(597) “あなたがたは、…神の家族なのです。”

 2024年も終わりに近づきました。皆さんの『今年のハイライト』は何でしたか?「特に何も無かったなぁ」という方もいれば、「今年はこんな特別な体験をした!」という方もいらっしゃるかもしれませんね。  私たち夫婦にとっての『今年のハイライト』は、何といっても「末息子の結婚」、そして「8年ぶりのファミリー全員集合」でした。クライストチャーチに住む長男夫婦、日本の長野県で暮らす娘家族、そして新婚の末息子夫婦を含めた総勢10人が、娘の自宅近くのエアB&Bに集合し、2泊3日を共に過ごしました。初日の夜はご馳走を囲んで「飲めや歌えの大騒ぎ」でしたが、2日目の夜は、渋沢ファミリー名物の『家庭礼拝』を、このメンバーで初めて行い、言いようのない『幸福感』を味わいました。  ニュージーランドと日本では文化や習慣の点でいろいろな違いがありますが、年末年始になる度にしみじみ実感させられることがあります。それは、日本ではどちらかと言えば「クリスマスは恋人と、お正月は家族と過ごす」という傾向があるのに対し、ニュージーランドでは「クリスマスは家族と、そしてお正月(大晦日)は恋人と」という傾向が強いということです。ですから日本の「年末年始の交通渋滞」に対し、ニュージーランドではクリスマス・シーズンに飛行機の値段が高騰します。何故ならニュージーランド人は家族が海外で暮らしている場合が多く、家族が集合するために国外のあちこちに出かけたり、帰国したりするからです。  クライストチャーチ在住の日本人たちも、離れて暮らす家族に会いに行くためにこのシーズンに一時帰国する人が多いですが、もちろん様々な都合でそれが叶わない人もいます。そんな人々のために、私たちは『神の家族』としてクリスマス・シーズンにホームパーティを開き、一緒にご馳走を食べます。クリスチャンたちの間では、時にはそんな『神の家族』が「血のつながった家族」よりも絆が深められることもあります。何故なら『血縁関係』はこの地上に生きている間だけですが、『神の家族の霊的関係』は、永遠に続くからです。

(596) “人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。”

 クリスマスのシーズンがやってきました。巷ではクリスマス・キャロルが流れ、お店はより良いクリスマス・プレゼントを捜す買い物客で大賑わい。ここニュージーランドでは、『クリスマス・デー(25日)』はほぼ全てのお店がお休みなので、今日(24日)が混雑のピークです。  多くの方々が「『クリスマス』は、キリストの誕生を祝う記念日だ」ということをご存知ですが、私たちクリスチャンにとっては少しニュアンスが違います。「キリストの誕生を祝う」というよりも、「神が人々を憐れんで、人間の姿をとって地上に現れたことを覚え、祝う」といった感じです。「『神が人となる』なんてあり得ない、バカバカしい」と考える方々もいると思いますが、それが聖書が伝えていることなのです。  では、何故神がわざわざ人間になって地上に現れたのでしょう?聖書は「失われた者を捜して救うため」と書いています。すなわち、私たち人間は本来「神の愛と支配の許、神との親しい関係の中で生きる存在」として創造されたのに、神の許を離れ、この世の『欲』に翻弄されてさまよっている。そんな私たちを「もう1度ご自身との関係の中で豊かに生きるように」と招くために、人の姿をしてこの世に来られたのです。  「だったら、『人間になる』なんてややこしいことをしないで、天から大きなスピーカーか何かで呼びかければいいじゃないか」と思われる方もいるでしょう。確かにそういう方法を取ることもできたかと思います。しかし神は、ご自身の『愛』や『あわれみ』を、私たちにとって1番分かりやすい形で示すためには、「人となって現れる」のが最善であると判断したのではないでしょうか?  あなたは、既に「神に見い出された者」ですか?もしそうでないなら、このクリスマス、「神様、私を見つけて、憐れんでください」とお祈りしてみてはいかがでしょうか?

2024年12月22日 「私たちの戦い」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「私たちの戦い」    (22/12/2024) [ピリピ人への手紙1章27~30節] ◆福音にふさわしい生活 (27節前半)  ・「キリストの福音にふさわしく生きる」とは、「ガンバって立派な行いをする」ということではなく、「受けるに値しない『驚くべき救い』が与えられていること」を深く理解し、それに素直に応答して生きること。非常に簡単に聞こえるのになかなか実践できないのは何故か?それは『この世』においてそれを邪魔する力が働いているから。 ◆私たちの戦い (27節後半,30節)  ・主イエスは「世にあっては苦難がある」(ヨハネ16:33)とおっしゃった。それは「この世の王である悪魔」が私たちの『キリストにある歩み』を妨害しようとするから。この『共通の敵』を認識することは、私たちが「1つとなって」歩むことの大きな助けとなる。  ・「キリスト者となる」とは、ある意味「神の敵であった者が、神の側に寝返る」(ヤコブ4:4)ということ。当然『世』は、そんな私たちを憎み、敵対してくる。実際に『世の人々』を通して対抗してくることもあるが、厄介なのは、私たちの内面に起こる「この世に順応して生きたい」という誘惑。この戦いに勝利するための秘訣は、『明け渡し』。この戦いは「私たちの戦い」ではなく、「主の戦い」である。主イエスに人生の主権を明け渡し、日々御霊のささやきに耳を傾けつつ『神の家族』と共に歩む時、肩の力が抜け、主の平安に満たされ、主の働きを体験するようになる。 今日の要点: 「一緒に世に対抗する『教会』となる」 ◎更に深い学びのために  ①「キリストの福音にふさわしい生活」とは、どのようなものですか? それはどのようにして実現しますか?  ②私たちは「この世にあって」、どのような戦いを経験しますか? 何故そのようなことが起こるのでしょう?  ③あなたが人生を「キリストの主権」に明け渡すのを妨げるものは何ですか? 今主の前に出て祈りましょう。 Outline of the sermon     “‘Our battle in this world.”     (22/12/2024) [Philippians 1:27~30] ◆In a manner worthy of the gospel. (Verses 27a)  ・What is “in a manner worthy of the gospel”?  Work hard Read more…

(595) “風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。”

 物事に慎重であるのは悪いことではありません。しかし慎重でありすぎるあまり、「完璧な状況が整うまでは何もしようとしない」のは、単なる『怠け者』かもしれません。もしかすると、『夢の実現』に辿り着くための最大の障害は、「もう少し暇ができたら…」「もう少しお金が貯まったら…」「この問題が解決したら…」という言い訳がましい理由付けなのではないでしょうか?  ある意味では、「完全に準備が整った人物」など、世の中には存在しません。歴史上で偉大な功績を残した人々のほとんどは、逆境の中で一筋の可能性に全力で取り組んだ人たちです。テレビ番組で多くのヒット作を手掛けたあるプロデューサーは次のように言いました。「振り返ってみると、どんなに見通しが高い作品でも、せいぜい成功率は50%くらいだった。ただ、それっぽっちの成功率ではあっても、そこにはいつも困難に立ち向かおうとする勇敢な仲間たちがいた。」  神様は敢えて私たちを「1秒先も正確に予測できない存在」として創造されました。それは私たちが「神ご自身に信頼を置く者」となるためです。「神に信頼し、神と共に夢を追いながら生きる」、これがまさに『人間らしい生き方』と言えるのではないでしょうか?

2024年12月15日 「キリストがあがめられるため」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「キリストがあがめられるため」    (15/12/2024) [ピリピ人への手紙1章20~26節] ◆パウロの葛藤 (20,23~24節)  ・牢獄の中で生死が危うい中でもパウロには喜びがあったが、同時に「キリストにあって」1つの葛藤もあった。  ①死んで、さっさと天国に行き、キリストと永遠に過ごしたい(パウロ自身の心の願い)  ②自分を通してキリストを知り、信仰を前進させる人々のために生き残りたい(他の人を思いやるが故の願い)  ・正直なところ、キリストを信じてからの方が、この世においては試練が多い。つまずきだって起こる。「いっそクリスチャンになってすぐに天に召されてしまえば良いのに…」と思えなくもないが、それでは宣教のわざが進まない。 ◆パウロの確信 (25節)  ・パウロは何故、確信をもって「私は生きながらえると知っている」と言えたのか?それは、「自分の人生はもはや自分のものではなく、キリストのものだ」との献身の故。パウロは次のように言っている。[Ⅱコリント5:15]  ・パウロは「人生を通して『キリスト』が現されること」が全てのキリスト者にとっての最大の特権であり祝福であると確信していた。そしてそのような体験は「地上にいる時にしか味わえない」ということも。[ピリピ3:10-12] 私たちは 『ゲッセマネの祈り』は「キリストにしかできない祈り」と考えがちだが、実は私たちに求められている祈りでもある! 今日の要点 「ゲッセマネの祈り」 ⇒ 「キリストを愛する者の祈り」 ◎更に深い学びのために  ①投獄中の「パウロの心の葛藤」はどのようなものでしたか? 何故このような葛藤が起こったのでしょう?  ②この葛藤の中で彼に与えられた確信は何でしたか? パウロは何故そのように言い得たのだと思いますか?  ③『ゲッセマネの祈り』を「自分の祈り」として祈れないのは、何故でしょう? どうすれば祈れるようになりますか? Outline of the sermon     “‘Christ’ is to be honored.”     (15/12/2024) [Philippians 1:20~26] ◆A conflict in Paul’s desire. (Verses 20,23~24)  ①To depart and be with Christ(Paul’s Read more…

(594) “神の御子が現れたのは、悪魔のわざを打ち破るためです。”

 神は私たち1人1人を素晴らしいご計画をもって創造されました。しかし非常に残念なことに、すべての人にそのご計画が実現しているわけではありません。一体それは何故なのでしょうか?それには2つの理由があります。 ①ある人のための神のご計画が実現するには、その人の同意が必要だから  ・神は私たちを、ロボットのように自在に操ろうとはなさいません。あくまで私たちの自由意志を尊重なさいます。ですから、私たちが自ら積極的に神を求め、神に信頼し、そのご計画のために自分自身を喜んで差し出すのでなければ、私たちの人生に対する神の最高の計画は実現には至らないのです。 ②神の計画の実現を好まない「悪魔の力」が人間の目をくらませているから  ・この世には、人が神に近づくことを邪魔しようとする「悪魔の力」が働いています。悪魔は神に打ち勝つことはできませんが、人間よりは遥かに勝っています。悪魔は人間を力づくで滅ぼそうとはしませんが、人間の欲を巧妙に刺激して、神から目をそらさせるのです。悪魔が最も成功している作戦は、人間に「悪魔なんていない」と思わせることです。ですから悪魔はまるで『透明人間』のように、まんまと人間をだまし、その思いを神様から遠く離れた方向へと、日夜追いやっているのです。  イエスが『神の子』として地上に現れたのは、私たちに神の存在を思い起こさせ、神との関係に生きるようにと私たちを招くためです。イエスが十字架で死んで、よみがえられたのは、「自分には悪魔の最大の武器である『死』というものさえも、打ち破る力がある」ということを、私たちに示すためです。このイエス・キリストが地上に来てくださったことを祝うのが、『クリスマス』の真の目的なのです!

2024年12月8日 「『キリスト』を宣べ伝える」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「『キリスト』を宣べ伝える」    (08/12/2024) [ピリピ人への手紙1章12~19節] ◆パウロの状況 (12~17節)  ・この手紙をパウロは獄中で書いた。彼が獄中にいる間に、2つのことが起こっていた。  ①大多数の兄弟たちが、ますます大胆にみことばを語るようになった  ・一見マイナスに見える状況をプラスに変えるのは「神の得意技」である。私たちがコロナ禍で翻弄されていた時でも、神は「NZ内の日本人クリスチャン・ネットワーク」を確立し、「JCF礼拝のYouTube配信」も始まった。  ②パウロのライバル(?)たちが、「ここぞ」とばかりに、キリストを宣べ伝えるようになった ◆パウロの心境 (18~19節)  ・パウロの関心は「自分はどうなってしまうのか」にあったのではなく、「キリストの福音はどうなるか」「神の栄光はどうなるか」にあった。それ故、どのような形であろうと『キリスト』が宣べ伝えられているのなら、彼は喜んだ。  ・イエスは「わたしの愛にとどまる者の内には、『わたしの喜び』があり、あなたがたはその喜びで満ちあふれるようになる」とおっしゃった。パウロのように、この「『神の国の喜び』を己れの喜びとして味わう者とされること」は、『神の子』とされている私たちの大きな特権であり、祝福なのだ! 今日の要点 「『キリスト』が宣べ伝えられていること」を喜ぶ ◎更に深い学びのために  ①パウロが投獄されている間に、どんなことが起こっていましたか? パウロはそのことをどう感じていましたか?  ②一見マイナスに見える出来事を、神様がプラスに変えてくださった経験があれば、互いに分かち合いましょう。  ③「世の喜び」と『御国の喜び』の違いは、何ですか? また、どうすれば『御国の喜び』を味わうことができますか? Outline of the sermon     “Proclaim ‘Christ’.”     (08/12/2024) [Philippians 1:12~19] ◆Circumstances around Paul. (Verses 12~17)  ・There were mainly 2 things happening while Paul was in prison.  ①Most of people in Read more…

(593) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 私がクリスチャンになったのは大学生の時ですが、それ以前から『クリスチャン』という存在に対して(実際に会ったことはありませんでしたが…)何となく好感を持っていました。まあ「『クリスチャン』って良い人な気がする」という程度ですが。どうしてそう感じていたのか思い出してみると、たぶん「きっとクリスチャンは『良いこと』をしていないと神様に叱られるのだろう」と考えていたような気がします。しかし、そうではないことが、自分がクリスチャンになってみて、よぉく分かりました。  『クリスチャン』が人々に好印象を与えるのは、「良いことをしないと救われないので、一生懸命にガンバっているから」ではなく、むしろ「自分のようにろくでもない人間が、『神からの一方的な恵み』によって救われたので、ただ嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいで、ついつい神に喜ばれることをしてしまう」ということなのです。  またある人は、「『クリスチャン』の人たちは、どうして『布教活動』をするのだろう?何か『ノルマ』のようなものがあるのだろうか?」と感じているかもしれません。これも大きな誤解です。『クリスチャン』には、『ノルマ』のようなものは全くありません。彼らが人々に「キリストによる救い」を宣べ伝えるのは、自分が受け取ったその『救い』があまりに素晴らしいからです。  私はラーメンが大好きです。日本に一時帰国するたびに「美味しいラーメン屋探し」をします。最近ではこのニュージーランドにもかなり高水準のラーメン屋が出現して来ました。こうなると私は黙っていられません。まず自分で食べて確かめてから、「これは美味しい」と感じたなら、ついつい友人たちに「美味しいラーメン屋を見つけたぞ~!」と宣伝しまくります。それが皆のためになると固く信じているからです。『クリスチャン』が他の人々にキリストを伝えようとするのも、全く同じ理由なのです。  ここまで聞くともしかすると、「『キリストの救い』がそんなに素晴らしいものならば、神様はどうしてもっとダイナミックな形で人々に『無理にでも信じるように』させないのだろうか?」と感じる人もいるでしょう。きっと神がそのようにはなさらないのは『私たちの自由意志』を尊重されるからだと思います。神が望んでおられるのは、単に私たちが「神の救いを信じること」ではなく、「私たちと『愛の関係』に結ばれること」なのです。『真実の愛』は「強制されること」によっては培われません。そのため神様は私たちに(聖書などを通して)必要な情報だけは与え、あとは私たちがご自身の愛に気付いて振り返り、歩み寄って来るのをひたすら待っておられるのです。  あなたも、この『神との愛の関係』に結ばれて、日々を歩んで行きたいとは思いませんか?