2013年11月3日 「キリストの恵み」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「キリストの恵み」    (03/11/2013) [ガラテヤ 1:6-10]  ◆書き出しのことば:『驚いています(サウマゾー)』[6節] = 「驚きあきれかえる」    ・『ほかの福音』:後で詳しく出てくるが、要するに「律法を守ること(行い)による救い」のこと。 ◆注目すべき2つのポイント   ①私たちの罪は、神の前に、自分では償いようがない    ・私たちの罪は『行い』ではなく、創造主である神に対する『不遜・不信仰』であり、その顕著な現れは     「自己中心や高慢」。行いによって救われようとすることは、これらの『罪』を助長する。    ・悪魔はいつも私たちの思いを『神』から引き離し、『自分自身』に向けさせようとする。    [8節]   ②神はただ『キリストの代償』の故に私たちを受け入れてくださる [6節]    [Ⅱコリント13:13]の真意    ・『恵み』は十字架のわざによって明らかにされ、キリストの許に来る者にのみ有効となる。[ガラテヤ3:1]    ・イエスの懇願[マルコ14:36]を、父なる神は私たちに対する愛の故に拒んだ。    ・神の目的は「私たちの救い」だけではなく、すべての造られたものがキリストに注目し、『神の御姿の     正しいイメージ』をつかむこと。[コロサイ2:9](それは「動植物」や「コワいおじさん」などではない!) ◆見習うべきパウロの態度 [10節]   ・パウロこそ、かつては「律法(行い)による救い」を切に追求していた人だった。[ピリピ3:4-8] 「神が『身を裂かれる思い』でひとり子を十字架におかけになった」、この驚くべき愛のわざを 「律法を行うことによる自己満足」 などに決して置き換えてはならない!     Outline of the sermon    “The grace of Christ.”   (03/11/2013) [Galatians 1:6-10]  ◆The first word of verse 6:『Astonished(saumazo)』 = Read more…

(98) “キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

我が家(渋沢ファミリー)には2つの『家訓』があります。1つは「Learning Experience」すなわち「『失敗』は悪ではなく、そこから多くを学ぶチャンスである」ということ。もう1つは「昨日の自分より今日の自分」すなわち「自分と他の人とを比べて優越感を感じたり劣等感に落ち込んだりするのは愚かである。それよりも、今日の自分が昨日の自分より何か新しいをことを学んだり、成長することを目指そう」ということです。この家訓のおかげで、我が家の子供たちは実にユニークにのびのびと育ってくれています。 このような『家訓』を思いついたのは、もちろん聖書からヒントを得てのことでもありますが、もともとは私たち夫婦の関係からです。私たち夫婦は『正反対』と言えるほど、考え方や性格が違うのです。 私がまだ学生の頃、何かにつけて几帳面で細かいことにこだわりたくなる性格を見て、私の母はよく言ったものです。「お前みたいに細かいことが気になるタイプは、よっぽど『ズボラ』な奥さんをもらわないとダメだよ。」 これを聞いて私はいつも「オレは絶対そんな嫁さんと一緒には暮らしていけない!」と言い返していました。ところが、私がゾッコン惚れ込んでしまった女性が、(もちろん結婚してから分かったことですが…)何とまさしくその『ズボラ人間』だったのです。 彼女のそのような性格に気付き始めたのは、結婚式の翌朝からでした。前の晩に使った歯磨き粉のチューブが、確かに私はすその方から丁寧に押し出していたはずなのに、何故か中央の部分がギュッと押しつぶされていたのです。その時は「まあ、気のせいか」で済ませたのですが、そのようなことが毎朝毎晩続くので、2~3日後のある日私が新妻に「ねぇ、もしかしてキミは歯磨き粉のチューブを使うとき、真ん中へんを握るの?」と尋ねると、彼女はポカンとして「たぶんそうだと思うけど、他にどんな方法があるの?」と聞き返してきました。私は「イヤ、別に。」と言ってその場をやりすごしましたが、これは1つの例であって、このような食い違いは生活のあらゆる場面で現れ始めたのです。何度かのバトルの後私が下した決断は、「彼女は間違いなく、神様が私に与えてくださった『最高の妻』だ。このような妻がいるおかげでは、自分と違ったタイプの人間を愛し受け入れること、また新たなものの見方を学ぶことができる。」というものでした。 自分と違った考えを持つ人や、ちょっとした間違いや失敗に直面すると、私たちはつい相手や自分を裁いてしまいがちです。でも、はっきり言って世界は「自分と違ったタイプの人々」で満ちており、また「失敗しない人」など1人もいません。そのようなことにいちいちイラついていてはキリがありませんよね。むしろ私たちは、神様が造られた『ユニークな人々』を受け入れ、また神が私たちに対して寛容であられるように、自分や他の人の失敗に寛容に対処できる者でありたいものです。

(98) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”

こんな質問をする人がいます。「もし神様を信じたなら、人生はすべてうまく行くのでしょうか?」 答えは残念ながら『ノー』です。ただこれだけは言えます。「神を信じても試練は減らない。しかし、もはや1人で立ち向かわなくてもよい。」 神は『問題のない人生』を約束してはいません。しかし『勝利ある人生』は約束しています。神が望んでいるのは、私たちが「幸せになること」ではなく、「神と共に生きるようになること」です。 もし神を知らない人に「あなたにとって、幸福な人生とは?」と尋ねるなら、きっと「すべてに満ち足りて、心配のないこと」などと答えるでしょう。ではそのような人生を生きている人は『神との関係』を求めるでしょうか?いいえ!恐らく「私はすべてにおいて満ち足りている。私には神など必要ない」と言うでしょう。だからこそ神は私たちにこの地上での「すべてにおける成功」を与えないのです。もしそのような人生を歩んでいる人がいるとしたら、もしかしたらその人は『悪魔の術中』にまんまとはまっているのかもしれません。 私たちが切に神を求めるのは、多くの場合「試練のただ中にいる時」です。順風満帆な人生を歩んでいても変わらず心から神を求めて生きる人がいるなら、あるいは問題の無い人生を歩ませてもらえるかもしれません。ところが私たちの多くはしばしば『人生の壁』『乗り越えなければならない山』に遭遇します。そのようなとき「神様、どうぞあなたと一緒にこの困難を乗り越えさせてください」と、私たちが神の許に近づくことを、神はいつも待っておられるのです。

2013年10月20日 「パウロが伝えたかったこと」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「パウロが伝えたかったこと」    (20/10/2013) [ガラテヤ 1:1-5]  ◆パウロがこの手紙を書いた理由    ・ガラテヤの教会の人々が、イエス・キリストではなく、世の状況や人々の教え(律法・割礼)の解釈に      惑わされ、本当の福音から外れて行ってしまっているのを修正しようとした。    ・私たちも日本人特有の常識(人目を気にする,救いは行いによる,宗教は教育・修業のため etc)に      洗脳され、福音の真髄(イエス・キリストを通しての神との関係)を軽んじる傾向を持っている。 ◆「イエスのよみがえり」の持つ意味 [1節]   ・悪魔の力は『罪と死』。これを打ち破れるのは、神のみ。「イエスのよみがえり」は、イエスが神の許か     ら来られ、神のみこころにかなう歩みをされた証拠。 ◆「神のみこころ」による贖いのわざ [4節]   ・『悪の世界』とは「罪と死に支配された世界」。すなわち、神と人との関係が絶たれてしまっていること。     ①人は罪あるままでは、決して神に近づくことはできない  ②私たちの罪は「神に対してのもの」   ・キリストが死なれたのは「私たち」よりもむしろ「神ご自身」のため。 『なだめの供え物』[Ⅰヨハネ2:2] ◆神の私たちに対する関心   ・神は「立派な生き方」には興味ない。どんな立派な生き方も、私たちを神の前に『よし』とはしない。   ・神の関心は、私たちが「どう生きるか」 ではなく 「どこを見ているか」。(キリストへの『依存度』)   ・この世の価値観や自尊心に『No』と言い、キリストのみことばに『Yes』と言う。[マタイ23:12]   Outline of the sermon  “This is what Paul wants us to know!”  (20/10/2013) [Galatians 1:1-5]  ◆Why did Paul write Read more…

(97) “いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

結婚25周年を記念して、妻と2人で「バヌアツ共和国ウリピブ島」へ行ってきました。ウリピブ島は1999~2003年に私たちが『宣教師』として家族で暮らしていた島で、電気もガスも水道もない熱帯のさんご礁に囲まれた美しい島です。 日本人としてこの島で暮らすと、いわゆる「無いもの」がたくさんあります。先にあげた「電気・ガス・水道」に加え、ショッピングセンター、自動車(自転車さえありません)、公園、頑丈な家、ごちそう、コンピューターゲーム、食堂、コンビニなどなど、挙げていたらキリがありません。 しかし、ちょっと視点を変えてみれば、ここには日本には無い多くのものが満ちています。豊富な大自然、エメラルド色の海、美味しい空気、子供たちが自由に走り回れる空き地、数々のトロピカルフルーツ(パパイヤ・マンゴー・パイナップル・ココナツ・グアバ・パッションフルーツ…)、そして「人々のあふれる愛」です。 10年前に私たちがこの島で暮らしていたとき、日本から若い人たちが10人ほどやってきて、3~4日島に滞在したことがありました。私たちの小さな家にはとても入りきれなかったので、言葉の不自由さを懸念しながらも2人1組にして島の家族の中にそれぞれホームステイさせました。さて、どうなったと思いますか?コミュニケーションに四苦八苦して、ちっとも島の生活を楽しめなかったでしょうか? 出発の朝、それぞれの家族に見送られながら船着場にやってきた彼らの目は『別れを悲しむ涙』であふれていました。それぞれの家族と抱き合い、「帰りたくな~い!」と叫ぶ1人1人。彼らは「ことばを超えた愛」を体験したのです。物が豊富で『便利さ』という点では随一の日本には失われてしまった「互いが必要」「人間こそ最も大切」「共に生きる」というような、『人間の原点』と言えるものを、彼らはこの数日間体験し続けたのです。 10年ぶりに訪れたウリピブ島は「ソーラーパネル」や「携帯電話」などが普及し始め、チョッピリ驚かされましたが、肝心の『人々の心』は変わっていませんでした。「オレたちの家族が帰ってきた!」と、島のどこへ行っても(小さな島なので、徒歩1時間で1周できます)人だかりになり、1時間に20メートルも進めませんでした。今回の2週間の滞在を通して「私たち人間に必要なのは、やりがいのある仕事や便利さなどよりも、何より『愛(共に寄り添って生きること)』なのだ」と改めて思い知らされました。

(96) “彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。”

「井の中の蛙大海を知らず」という日本の古いことわざがあります。「井戸の中に住んでいるカエルは、大海の存在も知らずに、自分の存在に得意になっている」というような否定的な意味で使われます。確かに「もっと広い世界があることも知らないで、ちっぽけな(自分だけの)世界だけを知って王様気取りしている」のは良くありませんが、広い世界を知ったために自分の小ささにガッカリし、萎縮してしまって大胆になれないのもどうかと思います。 ひと昔前に「世界に1つだけの花」という歌が流行りました。「ナンバー1になれなくてもいい…、もともと特別なオンリー1」というような歌詞だったと思います。いろいろな分野で「1番になること」を追求することは悪いことではありません。向上心を持ち、日々努力を重ね、更に高いレベルを目指す。すべての人はそうあるべきだと思います。ただこの「1番になること」または「何かができるようになること」が自分自身の価値を決めることのように錯覚してしまうのは危険です。「失敗すること」が『失敗者になること』とは違うように、「より多くのことができること」や「より多くの物を持っていること」と、「より優れた人物であること」とは全く別のことです。『持ち物』や『能力』に自分の価値を置いているなら、火事などですべてを失った時、また病気や事故で体の自由を失った時に、生きる希望まで失ってしまうことでしょう。 私たちの『自信』をいうものは、「何かが人よりも優れている」ということに根拠を置くのではなく、「自分はいったい何者なのか」ということに根差すべきです。聖書は「あなたは天地万物の創造者である神によって造られた最高傑作である」と述べています。この造り主は不動・不変であり、それによって与えられたこの価値観も永遠に揺らぐことはありません。まさにあなたは「もともと特別なオンリー1」であり、「『神のかたち』を宿した、神に愛されている者」なのです。 さあ、もう周囲を見回して自分と他の人とを比べるのは止めにして、上を見上げながら「神様に造られたユニークな作品としての自分」 に磨きをかけていきましょう!

2013年9月22日 「『恵みの歩み』の実現」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「『恵みの歩み』の実現」    (22/09/2013) ◆イエスが歩まれたように…   ・先週の復習(イエスのとりなし)[ルカ23:34]   ・私たちは「イエスの模範」に従うことを期待されている。[ヨハネ13:15] ◆「神(父)との関係」に生きる   ・「主人としもべのたとえ話」[マタイ18:23-27(前半)] ➝ 『愛に痛んだ父』 ➝ [マタイ18:28-35(後半)]   ・しもべが仲間を赦せなかったのは、主人の前から離れたから。(『赦し』は「信仰の行為」[ローマ12:19]) *『恵みの歩み』は、「日々、神との新鮮な関係に生きる歩み」。 ◆御霊による実現   最も重要な命令 = 「御霊に満たされなさい。」[エペソ5:18]   ・神は「すべての人を恵みによって救う」とお決めになった時、「すべての人にわたしの霊を注ぐ」ともお決めになった。   ・御霊は、私たちが『神の子ども』であることを証する。[ローマ8:15-16]   ・『神の子』として生きるのは、「思い込み」によるのではなく「聖霊」による。[Ⅱコリント3:17-18]      「主と同じかたち(18節)」 : 『神の子』としての実質。神との親密な関係。(子は次第に親に似てくる)  ・この世での成長は、「自分でできるようになる」こと。 しかし実際は「自分に頼る者」は神の前に失われている。 「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった!」 [ルカ15:24]     Outline of the sermon    “Fulfilling ‘Grace Walk’.”   (22/09/2013) ◆ Live as Jesus did.   ・Review from last Sunday(Intercession of Jesus)[Luke23:34]   ・We Read more…

(95) “落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れなさい。”

『三角関係』というと、つい「恋愛関係のいざこざ」を思い描きがちですが、そればかりとは限りません。2人の人がもめているところに、その解決を助けようともう1人が加わるとき、要らぬ『三角関係』を巻き起こすこともよくあります。「自分は善意で関わろうとしたのに、どうしてこんな目に会わなきゃならないの?!」そう言いたくなるのも分かりますが、たとえそれが善意であっても、正しい理解と知恵に基づいていなければ、必ずしも結果が良くなるとは限りません。今日は「もめている2人を助けるための、2つのルール」を下記に述べたいと思います。  ①「神の導きを確信しているのでない限り、口を出さない」 ・英語のことわざに「自分の名前がついているのでない限り、わざわざ拾い上げるな!」というものがあります。日本語にも「小さな親切・大きなお世話」というのがありますよね。たとえそれが善意から出ていたとしても、あなたが必要とされていない問題に首をつっこむことは正しくありません。そういう時はむしろ、「自分に与えられている分をしっかりとこなす」ことに専念しているべきです。もめている当人たちが第3者に求めることは『解決』ではなく、「自分の味方になってくれること」なのですから。  ②「もめている双方それぞれと、良い関係を保つ」 ・あなたに求められているのは『問題の解決』ではなく、それぞれの人を「祈り、支えてあげる存在」となることです。もめごとを解決する責任は、当人たちにあります。しかし、そのことで疲れ果てたり傷ついたりした時、彼らには「支え、慰めてくれる人」が必要です。大切なことは、やがてもめごとに決着がついた時、あなたが2人の友のどちらかを失うのではなく、双方どちらとの関係も更に深まるようになっていることです。

2013年9月15日 「『恵みとまこと』に満ちたイエス」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「『恵みとまこと』に満ちたイエス」    (15/09/2013) ◆何故『赦す』のか?   ・「赦さない理由」なら、いくらでも思い付く。しかし『赦し』だけが「恵みでないもの」の悪循環に終止符を打つ。   ・「赦すこと」は簡単ではない。しかし「赦し」以上に難しいことがあるとすれば、それは「赦そうとしない」こと。 ◆『正義』と『恵み』   ・『正義』は「善」であり「公正」で「道理の力」があるが、しばしば社会から『恵み』を押し出そうとする。   ・一方『恵み』はこの世のものではなく、重大な変化をもたらす「超自然的な力」を持っている。 ◆「恵みとまこと」に満ちたイエス   ・一見相反する「恵みと正義(まこと)」の両方を、神はイエスキリストにおいて成就した。[ヨハネ1:14, 16-17]   ・イエスは『神』でありながら「人として来られた」故に、御父には成し得ないことをなさった。[マタイ4章,ヤコブ1:13]   ・神はイエス・キリストにおいて、敢えて自らを人間の側に置き、「試み」「罪の誘惑」を学ばれた。[ヘブル4:15]    だからこそイエスは私たちの立場や私たちの気持ちになって、とりなすことができる。[ヘブル7:25] ◆『十字架』への道  ・イエスにとっても、自分の身をもって「身に覚えのない罪の贖い」をすることは、決して簡単ではなかった。          ➝ 「ゲッセマネの祈り」 [マルコ14:36,ルカ22:41-44]  ⊚イエスの究極のとりなし [ルカ23:34]    ・「赦す理由」は、「彼らは何をしているのか分からない」から。 人となることによってのみ、こう言うことができた。 イエスは確かに私たちを理解してくださった!     Outline of the sermon    “Jesus, who is full of ‘grace & truth’.”   (15/09/2013) ◆ Why do we “Forgive”?   ・So many reasons 「Not to forgive」.  Read more…