2025年3月30日 「『神の恵み』に思いを馳せる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「『神の恵み』に思いを馳せる」    (30/03/2025) [ピリピ人への手紙4章4~7節] ◆クリスチャンはひと味違う!(4~7節)  ・ここには「いつも」(4節),「すべての人に」(5節),「何も・あらゆる場合に」(6節)など、『無制限』を表す言葉が立て続けに登場する。命令形で書かれてはいるが、これらはすべて「神によってのみ成就されること」である。  ・例えば「主にあって喜ぶ」とは、「キリストとの関係の故」「キリストの十字架によって『神の子』とされた故」「キリストが、ご自身の『花嫁』として選んでくださった故に」ということ。考えれば考えるほど喜びが湧き上がってくる! ◆驚くべき恵み(4節)  ・どうやったら「何も思い煩わない」でいられるのか?そもそも私たちはどうして思い煩うのか?実は「思い煩い」は神からの『祈りへの招き』である。言い換えるなら、『思い煩い』は「物事を『恵みの神』抜きで考えている結果」。  ・「あらゆる場合に、『感謝』をもってささげる祈りと願い」とある。『感謝』というのは、「神の恵み」に焦点を当てることによって湧いてくる。これが、『神の恵み』というものに慣れ過ぎてしまって「当たり前」のように感じてしまっていると、たちまち『感謝』が失われてしまう。私たちが神から受けているものに『当たり前のもの』など何もない!  ・ここでは「願い事が必ず叶う」とは約束されていない。しかし「キリスト・イエスにある平安」は保証されている。『神の恵み』に思いを馳せる時、「思い煩い」は消え、『神の平安』が心に満ちるのである。[ローマ8:31-39] 今日の要点: 『神の恵み』を数えよう! ◎更に深い学びのために  ①自分がクリスチャンになる前となった後を比べてみて、「物事の捉え方」の変化に思いを馳せてみましょう。  ②どんなことを思い煩ってしまうことがありますか? その時のあなたの「思いの中心」はどこにありますか?  ③キリストと出会った後で経験した「人生の3大恵み」をリストアップし、天の父の恵みに感謝をささげましょう! Outline of the sermon     “Ponder on ‘God’s grace’.”     (30/03/2025) [Philippians 4:4~7] ◆Christian life is outstanding!(Verses 4~7)  ・Here are some unlimited words like; “always, everyone, anything, and in everything”.  Our life in Christ is outstanding because Read more…

(606) “神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。”

 ルネサンスの時代に、優れた芸術家・彫刻家として活躍したミケランジェロに関して、次のような逸話が残されています。  ある時、ミケランジェロが1つの彫刻作品を削り始める前に、材料となる大理石をじっと見つめている様子を隣りで見ていた友人が、「おいミケランジェロ、キミはいつもどうやってあんなに素晴らしい作品のアイディアを思いつくんだい?」と尋ねました。するとミケランジェロは、こう答えたそうです。「いや、ボクが良い作品の構図を思いつくわけじゃない。こうして祈りつつ大理石を見つめていると、大理石の中に閉じ込められている作品が見えてくるんだ。ボクはただ、その作品をこの大理石の檻から解放してあげているだけなんだよ。」  聖書には、「神は私たち人間を『ご自身のかたち』に創造された」と書いてあります。もちろんそれは、「神には人間のような目鼻がある」という意味ではないでしょう。恐らくそれは、「人間1人1人の内に、神の麗しさ、神の優しさ、神の力強さ、神の知恵、神の聖さなど、『神の栄光を表現する要素』が秘められている」というような意味なのだと思います。  聖書の別の箇所には、「神は人を『ご自身の栄光を現すため』に創造した」とも書かれています。そして私たちの内にあるそれらの「神の栄光を表現する要素」は、ミケランジェロが言った『大理石の中に隠された傑作』のように、祈りと共に発掘されるべきものなのではないでしょうか?  私たちの人生の最大の課題は、この「自分の内に秘められている『神のかたち』」を、神への祈りのうちに見出し、日々その『発掘作業』に精を出し、自分を通して現される『神の栄光』を体験して、喜び感謝することであるに違いありません。

2025年3月23日 「主にあって」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「主にあって」   (23/03/2025) [ピリピ人への手紙4章1~3節] ◆『主にあって』とは?(1節)  ・パウロは彼の手紙の中で「主にあって」「キリストにあって」という表現を40回以上も使っている。彼にとって『クリスチャン』とはまさに「キリストにあって歩む者」であった。「キリストにある歩み」とは、「自分はこう思う、こうしたいから…」ではなく、「私の主イエスが望んでおられるから」という理由で選択・行動する、言わば『愛による選択』。  ・主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように(ヨハネ13:34)」とおっしゃった。つまり「主にあって歩むこと」は、キリストの愛を個人的に受け取り、日々経験しているのでなければできないこと。その愛とは、十字架で身代わりに死なれた愛、すなわち「この世のものを用いて自分を喜ばせることを放棄した愛」である。[ヨハネ15:5] ◆一致できない理由(2~3節)  ・ピリピの教会にさえも、一致できないでいる人々がいた。彼らはパウロと共に「福音のために戦った人たち」であった。この点では一致できていたのなら、きっと一致できないでいたのは些細なことであったに違いない。パウロ  はここでも「『主にあって』同じ思いになれ」と言っている。「同じ思いになれない」のは、『自己実現』にこだわるから。つまり「キリストが主」ではなく、『自分』が主人公になってしまっているのである。パウロは「自分は世に対して  十字架にかけられた(ガラテヤ6:14)」と言った。互いに協力し合い、助け合いながら「主にある歩み」をして行こう! 今日の要点: 「キリストにあって」 選択する ◎更に深い学びのために  ①「キリストにあって」とは、どんな意味ですか? またパウロはどうしてこの表現を多用したと思いますか?  ②[ヨハネ15:5]でイエスが言われた「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」とは、どういうことでしょう?  ③どんなものが「キリスト者の一致」を妨げますか? また、どのようにしてそれらを避けることができますか? Outline of the sermon     “In the Lord.”     (23/03/2025) [Philippians 4:1~3] ◆What is “in the Lord” like?(Verse 1)  ・In his letters Paul used the expression like “in the Lord” “In Christ” over 40 Read more…

(605) “やめよ。知れ。わたしこそ神。”

 日本に初めてキリスト教が伝えられてから500年近く経っているのに、日本におけるクリスチャン人口は相変わらず1%未満です。宗教の自由が謳われている国でありながら、日本ではどうしてこれほどにキリスト教が普及しにくいのでしょうか?  実は日本において何度かキリスト教が大きく普及しそうだった時期がありました。1度目は安土桃山時代。すなわち、フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が初めて伝えられてまもなくの頃です。この機会が失われてしまったのは、豊臣秀吉、また徳川幕府による厳しい迫害が大きな理由だと思われます。  もう1つの機会は、第2次世界大戦直後です。敗戦のショックと、昭和天皇の『人間宣言』によって精神的な拠り所を失った日本人が絶望してしまうことを憂い、マッカーサー元帥は「1000人のキリスト教宣教師」をアメリカから招聘したそうです。この時代の人々、私の祖父・祖母の年代の多くの人々が「幼い頃に歌った賛美歌」を覚えています。では何故以前のような迫害も無かったこの時代、キリスト教が一気に普及することがなかったのでしょうか?それは、その直後に日本が成し遂げた『高度経済成長』の影響だったと考えられます。  戦中・戦後のひもじい暮らしを乗り越えた人々は、この経済復興によって「これで以前のような貧しい暮らしから抜け出せる」と大興奮し、娯楽や寝る間も惜しんで熱心に働き続けました。結果として日本は素晴らしい経済成長を遂げることができました。そのこと自体は有難いのですが、その代わり人々の心を捕え始めていた「神への信仰」は、どこかへ吹き飛ばされてしまったのです。そして未だにこの「忙しさが、神を求める心を阻んでいる状態」は継続されているわけです。  「神なんかどこにもいやしない!」という表現を英語で表すと「God is nowhere!」となります。しかし面白いことに、この最後の単語『nowhere』の間にちょっとしたブレイクを入れると『now here』になり、「God is now here」(神は今ここにおられる)という表現に変わるのです。忙しさに振り回されて『心(忄)』が「滅び(亡)て」しまっている状態で「神なんかいない」とつぶやいてしまいがちな時、ちょっとした静かな時間を取って心を休ませるなら、きっと「そこにおられる神」を見出すことができるのではないでしょうか?

2025年3月16日 「パウロの信仰に倣う」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「パウロの信仰に倣う」   (16/03/2025) [ピリピ人への手紙3章17~21節] ◆『キリスト者』とは?(17~19節)  ・ここで「キリストの十字架の敵」と言われているのは、次の2つのグループが考えられる。   ①律法を守ることを強調するユダヤ人クリスチャンたち  ②この世の快楽に興じている未信者たち  ・そもそも『クリスチャン』とは誰なのか?『クリスチャン』という呼称は「自称」ではなく、周囲の人々が「あの人たちは『キリスト、キリスト』ばかり言っている、『キリスト野郎』だ!」と評したことから始まった。『神の国』と「この世の  習慣」とに二股かけたような歩みをしている者ではない。私たちはどうであろうか? ◆まだ見ていないものを待ち望む(20~21節)  ・「待ち望んでいる」は、まだ見ていないから。イエスは「見ないで信じる者は幸いだ」とおっしゃった。『信仰生活』が「神との関係に生きること」であるなら、『信仰』とは言わば「神(キリスト)に対する信頼」である。そしてそれは日々培われるものでもあり、「将来を託す」という面もある。そして「相手をどれくらい信頼しているか」は、万が一裏切られた時に「どれだけガッカリするか」によって計ることができる。  ・パウロは正にこれを経験した。彼は自分の歩みが間違いだと気付いた時、どれほどの挫折を経験したことだろ  う。そこから立ち直った彼が「私に倣う者となってください(17節)」と言った。恐れず更に神に信頼して行こう! 今日の要点: どこを見ているかを吟味する ◎更に深い学びのために  ①『クリスチャン』とは、どんな意味ですか? その意味では、あなたは『クリスチャン』だと言えますか?  ②「まだ見ていないものを信じて待ち望む」ということは、どのようなリスクが伴うでしょう?  ③パウロが「私に倣う者となってください」と言った時、彼の心の中にはどのような思いがあったと思いますか? Outline of the sermon    “Let’s imitate Paul!”    (16/03/2025) [Philippians 3:17~21] ◆Who is “A Christian”?(Verses 17~19)  ・What kind of people are “enemies of the cross of Christ”? Possibly we can think of the Read more…

(604) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 英語にこんな言い回しがあります。「We can sacrifice without love, but we cannot love without sacrifice」 日本語に訳すと「愛がなくても犠牲を払うことはできるが、犠牲を払うことなしに愛することはできない」となるでしょうか。前回も申し上げたように『愛』は感情ではなく「意志による選択」です。そしてそれは「相手の益のために敢えて犠牲を払うこと」なのです。  確かに、誰かを真実に愛するなら、その人のために払う犠牲は、他の人たちのために払うほど重荷ではなくなります。しかしどんなに愛情深い人でも、一方的に犠牲を払い続けたら、いつかは破綻してしまいます。時には『受け取ること』が必要です。  『育児ノイローゼ』になる若いお母さんたちがいます。恐らくその1つの大きな原因は、赤ちゃんに愛を注ぎ出す(犠牲を払い続ける)ばかりで、そのことを評価してもらったり、励ましや慰めを『受け取る』機会が無いからなのかもしれません。  聖書は「私たちが愛することができるのは、まず初めに私たちを愛してくださっている『神』がいるからだ」と教えています。聖書の有名な言葉に『神は愛です』という言葉があります。これは単に「神は愛で満ちておられる」ということではなく、「神の愛はどんなに注ぎ続けても尽きることがない」という意味であり、また「この『神の愛』を日々受け取っているならば、この『愛』はその人の内側で泉のようになって、周囲の人々に溢れ流れ出るようになる」ということでもあります。  この神の愛は、私たちとご自身との架け橋としての「ひとり子イエス・キリストの身代わりの死」という形で現わされました。このキリストを通して現された『神の愛』を受け取ることで、私たちも「愛する人」へと変えられて行くのです。

2025年3月9日 「私たちのレース」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「私たちのレース」    (09/03/2025) [ピリピ人への手紙3章12~16節] ◆キリスト者のレース(12~14節)  ・この世におけるレースは「賞を勝ち取るために参加する」のだが、私たちの『信仰のレース』は「私たちに賞を得させるために、神が参加させてくださる」もの。すなわち「神がキリストにあって『選んで』くださった」。[イザヤ43:1b]  ・このレースを完走するためには、過去のものは助けにならない。ひたすら「前に向かって」進む。 *神が私たちに与えようとしておられるものは、後ろには無い! ◆私たちのゴール(14節)  ・では、この「賞・目標(ゴール)」とは何なのか?それは『キリストご自身』。[Ⅰコリント13:12] 言い換えるなら、神は「救いにふさわしくない私たち」をキリストにあって選び、「救いにふさわしい者(キリストのかたち)」へと造り変える。  ・2歳児の徒競走では父兄がゴールに立つ。なぜなら幼子は「ゴールや賞品」には興味はなく、大好きな家族の許  へなら喜んで走って行くから。イエスは「幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっ  た。私たちも『主イエスご自身』を何よりも欲するのでなければ、このレースを心の底から楽しむことはできない。  ・私たちは「ゴールすることが決まっているレース」を走っている。しかしそのレースをより楽しく有意義なものとするために、更にこの『イエス・キリスト』というお方を知って行こう! 今日の要点: 一心に『キリスト』を目指す ◎更に深い学びのために  ①私たちの「信仰の歩み」と「レース」との共通点は何ですか? また「この世のレース」との相違点は何でしょう?  ②何故「神が私たちに与えようとしておられるもの」は、私たちの『後ろ』には無いのだと思いますか?  ③私たちのレースの終着点は何ですか? それは今のあなたにとって、どれくらい魅力がありますか? Outline of the sermon    “Our race of faith.”    (09/03/2025) [Philippians 3:12~16] ◆Our race.(Verses 12~14)  ・We participate in the race of this world to win the prize.  But for our Read more…

(603) “あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。”

 聖書全体を通して最も強調されている価値観が『愛する』ということだということは、多くの方々がご存知ではないかと思います。しかし、こうも思われるのではないでしょうか?「そもそも『愛する』なんていうことは、誰に対してもできることではない。聖書は「敵さえも愛しなさい」というが、一体どうやって自分と考えを異にする人や、自分に対して嫌なことをする人たちを愛することができるというのか!」  こう考えるのはもっともな事ですが、実はそこには少し思い違いがあります。まず『愛する』ということは「感情」ではなく、「意志による選択だ」ということです。たとえ相手の事が気に入らなくても、そんな気持ちに左右されることなくその人にとって益になることをする。それは決して「偽善的」ではなく、「愛の行為」なのです。また、もし「愛すること」が『選択』なのだとしたら、私たちは「愛せない」のではなく、実は「愛したくない」のです。  「ナルニア国物語」などの著書で知られるクリスチャン作家『C.S.ルイス』は次のような興味深い言葉を残しています。 「私は、しばしば私には納得の行かないことをしてしまう『ある人』を愛することを止められない。私は、私にとって不快なことをついやってしまう『ある人』を受け入れないではいられない。私は、私が心から愛している人々を傷付けてしまうことがある『ある人』を赦さずにはいられない。その『ある人』とは、『自分自身』のことである。ならば何故私にとって『心からは同調できない人々』を決して愛することはできない、などと言えるだろうか?」  神は『愛』です。それ故神は、私たちが「愛せない」と感じる人々を愛することができるように助けることができるのです。

2025年3月2日 「主にあって喜ぶ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「主にあって喜ぶ」    (02/03/2025) [ピリピ人への手紙3章1~11節] ◆『主にある喜び』を妨げるもの  ・[2節]の「犬ども・悪い働き人・肉体だけの割礼の者」は同じ人々を指す。すなわち「信じるだけでは救われない。ある程度律法(特に『割礼』)を守ることが必要」と言う人たち。しかし「救いの条件」として『行い』を付け加える人たちは必ず「己れを誇ろう」とする。そこには『束の間の喜び』はあっても、神の国から来る『主にある喜び』を経験することは決してない。実際『割礼』は「救いの条件」ではなく、『神の民のしるし』として与えられた。今や『神の民のしるし』は、『割礼』ではなく、「己れに頼らず、キリストを誇る生き方」のことである。 ◆『主にある喜び』の源  ・パウロは自分の体験を通して、「律法を守ること」ではなく、『キリストを知ること』こそが「神に近づく唯一の道」であることを確信した。[ローマ10:4] また、キリストが死なれ「神の力によってよみがえられた」のは、単に「私たちの贖いのため」だけでなく、私たちも「自分に頼る」という己れが1度死ななければならないことを、身をもって示すためであったと知った。自我が生きている限りは、「肉の喜び」がいつも『主にある喜び』を見えなくさせている。  ・『主にあって喜ぶ』とは、「神がしてくださったこと(状況の変化)」を喜ぶのではなく、「神が私たちに施してくださっている『内なる変化』(日々増し加えられる神への愛と信頼)」を喜ぶことなのである。今日の要点: 『主にある喜び』を求め、また味わおう! ◎更に深い学びのために  ①『割礼』にはどんな意味があるのですか? 今はどうして『割礼』は必要ないのでしょう?  ②『主にある喜び』を妨げるものには、どんなものがありますか? どうしてそれらのものが妨げになるのですか?  ③パウロの証しから学べることは何ですか? あなたも同様の事を体験を通して学んだことがありますか? Outline of the sermon    “Rejoice in the Lord.”    (02/03/2025) [Philippians 3:1~11] ◆What hinders us from rejoicing in the Lord?  ・“Dogs, evildoers, those who mutilate the flesh”(Verse 2) all of these indicate same type of Read more…