聖書
(316) “私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。”
先日、教会のメンバーの方のお葬式を行いました。クライストチャーチに来てから最初の、自分が担当したお葬式でした。7年半前の『カンタベリー大震災』の時には多くの日本人の犠牲者が出て、その時はいわゆる「見ず知らずの方々」のために葬儀を担当させていただきましたが、長年こちらで一緒に信仰生活を歩み、親しい付き合いのあった方々の葬儀に携わったのは今回が初めてでした。何人かの(NZ人の)先輩の牧師たちには「10年間牧師として働いてきて、今回が初めてのお葬式とは、ずい分ラッキーだったね」などと言われてしまいました。 彼女(亡くなられた女性)はNZ人のご主人に嫁ぎ、私たち家族がクライストチャーチに来るより前からこちらに住んでおられました。ご主人もクリスチャンだったので、午前中の英語の礼拝と午後の日本語の礼拝のどちらでも顔を合わせ、時には一緒に食事をすることもありました(年齢も私たち夫婦とさほど変わりません)。実は私たちがクライストチャーチに来る少し前(2007年くらい)にガンを発病され、放射線治療などを経てそれを克服した経験があったので、私たちが来た当初は、毛が抜け落ちた頭を覆うように、いつも素敵な帽子をかぶっておられました。そのガンが2年前に再発し、教会の皆で祈り続けてきましたが、とうとう天国へと凱旋して行かれたのです。 告別式の時に、彼女の残した日記の一部が公開され、そこには下記のような文章が遺されていました。 「2018年7月27日(金)(ホスピス病棟にて)。私はクリスチャンになってからも自分の中にあるプライドや人々に対する批判的な態度から完全に自由になることができませんでした。それは自分がどこかでそれらをしっかりと握り締めていて、神様に明け渡すことができなかったからに違いありません。ところが、自分の弱さや死を目前にした絶望感にさいなまれている中、ついさっき(夜中の2時頃)イエス・キリストがすぐ近くにおられる、という感覚に覆われたのです。すると不思議なことに、すべての不安や恐れ・悲しみが一瞬のうちに消え去り、なんとも言えない安らぎに満たされました。それは『このお方と一緒にいられるなら、他には何もいらない』というほどの感覚でした。そして気が付くと、それまでいつも私の心の中に巣食っていた苦々しい思いから完全に自由にされていることが分かったのです。」 告別式には、クリスチャンではない方々も多く集われましたが、式の後に何名かの方々は「このような葬儀は見たことはない。死を目前にしながら、どうして皆あのように希望と明るさに輝いていられるのか?」と感想を述べておられました。 誰も『死』から逃れることはできません。『死』というものはすべての人間に平等にやってきます。しかし唯一この『死』を打ち破りよみがえられたイエス・キリストに希望を置いて生きる時、私たちは『天国』という永遠の国籍を抱いて生きることができるのです。