聖書
(156) “わたしの家は、祈りの家でなければならない。”
『祈り』というと、きっと多くの方々は「神様にお願い事をすること」と考えることでしょう。しかし実際は、祈りとははるかにそれ以上のものです。言ってみれば『祈り』とは、「神様に求めること」ではなく、「神様を求めること」なのです。静かな場所で、目を閉じ、この世のことから思いを離し、心を静めて、「神様の心と波長を合わせること」です。すると神様は私たちの心を癒し、平安を与え、天賦の知恵を与え、私たちを通してご自身のみわざを成し遂げてくださいます。 悪魔は私たちがこの「祈りの力」というものに目覚めることを極度に恐れています。それ故悪魔はいつも私たちを忙しくさせ、日常生活の営みの中に埋没させ、「祈りなんて気休めに過ぎない」と思い込ませることによって、私たちを祈ることから遠ざけることに成功しています。クリスチャンと言えども「食前の祈り」「出がけにドアを閉めながらの祈り」「日曜礼拝の開会の祈り」程度で「自分はちゃんと祈っている」などと錯覚させられています。 使徒パウロは、弟子のテモテへの手紙の中で「何かを手掛ける前に、まず祈りなさい。人々に何かを教える時は、まず祈ることを教えなさい。」と諭しました。 主イエス・キリストは、しばしば朝暗いうちから、時には夜を徹して祈りました。もしあのイエス・キリストにさえ祈りが必要であったのなら、なおのこと私たちが祈りを必要としないことがあり得るでしょうか? 『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンは次のように言いました。「人がもし祈りを生活の一部とするならば、やがて祈ること以上の優れたこともできるようになる。しかしもし祈ることを軽視するなら、いつまで経ってもロクなことができるようにはならない。」と。 あなたも「祈る者」とされたいですか?