聖書
(373) “人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。”
私たちは『奴隷』という言葉を聞くと、何か中世のいわゆる『奴隷制度』のような光景を思い浮かべますが、実は今の私たちの日常生活の中でも「何かの『奴隷』とされてしまうこと」があり得るのです。例えばあなたの上司、同級生、近所の人などに「良い人だと思われたい・嫌われたくない」などの理由で、ご機嫌を取ろうとしたり、自分の信念を曲げてまで相手の言うことを肯定しようとするなら、それは「自分を相手の『奴隷』の立場に置こうとする行為」です。 冒頭に挙げた聖書のことばは、何も「戦争で負けたために、相手の国の『奴隷』として服従させられてしまったこと」を描写しているわけではなく、誤った思想や人々からのプレッシャーに振り回されて「本来の自分を見失ってしまっている状態」を表現している箇所です。私たちは本来「天地万物の創造主である神によって『傑作品』として造られた尊い、愛されている存在」であって、この『神』以外の何者をも恐れるべきではない者なのに、その事をすっかり忘れてしまって「何とか自分の知恵と力でうまく世渡りしよう」とするがあまり、ついつい『その場しのぎ』のつもりで口からでまかせを言ったり、『変な奴』と思われるのが嫌で心にもない態度を取って他人と調子を合わせようとしてしまうのです。このような態度は、自分では上手に立ち回っている気持ちになれるかもしれませんが、実のところ「周囲の奴隷となっている」だけで、自分自身の心の深みに『自己矛盾』のジレンマが溜まって行くだけでなく、いつか必ず「抜け道のない行き止まり」に行き着く結果となるのです。 ある人々は「神を信じて生きるなんて、窮屈で、かえって『奴隷』みたいだ」と言うかもしれません。その人は恐らく「創造主なる神を信じて生きる」ということと、いわゆる「『宗教』を信じて生きる」こととを混同させているのではないでしょうか?聖書の神、すなわち『唯一まことの絶対者』であるお方は、私たちを「コントロールしようとする存在」ではなく、かえって人間に『自由意志』を与え、「自分の意志で神を恐れ信頼して、生き生きと生きる」ために、私たちを『奴隷』の状態から解放してくださる方なのです。