聖書
(509) “わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。”
『作品』と呼ばれる様々な創造物がありますよね。美術品、建造物、音楽、料理、そしてお父さんが日曜大工で作ったもの、お母さんが編んでくれたマフラー、子供たちの工作などなど。一級品もあれば、ほどほどのものもありますが、それら全ての『作品』のゆえに讃えられるべきは、それを造った「美術家」であり「作曲家」すなわち、『造り主』です。 私たち人間にも『造り主』がいます。それは、天地万物を造られた「創造主なる神」です。ですから、私たちに何か「讃えられるべきこと」があるとしたら、それらの栄光は「創造者なる神」へと帰せられるべきです。そして実際私たち人間には「讃えられるべきこと」が数多くあります。 まず体の構造。脳のしくみや、目や鼻や口の機能、頭と手足の絶妙なバランス。その複雑さや神秘を知れば知るほど、私たちはその『造り主』である神を讃えずにはいられません。またその豊かな感受性や精神構造。他のどんな動物とも比較になりません。そして先に述べた様々な芸術や科学その他を生み出す能力や才能もすべて、この「創造主なる神」が潜在的に与えたものです。神はまさにその栄光を大いに讃えられるべきお方です。 しかし聖書には更に驚くべき記述があります。それは、「神の優れた御力は、私たち人間の『弱さ』にこそ完全に現される」というものです。神の栄光は、私たちが豊かな才能を発揮することを通して以上に、私たちが自分の『弱さ』を自覚し、へりくだって神の前に進み出て憐れみを乞い、神が私たちへの深い愛の故にご自身の大いなる御手をもって私たちを危機から救い出してくださったり、一見もう無理と思えるような試練をも乗り越えさせてくださる時に「完全に現されるのだ」と言うのです。「父親の日曜大工の作品」や「母親による手編みのマフラー」は、それほど讃えられるような見栄えはないかもしれませんが、そこに込められた熱意や愛情は認められるに値します。同じように、『神の栄光』とは、何も「神がご自分を誇示するため」に現わされるのではなく、「私たちの人生を通して現される神ご自身のご性質」のうちにこそ見出せるものなのです。