聖書
(145) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”
江戸幕府初代将軍『徳川家康』の遺した有名な言葉に、「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものがあります。確かに人生にはそういった面がありますが、しばしば我々は『不必要な荷物』をも負って人生の道のりを歩いていることがあるのではないでしょうか? ローマ帝国時代、オリンピックに出場する走者たちは、毎日多くのおもりを身体に巻きつけてランニングをすることによってトレーニングをし、レースの当日にはすべてのおもりを外して伸び伸びと走ることによって優れた記録を残したそうです。この時もし走者が相変わらず『おもり』のいくつかをつけたまま本番のレースに臨んだとしたら、それは愚かなことだと思います。 イエスは「金持ちが天の御国に入るよりは、ラクダが『針の穴』を通るほうが易しい」とおっしゃいました。『針の穴』というのは文字通り「糸を通す穴」のことではなく、旅の途中でしばしば出くわす「狭い通り道」のことで、そこではいちいちラクダに背負わせているたくさんの荷物をいったん外さなければ通ることができなかったのです。 私たち家族が今から20年前に神様から「海外宣教師になりなさい」とお声をかけていただいたとき、私たちは所持品をすべて整理しなければなりませんでした。私たちは決してお金持ちではありませんでしたが、自分たちが所有していた物の多さに愕然とさせられたものです。しかし面白いことに、所持品が減っていけばいくほど、身も心もドンドン軽くなっていくのを感じました。最終的にはいくつかのスーツケースと段ボール箱だけになり、「人生で本当に必要なものは、実はわずかなのだ」ということを痛感させられたのを覚えています。(現在はニュージーランドに来て再び物が増えつつありますが…) 私たちが人生のレースを走る上で「栄冠を勝ち取るために邪魔になるもの」は、しばしば「レース場に置かれている数々の障害物」ではなく、「レース中に私たち自身が負い続けている余分な重荷」が原因になっているのではないでしょうか?