(590) “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”

 キリスト教で言われる『救い』をひと言で言うなら、「罪の赦しと永遠のいのち」です。ところが残念なことに、この『罪』という概念が正しく理解されないがために、しばしばキリスト教に対する誤ったイメージを抱かれてしまうことがあります。  思うに、ほとんど全ての人は「良いことをしたい」と思っているのではないでしょうか?ところがついつい私たちは「自分中心の考え方」や「その時の都合」などを理由に、いわゆる「良くないこと」をしてしまいます。聖書はこのような私たちの傾向性を『罪』と呼んでおり、それは私たちが「神に背を向けて歩んでいるからだ」と教えているのです。  私の友人で癌を患っている方がいます。癌細胞は放っておくと次第に患者の肉体を蝕んで行き、最終的には『死』に至らしめます。ですから現代医学では「抗がん剤治療」や「放射線治療」などによって、何とかこの癌細胞を撲滅しようとするわけです。  同じように、私たちの『罪』は癌細胞のように私たちの人格を次第に蝕んで行き、最終的には「死と滅び(神との永遠の断絶)」へと追い込むのです。キリスト教が提供する『救い』(いわば『特効薬』)とは、この「罪がもたらす死と滅び」からの救いであり、それは神が私たちの罪を身代わりに負わせるために遣わされたひとり子「イエス・キリストの十字架のみわざ」を『自分の事』として個人的に信じ受け入れることから来るのです。これは「人類すべて」にとって必要な『救い』であり、また「信じる者は誰でも」受け取ることのできる『救い』なのです!

2024年10月27日 「キリストにある聖徒」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「キリストにある者」    (27/10/2024) [ピリピ人への手紙1章1~2節] ◆「キリストにある者」の特徴 (1節)  ・キリスト・イエスにある「しもべ」=『奴隷』 ― 主人の「家」に住み、主人に「仕える」存在。  ・キリスト・イエスにある「聖徒」(何か特別に「きよい」とか「立派だ」という意味ではなく…) = 神の前に、キリストによって聖別された(特別な目的のために取り分けられた)存在。  ・では、どんな目的のため? ◆『恵み』と『平安』 (2節,これはパウロの手紙に共通している言葉)  ・『恵み』とは、「私たちから出たこと」ではなく、神が「キリストにあって」一方的に私たちを「ご自分のもの」とされたこと。神はもはや私たちに怒ってはおられない。神の怒りはすべて十字架の上でキリストにぶつけられた。[ローマ5:1]  ・この「恵みによる救い」が「神との平和」をもたらし、「神との平和」が私たちの「内なる平安」をもたらす。私たちは「キリストにあって」日々この『キリストにある平和』に憩い、そしてこの「神の和解のメッセージ」を人々に伝えるために『聖徒』とされている![Ⅱコリント5:17-21] 今日の要点 『キリストにある聖徒』とされている ◎更に深い学びのために  ①「キリストにある」とは、どういう意味だと思いますか?  ②2節の『恵み』と『平安』の間には、どんな関係がありますか?  ③「キリストにある聖徒」として、あなたはどんなことを心掛けて行きたいですか? Outline of the sermon  “The saints in Christ.”  (27/10/2024) [Philippians 1:1~2] ◆Those who are “in Christ”. (Verse 1)  ・“Servant” in Christ Jesus. = “Slave”. ― Someone who “lives Read more…

(589) “わたしは、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。”

 聖書の神は私たちを「永遠の真実の愛をもってあわれむ」と約束しておられます。『永遠』とは、単に「いつまでも」という意味ではなく「初めもなく終わりもなく、ずっと」ということ。天地創造の神は、私たちの理解を超えて偉大なお方です。  このお方は私たちが生まれる前から私たちの事をよぉく知っており、外面的なことだけでなく、内面的な葛藤や、直面している誘惑、弱さや醜さなども全てご存知の上で「永遠に真実の愛をもってあわれむ」と言われるのです。私たちはしばしばこの神を『人間的な基準』で推し測ってしまい、「自分が良い子でいる間は神はあわれんでくださるが、道を外れたり、失敗したりすると見捨てられる」と思いがちです。しかし確かなことは、私たちには決して「神を驚かせたり、ガッカリさせたりすること」はできない、ということです。何故なら神はそれら全てをあらかじめご存知だからです。  では『神のあわれみ』とはどのようなものなのでしょう?単に「可哀そうだと感じる」ということでしょうか?そんな薄っぺらいものではありません。『神のあわれみ』とは、私たちの弱さや失敗を全てご存知の上で「やがてキリストの似姿へと変えられて行く」という崇高なご計画に対する大いなる期待に基づいた『あきらめることのない』あわれみです。神は、救い主イエス・キリストを通してご自分に近づいてくる者たちを、常に全力でサポートし、何度でも立ち上がらせ、決してあきらめることなく、私たち1人1人が「神の偉大さを表現することができるような人生」を歩むことができるようにと導き続けてくださるのです。