ある方がこんなことを言っているのを聞いたことがあります。「私は自分が知的に納得できること以外は認めたくありません。ですから『神の存在』なんて決して信じることはできません。」 ちょっと聞くと、なるほどもっともだ、と感じられるかもしれませんが、私は全く逆のことを考えます。すなわち「もし神が私の知性で納得できてしまうようなちっぽけな存在であったら、そんな神なんて私は要らない」ということです。私のこの限られた頭で知ることができてしまうような神は、もはや神でも何でもありません。単なる『想像の産物』です。そんな神は当然頼るに値しないし、そのような神がこの全宇宙を支配していると考えるなんて、あまりにも浅はかに思えませんか?

 英語には『大文字』と『小文字』があって、普通名詞には『小文字』が用いられ、固有名詞には『大文字』が用いられます。そして聖書の神はGodと表記され、その他の神々はgod(s)と表記されます。その2つには決定的な違いがあります。すなわち前者は「人間[]造った唯一の存在」であり、後者は「人間[]造ったどこにでもある存在」なのです。この全宇宙と私たち人類をお造りになった『創造主なる神』は、当然私たちの人間的な知恵によって極め尽くすことはできません。しかし私たち人類が造り出した(考え出した)神は、私たちの『想像の産物』ですから、私たちのイマジネーションによってどんなイメージにもなり得る「都合の良い」神なのです。そういう神を求めている人もいるのかもしれませんが、私は遠慮させていただきます。私が求めているのは「正真正銘の『真の神』」だけなのですから。

 では、一体どうやって人間は『真の神』を知り得るのでしょうか?その可能性はたった1つ、神ご自身の側で私たちに知らせようとする場合のみです。もし神ご自身がそう望んで行動を起こされるなら、私たちが『真の神』を心から求めようとする時に、彼を見出すチャンスがあるに違いありません。そして神はそれをなさったのです。それが、何千年も前から人類に与えられている『聖書』であり、また「人となられた神、『イエス・キリスト』」なのです。この「神が自己紹介なさっておられる実体」を無視して、自分の小さな頭で一生懸命に知的努力を重ねて考え出した『神概念』、それはその人を満足させることはできても、『本物の神』とは遠く離れた存在でしかないのではないでしょうか?

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