聖書全体を通して最も強調されている価値観が『愛する』ということだということは、多くの方々がご存知ではないかと思います。しかし、こうも思われるのではないでしょうか?「そもそも『愛する』なんていうことは、誰に対してもできることではない。聖書は「敵さえも愛しなさい」というが、一体どうやって自分と考えを異にする人や、自分に対して嫌なことをする人たちを愛することができるというのか!」

 こう考えるのはもっともな事ですが、実はそこには少し思い違いがあります。まず『愛する』ということは「感情」ではなく、「意志による選択だ」ということです。たとえ相手の事が気に入らなくても、そんな気持ちに左右されることなくその人にとって益になることをする。それは決して「偽善的」ではなく、「愛の行為」なのです。また、もし「愛すること」が『選択』なのだとしたら、私たちは「愛せない」のではなく、実は「愛したくない」のです。

 「ナルニア国物語」などの著書で知られるクリスチャン作家『C.S.ルイス』は次のような興味深い言葉を残しています。

「私は、しばしば私には納得の行かないことをしてしまう『ある人』を愛することを止められない。私は、私にとって不快なことをついやってしまう『ある人』を受け入れないではいられない。私は、私が心から愛している人々を傷付けてしまうことがある『ある人』を赦さずにはいられない。その『ある人』とは、『自分自身』のことである。ならば何故私にとって『心からは同調できない人々』を決して愛することはできない、などと言えるだろうか?」

 神は『愛』です。それ故神は、私たちが「愛せない」と感じる人々を愛することができるように助けることができるのです。

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