(502) “平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、ただあなただけが、安らかに私を住まわせてくださいます。”

 アナタの1日の平均睡眠時間はどれくらいですか?私たち夫婦は毎晩できるだけ8時間は寝るようにしています。これは20年前に家族で暮らしていた離島での生活でできた習慣で、何しろ電気がありませんでしたから、日が沈むと暗くて自然と眠くなってしまうのです。もっとも朝は早朝からニワトリのけたたましい鳴き声で起こされましたが、ともかく『早寝早起き』のとても健康的な日々でした。その頃にできた生活リズムが今でも保たれています。  思うに日本人は一般的に『睡眠不足気味』ではないでしょうか?「本当はもっとゆっくり寝ていたいのに、その暇がない」という方が多いのでしょうが、時には「8時間も寝ていたら、怠け者だと思われてしまう」という負い目から睡眠時間を削っている方もいらっしゃるかもしれません。  『眠る』という行為は「生産的でない」と思われがちかもしれませんが、それは大きな誤りです。体内における新陳代謝やその他の「体力や健康回復のための営み」は我々が眠っている間に行われるのであって、睡眠を十分に取らないでいると、肉体的にも精神的にも不健康な状態に陥って行くのです。  ある方々は「ゆっくり眠りたいのだけど、様々な心配事が浮かんできて、ぐっすり眠れない」とおっしゃるかもしれません。良い考えがあります。それらの心配事を『全能の神様』にお任せするのです。「どうやったら良いか分からない」という方に、良い方法をお教えします。心配事が思い浮かぶたびに、それを紙に書いてフタ付きの箱に入れるのです。入れ終わったらフタを閉じて、部屋のできるだけ高い棚の上かどこかに置いて、「神様、私の心配事はあなたにお任せしましたから、もう私は心配しません。あとのことはよろしくお願いします!」と言って床に就くのです。きっと効果ありますよ!

2022年10月9日 「人こそ神の手段である」

メッセージを聴く (今回はYouTube画像はありません) 説教あらすじ     「人こそ神の手段である」    (09/10/2022) [マルコ 16:9~20] ◆福音(15~16節)   ・『福音(良い知らせ)』だからこそ、全ての人に知らせるべき。この『福音』は「特定の人たちにだけあてはまる」という性質のものではない!   ・『救い』には、この『福音』に対して「信じる」という「個人の自由意志による応答」が要求される。神は1人1人の人生をあくまで「その人自身の決断」に委ねておられる。「信じる」とは単に「そう思う」というだけではなく、「全面的に心から同意する」ということ。そういう人は、自然な成り行きとして『バプテスマ』へと導かれる。 ◆みことばに伴うしるし(17~20節)   ・これら5つの『しるし』にこだわる必要なない。むしろ注目すべきは[20節]。「主は彼らとともに働く」、また「(しるしをもって)ご自身の『みことば』を確かなものとされる」。これは主イエスのご性質(約束を守る誠実さ)と力を現している。   ・主は「ご自身が主であり、地上において力と権威とを行使される方であること」を、私たちを通して示したいと望んでおられる。また『みことば』は主ご自身の『心』そのものであり、その『主イエスの心』に自分の心を寄り添わせ、その心が地上で表されるために喜んで自分自身をささげる『人』を、神は今日も捜し求めておられる。 ✰今日のみことば: 歴代誌 第2.16章9節 前半 ◎更に深い学びのために  ①[16節]のみことばを深く味わいましょう。私たちの信仰にとって『バプテスマ』はどんな意義があるでしょう?  ②福音宣教における『しるし』の意義は? 今日私たちの周囲であまり『しるし』が見られないのは何故でしょう?  ③神は「どのような人」を求めておられますか? あなたがそのような人になるために足りないものは何ですか? Outline of the sermon    “We are God’s instruments!”  (09/10/2022) [Mark 16:9~20] ◆The Gospel.(Verses 15~16)   ・“Gospel” is “Good News”!  We should make this known to everyone.  No exceptions!   ・“Salvation” Read more…

(501) “人がひとりでいるのは良くない。”

 ある出版社が「幸福感について」の調査をしたところ、面白い結果が得られたそうです。「安定した幸福感を得ている人」の特徴は、お金がたくさんあることでも、肉体的な健康でも、学歴や地位が高いことでもなく、「豊かで深く有意義な人間関係を持っている人」であるということでした。  アルコールや薬物依存からの回復プログラムでは、カウンセラーが指導する部分は全体の10%程度だそうです。残りの90%のプロセスは、グループの中での励まし合いや助け合いによるそうです。彼らはそのグループの中で、互いに『人生』を共有し合っているのです。  蝶は蜂よりもはるかに広い世界を飛び回って蜜を吸います。しかし蜂の方が蝶よりもはるかにたくさんの蜜を集めます。何故でしょう?それは蜂たちは1つの花に長い間とどまって、そこで一緒に「生きるために必要な栄養素」を分かち合っているからです。  私たちは決して『ひとりぼっち』で「自己最高レベル」に到達することはできません。「人は人によって形造られる」からです。私たちと親しい関係にある人たちは、私たちが自分では気付くことのできない『私』を見ることができます。そして真の友ならば私たちが「最高以下」に甘んじている時、更なる成長を目指すよう励ましてくれます。  「ひとりじゃない」というのは、「多くの人の携帯電話番号やラインアドレスを持っている」ということとは異なります。言わば「人生を共有する友を持っている」ということです。それは配偶者かもしれないし、会社の同僚かもしれないし、学校の同級生や幼馴染みかもしれません。また聖書を見ると、『教会』という場所は、まさにそのような関係を築く相手を見つける絶好の場所であるようです。そのような人が1人でもいるなら、あなたは『幸福な人』に違いありません。

2022年10月2日 「天使からのメッセージ」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「天使からのメッセージ」    (02/10/2022) [マルコ 16:1~8] ◆天使との遭遇   ・この場面で、女たちの不可思議な行動が2つある。①イエスの体には埋葬時に既に香油が塗られていたにもかかわらず、埋葬されて3日目に再度香油を塗ろうとしている。②自分たちでは墓の入り口を塞いでいる大きな石を転がせる自信がないのにもかかわらず、無計画に墓に向かって行った。   ・①②どちらも不可解ではあるが、女たちの「もうひと目イエスに会いたい」という強い思い入れを感じさせる。 ◆天使のことば(6~7節)   ・「あの方はよみがえられました」は、原文では『受身形』。だから直訳すれば「あの方はよみがえらされました」。すなわち、正確にはイエスは「自分の力でよみがえった」のではなく、「神の御力によってよみがえらされた」のである[使徒2:24]。神は決してイエスを「見捨てて」はおられなかった!   ・また御使いは「弟子たちとペテロに」と告げている。主は3度もご自身を否んだペテロを憐れんでおられた。   ・主イエスの『十字架』は、私たちがもはや「過ぎ去ったことに捕らわれる必要がないこと」の保証であり、『復活』は、たとえ今どんな試練に直面していようと「その向こうには必ず輝かしい勝利がある!」という確かな希望。 ✰今日のみことば: ピリピ人への手紙 3章12節 ◎更に深い学びのために  ①あなたなら、この女性たちの不可解な行動をどのように理解しますか?  ②イエスが「自分でよみがえられた」のと、「御父によってよみがえらされた」のでは、何がどう違うのでしょう?  ③イエスの『十字架』と『復活』とは、私たちの信仰生活において、それぞれどんな意義がありますか? Outline of the sermon    “Message from an angel.”  (02/10/2022) [Mark 16:1~8] ◆An encounter with an angel.   ・It was dawn and dim at the grave where these woman saw an angel.  What Read more…

(500) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”

 『弱肉強食』という言葉があります。「弱い者が強い者のえじきとなること」を意味します。元々は「自然界の動物たちの様子を描写した言葉」でしたが、それが転じて「人間世界の情け容赦ない力関係」を表現する四字熟語になったようです。  『弱さ』という言葉を聞くと、否定的なイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?誰もが「自分は強くなりたい!」と思っているのかもしれません。「強くなければ、人生の勝者にはなれないから」というような理由からでしょうか?でも本当にそうでしょうか?そもそも『人生の勝者(勝ち組?)』とは何でしょう?お金持ちになること?有名になること?長生きすること?実際はそれら全てを手に入れても『不幸せ』な人は山ほどいます。  非常に面白いことに、動物の世界は『弱肉強食』ではあるかもしれませんが、『弱い者いじめ』の世界ではありません。ライオンが群れになってたった1匹のシカに襲いかかるなどという光景はどこにもありません。しかもライオンその他の『強い動物』は、お腹が空いていないときは、たとえ目の前を美味しそうな獲物が通ったとしてもピクリとも動きません。自然界の『弱肉強食』と人間世界におけるそれとは、全然違っているのです。  多くの人は同意してくれると思いますが、「人間とはそもそも弱い存在」です。その弱さをごまかしたり隠したりするために、『強さ』を身に付けようとします。それはそれで悪いことではないかもしれませんが、「強くなろう」とすると同時に、「裸の自分は弱い存在である」と知っておくことは大切なのではないでしょうか?そういう自覚があって初めて、私たちの内側に「他の人に寄り添おう」とする優しさが生まれ、「互いの持っているものを分け合おう」という愛の行動が現れてくるのだと思います。  ある未開の地へボランティア活動のために訪れた若者たちのグループが、貧しい子供たちを励まそうとイベントを企画し、よくありがちな『運動会』を開催しました。手始めに『徒競走』をしようと7~8人の子供たちを横一線に並べて、よぉくルールを説明し、「よぉい、ドン!」とスタートさせたところ、子供たちは『競走』を始めるどころか、互いに左右を見合わせて仲良く手をつないで皆一斉に走り出し、皆で嬉しそうに一緒にゴールインしたそうです。見ていたボランティア青年たちは、呆れると同時に、感動で涙を浮かべたそうです。  私たちの心を打つのは、「強い者が天かを取る様子」ではなく、「弱い者たちが手を取り合って生きる様子」です。何故ならそこに「神が私たちを『弱く』造られた、本来の目的」があるからなのです。

2022年9月25日 「正しい信仰の基盤」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「正しい信仰の基盤」    (25/09/2022) [マルコ 15:40~47] *イエスが捕らえられた時、男の弟子たちは逃げ去ったが、女や年寄りたちは踏みとどまった。何が違ったのか? ◆女の弟子たち(40~41節)   ・彼らには、若い男の弟子たちのような『野望』(誰が1番偉いか…)や『イエスの業績』に対する関心はなかった。彼らの興味は「イエスご自身」。それ故、イエスが捕らえられ罪に定められようと、イエスから離れなかった。 ◆アリマタヤのヨセフ(43~46節)   ・「有力な議員」ということから、かなりの年長者だっただろう。彼は「神の国の現れ」を待ち望んでいた。それ故、イエスによって現わされた「神の国の優れた教え」や「神の国の力ある現れ」に興奮していたに違いない。   ・『議員』という立場上その信仰を公にできずにいたが、イエスの死を前に「大きな悔い改め」に導かれたに違いない。彼は勇気を奮い起こして「イエスの弟子としての行動」に出た。自分の持てる物をささげて、イエスに対し   できるだけのことをした。実は女たちも同様に自分たちの財産を捧げていた。[ルカ8:2-3]   ・「イエスを信じる故に得られる何か」を求める者の信仰はもろい。むしろ『イエスご自身』に魅了され、この地に「イエスご自身が現されること」を切望し、そのために持てる物を惜しみなく捧げる者の信仰は、揺るがされない。 ✰今日のみことば: ピリピ人への手紙 3章7~8a節 ◎更に深い学びのために  ①イエスの十字架を前に逃げてしまった男の弟子たちと、踏みとどまった人たちとでは、どこが違いましたか?  ②状況にかかわらずイエスの許にとどまる「揺るがない信仰」を養うためには、どんな要素が必要でしょう?  ③②のような要素を身に付ける助けとして、どんなことを日ごろ心掛けておくことができるか分かち合いましょう。 Outline of the sermon    “Foundation of right faith.”  (25/09/2022) [Mark 15:40~47] ◆Women followers.(Verses 40~41)   ・Their main interest was not “what Jesus does” but “who Jesus was”.  This is the key Read more…

(499) “どうか、私たちの父なる神が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。”

 今日は、私たちが語る『ことば』というものについて考えてみたいと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」というものがありますが、私たちの語る『ことば』はある意味「両刃の剣」であって、人を生かしも殺しもする力があります。そしてその私たちの語る『ことば』を最もたくさん聞いているのは、実のところ『私たち自身』なのは言うまでもありませんね。  私たちは時に「これは悪い言葉だから口に出さない方が良い」と考えて心の中にじっとしまっておくこともできますが、残念ながら『私たち自身』は既にその『ことば』を聞いてしまっています。そして更に悪いことにそれらの『ことば』は、「主語を省いた状態」で私たちの深層心理に積もって行くのです。すなわち、それらの「否定的なメッセージ」が誰に対して向けられていたとしても、私たちの心の奥深くには『否定的なことば』として残り、私たちの心を蝕んでいくのです。  私たちは極力自分自身に「積極的・肯定的なことば」を聞かせて行かなければなりません。そのためには『私たち自身』がそのような『ことば』を発することができる者へと変えられて行かなければならないのです。しかし非常に残念なことに、この世界にはあまりにも多くの「否定的・破壊的なことば」が横行していて、「積極的・肯定的なことば」だけを取り入れて行くことは至難の業です。では、一体どうしたら良いのでしょう?  私たちができること、それは「私たち自身の語ることば」を極力「肯定的・積極的なもの」に置き換えて行く、ということです。そのためには、「肯定的・積極的なメッセージ」に常に目を向け、それらをくり返しくり返し自分自身のうちに取り入れて行かなければなりません。そしてその「肯定的なメッセージ」というのが、聖書に書かれている「神からのメッセージ」なのです。「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 そのような「神からの愛に満ちた力強い語りかけ」を日々自分の心に取り入れ、鏡に向かって「あなたは価値がある。あなたは神に愛されている。」と語りかけて行く時、徐々に私たちが日常的に語ることばさえもが肯定的なものへと変えられていくのです。

2022年9月18日 「キリストによって成就されたこと」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「キリストによって成就されたこと」    (18/09/2022) [マルコ 15:33~39] ◆「わが神、わが神・・・」(34節)   ・このイエスの「わが神、わが神・・・」という言葉には、以下の2通りの意味があると思われる。    ①詩篇22篇の引用 ― この詩篇は「わが神、わが神・・・」で始まるが、結論は「神への賛美と勝利」。その中には十字架にまつわる預言の言葉も散りばめられている。周囲にいた聖書の専門家たちには分かったはず。    ②人々の罪を身代わりに負ったことによる『神との断絶』 ― それまでひと時も離れたことのなかった御父は、その聖さの故に、罪を負われた御子から離れた。[Ⅱコリント5:21] ◆神殿の幕が裂けた(38節)   ・これは神殿の「聖所と至聖所を隔てる」幕。幕の向こう側へは、年に1度だけ、子羊の血を携えた大祭司しか入ることができなかった。これは「神と人との隔ては取り除けられた」という神からのメッセージ。[へブル10:19-20]   ・『キリストの十字架』は、「キリストが志半ばで失敗したこと」を示すのではなく、むしろ「キリストを通しての神の偉大なご計画の成就」を示す。今やこのキリストの身代わりの死を「自分のため」と個人的に信じ受け入れる者なら誰でも、神は「幕の内側(神との関係)」へと招き入れてくださるのだ![ヨハネ14:6] ✰今日のみことば: ヨハネの福音書 14章6節 ◎更に深い学びのために  ①イエスの十字架上での「わが神、わが神・・・」という叫びは、どのような意味があると思われますか?  ②「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という出来事は、誰のどんな意図による事だと思われますか?  ③キリストの十字架によって成し遂げられたことを確認しつつ、自分への神の思いの大きさを思い巡らしましょう。 Outline of the sermon    “What Christ fulfilled by the cross.”  (18/09/2022) [Mark 15:33~39] ◆“My God, my God…”(Verse 34)   ・This cry of Jesus may have 2 Read more…

(498) “志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

 「全ての人は『心の平安』を求めている」と言ってもよいでしょう。特に2年以上も続いているこの『コロナ禍』の中で疲れ果てている方々は「一体いつになったらこのコロナは終息してホッと安心できるのか?」と考えておられることと思います。  多くの人々は「平和な状況」の中に『心の平安』を見出そうとします。しかし実を言うと『心の平安』は「状況」の中ではなく、「確かなものに対する信頼」を通して得られるものです。逆の言い方をすれば、「不確かなものに信頼している限り、『心の平安』を得ることはできない」ということです。  私たちは「自分たちの生活をより豊かにしよう」として熱心に働き、様々な発明をし、その結果私たちの生活は驚くほど便利になり、物質的には「豊かに」なりました。ほとんどの人が『パソコン』『スマホ』を所有しており、ほんの30年前には考えられないような時代です。しかしその結果何が起こっているのでしょう?確かにこれらのものは私たちの生活のある面を豊かにしたかもしれません。しかし「知る必要もない情報の洪水」の中で、私たちは不確かな情報によって『不安』をあおられ、最も大切にするべき『心の平安』を奪われています。  小学生の頃、国語の授業で『杞憂』という故事成語を学びました。杞の国に住む男が「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と心配したことから生まれた言葉だと学んだ時、子どもながらに一笑に付したものです。しかし現代はこの『杞憂』が世界各地で起こっていると言えるのではないでしょうか?  「周囲の状況」や「物質的豊かさ」は時と共に変化します。しかしこの世界にたった1つだけ「変化しないもの」があります。それはこの全宇宙を生み出された『創造主なる神』です。そしてこの『神』を求め、深く知って行けば行くほど、この方の憐れみと愛の大きさに魅了され、深い信頼が生まれてきます。この「創造主なる神への深い信頼」の中で生きる時、私たちは『揺り動かされることのない平安』をもって日々を歩むことができるようになるのです。