聖書
(586) “この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”
『希望』という言葉から思い浮かぶイメージは、「欲しいもの・やりたいこと」という人が多いのではないでしょうか?「第1希望」「第2希望」などのように『願い』の強い順に並べ立てることが多い時代です。「あなたの希望は?」と訊かれて、「別に今は欲しいものがないんだよね~」などと答えることもあるかもしれません。 しかし実際には、『希望』というものはもっとずっと大きなものであり、私たちが生きる上での強力な支えとなるものです。もし『希望』がなければ、私たちの人生は味気ないものとなり、喜びや興奮は消え、優しさも失われて行きます。 聖書は「真の希望」は私たちの創造主である『神』から来る、と言っています。神は私たち1人1人を目的を持ってお造りになり、本来「永遠に生きる存在」として生み出されました。私たちはこの神に出会うことによって「真の生きる目的」を見出し、「神を求めて生きる者を、神はどんな時にも守られる」ということを知るのです。 「文明の発達」や「便利機器の開発」は確かに世の中を便利にし、生産性を向上させましたが、同時に人間から『創造性』や「より良い未来を夢見て、今の困難を乗り切ろうとする忍耐や努力」というものを奪ってしまっているような気がします。「神は目に見えないし、非現実的」と考えるかもしれませんが、いつだって人間に『希望』を与えて来たものは「目に見えないもの」だったのではないでしょうか?そして「愛と憐れみに満ちた聖書の神」は、その誠実さと人に対する情熱の故に、彼に信頼する者に「困難の中でも前に進もう」とさせる『希望』を与えてくださる方なのです。