2022年9月11日 「十字架を取り巻く人々」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「十字架を取り巻く人々」    (11/09/2022) [マルコ 15:16~32] ◆兵士たち&クレネ人シモン(17~21節)   ・『紫の衣』は、高貴な人々(王など)が身に着ける衣服。兵士たちはイエスを敬っていたわけではなく、王でもないのに「王と自称していた」イエスをからかい、もてあそんだ。   ・「クレネ人シモン」は、恐らく過ぎ越しの祭りに参加するために田舎から来ていた敬虔なユダヤ人。子供たちの名前が述べられていることから、この出来事をきっかけに「主イエスに対する信仰」に導かれたのであろう。 ◆嘲りに対し無言のイエス(29~32節)   ・イエスはこれらの嘲りに「じっと耐えていた」というよりも、「思いを御父に集中させていた」と思われる。彼の戦いは既にゲッセマネの園で完結しており、あとは全て御父に任せておられた。[Ⅰペテロ2:22-23]   ・「今自分はいるべき場所にいて、成すべきことを行っている」と確信できる者は幸いである。彼らは見える状況が困難であっても揺るがされることはない。イエスもまさにそのような心境だったに違いない。[ヨハネ12:27]   ・祭司長たちは「十字架から降りてきたら信じてやる」と言ったが、このような『上から目線(挑戦的態度)』で神を求めている限り、決して神と出会うことはできない。神が求められるのは「へりくだった、死に物狂いな態度」。 ✰今日のみことば: ヨハネの福音書 12章27節 ◎更に深い学びのために  ①イエスの十字架の周囲にいた人々を思い描いてみましょう。自分との共通点や相違点はどんなところですか?  ②神様と『取り引き』をしようとしたことがありますか? そのような態度は、どんな点が間違っているのでしょう?  ③「いるべき場所でやるべきことをしている」という実感はありますか? ないとすれば、何が足りないのでしょう? Outline of the sermon     “People who were around the cross.”   (11/09/2022) [Mark 15:16~32] ◆Soldiers & Simon of Cyrene.(Verses 17~21)   ・Soldiers mocked Jesus pretending like they were worshiping “the king”.  Read more…

(497) “私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。”

 『意思疎通』というものは、簡単なようで難しいものです。「全然そんなつもりはなかったのに…」というような誤解を経験したことはありませんか?日本人同士でも起こり得るのですから、外国に住んでいる私たちは尚更です。また通常は身振り手振りや相手の表情などが正確な理解の助けになりますが、最近ではSNSが頻繁に用いられるため、『ことば』だけが独り走りして要らぬ誤解が生まれることも度々です。  『ことば』というものには、「ことばそのもの」以外に「語り手の意図」が含まれており、その『意図』を正しく解釈する(汲み取る)ことなしに「ことばそのもの」だけを理解するだけでは、正確な『意思疎通』ができません。『ことば』はあくまで媒体であり、大切なのはそれを発信する側と受信する側の『相互理解』です。どんなに親しい間柄でも「正しい意思疎通」がなければ、つまらない誤解が生じる危険性があります。  それではどのようにして、そのような「不必要な誤解」を防ぐことができるでしょう?  第1に、「自分の解釈と『受信したことばそのもの』とをはっきりと分けて考えること」です。どこまでが「相手が実際に言った(書いた)こと、または自分が聞いた(読んだ)こと」だったのかを正確に確かめ、その内容を客観的に理解し直すのです。可能であれば誰か別の人に読んでもらい、意見を聞いてみるのも良いかもしれません。  もう1つは、「直接相手に『その言葉の意図』を尋ねてみること」です。すると思った以上に「自分が考えてもみなかった意図」に出くわすことがあります。『先入観』というものは怖いもので、相手がことばを発する前に、私たちの内側に「受信を歪めるフィルター」を付けてしまうのです。受信は極力「ニュートラルな心」で行うことが重要です。  『ことば』というものは、コミュニケーションのためにとても大切なツールですが、それによって人間関係を豊かにすることも破壊することもできる、いわば「両刃の剣」です。不用意にではなく、注意深く心を込めて、正しいルールで使うようにしましょう。

2022年9月4日 「永遠の目をもって今を生きる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「永遠の目をもって今を生きる」  (04/09/2022) [マルコ 15:1~15] ◆総督ピラトの葛藤(この箇所には『総督ピラト』の内面の葛藤を現す言葉がいくつか見られる)    ①「驚いた」(5節)―ユダヤ人の訴えに動じないイエスの様子を奇異に感じている    ②「祭司長たちが…知っていた」(10節)―ピラトは「イエスにはユダヤ人たちが訴えているような罪がないこと」を見抜いていた。[ルカ23:14-16]    ③「群衆を満足させようと思い…」(15節)―結局ピラトは「自分が正しいと信じること」に基づくのではなく、保身のために祭司長や群衆のいいなりになった。この自己矛盾を納得させるために「手を洗った」。[マタイ27:24] ◆私たちの選択   ・私たちもピラト同様「人目を恐れて自分が正しいと信じることを行えないでいること」はないか?聖書は「人への恐れの故に、神に信頼することを見失ってしまう私たち」に、こうエールを送っている。[箴言29:25]   ・神は私たちに『選択権』を与えている。「今の窮地を切り抜けるために、自分を欺くか」、それとも「神の御顔を真直ぐ見続ける道を選ぶか」。どちらを選んでも「キリストにある救い」を失うことはないが、『この世に対する勝利感』をキリストと共有しながら生きる喜びは失うかもしれない。パウロの晩年の言葉を覚えよう。[Ⅱテモテ4:6-8] ✰今日のみことば: ヨハネの黙示録 2章10節 ◎更に深い学びのために  ①今日の箇所を再読しながら、ピラトの心の動き(葛藤)を辿ってみましょう。何か新しい発見はありますか?  ②私たちはどのような時に「神よりも人を恐れて」しまうのでしょう? 経験談があれば分かち合ってみましょう。  ③『世に対する勝利感』をキリストと共有する喜びを保つためは、どんなことがカギになると思いますか? Outline of the sermon     “Live now with the sense of eternity.”   (04/09/2022) [Mark 15:1~15] ◆Pilate’s struggle.   ・Even though Pilate knew that Jesus was innocent(Luke23:14-16), he eventually delivered Jesus to be Read more…

(496) “わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。”

 「喜怒哀楽」というものは『感情』なので、自分ではコントロールできないと思われがちです。もちろんそういった類のものもありますが、大抵の場合は「私たちの意志」によってコントロールできます。例えば『喜び』はある意味「筋肉」のようなもので、上手に鍛えれば徐々に強められ、どんな状況の中でも内側に「静かな喜び」を保つことができるようになります。  今日は「喜びの鍛え方」を2つお教えしますね。  ①小さなことに『感謝』をする   ・「現代のストレス研究の父」と呼ばれている『ハンス・セイル』という方は次のように言っています。「『感謝を表現すること』は他のどんな営みよりも、心にポジティブな力を与える」。ですから、日常生活の中で意識して「感謝できる要素」を探すことを心掛け、口に出したりSNSなどを用いたりして、その『感謝』を相手に伝えましょう。伝える相手が特定できないことに関しては、神様に感謝しましょう。これをクセにすることで、あなたは「自然と笑みを浮かべる人」へと変えられて行きます。  ②『与える』ことを心掛ける   ・興味深いことに、聖書には「神は分け与える人を祝福する」という約束が多く書かれています。恐らくそれは神ご自身が『与える』という性質を持っておられるので、同じように『与える』人々を見て祝福せずにはいられないのではないでしょうか?ですから私たちは「分け与えてしまったら、自分の分が足りなくなってしまうかも…」などと心配しなくて良いのです。ある人はこんなことを言いました。「私の手が誰かに分け与えると、神の手が私に報いてくださる。そしていつでも『神の手』は『私の手』よりも大きい」。  『感謝』と『与えること』を習慣にすることによって、「喜びの筋肉」を鍛えて行きましょう!

2022年8月28日 「驚くべき恵み」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「驚くべき恵み」   (28/08/2022) [マルコ 14:66~72] ◆「赦されるはずもないこと」が赦される   ・「あのペテロがなぜこんなことに?」と思う人もいるだろう。日本人なら「群衆の中で自分1人だけクリスチャン」という状況を味わったことがあるはず。そういう人には、このペテロの行動は理解しやすいかもしれない。   ・「自分はペテロのようには罪を犯していない」と思えている人はある意味幸いだが、「神は私の本当の姿を知ったら、決して赦せないに違いない」と思っている人、その人は正に今日のペテロと同じ。たとえあなたがどんな   暗黒にいようとも、『キリストの光』が届かない暗黒はない! ◆砕かれるべきもの   ・「死んでも『イエスを知らない』などとは言わない」というペテロの自信(プライド)は見事に打ち砕かれた。神にとって「自分自身を拠り所としている人」は用いにくい。[Ⅰヨハネ1:8-9]   ・神は「ご自分の心にその心を摺り寄せて来る人」を好まれる。それは「神がどれほどに恵み深い方なのか」を知っている人であり、また「自分がどれほどにその恵みを受けるのにふさわしくない者か」を知っている人。そして   その2つのギャップを完全に埋めてくださった『キリストにある恵み』に日々心を震わせている人である。 ✰今日のみことば: マタイの福音書 9章13節 ◎更に深い学びのために  ①ペテロはなぜイエスを否んだのだと思いますか? またこの後のペテロの心情について話し合ってみましょう。  ②「自分はクリスチャン失格!」と思ったことがありますか?どうしてそう思ってしまったのか、吟味してみましょう。  ③「神が喜ばれるのは『真実の愛』であって『いけにえ』ではない」とは、どういう意味だと思いますか? Outline of the sermon     “Amazing Grace.”   (28/08/2022) [Mark 14:66~72] ◆God’s immeasurable forgiveness.   ・Someone may think that he is not as sinful as this Peter.  Other may feel, “my sin is Read more…

(495) “それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

 聖書は、神が私たち人間をそれぞれ『神の作品』としてお造りになった、と記しています。『作品』は「製品」と違って1つ1つがユニークに造られています。それは目的や役割が違うからです。つまり神様は私たち人間を1人1人「違った目的や役割を持つ存在」としてお造りになっている、ということです。ですから、私たちが他の人を羨んで「どうして私はあの人のようにできないのだろう?」とか、親が自分の子に向かって「どうしてあなたはお兄ちゃんやお姉ちゃんのようにできないの!」などと言ったり考えたりするのは、根本的に間違っているのです。  神は無駄なことをなさる方ではありません。全ての人は、神ご自身の「ユニークな目的・使命」を帯びて造られました。ですから世界には誰1人「要らない存在」などありません。では、一体どのようにして「神が自分に与えておられる使命」なるものを見出すことができるのでしょう?  私たちがこの世の価値観に立って「自分の才能・賜物」といったものを考えるとき、大抵頭の中にあるのは『自己実現のためのツール』としてです。しかし神が私たちをお造りになられたとき、敢えて「1人では生きられないように」お造りになりました。それは私たちが互いに助け合い、支え合いながら生きるようになるためです。すなわち「神の目的に従って生きる」とは、「自分はどのように他の人の役に立てるのか?」ということを考えながら生きるということなのです。他の人が自分とは違った意見を持っていて「意見の衝突」が起こる時、それは「お互いを離れ離れにさせるため」ではなく、かえって「互いの足りない所を補い合うため」なのです。自分の不得意分野を他の人が上手にできるのを見る時、それは「妬みの種を生むため」ではなく、「相手に援助を願い出るため」なのです。  ぜひ『人真似』をしようとするのではなく、『自分らしさ』を追求してみましょう。そして「自分の得意なことや、喜んでできること」が何なのかを突き止め、それらの助けを必要としている人々に手を差し伸べましょう。その時あなたは「神に造られた喜び」を体験するようになるのです。

2022年8月21日 「イエス・キリストは神の子か?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「イエス・キリストは神の子か?」   (21/08/2022) [マルコ 14:53~65] ◆なぜイエスは死刑に定められたのか? [60~64節]   ・ずっと黙っていた主イエスが、この大祭司の質問にだけは黙っていなかった。そしてこのイエスの返答が、彼の死罪を決定づけた(神への冒瀆罪)。[レビ記24:16]   ・本来祭司長たちがイエスを訴えたのは『妬み』のゆえであり、この『冒瀆罪』は隠れ蓑にすぎない。私たちにも同様な「自己防衛のため」に何かを隠れ蓑にして自分を正当化していることはないだろうか?[Ⅰヨハネ1:8-9] ◆イエスは『神の子』なのか?   ・誰かが「自分は神の子である」と証言した場合、次の3つの可能性が考えられる。    ①ウソをついている。(実際はそうではなく、本人もそれを知っている場合)    ②気が狂っている。(自分ではそう思い込んでいるが、実際は違う場合)    ③真実を言っている。   ・「イエスは立派な人物だったが、『神の子』ではない」という理屈は成り立たない。イエスが①か②であるなら、少しも「立派な人物」ではない。イエスはご自分でおっしゃった通り『神の子』であり、私たちの『救い主』なのだ! ✰今日のみことば: ヨハネの福音書 20章31節 ◎更に深い学びのために  ①祭司長たちがイエスを死に定めた真の理由を探りましょう。人の内にあるこのような傾向性をどう思いますか?  ②「自分は神の子だ」と言う人の3つの可能性は? イエスに関してこの3つの可能性を吟味してみましょう。  ③「自分には罪はない!」と言い張る人がキリストの救いにあずかるために、どのようなプロセスが必要ですか? Outline of the sermon      “Is Jesus really the Son of God?”    (21/08/2022) [Mark 14:53~65] ◆Blasphemy. [Verses 60~64]  ・Jesus kept being silent but he couldn’t remain silent Read more…

(494) “貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”

 「信仰と日常生活は相容れない」と考える人がいますが、聖書は日々の生活のための具体的な知恵を多く教えてくれています。今日はその中で「聖書がお金に関して語っている2つのこと」を述べたいと思います。  ①施す 聖書は基本的に「気前の良い態度」を勧めています。興味深いのは、聖書の中に『お金に対する態度』と『農夫が種を蒔く様子』を対比させていることが多々あることです。翌年の収穫のための『種』を残しておくことを惜しんで、全ての収穫物を売ったり食べたりして費やしてしまうなら、翌年の豊かな収穫は期待できません。収穫の1部を取っておくことは、翌年のための『投資』なのです。同じように「他の人に施すこと」は、あたかも種を蒔いたかのように、やがて有形無形の『神の祝福』を呼び込むことになるのです。  ②蓄える 「クレジット購入」が常識になってしまっている現代、『衝動買い』をしてしまうことが増えてしまっているのではないでしょうか?テレビのコマーシャルを観ると、どれもこれも「念のため」買っておかなければ後で困るかもしれないというような不安に襲われるかもしれません。でも実際はそれらのほとんどの物はそのまま物置に放置され、1度も使われることなく古びてしまうことが多いものです。不必要なものを買わずにいれば、おのずと少しずつ蓄えができるはずです。  神様はご自身が愛しておられる人々が乏しい思いをしていることを放ってはおかれません。でも「私腹を肥やしている人」には感心されないのではないでしょうか?親が自分の子供たちが分け合っているのを見て微笑むように、私たちが互いの不足を補い合いながら支え合うようになることを、神は望んでおられるはずです。そのためにも、「気前の良い態度」と「適度な節約」を心掛けたいものですね。

2022年8月14日 「聖書が成就するため」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「聖書が成就するため」   (14/08/2022) [マルコ 14:43~52](情景を思い浮かべながら読んでみよう!) ◆何が起こったのか?   ・『口づけ』は、当時のラビと弟子たちとの日常のあいさつとして習慣的だった。イエスと弟子たちは似たような服装をしていたので、ユダがこのようにしなければ、一緒に来た者たちは見分けがつかなかった。   ・ヨハネだけが「剣で切りかかったのはペテロ」と記録しているが、真相は不明。   ・『ある青年』が誰なのかも不明。「亜麻布をまとっていた」ことから、裕福な人物だったと想像される。 ◆聖書が成就するため [49節](50節も、27節の成就)   ・「どのようにして聖書の言葉が成就するのか?」には、次の3つの可能性が考えられる。(③が妥当)    ①イエスが意識的に成就した。 ②神がそう仕向けている。 ③神が全てを予見し、預言者を通して伝えた。   ・私たちは『預言の成就』を通して「神の力と誠実さ」、そして「キリストへの信仰の招き」を知る。[ヨハネ20:31]   ・聖書(神のことば)は、「預言(出来事中心。有無を言わさず「こうなる!」という宣言)」と「教え(人の選択・従順によって左右される)」に大別される。神のことばは必ず成就する。しかしそれが「私たちの人生に成就するかどうか」は神からの招きに「私たちがどう応答するか」という『神との個人的な関係』にかかっている。[ヨハネ15:11] ✰今日のみことば: イザヤ書 55章11節◎更に深い学びのために  ①今日の箇所をよく読んで、情景や出来事から分かること・考えられることを分かち合いましょう。  ②なぜ聖書の言葉は「成就する」のだと思いますか? 上記の①~③を考慮しながら話し合ってみましょう。  ③「聖書の言葉が必ず成就する」ならば、神の招きに対する『私たちの応答』は、それにどう関わるのでしょうか? Outline of the sermon      “Let the Scriptures be fulfilled!”    (14/08/2022) [Mark 14:43~52] (Read carefully to see what are happening here.) ◆What are happening?   ・Judas kissed Jesus to Read more…

(493) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。”

 私は昭和中期生まれですが、私が生まれてから半世紀余りのうちに世界は大きく様変わりしました。自動販売機、コンビニ、パソコン、百円ショップ、そして携帯電話にスマートフォン!50年前には思いつきもしなかった『便利品』が次々と生まれ、あっという間に普及し、以前は「不可能」と思えていたのに、今は「実現可能」になったということがたくさんあります。  多くのことを思いのままに操作できるようになったため、つい「自分の人生をも自分の好きなように操れる」という錯覚に陥りがちですが、実際はこれほどまでに文明が発達し科学が進歩しても、未だに人は1分先のことも見通すことができません。相変わらず多くの人々は日々不安を抱え、カウンセリングに通ったり、占いに頼ったりします。しかしそれらの中には「人生の不安を根本的に解決する術」を見出すことはできません。何故なら、それは人間の手中にあるのではなく、「全能の神の大きな御手の中」にあるからです。  聖書は、「現されていることは人間のものだが、隠されていることは神のものである」と教えています。人が追求しても見出せないのは、神が「それはわたしに属しているのだから、わたしに信頼しなさい」と招いておられるのです。いつ?なぜ?どのようにして?などの疑問について内側で悶々と思い巡らすのではなく、「いくら考えても分からないことは、神に委ねるべき領域なのだ!」と心得て、神に信頼して委ね、私たちは自分の手の届く範囲の事に全力を尽くすようにすれば良いのです。