今日の聖書の言葉は、多くのクリスチャンの方々によって親しまれている箇所です。何故なら、この世において真摯な心でキリストに従って行こうとするなら『試練』は避けて通ることができず、そのような時にはつい「神様どうしてこのように辛いことが私の身に起こるのですか?」とつぶやかずにはいられないものなので、「すべてのことがともに働いて益となる」と聞くと、「ああ、きっといつか『このことがあって良かった』と感じられる時が来るのだ」と信じることができ、慰められるからです。

 ただ、この聖書の言葉の1つの落とし穴は、「すべてのことがともに働いて益となる」と聞くと、私たちはつい「しんどい出来事の後には、神様は必ず楽しいことや嬉しいことを成し遂げてくださる」と考えてしまうということです。そのため、いつまで経ってもそのような「楽しく嬉しいこと」が起こらないと、「こんな神様を信じていても少しも得になることはない。や~めた!」と神様に背を向けてしまうことになりかねません。

 この聖書の言葉は、「人間的視点」ではなく、『神の視点』で読み取るべきです。私たちの地上における歩みにおいて、真の意味での『(英語では『Good』)』とは、単に「得をする」ということではなく、「キリストに似た者となること」です。神は私たちの人生の日々の歩みの中に、いつも必ず私たちを「キリストのように造り変える」ための要素をちりばめてくださっているのです。そして多くの場合それらは『試練』という形をとって訪れてきます。それらの『試練』は、私たちの性質や考え方から「神の国にふさわしくないもの」を取り除く役割を果たそうとします。そのような時に神の前にへりくだり、素直な心で「握りしめていた古い習性を手放す」時に、私たちの内に『キリストの心』が形造られて行くのを体験するのです。

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