聖書
(266) “主の御告げ ― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたしの手の中にある。”
多くの人は「新しい自分になりたい!」と願う一方で、『変化』を嫌います。「悪いところを改善したい」と切望しますが、そのために払う犠牲は最小限に食い止めたいと思うものです。 私たちが神を信じ神に従うようになると、しばしば「安楽な人生」ではなく「試練に満ちた人生」に直面します。きっと多くの方々は「こんなはずではなかった。何かが間違っているのではないか?」と感じるのではないでしょうか?でも心配はありません。それらは起こるべくして起こっているのですから。 聖書は「神の御手の中に委ねられた私たちの人生」のことを、「陶器師の手の中にある粘土」にたとえています。陶器師が自分の目指す『最高傑作』を造り出すために行う最初のプロセスは、まず粘土を十分にこねて、中にある空気などの不純物を追い出すことです。そうしないと、作品の形が出来上がって窯で焼くときに、中の空気が膨張して、せっかくの作品が壊れてしまうからです。同様に、私たちは「こねられている時」は、やがて出来上がる形が見えていませんから、ただ居心地が悪いだけで、その手の中から逃げ出したくなるかもしれません。でも「神様は良い方だから、きっと最終的に素晴らしい結果を生み出してくださるに違いない」と最後まで信じて神の御手の中にとどまり続けるなら、私たちは自分の思いを超えた神様のみわざが自分の人生を通して成し遂げられるのを体験できるのです。 偉大なキリスト教指導者の1人が次のように言っています。「単に問題から逃れることだけを求めるのではなく、むしろその問題を解決できる者となることを求めなさい。自分の人生に有益な環境を求めるだけでなく、周囲の環境さえも変えることのできる者となることを求めなさい。同じ事を繰り返しながらより良い結果を求めるだけでなく、思いもよらない結果を得るために新たなことにチャレンジしなさい。何故なら、更に偉大な結果を得るために当然払うべき犠牲を払わないことは、何の成長もない人生のために時間を浪費していることと同じなのだから。」 変化を恐れないで、『良き神様』に信頼して、その力強い御手の中にとどまり続けましょう!