この天地をお造りになり、私たち人間1人1人にいのちをお与えになった『創造主なる神』は、そのすべてをこよなく愛しておられます。それ故神は、それらすべてを祝福し、慈しみ、聖書のことばを借りるなら「良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」のです。
私たち人間は『自己中心的』な存在なので、自分に意地悪をしたり都合が悪い人などがいるとつい、「神様、あの人に罰を与えてください!」などと祈ったりしますが、とても幸いなことに神は「気分屋」ではないので、私たちのそんな気まぐれな祈りにいちいち答えることはありません。(さもなければ、私たち自身も相当頻繁に『ひどい目』に遭ってしまうことでしょうね!)
では神には『感情』のようなものは全くないのでしょうか?ある人々が考えるように、神は何か『法則』のような存在で、ただ機械的に天体を規則正しく運行させたり、悪い習慣に悪い報いが起こるように設定しておられるだけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。聖書をよく読むならば、あちこちに神が「怒って」おられる様子や「悲しんで」おられる様子、そして「喜んで」おられる様子が描かれています。
では、神は一体どのようなことを「喜ばれる」のでしょう?それは、私たちの『信仰』です。信仰というのは何も「ありもしないことを、あるように思い込むこと」ではありません。むしろ「何よりも確かな存在である『人格的な神』がおられること」を素直な心で認めることです。そしてこのお方が日々注いでおられる『愛と恵み』に対して目が開かれ、心を通わせながら生きようとする私たちの「信仰の姿勢」を、神は喜んでくださるのです。
『信仰』とは、いわば「心の向き」です。例えば雨の日にコップを持って外に出たとしましょう。コップの口を上に向けておくなら、雨水はやがてコップの口いっぱいにまで溜まります。しかしコップが傾いていれば十分に溜めることはできないし、逆さまに伏せてしまっていたら雨水は一滴もコップに入ってはきません。同じように、神は「神とのふれ合いを求めて、心を真っ直ぐに神に向けて生きる者」を喜ばれ、他の人たち以上にご自身の祝福を与えずにはいられない方なのです。
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