聖書
(241) “私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。しかし私の顔の光はかげらなかった。”
クリスマスシーズンの興奮も終わって、ホッとひと息ついておられる方も多いことでしょう。皆さんは今年のクリスマスをどのように過ごされましたか?ある方は「生涯忘れられないクリスマス」を過ごしたかもしれませんし、またある方は「何1つ楽しいことはなかった」とおっしゃるかもしれませんね。 「今の私には『微笑む』理由などどこにも見つけられない!」という方は、上記の聖書のことばが「つい最近子供たちの死を経験し、全財産を失い、自分の健康さえも失った『ヨブ』という男性によって語られたことばである」ということに心を留めていただきたいと思います。どんな状況の中にあっても私たちは『微笑み』を失わずに生きることが出来るし、またそのような『微笑み』の力は、かえって状況さえも変える力を持っているのです。 あるクリスマスシーズンに、大手ショッピングセンターが『微笑みの力』という次のような広告を出しました。 「『微笑み』それは一銭もかからないけれど、多くを生み出す力を持つ。『微笑み』それは与える側に何1つ損をさせることなく、受ける側に大きな利益をもたらす。『微笑み』それはあっという間に創り出すことができ、しかもそれはしばしば受け取る人の心に消えることのない思い出を残す。どんなに裕福な人でも『微笑み』なくして生きることはできず、どんなに貧乏な人でも『微笑み』を与えられないほど貧しくはない。『微笑み』それは家庭の中に幸福感をもたらし、職場の中に善意を育て、互いの間に友情があることを確認させる。『微笑み』それは疲れ切っている人に安らぎを与え、落胆している人に希望の光を照らし、悲しんでいる人を慰め、人生の様々な問題を最も自然な形で解決へと導く。『微笑み』それはお金で買うことはできず、請い求めるものでもなく、貸し借りすることもできず、盗まれることもない。何故ならそれは誰かから誰かへと与えられるまでは神の手の中に隠されているからである。というわけで、もし私たちのショッピングセンターにあるお店のどこかで、あなたに応対する店員が疲れていてあなたに『微笑み』かけてあげられなかった時、どうか彼らにあなたの『微笑み』をわけてあげていただけないでしょうか?何故なら、人が誰かに微笑みかけてあげられなくなっている時、その時ほど人が『微笑み』を必要としている時はないのですから。」 年末年始の忙しいこれからの1週間、『微笑み』を浮かべながら過ごすことによって、あなたの周りの世界でどんな奇跡が起こるか試してみませんか?