聖書
(183) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。”
神を信じようとする者にとって最大の試練と言えるものの1つは、「神がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのだろう?」と言いたくなるような出来事に直面した時です。あるクリスチャンの作家は「神様、あなたはご自分が何をなさっておられるのか分かっていらっしゃるのですか?」というタイトルの本を出版しました。思わずそんな風に言いたくなる出来事が世の中には確かにあります。ではそんな時に私たちはどうしたら良いのでしょう? 聖書は「あなたがたに隠されていることは、神の領域であって、今はまだあなたがたが知らなくても良い。しかし既に現わされていることは、あなたがたのためであるのだから、それらをしっかりと握っていなさい。」と教えています。もっと分かりやすく言うならば、「理解不能なことから神を推し測るようなことをしないで、既に与えられている確かな情報(例えば『聖書』)を基に神について知り、またその神に信頼しなさい」ということです。 聖書は私たちに「神は私たち人間を愛しておられ、私たち1人1人の人生のために最高の計画を用意しておられる」と教えています。ですからこのことを大前提として、人生に起こる様々な出来事を理解しようと努めるのです。すなわち、私たちが神に尋ねるべき質問は「神様何故ですか?」ではなく、「あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを学んで欲しいと願っておられるのですか?」なのです。 もしかするとある人は「そんな理屈は『この世に試練が存在する理由』を説明していない!」と憤慨なさるかもしれません。しかし驚いたことに、実際は「試練に出会ったことを通して、私は神を求め、また神を知るようになった」という人々がとても多いのです。神は、人をご自身の許に引き寄せるためであるなら、試練さえもお用いになるのです。