キリスト教で最も大切な教えは、「愛すること」であると言われます。『愛』という言葉は現代であればどこでも用いられていますが、ほとんどの場合それは「男女の恋愛感情」を表現するものではないでしょうか。もし『愛』という言葉の真意がそのような「感傷的」なものであれば、キリストは『戒め』として「愛すること」を人々に命じたりはしないはずです。「愛すること」が命じられなければならないのは、それが「自然な感情として内側に湧き起ってくるもの」ではなく、「敢えて自らの意志で選び取って行かなければならないもの」だからに違いありません。

イエスは次のようにも人々に勧めました。「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者たちに善を行いなさい」と。ここで気を付けなければならないのは、神は私たちに「無理な要求をしている」のではなく、「日々神の助けを受け取りながら生きること」を求めておられるのです。「敵を愛すること」も、「他の誰かを真実な愛(キリストが私たちを愛されたような愛)で愛すること」も、私たちが自然にできることではないのです。

多くの国々や文化(日本も含む)において「親同士が決めた結婚」というものがあります。時には「結婚式当日まで、新郎と新婦が1度も会ったことがない」というケースもあるわけです。一体そんな風に結婚して、夫婦として長続きするのでしょうか?ところが統計によると、このような形態の結婚の方が、いわゆる『恋愛結婚』で結ばれるよりも何倍も「破局に陥る可能性が低い」のです。それは何故でしょう?

インドのある部族の若い女性が、全く会ったことのない男性と結婚することになったそうです。ある日結婚相手の男性から「結婚式の前にぜひ1度お会いしませんか?」という手紙が届きました。しかし彼女はその申し出を断って、次のような返事を書きました。「私は、『真の愛』というものは、結婚前に形作られるものではなく、結婚した後に育てて行くものだと信じています。私たち人間が生まれる時、私たちは父や母、そして兄弟たちを前もって選ぶことはありません。でも生まれた後で、共に暮らしていく中で『家族愛』を育んで行くではないですか。私は『夫婦愛』もそういうものだと思います。」

前にも書いたように、神は私たちに無理強いをなさっておられるわけではありません。人間は本来「愛し合う存在」として造られたのです。それなのに、私たちが神を離れ、神を忘れ、自分の心の赴くままに自分勝手に生きるようになってしまったがために、『愛すること』さえも「自分の欲求を満足させるための口実」へとおとしめてしまったのです。キリストはこの『愛する』ということを、本来の高潔さへと引き上げるために、世に来てくださったのです。

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