(582) “感謝の心を持つ人になりなさい。”

 ベトナム戦争の時代に、アメリカ空軍にチャールズ・プラムというパイロットがいました。彼はとても優秀な戦闘機パイロットでしたが、その76回目の出動の時にとうとう敵地でミサイルに撃ち落され、命からがらパラシュートで脱出して、その後の6年間を敵の捕虜として過ごしました。彼は戦後釈放され、帰国後アメリカ空軍にて若いパイロットたちに講義するようになりました。  ある日チャールズが妻と2人でレストランで食事をしていると、近くのテーブルで食事をしていた男性が彼を見かけて声をかけてきました。「もしやあなたは、ベトナムで戦闘機パイロットをなさっていたプラムさんではありませんか?」 チャールズは「はい、そうですが」と答えました。男性は感動した面持ちで続けました。「やっぱり!あなたはいつも『キティ・ホーク』という空母から出動されて、多くの功績をあげた後、とうとう撃ち落されましたよね?」 チャールズは驚いて尋ねました。「一体どういうわけで、あなたはそんなに詳しく私のことをご存知なんですか?」 その男性は答えました。「実は当時私は『キティ・ホーク』で戦闘機のパラシュートを設置する仕事をしていて、あの日もプラムさんのパラシュートを整備したんです。今ここでこうしてお会いできたということは、あのパラシュートはちゃんと役割を果たしたんですね!」  チャールズは帰宅した後、その晩は興奮して眠れませんでした。その男性のことが頭から離れなかったのです。「私は彼が『キティ・ホーク』で働いていた様子を全く知らない。きっと船上で何度もすれ違っていたはずなのに、挨拶すらした覚えがない…」 チャールズは、船内の奥の方で黙々とパラシュートを整備し、ちゃんと機能を果たすかどうかを何度もテストし、祈りを込めて機体に装着している名もない多くの「パラシュート整備士たち」のことに思いを馳せるようになりました。そして若いパイロットたちに講義する時、毎回「キミたちは、自分のパラシュートを整備してくれている人の名前を知っているか?」と尋ねることにしたのです。  私たちの日々の生活も、多くの人々の助けと協力で成り立っています。その中には名前も知らない、挨拶をしたこともない人がいるかもしれません。「しなければならない事」に追われてばかりいないで、1日に何度かは立ち止まって周囲を見回し、今日生かされていること、今の役割に全力を注げることを感謝してみませんか?

2024年7月28日 「福音を説く(2)」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「福音を説く(2)」    (28/07/2024) [創世記1章26~27節,詩篇8章3~6節] ― 今日は『神と人との関係』がテーマ ◆人に対する神の思い入れ(執着?)  ・神は私たち人間を「ご自身の似姿」に造られた。すなわち、他のすべての被造物とはっきりと区別された。言わば『人』は「神の興味・関心の中心」なのだ!また神は人を「ご自身のみわざの代行者」としてお造りになり、他の被造物を人の手に任された。私たちはこの『使命』において、「神との正しい関係」の中にいる時のみ、最善の結果を得ることができる。 ◆何故人は神に頼るべきなのか?  ・神は私たちに「最大限の喜びと満足」を体験させるために、私たちに『絶対的な信頼』をお求めになる。問題は、私たちの側が「神はそのような信頼に足る『良いお方』であると信じられるかどうか」、という点。私たちは「疑う」のではなく、「ただ信じること」が求められている。[マルコ5:35-36] 先週は、「罪とは神に対する誤った態度である」と学んだが、『神に対する正しい態度』とは、「すべてが分かったわけでなくても、とにかく信頼して従う」こと。  ・人が神に信頼できないのは、「不信仰だから」というよりも、むしろ「神のことをよく知らない」から。先週学んだように、①聖書、②被造物、③イエス・キリスト を通して、もっともっと神のことを正しく深く知ろう![ホセア6:3] 今日の要点 『神に対する正しい態度』は、「全ては分からなくても、信じて従う」こと ◎更に深い学びのために  ①神は何故私たち人間に「執着」なさるのでしょう? 私たちは神にとってどんな存在ですか? そう言える根拠は?  ②神が私たちに『絶対的な信頼』をお求めになるのは、どんな理由からですか?  ③何故人は神にトコトン信頼することができないのでしょう? どうすればもっと神に信頼できるようになりますか? Outline of the sermon  “Preach the Gospel (2)”  (28/07/2024) [Genesis1:26~27,Psalm 8:3~6] ― Today’s theme: “Relationship between God and mankind”. ◆God’s strong attachment to people.  ・God created us, human, “in Read more…

(581) “全き愛は恐れを締め出します。”

 精神科医たちの調べによると、世の中には約2000種の『恐れの感覚』というものが存在するそうです。ところが大変興味深いことに、彼らの調査によると、私たちが生まれる時から備わっている『恐れ』というものは、「落下に対する恐怖」と「騒音に対する恐れ」の2つだけなのだそうです。すなわち、その他のすべての『恐れの感覚』というものは、私たちが人生の中で学んで行くわけです。ということは逆に言うなら、私たちは多くの恐れを「学ばないでも済む方法」もあるはずなのです。  私たちの人格は日々の経験や習慣などによって形成されますが、その『決定的な特徴』というものは(良いものであれ悪いものであれ)多くの場合ほんの数えられるほどの体験によって決定づけられるのです。そしてそれらの『特別な体験』は私たちの心に「自信や不安」「希望や臆病さ」「信頼感や恐れ」などの種を心の深い部分に植えつけるのです。  聖書は「恐れを締め出すのは『全き愛(私たちに対する創造主なる神の愛)』である」と教えています。『神の愛』は「無条件」であり「変わることのない」無限の愛です。そしてこの『愛の神』との関係が生み出すものこそ、「『恐れ』からの解放」なのです。この神への信仰を育むことが、「不要な恐れを捨てて行くプロセス」となるのです。言葉を換えるなら、「『神を正しく恐れること』さえ学べば、他のものを恐れる必要は無くなる」わけです。  聖書にある『神の約束』の中でも最も偉大なものの1つに次のようなものがあります。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。残念なことに「人の約束」は場合によっては破られてしまうことがあります。しかし『神の約束』は決して破られることはありません。神とはそういう方なのです。

2024年7月21日 「福音を説く(1)」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「福音を説く(1)」    (21/07/2024) ◆福音を伝えるのは難しい?  ・多くのクリスチャンが福音を伝えようとする時に「難しい」と感じるであろうことは、「神様の存在は信じてもらえてもイエス・キリストの話になると分かってもらえない」ということ。では何故イエス様に結びつけるのが困難なのか?  ・恐らく1つのハードルは『罪』の概念。「どうしてキリストが私の身代わりに死ななきゃならないの?」というわけ。実はこれは「罪の概念の説明の仕方」に原因がある。『罪』というものを正しく理解してもらうためには、まずどうしても『神』というお方を正しく知ってもらう必要がある。 ◆どのようにして「正しい神のイメージ」を抱くか?  ・大抵の人の『神概念』は自己中心的。自分に都合の良いようにイメージを抱く。これは単に「人間の性質」というだけではなく、悪魔が私たちの「神のイメージ」を歪めようと働いているから。そのため私たちは神に対して「誤った態度」で接してしまう。この「神に対する誤った態度」こそ、『罪』の本質なのである!  ・『真の神』を「人間的な知恵や力」によって正しく知ることはできない。神ご自身からの『啓示』が必要である。つまり ①聖書、②被造物、③御子キリストなどを通して。これらから分かる『真の神』は、「天地万物の創造主」であり  「想像を超えた知恵と力に満ちた方」であり、「全てを支配される主権者」。これらによって神は栄光を現される。 今日の要点:『罪の本質』は、「真の神に対する誤った態度」 ◎更に深い学びのために  ①あなたが他の誰かに「福音を伝えよう」とする時、どのようなことに「難しさ」を感じますか?  ②私たちが抱きがちな「誤った神のイメージ」は、どのようなものでしょう? それはどんな理由によるのですか?  ③「正しい神のイメージ」はどのようなものでしょう? それらはどうやって知ることができますか? Outline of the sermon  “Preach the Gospel (1)”  (21/07/2024) ◆Is it very hard to preach “the Gospel”?  ・Why many Christians feel difficult to share “the Gospel”?  One of the reasons can be the Read more…

(580) “私たちの資格は神から与えられるものです。”

 「自分はそれにふさわしくない存在である」という感覚は多くの人が抱くものではないかと思います。一見『謙遜』にも聞こえるこの感覚は、言い換えるなら「自分はどんなに頑張っても、一定の基準に達することはできない!」という不健康な劣等感に根ざしています。多くの場合このような感覚は幼い頃に親や先生などの影響力を持つ立場の人々が、他の人たちとの比較によって誤った評価を下したことが尾を引いています。  私たちはどのようにしてこのような「誤った評価による不健康な自意識」から抜け出すことができるでしょう?次の2つのことを知ることが助けになると思います。  ①『創造主なる神』と出会うことなしに、自身の真価を見出すことはできない  ・この世における評価のほとんどは『相対的評価』であって、他の何かと比べることによって計られています。私たち自身も「他の誰か」と比べることによって一喜一憂するわけですが、それらは本当の自分の価値ではありません。本来私たちは神によって1人1人ユニークに造られているので、『相対的評価』ではなく、「神による『絶対的評価』」によって自分の価値を見出すことのできる存在なのです。  ②自身の真価を発揮するために、神から注がれる力によって、神のご計画と向き合う  ・神から離れた状態のままだと、私たちはいつも「自分が何か立派なことを成し遂げることによって自分の価値を見出そう」としてしまいます。それ故に失敗を重ねることが多く、劣等感にさいなまれることになるのです。神が私たち1人1人をユニークな存在として造られたのは、それぞれに「特別な何か」をさせるためにデザインされたのです。その『神のご計画』を探り、見出し、その計画を成し遂げるための「知恵や力」を神に求めつつ歩んで行くなら、誰とも比べる必要のない『自分の真価』を発揮しながら、大いなる興奮と喜びを持って生きることができるのです!

2024714 「与えるために、受けている」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「与えるために、受けている」    (14/07/2024) *今日の聖書箇所の背景は、旧約聖書の預言者エリシャの時代に、イスラエル王国が強国アラムに包囲されていた上に、大飢饉に見舞われた状況で起こった出来事。 [列王記 第2.7章3~15節] ◆何が起こったのか?  ・『ツァラアト』は強い伝染性のある皮膚病で、これに冒された者たちは家族からも引き離され、社会から隔離されて生活しなければならなかった。そのためこの4人は「どうせこのまま寂しく死んで行くくらいなら…」と、やぶれかぶれな思いで敵地に乗り込んで行った。  ・そしてそこで彼らが見たものは、敵の奇襲を受けたと勘違いして、所有物すべてを置き去りにして逃げて行ったアラム軍の陣営。今まですべてを失っていたツァラアト患者たちは、取りたい放題の大フィーバー!  ・ここから私たちは『福音宣教』という視点でいくつかの大切な事を学ぶことができる。 ◆今の私たちとどう関わりがあるのか?  ①受けるに値しなかった自分が、あふれるほどに受けた祝福を、まずたっぷり味わう。[8節]  ②その『あふれる祝福』は、独り占めするためではなく、「分かち合う使命がある」ということに気付く。[9節]  ③すぐには信じない相手にめげず、「信じて損はない!」と勧め続ける。[12~13節]  ・「福音を知らずに滅びに向かっている人々」のための『主イエスの招き』(マタイ9:35-38)に、共に応えて行こう! ◎更に深い学びのために  ①4人のツァラアト患者たちは、アラムの陣営でどんなことを体験しましたか?  ②彼らはどうして、「われわれのしていることは正しくない。(9節)」と思ったのでしょう?  ③「たましいの収穫」は、どこにありますか? またあなたは、それをどのように体験できるでしょう? Outline of the sermon  “Receive to give”  (14/07/2024) *In this story, city of Samaria was closed in by the Arameans.  And also hit by severe famine. [ⅡKings 7:3~15] ◆What is happening Read more…

(579) “子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。”

 「麻薬中毒」「アルコール依存症」など、人の肉体を害する習慣はいくつもありますが、人の「心の思い」を破壊する習慣もたくさんあります。『憎しみ』『ねたみ』『許せない心』、そして『罪責感』などです。これらのものは目に見えず、しかも少しずつ私たちの心を蝕んで行くので、なかなか気付かなかったり、軽視してしまいがちで、かえって危険だとも言えます。  聖書はこれらの『心の病』に対する解決を数多く与えています。特に『罪責感』に関して、人のすべての『罪』は根本的に『神』に対するもので、神との個人的な出会いを体験することで解放されることができる、と教えています。では、何故「神との個人的な出会い」が『罪』の解決をもたらすのでしょうか?  1人の青年が「強盗と傷害の罪」で逮捕され、裁判によって懲役判決が下されました。判決を受けガックリ肩を落として退場して行く通路の傍らで、彼の母親が涙を流し肩を震わせながら彼を見つめています。その母親の姿を見て、彼は思わず「お母さん、ごめんなさい」とつぶやきます。きっと皆さんは、こんな光景を容易に目に浮かべることができると思います。  しかし、冷静に考えてみると、おかしなものです。この青年の「強盗と傷害」による被害を受けたのはこの母親ではなく、別の第3者です。その被害者に対して「ごめんなさい」と謝るならともかく、なぜ彼は自分の母親に誤ったのでしょう?その理由はたった1つ。「自分を深く愛してくれている人に対して、その期待を大きく裏切ることをしてしまった」という思いからです。  私たちを形造り、この世界に送り出してくださった『神』は、私たち1人1人を深く愛してくださっています。そして私たちにこの世界で「互いに愛し合う者」として生きて欲しいと強く願っておられます。そんな私たちが誰かを傷付けたり、裏切ったりして『罪責感』を抱く時、それは単に直接的な被害者に対する申し訳ない思いだけでなく、心の奥底で「創造主なる神の期待を裏切ってしまった」という悲しみに深くさいなまれているのです。そしてイエス・キリストは、そんな私たちを「罪と罪責感」から解放するために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。