2022年2月20日 「真理に基づいて生きる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「真理に基づいて生きる」       (20/02/2022) [マルコ 12:13~17] ◆真理を求めない心 [13~14節]   ・「彼ら」は引き続きユダヤ人リーダーたち。「パリサイ人とヘロデ党」はローマとの関係において対立していた。よってイエスがどちらを答えても反論される状況。これまでもそうだが、彼らは「真理を求めよう」とはしないで、ただ「イエスを陥れよう」としているだけ。「巧妙な犯罪者たち」にも言えることだが、それだけの熱心さを「正しいこと(まごころから神を求めること)」に向けるなら、どれほど実りある人生を歩めることだろう…   ・悪魔は私たちの『思い』に働きかけ、私たちを「自分勝手な知識や悟りで神を推し測る」ように誘う。悪魔の狙いはただ1つ。私たちの「神に対する信頼」を揺るがし、真理を悟れないようにすること。 ◆真理を求めて生きる   ・私たちがもし「自分の思い」よりも「神の真理」を優先させるなら、真の『自由』を体験できる。[ヨハネ8:31-32]   ・『神の真理』の代表的なものとは…  ①私たちは神のもの(神の栄光のために造られた)。[詩篇100:3,イザヤ43:7]    ②神は良い方である。[ローマ5:8,イザヤ55:7b]  ③神は私たちよりも遥かに偉大である。[イザヤ55:8-9]   ・『神の真理』は、「考えて」も見つからない。聖霊が悟らせてくれる「神のことば」の導きに従って生きよう! ✰今日のみことば: 箴言 3章5~6節 ◎更に深い学びのために  ①なぜ「生まれつきの人間」は、『神の真理』を求めようとしないのでしょう?  ②『神の真理』に従って生きる時、人はどうして『真の自由』を体験できるのだと思いますか?  ③あなたが今までに発見した『神の真理』には、どのようなものがありますか? 互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon      “Build your life on ‘the truth’.”      (20/02/2022) [Mark 12:13~17] ◆Those who don’t seek “the truth”. [Verses 13~14]   ・These Jewish leaders never tried to seek Read more…

(476) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 私がまだ『クリスチャン』になる前、「クリスチャンって、どんな人?」と訊かれたら、きっと「良いことをする人たち」と答えたと思います。そんなイメージがあったんですよね。それとともに「きっと『良いこと』をしないと『救い』を受けられないのだろう」とも思っていました。それが誤りであることは、自分がクリスチャンになってからはっきりと分かったのですが…  クリスチャン(イエス・キリストを『救い主』と信じることによって、神からの「永遠のいのち」を受け取った人々)が『良い人たち』だと感じられるのは、彼らが「『救われるため』に一生懸命に善行を積んでいるから」ではなくて、「『救われるため』に何の貢献もしていないにも関わらず、ただイエス・キリストを通して現された一方的な神のあわれみを信じ受け取ることによって『救われた』ことへの喜びと感謝」が彼らの人生から溢れ出ているからなのです。  『プライスレス(Priceless)』という言葉があります。直訳すると「値段がない」ですが、実際の意味は「高価過ぎて値段が付けられない」という意味です。聖書が教える『救い』も同じです。神が人に与える『救い』は、あまりにも高すぎて、人間の努力で徳を積むことによっては到底届かないのです。それ故神は、ご自身のひとり子である『イエス・キリスト』の「いのちの代価」を支払うことによって、このイエス・キリストを通してご自身に近づく者が誰でもその『救い』を手に入れられるようにされたのです。

2022年2月13日 「逆転の神」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ          「逆転の神」         (13/02/2022) [マルコ 12:1~12] ◆たとえ話の解説   ・「彼ら」はユダヤ社会の指導者たち、「ある人(主人)」は創造主なる神、「農夫たち」は管理を任された私たち(ここでは特に『祭司長たち』)、再三送られる「しもべ」は神から遣わされた預言者たちを指す。   ・神はご自身の心を伝えるために幾度も預言者を送り、ご自身の民を御許に招かれたが、イスラエルの民は聞く耳を持たず、かえって彼らを迫害した。ここに神の「あきらめない(懲りない)愛」が描かれている。   ・これだけ拒まれているのにもかかわらず、敢えて「愛する息子」を送るのは馬鹿げているように思える。同様に私たちのこの世の人生も「正直者が馬鹿を見る」ことが多いかもしれない。しかし最後には「全てを公平にさば   かれる全能の神」の逆転勝利が備えられていることを知っているからこそ、飽きることなく『善』を行える。 ◆「任された者」としての歩み   ・神は私たちに「ご自身が創造された世界」、そして『自分自身の人生』の管理を任された。それは自分の自由に使えるが、「任せてくださった方の心」に報いたい。主イエスが言われたように「この世にあっては苦難がある」。しかし終わりに待っているのは『逆転勝利』。それを念頭に置いて、この週も歩んで行こう! ✰今日のみことば: 詩篇 118篇8節 ◎更に深い学びのために  ①この「ぶどう園のたとえ話」で、イエスは、誰のどのような態度を表現していますか?  ②この指摘に対し、祭司長たちはどのような態度を取るべきでしたか? なぜそのようにできなかったのでしょう?  ③「この世界」また「自分の人生」を神から任されている者として、どのようなことに気を付けて歩むべきですか? Outline of the sermon       “Keep your faith alive!”       (13/02/2022) [Mark 12:1~12] ◆Explanation of the parable.   ・Jesus spoke this parable to the leaders of Jews.  Owner of this vineyard pictures God the Read more…

(476) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい。”

 何週間か前に『柔和さ』の話をしましたが、今日はこの『柔和さ』について、ちょっと違った面から考えてみたいと思います。  正義感の強い人は、「自分にも人にも厳しくする」傾向があるように思いますが、これには「良い面と悪い面」があります。『良い面』とはもちろん、自分を律し、周囲の人々に対して良き模範を示すことができる点です。ところが人にはそれぞれ違った『弱さ』があります。「分かってはいるけど、どうしてもできない人」にとって、「私もできたんだから、キミにもできないはずがない!」と強要してしまうことは、時には相手を深く傷付けることになりかねません。  上記に示した聖書の言葉の中の「自分自身も誘惑に陥らないように」というのは、何も自分が、正してあげようとしているその相手と「同じ過ち」に陥ってしまわないように、という意味ではなく、「知らず知らずのうちに、相手を蔑んだり、さばいたりしてしまわないように」という意味です。「相手を正す」とは、「相手をその過ちから立ち直らせる」ということであって、相手を糾弾することが目的ではないからです。  私たちは、何度も警告を与えたにも関わらずそれに従わなかった人が失敗を犯すのを見た時、「だから言ったじゃないか!」とか、「そうなることは目に見えてたよ~」などと突き放してしまいがちです。しかし聖書の神は、私たちをそのようには取り扱いませんでした。彼は、神を認めず敬いもしないで自分勝手な道を進んで過ちを犯した私たちのことをあわれみ、ご自身のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちの『過ち(罪)』の代価を十字架によって支払い、私たちが正しい道へ進むようにと、共に歩んでくださる方なのです。  『柔和な心』とは、相手の弱さを理解しつつ、それでも決してあきらめることをしないで、相手の可能性が最大限に発揮されることを求めて、相手に寄り添い続ける姿勢なのです。

2022年2月6日 「『平和ボケ』の落とし穴」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ       「『平和ボケ』の落とし穴」      (06/02/2022) [マルコ 11:27~33] ◆「地上の権威」と『信仰』 [27~28節]   ・「祭司長・律法学者・長老」というのは、ユダヤ社会における『権威者』たち。そしてその上に「ローマの権威」があった。祭司長たちは、このどちらにも従っていないイエスを陥れようと、この質問をした。一方イエスは、もう1つ別の「真に従うべき権威」の存在を彼らに思い起こさせるための質問をした。[29~30節]   ・「信仰の自由」はありがたいことだが、『落とし穴』がある。それは「中途半端な従順に甘んじる」という落とし穴。「必死に『真理』を追究し、それに命がけで従おうとする態度」が失われ、『神の権威』があやふやになる。 ◆「真の神の権威」と『信仰』   ・この2年間は『コロナ禍』の影響で不安定な状況が続いている。もしかするとこれは「今こそ、わたしを求めよ」という、神の招きなのかもしれない。今、真の信仰者が最も関心を払うべきなのは、「今後政府の方針がどうなって行くのか?」「一体いつになったら『コロナの脅威』は去るのか?」というようなことではなく、みことばや聖霊を通して訪れる「神からの語りかけ」に注意深く耳を傾け、誠心誠意従うこと。「自分のメンツを失うこと」を恐れるのではなく、むしろ「神の期待を裏切ること」を恐れて生きることである。 ✰今日のみことば: ルカの福音書 6章46(~49)節 ◎更に深い学びのために  ①祭司長たちは、どうしてイエスの質問に対して「分かりません」と答えたのでしょう?  ②『信教の自由』が与えられていることの「長所と短所」は、どんなことだと思いますか?  ③主イエスに対する「信仰や献身」をなまぬるくさせないために、どんなことに気を付けたらよいでしょう? Outline of the sermon       “Keep your faith alive!”       (06/02/2022) [Mark 11:27~33] ◆Dead faith. [Verses 27~30]   ・When Jewish leaders came to Jesus to ask about “authority”, Jesus answered by asking a question related     Read more…

(475) “わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。”

 全ての人類が共通して求めているものの1つに『心の平安』があると思います。お金や娯楽も役に立ちますが、それらは「心の最も深い部分」を満たしてはくれません。言い方を換えるなら、この「心の最も深い部分」が満たされていないために、人はお金や娯楽その他を使って、何とか一時的にでも「心を満たそう」と喘ぐのでしょう。  イエスはこの地上を去る前に「わたしの平安を残す」とおっしゃいました。しかも「わたしが与える『平安』は、世が与えるものとは違う」と。「世が与える平安」とは、基本的に「周囲の状況に依存した平安」です。「物が十分にある」「人間関係が円滑に進んでいる」「身体が健康である」など、日々の生活にこれといった問題がないから『平安』でいられる、というものです。では「世が与えるのとは違う平安」とは、何でしょう?それは「とても平安ではいられないような状況の中でも失われることのない『平安』」という意味です。  ある方は、「そんなことが可能なわけはない。単なる欺瞞だ。」とおっしゃるかもしれません。そんなことはありません。世の中のほとんどの『不安』は、「この先どうなるか分からない」というのが理由です。病気であろうが、自然災害であろうが、経済恐慌であろうが、「すぐに解決する。自分の生活には影響がない。」ということが確実に保証されていれば、人は落ち着いていられるはずです。しかし人間には一瞬先のことも分かりませんし、自分ではコントロールできない状況に陥った時には、いつも『死』という最大の恐怖がちらつきます。それが私たちから『平安』を奪うのです。  「イエス・キリストが与える平安」は、これらの『不安』を一掃する力があるのです。私たちクリスチャンがよく口にする表現に「God is in control」という言葉がありますが、これは日本語に訳するなら「今のこの状況も神の知らない所ではない」というような意味になりますが、もっと詳しく言うなら、「『全能の愛なる神』が、この出来事が起こることを許されたのなら、そこには必ず背後に『良い計画』があるはずだ」という信仰に裏打ちされた言葉なのです。イエス・キリストは『死』さえも打ち破られてよみがえられました。この方に信頼して生きるならば、たとえこの『コロナ禍』の中にあっても失われることの無い『平安』を保って日々を生きることができるのです。

(474) “人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。”

 英語のことわざに、「Flying off the handle」というものがあります。これはハンマーなどのつなぎ目が緩んでいたために、釘を打ち付けようと振りかざした時に、ハンマーの先っぽが柄から抜けて吹っ飛んでしまうさまを表しており、「簡単に癇癪を起こす人への警告」のために用いられます。なかなか面白い表現ですよね?あなたの『ハンマー』は大丈夫ですか?  ハンマーの先っぽが吹っ飛んでしまうと、続いて起こりうるいくつかの災難が思い浮かびます。  ①そのハンマーそのものが使い物にならなくなる。すなわち、癇癪を起こした人の言葉や態度は、それ自体がいくら説得力があり、理にかなっていたとしても、もはや誰も聞く耳を持ってくれず、効果がなくなるということです。本当に相手に分かって欲しいなら、落ち着いた態度や口調で話しましょう。  ②飛んで行った「ハンマーの先っぽ」は、ダメージを与える。怒りに任せて発した言葉や態度は、相手の心を傷付け、時にはその傷が一生残ってしまう場合もあります。あなたは一生誰かからの恨みを背負って生きたいですか?  ③「先っぽをなくしたハンマー」と「与えたダメージ」のどちらも、元に戻すのは大変な作業である。実際、多くの場合は「取り返しのつかないこと」になる場合が多いでしょう。「あの時の『カッとなる気持ち』を、そのまま相手にぶつけたりしなければ…」という後悔を背負って生きている人は、少なくないのかもしれません。  「そんなこと言ったって、人生にはむしゃくしゃすることが多すぎる!」 そうおっしゃるかもしれません。面白いことに聖書には次のようにも書いてあります。「復讐は神に任せなさい」と。聖書の神は『公平』なお方であり、カッとなることもありません。しかも私たちの心を読み取られる方でもあります。本当に不条理なことには、神があなたに代わって公平にさばいてくださいます。このお方にお委ねして、私たちは大きな心で人と接するように心がけましょう。

2022年1月23日 「神への信仰」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「神への信仰」    (23/01/2022) [マルコ 11:20~25] ◆「いちじくの木に起こったこと」の意味 [20~22節]   ①「いちじくの木」は、しばしばイスラエルの民を象徴するのに用いられた。従ってここでは「メシヤ到来に気付かなかった民」、そして「やがて来るその滅亡の予告」を象徴している、と捉える。   ②(これ以降の文脈から)神が全て(被造物や季節・法則など)の創造主なのだから、神ご自身はその『法則』に従う必要はない。すなわち「神はご自分の望むことをされる」ということ。 ◆正しい祈り [22~25節]   ・「神を信じなさい」は、「神は何でもお願いを叶えてくれると信じなさい」の意味ではない!むしろ、「正しく神を信じるなら、正しい祈りができ、その祈りは必ず答えられる」という意味。では、どのように「正しく祈る」のか?    ①神に関する『正しい知識』(神の主権・力・最善など)に基づいて祈る。    ②神との『正しい関係』に基づいて祈る。― 神は「個人的な関係」の故に、祈りにお応えになる。   ・これらに基づいて祈る時、「私が知っているこのお方は、必ずこの祈りを聞いてくださる!」という強い確信が生まれる。このような信仰によって大胆に御前に出るご自身の子供たちを、神は決して拒むことはない。 ✰今日のみことば: マルコの福音書 14章36節 ◎更に深い学びのために  ①「いちじくの木が枯れた出来事」から、主イエスが私たちに知らせたいのは、どんなことだと思いますか?  ②今日の箇所から、主イエスが「信仰について」私たちに知らせたいのは、どんなことだと思いますか?  ③今日の箇所から、主イエスが「祈りについて」私たちに知らせたいのは、どんなことだと思いますか? Outline of the sermon         “Have faith in God.”         (23/01/2022) [Mark 11:20~25] ◆Why did Jesus curse the fig tree? [Verses 20~22]   ・It shows us that our God Read more…

(473) “柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”

 「柔和な性格」と聞くと、どちらかというと弱々しいイメージがありますが、聖書に出て来る『柔和』という語を原文のギリシャ語で見てみると「制御された力強さ」という意味だと分かります。この『柔和』という描写は、聖書の登場人物の中では「イエス・キリスト」や「モーセ」などに用いられています。両者とも様々な困難に直面する中で、決して心折れることなく、多くの民を神への信仰と従順へと導き励ましました。  「すべての人を喜ばせること」は、誰にもできません。真剣に人生を歩めば歩むほど、必ずいちゃもんを付ける人や妨害しようとする人が現れます。ある意味、私たちの人格的な成熟度は、このような人たちにどのように対処するかに現わされると言っても良いでしょう。このような場面で、次の3つくらいの態度が考えられます。  ①おじけづく: 真の『柔和さ』を十分に身に着けていないと、このワナに陥る傾向があります。相手に気に入ってもらおうとするがあまり、不必要な代価を払ってしまうのです。そのため「本当に大切な人間関係」を傷付けてしまう可能性があります。  ②反抗する: このような態度は「自信の現れ」ではなく、むしろ「自信の無さの現れ」です。つまり『心の不安』の故にむきになって自己主張しようとするわけです。このような態度はかえって敵を増やし、自分自身を窮地に陥れます。  ③柔和な態度で冷静に対応する: これができるのは、自分自身の言動に強い確信を持ちつつも、相手の言動を正しく尊重することができるからです。「真に柔和な人」は、落ち着いて相手の話を聞き、正しく「良いものと悪いもの」を見分けることができるのです。  『柔和さ』とは、次のように自問自答できることだと言えるでしょう。「ここで自分自身を押し通すことと、この人との関係を保つこととは、どちらがより価値あることだろうか?」