(512) “ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”

 これは実際にあった物語です。  ある日の午後、1人の少女が骨董品屋の前に立ってウインドウから覗き込んでいました。そして意を決したようにドアを開けて中へ入って行くと、きれいな青いビーズを結んだネックレスをつかんで、カウンターにいる店主のところへ持って行って言いました。「これなら絶対に気に入ってもらえること間違いなし!おじさん、これをきれいに包んでね。お姉ちゃんへのクリスマスプレゼントなの。お姉ちゃんは去年ママが死んじゃってからずぅっとアタシの面倒を看てくれていて、とっても感謝しているの。だから今年のクリスマスには絶対にステキなプレゼントをするって決めていて、ずっと探してたの。でもこれに決めた!」  「お嬢ちゃんはいくら持ってるのかな?」店主は女の子に尋ねました。彼女はポケットから何枚かのコインを取り出してカウンターに置くと言いました。「アタシが持ってるお金、ぜぇんぶ持って来ちゃった。」 店主は女の子には見えないようにネックレスの値段を確かめると、女の子を見つめて「お嬢ちゃん、お名前は?」と尋ねながら、奥の部屋へと向かいました。女の子は大きな声で、「ジーン・グレイスよ!」と答えました。店主はきれいな包装紙に包まれたネックレスを女の子に手渡しました。女の子は礼儀正しくお礼を言うと、とても嬉しそうに帰って行きました。  クリスマス・イブの晩、最後の客を見送った店主が店じまいの支度をしていると、1人の若い女性が息を切らしながらやって来て、見覚えのある包装紙に包まれた品物を彼に手渡して言いました。「この品物を売った相手を覚えていらっしゃるでしょうか?」 「ええ、覚えてますとも。ジーン・グレイスという可愛い女の子でしたよ。なんでも大切なお姉さんへのプレゼントだとか…」女性は恐る恐る「これって、本当はおいくらする品なのですか?」 店主は「いやぁ、こういった品物の値段は、売り手と買い手との間の秘密なんですよ。」と答えました。女性はもう1度尋ねました。「でも、私の幼い妹が一体どうやってこんな高価な品を購入できたと言うんです?」 店主は開きかけた包装紙をもう1度丁寧に包み直してその女性に手渡しながらこう言いました。「あなたの妹さんは、他の誰も支払えないほどのとても高価な代金を払って買ってくださったんですよ。彼女の持っていたすべてを支払ってくださったんですから。」  神は最高の代価である「ひとり子のいのち」を支払って、私たちを買い取ってくださいました。それがクリスマスの物語なのです。言葉に表せないほどのこの高価な贈り物のゆえに、神に心からの感謝をささげましょう。

2022年12月18日 「キリストにある者」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ     「キリストにある者」     (18/12/2022) ◆「キリストにある」とは?   ・聖書は「キリストにある」の意味を説明してはいないが、『キリストにある者』の祝福ついて多く語っているので、その代表的なものを見ながら「キリストにある」ということの意味を探って行こう。  ①罪の赦し[ローマ8:1] ― 神の目から見て私たちは、「キリストにあって『罪なき者』」とされた。[Ⅱコリント5:21]  ②新しく造られた者[Ⅱコリント5:17] ― 神はキリストの故に私たちを御手の中でキリストのごとく造り変える。  ③神の子ども[ガラテヤ3:26] ― 私たちはキリストにあって『神の子』であり、神の目に特別な存在。[ピリピ4:19]  ④互いに1つとされる[ガラテヤ3:28] ― キリストにあって「同じ神の国のいのち」に生かされている。[ローマ12:5]   ・これらから『キリストにある』とは、「神は私たちを『キリストを通して』見つめておられる」ということだと分かる。私たちは「キリスト無しでは『死んだ者』であり、キリストにあってのみ『生きた者』」。[ローマ6:11,コロサイ3:3-4] ◆日々『キリストにある者』とされる   ・私たちは既に「キリストにある者」とされているが、それを日々自覚する必要がある。[コロサイ2:6-7] 「キリストにある者」の生き方は、主イエスが『ぶどうの木のたとえ』を用いて教えてくださった。[ヨハネ15:4-5] キリストこそ「神の国の民」としての私たちの『いのち』。キリストにつながって歩むなら、必ず『キリストの実』が結ばれていく。 ✰今日のみことば: コロサイ人への手紙 2章6節 ◎更に深い学びのために  ①『キリストにある』とはどういうことですか? また『キリストにある者』にはどんな祝福が与えられているでしょう?  ②『キリストにある者』でありながら、①のような祝福を味わっていないとしたら、どんな原因が考えられますか?  ③あなたにとって2022年は「キリストにあって」どんな年でしたか? また2023年をどんな年にしたいですか? Outline of the sermon    “Being ‘in Christ’.”  (18/12/2022) ◆What is “being ‘in Christ’” like?   ・Bible talks about “blessings to be Read more…

(511) “あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。”

 皆さんは朝目覚めた時、きっと「今日はどんな服やアクセサリーを身に付けようかなぁ」と思うことでしょう。ぜひその時に「外面的に身に付けるもの」だけでなく、『内面的な身支度』にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?「今日は人々に対してどのような態度を示そうか?」「ポジティブな態度でいようか、それともネガティブな姿勢で?」「協調性を心掛けようか、それとも批判的に?」「自己中心的に行こうか、それとも他の人のために役に立つ者でいようか…」などなど、いろいろ考えられますよね。  「でも、人に親切にしてばかりでは、いいように利用されてしまうのでは?」と思うかもしれません。実際そういうこともあります。しかしたとえ多少損をすることがあったとしても、他の人に親切な態度で接することは優れたことです。それには次の2つの理由があります。  ①神が私たちに対して恵み深く親切に接してくださっているから   ・ある有名な詩人は「人が親切な心で生きている時、最も『神の素晴らしさ』を反映している」と言いました。言い換えるなら「互いに親切な態度で生きるために」神は私たちをお造りになられたのです。  ②自分の心の奥底で「他の人から親切にされたい」という願いがあるから   ・イエスの最も優れた教えの1つは「他の人にしてもらいたいと思うことを、あなたもしてあげなさい」です。『黄金律』とも呼ばれています。私たちが他の人を冷たくあしらう時、その人もあなたに対して冷たい態度を取るでしょう。しかし逆に親切な態度で接するなら、親切な反応が返ってきます。日本のことわざに「情けは人の為ならず」と言われている通りです。  実際私たちが他の人に親切な態度で接することを習慣にするならば、それは単に人間関係を円滑にするだけでなく、私たち自身の心をも豊かなものへと成長させていくのです。「人をも富ませ、自分をも豊かにさせる」、これが神様が私たち1人1人に望んでおられることなのです。

(510) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。”

 どんな人でも『傾向性』というものを持っています。「物事を良い方向に取るか、悪い方向に取るか」「冒険を好むか、現状維持を好むか」「高いセルフイメージを持っているか、自分を低く見積もることが多いか」などなど。どちらが優れているかということに関係なく、これらの『傾向性』というものは長い年月をかけて培われたものなので、変えたいと思っても簡単に変えられるものではありません。しかし同時に「これは自分の性格なのだから、変えようがない!」とあきらめてしまう必要もありません。神はイエス・キリストを通してご自分に近づく者を、『新しく造られた者』としてご自分にふさわしい姿へと造り変えてくださるのです。  聖書は私たちが神を信じて生きて行く様子を「信仰による『歩み』」と表現しています。言うまでもなく『歩み』というのは、移動手段の中でも最も「ゆっくりな」方法ですよね。神様は私たちを飛行機に載せて運ぶようなことをしないで、「一緒に歩もう!」と言ってくださるのです。では、神と共に歩む「新しく造られた者としての歩み」とは、どのようなものなのでしょう?  私たちの『性格・傾向性』というものは、「自分に対して強い影響力を持っていた人々」、また「いつも触れていた情報」によって育まれてきました。それらの多くはきっと「自分で選択する余地がなかったもの」だったのではないでしょうか?ですからこれからは自分の『思い』を切り替えることによって、「神からの語りかけである『聖書の言葉』」、そして「同じ神を信じて『歩んでいる』人々」と触れる時間を多く持つようにするのです。衣服の頑固な汚れを落とす時に「漂白剤に浸して」おくように、私たちの『思い』を「神のことばである『聖書』に浸しておくと、おのずと神が私たちに望んでいることが身に付いて行き、肩の力を抜いて『新しい目標』を目指して歩んで行けるようになるのです。

(509) “わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。”

 『作品』と呼ばれる様々な創造物がありますよね。美術品、建造物、音楽、料理、そしてお父さんが日曜大工で作ったもの、お母さんが編んでくれたマフラー、子供たちの工作などなど。一級品もあれば、ほどほどのものもありますが、それら全ての『作品』のゆえに讃えられるべきは、それを造った「美術家」であり「作曲家」すなわち、『造り主』です。  私たち人間にも『造り主』がいます。それは、天地万物を造られた「創造主なる神」です。ですから、私たちに何か「讃えられるべきこと」があるとしたら、それらの栄光は「創造者なる神」へと帰せられるべきです。そして実際私たち人間には「讃えられるべきこと」が数多くあります。  まず体の構造。脳のしくみや、目や鼻や口の機能、頭と手足の絶妙なバランス。その複雑さや神秘を知れば知るほど、私たちはその『造り主』である神を讃えずにはいられません。またその豊かな感受性や精神構造。他のどんな動物とも比較になりません。そして先に述べた様々な芸術や科学その他を生み出す能力や才能もすべて、この「創造主なる神」が潜在的に与えたものです。神はまさにその栄光を大いに讃えられるべきお方です。  しかし聖書には更に驚くべき記述があります。それは、「神の優れた御力は、私たち人間の『弱さ』にこそ完全に現される」というものです。神の栄光は、私たちが豊かな才能を発揮することを通して以上に、私たちが自分の『弱さ』を自覚し、へりくだって神の前に進み出て憐れみを乞い、神が私たちへの深い愛の故にご自身の大いなる御手をもって私たちを危機から救い出してくださったり、一見もう無理と思えるような試練をも乗り越えさせてくださる時に「完全に現されるのだ」と言うのです。「父親の日曜大工の作品」や「母親による手編みのマフラー」は、それほど讃えられるような見栄えはないかもしれませんが、そこに込められた熱意や愛情は認められるに値します。同じように、『神の栄光』とは、何も「神がご自分を誇示するため」に現わされるのではなく、「私たちの人生を通して現される神ご自身のご性質」のうちにこそ見出せるものなのです。

(508) “わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。”

 『学ぶ』という言葉は『真似ぶ』から来ているそうです。きっと昔(学校制度ができる以前)は、「親」や「親方」など身近にいる「その道の先輩」が『実物教師』として模範を示し、それを見て、真似をし、新しいことを学んで行ったのでしょう。  イエス・キリストは私たちに「本来人間はどれほど高貴な存在であるのか」を示すために、自らがその模範として生きられた、と聖書は教えています。彼はその教えの中でしばしば「わたしが○○したように、あなたがたもXXしなさい」とお語りになりました。その中には「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」「わたしが受け入れたように、互いに受け入れなさい」などがあります。  ところが人間は持って生まれた『弱さ(限界)』のゆえに、自分の必要が満たされていない状態でそんな風に他の人を思いやるなんてとてもじゃないですよね?ですから上記のようなイエスの教えを聞くと、多くの人は「そんなの無理!それは理想かもしれないけど、全然実際的じゃない!」と感じると思います。しかしイエスは私たちのそのような弱さをもちろん承知の上で、上記の教えをされたのです。それは私たちに『無理強い』をするためではなく、むしろ私たちがそれらを実践できるような道があることをも知らせるためです。  イエスが、聖書が述べているように情け深く、憐れみに富んだ存在として歩まれたのは、彼自身がいつも「天地の創造者であられる父なる神」との深い関係に結ばれていたからでした。父なる神はいつも深くイエスを愛し、助け、力を与え、変わらない喜びと平安と力を注いでおられたので、イエスは常にその力に満たされて人々の間であのような驚くべき力を発揮されたのでした。すなわち、「イエスの模範に従う」ためには、単なる猿真似ではなく、イエスと同様に、まず「日々神との豊かな関係の中に生かされること」が必要なのです。私たちは「枯れ井戸」のような私たちの心から無理矢理に愛情を「ほじくり出す」のではなく、むしろ『管』のように、まず「愛に満ちた創造主」としっかりつながって、その大きな愛や憐れみ、平安などを注いでいただいて、その「受け取ったもの」を、必要に応じて周囲の人々に分け与えて行けば良いのです。「イエス・キリストのように歩む」とは、「イエス・キリストが持っておられたのと同じ『神との豊かな関係』」を、まず自分自身がしっかりと築いて、そこから流れてくる「すべての良きもの」をあふれさせて行く人生なのです。

2022年11月20日 「真理 vs クリスチャンの思い込み ― W.W.J.D.」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「真理vsクリスチャンの思い込み ー W.W.J.D」 (20/11/2022) ◆よぉく考えた方がいい?   ・W.W.J.D.は“What Would Jesus Do?”の略。「日々の生活の中で『こんな時イエスならどうするだろう?』を考えながら行動しよう」というもの。しかし人間が考えて分かるようなものならば、それはもはや『神の思い』ではない!![イザヤ55:8-9,Ⅰコリント2:11-14] では「御霊に導かれる」とは?◆御霊に導かれた「W.W.J.D.」  ・悪魔が最も恐れているのは「御霊に導かれたクリスチャン」。悪魔は人よりも優れているが「聖霊の働き」にはかなわない。[Ⅰヨハネ4:4b] だから全力をかけて私たちの意識を『この世』にとどめておこうとする。   ・私たちが主イエスを受け入れた時から、イエスの御霊が私たちの内に住んでおられる。[Ⅰコリント2:11-14]ところが私たちが自分のことで夢中になったり、一生懸命考えたりしている時は、この方の存在を忘れてしまっている。これが悪魔の狙い。私たちは「この世のペース」から抜け出して、じっと「主に思いを馳せる余裕」をもつ必要がある。[詩篇37:7a] 自分の力ではできないが、主は恵みによって私たちを造り変えてくださる。   ・まず自分の内に『神の御霊』がおられることを認め、喜ぼう。そして「考えること」によってではなく、私たちの『リアクション』を通して神のわざが現れるほどの主イエスとの一体感を求めて祈り歩もう! ✰今日のみことば: 箴言 3章5~6節◎更に深い学びのために  ①『W.W.J.D.』とはどういう意味ですか? このことばにはどんな問題点があると考えられますか?  ②悪魔が恐れているのは、どんなクリスチャンですか? また、それは何故でしょう?  ③「御霊に導かれたクリスチャン」として生きるために、あなたはまずどんなことから始められますか? Outline of the sermon    “Truth vs fixed idea ― W.W.J.D.”  (20/11/2022) ◆We should “think well”, should we?   ・W.W.J.D. stand for “What Would Jesus Do?”.  But how could we Read more…