたらしますか?  ②人々は、エルサレムに入城してくるイエスを、どのような思いをもって迎えたと思いますか?  ③イエスはあなたの人生の『王』ですか? あなたはそのことをどのようにして判別できるでしょう? Outline of the sermon      “Enthrone Jesus in life.”      (09/01/2022) [Mark 11:1~11] ◆Jesus sent two disciples. [Verses 1~3]   ・When we are sent by someone, we concentrate on Read more…

(471) “神は我らの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

 2022年、明けましておめでとうございます。今年こそ『コロナ禍』が過ぎ去って、もう少し自由に行き来し、友人たちと対面でじっくりと語り合えるようになると良いですよね。  さて、「ピンチの時こそ、その人の真価が現れる」と言われますが、その『真価』というのは、しばしばその人が「何に根差して生きているか」によって大きく左右されます。もし私たちが単に「自分の知識や経験」にのみ頼っているのなら、不測の事態に直面した時には容易に浮き足立ってしまうことになります。しかしそんな時、この天地を創造し支配なさっておられる全能なる神に頼ることを知っているなら、揺るがされることはありません。それはあたかも地中深く根を張っている樫の木の大木のようなものです。これらの大木は何百キロもの範囲に渡って根を張っており、山火事やどんな干ばつに遭っても枯れることはありません。  人生には、山火事のような「周囲からの脅しやプレッシャー」、また干ばつのような「思いもよらぬ不幸や危機」に直面することがあります。そのような時に、単に『自分の力や能力』ではなく、あなたを愛し守り支えてくださる『全能の神』に信頼を置いていることは、まさにこの樫の大木のような根をもっていることに他なりません。 この新しい年、一体どんなことが起こるのか想像もつきませんが、日々この創造主なる神に信頼を置き、たとえどんなに思いがけない局面に立たされることになっても「揺るがされることのない」歩みをしたいものですね。

202212 「私のための神のみこころ?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「わたしのための神のみこころ?」    (02/01/2022) ◆「個人のための神の計画」はあるのか?   ・パウロは、「私たちが『良い行い』に歩むようにと、神はキリスト・イエスにあって『良い行い』を備えてくださっている」と言っている。[エペソ2:10] しかし神を知れば知るほど、神は私たちの『行い』以上に『心(内なる思い)』に関心があることが分かってくる。では果たして神は私たち1人1人に「特別な計画」をお持ちなのだろうか?   ・神は私たちに「何かをすること」ではなく、「何かになること」すなわち「キリストのようになる(『真の神の子』として歩む)こと」を願い、聖霊の働きによってそれを実現しようとしておられる。[ローマ8:28~29] 聖霊は「特定の行いへと導く」というよりは、みことばや状況を用いてまず「私たちの内側を練る」。[Ⅱテモテ3:16~17,へブル12:7] ◆唯一最大の戒め [ヨハネ13:34]   ・『愛する』とは、「相手の最善のために、最大限の犠牲を払うこと」。そして私たち1人1人にとっての『最善』とはそれぞれの人生に『神の計画』が実現されることである。キリストはまさにそのためにご自身をささげられた。ということは「キリストが愛されたように互いに愛し合う」とは、互いの人生に『神のご計画』が成し遂げられるために、心を込めて祈り合い、惜しまず与え合い支え合うこと。この2022年、そのような心構えで進んで行こう! ✰今日のみことば: ガラテヤ6章2節 ◎更に深い学びのために  ①神は「あなたのための特別な計画」を持っていると思いますか? どうすればそれを知ることができるでしょう?  ②私たちはどのようにして「キリストのごとく変えられて行く」のでしょう? それを妨げるのはどんなことですか?  ③「イエスが愛されたように互いに愛し合う」ために、あなたはどんなことを心がけてこの1年を歩みたいですか? Outline of the sermon         “God’s will for Me?”         (02/01/2022) ◆Does God really have “a special plan for each one of us”?   ・In [Ephesians 2:10] Paul says that God has prepared “good works” Read more…

(470) “「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。”

 新しい年明けが近づきましたね。何か「2022年に向けての目標」なるものは思いつきましたか?もしまだの方は、これからお話しすることを参考にしてみてください。  恐らく多くの人が「より素敵な人柄、より優れた人格」を目指しておられることと思います。でも何となく漠然としていて、どこから始めたら良いのか考えあぐねておられるのではないでしょうか?または過去に様々な『立派な決断』はしたものの、長続きしなかったというような経験もあるかもしれませんね。既にお気づきかもしれませんが、「人格的成長」とは、そんな大それたことをする必要があるわけではないのです。  私たちは皆、日々数えきれないほどの『選択』をしながら生きています。目覚まし時計を止めながら「今起きるか、もう少し寝るか」とか、「朝食を食べて行くかどうするか」「何を着て行くか」「どの道を通って行くか」などなど。そして多くの場合私たちは「それをしたいかどうか」、または「それをしてもよいかどうか」で決めているのではないでしょうか?実はここでもう1歩進んで「それが自分にとって益になるかどうか」を思い浮かべてみて欲しいのです。  幼い子供は何をするにも親のところにやって来て、「ねぇねぇXXをしてもいい?」と尋ねます。親は我が子への愛情の故にそれを許可したり禁じたりしますよね?そうやって「幼い頃にしつけられた習性」に助けられながら、私たちは大人になると『自分の意志』で物事を選択・判断するようになります。  私たちの創造主なる神も同じです。神は聖書を通して私たちに『基本的なこと』を教えてくださいます。しかし詳細に関しては私たちの『自由意志』にお任せになります。もし私たちがこの「聖書による基本的な判断基準」に助けを得ながら、日々直面する選択を「これは自分を更に建て上げることになるのか?それとも、単にその場での満足のためなのか?」と問いながら、『良い方』を選んでいくことを繰り返していくなら、2022年の終わりにはきっと「今の自分よりひと回り成長した自分」と出会えるはずです。

(469) “人を富ませるのは主の祝福。”

 もしかすると多くの方々は「キリスト教徒の人たちは『お金』には関心がない」と考えておられるかもしれません。確かにクリスチャンの方々は『無欲』である傾向があるかもしれませんが、決して「お金に関心がない」わけではありません。面白いことに聖書は『祈り』というテーマに関して述べている箇所が500か所くらいあるのに対して、『富』また『金銭』に関して述べている箇所は2000か所以上もあるのです!もちろんそれらは「どうやって儲けるか」を教えているわけではなく、「『富』というものをどのように賢くしかも公平に取り扱うべきか」について多く語っています。実際この『お金』というものを正しく扱うことができないために、多くの人間関係(夫婦関係も含めて)が壊されているのです。  神様は私たちを『精神的』な面だけでなく、『経済的』にも祝福したいと望んでおられます。しかしもちろん「気違いに刃物」を渡すようなことはしません。すなわち、私たちを経済的に祝福する前に、まず私たちが「正しく公平に『富』というものを扱える者」となれるよう、教育してくださいます。だからこそ『富』に関して聖書を通して多くを語ってくださっているのです。基本的に『富』は「楽な人生を送るため」に与えられるのではなく、「相応の労苦を積んだ報酬」として与えられるものです。それを「楽をして多くの富を得ること」を目的として詐欺や盗みを働いたり、高給を求めて地位や名誉を追い求めたりすることを、神は決して喜びはしません。  イエス・キリストを信じ従う人々は、『富』というものは「追い求めるべきもの」ではなく、「神が喜ぶことを求め、人々を愛して生きること」の結果として『神から与えられるもの』であることを知っています。だからこそ彼らの生き様は人々の目には『無欲』に映るのです。

(468) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、あなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。”

 大変残念なことですが、多くの人は『真実の愛』をもって「耳の痛い忠告をしてくれる友人」を持っていません。たぶんその大きな理由の1つは、日本のことわざに「触らぬ神に祟りなし」と言われているように、相手が喜ばないことは言わないでいる方が気楽だからでしょう。言い換えるなら、「長きにわたる真実の友情を築くよりも、目先の関係を保つことを重視」してしまうのです。  あるところに「ブレーキの利きが悪い車」があったとしたら、あなたは自分の愛する人にそんな車を運転することを勧めるでしょうか?そんなことをするわけないですよね?たとえその相手がどんなに「私は急いでるんだから、とにかくこの車を今すぐ使わせてよ!」と声を荒げてあなたに迫ったとしても、あなたは決してその車の鍵を渡さないはずです。「こんなところで言い争いをするのは嫌だから、ともかく運転させてあげよう」とは決して言わないでしょう?  もちろん、「人のあら捜しをして、その欠点を積極的に指摘した方が良い」と言っているわけではありません。思慮の無い忠告は人を深く傷つけることがあります。ここで言っているのは、『真の思いやり』というものは、たとえその場では相手に嫌われてしまうことがあったとしても、誠実さと断固たる態度を持って、相手にとっての『最善の道』を提供することなのです。本来『愛』というものの性質は「相手の最善のために、自分自身が払う犠牲を惜しまないこと」。そしてそんな『愛』の完全な模範はいつでも、「私たちと神との関係を回復させるために、十字架の上で命をささげたイエス・キリストの姿」なのです。