幼い子ども

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」

笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります

1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。

2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。

面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか?

「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。

Categories: 聖書

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