聖書
(588) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”
『信頼』というものは、人間関係を構築する上で最も重要な要素の1つではないでしょうか?ところで皆さんは「どのような人」を『信頼』することができますか?「良い人」?「正直な人」? 「良い人」にはつい信頼したくなります。事実多くの人は信頼を勝ち取るために、人々に対してできるだけ良い態度で接しようとするでしょう。ただ、そこには1つのワナがあります。というのは、「良い人」は、全ての人に良い態度で接しようとするがあまり、「あっちを立てればこっちが立たず」という状況にはまり込んでしまうことが多いのです。そのために結果として「多くの人の信頼を裏切ってしまう」という結末を迎えてしまうことがあります。誰にでも良い態度で接する人には気を付けなければなりません。 では「正直な人」はどうでしょう?「正直な人」になら信頼できそうな気がします。しかし『正直であること』は反面「融通が利かない」という面があります。いわゆる、その場を和ませるような「噓も方便」が通用しないのです。つまり、こちらに全く噓偽りがない限りは強い味方なのですが、場合によっては『最強の敵』にもなりかねない、ということです。 真に「信頼に足る人」は『誠実(英語でFaithful)な人』です。この『誠実さ』とは、言い換えるなら「決して約束を破らない」という『決死の覚悟』であり、いわば教会で結婚式を挙げる時に新郎と新婦が誓う「健やかな時も病む時も…」に値する、互いの間の『献身(コミットメント)』です。周囲の状況に左右されない、そしてたとえ他の誰かに迷惑をかけたとしても、「この人のことだけは裏切らない」という態度、これこそ「夫婦関係」「大切な友人関係」「職場での仲間」などの間に必要とされている『信頼』を生み出すのです。 聖書は「神は誠実であり、真実なお方である」と教えています。これは「私たちが神に対して正しい態度を取っている限り…」などという条件付きではなく、「たとえ私たちが神に対して不真実であっても」という、『無条件の誠実さ』なのです。この誠実なお方が、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束してくださっているのです。