聖書
(607) “人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高いところにかくまわれる。”
私たち夫婦は一緒にドラマを観るのが好きで、特に韓流ドラマをよく観ます。すると大抵ストーリーの中で主人公が自分を守ろうとしてその場しのぎのちょっとした『嘘』をつき、その時にごまかしたことを正当化するために、また別の『嘘』をついて、そうこうしているうちに『嘘』が雪だるま式に膨れ上がって行って、やがて窮地に立たされる場面が登場します。 私たちの人生にも同様なことが起こることがあります。誰かに問い詰められた時、反射的に自己防衛本能が働き、つい心にもない『嘘』をついてしまい、そのまま引っ込みがつかなくなって、その嘘を正当化するためまた別の『嘘』をついてしまう。そうやって「親子関係」「夫婦関係」「友人関係」などの大切な人間関係を壊してしまうのです。 このような傾向は実は子供の頃から身に付くものです。というのは、親なら誰でも自分の子供が「立派で正しい人間」に育って欲しいと思いますから、それなりに厳しく育てますよね?危ないことや誤ったことをしようとした時には叱り、時には体罰を与える時もあるでしょう。もちろん子供たちはそのような経験を通して「してはいけないこと」を学ぶと思いますが、人間ですから「やりたいことを我慢できない時」もあります。そうしてつい親に叱られるようなことを(親に見つからないように)してしまった時、親が「これをやったのはだぁれ?」と訊かれても、「自分じゃない」と『嘘』をつくわけです。そしてそれが徐々に習慣になってしまうことが少なくありません。 ところで、人は誰かから言われるよりも、自分で痛い目に遭った方が深く学ぶものだと思いませんか?そしてふと立ち止まって考えてみると、親が禁止していることを子供がしてしまった時にただ厳しく叱るよりも、子供たちに敢えて失敗させて自分で痛い目に遭わせる方が効果的な教育になることが結構多いことに気付きます。実は私も親にそのようにしつけられて学んだ教訓が多くあります。 神様はしばしば私たちが『人生の試練』を経験するのを許されます。それは神様が意地悪だからではなく、そのようにして私たちが日々学び、成長することを願っておられるからです。そして神様は、私たちが「人の目を恐れて引っ込み思案に生きる」のではなく、「神に信頼して大胆に行動し、また時には失敗を通して学ぶ者」となるように願っておられるのです。