2023年6月25日 「『永遠のいのち』に生かされる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「『永遠のいのち』に生かされる」    (25/06/2023) [へブル人への手紙 6章9~12節] ◆『永遠のいのち』とは?   ・「神からの報い」は必ずしもこの地上で受け取れるとは限らない。『永遠のいのち』とは、別の言葉で言うなら「神との親密な関係」。この「永遠の関係」に希望と生きがいを置いているなら、失望させられることはない。   ・12節にある「信仰」と「忍耐」とは、ほぼ同義語。『信仰』とは「神に信頼して待つこと」。「神は良い方で最善をなさるのだから、必ず最善の時に1番良い物をくださる」と信じて「最後まで待つ」のが真の信仰。[へブル10:36] ◆「神との『愛の関係』に生きる」とは?   ・「神との愛の関係に生きる」とは、つまり「日々聖霊によって注がれる愛をもって人々に『愛の行為』を示していくこと」。(マタイ25章の「羊飼いが羊とヤギをより分けるたとえ」) 使徒ヨハネは、こう記している。[Ⅰヨハネ4:12]   ・恋愛中は『最高の喜び』を与えることができるのも『最大の痛み』を与えることができるのも、その恋愛の相手に他ならない。同様に「神との愛の関係に生きる者」にとって、『最高の喜び』を与えることができるのも『最大の痛み』を与えることができるのも、神ご自身であり、また神に対しては私たちである。ある意味「神の痛みを自分の痛みとして感じることができる」、これが「永遠のいのちに生かされる」ということなのである。 ✰今週のチャレンジ: 「自分を喜ばせること」を求めて生きてはいませんか? ◎更に深い学びのために  ①『信仰』と『忍耐』は、どんな共通点がありますか? 何故私たちは「神様に待たされている」と感じるのでしょう?  ②「神との愛の関係に生きる」とは、日々の生活と照らし合わせると、具体的にどのように生きることですか?  ③「神との愛の関係に生きる者」の特徴として、どんな点が挙げられるでしょう? 考えを分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon    “Live by God’s given ‘Eternal Life’.”    (25/06/2023) [Hebrews 6:9~12] ◆What is “Eternal Life”?   ・We don’t necessarily receive “returns from God” on the earth.  We live in “Eternal Life” Read more…

(532) “怒りを遅くする者には豊かな英知がある。”

 「ならぬ堪忍するが堪忍」と言いますが、単に「我慢する」というのはストレスに感じられるものです。しかし実際に『忍耐』というものはそこまで踏ん張らなければならないものではなく、むしろ「物の見方を変える」ことによって育むことができ、しかもその代償によって得られるものは、想像以上に豊かなものです。  私たちが「我慢を強いられている」と感じる時は、私たちの視野がとても狭く(自己中心的に)なってしまっていることがほとんどです。すなわち「自分の必要」「自分の目標」「自分の予定」「自分の願い」などなど、これらのものが脅かされる時、私たちは「どうして自分ばっかりこんなに我慢しなきゃならないんだ!」と、ある意味『錯覚』してしまうのです。  試しに「他の人の立場に立って物事を見直して」みたらどうでしょう?例えば「豊かな結婚生活」を望んでいるなら、配偶者の目線で物事を見てみるのです。また「良い親になりたい」と思うなら子供たちの立場に立って、ビジネスで成功したいなら顧客の立場で、良い上司になりたいなら部下の立場に自分自身を置いて考えてみるのです。きっと多くの新たな発見があるはずです。  現代のように『インスタント時代』に生きている私たちは、少しでも待たされるとすぐにイライラし始めます。このような状況では、私たちの人生を真に豊かにする『忍耐』は自然発生的には養われません。しかし私たちの神様は「忍耐の神」です。このお方に「忍耐を与えてください!」と祈りつつ、新しい物の見方にチャレンジしてみましょう。きっと新たな人生の醍醐味を体験し始めることができるに違いありません!

2023年6月18日 「神から離れてしまう人とは?」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「神から離れてしまう人とは?」    (18/06/2023) [へブル人への手紙 6章4~8節] ◆何が語られているのか?(4~6節)   ・気を付けなければならないのは、以前も学んだように、この手紙は「ユダヤ人クリスチャン」に宛てて書かれているということ。彼らにとって『霊的な堕落』とは、「罪深い生活」ではなく、「救いがキリストにある恵みであることを忘れて、律法主義に戻ってしまう」ということ。これは正に「神の子をもう1度十字架にかける」こと。 ◆自分から出たことではなく… [エペソ2:8-9]   ・私たちにも同様の危険性(自分自身に頼り始めてしまう傾向性)が常に襲いかかってくる。信仰生活の中で私たちが陥りやすいワナは、「神から注がれる祝福が、『自分の側の資質』と関係がある」と、つい考えてしまうこと。   ・いつも言うことだが、「キリスト教」は『宗教』ではなく、『関係』。キリストを通して結ばれた『神との関係』である。私たちが地上で味わうことのできる至高の祝福は『キリストとの一体感』。「神の祝福」だけでなく、『苦難』をもキリストと共有できるという驚くべき特権なのである。   ・悪魔の働きは「試練をもたらすこと」ではなく、むしろ「この世の祝福をもたらすことによって、私たちに『神様無しでもやって行けるかも…』と錯覚させること」である。パウロの警告に耳を傾けながら歩もう![Ⅰコリント10:12] ✰今週のチャレンジ: 神様がいなくても何とかなる日常を生きてはいませんか? ◎更に深い学びのために  ①キリスト者として「堕落してしまう」とは、どういうことでしょう?  ②あなたを『堕落』させるために悪魔がよく用いる作戦に気付いていますか? それはどのようなものですか?  ③「キリストにあって神と共に歩む私たち」にとって、どんなことが『人生の最大の喜び』であるべきですか? Outline of the sermon    “Who drop out of God’s blessings?”    (18/06/2023) [Hebrews 6:4~8] ◆What’s been said here?(Verses 4~6)   ・As we have learned, this letter was primarily written to Jewish Christians.  For them, Read more…

(531) “私が弱い時にこそ、私は強いからです。”

 「キリスト教は『弱者の宗教』」などとよく言われます。(『宗教』と呼ばれることには多少の抵抗がありますが…) ある面この言葉は的を得ているとも言えます。ただそれは「クリスチャンたちは皆何となくメソメソしていて、お互いの傷をなめ合っているようだ」ということではなく、クリスチャンたちは「神は弱い者を顧みられる」ということを信じており、また「己れの弱さを知っているからこそ、神とともに『雄々しく』生きることができる」ということを表しています。  この世界は『弱肉強食』だと言われ、何となく「強くなければ生きて行けない」というような空気があります。しかしよく考えてみれば、人間には多くの『限界』があり、世の中には私たちの知識や能力ではどうしようもないことが山ほどあります。一方聖書の神は『全宇宙の創造者』であり、被造物すべてを治めておられる方なのですから、当然私たちが頼るべきお方です。この神に頼ろうとしないということは、よっぽど物分かりが悪いか、または無鉄砲であるかのどちらかではないでしょうか?  私たちがこの世界で生きるために持つべき態度は、次のようなものであるべきです。「私は弱い者である。だからといって物事を簡単にあきらめたりはしない。どんなことに対しても誠意をもって全力で取り組む。しかし、私の成功を誰よりも願っておられるのは『創造主なる神』である。私の知恵や力の及ばない試練にぶちあたった時、私は喜んでこの神の前にへりくだる。そしてこの方の知恵と力に頼りつつ、困難を克服して、このお方の栄光を讃えて生きよう!」

(530) “主を恐れることは知識の初めである。”

 私はドラマをよく観ます。主に日本のドラマと韓流ドラマですが、大抵主役を脅かす『悪役』が登場します。そして、これもよくあることですが、この『悪役』のボス的存在(ほとんどの場合が「お金や地位目当て」なのですが…)が実に優れた人物で、彼の巧妙な手口や人の操り方などを見ていると、つくづく「あぁ~、これだけの技術や能力を『善』のために用いていたら…」と思わされるのです。  現代は「学歴社会」と呼ばれます。私が学生の頃は高校へ進む割合がようやく90%に達した時代でしたが、今やほとんどの人が大学へまで進学するようになっています。小学校入学から数えて15~16年もの年月を『勉学』に励んでいるわけですが、果たしてそれらの学んだ知識を実生活にどれだけ活かせているのでしょうか?実際、中学校の時に「方程式」なるものを学びますが、日常生活でそれらの知識が必要とされる場面はほとんどありません。  聖書は、「まずこの天と地の創造者である神を知れ!」と私たちに呼びかけます。そしてこのことを知らなければ、他のすべての『知識』は虚しい、というのです。創造者である神を知ってこそ、自分自身がどれほど価値ある存在として生まれて来て、他者から搾取したり、お互いを痛め付けたりするためではなく、愛し合い建て上げ合うために生きていることを知ることができるのです。その上で「他者のために自分ができること」を豊かにし、磨き上げるために「知恵や技術」を身に付けて行こうとするならば、この世界はどんなに美しいものになって行くことでしょうか?

2023年6月4日 「成熟を目指して」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ     「成熟を目指して」     (04/06/2023) [へブル人への手紙 5章11~6章3節] ◆『乳』と『固い食物』(12~14節)   ・この手紙はユダヤ教からの改宗者に宛てて書かれているので、『霊的な幼子』というのは「聖書や神について  よく知らない人」という意味ではなく、むしろ「『信仰による救い』を十分に把握できず、改宗後も相変わらず『自分自身』に望みを置いてしまっている人」を指している。  ・ここで言う『乳』とは、「旧約聖書の中に証されている『メシヤ(キリスト)』を分かり易く解き明かしてもらうこと」であり、『固い食物』は「私たちを『キリストの花嫁』として整え、永遠の神の都へと招き入れる『御霊による新しい律法』」を指している。これには「キリストへの明け渡し」が必須であり、ユダヤ人にはとてつもないシフトだった。 ◆クリスチャンにとって『成熟』とは何なのか?(6章1節)   ・私たちも「努力して目標を達成する」という価値観が染みついているので、同様の『明け渡し』が必要である。   ・今日は洗礼式があるが、パウロはバプテスマに関してこう書いている。[ローマ6:3-4] キリスト者が『成熟』に向かうとは、「神に従って生きることが最善である」と心から納得し「日々十字架を負ってキリストに従うこと」である。キリストにある『死と復活(ピリピ3:7-11)』を体験し、「神にしかできないビジョン」を受け取って歩んで行こう! ✰今週のチャレンジ: あなたは「キリストにある成熟」を目指していますか? ◎更に深い学びのために  ①あなたは「自分は霊的に幼子だ」と感じますか? それはどうしてだと思いますか?  ②ここで言っている「乳」と「固い食物」とでは、どう違うのでしょう?  ③キリスト者として更に『成熟』へと向かうために、あなたが成すべきことは何だと思いますか? Outline of the sermon     “Let’s go on to Maturity!”    (04/06/2023) [Hebrews 5:11~6:3] ◆“Milk” and “Solid food”.(Verses12~14)   ・We should be aware that this letter was being written for Jew Christians.  Their mind was Read more…

(529) “全き愛は恐れを締め出します。”

 カウンセラーでもあり、著名なコラムニストでもあるアン・ランダーさんは、月に1万通もの「人生相談」的な手紙を受け取りますが、その中のほとんどが『恐れ』に関わる内容だそうです。健康上の恐れ、経済的な恐れ、「親しい人を失うのではないか」という恐れ、そして自分自身の『死』に関する恐れ… 『恐れ』というものに人生の支配権を譲渡してしまうと、その人の人生は完全に『恐れ』にコントロールされるようになってしまいます。では、この『恐れ』というものに一体どう対処したらよいのでしょう?  ある調べによると、聖書には「恐れるな!」という表現が365回出て来るそうです。あたかも神様が私たちに毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。それもそのはず、神様はあらゆる災いに打ち勝つ力を持っておられる方であり、しかも私たちを『無条件の大きな愛』で完全に愛してくださっている方なのですから。なので、私たちが『恐れ』に打ち勝って生きられるかどうかは、神様の側にかかっているのではなく、それに信頼するかどうかの「私たちの側」にかかっているのです。  私たちは生きている限り『成長』し続けます。そして成長の過程には必ず「新たなチャレンジ」があり、新しいことにチャレンジしようとする時にはどんな人でも何らかの『恐れや不安』を経験することでしょう。そういう意味で「人生に恐れはつきもの」と言えます。そして『信仰』とは、「関係を選択すること」です。『恐れ』が私たちの心をノックして来た時に、それを迎え入れて住みつかせるのではなく、「私は全能の神との関係の中で生きることに決めた。だからお前は私の人生とは無関係だ。とっとと出て行け!」と言って門前払いを食わせるのです。そのようにして、今日も「神様、あなたの愛の中で歩みます」と宣言しましょう!

2023年5月28日 「人となられた神の御子」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「人となられた神の御子」 (28/05/2023) [へブル人への手紙 5章1~10節] ◆大祭司の2つの資質   ①人々の心に寄り添いつつ神に仕える[1~2節]  ②神の選びによる[4節]   ・イエスの『祭司』としての立場も「神の選び」によっていた。[5節]   ・イエスは「神の御子」であられたのに、肉体をもって『人』となって私たちに寄り添った。 ◆苦しみによって『従順』を学ぶ(8~10節)   ・『神の御子』として元々完全に神に従順であり、全知全能でもあるイエスが、改めて「従順を学ぶ」ということがあり得るのか?今日は特に「神の子が肉体をもって『人』となられたこと」について更に考察してみよう。   ・イエスは敢えて「超自然的な力」に訴えなかった(「神の子としての力」を『逃避』のためには用いなかった)。[マタイ26:51-54] いわばイエスは「人として地上で神に従えばどのようになるか」を学ばれた。それは私たちがご自身に『従う者』となり、「永遠の救い」を受け取る者とされるため。この『従順』のゆえに御父は御子に栄光を与えられた。[ピリピ2:6-9] これは御父が私たちにも受け継がせたいこと。[ピリピ1:29]   ・『神の栄光』は試練の中で「神への従順」を貫く時に現される。「Why」ではなく「For What」と尋ねる者であろう! ✰今週のチャレンジ: 「イエスに従う」とは、どういうことでしょう? ◎更に深い学びのために  ①「大祭司の2つの資質」とは何でしょう? イエスはそれらをどのように現しておられましたか?  ②イエスは「ご自分に従う人々にとっての『永遠の救いの源』となるため」に、どのようなことをされましたか?  ③『神の栄光』はどんな状況で現されることが多いですか? またそのような体験があるなら分かち合いましょう。 Outline of the sermon   “Son of God became human.”  (28/05/2023) [Hebrews 5:1~10] ◆ 2 natures of high priest.   ①Act on behalf of men in relation to God. Read more…

(528) “良い人は、その心の良い倉から良い物を出します。”

 人間の『善良さ』というものは一体どこから生まれてくるのでしょうか?またどのように育むことができるのでしょうか?  ある人々は「多くのことを学べば良いのだ」と言います。「正しく学べば正しく生きられる」と。今日、多くの社会では『教育』こそが世の中を改善するための万能薬のように叫ばれますが、「高い水準の教育」は、同じように高い『道徳的基準』と共に養われるのでないなら、単に「頭でっかちな人々」を生み出すことしかできません。もし本当に『教育』こそが社会を良くするツールであるなら、もはや『知能犯』などは存在しないはずです。  別の人々は「良い行いをするようにしつければ良いのだ」と言います。しかし『良い行い』は決して人を『良い人』へと育てることはできません。むしろ「良い行いの勧め」は私たちを「人前では偽善をふるまうが、隠れたところで憂さを晴らす人間」へといざないます。『真の善良さ』とは、『正しい教育』や『正しい行い』によって育まれるのではなく、『正しい心』によって育まれるのです。  『善良な人』とは、その人が「何を知っているのか」とか、「どんなことをしているのか」ということにあるのではなく、「何者であるのか」という「その人の『存在』自体」が問われているのです。イエス・キリストは「天の父以外には『良い方』はいません」と断言しました。この「全宇宙を私たちの益のために最高に創造された神」との関係の中に日々生きて行こうとする時、私たちは『真の善良さ』へと近づいて行くことができるのです。