聖書
(500) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”
『弱肉強食』という言葉があります。「弱い者が強い者のえじきとなること」を意味します。元々は「自然界の動物たちの様子を描写した言葉」でしたが、それが転じて「人間世界の情け容赦ない力関係」を表現する四字熟語になったようです。 『弱さ』という言葉を聞くと、否定的なイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?誰もが「自分は強くなりたい!」と思っているのかもしれません。「強くなければ、人生の勝者にはなれないから」というような理由からでしょうか?でも本当にそうでしょうか?そもそも『人生の勝者(勝ち組?)』とは何でしょう?お金持ちになること?有名になること?長生きすること?実際はそれら全てを手に入れても『不幸せ』な人は山ほどいます。 非常に面白いことに、動物の世界は『弱肉強食』ではあるかもしれませんが、『弱い者いじめ』の世界ではありません。ライオンが群れになってたった1匹のシカに襲いかかるなどという光景はどこにもありません。しかもライオンその他の『強い動物』は、お腹が空いていないときは、たとえ目の前を美味しそうな獲物が通ったとしてもピクリとも動きません。自然界の『弱肉強食』と人間世界におけるそれとは、全然違っているのです。 多くの人は同意してくれると思いますが、「人間とはそもそも弱い存在」です。その弱さをごまかしたり隠したりするために、『強さ』を身に付けようとします。それはそれで悪いことではないかもしれませんが、「強くなろう」とすると同時に、「裸の自分は弱い存在である」と知っておくことは大切なのではないでしょうか?そういう自覚があって初めて、私たちの内側に「他の人に寄り添おう」とする優しさが生まれ、「互いの持っているものを分け合おう」という愛の行動が現れてくるのだと思います。 ある未開の地へボランティア活動のために訪れた若者たちのグループが、貧しい子供たちを励まそうとイベントを企画し、よくありがちな『運動会』を開催しました。手始めに『徒競走』をしようと7~8人の子供たちを横一線に並べて、よぉくルールを説明し、「よぉい、ドン!」とスタートさせたところ、子供たちは『競走』を始めるどころか、互いに左右を見合わせて仲良く手をつないで皆一斉に走り出し、皆で嬉しそうに一緒にゴールインしたそうです。見ていたボランティア青年たちは、呆れると同時に、感動で涙を浮かべたそうです。 私たちの心を打つのは、「強い者が天かを取る様子」ではなく、「弱い者たちが手を取り合って生きる様子」です。何故ならそこに「神が私たちを『弱く』造られた、本来の目的」があるからなのです。