聖書
(492) “わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。”
聖書を少し知っている方は、「『愛する』ということは、命令なんてされるべきではない」と感じたことがあるかもしれません。恐らくその大きな原因は『愛する』という言葉に対する理解の違いによるものと思われます。 元々『愛する』は、英語の『Love』の訳語として日本に入って来たと思われますが、英語を話す人々は実際「I love my wife」「I love chocolate」などのように、現代日本語の「とても大切に思っている」と「メッチャ好き!」の両方の意味に『Love』という語を用います。ですから『愛する』という語を「その対象に対する感情的な盛り上がりを表現する言葉」として用いる、もっと分かりやすく言うなら「『好き』よりももっと強い感情」のように理解していることが一般的になっているのだと思います。もしそうであるなら、確かに『愛しなさい』などと命じるなんて、何だか人間の情緒を否定しているように感じられますよね。 『愛する』という言葉が聖書に登場する時、それは「内面的な感情」ではなく、むしろ「相手の最善のために自分にできることをする」というような、とても具体的で実践的な『行為・ふるまい』を表しています。極端なことを言うならば、嫌いな相手をも『愛する』ことはできるのです。そして、この『愛すること』の素晴らしい点は、キリストの戒めに従って誰かを「愛そう」としていると、いつの間にか自分の内側に相手に対する好意も湧いて来るのを感じることができ、更に素晴らしいことは「神が自分と共に相手に働きかけようとしている」というような不思議な感覚を経験できることです。 『愛すること』、それは確かに「神が人間だけに与えた、『人として生きる上での大きな特権』」ということができるのではないでしょうか?