聖書は、神が私たち人間をそれぞれ『神の作品』としてお造りになった、と記しています。『作品』は「製品」と違って1つ1つがユニークに造られています。それは目的や役割が違うからです。つまり神様は私たち人間を1人1人「違った目的や役割を持つ存在」としてお造りになっている、ということです。ですから、私たちが他の人を羨んで「どうして私はあの人のようにできないのだろう?」とか、親が自分の子に向かって「どうしてあなたはお兄ちゃんやお姉ちゃんのようにできないの!」などと言ったり考えたりするのは、根本的に間違っているのです。
神は無駄なことをなさる方ではありません。全ての人は、神ご自身の「ユニークな目的・使命」を帯びて造られました。ですから世界には誰1人「要らない存在」などありません。では、一体どのようにして「神が自分に与えておられる使命」なるものを見出すことができるのでしょう?
私たちがこの世の価値観に立って「自分の才能・賜物」といったものを考えるとき、大抵頭の中にあるのは『自己実現のためのツール』としてです。しかし神が私たちをお造りになられたとき、敢えて「1人では生きられないように」お造りになりました。それは私たちが互いに助け合い、支え合いながら生きるようになるためです。すなわち「神の目的に従って生きる」とは、「自分はどのように他の人の役に立てるのか?」ということを考えながら生きるということなのです。他の人が自分とは違った意見を持っていて「意見の衝突」が起こる時、それは「お互いを離れ離れにさせるため」ではなく、かえって「互いの足りない所を補い合うため」なのです。自分の不得意分野を他の人が上手にできるのを見る時、それは「妬みの種を生むため」ではなく、「相手に援助を願い出るため」なのです。
ぜひ『人真似』をしようとするのではなく、『自分らしさ』を追求してみましょう。そして「自分の得意なことや、喜んでできること」が何なのかを突き止め、それらの助けを必要としている人々に手を差し伸べましょう。その時あなたは「神に造られた喜び」を体験するようになるのです。
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