聖書
(482) “主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。”
『回復』という言葉は、正常の状態からどこか具合が悪くなってしまった後に、そこからまた元の正常な状態に戻った時に使いますよね。そして聖書は、私たちがイエス・キリストを信じることによって神から受け取る祝福を『救い』と呼ぶと同時に、『回復』とも呼んでいます。すなわち聖書は、キリストを通して神と出会うまでは、私たちは生まれつき「正常ではない状態にある」というのです。それは一体どういう意味なのでしょう? 聖書の神は『創造主なる神』です。彼が私たちの『創造主』であるならば、当然私たちの人生の「最善の使い道」はこのお方が1番よく分っています。そのことを忘れて「自分勝手に人生を浪費してしまっている状態」のことを、聖書は『罪(的外れ)』と呼んでいます。神は私たちをこのような状態から『回復』させたいと望んでおられるのです。キリスト教が教えているのは、何か私たちの人生を「様々な教えや宗教的ルールでがんじがらめにすること」ではなく、「私たち人間(聖書は「神の最高傑作品」と呼んでいる)を『宝の持ち腐れ』状態から、フル機能を発揮できるようにすること」なのです。これこそ、まさに聖書が呼ぶ『回復』なのです。 イエス・キリストがこの地上に現れたのは、「私たち人間の心を『創造主なる神』に向けさせるためである」と聖書に書かれています。この『聖書』という私たちの人生の取扱説明書を通して、『創造主なる神』という人生の「力と知恵の源」とつながることを通して、私たちは「神による回復」を体験することができるのです。