2013年12月8日 「私たちが注目すべきもの」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「私たちが注目すべきもの」     (08/12/2013) [ガラテヤ 2:6-10]  ◆エルサレム教会との一致の回復 [9節前半]   ・アンテオケを起点とする異邦人主体の教会と、エルサレムを中心とするユダヤ人主体の教会の和解。 ◆一致回復の要因は?(私たちJCFの“一致”のためにも参考になる)   ①人に注目しすぎない [6節]     ・確かに神は人を器としてお用いになるが、「人」や「現象」に注目しすぎると分裂・分派の原因にもなる。   ②『委ねた方』に注目する [7節]     ・割礼を主張する人々は、「パウロが教えていること」に注目したが、エルサレム教会のリーダーたちは      「パウロがそれを誰から委ねられているか」に注目した。     ・私たちも、今していることを「何故しているのか?」吟味すべき。= [Ⅰテサロニケ2:4](人に媚びるのでなく)   ③主はただ1人だが、働きはたくさんあって良い [8~9節]     [Ⅰコリント12:6-7]       ・私たちは「働きに仕えている」のではなく、「生ける神に仕えている」のである。『主の働き』に優劣はない! ⊚JCFのビジョンは「OOを成し遂げること」ではなく、「1人1人が日々しっかりと神様につながり、   それぞれが神様から与えられている可能性へと、主にあって恐れず大胆にチャレンジしていくこと」。      Outline of the sermon    “What we should be attracted.”   (08/12/2013) [Galatians 2:6-10]  ◆The relationship with Christians in Jerusalem restored. [Verse 9a]   ・Reconciliation between Read more…

(103) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。”

1つのなぞなぞを出します。「それをしても少しも得をしないどころか、損をする一方なのに、ついつい時間や力をたっぷり費やしてしまうもの、なぁんだ???」 何だか分かりますか?その答えは『思い煩い』です。 私たちは、いくら考えてもどうしようもないことを、ついつい思い煩ってしまいます。「受験に失敗したらどうしよう?」「このまま結婚できなかったらどうしよう?」「会社をクビになったらどうしよう?」などなど。どれも悩んだからといって事態が好転するものではなく、また実際に起こったからといって、命を失うような大事でもありません。では私たちはどうしてこのような『思い煩い』に捕まってしまうのでしょうか? 次の3つの理由が考えられます。 ①私たちは『現在』にしか生きられないから ・『思い煩い』はみな、「過去」または「未来」に関することです。「あんなことをしなければ良かった…」とか、「こんなことが起こったらどうしよう…」などなど。私たちにはどうしようもないことがらなので、ただ思い悩むことしかできないのです。 ②自分が『人生の主人公』だと思っているから ・人間は基本的に『自己中心的』であり、「自分の人生がどうなってしまうのか」が最重要事項になっています。ですから、たとえ家族や友人が幸運に恵まれていても、かえって自分の状況が心配になってしまうのです。 ③『出来事』に興味が集中しているから ・「人間は環境の動物」などと言われる通り、私たちは自分の内面を整えることより、外側の環境(外見・経済状態・持ち物など)を整えることにほとんどの時間と労力を費やしているので、それらを思い通りにできない時、対処する知恵がありません。 聖書は私たちに「思い煩うな!」と告げています。ということは、私たちが「思い煩わないでいること」が神のみこころなのです。言葉を変えて言うならば『思い煩い』とは、神を信じない(不信仰の)姿勢から発生する弊害です。神はこの全世界を創造され、今日もそれらすべてを支配しておられます。また彼は時間や空間に縛られてはいません。今ここで私たちと共におられると同時に、100年前や100年後にも存在することのできる方なのです。この神が「私こそアナタの人生の主役だ」とおっしゃるのです。私たちの人生は「私たちがどれほどの人間か」を顕示するためではなく、「私たちの神はどれほどのお方か」を表現するためのものなのです。そして聖書は「人はうわべを見るが、神は心を見る」と宣言します。出来事が問題なのではなく、その背後にある『人々の心』こそ重要なのです。敬虔な神のしもべとして有名なマザー・テレサは言いました。「『どれだけのことをしたか』は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」 この聖書の神をあなたの神として、このお方に全面的な信頼を置いて生きるとき、初めて人間は『思い煩い』から解放されるのです。

2013年12月1日 「神からのアプローチ」

ごめんなさい!メッセージの録音を忘れました… 説教あらすじ        「神からのアプローチ」     (01/12/2013) [ヨハネ1: 10-12] ◆「忘れられてしまうこと」の悲しさ   ・竜宮城から帰ってきた『浦島太郎』は、故郷に戻ったにも関わらず、誰も知っている人に会えなかった。   ・実話を基にした物語『The Vow(君への誓い)』では、新婚の妻が記憶を失ってしまう。昔の恋人のことは覚えているが、夫のことは忘れてしまう。夫の苦悩は大きかったが、それでも夫は『誓い』の故に踏みとどまる。 ◆神に対する拒絶 [10~11節]    ・神がこの世界のすべてをお造りになったのに、人々はそれを忘れている。仮に神の気配を感じたとしても、     自分の都合の故に、敢えて「創造主なる神」を認めようとしない。 ・『最大の親不孝』とは何か? ― 「非行」? 「先に死ぬこと」? 親を親として認めないこと ・神はなにも私たちを支配したりコントロールしたいと思っているわけではない。(親と同じ)  ただ、自分の存在を認め、神として敬って欲しい。そして日々私たちとコミュニケーションを保ちたい。    『罪』とは「神に対する拒絶」 ➝ その行く末は、「永遠にわたる神との断絶」。 ◆神からのアプローチ [12節]    ・今から約2000年前、神は究極の方法で私たちとのコミュニケーションを試みた。(『イエス』=「神は我が救い」)     そして私たちからの応答を強制せず、「私たちの選択」に委ねた。それは『愛によるアプローチ』だから。 ☆あなたはこの『神からのプロポーズ』を受け入れますか?     Outline of the sermon    “The approach from God.”     (01/12/2013) [John 1: 10-12] ◆ It is sad to be “Forgotten”.   ・In the story Read more…

(102) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

超大型台風がフィリピンを襲い、多くの尊いいのちが奪われました。本当に心が痛みます。私たちが住むこのクライストチャーチでも多くのフィリピンからの移民の方々が暮らしており、家族の消息を案じています。私たちもできる限りの支援を行っています。 私たちの人生にもしばしば『台風の襲来』のような出来事があります。残念ながら「生涯に1度も試練がなかった」という人には会ったことがありません。ある意味「試練に直面する」という経験は、「生きているからこそ」と言えるのかもしれません。ですから大切なことは「いかにして試練を避けて通るか」ではなく、「どのように人生の嵐に備えるか」ということになります。 ある人々の人生、またクリスチャンとしての信仰生活は『自分の気分」に基づいているかのようです。気分の良い日は「何もかもうまくいく」ような気がしたり、「神様は私を愛しておられる」と感じたり。しかし毎日雨ばかり続いたり、何となく気分の乗らない日は、心がふさいでしまったり、「神様なんていやしない!」などと思ってしまう。 イエス・キリストはある時たとえ話を用いて次のように話されました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れません。ところが、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、ひどい倒れ方をしてしまいます。」 神が与えてくださる人生は、「毎日お天気の楽々人生」ではなく、「台風が押し寄せても倒されることのない、確固たる確信に基づく人生」です。そしてそのような人生は「ただ神様について知っている」ことから来るのではなく、「神のことばを聞いて、それに従って生きる」ことから来るのです。

2013年11月24日 「まことの割礼」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「まことの割礼」     (24/11/2013) [ガラテヤ 2:1-5]  ◆登場人物紹介   〈バルナバ〉(1節):疑心暗鬼だった弟子たちの中にあって、真っ先にパウロを受け入れた。   〈テトス〉(1節):パウロによって導かれたギリシャ人クリスチャン。割礼なしにリーダーとなった。   〈おもだった人たち〉(2節):エルサレムにいた12使徒や、ヤコブをはじめとするその他のリーダーたち。   〈忍び込んだにせ兄弟たち〉(4節):「信仰による救い」に条件を付け加えようとする人々。 ◆エルサレム再訪[1節]    [使徒15:1-2] ◆『割礼』とは?   ・男性器先端の包皮を切り取ること。アブラハム以来「神と契約を結んだ民」としてのしるし。   ・私たちの『神の民のしるし』は、「自分に信頼する生き方」を切り捨て、キリストのものとされること。[ピリピ3:3] ◆パウロの強調点(たった1つのポイントに、4つの表現を用いている)    ①異邦人の間で宣べている福音 [2節]    ②力を尽くして走っていること [2節]    ③キリスト・イエスにある自由 [4節]    ④福音の真理 [5節]  ⊚すなわち「キリストを通してのみ実現する、神との特別な関係」。[ヨハネ1:12-13]    ・肉と肉が結ばれると『誕生』があるように、「神と人(霊と霊)」が結ばれても新しい『誕生(創造)』がある。    [ガラテヤ6:15] ― この新しい『誕生(創造)』は、キリスト抜きではあり得ない! ✯あなたは新しくされましたか? 新しい価値観で生きてますか? それとも、相変わらず「人間的なもの」を頼みにして生きてますか?    《JCF 5つの目当て》 復唱   Outline of the sermon    “True circumcision.”   (24/11/2013) [Galatians 2:1-5]  ◆Characters in Read more…

(101) “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

有名な作家であり評論家であるジョージ・バーナード・ショーの遺した言葉に次のようなものがあります。「人々はしばしば自分の置かれている環境に文句を言うが、私は環境などに支配されはしない。人生の成功者たちは皆、逆境の中で奮起し、そこに新たな環境を造り出す人なのだから。」 あなたがもし農場で働くとしたら、重要なのは「どのような土地であるか」以上に、「何の種を蒔くか」に違いありません。どんなに立派な土地でも、誤った種を蒔くならば、望んだ収穫は得られないのです。ましてやあなたの人生のフィールドにどんな種を蒔くかは、あなたの志し次第です。「不安や恐れの種」、「不純な志や自己中心の種」を蒔くなら、必ずその結果を刈り取ります。しかし、「平安や喜びの種」、「愛と思いやりに満ちた優しさの種」を蒔くなら、やはりそれに見合った収穫を刈り取るのです。 祝福された人生のカギは、何か特別な場所やイベントの中にころがっているのではありません。むしろあなたの平凡な日常生活の中に隠されているのです。祈り深く聖書を読み、その日に出会う1人1人に仕える心を保ちながら生きるとき、あなたはそれらのカギを見出すことができます。ある時はそれは「落ち込んでいる人を励ますこと」かもしれないし、またある時は「一見自分には大きすぎるような課題に挑戦すること」かもしれません。お返しできないような人に敢えて施すとき、神はあなたのその手のわざを見ておられます。そしてそれは神が私たちのために用意しておられる『祝福の大倉庫』のカギを開くのです。

2013年11月17日 「新しい価値観に生きる」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「新しい価値観に生きる」    (17/11/2013) [ガラテヤ 1:18-24]    *『ペテロ』(ギリシャ語:『岩』) = 『ケパ』(アラム語) イエスもペテロをそう呼んだ。[ヨハネ1:42] ◆ここでパウロが述べている2つのこと   ①自分が『エルサレム教会』の影響をあまり受けていないこと [18~19節]     ・エルサレムから発信される福音は、昔ながらのユダヤ文化の影響を強く受けていた。     ・パウロは、全く新しい「キリストにある文化・価値観」の重要性を強調した。[Ⅱコリント5:17]     ・私たちも「日本の伝統的思考パターン」に多大な影響を受けている。(そのいくつかは「非聖書的」)       (例)「出るくいは打たれる」 「人に迷惑をかけないように」 「妻は家でおとなしく」 「救いは行いによる」 「進化論」     ・聖書(神のことば)に根差した、新しい価値観の上に建て上げられることが必要。[コロサイ2:6-8]   《JCF 5つの目当て》    1.私たちは神様の子どもです。天地を造られた神に無条件に愛されています。    2.私たちは神の傑作であり、1人1人が「神のかたち」を心に宿しています。    3.私たちが不完全なのは、その弱さのうちに神の恵みと力が現されるためです。    4.私たちの「良い行い」は、救いの『結果』であって『条件』ではありません。    5.私たちは1人で生きるのではなく、父なる神や主にある兄弟・姉妹の助けが必要です。  ②自分の行いが讃えられるのではなく、自分に変化をもたらしておられる神こそあがめられるべき [23~24節]    ・神のわざは「私たちのしていること」ではなく、「私たちに起こっている変化」にこそ現される。 ⊚キリストを求め、キリストにある新しい土台の上に築き上げられましょう!   Outline of the sermon    “Live in a new sense of values.”   (17/11/2013) [Galatians1:18-24]    *『Peter』(『Rock』 in Greek) = 『Cephas』(Aramaic)  Jesus also Read more…

(100) “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”

皆さんは『愛』という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?恐らく多くの方々は「男女間の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか?または「親子の愛」「人間愛」、そしてまた「愛は地球を救う」などの標語まで思い浮かべる方もいるかもしれませんね。どちらにしてもそこに共通している概念は「何か崇高で温かいもの」ではないかと思います。 もしかするとある方々は「私はそんな立派な人間ではないから・・・」とか、「愛とか恋とか、そんな乙女チックなことばかり求めていたら食っていけない」などと言って『愛すること』を敬遠しようとしておられるかもしれません。しかし実際は『愛する』ということは、「夢を追うようなこと」でも「非日常的なもの」でもありません。もし『愛する』ということをもっと分かりやすい日常的な言葉に言い換えるとすれば、それは「相手のためにちょっとだけ損をすること」なのです。 現代の私たちの生活は、100年前に比べれば格段に『便利』になりました。ところが「便利になったのならさぞかし暮らしにゆとりができたはずでは?」と問うてみるなら、決してそうではないことは歴然です。『便利さ』は更なる能率性を追求させ、現代人の生活は忙しさに追われ、「自分のことで精一杯」の人間を生み出し続けています。ご存知でしたか?『忙しい』の『忙』の文字は「心が亡びる」ということを意味しているのです。 神は私たちを「互いに愛し合う」ようにデザインなさいました。自分のことばかりにかまけていると「心が亡びる」ようにお造りになられたのです。実際、道端で助けを求めている人にちょっとだけ手を貸すのに、5分もかかりません。けれどもそのたった5分を他の人のために用いるだけで、私たちの心は息を吹き返すのです。 私たちは今日までどれほどの「心を亡びから免れさせるチャンス」を逸して来たことでしょう。でもガッカリしなくても大丈夫。今日から始めれば良いのです。神様はいつでも「愛する機会」をくださっています。もし私たちが『目を覚まして』歩んでいるのなら・・・。そしてイエス・キリストはこう言われました。「あなたがこれらの人々にしたのは、わたしにしたのです。」

2013年11月10日 「自分ではなく、キリスト」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「自分ではなく、キリスト」    (10/11/2013) [ガラテヤ 1:11-17]    *ここからしばらくパウロは、自分の証をしながら「何故自分ではなくキリストなのか」を語っている。 ◆私たちは主のもの [13節]    ・『神の教会』    「パウロの回心の証」[使徒9:1-9] イエスは「わたしを迫害している」と言われた。    ・私たちは2つの理由で「主のもの」。[詩100:3,イザヤ43:1]    しかし実際はそれ以上の存在! ◆恵みによって召された   ・パウロは断食していた3日間(使徒9:9)何を考えていたのか?     「人生をかけていたことが間違っていた!人を死に追いやることさえした!」(特に男性にとっては死活問題)     『生きるにふさわしくない自分』に気付いたとき、真の意味で『キリストの恵み』が分かった。   ・[14~16節]「生まれたときから選び分け、恵みをもって召してくださった方」      だからこそパウロは、「神の恵みによる招き」に対して、その『恵み』を拒み「自分の力でその資格を      主張しようとする姿勢」に陥ろうとしているガラテヤ人に対して、激しく抵抗している。 ◆「理にかなう神」ではない!   ・パウロは人一倍ユダヤ教に精通していた(14節)のだから、ユダヤ人宣教に召されてしかるべき。    神はこの世でいう『Logical』な方ではない!「理にかなったこと」ではなく、「みこころにかなったこと」をなさる。   ・「何をして生きるか」は重要ではない!何をしていても(愚かに見えても)キリストが輝き出ていることが重要。 ⊚私たちの人生は「神の恵みによる選び(召し)」に対する「信仰による応答」である!     Outline of the sermon    “It’s no longer me, but Christ.”   (10/11/2013) [Galatians 1:11-17]    *From this paragraph Paul is sharing “Why it’s no longer me, but Read more…

(99) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」 笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります。 1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。 2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。 面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』と『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか? 「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。