(482) “主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。”

 『回復』という言葉は、正常の状態からどこか具合が悪くなってしまった後に、そこからまた元の正常な状態に戻った時に使いますよね。そして聖書は、私たちがイエス・キリストを信じることによって神から受け取る祝福を『救い』と呼ぶと同時に、『回復』とも呼んでいます。すなわち聖書は、キリストを通して神と出会うまでは、私たちは生まれつき「正常ではない状態にある」というのです。それは一体どういう意味なのでしょう?  聖書の神は『創造主なる神』です。彼が私たちの『創造主』であるならば、当然私たちの人生の「最善の使い道」はこのお方が1番よく分っています。そのことを忘れて「自分勝手に人生を浪費してしまっている状態」のことを、聖書は『罪(的外れ)』と呼んでいます。神は私たちをこのような状態から『回復』させたいと望んでおられるのです。キリスト教が教えているのは、何か私たちの人生を「様々な教えや宗教的ルールでがんじがらめにすること」ではなく、「私たち人間(聖書は「神の最高傑作品」と呼んでいる)を『宝の持ち腐れ』状態から、フル機能を発揮できるようにすること」なのです。これこそ、まさに聖書が呼ぶ『回復』なのです。  イエス・キリストがこの地上に現れたのは、「私たち人間の心を『創造主なる神』に向けさせるためである」と聖書に書かれています。この『聖書』という私たちの人生の取扱説明書を通して、『創造主なる神』という人生の「力と知恵の源」とつながることを通して、私たちは「神による回復」を体験することができるのです。

2022年3月27日 「2枚目の銅貨」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ          「2枚目の銅貨」         (27/03/2022) [マルコ 12:41~44] ◆『献金箱』での出来事 [41~42節]   ・この「たくさん献金を投げ入れている金持ち」と、「わずかなお金を投げ入れた貧しいやもめ」との比較は、別に「あり余る中からたくさん投げ入れた金持ち」に責められるところがあると言っているわけではない。また「持っている中からどれくらいの比率でささげるべきか?」を問うているわけでもない。イエスはただ、この「貧しいやもめの様子」に注目された。それはなぜなのか?   ・このやもめは、銅貨を『2枚』持っていた。「1枚は残しておきたい」という葛藤があったに違いない。しかしその葛藤を乗り越えて、敢えて「2枚とも」ささげたこのやもめの『信仰の態度』にイエスは注目されたのである。 ◆『信仰』による勝利   ・悪魔が好むのは「守りの体制のクリスチャン」。実際私たちは悪魔に対して自分を守り切れるものではない。 確かで完全な『守り』は、神様から来る。そしてその『守り』の中に入る手段は「信仰によって踏み出す」こと。   [ヤコブ4:7] 「神を体験する人生」「悪魔に勝利する生き方」とは、「自分の将来のためにとっておこう」とする 態度ではなく、「先の事をあまり考えすぎずに、『その日暮らし』を心がけること」なのかもしれない。 ✰今日のみことば: テモテへの手紙 第1.6章12節 ◎更に深い学びのために  ①イエスはなぜ『献金箱』に向かって座っておられたのでしょう? どんなことに興味があったのだと思いますか?  ②一緒にいた弟子たちは、どんなことを感じていたと思いますか? イエスの言葉はそれをどう変えたでしょう?  ③この「貧しいやもめのささげ物」から、あなたはどんなことを学びましたか? 互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon   “How to unleash our faith.”   (27/03/2022) [Mark 12:41~44] ◆At the offering box. [Verses 41~42]   ・It seems Jesus didn’t care how much people putting Read more…

(481) “霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。”

 あなたにとって『良い人』とはどんな人ですか?欲しい物を何でもくれる人?困った時にはいつでも助けてくれる人?自分に対して嫌なことは1つもしないで、楽で楽しいことだけをさせてくれる人?  聖書は、「この天地を造られた創造主なる神は『良いお方』である」と教えています。ところがある人々はこのことにつまずきます。何故なら、それらの人々の持っている『良いお方』のイメージと、実際の聖書の神のご性質とが必ずしもマッチしないからです。彼らの『良い神』は、まさに冒頭に挙げたような「自分にとって超都合の良い存在」であるからです。  聖書の神は、『父なる神』とも呼ばれています。そして「欲しい物は何でもくれて、楽で楽しいことだけをさせてくれる父親」が『良い父親』ではないことは、ちょっと考えてみればすぐ分かります。もちろん幼児の頃から厳しくしてばかりいたら、それは『幼児虐待』ですが、青年期に達してもまだ甘やかしてばかりいるような父親は『ダメな父親』ではないでしょうか?同様に聖書の神も、私たちの信仰の成長度に応じて敢えて『試練』をお与えになります。それは神が意地悪だからではなく、むしろ『良いお方』であって、私たちの更なる成長を願っておられる方だからです。私たちにとって『良い方』とは、私たちを「自己最高の人生」へと導き、またそれにふさわしく訓練してくれる存在なのです。  私が学生の頃は、どちらかというと保守的な考え方を持っていました。つまり「冒険をしない性質(たち)」だったのです。ところが大学1年の時にキリストと出会って以来、これまでの私の人生はまさに波乱万丈です。そしてこの40年の道のりは私を大きく成長させてくれました。だからこそ私は、私が関わるすべての人がこの「キリストを通しての神との関係」に生きるようになり、『自己最高の人生』へと歩み出すようになるようにと、切に願っているのです!

(480) “隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。”

 『縁の下の力持ち』っていう言葉がありますよね?人目に立つところで働いているわけではないけど、実は「無くてはならない働きを担っている人」のことを指しているわけです。こういう働きの事を英語では「Behind the scene」と言います。「見えているところの裏側」という意味です。  例えば、コンサートや何かのイベントに参加した時に、私たちが注目するのは「華々しくステージの上で活躍している人たち」だけですよね?見えない所で多くの人たちが関わっていることに気付くのは、せいぜい何か問題が起きた時(マイクの調子が悪いとか、照明がおかしいとか…)だけでしょう。そして「全く裏方は何やってんだ!」と文句を言うわけです。問題なくプログラムが進んでいる時には、『裏方』の存在など気にも留めていないにもかかわらず。  聖書はそんな『縁の下の力持ち(裏方)たち』のために素晴らしいエールを送ってくれています。神様はまさにそんな「人目に立たない所で私たちが払った労苦」を決して見逃すことなく、正当に評価してくださるというのです。神の目には「隠れているもの」など1つもないからです。  ここで大切なことは、私たち自身も「神様は目には見えないから、信じない」などと言わず、『見えないけれども、そこにいてじっと見守ってくださっている神』にしっかりと思いを向けることです。神様は『目には見えない方』だからこそ、「人知れず行われたあなたの心を込めた行い」に目を留めてくださっているのです。ですから「どうせ誰にも気づいてもらえないから…」などと気落ちすることなく、いつでもどんな状況においても、自分ができるベストを尽くし、精一杯の心を込めて、喜んで『縁の下の力持ち』という価値ある役割を担って行きましょう!

2022年3月13日 「キリストに焦点を置く」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「キリストに焦点を置く」       (13/03/2022) [マルコ 12:35~40] ◆神の右の座におられるイエス [35~37節]   ・この36節の『』内は詩篇110:1の引用。初めの『主(ヤハウェ)』は「創造主なる唯一の神」を指し、『私の主(アドナイ)』も一般に『神』を指すのに用いられていたので、難解な箇所。それ故イエスの解説は非常に有用。   ・「神の右の座」とは、「王的・神的な力や支配権」を示すものなので、この『私の主』は通常『キリスト』を指していると解されていた。そしてイエスはこの箇所を用いて『キリスト(すなわち「ご自身」)』は『ダビデの子』以上の存在であることを教えようとされた。[参照:マルコ14:61-62,Ⅰコリント15:24-25]   ・イエスは「王として治める」だけでなく、私たちのための『永遠の祭司』として神の前にとりなしてくださっている。[詩篇110:4,ローマ8:34] イエスは私たちにとって「王なる祭司」。そして私たちも同様に召されている![Ⅰペテロ2:9] ◆律法学者たちの誤った態度 [38~40節]   ・律法学者たちの大きな誤りは、自分たちの関心を『神』や『隣人』ではなく、『自分自身』に向けていたこと。[ルカ18:10-14] 神に認められるのは「良い行い」によるのではなく、「私たちの心がどこに向いているか」。『祈り』の時だけでなく、私たちの日々の歩みの焦点を「王であり祭司である『キリスト』」に向けていよう。 ✰今日のみことば: へブル人への手紙 12章2節 ◎更に深い学びのために  ①36節でイエスが引用された詩篇の1節の真意はどのようなものでしたか?  ②「現在イエスが『神の右の座』に着いておられる」ということは、今の私たちにとってどんな意味がありますか?  ③律法学者たちの誤りとは何ですか? 同じ間違いに陥らないために、どんなことに気を付けたらよいでしょう? Outline of the sermon   “Focus your mind on Christ.”   (13/03/2022) [Mark 12:35~40] ◆Jesus is at the right hand of God. [Verses 35~37]   ・“Right hand of God” shows “Godly power Read more…

2022年2月27日 「『思い違い』に捕まるな!」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「『思い違い』に捕まるな!」     (27/02/2022) [マルコ 12:18~27] ◆サドカイ人たちの間違い [18節]   ・「サドカイ人」は上流階級に属し、代々祭司長を輩出しており、パリサイ人とヘロデ党の両方と対立していた。『モーセ5書』のみを信じ、霊的な世界よりもこの世的な事柄を重視し、「御使いも復活もない」と言っていた。   ・彼らのイエスに対する質問は、そんな彼らの「自分勝手な聖書理解」に基づいたもので、『真理』から大きく逸脱していた。同様なことは私たち自身にも起こり得る。「自分の思い込みや先入観」のレンズを通して聖書を読む   なら『神の真理』から大きくズレてしまう恐れがある。『自分の思い込み』を「聖書そのもの」や『神ご自身』よりも優先してしまうことほど「神を冒瀆していること」はない!◆「よみがえり」に関する真理 [24~27節]   ・「よみがえりのからだ」は『天の御使い』のようであって、今持っているものとは違う。[Ⅰコリント15:42-44, 50]   ・ここでイエスが『モーセの書』を引用したのは、サドカイ人のため。数千年前の存在であるアブラハムやモーセ、そして最近キリストにあって眠った私たちの家族たちも、神の前には『生きた者』である。[ルカ20:38] 私たちは勝手な思い込みによって『神の真理』を歪め、「いのちへの道」を閉ざしてしまわないように気を付けよう! ✰今日のみことば: テモテへの手紙 第1.1章15節 ◎更に深い学びのために  ①サドカイ人たちは、どうしてこのような『思い違い』をしてしまっていたのでしょう?  ②私たちが陥ってしまいやすい「神への冒瀆」とは、どのようなものですか? それは何故起こるのでしょう?  ③何故「復活は、ある」と言えるのでしょう? 「よみがえりの事実」は私たちの生き方にどんな影響がありますか? Outline of the sermon        “Do not be wrong!”        (27/02/2022) [Mark 12:18~27] ◆Why were they wrong? [Verse 18]   ・Sadducees only believed “Books of Moses” so they denied angels Read more…

(479) “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”

 聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。  同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?  『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。  ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。  『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

2022年3月6日 「最も大切な戒め」

*画像が初めの方で少しだけスキップしてしまっている不手際をお許しください。 礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「最も大切な戒め」       (06/03/2022) [マルコ 12:28~34] ◆最も大切な戒め (長くない箇所だし、重要な内容なので、1節ずつ詳しく見てみよう)   [28節]・この律法学者は、これまでのイエスの会話の対象者たちと、少し態度が違う。   [29~30節]・イエスは少しの迷いもなく答えた。「具体的な行いに関する戒め」ではなく、『神との愛の関係』を強調した。「~を尽くして」ということは、必然的に「他の神々に対する思い(偶像礼拝)」の入る余地はない。   [31節]・「神を真に愛すること」を知れば、おのずと「神がどれほどに自分自身や他の人々を大切に思っているか」が分かり、それらの誰をも軽んじることはできなくなる。これらの戒めは2つで1つ![Ⅰヨハネ4:19-21] ◆『神の国』に入るには? [32~34節]   ・この律法学者は優れた反応を示した。ここでの「ささげ物やいけにえ」とは、いわば「信仰者にふさわしい様々な『良い行い』」を指す。「神の国から遠くない」は、「既に神の国にいる」とは違う。では、何が足りないのか?   ・イエスは自分と一緒に十字架にかかっていた強盗が悔い改めた時、「あなたはわたしと共にパラダイスにいる」とおっしゃった。カギは『イエスの十字架』による贖いのみわざ。そしてもう1つは、「頭だけの知識・情報」だけではなくて、「信仰をもって1歩踏み出す」こと。「神について知る」だけでは、不十分。 ✰今日のみことば: マルコの福音書 12章33節 ◎更に深い学びのために  ①イエスは律法学者の質問にどう答えましたか? またその答えにはどういう意味が込められているでしょう?  ②イエスの答えに対する律法学者の反応は、どんな点が優れていて、どんな点が足りないでしょうか?  ③あなたにとって、「すべてを尽くして神を愛する」とは、どのようなことですか? 互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon     “The most important commandment.”     (06/03/2022) [Mark 12:28~34] ◆The most important commandment.   ・Jesus replied to this question with no hesitation.  His answer was none Read more…

(478) “律法学者の1人が来て、イエスに尋ねた。「どれが第1の戒めですか?」”

 前回は「聖書をひと言でいうと…」というお話をしましたが、今回はイエス・キリストがおっしゃった「聖書で最も大切な戒め」について書きますね。  この聖書の箇所が言う『律法学者』とは、イエス・キリストの時代のいわば「聖書の専門家・教師」のような存在です。ですからこの質問は「イエスに教えを乞うた」というよりも、「イエスを試そうとした」という方が妥当でしょう。しかしこの後イエスの答えを聞いた彼は、その明瞭・適切な答えに感動して沈黙した、と書かれています。では、イエスは一体どのように答えたのでしょうか?  イエスはこう答えました。「まず第1に『心から神を愛すること』だ。唯一の創造主なる神をおのれの神と認め、このお方だけを礼拝し、そのみこころを求めて従うこと。これが何よりも大切だ。そしてそれと同じくらい大切なのが『自分を愛するがごとくに周囲の人々を愛すること』だ」と。  ここに『3つの愛』が述べられています。「神への愛」「自分に対する愛」「隣人愛」です。この3つに優劣があるわけではなく、『序列』があるんです。すなわち、「まことの『創造主なる神』を知り、この方との愛の関係の中に生きることなくして、『自分自身の真の存在価値』を知ることはなく、真の意味で自分を大切にして生きることもできない。また、自分が神との関係の中で、『神からの深い愛』を体験するまでは、自分自身を注ぎ出して他の人々のことを親身に顧みることができない」ということなのです。  「キリスト教の精神は『愛』である」と言われるゆえんは、ここにあります。それは決して「自分の身を削って、無理して他の誰かのために何かをしてあげる」ということではなく、「神との愛の関係から生まれて来る、心から泉のように湧き上がってくる『神の愛』を、人々の間で注ぎ出しながら生きる」ということなのです。神が私たちを通して他の誰かにご自身の愛を表現されるのを体験する時、私たちは初めて「自分が生まれて来た本当の意味」を発見することができるのです。