聖書
(467) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”
誰もが「幸せになること」を望んでいるのにもかかわらず、真の『幸福感』を味わっている人はあまり多くはありません。(ちなみに私はその少数のうちの1人ですが…)一体何故なのでしょうか?次の3つの理由が考えられます。 ①『幸せ』を間違った場所で捜している ・多くの人々は「もっとお金があったら…」「もっといろんなことができたら…」「あんな家庭に生まれていれば…」などと、幸せでないことの原因が自分の環境にあると勘違いしていますが、実際にそれらの環境がすべて揃ったところで幸福感が得られるわけではありません。お金も能力も兼ね備えながら不幸せであったり、何不自由なく育ちながら非行や引きこもりなどに陥ってしまっている人たちはいくらでもいます。私たちの内側には、人や物では埋めることのできない、「神との生きた関係によってしか決して満たすことのできない空間」があるのです。 ②「自分自身の幸せ」ばかりを追求している ・どんなに「自分自身のため」に何かを求めても、その求めていたものを手に入れた途端に虚しさに陥ってしまうものです。何故なのでしょう?それは、人間は本来「他の誰かの助けになるように造られている」からです。私たちは「自分自身のため」に生きている間は真の満足感を得られない生き物なのです!私たちが「他の誰かが幸せになる」のを助けている時、自分の満足を追い求めていた時には思いつくこともできなかった『幸福感』を体験できるのです。 ③他の人と自分を比べている ・よくあることですが、やっとの思いで手に入れた品物や技術も、それに優ったものを持っている人と比較した途端に無価値なものに思えてガッカリしたりします。何て愚かなことでしょう!神は私たち1人1人を『比較できない違った存在』としてお造りになったのです。それは互いに尊重し合い、また足りない部分を補い合うためです。 こういうわけで、人にとって「『創造主なる神』を知ること」と、「『真の幸福感』に満ちて生きること」とは決して切り離しては考えられないものなのです。